従属オフィス

杜若薫(かきつかおる)

第1話 残業オフィスの夜

昼間の真理子さんは、いつだって明るくて頼れる先輩だ。

要点を押さえた指示は的確、冗談も言えるし、でも締めるところはきちんと締める。

後輩からも慕われて、誰よりも信頼されている。

俺も、その背中に何度も救われてきた。

……気づけば憧れの気持ちが混ざっていることを、否定できなかった。


そんな人と、今夜は二人きりで残業だ。

蛍光灯の半分が落とされ、散らかった書類の上だけが白く光っている。

広いフロアに残っているのは、俺と真理子さんだけ。

時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。


「……ふぅ、だいぶ片付いたね」


真理子さんが背伸びをし、軽く息を吐く。

その仕草を見ただけで、胸が揺れる。

昼の賑やかな雰囲気とは違う。

夜の静けさが、彼女の輪郭を少し柔らかく見せていた。


ギッ、と椅子が軋む。

視線が吸い寄せられる。

真理子さんが脚を組み替え、タイトスカートがわずかに張る。

膝から足首へと伸びるラインに光が沿って、影が床に落ちた。

喉が鳴りそうになり、慌てて視線を逸らす。

(何を見てるんだ、俺は……)


髪が肩からこぼれて、頬にかかる。

彼女は指先で髪をすくい、耳にかける。

光が爪に染み、耳たぶに触れる瞬間、小さく止まる。

その一連の流れが、俺の視界ではスローモーションになっていた。

……やばい。


「直樹くん、コピーお願い」

「はい、すぐに」


弾かれるように立ち上がる。

紙の端が指をかすめ、妙に熱を残す。

コピー機の音に集中しようとしても、さっきの映像が頭から離れない。


「ほんと、テキパキして助かるよ」

背後からの声。

ただの一言なのに、心臓が跳ねる。

嬉しい。褒められることが。

でもその感情の奥で、もっと別の熱が膨らんでいる。



終電が近づいた頃、真理子さんがジャケットを肩に掛けた。

布が体のラインをなぞるように落ち、襟がふわりと揺れる。

俺も鞄をまとめようとした、そのとき。


「……ほら、だらしない」


ふっと近づく気配。

ヒールの音がコツンと響き、首元に冷たい指先。

ネクタイの結び目を、真理子さんが強めに引き上げた。


「ん……」


布が喉の皮膚を擦り上げ、呼吸が詰まる。

結び目を整える指が一瞬触れて、背筋に電流が走った。

普通ならただの気遣いのはず。

でもその指先には、拒めない力があった。


「職場から出るときはちゃんとしてなさい。私の前に立つなら、なおさら」


命令みたいな響き。

叱られているのに、妙に熱がこみ上げてくる。

……なぜだ。

胸の奥が、ざわめきの代わりに甘い痛みで満たされていく。


軽く肩を叩いて離れた真理子さんは、何事もなかったようにマグをすすぎ、片付けを終えた。



エレベーター前。

換気の風で髪が揺れ、真理子さんは無造作に耳に掛ける。

その仕草だけで、また喉が鳴る。


「直樹くん……」

ボタンの灯りを見つめたまま、彼女が言う。

「君、私の言うことなら……何でもできそうね」


チン、と到着音。

「え……あ、はい! もちろんです!」

慌てて返事をすると、彼女はゆっくり振り向いて、唇の端を上げた。


「ふふ……そう、素直でいい子」


冗談のように響いたのに、背筋が粟立つ。

支配されているみたいに。

心臓は痛いほど高鳴っているのに、不思議と怖くなかった。


――俺はもう、この人に従いたいと思っている。


ビルを出ると、夜風が頬を撫でた。

人の流れが動き出す中で、ネクタイの結び目に触れる。

そこにはまだ、彼女の指の温度が残っていた。

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