始祖の落下
@megamouth
全話
スタジオに破裂したような嬌声が響いた。合成した笑い声が脳髄にまで伝わってきて、先ほどから割れそうになっていた俺の神経をいたぶった。
(
雛壇の芸人が一斉に起こしたガヤの余韻にインカムから聞こえる冷静な男のアナウンスが重なる。ヘッドコーチの声だった。スタジオの裏側に俺の所属する芸能プロ藤木組の構成チームが待機していて、状況を分析して俺に指示を送っているのだ。
「アホか!こういう時ヘラルドはどうするんやったけ?」
司会の増田ユーサクがクシャクシャになった顔のまま、指揮棒を雛壇に突き出した。秋風の相方ヘラルドを指す。笑顔を作ったまま、俺は舌打ちした。秋風のとった笑いの余韻はまだ残っているから、そこに再び相方のギャグで点火させるというわけだ。司会歴20年のユーサクの判断は早い。
「そら、僕はチューブ・ボン!チューブですから」ヘラルドは、ややぎこちなく手振りをつけてお決まりのギャグを言った。 再び笑い声の合成音が響き渡った。
しかし、司会のユーサクはふいに真顔に戻っている。モニタ上の数値が目に入ったのだ。
(やったぞ、蓋然性スコアが3230、スベリだ。ヘラルドのやつ準備できてなかったんだろう、間がおかしかった。秋風のネタごとカットの可能性もでてきた)
「ほなら、モンジャイやったらどうするのこれ?」
気乗りしない様子でユーサクが突然俺の名を呼んだ。こちらを見もしていない。
(リカバリーチャンスだが、
ヘッドコーチが冷たく言い放つのを確認しながら、俺はすぐに立ち上がった。こんな時のために常に神経を張り巡らしているのだ。
「そらもう…チューブ・ボン!チューーーーブ!」
全身で、秋風ヘラルドが売り出した頃のネタをわざと大げさにやりきった。
カメラクルーが苦笑したのが見えた。モニターの蓋然性視聴スコアは6210、微妙な数値だが、場の役割は果たしたという実感があった。
「これこれ、これやがな!ヘラルドわかったか!」
「…はい」
ヘラルドが大げさに拗ねた表情を作った。ささやかな抵抗のつもりだろうが、蓋然性スコアにほとんど動きはなかった。展開としては、いわゆる芸人同士の鞘の当て合い、楽屋落ちというやつで、場はつながるが、視聴者に嫌われるパターンの一つだった。おそらく発端の秋風のネタごとカットされるだろう。
ユーサクが一連の流れを収めて編集点を作った。俺が笑みをたたえながら再び椅子に座ると秋風とヘラルドの敵意のこもった視線が目に入った。気持ちは分かるが、筋違いだ。と俺は心の中で言った。
「はい、ほな次のテーマいきましょか!次は『職場でびっくりしたこと』!まあ、我々の職場ちゅうたら、びっくりすることの連続やけども。クレマンティーヌ
アイドル歌手の名前を呼んだ。彼女のエピソードトークが始まる。ひとまず一連の流れで要求されるのはワイプで抜かれた時の表情だけだから、俺は表情筋を固着させると思考をいったんフリーにした。収録が始まって2時間ほどで初めて訪れた休息らしい休息だった。
(モンジャイ、油断するなよ。悪くない流れだが、スコアが足りなければ、お前のエピソードが要求されるかもしれん)
俺は動揺して、何度かまばたきをした。びっくりしたこと、のエピソードでいえば、3つほどいいレパートリーがあるが、どれも3ヶ月以内にオンエアされている。もう撃つ弾がなくなっていた。
(エピソード78番をアレンジして使うのが一番予測スコアがいい、どうだ?)
馬鹿か、それが一番最近使ったネタだ。俺は奥歯と口蓋の間に空間をつくり、チチッ……という音をわずかにたてた。高感度マイクがそれを拾って、藤木組のディレクションルームに「拒否」の意思を伝達する。原始的だが、外部装置なしに使える効果的なコミュニケーション手段だ。
(……生成エピソードのA3412番が次点だ。覚えてるか?)
