エフ(神からも悪魔からも一目置かれる男)

NAKA

【インタビューその1 ノルウェーにて】

日本からですってね。

秘書から聞きましたが、あの男のことについてお聞きになりたいとか。

何故、あなたのような日本人があの男と接点があるのか、そちらの方が興味がありますね。

まあ、いいでしょう。

で、なにを聞きたいのですか?

あの男に関して私が知っていることを全部、ですか?

分かりました。ですがその前に、あなたは私のことが怖くはないのですか?

なんですか、それは?

採取したばかりの、あなたの血液、ですって?

(しばらく笑って会話にならない。)

・・面白い人ですねえ、あなたは。久しぶりですよ、こんなに笑ったのは。

いいでしょう、あなたのその誠意と覚悟に敬意を表して全てをお話しましょう。


私達の歴史は結構長くてね。そうですね、あなた方の年代で言えば古代ローマ時代とかエジプト文明時代とか、ですかね。そう、今から数千年前にこの世に生まれてきたのです。

ニンニクや十字架や銀の弾が苦手で、太陽の光で死滅する。

そう言われていますが、当たっているのは太陽光だけですね。あれだけは、いつまで経っても克服できないままです。

まあ、昼間は休息して夜間に活動する、そういうルーティーンが身についていますので、それほど辛いことはありません。

夜は長いですから、特に北欧の夜は、ね。


もう30年ほど前のことになりますか。私はある一人の女性に恋をしてしまいましてね。

リタ・カールソン。今でもはっきりと覚えていますよ。

彼女はあまりにも美しく、そして儚げな雰囲気を持つ人間の女性でした。私は自分の立場も忘れてしまうほど彼女に夢中になってしまいましてね。

ですが、一つだけ問題があったのです。それは彼女に既に恋人がいた、ということ。

私は自信がありました。それに若いが故の傲慢であったかもしれません。

彼女の恋人はごく普通の人間の男。であるなら、私が敵わないわけがない。

そう思っていましたからね。

彼女が少しずつではありますが、私に惹かれていることがわかり、私は彼女にある提案をしました。

彼女の恋人に会わせてほしいと。もちろん、勝てるという絶対的な自信があったからこその提案でしたが、彼女はそれを受け入れてくれましたし、そして驚いたことに相手の男も了承してくれたのです。

三人で会うことが決まった段階で私は勝ちを確信しました。まあ、婚姻関係ではなかったのですから、彼から彼女を奪うのはそう難しいことではないと、変に高をくくっていたのもあったのでしょう。

それから数日後、私とリタとその恋人の男と三人で会うことができました。

ノルウェーの南岸にある静かな浜辺にある古い洋館でした。時間は夜の7時。

握手をしながら簡単な挨拶を済ませたあと、私は彼の目を覗き込みました。

私は相手のその目を見れば、だいたいですが、その人がどんな人間か分かるのです。

ですが、彼は違いました。どれだけ見ても何にも分からない、何にも伝わってこないのです。

しばらくすると、私の頭の中に

《君は何者だ?》

という声が聞こえたのです。

驚きました。明らかにこの目の前の男が発した言葉だったのです。

一瞬、この男は神の使徒ではないかと疑いました。

ですが、この男の目の中には、慈悲も驕慢も薄っぺらな全知感も見えてこなかったのです。

信仰の闇に埋もれてしまった虚ろな目でも狂信者の目でもなかったのです。

うん?何か失礼なことを言いましたか?もしそうだとしたらお許しを。

話を続けましょう。

私は、そうではない、この男は悪魔に違いないと、そう思いました。

この悪魔はリタに憑依すべく虎視眈々と狙いを定めていたのだと、そう思ったのです。

こう見えて私はヴァンパイア族ではかなり上位の存在です。相手が悪魔であっても中位以下の存在であれば戦って勝てないことはないのです。

自分が愛する女を悪魔なんぞに絶対に渡したくない、おそらくそんな気持ちも働いたのでしょうね。

そう思って私はもう一度握手の手を彼に差し伸べました。

彼は黙って私の手を握りましたが、その余りの握力の強さに私は驚いてしまい、思わず恐怖を感じてしまったのです。

彼は表情を全く変えずに私の手を握り、私の目をじっと見ています。

私は急いで彼から力任せに手を引き抜きました。

すると、また聞こえてきたのです、さっきの声が

《・・ヴァンパイアだな。リタは知っているのか?》

違う。悪魔なんかじゃない。こいつはいったい・・・。

私はもう言葉を発することが出来ませんでした。

《君のリタに対する思いは本物のようだ。であればもう私の出る幕はない。ただし、彼女とはきちんと話をすることだ。》

彼はそれだけ言うとそのまま踵を返し、リタに向かって話をしたのです。

「彼は普通の人間ではない。私はこのまま引き下がるが、今後のことについては彼とよく話をすることだ。いいね。」

そう言って、彼は邸を出て行きました。

私はしばらくの間、呆然としていたと思います。するとリタが私に駆け寄ってきてくれました。

「大丈夫?ダギッシュ。彼と何を話していたの?」

彼は、私より遙かに強い。それだけは痛いほど分かりました。それに、恐らくでしょうが、彼は自ら身を引いてくれた。

私はそんな自分が情けなくて、しばらくリタの顔がまともに見られませんでした。

それでもリタはずっと私のそばにいてくれたのです。

私はリタに正直に全てを話すことにしました。あの男との約束どおり。

それからリタと私は互いを認め合い、愛し合い、10年ほど一緒に暮らしました。

これで、めでたく終わり・・・。

そう、それならば良かったのですがね・・残念ながらそうはいかなかったのです。

私があの男と会うことを心配したのか、それとも物見遊山だったのかは分かりませんが、そのとき、私の仲間達が来ていたのです。それで、何か異常を嗅ぎ取ったのでしょうね。

男が邸から出てくるのを待ち伏せていたのです。

これは、あとで彼らから聞いた話です。



ダギッシュと話していた男が出てきた。

年長者ハミルはそのまま男を通そうと思っていたのだが、仲間の一人が彼に声をかけてしまった。

「おまえは何者だ。」

するとその男は突然、敵意を示してきた。

「・・待ち伏せか。さっきのダギッシュの仲間だな。頼まれたのか?」

声をかけたダガーが数歩、男に近づいた。

「おい、ダガー、よせ!すまなかった。このことは、彼は知らない。だが、あんたが何者かくらいは教えてくれないか?」

すると男は、その場にいた全員を見回し、こう言った。

「ヴァンパイアに、ウルフとの混合種だな。俺はカインだ。もういいだろう?」

ハミルは年長者らしく、経験上、この男は危険だと察知していた。だから、そのまま道を開けて行ってもらうつもりだったのだが・・・。

ダガーが一瞬でその男に飛びかかったのだ。

まずい。ダガーはこの中でも戦闘力という点ではずば抜けた力を持っている。今の攻撃のスピードだとあの男は・・。

ダガーが宙に浮かんでいた。手足をバタつかせながら明らかに苦しんでいる。

ハミルと他の仲間全員がダガーを助けようとして、男に向かおうとするが、身体が動かない。

「この男は殺す。おまえたちはどうする?」

身体はピクリとも動かない状態でも耳だけは冴え渡っている。その耳に、地の底から響いてくるような背筋を瞬時で凍らせるような声が聞こえてきた。

誰も口を開けないでいる。

「この男の頭の中を探った。返事がないようなら、これからおまえ達の隠れ家に行って、仲間を皆殺しにする。」

ハミルが必死で口を開いた。

「わ、悪かった。謝る。もうその辺で勘弁してくれ!」

男はなにも返さず、ハミルをじっと見ている。ほんの数秒だったのだと思う。

だが、その無の時間は永遠に続くかと思えるほど長く感じられた。

やがて宙に吊られていたダガーがドスンと音を立てて落ちた。

「・・その男を連れてすぐにこの場を去れ。今すぐだ。」

見ると、男の全身から凄まじいばかりの殺気が溢れ出ている。

ハミルは慌てて、仲間の手を借りてダガーを叩き起こし、大急ぎでその場をあとにした。

全員が必死で走った。それでも後ろからあの恐怖が猛スピードで追いかけてくるような気がした。あのとき、少しでも返事が遅れていたら、間違いなく我が一族はあの男に皆殺しにされていた。

それだけあの男の怒りは激しかった。


彼が怒っていたのは、多分に私のせいでもあったのでしょう。

よりによって、あんな男の恋人を私が奪ってしまったのですから。

いえ、後悔はしていません。10年しか一緒にいられませんでしたが、リタは今でも私にとっては最高の女性です。

彼が言ったことば・・ああ、皆殺しにする、というあの言葉ですか?

さあ、どうでしょうね・・。今となっては想像するしかありませんが、少なくともあのときに彼と対峙したハミルの話だと、そんな危険な賭けに乗るほど私は馬鹿ではない、ということです。

そうですねえ。もしかしたら、ですが、少なくともダガーの一族、ウルフ族は壊滅していたかもしれませんね。


これで私の話は終わりです。

ああ、この血液はあなたに敬意を表して、ありがたく頂きますよ。

それと、あなた・・。

純粋な人間ではありませんね。

いえ、言わなくとも結構。他人の詮索はあまり私の好むところではありませんので。

では、これで。



【インタビュー その2 イタリアにて】



なんの話だっけ?ああ、そうか。あの人のことだね。

あんた、何処から来たんだい?え?東京?東京って、あの日本の?

本当かい?あらまあ、なんとも酔狂なことで。遠いんだろ、その東京ってところは。

そうかい、そうかい。

でもねえ、せっかく来てもらったんだけど、私だってほんの少ししか知らないよ。

それでもいいのかい?


あれはもう5年くらい前の話なんだけどね。

私にはローゼって言う、それはそれは可愛い孫娘がいてね。つい先日、めでたく結婚したんだけどさ。写真、見るかい?どうだい、相当なもんだろう?

その子が16の時の話さ。

私の息子はできが悪くてねえ、偏屈で頭が固くて、しばらく縁を切ってたんだけどね。

その息子の嫁が、ある日、真っ青な顔で私んとこに来たんだよ。それも泣きながらさ。

何があったのか聞いてもなかなか要領を得なくてね。でも、何とか宥めて聞き出したんだけどさ。

そしたら私の可愛いローゼが悪魔憑きにあってるって言うじゃない。

もうびっくりしてさ。いや、実は私も若いときに一度、同じ様な目にあっててね。

それでもう、娘が死んじゃうって、泣き叫ぶんだよ。お義母さん、なんとかしてって。

私は、昔から祈祷とかやっててね。それで、藁にも縋るような思いで来てくれたんだろうけどさ。

あんた、エンジェルって知ってるかい?そう、エンジェル。羽?羽なんか生えちゃいないよ。見た目は普通の人間みたいな格好しててね。まあ、でもその普通の人間には見えないんだけどさ。いや、あちこちにいるよ、ほら、あんたの後ろにも、ちゃあんといる。

で、そのエンジェルに頼んだのさ。ある人を探してここに連れてきて欲しいって。

たぶん、その人なら孫娘のことを助けてくれるんじゃないかって思ってね。いや、違うか。その人が本当に来てくれたら、間違いなく孫娘は助かる。そう信じてたんだ、私は。


来てくれたよ。懐かしかったねえ。私がその人に助けてもらったのは、もう50年も前のことだったからさ。会えて本当に嬉しかったんだ。しかもその人、昔のまま全然変わってなかった。そう、本当だよ。あの髪も笑顔も筋肉質の身体も、全く変わっちゃいなかった。

それでどうしたかって?その人を連れて急いで孫娘のところに行ったさ。

情けないよねえ、私んとこの馬鹿息子、何もできずにおろおろしてるだけでさ、また私が変な男を連れて来たって、怒鳴りつけようとしたんだよ。

え?そんなこと、出来るわけがない。その人は、怖いんだ。なんだろうね、優しいんだけど、あの目でじっと見つめられると、身体の芯から冷えてくるような、そんな本当の怖さがあったんだ。あの人に文句なんか言える奴なんていやあしないよ。

息子のことは無視して、二階の孫娘がいる部屋まで一緒に行ったんだ。

息子の家に入った瞬間に分かったね、わたしは。あの食べ物が腐ったような独特な匂いは忘れようとしても忘れられるもんじゃない。それに、二階はさ、寒かったんだよ。こう、歯がガチガチするくらいにさ。もう4月だったんだよ。それなのに廊下の窓には霜が降りているし、外だって濃い灰色でね。

先に神父さんが戦ってくれているらしく、部屋の中からは神父の祈りの声と薄気味悪い絶叫が交互に聞こえてきたんだ。

あの人は、一切躊躇することなく、部屋の中に入っていった。

しばらくすると、それまでとは違う、地の底から響いてくるような凄い声がしてきてね。

それが何度か続いたかと思うと、急に静かになってさ。で、どうしたんだろう、と思ってると、いきなりドアが開いて、中から神父さんが出てきたんだよ。

ところどころ服が裂け、髪を振り乱したその神父さんは、聖書を胸に抱きながら恐怖の表情を浮かべて後ずさりしながら出てきたんだ。

「・・神父さん、大丈夫ですか?」

息子が声を掛けても、今出てきた部屋の中をじっと見たまま

「・・あの男は・・あの男はいったい・・」

そう言って、また黙ってしまった。

そのとき、下から階段を駆け上がってきた息子の嫁がさ、息子や神父を押しのけて部屋の中に入っていったんだ。

もちろん私や息子も、一緒に入っていったんだけどね。

そこで何を見たと思う?

あの人が孫娘を横抱きに抱いていたんだ。可哀想に痩せ細って髪もぼさぼさ、顔色も真っ青だったけど、ローゼがあの人に抱かれたまま、あの人を見て微笑んでいたんだよ。

私達が呆気にとられていると、ローゼがか細い声で

「あ。カイン紹介するね。私のお父さんとお母さんとお婆ちゃん。こちらはカインよ。」

ローゼのあとを継ぐように、

「よろしく、カインです。それとマチルダ。約束は守ったぞ。」

覚えてくれていた。もう、それだけで嬉しくてね。あの人は私に約束してくれたんだ。

例え何年後になろうと、困ったら連絡しろと、必ず助けると。そう約束してくれたんだ。もう50年も前のことなのにね。

ローゼを見ると、何だか本当に幸せそうな顔をしていた。

「ご両親、それとマチルダ。この子はかなりのダメージを受けています。しかも医者ではこの子を治せません。ですが、私にお任せ頂ければ1週間で元の娘さんに戻して差し上げます。よろしいですね。」

あの恐ろしい悪魔から救ってくれたのだ。断るなんて出来るはずもない。それに

「みんな、大丈夫よ。私はカインに救ってもらったの。今はこんな身体だけど、1週間で必ず戻ってくるから安心して待ってて。」

あのローゼの顔を見たら、否も応もない。それにあの人に任せていたら絶対に大丈夫。

なんせ、この私が経験済みなんだから。

家族の了承を得ると、あの人はローゼを抱えたまま部屋を出て行った。

去り際に私を見て

「マチルダ、相変わらず綺麗だぞ。またな」

そう言って出て行ったんだ。どうだい?凄い話だろう。私もなんだか胸が熱くなっちまってね。若い頃に戻ったみたいに心が弾んだもんさ。


え?その人が何をしたかって?

そうさねえ、あのあとすぐに神父さんが私に声をかけてきてね、こう言ったのさ。

「あなたが、あの男を呼んだのですか?」

神父さんを改めて見ると、黒い司祭服がところどころ破け、その殆どに白っぽい埃のような汚れがこびり付いていてさ、聖書を掴む右手の小指が、あらぬ方向に曲がってしまっていたんだ。

唇は裂け、眼鏡は片方のグラスが砕け額から頬にかけて幾筋もの傷がついていてね。

きっと凄まじい戦いだったのだろうね。この神父はさんはよく頑張ったのだと思う。

私は思わず神父さんを敬意の念を持って見たもんだよ。

だけどね、やはりこの神父さんでは勝てなかっただろうとも思ったんだ。

「そうです、神父様。実は、私もあの人に助けてもらったことがあるのです。もう50年以上も昔の話ですけどね。そのときは、ユーリ神父様にお世話になりました。ユーリ神父様が先に戦って相手の体力を奪い、最後にあの人が止めを刺したのです。」

ああ、ユーリ神父ってのはね、悪魔祓いでは、知らない者がいないほどの熟練者でさ、イタリア教会のトップ3まで昇り詰めた伝説のエクソシストらしいよ。

「50年。今、あなたは50年とおっしゃったか?あの男はどう見ても・・・」

神父さんはそこまで言うと、私の表情を見て、言葉を呑み込んじまった。

それからしばらくすると、神父さんが部屋の中で起こったことを話してくれてね。



「あの男は、部屋に入ってくるなり、悪魔に向かってラテン語で罵詈雑言とも言うべき言葉を発して、あからさまに娘に憑いていた悪魔を挑発した。悪魔は、最初は無視していたようだが、そのうちに激昂したのだろう、娘から半身を乗り出し凄まじい怒りをあの男にぶつけてきた。それに微塵も怯むことなく、娘から出てきた悪魔を、あの男は一瞬で捕らえた。顔には残忍な笑顔まで浮かべて、いとも簡単にその悪魔を両の手のひらで握りつぶすようにした。私は、あのとき悪魔の微かな泣き声を聞いたような気がする。

あれは、そう、泣き声か助けを乞う声か、間違いなくそのどちらかだと思う。手のひらの中に捕らえた悪魔を見る男の目は、心まで一気に凍らせてしまうように冷酷そのものだった。男はほんの少し迷ったようだったが、今や小さく縮んでしまった悪魔に何かをささやき掛けた。恐らくすぐに何かの約束事が成立したのだろう。男はおもむろに手を開き、悪魔は一瞬で消えた。

悪魔がいなくなると、男は娘に向けて、今度はゆっくりと両手を宙にかざした。

私はそのとき、あらぬことを考えてしまったのだ。この男こそ、主の仮のお姿ではないのかと。しかしそんなことがあろうはずはない。男のあの表情が神のそれであるはずがない。

分かってはいるが、そうとしか考えられない現実が、今目の前に広がっていたのだ。

見るみるうちに娘のどす黒く歪んだ顔に白味と、ほんのりとした赤味が差してきた。娘の表情が徐々に穏やかになってきた。そして、いきなり娘の体が宙に浮かんだと思ったら、男の方にゆっくりと移動し、そのまま男に横抱きにされた。娘は、大きなため息とともに目を覚まし自分を抱いている男を見て微笑んだ。

すべては15,6分の間の出来事であった。40年に亘る神に仕える仕事の中で、こんなことは見たことも聞いたこともない。あるはずがないことであるし、あってはならないことだ。ただ罪も無い娘が、あの男に助けられたのは確かな事実。こればかりは受け入れざるを得ない。」



まあ、そんなことを話してくれたんだよ。

「・・私のときと同じです。」

私がそう応えると、神父さんは弱々しく私に微笑みかけ、その場を離れていったんだ。

なんだろうねえ・・でも、何となく分かったんだよ。虚脱感、敗北感、そして言いようのない重い疲れが体中を覆ってしまったんだろうねえ・・・。

「神父様、悪いことは申しません。あの男のことはお忘れください。神父様に対して大変失礼だとは思いますが、年寄りの戯言だと思って・・・。」

私が憔悴しきった神父さんの背中に向けてそう声を掛けたんだけどね。

神父さんは振り向く気力も、頷く勇気もなかったみたいだねえ。

そのまま黙ってその場を立ち去っちまったよ。


これだけだよ。

そうかい?面白かったかい?

