第8話 商会潰し作戦 ― 王都に巣食う影

 夜が白みはじめる。王都の瓦は薄い霜をまとい、川面から立ちのぼる靄が石橋の欄干を飲み込んでいた。

 俺――神宮司零は、王立医務室の裏口に吊した銅盆で手を洗い、布マスクの紐を結び直す。脈拍は少し速い。けれど、指は震えない。


 今日やることは単純だ。清水商会を、法で、所作で、潰す。



準備 ― 刃の代わりに、手順を


 器材棚の前で、侍医ウォルンが腕を組む。

 「零。今日は刃物より紙束が必要だ」

 「両方持つ。紙束は証拠、刃物は救命だ」

 俺は携行箱に、煮沸布、角マスク、蜂蜜塩水用の粉、携帯灯、簡易吸入具、封印用の赤蝋を詰め込んだ。外で煙を撒かれたら、まず生き残らせる。その次に押さえる。


 王女リュシアが入ってきた。夜の残り香をまとった青の外套、袖口は作業用に短く結ばれている。

 「代替供給線、整えたわ」

 「供給線?」

 「商会の止血をしたら、市が餓える。だから“王立共同倉”を一時開放。水は北井戸から導管で、市価の半値で出す。商人ギルドには税免除、代わりに“香を焚かない店”の印を掲げるように」

