偽りの悪役令嬢は屈しない

さけのきりみ

一章 偽りの悪役令嬢

始話


「貴女の全ては私のものです。その髪も、瞳も、心臓の音さえも。誰にも渡さない。それがたとえ公爵様であろうとも、自由にさせるつもりなどありません」


 耳元で囁かれる、重くて甘い愛の言葉。

 そして背筋が凍えるような、狂気を孕む執着。


 通常ならば。全身が硬直する程に、恐怖で震え上がる筈である。鳥籠監禁ルートまっしぐら。バッドエンドの確定演出すら見える。鎖で繋がれた首輪を、問答無用で嵌められる予感しかしない。


 でも。


(う、わあぁぁあっ! やっぱり最っ高なんだよなぁぁッ! 怖いのがカッコイイなんて、そんなの狡過ぎる! 流石は私の推し!! そういうの、もっと下さい!!!)


 非常に心苦しい話なのだが。私を壁ドンし、目の前で愛の言葉を囁いているのは。私が前の世界で死ぬほど推していた、悪役令嬢の『専属執事』なのである。


 そして私はそんな彼を愛する、極普通のオタク女子だ。


 これは悪役令嬢の『替え玉』となった私が、

 推し執事からの重過ぎる愛に囚われる。


 理性との葛藤を綴った、物語の記録である──。





 事の始まりは、およそ数時間前。


 香ばしいパンの焼ける匂いがする。閉じていた意識がゆっくりと浮上する感覚の中で、一番最初に届けられたのはそんな穏やかな香りだった。


 背中に当たるベッドの硬い感触と、妙な収まりの悪さを覚える大きめの枕。少しごわつく麻のシーツ。そのどれもが、私の知っているものとは違っていた。まるで見知らぬ他人の部屋にでも、紛れ込んでしまったみたいに。


(えっと、私…、昨日は、確か……)


 納期に追われ、深夜遅くまでパソコンと睨み合っていた筈である。エナジードリンクの缶が虚しく転がる手狭なワンルームで、ようやっと仕事を終えてベッドに倒れ込んだ。そこまでの記憶は鮮明なのに。


 重い瞼を開いてみれば、太く黒光りのする木の梁で作られた天井が私を見下ろしていた。見慣れた白いクロスも、当たり前のように存在していた花柄のカーテンさえ、ここには無かった。


 差し込む朝日は柔らかく、空気中に舞う埃が反射でキラキラと光り輝いている。まるで映画のセットのように、古風で素朴な部屋。


「…なに、ここ?」


 掠れた声が口から漏れる。けれどその響きは、驚く程に若々しい。また一つ、違和感が胸に募る。


 半信半疑のまま身体を起こすと、視界の端に映った自分の手に、心臓がビクリと跳ね上がる。滑らかで。少し節くれだつ。とても小さな手。その衝撃で長い後ろ髪が、ふわりと肩に落ちた。


 おかしい。私の髪は、肩につく程度のボブだったはずなのに。


「…っ、嘘…でしょ…?」


 混乱のまま視線を彷徨わせたその先で。古びた鏡に映る自身の姿に、息を呑む。


 そこにいたのは、年端も行かない少女だった。


 金色に艶めく腰まで届きそうな長い髪に、不安げに揺れる大きな翠の瞳。そして雪のように白い肌は、寝不足と不摂生で荒れていた私のものとは、全然違っていて。


 でも私は、この顔を知っていた。


「イザベラ・フォン・リリエンタール…!?」


 震える手で、おそるおそる頬に触れてみる。すると鏡の中の少女も同じように、頬へと手を当てた。つまりこれは紛れも無く、今の『私』であるという事に他ならなくて。


 イザベラ・フォン・リリエンタール。

 彼女は、私が寝る間も惜しんで読み耽っていた恋愛小説。『光の聖女と五人の騎士』に登場する悪役令嬢だった。国の宰相でもある父親を持つ、公爵家の一人娘。


 王子の婚約者という立場を笠に着て、物語のヒロインである聖女を執拗に虐め抜き、悪行の限りを尽くした末に、破滅の結末を迎える存在。


(いやいや、待て待て…。落ち着こう? 落ち着くのよ私…ッ!)