孫娘のローゼの結婚相手?

ああ、勘違いさせちまったね。違うよ、あの人じゃない。

あの人は約束どおり1週間後に元気になったローゼを連れてきてくれたよ。

でもね、ローゼがどうしてもあの人のそばにいたいって言うもんだからさ。

恋しちまったんだねえ・・・。まあ、気持ちはわかったからさ。

私だってあの頃は、あの人に夢中になっちまったもんさ。怖いけど、強くて優しくていい男なんだよねえ、あの人はさ。

私もあの娘の親たちも反対なんか出来やしない。

そうさねえ、三月くらい経った頃かねえ、あの娘が帰ってきたのは。


あの人だったら良かったんだろうけどね・・。ローゼもあの人を忘れるのに結構時間がかかったからさ。

いや、でもやっぱり駄目だね。あの人は一人の女では満足できないんだよ。

まあ、考えようによっちゃあ、酷い男なのかもしれないねえ。

でもさ、あの娘はあの人に命を救われ、しばらくの間だったけど、あの人と一緒にいられて本当に幸せだったんだ。それは間違いないし、あの娘の人生においては輝かしい時間だったんだと思うよ。あの娘もそう言ってたしね。


え、その人の名前?いつもは自分のことをカインと呼んでいるよ。でも、本当の名前は、言えないねえ。こればっかりは墓まで持っていくつもりだからね。

エフ・・・? さあ、知らないねえ。

もういいだろう?さ、帰った帰った。



1.エフ   ワイキキにて


ワイキキビーチまでの道がアラ・モアナ・ブールバードにはいった途端、とてつもなく混みだしてきた。また日本や中国からの観光客が大挙して押し寄せてきているのかもしれない。本当はヒルトンの前辺りが過ごし易いのだが1km程度手前で車を降りることにした。

以前から知り合いのホゼの店の前にアストンマーチンのヴァンキッシュを止めさせてもらう。

ホゼと挨拶を交わし連れのリンダを紹介する。ホゼの好色そうな目が彼女の全身を舐めまわすように見ている。まあ、リンダならしょうがない。たいていの男は、誰もが同じような反応をしてしまうのだ。私は苦笑しながらホゼに、冷えたビールとリンダのために強めのカクテルを頼んだ。

リンダとは4,5日前に知り合ったばかりだ。

そのとき私はノースショアで他の女性とサーフィンを楽しんでいたのだが、同じビーチにいた彼女に一目で引き込まれてしまった。彼女は何人かのグループと一緒だったが、私は我慢できず1時間後には彼女をヴァンキッシュの助手席に乗せてノースショアを後にしていた。私と一緒にいた女性はリンダが一緒だったグループと合流し、その中の男と恋仲になったようだ。なので、心配は無用である。リンダと心置きなく楽しむことにした。

昨夜も10時ころから今朝まで、殆ど寝ずに彼女といたしていたため、少々眠い。

リンダは既に目が虚ろになってきている。


リンダはとても美しい女だ。シャープな顔立ちなのに全体に柔らかな雰囲気がある。顔の全ての部位が理想的な形をしているが、いつも濡れたような唇と魅惑的なグリーンの瞳が、私は特に気に入っている。白い肌が少しだけ焼けて薄いピンク色になっている。

そのピンクと白のコントラストが、より一層彼女の完璧なスタイルを際立たせていた。

私との体の相性も抜群である。全身で私の愛撫を受け入れ、貪欲により深い高みを求める。徐々に体のうねりが大きくなり、絶頂を迎えるときの姿態は私の最も好むところであるし、何と言ってもその時の声がいい。それに、時折り見せる幼げな表情からは想像も出来ないような素晴らしいテクニックも持っている。

これほどの女は、なかなかいない。久々に長く付き合っていけそうである。

そんなことを考えながらリンダの、疲れ果てて殆ど閉じかけた睫を見ていると、ふっとそれが目の端に留まってしまった。

10mほど先を10代半ば頃と思われるブロンドの華奢な少女が歩いている。

その横には母親と思しき肥満気味の女性が少女をいたわるように彼女の肩に軽く手をかけている。

いやなものを見てしまった。すぐに視線を逸らせば良かったのだろうが、少女が余りにもいたいけで母親に向けたもの哀しそうな微笑みが私の目を捉えて離さなかった。

半分眠りかけていたリンダが私の様子に気づいたようで訝しげに、問いたげに私を見ている。とても勘のいい女だ。ますます好ましい。

そのとき、突然母親の方が立ち止まった。こちらからは後ろに無造作に束ねた暗い茶色の髪しか見えていなかったが、ゆっくりこちらを振り向こうとしている。

例によって首だけを180度後ろ向きにねじってこちらを威嚇しようとしているのだろう。私はすぐに母親の首から下を、首の動きと同期させ無理な態勢を取らせないようにした。

ああ、もちろん実際に動いたのではなく、何と言うか思念の力でそうしたのだ。一般には超能力とか観念動力とか言われているあれだ。昔流行った映画ではフォースとも言われていたあれである。ただ、私の場合は、特にはっ、とか、たあっ、とか奇声を発することはないし大げさな仕草をすることもない。もちろん必死の形相になることもしない。ただ、静かに思うだけだ。

話を元に戻そう。完全にこちらを向いた母親の顔が徐々に驚きに覆われていく。

《貴様は誰だ》

古いラテン語で私の頭の中に直接語りかけてくる。現代の英語もフランス語も中国語も全ての人類の言語を話せるはずなのに何故か敢えてラテン語。

以前から一度その理由を聞いてみたかったのだが、今はそのタイミングではなさそうだ。

《人に名前を聞くときは、まず自分から名乗るものだ》

礼儀上、同じ言語で応える。

その途端、母親の目が大きく見開かれて、口の両端がじわじわと広がりながら上に引っ張られるように伸びていく。

私は母親の顔に出来るだけ負担をかけないように、不自然に広がる口元を少しずつ元に戻してやる。と同時に

《ストラスか。喧嘩を売るつもりはないが、その親子は私の知り合いだ。返してもらう》

と、これも出来るだけ穏やかに優しく語りかけるように伝えた。

せっかくリンダという素晴らしい女性とのデートだ。大事にはしたくない。

するとそいつは一瞬のうちに母親から離れ、あろうことかリンダの中に入り込もうとした。3分の1ほど入り込んだそれを力任せに引きずり出し身動きが出来ないようにする。

腹が立った。穏やかに話そうとしている私を無視しあまつさえ攻撃を仕掛けてくるとは。しかもストラスごときが。絞める力が増してくる。

《ま、待て!お前はまさか、ちょ、ちょっと待て、苦しい》

危ない危ない、このまま殺してしまうところだった。少しだけ絞める力を緩める。

そいつは苦し気に自分の首筋をさすりながら私を見た。隙あらば逃げ出そうとしているのだろう。目が忙しく動いている。ここで逃がすと、私に隠れてまたあの親子に憑くはずだ。私は、今度はそいつの首から下を全て身動きが出来ないようにした。するとそいつは私を憎々しげに睨み、言ってはならない言葉を口にした。

《ルシファー様に報告することになるぞ、いいんだな・・・》

面白い、言えるものなら言ってみろ。もう面倒なのでさっさと片付けることにした。

もちろん、あとでひと悶着くらいはあるだろうけど、この口の軽いチンピラ悪魔を放っておく方が余計に面倒なことになりかねない。

だが、さすがに末端とはいえ悪魔である。

私の殺意がすぐにわかったようで

《わ、わかった。あの親子はお前のものだ。俺は手を引く。ただ・・》

《・・・ただ、なんだ》

《いや、この件はバシム様が関与しているんだ。バシム様には報告しておかないと俺がやられる》

バシムか・・・。

うーん、少し面倒なことになるかもな。あいつはまあまあ強い。

それに余り賢いとはいえない。損得勘定がヘタなヤツだし、内輪で処理するとか出来ないような気がする。それにバシムはアモンの直系だからなあ。間違ってアモンとか出てきたら更にこじれてきそうだ。

いやいや悪魔に弱気は絶対に見せられない。

《バシムか。懐かしいな。久しく会っていない。そのうちエフが挨拶に行くと伝えておいてくれ。それとあの親子は昔からの知り合いでな。どちらにしてもいずれ私の出番になっていたと思うぞ。》

ストラスの表情が、驚愕から徐々に緩んで穏やかになってきた。と同時に、目には畏怖と敬意の念がありありと出てきている。ので、まあ多分大丈夫だろう。

《あ。大事なことを聞くのを忘れていた。》

《なんでしょう?》

いつの間にか敬語になっている。いいことだ。エフである私にタメ語で話せるやつなどそうはいないのだから。

《この件には神側はまだ・・?》

《もちろんです。エフ様。彼らは往々にして動きが遅うございますので・・》

《わかった、わかった。それならいい》

かぶせるように言った。

危ない危ない。危うく悪口になるところだった。

こいつらにとっては特に関係ないのだろうけど、私には大変だ。

何かの言質を取られてあとで神側にどんな因縁を吹っ掛けられるか分かったものではない。

私が目でこの場を去るように伝えると、ストラスはへこへこしながらその場を去っていった。

あとはリンダや危うく悪魔にとりつかれる寸前だった親子の記憶を消して、リンダともう1戦、いや3戦くらい交えよう。なんてことを考えながらリンダを見たら、たった今悪魔に憑かれそうになったのにも拘わらず、私を見て意味ありげに笑っている。

「あなた、エフだったんだ」

かなり驚いた。

落ち着け、落ち着け。まずは呆然としている母親とその娘の記憶を消してしまわないと。

頭にこびりついている恐怖と苦痛と悲しみを消去し、幸せとやる気を起こさせるように優しく二人の脳内を刺激してやる。そうすると、ほんの数秒で二人は心からの笑みを取り戻したようで、訳がわからないながらもお互いに手を取り合って、ゆっくりと通りの向こうへ歩いて行った。

さて、次はリンダだ。彼女の方に目を向けるとリンダは少し慌てたように、

「待って。私は人間じゃないの。だからこのままで大丈夫よ。」

「いや、君が誰であれ・・・・え。人間じゃない?」

え。この可愛くて笑顔がとびきり素敵なこの淫乱娘が、人間じゃない?

「ごめんなさい。何から話せばいい?」

リンダは軽く私の手を握って覗き込むように私を見ている。

やっぱり素敵だ。ああ、またすぐにでも抱きたい。でも、それはあとだ。先にリンダの話を聞こう。

私はリンダを見た。

「あのね、話してもいい?」

「・・・もちろん」

彼女はほっとして続ける。

「あなたなら信じてもらえると思うけど、私の先祖はアフロディーテなの。」

アフロディーテ?・・・アフロディーテって、あのギリシャ神話のか・・・。

ギリシャ神話・・・。私はしばらく考えてみた。

彼女は私の目を覗き込むようにじっと見ている。私の目の動きが変わったのだろう。

「あ。なんとなく分かってくれたみたいだね。」

まあ確かに、私が生きている世界は何が起こっても不思議ではない。

「そうか。ギリシャの神々も神の一部だったんだ。」

「うん、それに近いかな。ブッダやアラーとはまたちょっと立ち位置が違うんだけどね。もちろんキリストとも。あの方達からすると亜流というか。歴史もまったく違うしね。」

「確かに。ギリシャの神々は、純粋にギリシャの人々の信仰心だけで作り上げられた神だからね。ちょっと違う、というか、範囲がある程度限定されているが故に、人々との交流も多かったと聞いている。」

「さすがだね、エフさん。そう、私たちギリシャ神は、ギリシャの人々と密接に関わりながら彼らを支配し、彼らの生活そのものにまで深く入り込んでいたの。それに、彼らの怒りや喜びや悲しみや、そして愛までもが神格化されていたのね。そういう意味では、私たちは彼ら人間の生活だけではなく感情をも司る神でもあると言えるかもしれないわね。」

うーん、なるほど・・・なんて感心している場合じゃないな、これは。

やっぱり神側は複雑で分かりにくいし、それにこれ以上は踏み込まない方がいい。

というか、待てよ。この子はアフロディーテの末裔と言っていたな。てことは、私は神の一部と交わってしまったのか。

まずい、それはまずいぞ。過去の1件以来、もう何年も私は神側と悪魔側と、どちらとも深く関わることなく、いわば中立で通してきた。だからこそ余り大きな波風を立てずに自分の好きなことだけをして暮らしていけたのだ、と言っても過言ではない。

あ。もうひとつ大変なことを思い出した。

「あのさ、聞いてもいい?君さ、ピル、飲んでるって言っていたよね。私はそれを信じたし、君の言葉に嘘はなかった。だからこそ避妊はしてないんだけど、えっと、その、あっちの方は大丈夫?」

「あ。それは大丈夫。ピルなんか飲まなくたって自分でコントロールできるから。それに、ついさっきまでは貴方を普通の人間だと思っていたから・・・でも、今になって思うと貴方のを受精しちゃったらどうなっていたんだろう?って。ふふふ。」

いやいや、受精って、ふふふ、って。そんな軽い問題じゃない。

でも、まあいっか。出来てないんだし。

というか、やばい。またこの子としたくなってきた。

彼女の私を見つめる瞳が気のせいかキラキラと輝きだしている。

「あ。うれしい。私の正体が分かっても、反応してくれているんだね。」

ばれている。さすがに愛と性の神の子孫・・いやいや・・いいのかなあ・・。

「私もしたい。今すぐしたい」私の耳元でリンダが囁く。

ああ、もうダメだ。神との距離感については、あとで考えよう。

というわけで私はリンダを連れて、ヒルトンの私専用のスィートに移動することにした。

ちなみに私は、世界中の何処へでも一瞬で移動できる。

以前に3人を連れてイタリアからアメリカまで移動したこともある。その時はさすがに数十秒くらいはかかったような気がするが測ったわけではないので確かなことは分からない。

エフと知られたからには渋滞している道を普通に車で移動することもないし、ホゼにはあとで多めにチップを渡しておけば大丈夫だ。


とにかく、考えるのは事のあと。ただし避妊の調整は抜かりなく。


もう一滴たりとも残っていないくらい出し尽くしたあと、今度は無性に腹が減ってきた。

しまった、今はヒルトンか。私の好きなシェフはここにはいない。

いまさらシェラトンに移動するのもなあ。

考えていると、ぐったりと横になっていたリンダが気だるげに話しかけてきた。

「どうしたの?なにを考えてるの?」

そこで食べたい料理と好きなシェフのことを話すと、

「グラン?ああ、彼なら私も知ってるわ。いいわね、私も彼のスフレを食べたい。あ、彼のテクと味覚だけコピーしてここのシェフにペーストすれば?貴方なら出来るでしょ?」

ちなみにグランと言うのはシェラトン・ニューヨークにいる私が最も好きなシェフの一人で、彼女に言われるまでもなく、彼の記憶細胞と技能は完璧にバックアップが取られている。まあでもこれは、あくまでも、いざと言うときのためのものである。

決して安易に実行するわけにはいかない・・・・いかないけどねえ・・いざ、かあ・・・。

やっぱり女は大胆で狡猾で恥知らずで、とっても素敵だ。


「それはそうと、君はなぜ私のことを知っていたの?」

最高の食事のあと、やっと普通の会話が出来るようになった。

彼女はデザートの皿を名残惜しそうに端に寄せながらテーブルの上で腕を組んだ。

「すごく有名。もちろん神側と悪魔側の間でだけね。人間は、貴方が片っ端から記憶を消しているみたいだし。」

まあ確かにそうだ。私が普通と異なることは、人間にはあまり知られたくないし、知られてろくなことはない。殆どの人間が私の力を利用しようとするだけだからだ。

「でもね」彼女が続ける。

「本当のところは一部の神とか悪魔の近くに仕える上の連中しか知らないんじゃないのかな。私だって、せいぜい普通の人間ではなく、神や悪魔から一目も二目も置かれる存在としてしか認識していないもの。・・・あ、あとアレがすごく上手ってことくらい。」

最後の一言だけで生きていて良かったなあ、と思ってしまう。

彼女に対しては、快感のコントロールは一切行っていない。正に私の本領発揮というところだ。

「ありがとう。でも、君だって最高だったよ。こんなに短時間に何回もってのは、さすがに初めてだよ。」

ふと考えてしまう。相手はまがりなりにも神の血を引く存在である。これまでどおり普通の接し方でいいのだろうか。

今までに憑いている悪魔を追い出した女性と関係を持ったことは何度かある。ただしそれは悪魔が憑いていたというだけで実質はごく普通の人間だった。

悪魔が憑いたあとに私が突く・・・聞かなかったことにしてほしい。

まあ、それはおいといて、彼女の言っていることは多分本当だろう。

これまでに下位の悪魔との接触は何度もあったが上位とは、あとで詳述するが数回・・いや、5,6回だけである。それに神側とも、愛すべきエンジェル達やバチカンの上位クラスの人間、それと一部のお偉方と何度か話したくらいである。本物の神にお会いしたことはない・・いや、大天使も神ということになるのであれば、その限りではないけれど。

