第10話
居酒屋を後にした俺たちはバーに向かっていた。イオリがオススメしてきたバーは確かにここからそんなに遠いところではなかったので、そのまま他愛のない会話を続けて歩みを進めた。
「ここです!」
古びたビルの階段を降りて到着したのは、バーとは思えない扉の前だった。イオリがそのまま扉を押してそこに足を踏み入れた瞬間、外の喧騒が嘘のように遠のいていった。
代わりに耳に届いたのは、旋律を奏でるピアノの生演奏。低めの照明が店内を柔らかく包み込み、淡い琥珀色のライトが静かな温もりを醸している。
床には絨毯が敷かれ、足音すら吸い込まれるほど静かだった。カウンターには数人の客が腰掛け、グラスを傾けながら思い思いの時間を過ごしている。
案内されたのは、店の奥――薄いカーテンで半ば仕切られたBOX席だった。
革張りのソファは深く沈み込み、対面には艶のある黒いテーブル。テーブルの上には小さなキャンドルがひとつだけ灯されており、ゆらゆらと揺れる炎が空気に静かなリズムを刻んでいた。まるで、時間までもが緩やかに溶けていくような感覚だった。
「なんか、こういうのって落ち着かないな」
腰を下ろした途端、妙に体温を感じてしまい、思わず視線を逸らす。
「ふふ、いいじゃないですか。せっかく二人なんですし」
イオリは楽しそうに笑いながら、すぐ横に座ってきた。ほんの少し腕が触れる距離。逃げ場がない。
案内された時にイオリがオーダーをしていたのだろう、店員が運んできたグラスがテーブルに並び、緋色の液体が照明を受けて揺らめく。
「シキ様、乾杯しましょう」
軽くグラスを合わせると、澄んだ音が小さく響いた。
一口含んだ瞬間、アルコールの熱が喉を通り、心臓までぽっと熱くなる。
「甘いお酒好きですか?なら、たぶんこれも好きだと思います」
そう言ってイオリは次のオーダーをしていく、軽めのフードも嗜みつつ、運ばれてきたカクテルに口をつける。
アルコールの苦味よりも、果実の甘みや香りが先に広がって、ついグラスを空けてしまう。イオリがすすめてくれるカクテルはどれも飲みやすくて、美味しかった。
隣にいる彼は最初の一杯があと少しでなくなるといった感じで、自分だけ飲んでしまっているという事実に少し申し訳なくなる。
「お前は飲まないの?」
ちらっと隣を見てみると、イオリは目を細めて微笑んだ。
「俺はいいんです。美味しそうに飲んでるシキ様を見たいんで」
冗談みたいな言い方なのに、その声色が妙に甘くて、心をきゅっと掴まれるような気分になる。
グラスを置いた頃には、視界がほんのり霞んでいた。イオリの指がそっと俺の頬に触れてくる。
「……酔ってきちゃいましたか?」
至近距離で真正面から見つめらてしまった。好みの顔面にこんなふうに迫られて、顔に熱がぶわっと広がる。
そんな俺をよそに彼の指先が頬をなぞった。
「顔……赤くなってきてますね」
甘やかな声が耳に落ちる。その響きと、頬をなぞる指先の感覚に――ふと既視感を覚えた。
(こいつもレイみたいなことをするんだな)そんなふうに頭の中で思った。
次の瞬間、イオリの纏う空気ががらりと変わった。
頬に沿っていた手が後頭部へ回され、ぐっと引き寄せられる。
「ぅん……っ、!?」
強引に塞がれた唇は熱く、舌が絡みついてくる感覚に頭の芯まで痺れる。
押し返そうとした腕は途中で力を失い、胸の奥でばくばくと音を立てる心臓に支配される。
(……っ、なんで……)
戸惑いでいっぱいなのに、息を奪われる苦しさに混じって、甘ささえ滲んでくる。
どうにか逃れたいはずなのに、視界が揺れ、思考が絡め取られて、されるがまま唇を受け入れてしまっていた。
ようやく顔が離れた瞬間、喉の奥から大きく空気を吸い込んだ。
唇はまだ熱を帯びて痺れるようで、胸の奥まで酸素が届かない。
肩を震わせながら息を整え、視線を落として俯く。
だが次の瞬間、顎をぐいと掴まれ、上へと持ち上げられた。逃げ場を奪われ、無理やり視線を絡めさせられる。
「ねぇ……レイって誰ですか?オーナーの本名?それとも、オーナーとはまた違う男?」
低く落とされた声。吐息が頬を撫で、ぞくりと背筋が粟立つ。
その瞳は据わっていて、冗談の色は一切なかった。
「……な、なに……?」
問い返す俺に、イオリは唇の端をわずかに吊り上げ、笑みとも怒りともつかぬ顔で呟いた。
「シキ様もひどいなぁ。あの状況で、他の男の名前呼ぶなんてさ……俺もシキ様のこと、大好きなのに」
掠れる声で囁かれる。
「傷ついちゃったなぁ……ね、ちゃんと俺の名前、呼べる?シキ」
徐々に近づいてくる顔。