 「……最前線の政治だな」

 「あなたが患者を救うなら、私は明日の生活を救う」


 神官長アストレアが羊皮紙を掲げた。貴族院の可決印、王家の命令、神殿の真正証明――三つの紋が並ぶ。

 「神と法と民が、今日だけは同じ方向を向く。わしの長い人生でも珍しい日だ」

 「じゃあ勝つしかないですね」

 俺は笑って、白衣の襟を正した。


 トリスが書類束を抱え、息を弾ませて飛び込む。

 「零、証拠の束、揃った! 粉挽き場の帳簿写し、封蝋の擦り取り、職人の供述……全部」

 「ありがとう、トリス。お前の足は、剣より速い」


 扉番のミーナが、緊張の面持ちで歌いだす。

 「手を洗う、指の間―― 重い煙は外に出す」

 歌は合図。王立騎士団が歩みを揃える音が、まだ青い空気を震わせた。



包囲 ― 粉挽き場の朝霧


 北区、川沿い。朽ちた水車の軸が、凍てついた朝の光を鈍く返す。

 甘い匂いが、靄より低く広がっていた。黒香の残滓だ。


 「周囲封鎖完了!」

 「屋根上、弓兵配置!」

 騎士団の声が交差する。神殿兵が祈りの小声で集中力を保ち、冒険者ギルドの旗が揺れた。


 俺は布マスクを口鼻に掛け、手短に告げる。

 「火は使うな。煙は重い、低いところに溜まる。吸わないことが第一。倒れたら横向き、顎を上げる。――突入」


 扉が外され、冷たい空気が一気に内部へ流れ込んだ。

 粉の舞う空間。木床には薄い灰色の膜。甘い匂い。

 袋詰めをする職人らの目は赤く、瞳孔が少し開き、動きは妙に滑らかだ――吸っている。


 「作業手、道具を置け!」

 騎士の怒号に数人がびくりと肩を跳ねさせたが、すぐ元の作業に戻ろうとする。依存の線が、見えない糸のように彼らの動きを縛っていた。


 トリスが粉袋をひっくり返す。

 「零、ここ、底が二重だ!」

 布を裂くと、白い穀粉の下から、黒い粉末がざらりと出てきた。

 ウォルンが眉をひそめる。「媒介粉……香を穀粉に混ぜて拡散か。吸わせ、食わせ、両輪で依存を作る」


 壁際の乾燥炉には、香草の束、砕いた灰、油脂。

 俺は工程を目で辿る。

 ①香草を刻む → ②油脂と混ぜて“核”を作る → ③灰で乾燥熱を均し → ④粉体をまぶす → ⑤袋で二重底

 「香草の半分は無害だ。だが“核”に混ぜているのは――ナイトリリウム系。麻痺性のアルカロイド」

 トリスが唾を飲む。「毒だ」

 「“繰り返し”が毒にする。甘さで隠した刃だ」


 そのとき、奥の梁の陰から、ゆっくりと拍手が響いた。

 黒外套、薄笑い。サルヴォ。思っていたより若い顔、だが目の奥は老いている。


 「王女殿下の犬ども。いや、白衣の狼か。ようこそ、我らの工房へ」

 リュシアが前へ出る。外套の裾が低く波打つ。

 「法の下に来た。帳簿は押収、倉は封印。あなたは拘束する」

 「法、ね。法は“腹”を満たすか? あなたが止めた明日の糧を、誰が埋める?」

 「だから用意した。王立共同倉と免税、と言ったはず」

 サルヴォは大袈裟に肩をすくめた。「なるほど。だが**香の“安心”**は? 人は甘さで痛みを忘れる」


 俺は一歩踏み出す。

 「安心は“手順”で作る。手を洗い、風を通し、歌いながら数える。香は忘却であって、回復じゃない」

 「……医者はいつだって不人気だ」サルヴォが笑い、顎で合図する。


 ぱん。乾いた音。壁際の樽が弾け、甘い煙が床に沿って這うように広がった。

 「吸うなっ!」

 俺は最前列の兵の顎を跳ね上げ、布で口を覆わせる。

 「リオン、風を逆に! 高い所から低い所へ! 窓を開けろ!」

 リオンの魔法陣が光る。逆流する風が、煙の川を門外へ押し出した。


 足元で、職人の一人が膝をついて痙攣した。

 「目を閉じるな、こっちを見ろ。四で吸って、八で吐く」

 俺は彼の背へ掌を当て、呼吸を合わせる。

 職人の袖口に見えた刺青――輪蛇印。

 「契約の印か」

 「……逃げられぬよう、押された」職人が掠れ声で言う。「香を嗅がされ、ないと、震えるように……子どもが……」

 「分かった。お前は被害者だ。ここを出たら、医務室に来い。震えは止める。仕事は王女が用意する」


 リュシアは頷き、騎士に目配せをした。「被害職人は保護。手に血の匂いが残っていない者は、拘束ではなく事情聴取」

 ウォルンが囁く。「根を断つには、人を切らないことだな」

 「切るのは、線だけだ」



地下 ― 銀貨の煮詰め


 粉挽き場の奥に隠し扉。短い階段を降りると、土の匂いが肺に重く乗る。

 樽が並ぶ。黒香、媒介粉、そして――溶けた銀貨。

 「貨(かね)まで煮詰めるか」リュシアが吐き捨てる。「利潤をそのまま“香”に」

 「象徴の錬金術だな。金を燃やす音が、甘さに混ざって届く」


 帳簿。肩書き。印の擦り取り。

 「癒香製薬 納入先:清水商会」「封蝋印:蛇と輪/古医ギルド偽印」。

 ウォルンが指差す。「二重偽装が確定した。神殿の鑑定と突き合わせれば逃げ道はない」


 そこへ再び拍手。薄闇の中、サルヴォが立つ。

 「法の網は美しい。だが、穴も美しい」

「あなたの穴は、今日、塞ぐ」リュシアの声は低い。「王家・神殿・ギルドの連判で、あなたを拘束する」


 サルヴォは肩を落とし、笑うのをやめた。

 「良いだろう。だが、最後に一つ良い噂をくれてやる」

 彼は懐から帳面を一枚抜く。

 「王城台所――“癒香製薬”の記載。ほら、殿下の名の隣に」

 議場用の写しと一致する――ように見えた。


 ウォルンが顔色を変える。「偽造の疑いがある」

 「偽か真か。民は見出ししか読まない」サルヴォは指を弾く。

 ぱん。暗部の樽が弾け、また甘い煙が噴いた。

 「上へ!」

 雄叫びと金属音。川沿いの通路に飛び出したサルヴォは、振り向きざまに笑った。

 「覚えておけ。香は止まらない。南に送った」

 そう言って、彼は自分の背を部下に押させ、川へ身を投げた。黒外套が水面に吸い込まれる。


 「追え!」

 騎士団が橋を駆け、弓が鳴った。だが流れは早い。

 リュシアが手すりを握りしめる。「死んだふり、ね」

 「生きてる。次は南で出る」

 俺は短く言い、地下へ戻った。証拠を焼かせないために。