それに、これも昔のことになるが、東洋の神の関係者とも危うくぶつかりそうになったことがあった。

そういう意味では、神にしても悪魔にしても、そしてどちらかと言うと悪魔側に近い存在にとっても、私はかなり面倒な立ち位置にいるのかもしれない。

もっともそれは私が望んだことではなく、言わば不可避の事情の賜であり、双方ともに、巻き込まれた感が否めないのではないかとも思う。

まあ、私のことを知る者はあっても、それは一部の神や悪魔に類する存在からの伝聞であり、詳細については未だに誰にも知られていないと思う。

とにかく私は、出来るだけ彼らとは接触したくないのだ。

それなのに、まさかこうやって、末裔とは言え神の一端に属する存在と、いたしてしまうとは・・・。

そう言えば、あの女も普通ではなかったな。

これも宿命なのかねえ・・・。


しばらく話をしているうちに彼女は眠くなってきたようで、ベッドに移るとそのまま寝入ってしまった。

この時間に少し私のことを詳しく書いておくことにしよう。

私の最大の趣味はいい女を抱くこと。

女にとって私は常に最高の見た目でありこの上なくセクシーな声の持ち主にしか見えない。彼女達の脳に直接働きかけて操作しているから当然ではるが。まあ確かに極めてずるい方法ではあるけれど、それが出来るのだからしょうがない。

もちろん、普通に見ても私の容姿はかなり上の方であるのは確かだが、いい女が必ずしもいい男を好きになるとは限らない。その場合はこの力を使わざるを得ない。

言っておくが、こと女に関しては、私は我慢と節度と品性という言葉を完全に排除しているので悪しからず。

考えてみよう。世界中に魅力的な女性がいったい何人くらいいるか。もうひとつ。私の場合は普通と違って時間軸が長い。これは、逆に考えると人間の女性の時間軸は極めて短いということになる。そう、いくら私の方が長いあいだ男でいられても、女性が女性でいられる時間はわずかなのだ。そんな状況でゆったり構えていられる訳がない。時間は何よりも大切なのである。

万能に近い私にも幾つかできないことがある。時間と生命に関することはその最たる事柄である。

たとえばカザフスタンで、若かりし頃の絶世の美を彷彿させるご老齢の女性と出会ったとしても、彼女の美の絶頂期には絶対に出会うことができない。要は昔美しかったであろう彼女を抱くことは出来ないし、昔のままに彼女を若返らせることもできない。

それに絶世の美女と謳われたクレオパトラや楊貴妃を抱きたくても、それもまた叶わぬ夢である。とにかく、時間だけはどうしようもない。

これには正直愕然としてしまった。私の能力なんてたかが知れていると痛感させられたものだ。

まあそれはさておき、とにかく数億人にも及ぶ魅力的な女性達と出来うる限り多くセックスすることが私の趣味というかライフワークだ。大げさに言うと、それこそが、私が存在する意味と言っても過言ではない。

しかし、これ程の壮大な目的を持っているにも拘わらず、どうしても限界というものはある。肉体的には普通の健康な30代の男であるため、1日にこなせる量にはおのずと限界もある。もちろん、いざと言うときには突貫で精子を増産させるという荒業をやってのけることも出来るのだけれど。ただ、そういうことは、毎日はしたくないしあくまでも自然な状態で臨みたい。そうでないと快感が減少する。

あと稀に飛びぬけていい女に出会ってしまうと、他の女性にアプローチしようとする気がしばらくの間失せてしまうときがある。そんな時は少なくとも1年から3年くらいはその女にかかりっきりになってしまうことになる。確かに私の持ち時間は普通と比較すると格段に長い。それでも1年もの間1人の女しか抱けないとなると、これは私にとっては由々しき問題である。一人の女性とは出来るだけ濃く短く、とは思っているが、なかなかそううまくはいかない。結構後を引いたりすることもある。私だって気持ちが大きく動いてしまう時もあるのだ。あくまでもセックスのあとにだが。


そんな、ある意味能天気な毎日を送っている私に対して、たまに神や悪魔がちょっかいをかけてくることがある。というか、故意か否かは別にして否応なく接触せざるを得なくなるときがある。

私は善人が苦しんだり悲しんだりするのを見るのがいやだ。

神と悪魔の小競り合いで、必ずと言っていいほど犠牲になるのは善人である。だから私は出来るだけ彼らを救う。こればかりは対象が男であろうが女であろうが関係ない。神や悪魔との接触を拒んでいる私も、これだけは見逃せないのだ。

人間は理屈で言い表せないものや、暗闇や、言われない暴力や苦痛、或いは血や体液や肉片や骨といった直接的に死に結びつくもの、或いは自分が最も愛するものが死に脅かされることを本能的に恐怖する。

悪魔はその習性を巧みに利用して人間に凄まじい恐怖を与えることができる。人間は、本来は神と一緒にあるべきはずの精神が、神からの救いがないまま底知れない恐怖に脅かされると、確実に壊れてしまう。悪魔は、恐怖と不信で人間をコントロールしようとしているのだ。実に姑息な手段ではあるが、神々に様々な力を封印されている悪魔にしてみるとやむを得ないことなのかもしれない。

ただし、神は悪魔を完全に排除してしまうことはしない。慈悲の心なのか、はたまた何か特殊な関係性があるのか・・・。まあそれはともかく、悪魔に狙われ苦しんでいる人間は、出来るだけ救助するようにしている。その際に、どんな激しい戦いになろうとも、だ。

私は死を恐れない。

何故なら、世界中に私のコピーを作り保管しているから。

もちろんそれ達は、今は単なる肉の塊であり記憶のバックアップ装置に過ぎない。ただし今の私の肉体が、なんらかの理由で破損、破壊された場合、即時に私の精神はそのどれかに移植される。よって、破壊された直前までの記憶を持ったまますぐに別の場所で復活することができる。何といっても普段は生身の人間の姿で暮らしているのである。いつ何処で誰かに襲われ危害を加えられるかわからない。これはどれだけ気を付けていようがどうしようもないことなのである。

だからこそ私は5年近い歳月をかけて私自身のコピーを作り上げた。それも何体も。そして精神のみの瞬間離脱着を何度も練習し習得することができたのだ。


私は一度、死んだことがある。

私が好きだった女に悪魔が乗り移り、眠っている私を銃殺したときだ。

約5000キロ離れた場所で突如目覚めた私は、最初は何が起こったのかわからなかった。慌てて最後に記憶している場所に戻ると、額と胸を撃ちぬかれた私自身の死体に対面させられた。その横で銃を持ったままの女が呆然と立ち竦んでいる。

ふとその女が私を見つけ徐々に目が大きく見開かれ、その奥に人ではない何かの意志が見えた。私はようやく何が起こったかを理解し同時に今まで経験したことのない激しい怒りを感じてしまった。

私はその女が好きだった。人間の言葉で言うところの愛していたのかもしれない。

よりによって私の女に乗り移り、私を殺させる愚行を働くとか、絶対に許せることではない。

女の、人としての心がまだ残っていたかも確認できないまま、女の中に潜んでいた何かを引きずり出した。人に憑いている悪魔を引きずり出したことは何度もあるし、そいつが私に歯向かい返り討ちにしたことも同じく何度もある。

だが、今回はそれとは全く性質が違う。憑いた女に私を殺させたのだ。とにかくそのときの私は怒り狂い女の中の悪魔をずたずたにし、そいつを引きずって悪魔の世界に飛び込み、辺り構わず悪霊や悪魔の僕や下位悪魔達を惨殺してまわった。

驚いたのは悪魔である。時間にして数分だったような気もする。何十体目かで、初めて手応えのある悪魔とぶつかりそいつと戦っているときに間に割って入ってきたのがアモンだった。

そのときの私の心境はというと、悪魔の世界を散々破壊したことで多少怒りが収まりつつあったし、知識でしかあり得なかった大勢の悪魔達と対峙し、対等以上に戦っている自分が逆に少々怖くなってきたこともあったのだと思う。

既に私はアモンの話を聞く体制に入っていた。

アモンは不思議と説得力のある低いよく響く声で私に話しかけてきた。

「おまえが・・・そうなんだな。下の連中から何度か報告が上がってきていた。普通の人間に見えるのに、祈りや聖水なしで人間の体から追い出されたと。消滅させられた者もいると・・・」

アモンが出てくると同時に私が戦っていたやつは速やかに身を引き、ゆっくりと跪いた。

あとから聞いて、それがバシムだとわかった。

「・・・・」私は、警戒しつつ彼の次の言葉を待つことにした。

「お前は神ではない。我々の仲間でもない。数万年この世界に存在している我々が始めて会ったものだ。誰がお前を創ったのだ。」

「・・・創った?さあ、それは私にも分かりかねる。」

「・・・おまえは、何故こんなことをする?」

「・・・出来れば君たちとは、こういう形では接触したくはなかった。だが、君の仲間が私の身内にちょっかいをかけ、挙句に私を殺させたのだ。直接ならまだしも、私の女に憑依して不意打ちを仕掛けたのだ。許せるはずがない。」

「殺させた?おまえは一度死んだのか?それなのに、おまえはここに来て破壊の限りを尽くしているというのか?」

「そうだ。言っておくが、私は死なない。例えここで君たちに殺されてもすぐにまた戻ってきて同じようにこの世界を破壊し尽すことができる。」

上位悪魔はゆっくりと頷きながら数歩私に近づいた。そして私の全身をゆっくり眺めた。

「明らかに人間にしか見えない。実に不思議なことだ。だが、おまえもここまで我々の世界を破壊したのだ。もう十分ではないか。これ以上の争いになると私だけではない、私の上も出てくることになる。今回のことを起したものは、既にお前が殺した。ただ、そのもの個の意志でやったことなのか誰かの指示でやったことなのかは、こちらで調べてみる。わかったらお前にも教えよう。それで良いか。」

「・・・わかった。私もやりすぎた。これで終わりにしよう。私の方でもこの世界で破壊した部分は出来るだけ修復する。」

「ほう。そうか・・・・。しかし、本当に面白い存在だな。」

「いや、忘れてくれ。こちらも忘れるようにする。ただ、もう二度と私や私の身内には手を出さないでくれ。」

「わかった、と言いたいところだが、我々の世界も末端まで完全に統制が取れている訳ではない。何かあったらそこにいるバシムか私、アモンまで前もって言ってくれ。わかったな。」

どのくらいの時間、そこにいただろう。アモンに約束したとおり、岩や溶岩の跡や様々な地形や構造物を悪魔たちと一緒に出来得る限り修復した。私は案外律儀なのだ。

その作業中に多少親しくなった悪魔達もいる。悪魔は元々人の弱みに付け込む狡猾な存在ではあるが、バシムクラスになると押し出しも堂々としているし正面からぶつかってくるような男気もある。うっかりすると悪魔と友達になってしまいそうな気がして、作業が終わりに近づくと早々に元の世界に戻ってきた。

私を殺した女は、悪魔のせいか私がその悪魔を無理やり引きずり出したせいか、精神が壊れてしまっていた。ただ、私の脳には大事な人間の脳の構造が全て入っているし脳細胞やシナプスや各部位の微細な構造もわかっている。

全てを最初から作り上げることはさすがに不可能だが、一部を復元することは十分に時間をかければ出来ないことではない。極めて困難な作業ではあるが。まる二日に亘る作業の末、ほんの部分的に記憶が消えてしまいはしたが、何とか復元に成功した。

もちろん彼女は今も元気で何処かで幸せに暮らしている。

これは後日思ったことだが、私は確かに殺されはしたが事前に周到な準備をしていたので、実質的には被害なし、私の好きだった女もなんとか無事だったので、これも被害なし。

それに比べて悪魔側が蒙った被害は尋常なものではなかったはずだ。なぜ悪魔側はあの程度で私を解放してくれたのだろうと。

私は悪魔側の復讐をしばらく警戒していた。だが、いつまで経ってもその気配はなかった。

しかも、あのアモンから直接連絡があって、今回の主犯格がわかったとのこと。

誰かは言えないが、もう二度と同じ様な形で私を狙うことはない、と。

悪魔が、あの執念深い悪魔がそれだけで済まそうとしたのが、どうも私には腑に落ちなかったのだ。

だが、この疑問への回答は、ある日ラスベガスで会った、人の格好をした小悪魔に教えてもらった。

もちろんむこうは私のことは知らなかったのだが、ひどく酔っ払って意識がもうろうとしながらもこう話してくれた。

「でな、さっきも言ったとおり俺は悪魔というか悪魔の下部組織みたいなものだけどさ、何ヶ月か前に、いわゆる人憑きについて変なお達しがあったんだ。

人憑きって知ってるか?ん?あ、そうそう。悪魔って人に憑くからさ。昔っから人憑きって悪魔の定番みたいなもんでね。結構下位の悪魔達とかも自分の判断で勝手にできてたんだよ。それがさ、たまに抜き打ちみたいに審査が入ったりするようになったんだ。なんでかって?そりゃお前・・・。

いいか、これは極秘中の極秘みたいだからさ、絶対に他言無用だぜ。

うんうん。わかったって。あのな、ふた月かみ月前に、俺達悪魔の世界に殴りこんできた凄いやつがいたみたいなんだ。え?誰かって?そんなの知る訳ねえよ。考えてみろよ。相手は悪魔だぜ、悪魔に対抗できるのは神しかいない。ただ、神は悪魔の本拠地は襲ってこない。じゃあ誰なんだってことだよなあ。それがどうも見た目は人間だったみたいなんだよ。それも考えられないくらい凄まじいパワーを持った獰猛で残酷なやつだったらしい。

あっという間に悪魔の世界の3分の一くらいがぐちゃぐちゃに破壊されてしまったみたいなんだ。途中で上の方が出てこられて何とかそいつの暴挙も納まったらしいけどね。なんでもこっちが最初にそいつの身内かなんかに手を出したらしいけど、なあ、そこまでやられるかって。それに、こう言っちゃあなんだが、悪魔ともあろうものが、そいつに復讐しようともしていない。容易に動けないくらい、そいつのことが怖いってことなんだろうよ・・・ったく・・。」


悪魔が私を怖がっている・・・。

そうか。私は悪魔も恐れる存在になってしまったのか。

その時の感想はと言うと、誇らしいとか達成感とかそんな思考ではなく、逆に大きな不安を持ってしまったことを覚えている。常に恐怖の的であった悪魔が私を恐れている。もちろん、彼らの力はまだ計り知れないし今回はあくまでも不意打ちだったところは否めない。

それでも私自身の底知れないパワーと怖さみたいなものを感じてしまった。

ただ、悪魔側の私に対する対応には、もう一つ大きな裏があったことが後に分かることになる。



私はたまに不安になるときがある。自身が本来持っているであろう好戦性や、暴力性や残虐性が刺激され、一瞬で制御が効かなくなる。そして圧倒的な力で戦いの対象を徹底的に破壊してしまいそうになるのだ。悪魔の世界での出来事、あそこまで破壊的な行動を取ってしまったことは、今ではかろうじて私のそんな性質を抑制する戒めとなっているが、それにも限度があると思っている。加えて、何度も言うようだが、私自身、未だに自分の本当の力を認識していない。実はその恐怖感こそが、私の過度な暴力行為を抑えている原動力になっているのかもしれない。

昔、ニューヨークで、あるエンジェルと会った。彼は、ああ、エンジェルと言っても、おとぎ話にでてくるような背中に羽が生えてその辺を飛び回っている小さな存在ではない、普通に人間の姿をしている、その彼が私に言ったことがある。

「あなたは、本来は悪魔的なのかもしれませんね。でもその闇を抑える理性や、悪魔から弱者を守ろうとする姿勢は、神のご意思と相通じるところもあるように見受けられます。もしかすると、貴方も神の御子なのかもしれません。」

冗談じゃない。私は神とは明確に一線を画している。私はただ、前述したように、罪の無い善良な人間が悪魔によって謂れのない苦しみに合うのを見逃すことができないだけだ。

ただし、同じ種同士で傷つけあい殺しあうのは止むを得ないことだと考えている。その行為がどんなに残虐で悪魔的でも、そこに本物の悪魔の意志が存在しない限り、私は介入することをよしとしない。生物のある種が発生し進化し滅んでいく、その自然の過程には一切関わりを持たないようにしているのだ。

スペイン人によるマヤ人の大量虐殺にしても、ヒトラーやポルポト、あるいはスターリンや毛沢東などの目を覆うほどの残虐な行為も、それらは人間の歴史の中で自然発生的に起こった事象である。人間の理由のない残虐行為にいちいち気を付けて救済の手を差し伸べることは、人間の自然な歴史経過にあやをつけることになる。

まあ、ごく稀に女性絡みで介入することはあるが・・・。話を戻そう。

エンジェル達は常に人間界に存在してきた。だが、殆どの場合、人間達の行動に関与しない。ただ、見守るだけである。私はそんなエンジェル達が嫌いではない。

こちらが求めない限り彼らは接触してこないし、上司である神や神の使徒にも余計なことは話さない。人間達と同じく、私の行動もただ見守るだけである。

私は、たまに気が向くと彼らに話しかけることがある。すると彼らはいつも柔らかな笑顔で私の言葉に耳を傾ける。それに彼らは聞き上手でもある。だからつい余計なことまで話してしまう。

さきほど私に、神の御子と言ったエンジェルも、そんな私の話に答えてくれただけであるが、それ以上の詮索や介入は一切ない。神の使徒であるはずなのに、私に神の側に就けとも、もっと頑張って悪魔退治をしろとも、なんとも言ってこない。なんにせよ、実に不思議な存在であることは確かなようだ。

どうも話があちこちに飛んでしまう、私の悪い癖だ。と言うか、誰に対しても私自身のことをこれだけ詳しく語るのは初めてである。だからこそ話に整然さがないのかもしれない。何もかも話してしまいたいような、話すべきことと話すべきではないことを明確に区分したいような。まあ、そんなに大層なことではないのかもしれないけれど。


そろそろリンダが起きてきそうな気配である。

その前に一度、DC2に連絡を入れてみることにしよう。

ああ、まだ話していなかったようだ。

DC2と言うのは、私の個人的な秘書、のようなものである。何百年もの間、その役割は奇特な人間の志願者に依存してきたが、なんせ彼らは寿命が短い。新しい人間を雇うと、また最初から細かなことを説明する必要がある。どうしたものかと考えている間に、人間界ではコンピューターの技術が目覚しい発展を遂げていた。これを利用しない手はない。神や悪魔と違って私は常に先進的なのだ。失礼。

私は幾つかのアルゴリズムを開発し、当時最先端を誇っていたシリコンバレーの技術者にそれを用いた演算装置とI/Oシステムの試作を依頼した。彼らは狂喜乱舞し、1年間ほぼ研究室に篭りきりで私の依頼に沿ったものを作り上げてくれた。残念ながらコアとなる技術は余りにも先端的に過ぎて、そのまま彼らの脳内に残しておく訳にはいかなかった。

それでも幾つかの画期的な技術は、報酬としてそのまま彼らに提供した。そして私の存在は表に出すことなく、そこから得られた莫大な利益の一部を私が合法的に頂くという形で彼らとは折り合いをつけた。

もとより私は金にはそれほど興味はない。ただ、いつの時代においても人間界では、金は生活するうえではとても重要な要素となっている。それに私の最大の目的である、より多くの女性をくどくためにも絶対に不可欠な要素でもある。私は古来より同様の方法で、女性をくどくための資金を作ってきたのだ。

もちろん、人間の歴史を大きく変えない程度の、或いは数年か十数年先には、現存する物理理論を基礎として必ず生み出されるであろう程度の技術レベル、という大前提は厳守している。

なにか問題でも?

