第9話

 繁華街のショーウィンドウに映る自分の姿は、どう見ても出勤前のホストにしか見えず、歩くだけで視線を感じて落ち着かない。


 姉はというと、すっかり王子様気取りで堂々と歩いているから余計に目立って仕方なかった。


「ねぇ、栞季。なんか欲しいものある?気になってるやつでもいいよ」


「別に、特にない」


 ぶっきらぼうに返すと、姉ちゃんは「えー、つまんな~い」と肩をすくめ、今度は別の店へ足を向ける。そんな姉が、ふと立ち止まったのは冬物コートの並ぶ店先だった。


「栞季、寒いの苦手でしょ?ほら、この辺どうよ。絶対似合うから」


「だからそういうのはいいって。自分で買うから」


 そう突っぱねると、姉は振り返ってにっこり笑う。


「お母さんに栞季と一緒だったって言ったら、『栞季は全然連絡くれない、ちゃんと生きてるのか』ってめっちゃ心配してたよ? それにあんた、もうすぐ誕生日でしょ?」


「もうすぐって……あと2ヶ月あるから」


「いつでも会えるわけじゃないんだし、早めの誕プレってことで気にしないで。ね?」


 その柔らかい声色に、心の奥を揺さぶられてしまい反論がうまく出てこなかった。

 照れ隠しのように視線を逸らしながら、渋々ハンガーに手を伸ばす。


(ほんと、こういうとこ強引なんだよな)


 結局、その店では冬用のマフラーと手袋を買ってもらった。

 タグを見れば、俺が普段なら絶対に手を出さないような値段で、会計を見て冷や汗をかいた。


 次に立ち寄った別の店では、今度はセーターやニット帽を勧められ、またしても俺の制止を聞かずに購入していく。

 ふと値札に目を落とした瞬間、思わず背筋が震えた。桁がひとつ多いんじゃないかと疑うほどの数字。


「ちょ、ちょっと待てって!本当にいらないから!?」


「いーのいーの。誕プレ誕プレ!」


 聞き分けのない子どもをあしらうみたいに笑い飛ばされ、返す言葉を失う。


(俺、今日いくら使わせてんだ?)

 

 心臓に悪すぎる。


「よし、次はこっちの店見よっか!」

 

 軽快に歩き出す姉の背を追いかけようとしたその時。


 プルル、と甲高い着信音が鳴り響いた。

 姉のスマホだ。


「っと、なんだ?今日休みって言ったはずなんだけど」

 

 立ち止まった姉が鞄からスマホを取り出し、画面を覗き込む。すぐに顔色を変えて、「ちょっと待ってて、電話してくる」と片手を振りながら、足早に店の外へ消えていく。


 残された俺は紙袋を下げたまま、店内の片隅に立ち尽くすしかなかった。そんな俺を見兼ねた店員さんが、中のソファーに誘導してくれるも、そこもそこで気を遣ってしまい気が気じゃなかった。


 数分後、姉が戻ってきて小さく息を吐いた。


「ごめん、早急に確認しなきゃいけないことできちゃった。今日はここまでで、今度またやり直しさせて?」


「いや、もう十分だから!これ以上は本当にいらないって」


 思わず声を荒げると、姉は「まぁまた連絡するわ」と苦笑いを浮かべる。


「でも栞季を家まで送りたかったんだよなぁ……。ちょっとそれも無理そうだから、せめて最寄りまでは乗っていきなさい」


「いや、俺ちょっと買いたいものあるから。別に、ここで解散でもいいよ」

 

 そう告げると、姉はほんの一瞬迷ってから頷いた。


「じゃあ、今日買ったものは今週中に家まで届けるね。送って行くつもりだったから、たくさん買っちゃったんだし。紙袋のままだと大変でしょ?」


 そう言い残すと、紙袋を受け取り慌ただしく人混みに紛れていく。

 

 残された俺は手ぶらになったことに安堵しつつも、どこか胸の奥に空洞が残ったような気分だった。


 買いたいものなんて別にあるわけでもなく、急ぐ姉に気を使わせない為に咄嗟に出た言葉だった。


 でも、せっかくだし、ちょっとお茶して帰るか。と近くのカフェに視線を向ける。中へ入ると、時間も時間なのか空いていて「お好きな席へどうぞ」と言われ、外の景色が見える窓際の席に腰を下ろす。


 注文したコーヒーを前に、席の横にある「ご自由にお読みください」と書かれた貼り紙がある本棚に手を伸ばす。

 適当に手にとった小説を読み進め、気がつけば夢中になっていた。


 ページのキリがいいところで顔を上げ、スマホに視線を落とす。

 画面に表示された時刻は、すでに19時をまわっていた。


「もうこんな時間か」


 立ち上がり、カップを片付けて店を出る。

 外の空気は少し冷えていて、思わず肩をすくめながら駅へと歩いた。

 