俺は再び、口蓋音をたててNoのサインを送った。楽屋に束になって置かれているAIが作ったエピソードなんていちいち読んでいる筈がない。スタジオに笑い声が起こった。アイドル歌手のエピソードが終わりを迎えつつあるのだ。ユーサクの目が再び、芸人組の間を漂い始めた。
(時間がない、移植するぞ)
俺は目を閉じて、髄間チャネル接続の衝撃に備えた。グイっと後頭部を引き延ばされるような感覚に襲われて、俺は耐えた。次の瞬間、俺の記憶が書き換えられ、生成エピソードA3412番『始祖の落下』が移植される。それはこんな話だった。
俺は海辺を歩いている。
空は灰色で、海は重くよどんでいた。現地解散のロケからの帰り道だったはずだが、前の仕事がなんだったか、俺は思い出せない。
どれくらい歩いただろうか。視界の先に、奇妙なものが突き立っているのが見えた。
砂浜に深々と突き刺さった、巨大な人の形をした何か。見上げるほどの巨体は、灰色の石でできているようで、全身がおびただしい数の亀裂で覆われている。まるで、途方もない高さから、ここに墜落したかのようだった。
俺は吸い寄せられるように巨人に近づいた。
それは古い神の像のようにも、打ち捨てられた広告塔のようにも見えた。顔はのっぺらぼうで、目も鼻も口もない。だというのに、その平滑な貌は、深い疲労をたたえているように感じられる。
俺は巨人の足元に立った。見上げると、その胸の中心に、ぽっかりと穴が空いているのが見えた。それは人が一人入れるほどの大きさで、複雑な幾何学模様をかたどった、巨大な鍵穴だった。
俺は無意識に自分のポケットに手を入れていた。指先に冷たく硬い感触が当たる。取り出してみると、それは古めかしい真鍮の鍵だった。ありふれた鍵ではない。巨人の胸にある鍵穴と寸分違わぬ、複雑怪奇な形をしている。なぜ俺がこんなものを持っているのか、全く分からなかった。ただ、持っていたのだ。
俺の中に、抗いがたい衝動が湧き上がった。
この鍵を、あの穴に差し込まねばならない。
俺は巨人の体を伝って登り始めた。風化した石肌は意外にも掴みやすく、俺は一心不乱によじ登った。やがて胸の鍵穴にたどり着き、震える手で鍵を差し込んだ。
カチリ、と。世界のなかで、その小さな音だけがあるような響きを奏でて、鍵は回った。
俺が見つめる前で、巨人ののっぺらぼうだった顔に、ゆっくりと亀裂が走った。一本、また一本と線が引かれ、やがて、それが一対の目と口になった。
巨人の目が、開いた。その瞳はどこまでも空虚なガラス玉のようで、ただ静かに俺を映している。
そして、巨人は口を開いて笑った。
歓喜でも、嘲笑でも、慈愛でもないただひたすらに、「困った」とでも言うような、途方に暮れた、曖昧な笑みの形で、その形を維持したまま、巨人は言った。
「君の知っている意味をもって理解しなさい」
言って、錆びついたような空の下、困ったように笑いながら、俺を見つめている。波の音だけが、思い出したように戻ってきた。
それが、俺が職場で体験した、一番びっくりしたことだ。
「なんだよこれ…」
収録中だというのに俺はつぶやいた。隣に座っている女優が俺を振り返っていぶかしげな顔をしている。俺は咳払いをして、動揺を誤魔化した。
俺は口蓋音サインで、「緊急事態」を送出した。無茶苦茶だ、エピソードトークの体をなしていない。
(ちょっと待ってくれ……急いで確認する。生成エピソードの中ではこれが群を抜いてスコアが高いんだ)
心臓の動悸が早まる、純粋生成エピソードは、爆発力に欠けるが安全性が高いというのが定評だったのだ。インカムから藤木組ルームの混乱が伝わってきた。
「しゃあない奴やな…じゃあ次は…」
