第7話 黒香事件 ― 甘い煙の向こう側 ―

 貴族院で“所作”が可決されてから十日。

 王都は、見た目だけなら穏やかだった。城門の手洗い場には列ができ、子どもたちは相変わらず歌を口ずさみ、神殿の煮沸釜は朝の湯気を絶やさない。

 ――だが、その湯気の向こうに、甘い匂いが混じり始めていた。


 最初の異変は、外来の“妙な患者”だった。

 「寝られないから焚いたら、よく眠れたんだ」「胸の重さが楽になる」「不安が薄れる」

 彼らの衣や髪には、ほのかに甘く痺れるような香が残っている。目は赤く、瞳孔はわずかに開き、脈は速い。二、三日すると、別の顔が来る。

 「香が切れると、体が震える」「胸が苦しい」「夢に声が出て、起きても声が消えない」

 指先は冷え、汗ばみ、息は浅い。皮膚の鳥肌は冷気ではなく内側の焦燥。

 ――依存の匂い。


 「零」

 王女リュシアが記録板を覗き込む。「この五日で“香使用”の記録、二十七件。症状が似ている」

 「香。どこで手に入れたと?」

 ミーナが答える。「市場。『古医製の癒し香』って名で配ってる店があるって。袋に“古医ギルド”の印が押してあるそうです」

 侍医ウォルンの眉が跳ねた。「ギルドはそんなものを認めていない」

 神官長アストレアは静かに言う。「印は偽れる。祈りは偽れぬが、印は偽れる」


 午後、トリスが市場から戻ってきた。額に汗、手には布袋。袋の封蝋には見慣れぬ紋――蛇と輪。

 「配ってた。『古医の香』『心安らぐ聖なる煙』って。値が安いのもあるし、無料で配るやつも」

 無料、という言葉が空気を冷やす。

 俺は袋の香を一つ摘み、鼻先で嗅がないように距離を保ち、指先で砕いた。指先に残るのは甘さと、舌が痺れる想像。

 「煮出す。煙の重さを見る」


 白布の一角に小さな実験台を設けた。

 乾いた粘土皿に粉を少量。火は遠く、弱く。白布の上にガラス板――代わりの透明板――を傾け、その下で煙をくぐらせる。煙は薄い灰色、すぐに重く沈み、板の低い方にたまる。

