第03話「損失回避のワルツ」

 理人が提案した最初のナッジは、社内の意思決定プロセスを根本から変えるものだった。それは「プレモータム」と呼ばれる手法の導入だった。


「プレモータム? 死後の検死(ポストモーテム)なら知ってるけどな」


 企画書を眺めながら、慎一が首をかしげる。


「その逆です。プロジェクトが『始まる前』に、それが『壮大に失敗した』と仮定して、その原因を全員で自由に話し合うんです」


 理人は冷静に説明した。


「そんな縁起でもないこと、なんでせなあかんねん」

「人間の心理には『同調圧力』が強く働きます。会議の場で、特に社長や上司が推進しているプロジェクトに対して、正面から『失敗する可能性がある』とはなかなか言えないものです。しかし、『すでに失敗した』という前提に立てば、人々は心理的な制約から解放され、リスクや問題点を自由に指摘しやすくなる。これは集団浅慮、つまり集団で愚かな決定をしてしまうことを防ぐための有効な手法です」


 なるほど、と慎一は思った。確かに、自分の威圧感や他のメンバーへの遠慮が、自由な意見交換を妨げていたのかもしれない。これまで「トップダウン」で物事を進めてきた自負があったが、それは裏を返せば、社員の主体性を奪っていたことにもなる。

 翌週、懸案だった新規ソフトウェア開発の定例会議で、理人は早速プレモータムを実践した。


「では皆さん、想像してください。一年後、このプロジェクトは歴史的な大失敗に終わりました。多額の投資は水泡に帰し、メディアからは叩かれ、顧客からの信頼も失墜します。さて、なぜそうなったのでしょうか。原因を自由に挙げてください」


 理人の言葉に、最初は戸惑っていた社員たちも、次第に恐る恐る口を開き始めた。


「……そもそも、ターゲット顧客のニーズを正確に把握できていなかったのでは」

「開発スケジュールに無理があって、バグが多発したのかもしれない」

「競合他社が、もっと安くて高機能な類似サービスを先に出してしまった、とか……」


 堰を切ったように、今まで誰も口にしなかったリスクが次々と挙げられていく。それはまるで、膿を出す作業のようだった。慎一は、黙ってその光景を見つめていた。自分が情熱を注いできたプロジェクトがいかに多くの脆弱性を抱えていたか、それを思い知らされて胸が痛んだ。しかし同時に、社員たちの顔が次第に生き生きとしていくのを見て、安堵する自分もいた。

 会議の終わり、ホワイトボードはプロジェクトの「死因」で埋め尽くされていた。


「ありがとうございます。これだけの潜在的リスクを事前に洗い出せました。これらを一つずつ潰していけば、プロジェクトの成功確率は格段に上がります」


 理人がそう締めくくると、会議室には不思議な一体感が生まれていた。今まで重苦しい雰囲気だった会議が、前向きな課題解決の場へと変わった瞬間だった。

 社員たちが退出した後、慎一は理人に歩み寄った。


「冬月くん、すごいやないか。みんなの顔、見たか? あんな生き生きした顔、久しぶりに見たわ」

「当然の結果です。人間は自分の意見が尊重され、意思決定に関与していると感じることで、内発的動機付けが高まりますから」


 理人は相変わらずクールだったが、慎一には、彼の声に微かな満足感が含まれているように聞こえた。

 その日の夜、慎一は残務整理のためにオフィスに残っていた。他の社員は皆帰宅し、静まり返ったフロアにパソコンのキーを叩く音だけが響いている。ふと、コンサルタント用の仮設デスクにまだ人影があることに気づいた。理人だった。彼は、膨大なデータが表示されたモニターに、吸い込まれるように集中していた。

 慎一は缶コーヒーを二本買い、彼の元へ向かった。


「お疲れさん。まだやっとるんか」


 声をかけると、理人はびくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔は、昼間の自信に満ちたコンサルタントの顔ではなく、どこか年の離れた弟のような、あどけなさを感じさせた。


「……夏目社長。お疲れ様です」

「社長はええって。慎一さんでええよ。大学の先輩やしな」


 慎一が缶コーヒーを差し出すと、理人は少し戸惑ったようにそれを受け取った。


「ありがとうございます」

「しかし、君はほんまによう働くわ。まるで機械みたいやな」


 慎一が冗談めかして言うと、理人は少しだけ眉をひそめた。


「仕事ですから。それに、私には時間がありません」

「時間がない?」

「……ええ。この会社を立て直す時間は、限られています」


 そう言う理人の横顔に、一瞬、焦りのような色が浮かんだのを慎一は見逃さなかった。この男は、ただ仕事としてここに来ているだけではない。何か強い目的意識、あるいは使命感のようなものに突き動かされているように見えた。


「まあ、根を詰めすぎるなや。たまには息抜きも必要やで」


 慎一はそう言うと、理人の隣の椅子に腰掛けた。しばらく、二人の間に沈黙が流れる。カツン、と理人が缶コーヒーのプルタブを開ける音が、静かなオフィスにやけに大きく響いた。


「……あなたは、なぜこの会社を始めたんですか」


 不意に、理人が問いかけた。それは、彼の口からはおよそ出そうにない、個人的な質問だった。

 慎一は少し驚いたが、遠い昔を懐かしむように、ゆっくりと語り始めた。


「なんでやろな。ただ、面白いことがしたかったんや。世の中を、ちょっとだけ便利に、ちょっとだけ楽しくできるような、そんなもんを作りたかった。それだけや」

「……非合理的ですね」


 理人はぽつりとつぶやいた。


「せやろ? でもな、人間、理屈だけやないやろ。そういう非合理な情熱みたいなもんが、世の中を動かすこともあるんちゃうかなって、俺は思うとる」


 慎一がそう言って理人の顔を見ると、彼はじっと慎一の目を見つめていた。その深い黒色の瞳に、自分が映っている。その瞳は、まるでこちらの心の中まで見透かしているようで、慎一は少しだけ動揺した。


「……そう、かもしれませんね」


 理人は静かにそう言うと、ふいと視線をモニターに戻した。だが、その耳がわずかに赤くなっているのを、慎一は見逃さなかった。

 この時、慎一は気づいていなかった。理人が仕掛けた「ナッジ」は、会社のシステムだけでなく、自分自身の心にも静かに作用し始めているということに。変化を恐れていたのは、社員だけではなかった。慎一自身もまた、誰かが自分の築いたコンフォートゾーンの扉を叩いてくれるのを、心のどこかで待ち望んでいたのかもしれない。

 その扉を叩いたのが、まさかこんなにクールで生意気で、そしてどこか寂しげな後輩だとは夢にも思わずに。

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