吐息が触れる距離まで迫られて、困惑のあまり身体が固まる。
「い、......イオ、っん、」
ようやく声を紡ごうとしたその瞬間、唇はまた塞がれた。さっきよりも強く、深く。
喉の奥まで侵されるような熱に、思考が一瞬で掻き消える。
呼吸を奪うような深い口づけが、何度も重ねられる。
舌を絡め取られるたび、頭の奥まで痺れるようで、抗う余裕なんて残されていなかった。
やっとのことで唇が離れた時には、口は半ば開いたまま、肩で必死に息をしている自分がいた。呼吸が落ち着かず涙がにじんで、視界が滲む。
「……は、っ……ぅ……」
掠れた吐息が漏れている俺を、イオリはじっと穴開くほど見つめてくる。何をするんだという意味を込めて目の前の男を睨みつけると、
彼の唇がにやりと吊り上がる。
「――えっろ」
低く、喉を震わせるような声。
「なにその顔……めちゃくちゃそそるじゃないですか」
唾液で濡れた唇を舌でいやらしく舐め上げながら、その目は俺を捕らえたまま離そうとしない。ぞわりと背筋に寒気が走るのに、視線は絡め取られて動けなかった。
「こんなところで、盛るな」
やっと絞り出した声は、自分でも情けないほどに震えていた。
イオリは微動だにせず俺を見つめたまま、ゆっくりと、口の端を持ち上げる。
「じゃあ、ここじゃなかったら、いいんですね?」
片手でスマホを取り出し、画面をちらと確認する。時間を見て、意味ありげな笑みが浮かぶ。
「どうします?俺のマンション来ますか?もう終電なくなっちゃいましたし。それともホテルがいいですか?」
その言葉はもはや“提案”なんかじゃなかった。俺は睨み返すように顔を歪めて言う。
「帰る……!」
その返しでさえ、予想通りとでというように、彼の目がさらに嬉しそうに弾いた。
「帰る……帰る、ねぇ?」
囁くように繰り返しながら、距離を詰めてくる。気づけば、心臓の鼓動がうるさいほど響いていた。
彼は優しそうに、安心させるような笑みを浮かべる。その顔をみて、少し安堵した。その直後、スンと表情が抜け落ちたのがわかった。肩に置かれた手に、じわりと力を込められる。
「俺、選択肢ってどんな状況でも必要だと思うんです。俺は今、ここで襲うこともできますが、シキ様が嫌がるかなって思って、選択肢をあげてるだけです」
言葉とは裏腹に、彼の手のひらはそっと、しかし執拗に俺の肩をなぞる。押しつけがましくないのに、逃げられない。肌が、ぬるく縛られていく。
「シキ様は賢いから、間違えないよね?」
まっすぐに向けられた視線には、確かに熱を孕んでいるようにみえた。
その問いに俺は何も答えられなかった。
沈黙が走り、店内のBGMがやけに大きく聞こえた。
イオリの目が、ほんのわずかに揺れる。期待と、疑念と、ほんの一瞬の迷い、そして、失望。
「……そっか」
低く、吐き出すように呟いたかと思うと、手の動きが速かった。
気づけば俺はソファに押し倒されていた。クッションの沈み方と同時に、イオリの体温が上から被さってくる。
「ここ、はッ……嫌だ」
声が裏返る。必死に拒否の意思を示すが、上に乗る彼の片腕が肩を押さえ、逃げ場がない。
イオリは、ほんの少し首を傾げて甘く笑った。
「じゃあ、俺のマンションに来てくれますか?」
それは、もはや選択ではなく承諾を促す命令に近かった。俺の目をじっと覗き込み、そこに答えを探している。
「わかった、行く」
言葉にすると同時に、イオリの表情が柔らかくほころんだ。だがその目の奥に宿る光は、熱を孕んで揺れている。
「そう言ってもらえて、よかったです。俺も、シキ様のえっちな姿を他の人に見せたくなかったので」
「なっ……!」
思わず息を詰める。赤く火照った顔を見られている気がして、余計に体温が上がった。
「ちょっと待っててください」
そう言って席を立つイオリ。足音が離れていく。
(……逃げるなら、今じゃないか?)
心臓が早鐘を打つ。震える手に力を込め、腰を浮かしかける。
「……あ、言い忘れてました」
不意に声が落ちてきて、思わず声のした方へ顔を向ける。
目の前の仕切りカーテンがわずかに揺れて、そこからイオリが顔を覗かせていた。
「逃げようなんて思わないでくださいね」
逆行だからなのか、覗き込む瞳は光を宿していないように見えた。柔らかな笑みを残したまま、イオリはカーテンの向こうへすっと消える。
一瞬で静寂が戻る。けれど、その言葉の余韻だけが耳の奥に焼き付いて、体が強張ったまま動けなかった。
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