 「重い」

 ウォルンが目を細める。「香の類としては異常に重い」

 俺は別の皿に“黒香”の粉を少量、煮沸水に溶かして滴下。紙片に触れさせ、舌先で触れない――代わりに、感覚の鋭い見習いに腕の内側でパッチを取らせる。

 「痺れます」「じんじんする」

 「洗い流せ。すぐに」


 俺は結論だけを言う。「麻痺性のアルカロイドが混在している。量は濃くはないが、反復すれば依存と呼吸抑制を招く」

 神官長の杖がわずかに震える。「これは……『夜百合(ナイトリリウム)』の系譜か。神殿の薬草庫は厳重に管理している。外に出たはずがない」

 トリスが低く唸る。「印は偽物でも、原料の一部は本物ってことか。誰かが手引きした」

 「それだけじゃない」俺は袋を裏返した。「“古医ギルド”の印の隣に、薄く蛇と輪。清水商会サルヴォの影だ」


 翌朝、急患が四人続けて運ばれた。

 第一の女は胸苦しさと嘔吐。第二の男は震えと焦燥、汗。第三の少年は幻視を見て叫び、第四の老人は呼吸が浅く脈が細い。

 「香を焚いた?」

 同じ答え。顔の近くに甘い匂い。指先は冷え、皮膚は粟立ち、瞳孔は散大。

 俺は一気に布を剥がす。「分ける。呼吸の浅い者は北の区画で気道、震えの強い者は東で保温、幻視は南で刺激遮断。灰油の火は消す。香は一切持ち込ませるな」


 王女の声が飛ぶ。「扉番、香の持ち込みを禁ずる布告を掲げて! 神官、祈りは静かに、短く。――歌をかけて。長い息の歌」

 歌が、白布の内側で静かに流れる。

 俺は呼吸の浅い老人の顎を軽く上げ、舌の位置を確かめる。

 「リオン、温熱を弱く広く、胸ではなく背。ミーナ、**蜂蜜と塩の温水(ORS)**を少量ずつ。吐くなら横向き」

 老人の呼気が少しだけ深くなる。脈はまだ速いが、細い糸が太くなる手応え。


 震える男には毛布。手に握らせるのは温かい石。

 「体が『何か』を求めている。だが、与えない。水分、塩、温。時間」

 男の歯が鳴る。「香、香を少し……頼む」

 俺は首を振る。「少しが次を呼ぶ。『いま』が峠だ」

 彼は泣き、やがて呼吸と震えがゆっくり一致し始める。トリスが背を支え、ミーナが水を運び続ける。


 幻視の少年には、白布で天井を低く区切り、灯りを落とす。

「俺の声だけを聞け。指を見て。――四で吸って、八で吐く」

 少年の指先の冷えが、じわじわ戻る。

 「怖いものは、脳が作っている。香は脳に嘘を吹き込む。吐けば、嘘の霧が薄くなる」


 昼過ぎ、王女リュシアは即日布告を出した。

 《黒香の使用・所持を禁ず。王城・神殿・医務室に収集所を設置。違反は没収、再違反は罰金》

 《“古医ギルド”印の香袋は偽造の疑い。ギルド本部は否認》

 ウォルンは顔色を失い、貴族街と古医本部に走った。ヴァルドは見習いを率いて、各街角の手洗い所で嗅ぎ分けの講義。

 「重く沈む煙は危険。香は弱く。できれば、焚くな。窓を開け、風を通せ」


 それでも、夕刻には外来の列が伸びた。

 “癒やし香”は市場の細い路地から路地へと浸みていた。

 扉番が叫ぶ。「零! 外の火! 煮沸場が――!」

 南の路地で、煮沸の火屋が黒煙を上げていた。油ではない。香だ。積み上げられた袋に火が移り、甘い煙が一気に路地を満たす。

 「水! 直接かけるな、布で押さえる! 風を逆に回す!」

 王女の騎士が布を濡らして被せ、風の向きを盾で変える。神官の光が熱を抜き、火はやがて沈んだ。


 火が落ちた後、焦げた袋の封蝋が拾われた。蛇と輪。

 王女はそれを指で砕き、声を低くした。「……サルヴォ」

 俺は言う。「正面からは来ない。だから香で心を掴む。金で無料にして、味方を増やす」

 「やり方が汚い」

 「汚いから、厄介だ」


 その夜、貴族街の一角で火急の鐘が鳴った。

 香を焚いた屋敷の寝所で、女主人が倒れ、召使が次々と嘔吐し、子どもが震える。

 「王立医務室を――!」

 王女の馬車とともに、俺たちは駆けた。


 寝所の扉を開ける衝撃で、甘い煙が廊下に溢れた。

 俺は口鼻を布で覆い、窓を全開。扇で煙を押し流す。

 「香の器を外へ! 窓辺へ!」

 侍女が泣きながら器を掴み、庭に投げる。

 女主人の脈は速く、呼吸は浅い。唇は乾き、手は冷たい。枕元には“古医ギルド”印の袋。

 俺は彼女の顎を上げ、横向きにし、背を支える。

 「トリス、ORS。リオン、温熱を背へ。ミーナ、子どもを別室、灯りを落として」

 ウォルンが侍女を叱咤する。「香を焚くな。これは癒しではない。毒だ」


 廊下の隅で、古医の長老が凍りついた顔で立っていた。

 「……わしは、知らなんだ。ギルドの印が、かように使われようとは」