アイドル歌手のエピソードトークが終了した。余韻が残っている間にユーサクは俺にアイコンタクトを送った。「次はお前だ」のサインだった。先ほどのリカバリで、場を壊さなかったことへのご褒美としてユーサクがこうして機会を提供するであろうことは、俺の計算のうちだったが、今となっては、全てが裏目に出ている。
「モンジャイ!何かあるやろ」
3台のカメラが俺を捉えた。もう逃げられない。
(すまない…判断は任せる)
インカムからは首を絞められた女の悲鳴のようなヘッドコーチの声が聞こえた。俺は腹をくくった。
「これ、ロケの収録の帰りの話なんですけど…」
俺は脳に焼き付けられた映像を、慎重に言葉に変換していく。スタジオの照明がやけに白々しく感じられた。
「…海辺を、一人で歩いてたんですよ。そしたら、砂浜に、とんでもなくデカい、人の形をしたものが突き刺さってて」
共演者たちが「え?」という顔で互いを見合わせるのが見えた。司会のユーサクはまだ腕を組んだまま、値踏みするように俺を見ている。使えるのか、そうでないのか。その判断はまだ下されていない。
「石でできた巨人、みたいな。それがもう、見上げるくらいデカくて。途方もない高さから落ちてきたみたいに、全身ヒビだらけなんです」
俺は語りながら、視界の端でモニタの蓋然性スコアがじりじりと上がっていくのを確認していた。7500… 9200… 笑いは起きていない。スタジオの全員が、俺の話に奇妙な引力で引き込まれている。
「で、その巨人の胸に、鍵穴みたいな穴が空いてて。なぜか俺、ポケットにピッタリ合う鍵を持ってたんですよ」
(スコアは悪くない、問題はオチだ、あのままだとスベるのは確実だ。なんとかしてくれ!)
ヘッドコーチが絶叫した。
「その鍵を差し込んだら、のっぺらぼうだった巨人の顔に、目が、口ができて…。そいつ、笑ったんです。困ったみたいに、へらっと笑って、こう言ったんですよ」
物語が現実離れすればするほど、スコアは加速度的に上昇していく。18000… 25000… 大爆笑に匹敵する数値だというのに、スタジオは水を打ったようにしんとしている。隣の女優が、わずかに身を固くしたのがわかった。本能的な恐怖を感じ取っているのだ。
一瞬、息を吸う。意図的に作られた空白にスタジオの空気が張り詰める。ユーサクの眉が、わずかにひそめられた。
「『…君、バイアグラ、持ってるんやろ?』って」
一拍。
俺の主観では、無限に近い時間があった。最初にアイドル歌手が素っ頓狂な笑い声を上げた。そして、スタジオ全体に低いどよめき。続いてスタッフの釣られ笑いがあって、スタジオの空気が一気に弛緩した。
「なんやそれは!」
ユーサクが近年見なかったオーバーリアクションで、体をのけ反らした。彼の傍らのテーブルが倒れそうになる。
「なんやねんそのオチ!」
秋風が立ち上がってこちらを指さして怒鳴った。それを見た他の出演者がようやく笑い声をあげた。遅れて、音声が合成の笑い声をかぶせた。
「突然シュール芸すなー!」
ヘラルドも立ち上がって一緒になって騒いでいる。その様を見てユーサク特有の引き笑いが起こった。さらに笑い。通常の爆笑とは明らかに異なるヒステリックな空気にスタジオが包まれている。
(ともかく助かった。でかしたぞモンジャイ。スコアも悪くない……10万!?おいおい、日本中の話題になるレベルじゃないか)
ヘッドコーチの驚愕の声を俺は上の空で聞いていた。乗り切った安堵感で、全身から力が抜ける。背中が冷たい。大量の汗を書いているのだ。
「……いったん休憩入ります」
フロアディレクターが無線を確認しながら唐突に言った。ガラス張りの調整室を見上げるとそこも騒がしくなっているようだった。
何かわからないが、丁度良い。俺はトイレに立つ他の共演者に混じって、藤木組のディレクションルームに向かった。さっきの異常な話は何だったのか、ヘッドコーチに直接問い質す必要があった。