いい女がいると迷うことなく彼女の脳をコントロールしてベッドに連れ込む、彼女と一緒に一流のホテルやレストランに行っても、担当者の脳をコントロールして全て無料にさせる、豪華なプレゼントも全て同じように無料にさせる、そんなことくらいやろうと思えば訳なくやれる。でもそれは間違っている、ということが分かったのだ。女は自分の男が高価な支払いをしている場面を見るのが好きなのである。自分のために男がどれだけ金を惜しまずに使っているかを見るのが好きなのである。そして、女はそんな男に惹かれてしまう性質を持っているのだ。あ、これ、あくまでも私個人の意見ではあるが・・。

それに、いちいち多くの人間の脳をコントロールするのは面倒だということもある。

ついでに言うと、ささいなことから起こる、力ずくの喧嘩でもそうだ。男が女のためにより頑強そうな他の男を、あるいは男達を叩きのめすのを見ることが女は好きなのだ。

ただし、決して思念だけで戦ってはいけない。あくまでも実際の拳で素早く、一発か二発程度で片付けてしまう。時には蹴りを入れてもいい。あくまでも紳士的に余裕を持って一瞬で始末をつける。と言ってもせいぜい気絶させるくらいで十分である。

やり過ぎは返って逆効果であることも分かっているからだ。

ああ、言い忘れていた。先ほどの一瞬という概念だが、人間の目でちゃんと確認できるくらいの一瞬と言う意味だ。

ああ、また脱線してしまった。DC2の話に戻そう。

先ほど説明した技術を駆使して出来上がったのがDC2である。断っておくが、このDC2は地球上の全ての、しかも最先端のAIを合体させても能力的に劣ることはない。

デジタルの世界は等比級数的に進化しているが、それでも恐らく10年、いや20年経っても追いつくことはできないだろうと思う。まあ、そこまでのスペックは全く必要とはしていないのだけれど、つい懲りすぎてしまった。それに、DC2には、物作りの機能も付与している。NASAやペンタゴンに限らず、世界中が喉から手が出そうなくらい渇望するものであることは間違いない。上げないけどね。

携帯からDC2に繋げると、すぐにメールが来た。

幾つかの連絡事項があり、どれも緊急を要するものではなかった。

なかったが、一つ、気になるメールがあった。

《95%の確率で、エフ様の希望SS級の女性を発見。》

ほほお・・・いい仕事するじゃないの、DC2君。ちょっと、いや、かなり気になる。

SS級は、ここ最近なかったのだ。もっとも今はリンダがいるので、すぐには動けないが。取りあえず自分の脳波をDC2と同期し、詳細を確認することにする。

『場所は?』

『ああ、わざわざご連絡頂いて恐縮です、エフ様。それに前回同期して頂いてから、既に29日と14時間5分14秒が経過しております。大変ご無沙汰を致しており申しわけございません。』

『・・・おまえ、それ、わざと言ってるだろ?』

『わざと?とんでもございません、エフ様。私はエフ様とこうやって同期できるだけで幸せでございます。』

ここで、へえ、コンピューターの癖に?とか機械の癖に?とか決して反応してはいけない。彼は無類の話好きなのである。大事な用件を聞くのがどんどん遅くなる。

『とにかく場所を言え』少し高圧的に言う。

『スペインでございます、エフ様』

『ラテン系かあ。それはいいかもなあ・・・』

『で、ございましょう?ですから1分でも早くエフ様にお伝えしようと・・』

『はいはい、そりゃ悪かった。ちょっとストラスと一悶着あってな。』

『なんですと?あのストラスと、それはいったい・・・』

しまった・・余計なことを言ってしまった。流そう。

『いや、それはもう終わったからいいんだ。で、スペインの何処だ』

『しかし、今更ストラスごときがいったい何を・・・失礼しました。スペインのバルセルナでございます』

やばい、リンダの目が覚めたようだ。

『私が彼女を見つけるために必要なデータを全てメールで送っておけ、いいな、もう切るぞ』

同期終了。携帯電話をゆっくりしまう。

「起きてたの?」とリンダが甘ったるい声で聞いてきた。私の太ももを軽く噛むようにしている。

「うん、ちょっと仕事のことでね・・・」私はそう答え、リンダの髪を優しく撫でた。

リンダが今度は同じ場所に何度もキスをしてくる。

私も体制は既に万全である。しばらくこの女とは離れられないかもしれない、と思いつつ彼女を引き寄せて熱いキスをした。



「ねえ」

ワイキキビーチを眺めながら朝食をとっているときに、リンダが上目遣いに聞いてきた。

「うん?」

「スペイン、私も着いて行っていい?」

は?・・え・・・なんで知ってる?聞かれてしまったのか?いや、DC2とはスマホを通して脳波と電気信号との会話だったはずだ。彼女が分かるはずがない。それに私は脳を探られるようなヘマはしない。

「スペインに行くって、言ったっけ?」直接聞いてみた。

「誰かと電話してたでしょ?私も起き抜けだったから、全部は聞いてないけど、スペインって言葉だけははっきり聞こえたよ。」リンダがにこりと笑う。

なるほど。脳波をDC2の内部クロックに同期させた上での会話だったはずだが、長い間の習性で声にも出してしまっていたんだ。私としたことが・・・。

「仕事だよ、仕事で行かないといけないんだ。それに、すぐって訳じゃない。」

「ふうん・・・仕事の割にはなんだか声が弾んでいたような気がしたけど・・・それに、エフの仕事って、なに?」

おお、なるほど。忘れていた。勘のいい女は大いに私の好むところではあるが、こういう難点もあるということだった。

「スペインのバルセロナには久しく会っていない友人がいるんだ。仕事絡みだけど、やっぱり旧友に会うのは楽しみに感じるんじゃないかな。あ、友人というのは、男性だけどね。」

万能の私が嘘を吐く必要など本来はないのだけれど、こと女性に関してだけは別である。

何百年も嘘で誤魔化してきた。まあ、それでも女性はたまに見抜いてしまうものだけれど。それに、長い付き合いの友人がいるのは本当のことだし実際に会いたいとも思っている。

「へえ、エフの友人って、どんな人?すごく興味ある。私も会ってみたい。」

「そう?じゃあ一緒に行くか?それに友人もリンダなら喜んで会うと思うよ。」

「いいの!?嬉しい。」

とリンダは満面の笑みを浮かべた。そしてナイフとフォークを置き、テーブルを回って私の膝の上に乗ってきた。

「私ね、本当に久しぶりに男に夢中になってしまいそう。」

そう言ってリンダは私の首に両手を回し髪にキスをしてきた。

ベッドでの乱れたリンダも綺麗だが、朝日の中で見る彼女もすこぶる綺麗である。

そうか、これがアフロディーテの底力ってやつなのかもしれないなあ。こんなの普通の人間の男だったら瞬殺だろう。まあ、私もほぼそれに近い状態ではあるけれど。

「君は、いい女だな。私も君に夢中になりそうだよ。」

私も彼女を抱きしめながら答えた。

「ふふふ。ありがとう。なりそう、じゃなくて、早くそうなってね、エフ。」

この5日間くらい、もう数え切れないくらいリンダを抱いたのに、全く飽きがこない。

しかし、ちょっと困った。DC2は既にメールでSS級の女の所在を知らせてくれているはずだ。

すぐにでも飛んで行きたい気もするが、さりとて、こんないい女を簡単に手放すわけにもいかない。

そう。こういう時なのだ。時間のコントロールが出来なくて辛い思いをするのは。

何度も試してはみたのだが、悉く失敗に終わった。まったく、何とかならないものだろうか。いや、リンダが普通の女だったら、彼女の今の思いを一定期間だけ閉じ込めてしまい、しばらくの間だけさよならをする。そして数週間後か数ヵ月後に会ったときに、その思いをまた解き放つのだ。そう。気持ちの時間を止めることなら、私には容易に出来てしまう。

ただ、リンダにそれが通じるかどうかは疑問である。まあ、恐らくそんな方法は、アフロディーテの子孫である彼女ならすぐに見抜いてしまいそうな気がする。

まあ、しょうがない。今回はリンダを連れて行こう。それで、彼女が寝ている間に、或いは仕事と称してSSクラスに会いに行く。数時間程度なら可能だろう。よし、決めた。

あと二日間くらい、クルーザーをチャーターして少し太平洋に繰り出そう。そしてリンダと楽しもう。

あ、シェフも誰か見繕って連れて行こう。バルセロナはその後の楽しみだ



2.エフ バルセロナにて 前編


バルセロナの、アグバールタワー付近のビル群の一角に、瀟洒な佇まいの雑貨屋がある。

バルセロナでは最も地価の高い場所であるが、その店は結構な敷地面積を持っていた。

置いてある品はどれも格式があり、雑貨屋というよりは高級アンティーク店といった趣である。

彼女、マニュエラは、オーナーから委託されこの店全体を仕切っていた。従業員もよく教育されており、観光客の他愛のない質問から、歴史についての相当の知識がないと答えることができないような、専門的な質問に至るまで淀みなく対応できていた。

マニュエラは、DC2が、これまでの私の女性遍歴を細かく分析してSS級と判断した女である。

いったい今までどこに隠れていたのだろう、これほどの女は本当に50年ぶりくらいかもしれない。

紺碧の濡れた瞳と褐色がかった肌、そしてダークブロンドの髪。輝くような肌のつやと、締まったウエストと形の良い適度な大きさのバストが男を夢中にさせる。少しハスキーがかった声もいい。

私はバゲスのスイートにリンダを残し、仕事と称して彼女に会いにきた。

一目見て彼女を気に入った私は、まだ客足が少ない午前にさっそく彼女を試してみることにした。リンダを待たせているので余り長時間はいられない。先に抱いてから彼女との恋の駆け引きを楽しむことにする。

店を従業員に任せ、奥の部屋で彼女を抱いた。正直、驚いた。まずキスが上手い。セックスの全ての基本はキスなのだ。これは期待できると思ったが、実際はそれ以上であった。

彼女はリンダを越えるくらい淫蕩で性のプロフェッショナルであった。彼女の持ち物そのものが稀有な機能を持ち合わせていたし、彼女の舌や唇や手や指が、それ自身が意志を持っているような特異な動きをしてくるのだ。

私はそのとき、最高の快楽に身を任せながらも、過去の思い出が湧き上がってくるのを禁じえなかった。


もう50年ほど前になるが、性の女神とか愛の壷と言われたロシアの女を抱いたことがある。

ヴォルガという女だったが、彼女の様々な技には本当に驚きもしたし感動さえ覚えてしまったことを覚えている。

ヴォルガはKGBの正規の職員であり、部内で対スパイ要員として育てられた。

その過程で、彼女の才能と能力を見抜いた幹部が、彼女に性の技を徹底的に叩き込んだのだ。彼女に懐柔され陥落させられた欧米のスパイは数知れない。

彼らの殆どは殺され、彼らの裏切りによって多くの仲間もまた殺された。

いかに任務とは言え、多くの男の生命を奪ってきたのだ。彼女は次第に自分の運命を嫌悪するようになり、ソ連崩壊前に自ら命を絶った。

私は彼女を助けることがどうしても出来なかった。最初はセックスだけが目的で彼女と会っていたが、徐々に私は彼女自身のことを好きになっていった。

彼女の生い立ちや、彼女が常にまとっている深い闇や、逆に時折見せるあどけない仕草が愛おしくなってきたのだ。私は何度も彼女を組織から救い出そうとした。

彼女もそんな私を心から信頼し愛してくれるようになっていた。

だが、組織の命令で人生を或いは生死をも狂わされた男たちの、澱のように積み重なった暗い闇が彼女を少しずつ蝕んでいたのだ。1人のスパイの裏切りによって、その何十倍以上の人の命が左右されてしまう過酷な世界である。

その最前線で彼女は完璧に任務を遂行していた。彼女の存在はKGBの一部の幹部しか知らないことになっていたが、秘密は、しかも男と女が絡む秘密は、必ず暴露されるものだ。彼女は闇を抱えながらも、組織の中では極めて重要なポジションにいた。

それにも係わらず、周囲からは常に貶められ蔑まれていた。

その頃彼女は、崇高な使命感や任務達成による自負や誇りと同時に、言いようのない孤立感や罪悪感や自己否定に苛まされていた。その葛藤の中で、彼女は徐々に壊れていったのだ。

私は彼女の心を何度も覗き込み、彼女の精神を健全な方向にコントロールしようと試みた。しかしながら彼女の苦悩は彼女自身を形成する全てと余りにも深く繋がっていたため、私の力を持ってしてもその試みは不可能だと判断せざるを得なかった。

言うまでもなく、私はより多くの女と関係を持つことを最大の目的としている。

そして、いい女を手にするためには手段を選ばない。だが、人間の歴史を私の行動によって変えてしまうことはできない。

本来の私であれば、KGBであろうがCIAであろうが一瞬で壊滅させ彼女を自由にしていたと思う。

だが、組織が大きければ大きいほど人間の歴史における重要度も役割も大きくなってくる。

それに彼女は既にKGBの、ひいてはソビエト連邦の大きな歴史のうねりの中にしっかりと組み込まれてしまっていた。当時厳然とした権力と統制力を誇っていたKGBから、自然な形で彼女を脱出させることは不可能であったし、KGBの拘束力は彼女の精神の細かなところにまで行き渡っていた。

だからこそ、私は彼女をKGBから無理やりに連れ出すことができなかったのだ。

さすがの私も、こればかりは諦めるしかなかった。

私は年に数度、彼女に会いに行った。そして会う度に壊れていく彼女を目の当たりにすることになった。

彼女と会うとき、もう私は彼女とのセックスを欲しなくなっていた。

ただ、黙って数時間、彼女を抱きしめてあげることしか出来なかった。そして1年後、彼女は死んだ。

私は、彼女のことがあって、余りにも性技に秀でている女性がいると、その生い立ちや心の深い部分を探ってしまう癖ができてしまった。自分自身の意志で、性技を磨く努力をしてきた女であれば取り立てて気にすることはない。単純に心置きなくその女とのセックスを楽しめばいい。だが、ヴォルガのように強制されてそうなってしまった女とは心から楽しめなくなったのだ。

私は往々にして、気にいった女を抱くために、その女の脳をコントロールしてセックスに持ち込むようにする。ただし、それ以上の詮索は出来るだけしないようにしている。そんな詮索はろくな結果を生み出さないからだ。それぞれの女がそれぞれの人生をかかえている。

女が生きてきた人生を知ることは、私に様々な面で影響を与えてしまうことがあるため、そこまで入り込むことを私はよしとしない。

それでも私がマニュエラの心を探ってしまったのは、前述したヴォルガの件があったからだ。

マニュエラの心には、一言では表現できない、確かな闇があった。でもその闇は、恐らく誰かに強要されたものではない。自ら進んで闇を招き寄せているような感じがする。なんだろう、これは。


何度も絶頂を迎えて、ぐったりしたままソファに倒れこんでいたマニュエラが、ようやく一息ついたようで、ゆっくり私の方に顔を向けてきた。

「すごかった。ねえ、こっちにきて。」

彼女が両手を開いて私を迎える。

私はさきほどの疑問を一旦胸に仕舞いこみ、彼女の傍に行き彼女を抱きしめた。

「ねえ、あなたはいったい誰なの?どうして私は今、あなたとこうしているの?」

彼女は私から少し体を離し、私の目を覗き込んでくる。

「魔法をかけたんだ。もし、君が私のことを気に入ったのなら、すぐにセックスしたくなるって。」

マニュエラは楽しそうに笑った。彼女の笑顔はぞくぞくするほど美しかった。

「魔法?催眠術じゃなくて?まあ、どちらでも構わないけど。とにかく、貴方は最高だったわ。」

「君こそ凄かった。いや、本当に凄かった。」

「ありがとう、そんなふうに言ってくれて嬉しい。でも、貴方こそ凄かったわ。こんなの初めてよ。私、初めて一度にこんなにたくさんいっちゃった。」

マニュエラが私の膝に顔をうずめて来た。少しずつ彼女の顔の位置が上に上がってくる。

と同時に彼女の指が、舌が、微かにうねりながら私の太ももを這い上がってくる。

「ああ、もう、こんなに・・・」

ううむ、余計なことは考えずに、もう一度だけこの女と楽しもう。考えるのはあとだ。

それにこの女とは深い付き合いになりそうな予感がする。


時間にして3時間ほどマニュエラと楽しんだ後、彼女の記憶を調整した。私のことは客としては覚えているがセックスしたことは忘れるように上手く調整できたと思う。

それから、リンダが待つバゲスホテルに戻った。

折りよく時計の針は1時を指している。ちょうど良かった。マニュエラと2度楽しんで、まだ10分ほどしか経ってない。先にランチで体力を戻し、その後にリンダを抱こう。

「良かった。もうお腹ぺこぺこ。もう少しカインの帰りが遅かったら先に食べちゃおうかと思ってたのよ。」

ああ、カインというのは私の幾つかある仮の名前の一つである。リンダがこの名前を気に入ったみたいなので、ここバルセロナではカインで行こうと思っている。当然だが、エフという名前は使えない。

