第1話 大魔神


 静かにたゆたう水面は突如、水中から現れた巨体よって勢いよく弾かれた。


 現れたのは軽自動車のごとき巨漢。


 人並み外れて腕が太く、まんまるとした太鼓腹を抱えている。だというのにバッサバッサとバタフライで泳ぐ様は愚鈍にはほど遠く、むしろ大型獣特有の迫力を伴いながら二十五メートルのプールを快速で泳ぎきった。


「いっちば~ん!」


 その巨漢――大鯨倉之助たいげいくらのすけが『ふにゃぁ』っと、えびす顔を浮かべていると、遅れてクロールで辿り着く者が現れた。


 白いキャップを被った青と白の競泳水着の少女。

 ややつり上がったパッチリお目々に、水泳で鍛えられた細くてしなやかな肉体は見るからにスポーツ少女といった雰囲気。


 しかしそれはあくまで普段の彼女の姿。


 今の彼女はグッタリとしており、その表情には苛立ちが見え隠れしている。

 そんな彼女――白木純白しろきましろを見て、倉之助はニヤァと笑いながら話しかけた。


「おいどんの勝ちでござるなぁ、騎士殿ぉ」

「はぁはぁ……中二の女子相手に……はぁ……高一の男子が……はぁ……なに勝ちほこってんのよ……大魔神……ッ!」

「勝負の世界に年齢は関係ないでござる。それに勝負を持ちかけてきたのは騎士殿でござろう?」


 フッフッフと不敵に笑う倉之助を見て、純白は大きく息をついて呼吸を整える。


「だいたい、なんでそんなに速いのよ……。体は無駄におっきいし……お腹だってバランスボール並みなのに……」

「ぬっふっふ。おいどんの腹はまったくたるみのないハリのある形状。ただの肥満とは違って抵抗になりにくいのでござるよ」

「…………そんなの理由になるわけが……いや、なんでもない」


 突っ込む気力もなくなった純白は、はぁ、とため息を漏らす。


「それで愛音はどこ?」

「あそこでござる」


 大魔神がそう言って指差した先にはパシャパシャと可愛らしい水しぶきが近くまで迫っていた。本人は必死なのだろうが遅々として進まない姿は応援したくなる愛らしさに満ちている。


「……ぷぁ……お、おまたせ……しました」


 ようやく辿り着いたのはビート板を手にした少女――甘神愛音あまがみあいね

 純白と同じ中学二年生。くりっとした碧眼の愛くるしい顔立ちに小柄な肉体は小動物のような愛嬌に満ちている。


 そして目を引くのが豊満な胸元だろう。


 異様にデカイ。


 純白より小柄なせいで余計にデカく見える。そんな大きなふくらみの上を水がしたたり落ちる様は神秘的な光景だった。

 倉之助は神に感謝するように両手を合わせる。


「それセクハラだからエロ魔人」

 純白は眉をひそめて倉之助の腹にバチンと拳を打ち付ける。

 しかし、当の愛音はむっと眉を寄せる。


「違いますよ純白ちゃん。だってはコーチの物なんですから、コーチが好きなだけ見て良いんです」 

「うむ。問題ないでござる」

 倉之助は満面の笑みを浮かべて重々しくうなずく。

 純白は二人の奇妙な関係を目の当たりにし、忌々しそうにため息をついた。


「泳ぎ方を教えるだけで『胸の所有権』を渡すように言うのは大魔神ぐらいよ。それにそんな要求を受け入れるのも愛音だけでしょうね……」

「いいんですよ。わたしはこんな脂肪の塊なんていりませんから」


 愛音は自らの胸をわしづかみにするとムニムニといじりだす。

 遠目には美少女が自らの爆乳をもてあそんでいるだけに見えるだろう。男なら鼻の下を伸ばし、女なら破廉恥だと顔をしかめるかもしれない。


 しかし、よく見れば彼女は自らの胸をもぎとろうと試行錯誤していることに気づく。彼女の目には汚物を見るような嫌悪感が浮かび、この場に刃物があったら衝動的にそぎ落としてしまいそうな危うさが宿っていた。

 それに気づいた倉之助は陽気に言った。


「おっと、それはおいどんの物でござるから乱暴に扱ってはダメでござるよ愛音殿」


「あ……す、すみません……」

 愛音はパッと手を離すと大事そうに両腕で抱える。

 それを見て倉之助は満足げにうなずくと、純白に視線を向けた。


「それに騎士殿の認識は間違っているでござるよ。泳ぎ方の対価は『胸を美しく保つこと』。所有権はもらったんでござる」

「……普通じゃないことには変わりがないでしょ」

 倉之助は心外だとばかりに大げさに肩をすくめるが、純白はどうでもいいといった様子でジト目になる。


「それより次の勝負よ。もう一度言っておくけど、あたしが勝負に勝ったら愛音の『胸の所有権』は愛音に返してもらうわ」

「勝てるでござるかぁ? 今日だけで十九連敗目。しかもかなり疲れている様子。今の騎士殿ではかなわないでござるよ」


 真剣な表情の純白に、大魔王のごとき不敵な笑みで応える倉之助。

 純白の気迫は衰えていないが、疲労ばかりは隠せない。

 しかし、それでも純白は引かない。


「部活で鍛えているからこれぐらい大丈夫よ。むしろ太ってる大魔神の方が疲れているはずでしょ。なら、これからが勝負どころよ」

「言っておくでござるがスタミナ勝負なら負ける気はせんでござるよ。今のペースなら七日七晩は泳ぎ続けられるでござる」

「そんなのありえないでしょうが! なんかズルしてるでしょ! このっ!」

「ちょっ……いたっ、痛いでござるよ騎士殿!? やめないとおいどんの水中プロレスの餌食になるでござるよ!?」

「やってみなさい大魔神。その瞬間、あんたの社会生命終わらせてやるわ!」

「なんちゅう小娘でござるか。騎士殿の本性は悪魔でござる」

「魔物討伐は騎士の役目よ」


 純白はバチンバチンと拳を叩きつけるが疲労のせいで拳にはまったく力が入っていない。倉之助も痛がる素振りや大げさな表情で驚きを見せるがダメージは受けていない。端から見ればじゃれあっているようにしか見えないだろう。

 すっかり蚊帳の外に置かれた愛音は寂しそうに表情をかげらせる。

 それに気づいた倉之助は愛音に声をかけた。


「愛音殿もおいどんの腹に触ってみるでござるか?」



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