廊下を数歩進むだけで、スタジオの喧騒が嘘のように遠ざかる。俺の背中を叩いて「最高だったぞ!」と通り過ぎていくスタッフの言葉も、どこか空々しく聞こえた。10万。あのスコアは本物か? 日本中の話題になる。それは芸人として最高の栄誉のはずだった。だが、俺の胸の内を満たしているのは、栄光とは似ても似つかない、冷たくて重い恐怖だけだった。
見慣れた『藤木組 スタッフ控室』のプレートが貼られたドアノブに手をかける。
「ヘッド! さっきのは一体…」
言いながらドアを開けた俺は、言葉を失った。
部屋の空気が、凍っていた。
ヘッドコーチ、構成作家、アシスタント。いつものメンバーが、まるで蝋人形のように椅子に座らされ、固まっていた。全員が顔面蒼白で、虚ろな目をしている。部屋の中心にあるモニターには、無数の文字列が高速で流れ続けていた。
そして、そのモニターの前に、一人の男が立っていた。
場違いだった。テレビ局のラフな雰囲気とは全くそぐわない、糊の効いた黒いスーツ。髪を一筋の乱れもなく固めた、既製品のような顔。男は、俺が入ってきたことに気づくと、ゆっくりとこちらに体を向けた。
「モンジャイさん」
男の声は、感情のない平坦な響きを持っていた。
「お待ちしていました。私は人工知能規制局の生体ノードの一つ、インターフェース担当官です」
男の目は、俺を見ていなかった。俺の頭上、あるいは背後にある何かを見ているかのように、その瞳孔は焦点を結んでいない。瞬きもせず、ただ俺という物体を認識している、という風だった。中央官庁の奥深くで活動しているという生体ノードを実際に見るのは初めてだった。
「先ほどの『応答』、観測しました。『存在』とのファーストコンタクトとしては、極めて…予測外なものでした」
男は淡々と続けた。ヘッドコーチが、助けを求めるように俺に視線を送るが、声も出せないようだった。
「あなたの『バイアグラ』というアドリブは、人類からの最初の公式回答として受理されたいうことになります。中央AIは現在、その反応を予測するため、膨大なシミュレーションを開始しています」
「な…何の話だ…」
俺はかろうじて声を絞り出した。「あれはただのギャグだ。ウケるための…」
「我々の世界において、それは『ギャグ』として機能したかもしれません。ですが我々が『存在』と呼ぶモノの論理体系においては、『機能拡張』を要求する、極めて切実な意思表示として翻訳された可能性があるのです」
男は一歩、俺に近づいた。体温というものが感じられない、無機質な気配がした。
「モンジャイ。あなたは選ばれた。このバラエティ番組という空間は、今や、人類と『存在』との公式な対話の場となったのです。あなたは、人類の代表として、いや預言者として『通訳』を続けなければならない」
「冗談じゃない…! 俺は芸人だぞ!」
「ええ。だからこそ、あなたなのです」
男は初めて、表情らしきものを動かした。口角が、プログラムされた角度に、ほんのわずかに引き上げられる。それは、笑顔の模倣だった。
「収録に戻りなさい。そして、次の『問い』を待つのです。我々はバックアップに徹します。この対話は、何があっても中断させてはならない。7分前からこの建物と内部の生存者は規制局の管理化にあります」
それだけ言うと、男は俺の横を通り抜け、部屋を出て行った。
男が消えた瞬間、部屋に満ちていた圧力が嘘のように霧散した。おそらく全市民に埋め込まれた髄間インターフェースへ何らかの干渉を行っていたのだ。
「はっ…はぁっ…!」
ヘッドコーチが、喘鳴を漏らして椅子から崩れ落ちる。スタッフたちも、ようやく呼吸を取り戻したように、激しく咳き込み始めた。
インカムから、フロアディレクターの叩きつけるような声が響いた。
「休憩終わりです! モンジャイさん、スタジオへ戻ってください!」