「ランチのあとはどうする?たまには観光でもしてみるか?」

すぐにセックスに持ち込むのも芸がないと思い、私はリンダに聞いてみた。それに、せっかくバルセロナまで来たのだ。

リンダの顔中が笑顔になった。神の末裔のくせに、どうしてこの子はこんなに開けっ広げな表情が出来るのだろう。しかもあの時の表情は驚くほど淫猥なのに、である。

それとも、これも女神のなせる業なのか。まあ、とにかく今はそんなリンダが可愛くてしょうがない。

「そうだ。観光のあと、約束どおり今日の夜は私の友人と夕食をともにしよう。いいね?」

「うん、ありがとう。嬉しい。」リンダが私に抱きついてきた。

「カインの、エフの友達ってどんな人なんだろう。すっごい楽しみ。」

「うーん、ちょっと変わってるかな。でも、紳士で優しい男だからね。安心して。」

「わかった。じゃあ、今日の夜は頑張っておめかししちゃう。」

「あはは。それ以上綺麗になってどうするんだ?私の友人まで好きにさせないでくれよ。」

まあ、私の友人なら大丈夫だとは思うけれど、これだけ魅力的な女だ。それにヴィーナスの末裔なのだ。何があっても不思議ではないかもしれない。いずれにしても、今日の夜は思った以上に楽しくなりそうだ。



「久しぶりだね、カイン」

友人が先に私に気付き、声をかけてくれた。

「うん、ガルも元気そうじゃないか。安心したよ。」

ガルことガレット・ベルムードは確かに元気そうに見えた。もっとも見た目は当然ながら前回見たときとは大きく違っていたが。

「今回は、えっと・・・」と私が言いよどむと

「ああ、彼は、最近できた私の友人なんだ。なにせ急だったからね。もちろん彼は快くこの体を貸してくれたよ。」

私の横でリンダが、訝しげに今のやり取りを聞いている。

「こちらはリンダ。私の恋人だ。」

説明は後回しにして、取り敢えず紹介することにした。

「バルセロナにようこそ、リンダ。私はガレット、ガルって呼んでくれたら嬉しい。」

「リンダよ。こちらこそよろしくね、ガル。」

リンダはそれでも、微笑みながらガルを軽く抱きしめ彼の頬にキスをした。

「で、カイン。さっき言ってたこと、説明してもらえる?」

ガルが笑いながら肩をすくめ、私とリンダを交互に見た。

私も笑いながらリンダを見ると、彼女の表情が少しずつ変化してきている。

「そっか・・・・あなた、エンジェルね。」

リンダがガルを見て微笑んだ。

ガルは目を見開き、また私とリンダを何度も交互に見ている。

「カイン、彼女は・・・」

ううむ、説明は食事をしながら、と思っていたが、先に話した方が良さそうだ。

「うん、彼女、実はアフロディーテの末裔なんだ。だから半人間ってところかな。」

私が簡単に説明すると、ガルが目を丸くした。

「アフロディーテの末裔・・・。それは・・。いや、聞いたことはあるが、本当にこうやってお目にかかれるとは。」

ガルが、まじまじとリンダを見ている。が、途中で失礼に気付いたようだ。

「いや、申し訳ない。つい興味深くて貴女を見過ぎてしまったようだ。それにしてもリンダ。

貴女は本当に美しい。アフロディーテ、いやヴィーナスの子孫と聞いても何の不思議も感じないよ。」

「ありがとう、ガル。私も貴方に会えて嬉しい。それに、エンジェルとお話できるなんて初めて。」

ガルが嬉しそうに、リンダを見た。惚れるなよー、ガル。

「そうそう、カイン。君は今、彼女を半人間と言ったがね、それを私たちは、半神と呼ぶんだよ。まあ、君が神という言葉を使いたくないのは理解しているつもりだけどね。」

まあ確かにガルの言うとおりなのだろう。でも同じことだ。

ガルは、またリンダに向き直り尋ねた。

「君は私たちを見たことはないの?その、今みたいに仮の姿でないときのことだけど。」

ガルが興味津々といった体でリンダに問いかけた。

「うーん、見えたり見えなかったり、かな。正直に言うとよく分からないの。以前、ニューヨークにいたときは少しだけ見えていたし、パリに住んでいるときには殆ど見えなかった。」

このままだと、店の外で立ったままお喋りを続けられそうだ。取り敢えず彼らの話を中断して、まずは店に入り席に着こう。私は二人を促し、ウェイターに席まで案内させた。

店の名前は「Un lugar especial」。訳すと、特別な場所、とでも言うのだろう。

落ち着いた雰囲気の店でとびきりの海鮮料理を出してくれるところだ。

まずは、シャンパンで乾杯する。

幾つかの料理を頼んだあと、またヴィーナスとエンジェルの長い自己紹介話が始まらないうちに、先に全体像を説明しておこう。

そう思い、私は話し始めた。

「リンダ。私は普通にエンジェルが見えるんだ。彼らにも私が見えるが、私が普通の人間じゃないことを見抜くことはめったにない。もちろん普通の人間はエンジェルを認識できないのだから、自分たちのことが見えるということだけで普通の範疇からは外れることにはなるのだけどね。彼らと話していくうちに、少しずつ私の立場を理解してくれるようなエンジェルが存在するようになってきたんだ。ごく稀だけどね。」

料理が運ばれてきた。二人に食事を薦めながら、私は話を続けた。

「ニューヨークに昔から知っているエンジェルがいる。ニューヨークに行くと、彼とはたまに言葉を交わす。ただ、彼は名前がないし名前を付けられたり呼ばれたりすることが、あまり好きではない。まあ名前がなくとも話はできるしね。ガルは、そのニューヨークのエンジェルの友人なんだ。」

私も話しながら、シュリンプのカクテルを口に入れた。海老の香ばしい香りが口いっぱいに広がっていく。

相変わらず、いい店だし、いいシェフだ。

「ガルはちょっと変わっていてね。なんと言うか、人間にどんどん近づいてきているというのかな。長い間、人間に寄り添って生きていくうちに、少しずつ人間に同化してきているのかもしれない。それに、そのせいか普通の人間の中で彼のことが見える者が少しずつ出てきているんだ。」

ガルがリンダにウィンクをしながら補足する。

「この体なんだけどね、これ、最近仲良くなった私の友達の体なんだよ。今日はカインがリンダを連れてくるってことが分かっていたし、透明人間じゃ話しにくいだろうと借りてきたんだ。それに、今日のこの店、この店のシュリンプとスズキを一度味わってみたかったのもあるんだけどね。」

「そっか。いつものエンジェルの姿だと料理の味が分からないのね。」とリンダ。

「うん、分からないどころか、食べることさえ出来ないしね・・・。だから本来であれば食に関して興味を持つことなどあり得ない話なんだが・・・。困ったことに、人間に近づきすぎたのか、最近、妙に食に興味が出てきてね・・・。まあ、そんなわけで友人の助けを借りるようになったってわけなんだ。」

しかし、このエビは本当に美味い、と言いながらガルは殆ど平らげてしまった。

そこにスズキのオーブン焼きが来たため、ガルは大喜びでスズキにナイフを刺した。

「あ、すまない。つい、美味しそうでね。それに、この体を提供してくれた友人に、たっぷりと栄養をつけてあげなきゃいけないし。」

そう言って、ガルはスズキを凄いスピードで食べ進めていく。ガルを見ていると、こちらまで食欲がどんどん湧いてくる。新たにロブスターや鱈、そしてアサリのパスタも注文する。ソムリエが薦めてくれたポルトガル産のワインも2本同時に頼んだ。

スズキを食べ終えたガルがナプキンを使いながら、

「リンダ。今度は君の番だよ。君のことをもっと教えてくれ。」

リンダはワイングラスを傾けながら、ガルを見て微笑んだ。

「分かったわ、ガル。でもね、私もそんなに詳しくは知らないの。私の遥か遠くにいたおばあちゃん、アフロディーテがいた時代って、今からだと3000年以上昔の話なのよね。」

リンダは少しだけ黙り込み、遠くを見るように私たちから視線を外した。

「私たち、アフロディーテ、言い難いからもうヴィーナスでいいわよね。そのヴィーナスの末裔は世界中に何百人もいるの。でもその殆どは完全に人間と同化してしまって、自分がヴィーナスの末裔だという事さえ知らないでいる。でもごく稀に、私みたいに産まれてしばらくしてから、自分にヴィーナスの血が流れていることに自然に気が付くことがあるの。自分が神の血を引く、普通の人間とは少し違った存在だってことにね。何故、それがほんの一部にしか起こらないのかは私にも全く分からない。それに、それが分かったからと言って、特に毎日の生活がそれほど変わってくることもないと思う。まさか私はヴィーナスの末裔ですよってみんなに発表する訳にもいかないしね。普通の人間であろうがヴィーナスの血を引いていようが、ごく普通の一生を送るだけの話だし、取り立てて騒いだりすることもないし気にすることもないんだと思う。」

リンダから少しずつ笑みが消えていった。私も彼女からこの話を聞くのは初めてである。

「君は、君以外に、自分をヴィーナスの末裔だと自覚している人と会ったことはあるの?」

ギリシャ神は、数多の神々の中でも特異な存在である。私はヴィーナスだけではなく、オリンポスの神々のそれぞれの行く末も聞いてみたい衝動にかられていた。

「うん。何人かは知っているし、今も連絡を取り合っているわよ。今は携帯って便利なツールがあるからね。昔は簡単ではなかったけど。」

「その人たちは、その、普通の生活を送っているの?なにか人間と特別な関係性を築いていたりはしていないのかな?」

「え?どういう意味?」

「いや、半分とは言え、君たちには確かに神の血が流れている。人間がそんな特異な存在を放っておくはずがない、と思ってね。」

リンダは軽く笑ってこたえた。

「そういうことね。詳しくは言えないけど、新興宗教の神として崇められている人もいるにはいるわ。でも特別な関係性と言われると、そのくらいかも。大金持ちと結婚してなんの不自由もない暮らしをしている人もいるし、あとは芸術家が多いかな。絵画であったり音楽であったり。あと、私みたいにプラプラその日暮らしをしている人もいる。いろいろよ。」

そうか。新興宗教の神は別として、自分を神と自覚していながらも、殆どの人達がやはり人間として普通の生活を送っているのか。彼らにとって、自分が神の血を引く存在であるということは、それほど大きな意味を持たないのかもしれない。その辺は私と似ているのかもしれない。ちょっと違うか。

「リンダは、人の気持ちが読めたりするのかな?それとも他に普通の人間とは違う力があったりするのかな?ひょっとして、私の密かな恋心が読まれていたりして。」

ガルが、考えようによっては無神経な質問をしてきた。相変わらず、好奇心丸出しの表情で。

リンダは一瞬言いよどんだが、ガルのその表情を見て明るい笑顔を浮かべた。

「ねえ、ガル。貴方が私にすごく興味を持ってくれているのは分かってる。そしてその興味には貴方が言った、ささやかな恋心が混じっているのも分かる。でもね、ガル。そんなこと貴方の表情を見てたら、心を読まなくったって誰にでも分かっちゃうわよ。」

ガルが肩をすくめておどけてみせた。今度こそリンダは声をたてて笑った。

「私が他人の気持ちを読めるのは、男女間のそれに限定されているのよ。それも、こちらが意識して読もうとしないと分からないようになっているの。まあそれで助かっているんだけどね。嫌でしょ?相手の本当の気持ちが勝手に分かってしまうって。」

なるほど。確かにその方がいい。もちろん、私にとっても。

リンダがすっと、私の方を見て目を細めた。

そうだった。リンダは、読めない部分を補えるほどの鋭い勘もあった。忘れていた。

慌てて私が言葉を繕おうとすると、彼女はガルへ向き直って話し出した。

「でもガル。貴方は不思議ね。私への思いは、確かに恋に近いものだけど、そこには肉体への欲求がないのね。それは貴方がエンジェルだからなの?」

ガルは表情を変えずに答えた。

「うん、たぶんそうなんだろう。本来エンジェルに性別はないのだけれど、いつの頃からか殆どのエンジェルがどちらかの性を選択するようになってきたんだ。そして私は、疑いようのない男の性を持っている。だから私は、こうやって人間の生身の体を借りていない素のままのときでも、女性に対する興味や好意が、男性に対するそれよりもかなり強くなってきている。でも、人間が言うところのセックスについては全くと言っていいほど分からないんだ。女性を好きになっても、そこにどうやって肉体が絡んでいくのかが理解できないんだ。」

そうか。なるほど。ガルと、いやエンジェルと、ここまで立ち入った話は私もしたことがなかった。

ガルが両手のひらを前にあげて、私たちの返答を制止するようにしながら言葉を継いだ。

「ねえ、リンダ。それにカインも聞いてくれ。今、私が言ったことは全て本当のことだ。でも、やはり人間の体にいると、それは少し違ってくるのかもしれない。」

ガルの言葉を聞いたリンダが真剣な顔をして彼を少しの間凝視した。

「本当だわ。ガル。さっきまで全く感じられなかった私に対する欲望が、今は少しだけ感じられる。でも、貴方はその先が分からないし、欲望を感じられたことで既に満足してしまっている。」

「さすが、ヴィーナス。リンダ、そのとおりだよ。だからリンダもカインも安心していいよ。」

なんだ、この会話。

まるで性に悩むクライアントとセラピストのような会話である。二人とも私には大切な存在ではあるが、彼らの話の方向性がよく見えない。私の大切な友人のエンジェルが、私が今最も気に入っている女性に対して欲望を抱くようになってきている。しかもその女性はヴィーナスであり、彼女はその彼の欲望の変化を敏感に感じ取っている。

ふうむ・・・エンジェルとヴィーナスのセックスねえ・・・。

想像できないし、想像したくはないな。でも、この雰囲気はどうもまずいような気もする。

それに、さきほどからリンダとガルはじっと見詰め合っている。お互いに笑みを浮かべて。

「カイン。私、彼が、ガルが好き。」リンダが私を見ていきなり言ってきた。

「え」と、今度はガルと私が同時に言った。

「カイン、ガル。聞いて、私、ガルさえ良ければ、今日はガルと一緒にいたい。」

ガルと私は顔を見合わせた。そして私は少し努力して嫉妬の感情を作り上げた。いや、これは、ひょっとすると自然な感情なのかもしれないけれど。それはもはや、どうでもいい。

「そうか・・・うん、私は構わないよ、リンダ。また私に会いたくなったら、すぐに連絡をくれ。」

リンダが私を見つめてくる。そしてその目が徐々に濡れてきた。

「嫉妬してくれているんだね、私に。素直に嬉しいわ。大丈夫。私はヴィーナスの末裔なの。今日、ここにいるガルと一緒にいるのは自然の流れなのよ。それに貴方に対する気持ちはほんの少しも変わってない。世界で一番好きなのは貴方なの。分かるわよね。」

確かにそれはわかる。でもヴィーナスって、なんだかやっぱり不思議だ。

ガルは呆然としている。エンジェルの癖に。いや、エンジェルだからこそ、こんな突然で不条理な展開には対応できるすべを持っていないのかもしれないけれど。

「行きましょう、ガル。ごめんなさいね、カイン。悪いけどガルを借りるわね。」

リンダはテーブルを回ってガルの腕を取った。

ガルはリンダに促され椅子から立ち上がりながら、私を見て頼りなげな、情けなそうな顔をした。

エンジェルのこんな表情は見たことがない。ガルには失礼だが、思わず吹き出しそうになってしまう。

やはりヴィーナスの、半人間、いや半身の力は大したものである。

二人で、エントランスに向かって数歩進んだところでリンダが振り返った。

にこっと笑い、私を見てひとこと。

「それから、カイン。マニュエラによろしくね。」

・・・これだからなあ、半神ってのは、性質が悪い。



【インタビュー その3 ニューヨークにて】



しかし何故、東京に住んでいるあんたがわざわざニューヨークまで取材に来たのか、意味が分からんなあ。

それも、あの男についてなんだろう?

あんたのことは少し調べさせてもらったよ。

あんたの姉さん、ヤクザの組長だったそうじゃないか。

なかなか度胸の据わった女だったってな?あんたを救うために一人で敵の事務所に乗り込んだって、日本のヤクザの間じゃ結構有名な話みたいだぞ。

あんたの姉さん、体中にダイナマイトを巻いて乗り込んだらしいな。

いざとなったら、自分やあんた共々向こうのヤクザを道連れに討ち死にしようとしてたって。なんとも肝の据わった女だよな、マジで。

そこに姉さんの事務所の連中が駆け込んできて、敵の事務所の連中を皆殺しにしたって。

すげえ話だよ、ほんと。

だけど、本当は違うんだろう?やったのはあの男なんだろう?

え?なんで知ってるかって?

