12日目 黒い森『あなたの望みは何かしら?』
ニアが目を覚ますと、ゼルは黙ってニアを見下ろしていた。ニアと目が合った途端、ゼルはにっこりと笑った。
「今日は何をして遊びましょうか?」
ゼルの言葉は毎朝変わらない。一体ここはどこで、私はこの悪魔と何を契約させられているのか。ニアはゼルに気取られぬよう、平静を装うことにした。
「今日もお菓子をお腹いっぱい食べたいな!」
「そうですか、それでは珍しいお菓子を取り寄せましょう」
ゼルはいつもと変わらない様子で、着飾ったニアの前に白くて丸いお菓子をぼとぼとと降らせて見せた。
「これは何?」
「シュネーバルという揚げ菓子です。雪の玉という意味だそうですよ」
ゼルはそう言うとニアのカップに紅茶を注ぎ、自身もニアの前に座ってシュネーバルをほおばって見せた。
「これは美味しい。是非貴女も食べるべきですよ」
「うん……」
ニアはシュネーバルを頬張った。サクサクとした甘い触感が口の中で踊るようであった。しかし心が沈んでいるニアはひと時笑顔を忘れていた。その様子をゼルは目ざとく指摘する。
「元気がありませんね?」
「え、あ、元気だよ!? 私は元気!」
ニアは思い切り笑って見せた。しかし、ゼルはニアの心の隙間を既に捕らえていた。
「そろそろ疲れてきましたか? 憧れの洋服に、憧れの食事。そろそろ憧れの充電が必要ですかね?」
ゼルはニアの頭を思い切り掴み、その額に親指を押し込んだ。
「思い出しますか? 改めて貴女が何者だったのかを」
途端に、ニアの手からシュネーバルが消え失せた。垢じみて着古された服に身を包んでいるニアは、重い牧草を運ばされていた。主人の手には太い鞭がいつも握られていて、南北戦争の前はこいつが役に立ったらしいのにとよく自慢していた。
「どこ? ゼルはどこ? ノクスは、フランは?」
ニアはゼルを疑ったことを悔やんだ。奴隷少女ヴァニアはあまりにも無力で、小さな存在だった。その日は主人から鞭を3回受けた。1度は運んでいた牛乳の桶を倒してしまったから、もう2回は疲れて座り込んでしまったところを見られたからだった。
牧場で一日中働かされた後は情け程度の残飯を貰って、納屋の隅で横になる。主人の家に入ることは固く禁じられていた。夜はゆっくり休めるかというとそうでもなく、主人や村の男たちがたびたびやってきた。そんなヴァニアを村の女は『売女の娘』と蔑み、村の子供たちは玩具と見なしていた。
逃げたい。
ヴァニアは村の外をいつも見つめていた。村の外には深い森が広がっていて、逃げ道はなかった。月明りに照らされて黒々と広がる森をどうすれば抜けられるか、ヴァニアはたまに考えることがあった。この黒い森を抜ければ、その向こうに自分を待っていてくれる人がいると夢想することがヴァニアの日課であった。
納屋に向かって足音が聞こえてきた。村の男のうちの、誰かであろうか。ヴァニアは固く目を閉じ、これから起こることと自身を必死で切り離そうとした。
「どうですか? 望みは思い浮かびましたか?」
やってきたのはゼルだった。ヴァニアはその冷たい体に一心に縋り付いた。
「お願い! 私をここから出して! 逃がして!」
力いっぱい叫ぶと、ヴァニアは元の部屋に戻っていた。テーブルの上にはシュネーバルがたくさん積み上げられていた。その向こうにいるゼルは、涼やかな声で告げた。
「やはり貴女には魔女になる資格が十分ありますね。現世への執着、夢想の飛躍的能力、何より、貴女は誰よりも遊ぶことに敏感です。そう言った人が、魔女に向いているのです」
ゼルはシュネーバルをもうひとつ頬張った。黒猫のノクスが魔女の帽子を運んできて、ニアに持たせた。
「かつて貴女は魔女になったら空を飛べるのか、と尋ねられた時に修行を行えば飛べると言ったのを覚えていますか?」
ニアはこくんと頷いた。帽子を持つ手に力が入る。
「飛べます。そのために望みなさい。望むことに疑問はいりません。ただ望むことが貴女の修行なのです」
ゼルの瞳が赤く輝いた気がした。ニアはもう迷わなかった。あの黒い森を眺める日々を抜け出すには、望むしかなかった。
「わかったわ。私、もっともっとシュネーバルが食べたいわ」
「そう来なくては!」
ゼルが指を鳴らすと、シュネーバルがさらに降ってきた。ノクスは丸い揚げ菓子にかぶりつき、ニアはその様子を見て笑い転げた。
それからニアは、粉砂糖で真っ白になった部屋の様子を見てゼルと顔を見合わせて笑った。もう決して疑わないと誓った日であった。
『12日目:終了』
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