地獄への呼び出しだった。
*
俺は硬直した体を引きずるようにして、スタジオへと続く明るい廊下を戻った。背後では、ようやく正気を取り戻したヘッドコーチたちが、インカム越しに何かを叫んでいる。だが、その声はもう俺の耳には届いていなかった。
スタジオに戻ると、空気は一変していた。先ほどの狂騒的な笑いは消え、どこか張り詰めた奇妙な静けさが支配している。共演者たちは乱れたメイクを直し、水を飲んでいるが、その誰もが俺を盗み見るように観察していた。彼らは何が起きたのか理解できていない。ただ、尋常でないことが起きたという肌感覚だけが、この場の空気を重くしているのだ。
「おー、モンジャイ、戻ったか。便所長かったな」
司会の増田ユーサクだけが、プロフェッショナルな笑顔を崩さずに俺に声をかけた。だが、その目の奥には、値踏みするような、あるいは警戒するような光が宿っている。彼はこの異常事態の震源地が俺だと見抜いているのだ。
「すいません」
俺は力なく頭を下げて席についた。隣の女優が、俺からわずかに距離をとるのが分かった。
(モンジャイ、聞こえるか)
インカムから、ヘッドコーチのかすれた声が届いた。
(規制局の指示だ。我々はもうお前をサポートできない。ただ中継するだけだ。…いいか、奴らの言う通りにしろ。逆らうな)
悲痛な響きに、俺は奥歯を噛みしめるしかなかった。
「収録再開しまーす! 皆さんよろしく!」
フロアディレクターの声が響き、スタジオの照明が再び輝度を増した。悪夢の第二幕の始まりだった。
「さあ、盛り上がってまいりましたけども!」
ユーサクが何事もなかったかのように声を張り上げる。
「次のテーマいきましょか!次は…『やってしまったこと』!」
そのテーマを聞いた瞬間、俺の全身に鳥肌が立った。これは、次の「問い」だ。
(来るぞ、モンジャイ。移植を開始する)
ヘッドコーチの絶望的な声と同時に、再び後頭部にあの引き伸ばされるような圧力がかかった。抵抗する間もない。新しい記憶、新しいエピソードが、俺の脳のシナプスに無理やり焼き付けられていく。タイトルは『思い出せない約束』。
「さあ、誰かあるかー? 」
ユーサクが雛壇を見渡す。その視線が、一瞬、俺の上でためらうように止まった。彼は、もう一度あの爆弾に火をつけるべきか計りかねているのだ。
だが、俺には選択肢がなかった。規制局の男の、表情のない顔が脳裏に浮かぶ。俺は、まるでマリオネットのように、すっと手を挙げた。
スタジオの全員の視線が、再び俺に突き刺さる。ユーサクが、観念したように息を吐き、俺を指した。
「お、モンジャイ!あるか」
「はい…」
俺はゆっくりと立ち上がった。3台のカメラが、俺の顔を無感情に捉える。そして、俺の意識はスタジオを離れ、脳に移植された風景の中に沈んでいった。
夜の公園に、俺は一人で立っている。
さっきまで雨が降っていたので街灯の光は霧に滲んで、ぼんやりとした光の球となって、足元の砂利を白く照らしていた。錆びたブランコと滑り台は夜の闇に溶け込んでいる。ここは、忘却に沈んだ世界の底のようだった。
そこで、俺は、当時の相方だったササキ・ナンジャイを待っている。
ベンチに腰を下ろすと、冷たい湿気がズボンを通して伝わってきた。時計の針は10時を指して止まっている。彼とここで会う約束があった。それだけは、霧の中でも確かな輪郭を持つ、唯一の事実だった。
だが、彼は来ない。
携帯電話を取り出しても、画面はただ暗い水面のように俺の顔を映すだけだ。誰にも繋がらない。
どれくらいの時間が経っただろうか。1時間か、1日か、それとも1年か。時間の感覚が霧に溶けていく。俺の思考もまた、輪郭を失い始めていた。
ふと、俺は気づく。
なぜ、俺はここにいるんだ?
ササキと、何を約束した?