 込み上げてくる焦燥で停止しそうになる思考を、繰り返す深呼吸でどうにか落ち着かせる。異常事態だからこそ、状況を正確に整理する必要があるのだ。


 まず一つ目は、私自身の情報について。


 私は日本に住む、ごく普通の会社員である。

 大学を卒業してからとある中小企業へと就職し、社会の歯車として精一杯働いていた。残業の多い職場ではあったけれど、それでも同僚や上司には恵まれていた。セクハラやパワハラに悩まされた事は、一度も無い。


 だがその真面目さが仇となったのか、一昨年から散々拒否していたにも関わらず役職付きになってしまったのだ。そのせいでここ最近はずっと新入社員の教育に、頭を抱えていた。


 指導をしつつも抱える仕事量は変わらないままだったから、必然的に睡眠時間がどんどん削られていたのだ。大好きな本さえ読めない生活は、あまりにも辛かった。


「これ…夢かな? 夢なら、いつか覚めるのかな…?」


 試しに頬を軽くつねってみる。痛い。地味に痛い。涙まで出てきた。という事はつまり、これは夢じゃない。


 悪役令嬢に転生するWeb小説が流行っている事は、そういう事情に疎い私でも知っている。でも流石に、自分が選ばれた理由までは分からない。


 小説の中への転生を、強く望んでいたわけでは無いし。悪役令嬢という存在を、特別好いていたわけでも無い。忙しい毎日に癒やしが欲しくて、それであの小説を繰り返し読んでいた。ただそれだけだったのに。


 ここは本当に、あの小説の世界なのか。

 そして私は、悪役令嬢イザベラ本人なのか。


 分からない。何も。


「………」


 どういった原理なのかは全く分からないけれど。私は今、知らない世界の住人になっている。素朴なワンピースを着用している事からも伺えるように、この身体の持ち主が貴族である可能性は低い。手も、少し硬さがある。働く者の手をしていた。


(イザベラは公爵令嬢。なら、こんな手をしている筈なんて、無いわよね…)


 冷静になってもう一度自分の顔を確認してみれば、右目の下に特徴的な泣きぼくろがある。悪役令嬢イザベラに、そんなものは無い。メイクで隠している可能性も捨てきれないけれど。挿絵で見た彼女の姿は、全て鮮明に思い出せるから。


 つまり私は、悪役令嬢イザベラ本人では無く。よく似た別の誰かに憑依している。という事になる。そう結論づけると、少しだけ気分が軽くなった。


 元の世界に未練が全く無いわけではないけれど。社畜として身を粉にして働くだけだったあの毎日に心から戻りたいかと問われれば、即答なんて出来ない。それならば与えられたこの新しい人生を、精一杯楽しむべきではないだろうか。


(私一人いなくなった所で、どうせ社会は回っていく。それなら折角もらった新しい人生、楽しまなきゃ損よね!)


 幸い、ここは物語の核心から遠い場所にある。メインキャラクター達と関わらずひっそりと生きていけば、きっと何も問題は起きない筈だ。


「エリアーナ! いつまで寝てるんだい! もうパンを窯に入れるよ!!」


 階下から快活な女性の声が響いて来る。どうやらこの身体の持ち主は、『エリアーナ』という名前らしい。突然身体を奪う形になってしまった彼女には、本当に申し訳無い事をしたと思うけれど。


 いつか、なんの前触れもなく元の世界へ戻る事があるかもしれない。エリアーナの魂が返って来た時に、「私の人生最高だった!」と、思って貰えるように。この身体を預かる私が、彼女の人生を幸せにする義務があると思うのだ。


(よし。そうと決まったら、早速行動開始よ!)


 私の魂が、元の世界へ戻れるようになるまで。この世界の片隅で私は、パン屋の娘として生きていく。絶対に。不幸になんてならない!


 鏡の中の少女へ向け、力強く誓う。彼女の白い頬には、不器用な笑みが浮かんでいた。


「はーい! 今すぐ起きまーす!!」


 小説の終盤。

 イザベラは断罪された後、修道院へ護送される途中で行方知れずとなる。それは物語がハッピーエンドを迎えた後の、ほんの小さな後日談として、語られていた。その後の彼女の人生がどうなったのか、知る者はいない。


 平穏を願う私の新たな日常が、荘厳な紋章を掲げた公爵家の馬車によって無慈悲に踏み潰されるまで、あと数時間──。



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