 ヴァルドが長老の前に出る。「印を守るのではなく、命を守ってください」

 長老の手が杖から離れた。「……すまぬ」


 女主人の呼吸はやがて深くなり、子どもの手の震えは収まっていった。

 王女は屋敷の主人を振り向く。「あなたの家は明日から香を禁ずる。寝所を乾かし、風を通す。台所の共同桶は廃止する。反対は?」

 屋敷の主は、ただ頭を下げた。


 搬送の帰り、王城の裏門に、暗い影が寄りかかった。

 蛇と輪の刻印を袖に縫い付けた男。清水商会の使いだ。

 「白衣様。人の心は香を好む。あなたの水は薄い。香は甘い」

 俺は答える。「甘い死だ」

 男は笑う。「死は遠い。香は近い。……近いものは、勝つ」

 王女の騎士が一歩踏み出した瞬間、男は影に紛れた。


 医務室に戻る。

 入口には“香収集所”が設けられ、袋は次々に積み上がる。

 ミーナが数を歌い上げる。「ひと、ふた、みっつ、よっつ……」

 数える声が途切れた。「零、いまの袋の封蝋……」

 蛇と輪の刻印に重ねて、薄い**“古医ギルド”の偽印**。

 ウォルンが歯を鳴らした。「二重偽装。庶民は見抜けぬ」

 「歌で見抜かせる」俺は答えた。「『重い煙 甘い香りは 遠ざける』――子どもに覚えられる短さで」


 その夜、王女は広場に立った。

 ランプの火が円を描く。子どもたちが手をつなぎ、竪琴が柔らかい和音を響かせる。

 王女が最初に手を洗い、窓に見立てた白布を開く。

 「香は弱く。風を通す。指の間、親指、手首――」

 いつもの歌に、新しい一節が足された。

 「重い煙は 外に出す」

 「甘い匂いは 疑う」

 「息は長く 吐きながら」

 「命を守る 白い手で」

 広場の端で、古医の長老が帽子を取った。ヴァルドは小声で合いの手を入れ、ウォルンは歌詞を羊皮紙に写す。

 歌は笑いとともに広がった。笑いは、恐れを溶かす。


 だが、甘い煙は簡単には引かない。

 翌朝、神殿の薬草庫で、棚の鍵穴の傷が見つかった。

 「こじ開けた跡……」神官長が低く唸る。「内部か、外か」

 「鍵は二つ。王家と神殿」

 「なら、合鍵だ」

 俺は言う。「王城台所と、神殿薬草庫。内側を締める。目録を歌にする。二人で読む。――それでも、破られる」

 王女が頷く。「破られたら、すぐ歌が止まる。止まったところに駆けつける」


 午後、外来の列に、華やかなドレスの少女が並んでいた。

 レネだ。

 「零。私も手伝わせて」

 「ここは匂いがきつい。辛いぞ」

 彼女は小さく笑った。「胸が重かった日より、ずっと軽い」

 レネは震える女の手を握り、子どもに水を渡し、侍女に窓の開け方を教えた。

 「吐くのが大事よ。四で吸って、八で吐くの」

 公爵家の令嬢が白布の内側で歌い、庶民が真似る。壁は、音で崩れる。


 その最中、物資棚の奥からミーナの悲鳴が響いた。

 「蜂蜜樽の目録、二行、消されてる!」

 王女の顔が厳しくなる。

 「扉番の歌、三番」俺は言った。

 「蜂蜜樽は ひと ふた みっつ――」

 列が止まり、皆が口をつぐむ。数が合わない。王女の騎士が走る。

 廊下の影で、黒外套の男が短く舌打ちをし、裏口へ消えた。扉番の少年が大声で歌い続ける。

 「ひと ふた みっつ――

 四つ目は どこ?」

 “歌で見張る”。冗談で始めた工夫が、街の警鐘になった。


 夜、トリスが裏路地から戻ってきた。頬に擦り傷。

 「黒香の元締め、倉庫を変えてる。清水商会の名前は出さない。下請けの下請けだ」

 「倉庫は?」

 「川沿い。古い粉挽き場。上流に匂いが乗る」

王女は即座に指示した。「夜明け、検める。王家・神殿・ギルドの合同で。――証拠を取る。印より前の“匂い”を」


 皆が散っていった後、白布の部屋に、俺と王女だけが残った。

 王女が静かに言う。「零。これはもう、『戦』よね」

 「戦だ。だが、剣は使えない。所作と歌と記録で戦う」

 「勝てる?」

 「勝ち続ける。明日も」


 灯りを落としてから、もう一度だけ扉番の歌が廊下を流れた。

 「手を洗う、指の間――」

 「重い煙は 外に出す」

 「甘い匂いは 疑う」

 「蜂蜜樽は ひと ふた みっつ――」

 「四つ目は みんなで探す」


 噂は風より速い。

 だが、歌もまた、風に乗る。

 甘い煙は街を蝕む。

 ――けれど、歌は街を繋ぐ。


 メスは剣より強い。

 そして今夜は、歌と所作が、甘い死より強かった。

 夜明け、俺たちは川沿いの粉挽き場へ向かう。

 蛇と輪の刻印の上流で、根を断つために。

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