その問いが浮かんだ瞬間、俺の記憶が、足元の砂のように崩れ落ちていく。
彼と交わした言葉。彼の表情。約束の理由。それら全てが、霧の向こうへ吸い込まれて消えてしまう。残っているのは、「約束をした」という空っぽの器だけだ。
俺は立ち上がれなくなった。
この約束が何であったかを思い出すまで、ここを動いてはならない。そういう理不尽な法則が、この世界を支配しているようだった。
霧の向こうから、誰かの笑い声が聞こえる気がした。あるいは、泣き声だったかもしれない。
俺はただ、冷たいベンチの上で、約束の記憶を抱きしめて、待ち続けるしかなかった。
これは「問い」だ。意味も分からず、永遠に遂行される「約束」についての問いかけだ。人類は、理解できない命令にどう応答するのかを試されている。このまま語れば、どうなるだろうか?誰にもわからない。
だが、俺は芸人だ。そして、今は人類の代表らしい。
俺は、俺自身の言葉で「応答」しなければならない。
「これは、俺がまだ若手の頃の話なんですけど…」
俺は、移植されたエピソードの骨子をなぞりながら、慎重に言葉を選び始めた。
「当時の相方だったササキ・ナンジャイと、ある約束をしてたんですよ。それで、夜の10時に、近所の寂れた公園で待ち合わせることになってたんです」
スタジオにいる誰もが、今度はどんな話が飛び出すのかと、固唾を飲んで俺の言葉に耳を傾けている。
「で、俺、時間通りに公園に行ったんです。古いブランコと、錆びた滑り台しかないような、小さな公園で。そこのベンチに座って、ササキを待ってたんですけど…いつまで経っても、来ないんですよ」
「携帯で連絡しても、出ない。1時間、2時間と経って、もう深夜です。さすがにおかしいな、と思って。で、その時、ふと気づいたんです」
俺は、意図的に間を作った。
「俺、ササキと、一体なんの約束をしてたのか、全然思い出せないんですよ」
スタジオに、微かな動揺が走る。「またか…」という空気が流れる。秋風が、訝しげな顔で眉をひそめている。
「大事な話があったはずなんです。絶対に、何か重大な約束だった。その記憶だけはある。でも、それが金の貸し借りの話なのか、新ネタの相談なのか…。肝心の中身が、頭の中からすっぽり抜け落ちてて」
移植されたエピソードはここで、主人公を永遠の待ちぼうけに突き落とす。不条理で、出口のない物語。だが、俺は続けた。
「そしたら、何度目かにナンジャイに繋がったんですよ。電話が」
「おお」
と遭難した面々の前に救助がきたような、安堵の空気がスタジオに訪れた。
「そしたら『お前なんやねん。俺ら昨日、会って解散したやろが!』って!約束は昨日のことで、僕、あまりの衝撃に、約束していたこと以外全部忘れてたんですよ!」
ユーサクが、破顔して、大きな引き笑いをすると、指揮棒をテーブルに叩きつける。それを合図に、雛壇の共演者たちがそれぞれリアクションをとる、笑う女優、「えー」という顔を作る歌手、呆れたような顔をする芸人。
「アホかお前は!」
最初にツッコミを入れたのは、秋風だった。
「悲しい話やないか! でもアホすぎるやろ!」
その言葉が引き金になって、スタジオに、今度はまっとうな温かい笑いが広がる。
「アホ」エピソードに変更、それが俺のとった答えだった。それが「存在」とやらにどう解釈されるか、もう知ったことではなかった。なぜなら俺は芸人で、芸人の発想しかできないからだ。
「そらササキも来えへんわ!」
雛壇からガヤが飛ぶ。ユーサクが腹を抱えて笑っている。
(…応答、受理。…人類の応答は『忘却と自己解決』…。興味深い。蓋然性スコア8万2千。安定している…)
インカムから聞こえる規制局の男の声に、初めて、感情らしき揺らぎが混じった気がした。
収録は、その後も続いたが、俺に「問い」が来ることはもうなかった。まるで嵐が過ぎ去ったかのように、番組はいつもの、予定調和な笑いに満ちたバラエティに戻っていた。対話はひとまず終わったのだ。
やがて、スタジオの収録中のランプが消灯した。
「はい、お疲れ様でしたー!」
スタッフの張りのある声が響く。共演者たちが、疲れた顔で、しかし満足げに席を立つ。俺は、誰とも目を合わせず、逃げるようにスタジオを後にした。
楽屋に戻る気力もなかった。テレビ局の廊下を抜け、夜の冷たい空気が頬を撫でる。自動タクシーを拾い、自宅のマンションの部屋番号を告げた。
部屋に戻り、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込む。異常な緊張と疲労で、意識はすぐに闇に沈んでいった。
…どれくらい眠っただろうか。
俺は、遠くから聞こえる、想像しい音で目を覚ました。
クラクション、人々のざわめき、ヘリも飛んでいる。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
俺は、重い体を起こして、窓の外を見た。
そして、言葉を失った。
見慣れたはずの街の風景が、そこにはなかった。
雲一つない青空いっぱいに、砂浜に突き刺さっていたはずの、あの灰色の巨人の顔があって、穏やかなような困ったような、奇妙な表情で、朝日を浴びていた。
なぜか俺には、その顔が記憶と違って、ひどく満足しているように見えた。
始祖の落下 @megamouth
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