そりゃ俺だってジャーナリストの端くれだ。調べることにかけちゃ今でも手は抜かねえよ。

だがな、兄さん。もう、ここらで止めときな。

あんたは実際に見たんだよな、あの男を。それに助けられもした。

あの男について知りたいという気持ちは分からんでもないが、な。

でもな、悪いことはいわねえ。もう止めた方がいい。

あの男は恐怖でしかないんだ。


メキシコの麻薬組織、インディゴの話。あんただってジャーナリストだったら聞いたことがあるだろう。

表向きはアメリカのDEAが州兵と共同で駆逐したってなってるけど、俺はな、そのとき偶然だけど現場近くにいたんだ。

DEAが奴等のアジトを襲撃したって言うその日、その時間、俺はいたんだよ、その現場にさ。

インディゴの連中は怖いさ。何をしでかすか分かったもんじゃない。

だからあいつ等のアジトの門のとこだけ撮影してすぐに引き返そうと思ってたんだ。

そしたら急にマシンガンを持った門番みたいな連中が次々と倒れていってな。それも全員、首から上がないんだ。

人間ってのは不思議なもんでな。俺あ、そん時心底ビビっちまってな、足がな、その場から動かなくなっちまったんだ。心では一刻も早くその場を離れなきゃ、遠くに逃げなきゃって思ってるんだぜ。それがな、この俺のバカ足がよ、逆のことをやっちまってな。

門が開いてたから、中に入っちまったんだ。頭ん中はずっと、うるさいくらいに警報が鳴ってるんだけどな。止まれねえんだな、これが。どんどん中に入っていっちまうんだ。

奥に馬鹿でかい邸があってな。そこに行き着くまでにも、あちこちに死体が、首のない死体が転がっていてな。大げさじゃなく、辺りは本当に血の海だったんだ。

それでも俺の足は止まっちゃくれねえ。そのまま邸の中に入ってな。そこで見たんだよ。

天上からさ、こう、逆さまに釣られていたんだ。

十人くらいだったと思うけど、血まみれの死体がさ、ご丁寧に両手を肩から切り落とされた状態でな。

さすがに俺のバカ足もさ、ようやく俺の意志に従ってくれてな。その場から逃げだそうとしたその時、

「よう、バド」

身体の芯が震え上がるような、あの声が聞こえてきたんだ。

負け惜しみじゃねえぞ、俺だって、死んでも不思議じゃないくらいの怖い場面には何度か遭遇したことがあるんだ。

その俺がさ、あの声を聞いた途端、身動き一つ出来なくなったんだ。

「元気そうじゃないか。相変わらずいい鼻をしてるな。」

「・・は、はい。あの・・」

俺が必死で震えを抑えながら聞くと

「なんだ?」

あの男、釣らされた死体の写真を撮っていてな、ファインダーを覗いたまま応えてくれたんだ。

「お、俺も、あの写真撮っていいですか?」

あの男は少し考えるようにしていたが、

「いいぞ。だが、どこかに掲載するようなら、まずはDEAに連絡しろ、いいな」

あの男が言うことは絶対だ。俺は頷いて何枚か写真を撮らせてもらったよ。

そのとき、聞こえたんだ。たぶん、俺に言ったんじゃない。独り言みたいなものだったのかもしれねえ。

「麻薬は嫌いだ。」

でも、気付くとあの男はもういなくなっていた。


どうだ、すげえ話だろ?あの男と何度か接触して、こうやって生きているのは俺くらいのもんだ。それだけは正直、自慢してもいいと思ってる。

写真?そのときの?まあ、出せはしねえよな。その代わりDEAが買い取ってくれたよ、それもびっくりするくらいの値段でな。


え?どうしてあの男が俺のことを知ってるかって?

そうか・・・。そもそも、その話を聞きに来たんだっけか?いや、余計な話をしちまったな。

え?聞けて良かった?

ま、まあ、そう言ってくれるんなら俺も話してよかったってもんさ。こんな話、誰にも言えないし、例え誰かに話をしたって信じちゃくれねえだろうしな。

じゃあ、せっかく日本から来てくれたんだ。話してやるよ。もっとも今の話を聞いたあとじゃ、たいしたことはないのかもしれんが、俺が初めてあの男と会った記念すべき出来事だからな。



「え、本当か!?あのケイトに男?」

呑み込んだビールが、思わず鼻から出そうになるくらい驚いた。

ケイト・ワインスタイン。

誰もが知っているテイラー・ストックフィールドと並ぶ全米を代表する世界的女性シンガーの1人である。10年前の鮮烈なデビューから現在に至るまで、常にトップを走り続け、大げさではなく欧米の女性に影響を与えてきた真のミュージシャンである。

彼女は敬虔なクリスチャンでもあり、一部ではレズビアンではないかとの噂も実しやかに囁かれている。従って、デビュー以来、宗教上の理由なのか、はたまた嗜好の問題なのか、男の噂が出たことがない。それが、なんと、この最低男の、すっぽんトムが男の影を嗅ぎつけたというのか・・・そんなことがあるのだろうか・・。

トムは、ゆっくりバドワイザーを傾けながら、余裕ありげにニヤついている。

「まあな。詳しくは言えないが、たぶん半月かそこらではっきりするんじゃないか。」

「本当に、本当に、あのケイトなのか?」

「もちろんだ。誰かと間違えるとか、そんな初歩的なミスをこの俺様がするわけないだろう。なあ、バド。そこがおまえと俺の大きな違いなんだ。だいたいおまえはな・・・。」

始まった。奢りじゃなければ、すぐにでも席を立ちたいところだが、それ以前にもっとケイトの話を聞きたい。横暴で傲慢で浅薄で狡猾で。乏しいボキャブラリーしかない俺でさえも、トムに対してはあっさりとこれだけの言葉が出てくる。すっぽんトムがまたビールを追加した。俺のビールをチラッと見たが、注文したのは自分の分だけだった。

「苦労したんだぜ。そうさなあ、半年は追いかけたかなあ・・。」

これもいつもの通り、苦労話と銘打った自慢話が、約1時間ほど続く。そのあとにようやく本題が出てくるのだ。いつもなら適当に話を合わせて済ませているのだが、今日はやけに機嫌が良さそうだし、ビールの進み方も早い。これだと、奢りで、いつもの倍くらいは飲ませてもらえそうだ。とにかく、黙って相槌を打つだけでいい。それでケイトの話を聞き出すのだ。うまくいけば、俺も一枚くらいかむ事が出来るかもしれない。

俺は真剣な面持ちを作り、トムの話に耳を傾けた。



あれは本当に偶然だった。トムはそのときのことを思い出しほくそ笑んだ。

ケイトのスタッフの1人の子供が、盗みを働いていたのを見つけた。

10歳かそこらで、いつもなら無視するのだが、そのときはたまたま虫の居所が悪く、子供を捕まえ説教し、親が金を持っていそうなら親のところまで乗り込んでいって多少の金でも毟り取ろうと考えたのだ。

ところがその子の親を調べてみると、とんでもないことが分かった。

この子の親はあのケイト・ワインスタインのスタッフだったんだ。

昔から人の弱みに付け込むのが得意だった。当然、皆からは忌み嫌われたが、そんなことは一向に気にしなかった。これは俺の特技なんだ。その技で相手から金を脅し取ったことも一度や二度じゃない。これは、俺にとっては結構稼げるビジネスなんだ。

だから、パパラッチという商売は、最も俺に合っている。出版社か、本人か、どちらか多く金を出してくれる方に情報を出せばいいのだ。しかも、一度金を払ったヤツは、二度と俺から離れることはできない。もちろん無茶な金額は吹っかけないようにしている。せいぜい、そいつの1週間分の食費くらいを、半年おきくらいに何度も頂くようにしている。そんな奴らを、俺はもう10人以上抱えているのだ。

俺はケイトのスタッフを脅したり宥めたりしながら、ケイトの今後のスケジュールを聞き出した。それが今回のきっかけになったんだ。

まあ、ケイトの場合、単に男が出来ただけの話である。確かに業界的には相当インパクトのある話題ではあるが、長続きはしない。

こういう場合は、一度に多くのメディアに短期勝負で売り込み、価格を吊り上げる。なにせ、あのケイト・ワインスタインである。今まで誰も、異性関係を掴めなかったのである。

レズならレズで全く構わないのだが、確たる証拠を掴むのが難しい。女性同士である。友人関係以上を証明するのはなかなかに骨の折れる仕事なのだ。

「いいか、バド。スクープってのはな、24時間365日眠らないってことが肝心なんだ。もしくはそんな奇特なヤツを何人か捕まえられるか、ってことかもしんねえけどな。そもそも・・・」

携帯が鳴る。なにか進展があったのかもしれない。トムは急いで携帯を掴んだ。

ケイトの別荘に張り込みさせているホルムズからだった。やはりなにかあったに違いない。

「俺だ。どうした。」

「・・・トム・ベンジャミンか」

低くぞっとするような声がした。トムは、一瞬、怯みそうになる気持を奮い立たせ、威厳のある声を何とか作りだした。

「あ、あんたは誰だ?これはホルムズの携帯のはずだ。あいつをどうした。」

「想像しろ。これ以上、私の周りを嗅ぎまわるな。もちろん、ケイトの周りもな。」

それだけ言うと、何か破裂するようなガシャガシャと壊れるような音と共に電話が切れた。

要点だけを淡々と話す男の声は、聞けば聞くほど背筋が凍りつきそうになる。

いや、この程度の脅しには屈しない。ペンは剣よりも強し、だ。もっとも俺のペンはかなり歪んでいるけれど。

恐らくケイトと、ホルムズをどうにかしたヤツは、一緒に本宅に戻ってくるはずだ。

ケイトの明日のスケジュールでは、朝一番に本宅にあるスタジオで次のライブのリハをやることになっている。

こうなったらケイトの別荘までひとっ走りするか。今、ホルムズに逃げられるわけにはいかない。癖はあるが、なかなかに仕事はできるヤツである。腕っぷしも相当に強く助手としては非常に使い勝手が良い。それに正式に雇う前の今なら、安くこき使える。トムは勘定を払い、店を出てケイトの別荘に向かった。ここからだと30分くらいで行ける。トムは一つ大きなゲップをして車に乗り込んだ。

ハイウェイを飛ばして、予定とおり30分ほどでケイトの別荘についた。別荘の後方に深い森があり、州道からそこを10分程歩くと別荘の真横に出る。州道の凹んだ場所にホルムズの車が停めてあった。同じように車をそこに停め徒歩で歩き出した。もちろんセキュリティのための鉄柵があるが、格子状であるため、2階の窓と玄関先が横から見える。もう1か月近くここらをうろうろして調べていた甲斐があって、この別荘の周り地形はほとんど頭に入っている。まとわりつく虫を手で避けながら、ホルムズの待機場所までたどり着いた。

「ホルムズ・・・。おい、どこだ。」

鉄柵の下の一か所、雑草が倒されている場所があった。見ると、コーヒーが入っているのだろうか、黒色のポットが置いてある。あいつはタバコは吸わない。その場所を中心にもう一度辺りを見回してみるが、一向に気配がしてこない。しばらく探してみるが、やはりホルムズの姿は見つからない。

まさか、拉致された、とか。拉致されて殺された、とか。そんなことがあるはずがない。軽く舌打ちをして、もう一度だけ辺りを目を凝らして探してみた。

あった。あいつの靴があった。それも片方だけ。確か先週か先々週に勝ったばかりのビンテージのスニーカーで、薄汚れているのになぜそんなに高いのか驚いたのでよく覚えている。それにホルムズがそれを誇らしげに履いていたのも記憶に新しい。何故、片方だけなのだろう。いや、両方だともっと不気味か・・・。頭の中を、電話で聞いた男の声が響いている。思わず震えがきそうなのをぐっとこらえ、ホルムズの靴を持ち上げ、それがあった場所に思い切り唾を吐いた。なにをビビってるんだ。俺はすっぽんトム。マフィアの男に食らいついたことだってあるんだ。それに比べたらこのくらい・・・。だが、ふと背中に氷のような震えが走った。見られているのかもしれない。誰に?どうやって?わかるはずがない。痩せ我慢をしたところでどうにもならない。ここは取り敢えず逃げよう。

トムは靴を抱え、いまきた道を急いで州道まで戻った。車を停めていた場所まで戻ったが、さっきまであったホルムズの車がない。絶対に見間違いではない。俺はあいつの真横に車を停めたんだ。それなのに、あいつの車だけがない。さきほどの震えが、背中から全身に広がってくる。急いで車に乗り込み、ホルムズの靴を助手席に投げ入れエンジンをかけた。

良かった。ホラー映画なら、ここでエンジンがなかなか架らないことになっている。トムは少しだけ安心して車を出した。そのまま安全運転を強く意識しながらケイトの本宅まで車を走らせていると、途中でパトカーが何台か止まって道を塞いでいた。

「なにか、あったんすかあ?」

「事故です。この先で事故があって、しばらくこの道は走れません。申し訳ありませんが、迂回してもらえませんか。」

別の警官の誘導で違う道に入ろうとしたそのとき、白い煙をもうもうと噴き上げているホルムズの車が見えた。たった今、消火が終わったのかもしれない。よほど火が激しかったのだろう、フロント部が真っ黒に変色して潰れている。運転席のガラスが砕けそこから微かに見える社内も煤だらけのようだ。

慌てて路肩に車を止め、警察官に知り合いだと言うと、その警官は無線で何かを伝えて前の方に連れて行かれた。5mくらいまで近づき、車をもう一度見た。間違いない。ホルムズの車だ。

「えっと、あの車の持ち主を知っているとか・・。」

何台かいるパトカーから1人の男がこちらに近づいて来てトムに聞いた。

交通事故ではないのか。何故こんなところに刑事がいる?

「ええ。私の友人の車だと・・。ホルムズというやつです。ホルムズ・レイド。あの、ホルムズは・・・。」

刑事は手に何かを持っていた。よく見るとホルムズの財布のようだ。

「さっき救急車で運ばれましたが・・・。」それだけ言うと刑事は口を閉じて目を逸らした。

いったい、何があったのだ。刑事の口調からすると、ホルムズは死んだということだ。

どうしよう。この刑事にどこまで話すべきなのだろう。ホルムズの車はケイトの別荘の近くに確かにあった。それは俺がこの目で確認した。だが、ホルムズが死んだこととケイトのことになんらかの関係があるのかは、はっきりとは分からない。それにあの電話の男がどこまで・・・・。そこまで考えたときに、突然、頭の中にあの男の声が響いた。

≪口を閉ざせ。さもなければお前も死ぬ。≫

一瞬で、膝から崩れ落ちた。胃がぎゅっと締め付けられるようで、息も苦しくなってきた。身体中が一気に冷えて少しずつ震えが大きくなってくる。トムはその場に這いつくばって胃の中のものを全て吐いた。刑事が心配そうにトムの背中を摩っている。そのうちに吐くものもなくなり少し落ち着いてきた。

「大丈夫ですか?もし良ければこのまま少しお話を伺えますか?」

刑事が遠慮気味に聞いてきた。ホルムズがどうなったか、もう少し詳しく知る必要がある。

もちろん、ケイトのことも、あの男のことも話さない。あの男は人間ではない。考えたくもないが、恐らく忌まわしい邪悪な存在なのだと思う。ケイトはその存在に篭絡されたということなのだろうか。いずれにしてももう少し情報がほしい。

トムはぐっと堪え、刑事を見て頷いた。

「それで、えっとベンジャミンさん、ホルムズ・レイドさんと友人ということでよろしいんですよね。」

刑事が手帳に何かを書き込みながら聞いてきた。

「友人というか、仕事仲間ですよ。我々、二人ともフリーの記者みたいなことをやってましてね。」

「フリーの記者・・。なるほど。それで、今は何を?」

「え?何を追っているかってことですか?それはちょっと・・・。」

「差し支えない範囲で構いませんから、せめてどんな類のものか、だけでも教えてもらえませんかねえ・・。」

言葉は丁寧だが、刑事特有の瞬きをしない鋭い目つきだ。少しだけ話すか。ある大物ミュージシャン、くらいなら大丈夫だろう。そうでもしなければホルムズについての詳しいことは教えてくれそうもない。

「俺たちは、なんていうかゴシップ専門でね。今はある大物ミュージシャンを張っていたところです。で、ホルムズはいったいどうなったんですか?ついでにいうと、俺は普通の刑事事件や政治関係は記事にしないし興味もありませんから、詳しく教えてくれませんかねえ。あいつの恋人にも報告しないといけないし。」

トムが懇願するように言うとその刑事は、少しだけ考えるような素振りをしたが、

「まあ、いいでしょう。彼は、身体の骨を全て抜かれていました。」

・・・今、なんて言った?・・骨?抜かれた?こいつは何を言ってるんだ?