 横断歩道の前で赤信号に足を止める。人の流れに混ざって待っていたその時、


「シキ様?」

 

 不意に背後から声をかけられ、思わず振り向く。そこに立っていたのは、イオリだった。


(……っ、やば……)


 一瞬、昼のことが脳裏をよぎり、体が勝手に身構える。けれど、当の本人はまるで気にしていない様子で、にこっと笑った。


「奇遇ですね~!シキ様、こんなところで」


 その無邪気さに肩の力が抜け、ほっと息を吐く。


(……なんだ、普通じゃん)


 仕事場でのやり取りをなぞるように、自然といつもの調子で返してしまう。


「……お前こそ、なんでここに」


「俺は仕事でちょっと……あ、そうだ!せっかくお会いしたんですし、よかったらご飯一緒にどうですか?」


「いや、」

 断ろうとした瞬間、ぐぅ、と情けない音が腹から響いた。


「……」

「……」

 

 沈黙のあと、イオリの口元が緩む。


「決まりですね!」

 

 有無を言わせぬ笑顔に押され、結局近くの居酒屋へ足を運ぶことになった。


 暖簾をくぐると、香ばしい焼き鳥の匂いとざわめきが押し寄せてくる。仕事終わりらしいサラリーマンや大学生たちで賑わう店内に、自然と肩が竦む。


「こちらの席どうぞ!」という声に従い、奥のテーブルへ腰を下ろした。


「何飲みます?俺はビールでいいんですけど」


「俺は烏龍茶でいい」


「わかりました!」


 嬉しそうに笑いながらメニューを広げるイオリを見て、気まずく思ってたのは俺だけかと、ため息をつきたくなった。

 昼のことを気にしてる様子もなく、いつも通りだ。むしろ、いつも以上に距離が近い気がする。


「おい、そんなにじろじろ見るな」


「いや~、やっぱ今日のシキ様、なんか見慣れなくて。服装のせいかな、あとは香水、かも?」


 ドクンと心臓が跳ねた。昼の時も言われたのに、思わず視線を逸らす。


「別に、俺がどんな服でもいいだろ」


「ふーん?」


 イオリは追及せず、笑ったまま注文を済ませる。

 

店員がグラスを2つ置いていく。片方にはビール、片方には烏龍茶。小鉢のお通しも添えられていた。


「じゃ、とりあえず――お疲れさまです!」

 

「お疲れ」


 グラスを軽く合わせる。シュワッと弾ける音とともに、イオリは早速ビールをあおった。喉を鳴らして一気に飲む様子に、呆れ半分で目を細める。


「ぷはっ……最高っすね!仕事終わりの一杯ってやつ」


「俺は休みだったけどな」


「それでもいいじゃないですか!俺は、シキ様が目の前にいるだけでご褒美ですから、そんなシキ様と一緒にご飯なんて……」


「はいはい」


 わざとらしく肩をすくめ、グラスの烏龍茶に口をつけた。冷たい液体が喉を流れていくうちに、少しだけ強張っていた心がほどけていく気がする。


 やがて、頼んだ料理が次々と運ばれてきた。焼き鳥の香ばしい匂い、揚げ物の湯気、彩りのいいサラダがテーブルを賑わせる。


「わー!!いただきます!」

「いただきます」


 箸を伸ばしながら、自然と他愛ない会話が始まる。最近見た映画の話や、流行ってるアニメ、くだらないやり取りの合間に笑いがこぼれて、自分でも驚いた。

 

 気づけば、グラスの中はもう空に近い。


「まぁ、一杯くらいなら、いいか」


 小さく呟いて、サワーとイオリのおかわりを追加で頼んだ。


「いいですね~!飲んじゃいましょ!」


 イオリが嬉しそうに身を乗り出す。その声に、つい苦笑して空いたグラスを隅に寄せる。


 最初は軽い気持ちだった。だが、グラスが空になる度におかわりを喉に流し込むスピードが早くなり、じわじわと脳に熱が巡っていく。アルコールは危険だ――頭の中のブレーキを、簡単に壊してしまう。

 

 次第に、口も滑らかになっていた。イオリに投げられる質問に、普段なら答えないしょうもないことまでつい素直に答えてしまう。


「え、シキ様って犬派なんですか?猫っぽいのに」

「いや、猫は気まぐれすぎるだろ。犬の方が可愛い。お前は大型犬みたいだよな」

「大型犬!?俺も犬好きなので嬉しいです!」

 