公示 ― 法の刃


 昼。王城前広場。

 議長の読み上げる声が石壁に反響する。

 > 『清水商会およびその子会社“癒香製薬”の活動を停止する』

 > 『王立医務室と神殿は、黒香の危険性と代替治療を公示する』

> 『王家は台所帳簿を全公開する。偽造の疑いある文書は、神殿鑑定に付す』


 ざわめき。

 「公開だってよ」「王女、やるな……」

 「台所の帳簿まで? 恥も外聞もなし?」

 「いや、だから信用できるんだ」


 老貴族たちの控え室。

 「王女め、我らの利を潰す気か」「香の税収が……」

 「黙れ」レザンド公が冷たく言う。「民が死ぬ香に税は取らない。それが貴族の務めだ」

 彼が背を向けると、部屋の空気が急速に冷えた。


 王女は壇上から降り、俺にささやく。

「“帳簿の公開”は痛いけど、必要」

「痛み止めの代わりに切る。王家の自傷は、民の信頼を呼ぶ」

「たまにあなたの言葉は、神官より祈りっぽいわ」

俺は笑い、羊皮紙を抱え直す。「祈りと所作は、似てるから」



市場 ― 甘い匂いの消えた夜


 日が落ちる。市場の屋台は、今日から「香を焚かない印」を掲げて営業していた。

 「殿下が印を配ってくれてるんだ」「香を焚かなくても、客は来るさ」

 油を濾した布が軒先に下がる。灰と湯気。歌。


 石畳の端で、腰の曲がった婆さまが空を仰ぐ。

 「香が消えたら、夜が静かになったねえ」

 「寝息の音が聞こえる」

 「うちの旦那、今夜は震えなかった」

 ミーナが蜂蜜水を配り、子どもたちが合唱する。

 「重い煙は外に出す/甘い匂いは疑う/四で吸って、八で吐く――」


 ――世論戦。刀より、遅く、ときに速い刃。



夜の医務室 ― 余韻と覚悟


 搬送は減った。だがゼロではない。

 震える手、浅い呼吸、幻視。

 「焦らなくていい。いまは“下り坂”だ。身体は戻る」

 俺の言葉に合わせて、呼吸が合う。王女は帳簿の写しを仕分け、ウォルンは明日の議題を整理する。

 アストレアが灯を低くし、祈りを短く終えた。


 トリスが外から駆け戻る。頬に煤。

 「商会の回し者、噂を流してた。『王女が香を買った』って。けど帳簿の公開で黙ったよ」

 「公開は、痛みを伴う手術だ。出血はするが、膿は出る」


 窓外、南の空に、小さく鐘が鳴った。

 リュシアが顔を上げる。「音が、遠い。南だ」

 「行くのね」

 「行く。次は“王立医師隊”として公式派遣する」

 「危険だ」

 「分かってる。でも、私の名前が使われた。だから、私の手で取り返す」


 強い眼差し。王女は戦士ではない。それでも前に出る者の目をしていた。



裏議会 ― 暗流


 その頃、別の館の薄暗い部屋。

 サルヴォの濡れた外套が、火鉢の前で滴を落としていた。

 「死んだと、皆が思っている」

 「王都ではね。南では違う」

 サルヴォは口角を上げる。「香の配布は止まらない。教団(きょうだん)という“器”に入れ替える。癒香教団。祈りと香を一つの所作に」

 側近が不安げに問う。「王女は帳簿を公開しました。民は戻り始めています」

 「なら、“奇跡”を作る。香で痛みの消えた者を舞台に上げ、白衣を“呪医”と囁く。言葉で殺すのだ」


 甘い笑い声が、火鉢の上でゆらいだ。



追補 ― 倉庫の無害化


 翌朝、粉挽き場の樽は燃やされなかった。

 アストレアの監督、王女の命、俺の手順で化学的に封じる。

 灰と油で包み、石灰で固め、樽ごと封印。魔法陣で“封”の印を二重に重ねる。

 「火は正義の象徴だが、証拠を焼く火は、悪の味方になる」

 俺は封蝋に日付と人数を書き込む。

 記録は盾であり刃。未来の裁きに耐える書式で残す。


 職人の保護手続き。

 子のいる者から優先の臨時雇用、震えの強い者から順に医務室のプログラムへ。

 「四で吸って、八で吐く。甘い匂いが欲しくなったら、歌いながら手を洗え」

 「手を……洗う?」

 「うん。手順は心の“代わり”になる。香の“代わり”は、所作で作る」



小さな勝利 ― 市井の声


 屋台の親父が、手を拭きながら笑った。

 「殿下の印、悪くねえな。客が『安心』って顔で来る」

 助産師が頷く。「産室は香より風だよ。窓を開けて、歌って、手を洗う。赤子は、それで十分に強い」

 鍛冶の徒弟が、丸めた手で胸を叩く。「香、嗅がなくても眠れた。歌、効くな」

 歌は、風より速く広がり、香より深く沁みた。



王都会議 ― 次の一手


 王立会議室。

 レザンド公が指を鳴らす。「交易権の凍結は可決だ。代替の商流は王家が担保する。神殿は印の鑑定を続けよ」

 ウォルンが頷く。「古医ギルドは医務室と連名で“香の禁忌”をまとめる。古医の名誉を、偽印から取り返す」

 「冒険者ギルドは川の見張りを増員。南の関門で香袋の嗅ぎ分けを訓練する」

 リュシアが締めた。「王都は回復に入る。だが戦いは終わらない。零、南へ」


 俺は白衣の袖をまくる。

 「メスで、歌で、記録で。――切るのは、人じゃない。線だ」



出立 ― 川は下る


 夜明け前。王都の石橋の上。

 風は冷たく、甘い匂いは、もうしない。

 トリスが荷車の縄を締め、リオンが携帯の魔導灯を磨く。ミーナは蜂蜜粉と塩を計量し、ウォルンは古医の教本を抱えた。

 リュシアは外套を翻し、俺の隣に並ぶ。

 「王立医師隊、出立。目的地――南部都市レメディア」

 「了解。……行こう」


 川は、音もなく下流へ。

 俺たちは、その流れの先にある甘い闇を、ひとつずつ所作で切っていく。


王都を蝕んだ黒香は封じられた。

だが、噂は風より速く、香は川より遠くへ。

勝利は“終わり”ではなく、“次の手順”の始まり――。

俺たちはまだ、戦いの途中だ。

メスで、言葉で、そして真実で。



次回予告:第9話 南部都市レメディアの血香


逃げたサルヴォの影、そして“癒香教団”。

祭の太鼓に紛れて、甘い煙が広場を満たす。

零とリュシアは「祈り」と「所作」の真っ向勝負へ――。

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