「ひょっとして、体中の骨を砕かれたってことですか?ひ、ひでえな・・・。」

トムの言葉が終わらないうちに、辺りが一気に冷えてきた。皮膚に張り付くような寒さだけではない、なにか心臓を抉るような冷たさがトムの全身に襲いかかる。

「体中の骨を抜いた、と言っている。すべの骨を、な。」

もうさきほどの刑事の声ではなかった。低く地の底から這い上がってくるような声が刑事の口から聞こえてくる。トムが思わずその声の主を見ると

「小型のトランクに全部治まったぞ。おまえの家に送っておいた。」

間違いない。あの電話の男だ。それにケイトの別荘近くで俺の頭の中に直接話しかけてきた男の声だ。刑事ではない男は笑っていた。目が違う。こいつは人じゃない。

「普段、私は結構優しい。だが、あの馬鹿は私を怒らせた。おまえはどうだ?」

だめだ。こいつは悪魔だ。このままいけば俺も確実に殺される。

「わ、わかった。この件から手を引く。ケイトのことは一切記事にしないし写真も使わない。」

トムが震えながらこたえると、

「それがいい。もし今後、彼女と私の記事や写真が、おまえの契約している出版社以外から出ても、おまえは死ぬ。」

じょ、冗談じゃない。それは、とトムが思わず男に抗議しようとしたが、舌が動かない。

「それと、ホルムズはまだ死んでいない。脳だけ崩れ落ちないように固定してあるからな。トランクの中で地獄の痛みの中で生きている。家に帰ったらおまえが楽にしてやれ。」

男はそれだけ言うと、凍りつくような笑みを浮かべて消えた。

トムは失禁していた。それに全身が小刻みに震えてタバコを取り出すことさえできない。今まで散々、怖い目に会って来た。恐怖という感情は知り尽くしていると思っていた。だが、今まで味わった恐怖は、もはや恐怖とは思えなくなった。

たとえ悪魔でも、そこまでのことをするだろうか。余りにもホルムズが不憫である。今すぐに家に帰って、トランクを開けあいつを殺してやらないといけない。そう思いながらもなかなか動けない。それにトランクに詰め込まれたぐにゃぐにゃのホルムズを想像すると、急に吐き気を催してきたが、さっき全て吐き尽くしてしまっていたので胃液しか出てこない。

胃から食道にかけて熱い液が上がってきてそれを何とか吐き出した。

しばらくしてようやく落ち着いてきたトムは、震える手足をなんとかセーブしながら自分の車に向かって歩き出した。

記者として、さっきの男のことを記事にしたい。歩きながら突如としてトムはそう思った。

どれだけ底辺の腐った俺でも、やっぱり記者根性は完全には死んでなかった。だが、その微かに残る記者魂は、即、俺に死をもたらすやっかいなものだ。

まあ、ごちゃごちゃ考えてもしょうがない。今はとにかく家まで急ごう。そう思うと、不思議なことにあれだけの震えが止まっていることに気付いた。

トムは情けなさそうに少し笑ってクルマのキーをズボンのポケットから取り出した。



俺がそのトムという奴に聞いた話はここまでだ。

実は、あのとき俺もケイトの本宅の方で車で見張っていたんだ。トムの話から、もしかするとその男とケイトが一緒に帰って来るんじゃないかと思ってね。

帰って来たんだよ、それも一緒に。けどな、カメラを向けた瞬間、その男と目が合っちまったんだ。いやあ、あれは怖かった。

俺はすぐにカメラを車の窓から出して、そのまま放り投げた。そのくらいしないと、その男に何をされるか分からなかったからな。

男はケイトの車から降りて、こっちに近づいてきた。マジで小便ちびりそうになったよ。

「ホルムズは気の毒なことをした。トムはこれから。おまえはどうだ?バド。」

情けないことに、俺は何も喋れなかった。ただ、ずっと頷いていたような気がする。

「何かあったら連絡する。その時は俺の指示どおりに記事を書け。」

それだけ言うと、男はケイトの本宅に入っていった。

どういう意味かって?

あんた、分かってて聞いてるんじゃないよな。

そうか、確かにな。日本じゃこっちのニュースはそこまで詳しくは流れないか。

幾つか記事を書いたんだ、あの男に言われてな。

まあ、もうそれはいいじゃねえか。俺もあんまり思い出したくねえんだよ。

トムがどうなったかって?

そりゃ、あんた・・まあ、あんたの想像通りだと思うよ。

こんなところでいいかい?

なんだ、これ・・金?

馬鹿か、あんたは。あの人のことを喋って金を取るとか出来る訳がねえよ。

俺はな、少しでもあの人と接点があった男が珍しかったし、話をしてみてえと考えただけだ。

さあ、もうこれくらいでいいだろう。

いいから、もう帰りな。

あ?名前だと?カインさんだよ、カインさん。

・・・知らねえな。

あんたさ、その名前だけはもう二度と口にしないこった。じゃあな。





3.エフ バルセロナにて 後編


時刻はまだ夜の8時半である。ここスペインではまだ宵の口だ。

しょうがない、もっとゆっくり時間をかけてと思っていたが、マニュエラの店に行ってみるか。店にいなければ探せばいい。

さきほどの店からタクシーに乗ったが、マニュエラの店の1キロくらい手前で降りてしまった。マニュエラやリンダほどではないが、いい女がいたのだ。

二人に比べると少し小柄だし線も細いが、何か普通とは違った強いオーラを発散していた。彼女はバルセロナの通りを颯爽と歩いていたが、早速彼女に近づこうと歩を早めた私は何か様子が違うことに気付いた。

そうか。撮影だ。

彼女に見惚れるあまり見落としてしまうところだった。彼女の後ろと前にカメラを持った男達がいる。

今日はやめておこう。諦めて当初の予定どおりマニュエラの店に行こう、と思った瞬間に、その女がこちらを見た。距離にして10mくらい。ほんの数秒、私と彼女の目があった。

なんだろう、この感覚。

最初からだ。タクシーに乗っているときから感じたこの感覚。

彼女から強烈なサインが送られていたような気がする。

まあ、いい。こんないい女だ。逃してしまう手はない。

咄嗟に私は、彼女の頭の中に私の携帯の番号を刻み付けた。前にいたカメラマンに注意されたのか、彼女はハッとしたように、また前を向いて歩き出そうとしたが、一瞬だけ後ろを振り返ってもう一度私を見た。そして微笑んだ。

誰だろう。東洋系の顔立ちではあったが、欧米系の血も混じっているような気がする。

連れているカメラの数も恐らく関係者であろう人間達の数も多かった。

私は認識していないが、中国か日本の有名な女優なのかもしれない。

この私が思わず引き込まれるほどの妖しい美貌の持ち主であった。

それに、彼女はどうも普通と少し違っている。それが何なのかは分からないが、とにかくタクシーで移動中の私を一瞬で引き付けたのだ。まあそれがスター独特の魅力だと言われると納得してしまいそうになるが。


そうそう、ハリウッドの女優に限らず、様々な国の女優やモデルとも関係したことがある。

彼女達は、どの女性も群を抜いて魅力的だった。さすがに美のエリートである。

それに多くの人間から羨望と憧憬の対象とされるだけのことはある。ただ、彼女達と付き合うのはとても面倒だ。パパラッチの存在も目障りだし、それに何と言っても彼女たちは目立つ。

私自身はというと、衆目の下に顔をさらけ出すことは絶対にない。

以前に、ある女優と私がベッドから起き出し、朝の陽光が差し込む部屋の窓から、眼下に広がる町並みを眺めている写真を雑誌に掲載しようとしたヤツがいた。

それに何かとスキャンダルを撒き散らす世界規模のミュージシャンと、車の中で正に最中だった写真を撮ったヤツもいた。それに・・まあ、言い出すときりがない。

もちろん、それらの写真が大衆の目に触れることはなかったし、彼らが二度とファインダーを覗くこともなかった。

言っておくが、私は彼らに事前に警告はしたのだ。にもかかわらず、彼らは私を無視し、あまつさえ傲慢で攻撃的でさえあった。

特に性質の悪かったパパラッチは、体全体を正確に666分割に刻んで、彼の記事を好んで掲載していた出版社のロビーに666個の箱に詰めて送った。

まあこれは少し悪ふざけが過ぎたようで、後にサビルというアモンの命を受けた小悪魔から軽く小言を言われてしまったが。

ただ、これ以降、カメラマンや一部のマスコミ関係者の間でこのことが噂になったようで、私から警告があった場合、速やかにその記事は没になっているようだ。

ベテランの記者や国際警察の長老達の中には、私という存在に気付いている者もいるようである。

まあ、実際には各国の諜報組織や情報組織、或いは警察組織にも知り合いはいる。

彼らから私のことが漏れる可能性はないが、それとは関係ないところで気付く人間もいるのだろう。私と何等かの形で接触した者が行方不明になってしまうケースが多々あるのだ。

それらを調べているうちに私の存在に行き当たってしまうのだろう。

彼らのうちの一部とは私も興味を持って接触したことがある。彼らは概して深い見識や鋭い洞察力や感性を有しており、一人の人間として尊敬できる存在であった。

いずれ彼らとは酒でも酌み交わしてみたいという思いもあるが、難しいだろう。


そろそろマニュエラの話に戻さないといけない。

私が店に着いたときには、既にシャッターが閉まり照明が消えていた。ただ、店の中2階の部分に小さなオレンジ色の灯りが見える。私は朝に聞いたばかりの彼女の携帯番号を押した。

5度目のコールで彼女が電話口にでた。

「覚えていてくれているかな。今朝、店で会ったカインという者だよ。」

数秒の沈黙のあと、例のハスキーな声が返ってきた。

「ふふ。やっぱり連絡してくれたのね。」

「うん。どうしてももう一度君に会いたくてね。」

マニュエラの魅力的な笑い声が受話器を通して聞こえてくる。

「店の出入り口じゃなくて、右の側面に小さな鉄のドアがあるの。そこで待ってて。すぐに開けるから。」

彼女が言ったとおり、私がそのドアに着いた途端に中から鍵を開ける音がした。

「いらっしゃい。こんなところからごめんなさい。表はシャッターだから開けたり閉めたりするのが面倒なのよ。」

「いや、こっちの方が秘密めいていていい。」

彼女は軽く笑って、私を中に促した。

「なにか、飲むでしょ?」

店の中ほどにあるソファまで私を案内した彼女が聞いてきた。

「悪いね、こんな遅くに。じゃあウィスキーがあれば、それをロックで頼めるかな。」

「ふふふ。悪いなんてちっとも思ってないくせに。じゃあ、私も同じものにしようかな。」

そう言って彼女は二つのグラスを取り出した。静まり返った薄暗い店の中に、氷がグラスにぶつかる音が響く。ウィスキーのロックを両手に持った彼女は、ちょっと迷っていたが私の隣に座ってきた。

そのほうが面倒がなくていい。再開に乾杯して一息つく。

「こんなに遅くまで1人で仕事していたの?それとも君はここに住んでいるのかな?」

彼女は私を見て微笑んだ。

「そんなことの前に、何か言うことがあるでしょう?」

「そう?何を言えばいい?」

「まず、貴方は何者なの?私、貴方とは今日の午前中にお店で話しただけだよね。」

「うん、それでお互い気があって、電話番号を交換して、それから今、こうしている。」

「うーん、どうかなあ。それはちょっと違うような気がする。」

「ほお。どう違うのかな?」

「はっきりとは分からないけど、貴方は普通の人とは違うわ。どこがどうってわけじゃなくて、何かが確実に違うの。」彼女の瞳は艶かしくきらきらと光っていた。そしてその唇は濡れている。

「ははは。そうか。普通とは違うか。何故そう思う?」

「私は貴方と今日始めて会って、ただ話しただけ。それなのに、体のあちこちに貴方の名残があるような気がしてしょうがないの。店のみんなに聞いても、私と貴方が奥の部屋にいたのはほんの10分程度だったって言うし。それ以降は、貴方は今まで何処かに行っていたし。本当に分からないのよ。」

従業員には彼女が店内にずっといたように彼らの記憶をコントロールしていた。

私は黙って話の続きを促した。

「最初は、奥の部屋で無理やり意識を失わせてから、その、私をどうにかしたんじゃないかって。でも、それは違ってた。私と貴方は、ただ、会って話しただけ。でも、何を話したかは全く覚えていないの。そんなことってある?それなのに貴方が店を出て行ってから、私、ずっと貴方のことばかり考えていたし、貴方に会いたいって、そう思っていたのよ。そんなこと、あり得ない。」

「君は、とても綺麗だ。」

「誤魔化さないで。貴方はいったい誰なの?」彼女はグラスを置いて私の膝に手を置いた。

私はその手を優しく掴んでキスをした。

「そのうちに分かるよ。でも、私が誰かってことがそんなに大事なことなの?そうじゃないよね。肝心なのは、私は君が好きで今すぐにでも君を抱きたいって思っていることだと思う。それに君は反対するのかい?」

しばらく私の目を見つめていた彼女は、ふうとため息をついて、諦めたようにソファにもたれかかった。

「どうしてそんなに自信があるの?私が貴方に、貴方のセックスにめろめろになるって、そう思っているの?」

「それは君次第だ。君がそれを確かめようと思わない限り、一生分からない。」

「まったく・・・肝心なことは何にも教えてくれないのね。」

「君は私が好きなのか、嫌いなのか、どっちなんだ?」

彼女は、今度は黙ったまま体を起こし私にそっとキスをしてきた。

「それこそ、わざわざ聞かなくても分かっているくせに。」

彼女がゆっくりと私の首に腕を回してきた。私はそれを合図と理解し、彼女にベッドがある部屋を聞いた。待って、と彼女が私の肩に頬を埋めたまま言った。

「私も貴方に抱いてほしいと思ってる。もうとうに知ってると思うけど。でも、貴方とはちょっと違うけど、私も普通ではないの。それだけはちゃんと伝えておきたいの。」

彼女が言った途端、何か不思議な感覚が私の中に湧き起こってきた。そう午前中に感じたのと同じものだ。あのときは探るのを途中でやめた。でも、今、より深く彼女の中に入っていきそうだ。

「やめないで。ちゃんと最後までやって。」彼女が囁いた。

彼女は、私が彼女の心を探っているのが分かっていた。何故なのかは分からない。

ただ、どちらにしても彼女は普通の人間ではない。私は彼女を抱きしめたまま、より深く彼女に中に入っていった。

そうか。分かったかもしれない。前に一度、これと同じ心象状態を見たことがある。

マニュエラは多重人格者だ。それにサイコパスでもある。

突発的で恒常的な多重性であるのに、それぞれの人格に対する自覚症状もきちんとある、稀なケースだと思う。分かりやすい症状でいうと、いや人名の方がいい。

彼女はジキルとハイドのような二面性を持ち、しかもそれが何の支障もなく相互理解している上で共存しているのだ。同時性多重人格障害と言えるのかもしれない。

「なんとなく分かってくれた?」彼女が私に抱きついたまま苦しげに聞いてきた。

「うん。そのようだ。」私は彼女を抱きしめながら答えた。

「私の中には、いつも天使と悪魔がいるの。誰だってそう、って言うけど、私の場合は違う。私の中にいる悪魔は平気で人を殺してしまう。それなのに、天使の方はそれを止めるでもなく反対するでもなく、ただ黙ってみているの。悪魔を止められるのは、悪魔でも天使でもない、もう1人の私だけ。

だから、私は出来るだけ人目につかないように生きてきた。もう1人の私だけでひっそりと生きてきたの。この店は、ある人がお金を出してくれて4年くらい前に出したの。出来るだけ優秀な人材を雇って、接客は従業員に任せて、私は管理面だけに専任すれば誰とも会わずにいられると思って。人と会わなければ、悪魔も天使も出てこないしね。」

「そうか。」私はそれ以上の言葉が出てこなかった。

「カイン。それでも私を抱きたい?私が怖くない?」

マニュエラの話は興味深く衝撃的ではあったが、エフにとって恐怖の対象とはなりえないし、知らない人間の命など興味もない。

「言っておくが、冗談でも誇張でもなく、この世に私が怖いものはない。たとえ悪魔となった君が束になってかかってきても、私は一瞬でそれを叩き潰すことができる。まあ叩き潰すなんてことはしないけれど。」

マニュエラは更に強く私に抱きついてきた。

「うん。貴方が言うと本当に聞こえてくる。」彼女はそう言いながら少し笑った。

「そんなに強く抱きついてくると・・・ほら。」

やっと彼女は楽しそうに声を上げて笑った。

「ホントだ。すごいことになってる。」

「まさか、このまま私を帰したりはしないよね。」

「どうしようかなあ。」

「こら」

「ふふ。もうここでいいからきて。ベッドにいくまで我慢できない。」

あとで、彼女のことはもう少し詳しく調べてみよう。DC2にも伝えておかないといけない。

そう思いながらも、今は目の前の女にのめりこむだけだ。


店のど真ん中に置いてあるソファで一戦交えたあと、マニュエラの実質的な生活空間である中2階に移動し、2戦目と3戦目に挑んだ。この女は本当に凄い。リンダとマニュエラの二人がいれば、当分は他の女はいらないくらいだ。絶対いらない、とは言い切れないが。

お互いに疲れ果てて心地よい眠りについているとき、突然、何か違和感を覚えた。

時間を確認すると夜中の3時少し前である。襲撃者が好んで行動する時間とも言える。

この私を襲撃するとか、正に笑止だが。横を見るとマニュエラも目を覚ましたようだ。なるほど、彼女も何かを感じたのだろう、彼女の言うところの悪魔サイドの目つきになっている。ギラギラと血を欲しているような険しい目だ。ひょっとすると彼女は相当手強いのかもしれない。

「どうする?私がやってもいいし。君が先に動いてもいいが。」

彼女は凍りつくような素敵な笑みを浮かべて言った。

「先に私がやるわ。何人くらいいるか分かる?」

「うーん、ざっと10人。え、1人の女性に10人?多いな。」

「10人もいるんだ。じゃあ私が3人、貴方が7人でお願いできる?」

「わかった。」

私が答えるのと同時に彼女はベッドを飛び出した。手にはいつの間にか刃渡りが15cmくらいのナイフを持っている。ふうん。このナイフで私も殺されるところだったのかな。まあいい。

とにかく、彼女の働きを見てみよう。彼女のあとについて静かにゆっくりと階段を降りる。

店内に確認できたのは4名。彼女は私を振り返って囁いた。

「ごめんなさい。ここにいる連中、やっぱり貴方がやってくれる?私がやると血で商品が汚れちゃう。」

「そうだな。ここは君の大切な場所だしね。わかった。じゃあ見てていいよ。」

私は少し音を出して彼らの中に移動した。一斉に彼等が襲ってきた。一人ずつ首の骨を折り、同時にテーブルに置いてあったナプキンを口中に詰め込んだ。首の骨を折ると、少量ではあるが吐血する。マニュエラの大切な店を少しでも血で汚してしまうことは私の本意ではない。そして先ほど私が入ってきた鉄のドアから殺した4人を外に放り出した。残りの6人のうち、3人は屋上にいる。

あとの3人は・・・マニュエラがいない。

ああ、やっぱり。さっきまで私たちが楽しんでいた中2階からくぐもった悲鳴が聞こえてきた。あの部屋は汚れてもいいのか?血まみれの部屋ではあまりセックスはしたくないなあ、なんて思ったが、今はそんな場合じゃない。私はすぐに屋上に移動し残りの3人を絞め殺した。そして先ほど外に出した4人と一緒に死体処理場に転移させた。