 くだらないやり取りに笑いながら、グラスの氷を転がす。そして、ふと目を上げるとイオリの顔がいつもよりも輝いて見えて、俺は黙り込んでしまっていた。


 真っ直ぐな瞳も、笑うたびに柔らかくなる口元も、長い睫毛の影すらも。

 普段は意識しないようにしていたのに、アルコールで緩んだ頭ではどうにも目が離せなかった。意識を逸らそうと手元のグラスを見ても、最終的には視線がイオリに吸い寄せられていく。


(なんでこんなに、絵になるんだこいつ)

 

 胸の奥が妙にざわざわして、グラスを持つ手が落ち着かない。

 そんな俺の様子に気づいたのか、イオリが小首を傾げる。


「どうしました?」

 

 熱に浮かされた思考は言葉を止める機能を失ったみたいに、思ったことがそのまま口からぽつりと零れていた。


「……お前、ほんとに綺麗な顔してるよな」


「えっ」


 イオリが瞬きを繰り返す。そんな顔、初めて見た気がすると、思わず口角を緩め、グラスを揺らしながら続ける。


「お前の顔面、めっちゃ好み……目の保養」

 

 自分で言っておきながら、耳まで熱くなるのがわかった。けれど、不思議と気分は悪くない。むしろアルコールのせいで、いつもよりずっと素直に言葉が出ていく。


「…………」


 イオリは一瞬固まった後、ぱっと顔を赤くして俯いた。


「……っ、そ、そんな……俺……」


 震えながらグラスを握るその手が視界に入る。いつも余裕そんな彼が慌てる姿を見て、もっと見たいと思ってしまう。わたわたという効果音がつきそうな程、慌てふためく姿に思わず口角が上がる。俺はその手をグラスから取って、イオリを見つめる。


「指も長くて綺麗だよな」


 驚いたように顔を上げるイオリに、無邪気に笑みを浮かべながら自分の手のひらを合わせてみせる。


「ほら、俺の手より大きい」

 

 そのまま指を絡ませると、イオリは喉を詰まらせたように息を呑んだ。

 赤くなった顔を伏せながら、それでも繋いだ手を離そうとはしない。


「シキ様、ほんと……あんまり煽らないでください」


 掠れた声が、妙に耳に残った。思わず笑いそうになった時、イオリがぽつりと訊ねてくる。


「俺、さっきからずっと聞きたかったんですけど……その服、オーナーさんのやつですか?」


「ん?うん。俺の服はまだ乾いてなかったから借りた」


「よく泊まるんですか?その……オーナーさんの家」


「いや、家に行ったのは初めてかな。前までは一緒に住んでたし」


 そう答えると、イオリはまだ何か言いたげに俺を見つめていた。

 その瞳の奥が、揺れている。酒のせいか、やけに真剣に見えた。


「シキ様は、オーナーのこと、好きなんですか?」


 一瞬、言葉が詰まる。


 姉のことを「好きかどうか」なんて考えたこともなかった。まぁ家族だし、嫌いではない。そして今日の買い物の時のことも思い出して、ふと笑みを浮かべる。


 ただ――酔いに滲んだ頭は妙に素直で、口を塞ぐ前に答えが零れていた。


「うん。好きだよ。大事にされてるなって、思う」

 

 そう言った瞬間――イオリの表情がぐしゃりと歪んだ。


 眉間に深い皺を寄せ、唇を噛んで歪んだ表情のまま、イオリはしばし黙り込んでいた。

 そのまま俯き、何かをボソボソと呟いている。声が小さすぎて聞き取れない。


「イオリ?」


 名前を呼ぶと、びくりと肩が揺れた。ゆっくり顔を上げる。


 その表情は、さっきまでの険しいものではなかった。にこりと笑みを浮かべて、いつもの調子で言ってくる。


「シキ様が良ければ、もう一件行きましょう!」


 まるでさっきの歪んだ顔なんてなかったかのように。

 その笑顔にどこか違和感を覚えながらも、俺は返事を飲み込んだ。


「もう一件?」


 思わず聞き返す俺に、イオリはにっこり笑って頷いた。


「はい!この近くに、雰囲気のいいバーがあるんです。ゆったり座れるところで。シキ様、絶対気に入りますよ」


(バー、か。普段あんまり行かないけど。まあ、まだそんなに酔ってないし)

 

 軽くそう思いながら、俺は頷いた。


「じゃあ少しだけ……」


「やった!じゃあ行きましょう!」


 イオリの声は弾んでいた。

 それを見て、ただ単純に楽しそうだな、なんて思ってしまった俺は、この時まだ気づいていなかった。この選択肢が後に大きな影響を及ぼすことを。

 

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