【想像力】『エルフェンリート』と『新世界より』
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
怪物を生むのは誰か――『エルフェンリート』と『新世界より』が示す差別と想像力
『エルフェンリート』と『新世界より』は、一見すると異なるジャンルに属する作品である。前者は血と暴力を鮮烈に描いた残酷劇であり、後者は静かで知的なユートピア崩壊の物語である。しかし思想的に見るならば、この二つの作品には深い共通点がある。どちらも「異質な存在を社会がどう扱うか」という問いを根底に持ち、さらに「人間が人間であるとは何か」という問いを突きつけている。そしてこの問いは現実社会においても普遍的に響き、差別、管理、自由、暴力、そして希望といった問題群と重なり合っている。
『エルフェンリート』において描かれるのは、ディクロニウスと呼ばれる存在が、人類から恐れられ、排除され、迫害される姿である。彼らは外見上のツノや、不可視のベクターと呼ばれる力を持つという違いによって、ただその存在そのものが「危険」と決めつけられてしまう。幼少期から研究施設に監禁され、虐待され、殺戮の対象とされる。人間たちは自らの社会を守るために「怪物」を必要とし、その役割をディクロニウスに押し付けたのだ。だが彼らが本当に怪物であったのかといえば、決してそうではない。主人公ルーシーを見れば明らかなように、彼女は「愛されたい」「受け入れられたい」という切実な欲求を持つ一人の少女であった。人間が彼女を「怪物」としか見なかったために、彼女は人間を憎み、暴力を振るう存在に追い込まれてしまったのである。つまり怪物を作り出したのは、怪物と名指しした人間自身であった。
一方『新世界より』は、人間社会がユートピアを維持するために差別と排除を行っていることを描いている。そこでは人間は「呪力」という超能力を持ち、共同体全体の存続を守るために徹底的な管理体制が敷かれている。力を制御できない者や異常を示す子供は、社会のために密かに処分される。表面上は美しく平和な村であっても、その平和は排除と恐怖の上に成り立っている。そしてさらに重要なのは、人間が「バケネズミ」と呼ぶ存在の扱いである。彼らは知性を持ちながらも、人間によって劣等な存在とされ、動物のように使役されていた。人間は彼らを「劣った種族」と見なし、虐げ、支配した。だが物語が進むにつれ、バケネズミは高度な知性を示し、人間と同じように未来を夢見て、自由を求める存在であることが明らかになる。人間が「ただの動物」としてしか見なかった彼らは、実は人間と同じように心を持つ存在であったのだ。ここでもまた、差別が怪物を生み出し、やがて人類とバケネズミとの悲惨な戦争へとつながっていった。
両作品の共通点は明確である。人間社会は「異質な存在」を恐れ、排除し、そのことによって自らを守ろうとする。しかしその排除は、結局自らに跳ね返ってくる。『エルフェンリート』では人間が差別によって怪物を生み出し、流血と憎悪に巻き込まれた。『新世界より』では、管理と支配によって奴隷を生み出し、その奴隷が反逆することでユートピアが崩壊した。つまり「異質なものを排除する」という構造そのものが、暴力を連鎖させ、社会を滅ぼしてしまうのである。
この思想を現実社会に重ね合わせると、私たちの世界もまた同じ構造を抱えていることに気づく。民族差別、人種差別、宗教差別、障害者差別、性差別、移民問題、国家間の対立。これらはすべて「自分と違う存在を危険とみなし、排除する」心から生まれている。例えば少数民族を「文化を壊すもの」として差別すること。障害を持つ人々を「社会の負担」として片隅に追いやること。それらはすべて現代社会に生きる私たちの差別の形であり、そしてそれらが暴力や紛争へとつながっていく。『エルフェンリート』の人間たちと同じように、私たちは他者を「怪物」と決めつけてしまう。『新世界より』の人間たちと同じように、私たちは「劣った存在」として他者を見下し、支配しようとする。だがその先には、必ず悲劇が待っている。
さらに両作品が描くのは「管理社会」の問題でもある。人間は秩序と安全を求めるがゆえに、時として個人の自由を犠牲にし、徹底的な監視や抑圧を行う。『新世界より』の共同体はまさにその典型であった。平和に見える社会は、子供を処分するという恐怖と秘密に支えられていた。現代社会においても同じ傾向がある。監視カメラ、AIによる情報統制、国家による強権的な施策は「安全」「便利」という名のもとに正当化されるが、その背後には自由の制限が潜んでいる。人々は「なぜ自分が安全なのか」を考えなくなり、抑圧に無自覚に加担するようになる。ここに『新世界より』の思想が現代的な意味を持つ。
それでは私たちはどうすればよいのか。ここで重要になるのが「想像力」である。両作品は異なる形で、しかし共通して「想像力の欠如が悲劇を生む」と描いている。『エルフェンリート』において、もし人間がルーシーを「怪物」ではなく「同じ心を持つ少女」として想像できていたら、彼女は暴力に走らなかっただろう。彼女の孤独と痛みを想像できていたならば、世界は変わっていたはずだ。『新世界より』において、もし人間がバケネズミを「劣った動物」ではなく「同じように夢を見る存在」として想像できていたならば、ユートピアの崩壊は避けられたはずだ。想像力の欠如が差別を生み、差別が怪物を生む。だが想像力があれば、異質な存在を理解し、共存する可能性が生まれる。ここに両作品の思想的核心がある。
カントは「人間を決して手段としてではなく、目的として扱え」と述べた。この倫理は想像力なしには成立しない。他者を目的として見るには、その痛みや喜びや未来を想像する力が必要だからである。現実社会の差別問題も、管理社会の問題も、この「想像力の欠如」と直結している。人種や宗教の違いを超えて「同じ人間」として想像することができれば、戦争や迫害は減少するだろう。監視や管理による秩序ではなく、他者を信頼し、想像することによってこそ、本当の共存が可能になる。
『新世界より』のラストで語られるように、「想像力こそが、すべてを変える力である」。これは作品の中だけでなく、現実の私たちにも投げかけられた言葉である。秩序を維持するために差別や排除に走るのか、それとも想像力をもって異質な存在を理解しようとするのか。未来を決めるのは私たち自身の想像力にかかっている。『エルフェンリート』が示したのは、想像力を失った社会がいかに残酷さに沈むかであり、『新世界より』が示したのは、想像力を取り戻すことで未来に希望を見出せるという可能性である。
だからこそ、私たちは忘れてはならない。差別を克服する鍵も、管理を超えて自由を守る力も、暴力の連鎖を断ち切る唯一の道も、すべては「想像力」の中にあるのだ。自分とは異なる存在を、自分のように感じる力。他者の痛みを想像する力。未来を想像する力。その力こそが、人間を怪物から人間へと取り戻し、そして世界を変えるかもしれない唯一の希望なのである。
【想像力】『エルフェンリート』と『新世界より』 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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