私はある場所に死体処理場を持っている。そこには数千度で全てを溶融する設備があり死体は全てそこに送り込んでいるのだ。

しかしこれは・・・うーん・・・ちょっとまずい事になったかもしれない。

そう思いながら中2階に戻ると、予想どおり部屋中が血まみれだった。そしてマニュエラは、彼らの返り血を浴びてベッドに倒れこんでいた。

彼女の様子を調べた。さすがに3人を相手にしたのだ、傷は10箇所以上に及んでいた。ただ、どれも致命傷にはなっていない。むしろかすり傷である。私は安心し、改めて部屋中を見回した。

思わずため息が出てしまった。

まあ、しょうがない。血まみれで息絶えている3人を先ほどの7人と同じように処理場に送りこんだ後、ざっと、床いっぱいに広がった血を片付け、壁面や天井にまで飛び散った血痕を拭い去った。辺りには未だに生臭い血の匂いが漂っているが、まあこのくらいならしょうがない。

それにしてもこの女、3人とも喉を一突きで確実に殺している。何処で訓練を受けたのか、或いは彼女の中の悪魔性が自ずとそうさせたのか。どちらにしても、とても興味深い。

ただ、まずいことになったのは事実だ。

死んだ10人は、全員、バチカンの手の者だった。バチカンにもこういう闇の仕事を請け負う部隊がある。もう何百年も前から存在している連中だ。しかし、何故、彼等がマニュエラを襲うのか?それも10人の部隊である。生け捕りするにしろ殺すにしろ、彼女の力を十分に知った上での布陣だ。

彼女とバチカンとの関係も調べないといけない。

携帯を取り出しDC2につなぎ、すぐに同期する。

こちらが話しかける前にDC2が慌てたように話し出した。本当に機械らしくない。

『エフ様、どうされました!?エフ様がさきほど処理場に送り込んだ10名ですが、いずれもバチカンの者達ですよ。』

さすがにDC2だ。もう調べている。

『うん。知らなかったんだ。先日お前が調べてくれたSS級の女と一緒のところを襲われた。』

『え!?そ、それは大変失礼致しました。すぐに彼女の素性を調べてみます。』

『先に調べてみたんだろう?そのときは分からなかったのか?』

『はい。申し訳ございません。さすがにバチカンのデータベースまでは・・・』

ううむ、それはそうだろう。1人の女の素性を調査するために、わざわざそこまで調べることはしない。

『バチカンのデータベースに入り込むことは可能なんだな?』

『もちろんでございます。エフ様、既にアクセス中です。このまま30秒ほどお待ちください。』

『わかった。このまま待っている。』

30秒もかからずにDC2が回答してきた。

『わかりました、エフ様。彼女はバチカンのA級調査対象者になっています。』

『A級だと?何故だ?彼女は普通の人間の女ではないのか?』

『バチカン関係者を6人、教会関係者を2人殺害しています。』

・・・なるほど・・・いや、言葉がでてこない。これは思ったよりも大事になってきた。

『DC2、至急リンダやマニュエラを匿う施設を用意してくれ。バチカンの奴らは動きが早い。』

『わかりました。移送手段は必要ありませんね。それであれば・・・もう2部屋用意できました』

『これから先にマニュエラをそこに送り込む。そのあと、すぐにリンダも違う部屋に送る。』

『承知いたしました。ほかに私がやるべきことはございますか?』

『今はない。またあとで連絡する。』

『もう一つだけお知らせしておきます。エフ様』

『なんだ?』

『処理場に送られた死体を調べてみたのですが・・・』

『死体を?』

『彼等全員にバイタルメータとGPSが装着されていました。』

・・・なるほど・・・さすがバチカン、と言うべきか・・・。

『わかった。ありがとうDC2』

『とんでもございません。ではまたのちほど』

GPSは当然としてもバイタルメータまでとは。彼等の脈拍や心拍数や、ことによるとアドレナリンの分泌状況までもが分かるものかもしれない。余りにも一瞬で殺し過ぎた。敵に(今回の場合は私であるが)遭遇すると一気に心拍数が上がりアドレナリンの放出が加速される。それによって、敵との遭遇のタイミングが分かる。そしてそこから全てのデータが消えるまでの時間で、相手がどの程度の殺しの技能を持っているかがわかる。これは、この装置を装着された人間が、仮に敵に捕獲された場合も、その捕獲が拷問などの苦痛を伴った場合も、バイタルメーターから送信されるデータの分析によって分かるような仕組みになっている。正にやっかいな代物なのだ。

恐らく私が店内にいた4人に遭遇し全員を殺し終えるまで、5秒もかかっていないのではないか。しかもその4人は人間界では一流のプロである。その殺人に要した時間によって殺人者の候補が数人に絞られてしまうのだ。恐らく、すぐにでも殺人者が私であることが判明するのではないか。

まあ考えてもしょうがない。取り敢えず先にリンダを見つけて匿わなければならない。恐らくガルと一緒だろうが、彼は大丈夫だろう。

横でベッドに倒れこんでいるマニュエラをDC2が指定した場所に送り込み、次にリンダの脳波を探った。おかしい。同じバルセロナにいるはずなのに彼女を感じることができない。

そのとき、ガルから連絡が入った。急いで会話ボタンを押した。


「ガル!どうした?なにかあったのか?リンダは?」

『落ち着けカイン。リンダは私の方で匿った。たった今、バチカンに大きな動きがあった。それにエフ、何故か君の名前が出てきている。いったい何があったんだ、エフ。』

「リンダは安全なんだな、ガル」

『それは大丈夫だ。私が保証する。分かっていると思うが、私が保証するという事は全てのエンジェル達が保証するという事だ。』

「そうだな。わかった、ありがとうガル。」

『かまわない。そうだ。この携帯はしかるべき手段でロンダリングされているが、念には念を入れた方がいい。悪いがDC2に私用の携帯を用意してもらえないか?』

「そうだな、その方がいいかもしれない。だが今ガルが今使っている携帯で大丈夫だ。そのまま電源を切らずに、そうだな、5,6分くらい待っていてくれ。DC2に言って、遠隔操作でそっちのSIMとROMの中身を全て書き換えてもらう。」

『わかった、またあとで』

ガルと会話が終わるとすぐにDC2に連絡をして先ほどの件を伝えた。

5分後、再度ガルから電話があった。

『今、何処にいる?』ガルが聞いてきた。

「まだバルセロナだ。」

『エフ、なにがあったんだ?』

「バチカンの関係者を殺した。」

『・・・・・』受話器の向こうでガルが息をのんだ。

「マニュエラという女と一緒にいたんだが、そこにバチカンの闇の舞台が襲ってきた。」

『え・・・・』

「彼女、マニュエラは過去にバチカンの人間を殺したんだ。それも6人も。」

『・・・』

「バチカンは、彼女をA級調対に設定している。それで彼女を捕縛するか殺すかの目的で闇の部隊を送り込んだ。」

『・・・まさか・・』

「折悪く私もその場所にいた。」

『・・・それで全員返り討ちか・・・何人だ?』

「10人」

『・・エフ』

「なんだ?分かりきったことは言うなよ。」

『・・そうだな。確かにそうだ。分かった・・・これからどうするつもりだ?』

「ちょっと迷っているが、こうなったらバチカンに直接行った方がいいかもしれない。」

『え。バチカンに?君1人で行くのか?』

「そうだ。前に一度会った首席枢機卿に会ってみようかと思っている。」

『・・・エフ。』

「なんだ?」

『前に一度会った、と言ったが何年前の話だ?』

そうか・・。もう30年、いや40年くらい前だったかもしれない。そうか、全てが様変わりしているのか・・・。

「エフの話は司教枢機卿以上じゃないと知らないはずだ。それに、しばらく名前を聞かなかったので現在のメンバーは半信半疑と言うところだと思う。突然行っても会えるかどうかは分からない。」

「いや、会おうと思えば会える。ただ、ガルが言ったように、彼らが私の事を信じるかは分からない。」

『そうだな・・・でもそうか・・他に方法がなければそうするしかないのかもな。』

「うん。私も今はそれしか思いつかない。」

『・・・分かった。そういうことなら私も付き合おう。』

「いや、ガルは止めておいた方がいい。ただでさえエンジェル達とバチカンは折り合いが悪いと聞いている。」

『大丈夫だ。それはあくまで噂に過ぎない。我々はそこそこうまくやっている。』

「・・・そうか。ならば悪いが付き合ってくれるか?」

『わかった。バチカンには私の方から伝えておく。そうだな、4時間後に正門前でいいか?』

「わかった。」

『あ、それから勘違いしないで欲しいのだが・・・』

「うん?」

『今回、私が君に付き合うのは、君のためではない。バチカンのためだ。分かっているな?』

「・・うん、ああ、分かっている。」

「よし、じゃあ4時間後に」

ガルが電話を切った。さすがに長い付き合いだ。私の性格を熟知している。

万が一、あくまでも万が一であるが、バチカンとの話し合いが不毛に終わったり、最悪の場合バチカンと敵対してしまった場合のため、という事だ。私と神との戦いを全力で防ぐためだ。

神との戦い・・・。恐らく、神と全面的な戦いになれば、私は負けるだろう。

だがその時でも、少なくとも私は神の世界の半分以上を確実に壊滅させると思う。その場合どうなるか?間違いなく神に代わって悪魔が台頭してくる。

・・・そうか・・・まさか・・・。

何処かに不合理な点はなかったか?私がマニュエラを知り、闇の部隊を片付けるまでの過程で、何処か違和感や矛盾点はなかったか?

分からない。いずれにしても、その事は視野に入れておく必要がある。

とにかく、少し休んだらバチカンに飛ぼう。

その前にもう一度DC2に連絡を入れることにした。

『エフ様、勝手ながらガル様との会話を聞かせて頂きました。』

『うん、かまわない。これからしばらくは私の全ての会話を聞いておいてくれ。』

『ありがとうございます。バチカンに行かれるのですね。私も今はそれが一番の策だと考えます』

『うん。今はもうそれしか思いつかないしな。』

『ちょっと今回の事を私なりに整理してみたのですが・・・お話しても宜しいですか?』

『もちろんだ。話してみてくれ』

『エフ様は、悪魔側の関与はお考えになりませんでしたか?』

『さすがだな、うん、確かに考えた』

『それで、いかがでございますか?』

『そうだな、可能性はあると思う。ただ、確証がないんだ。』

『仰るとおりです、エフ様。私もそのように考えております。まず今回のことに関して、全てはマニュエラ嬢から始まっています。では何故彼女のような特殊な存在が我々の知るところになったのか。彼女はその経歴故に余り人目に触れないように生活してきました。

彼女自身、恐らく闇の部隊が彼女を狙っていたのも感じていたのだろうと思います。

だからこそ、エフ様にとってSS級の女性にもかかわらず、なかなか見つけ出すことが出来なかったのです。次に彼女のような存在が、以前にエフ様が悪魔側と揉めた・・エフ様が悪魔の世界に乗り込んだあと、すぐに見つかったのであれば、何らかの意図が考えられますが、あれから既に60年近くが経っています。よって悪魔側がエフ様への報復の手段として彼女を利用することは考えにくい。それに私が秘密裏に飛ばしている多くの監視衛星があったからこそ彼女を発見出来たことも事実です。従いまして、彼女とエフ様が巡り合ったことに関して、そこには何らかの作為や意図は認められないように思われます。それに彼女の悪魔性の問題もあります。エフ様が彼女に悪魔そのものの意志を感じられなかったと言うことは、少なくとも悪魔が彼女に直接にしろ、間接にしろ関与していることは考え難いと考えます。しかしながら、たまたま彼女がエフ様と一緒のときに闇の部隊が襲ってきた、と言う事実をどう捉えるか。これを単なる偶然として片付けても良いものかは多少の疑問が残ります。』

『それとな、DC2。』

『何か問題でも?』

『昨日から今日にかけての事なんだが・・・』

『はい?』

『本当なら彼女の所には昨日ではなく今日行く予定だったんだ。』

『え・・・』

『ちょっとした行き違いがあってな。急遽昨日になった。本当なら、彼女1人の所に彼らが襲撃をかけ、そうなった場合は恐らく彼女は殺されていた。いくら彼女が強くとも、さすがに10人の相手は不可能だ。』

『なるほど・・・彼らが最初から彼女だけを狙って襲ってきたのであれば、エフ様に遭遇してしまったのはとんでもなく不運だった、ということですね。』

『・・・彼女だけを狙っていたとしたら、か・・・なるほど・・・』

『それもやはり考えておくべきかと・・・』

『わかった。私も考えてみる。』

『はい、お願い致します。私ももう一度分析してみます』

『うん、そうしてくれ。また連絡する』

『火急の連絡の場合、エフ様の脳に直接入りますが許可頂けますか?』

『わかった。今は緊急時だ。自由にやってくれ』

『ありがとうございます。それではまた』


偶然なのだろうか。私がマニュエラの部屋に行ったときに、たまたま彼等がやってきた。

そんな偶然が本当にあるのだろうか。仮に私ではなく他の男がいたとしても、マニュエラもその彼も間違いなく殺されていた。何故、たまたま私がいる時だったのだろう。やはり、どう考えても、これはおかしい。では彼等はどうやって私が彼女の部屋にいることを知っていたのか。いや、もしかすると、闇の部隊は私が彼女の部屋にいることは知らなかったのかもしれない。何かの意志に誘導され、たまたまその日に彼女の居場所が判明したか、或いは以前から彼女を襲撃する予定を立てており、その襲撃する日が、たまたま私がいる時になってしまった。

・・・もしくは急遽変更された・・・。

言うまでもなく彼等、闇の部隊はバチカンの指示で動いている。バチカンで彼等を直接に指示しているのは誰だ?そしてその人物は何故この日を選んで彼等を動かしたのか?

あり得ないことではあるが、万が一、その指示者が彼女の殺害とは別に異なる意図を持っていたとしたら・・この件に最初から私を巻き込む計画だったとしたら。

考え過ぎか・・・。そもそも彼女は何故、バチカンの人間や教会の人間ばかり8人も殺したのだろう?いったい、その動機は?

分からないことが多過ぎる。マニュエラにも聞きたいことは山ほどある。

バチカンでの待合せまであと3時間強。私ならあそこまで10分もあれば移動できる。

余りやりたくなかったが、こうなったらマニュエラの記憶を探ることが最も優先されるべきだと思えてきた。

幸いにも彼女はまだ意識を失ったままだ。今のうちなら時間も彼女への負担もかからない。

私は急いでマニュエラの元へ飛んだ。



3.エフ バチカンにて 前編


ぐっすり寝ていたマニュエラの脳を探った後、バチカンの正門前でガルと合流した。

ガルの近くには数人の司教がいた。ガルに事前に説明を受けていたのかもしれない、彼等はとても紳士的で慇懃だった。彼等と一緒に大聖堂の中に入った。どうやら多くの枢機卿を飛ばしていきなり首席枢機卿と会えるようだ。

彼らに案内され、私とガルは首席枢機卿が待つ執務室へ向かった。

新しい首席枢機卿は若かった。恐らく50歳にはなっていない。この若さで首席枢機卿である。ずば抜けた優秀な頭脳を持っているのだろうし、かなりの人脈と強運の持ち主でもあるのだろう。

首席枢機卿との会談は、私と彼の2人だけで行われることなった。ただし、ガルは神側と私との仲介役ということで同席を許された。

「貴方が、あのエフ殿なのですね。」

首席枢機卿の第一声だった。私は一目で、この首席枢機卿が気に入った。

「はい。お見知りおき、ありがとうございます。首席枢機卿。」

私が答えると、彼は微笑みを浮かべて続けた。

「前の前の、私と同位であったパウウェル枢機卿から貴方のことはお聞きしております。」

そうか。前の、ではなく、前の前になるのか、私がお会いしたのは。

「大変ご無沙汰をしており恐縮です。パウウェル枢機卿がお亡くなりになった由、残念に存じます。」

「ありがとうございます。私は、トランベールと申します。こちらこそお見知りおきください、エフ殿。」

私は慣例に従い、彼の前にひざまずき彼の差し出した手にキスをした。

相手はバチカンの首席枢機卿である。それに私は以外と礼儀正しい。

「エフ殿、座って話しましょう。エンジェル殿もどうぞお座りください。」

私とガルは枢機卿に促されて執務室のソファに座った。

「パウウェル枢機卿から、エフ殿には嘘偽りのない真実だけをお話するように言われておりました。従いまして、これから私がお話することは全て真実です。それに、バチカンの恥ずべき部分も全てお話いたします。」

トランベール枢機卿は、それだけ言うと一旦言葉を切った。そしてエフの目を凝視してきた。

「トランベール卿、それには及びません。バチカンの一部の部隊が拉致もしくは殺害を目論んだマニュエラという女性は、現在私の方で保護しております。それに、彼女から大体のところは聞いております。」

トランベール卿は、しばらくの沈黙の後、苦しそうに話し出した。

「彼女の、心を読んだのですね。教会の恥ずべき部分を貴方は既に知ってしまったのですね、エフ殿。」

「私のような無頼の者が言うべきことではないのかもしれませんが、いつの世も信仰心が正しき道のみを選択するとは限りません。大切なのは、トランベール卿のように間違いをお認めになり是正されていこうという気概をお持ちになるということだと思います。」

私の横でガルが少し驚いたように卿と私を見ている。


マニュエラは、幼少の頃から闇の部隊のメンバーとして秘密裏に育てられた。

部隊の指導者は、彼女のサイコパスとしての能力を早くから見抜き、殺人のための実技を徹底的に教え込んだ。そして彼女は部隊始まって以来、最高の女性アサシンとして期待されるようにまでなった。

しかし、彼女は単なる殺人者としては余りにも美しすぎた。10代の、殺人の技だけには秀でているが、それ以外に関しては世間知らずで無垢であった彼女を、バチカンに所属する男達が蹂躙し利用した。

生まれたときより神と神に仕える人間だけを信じてきた彼女は、疑うことなく体を開き彼らの欲望を受け入れるようになった。

あるとき彼女は上からの指示で、とある場所にある、とある教会に出向いた。

そこで彼女は二人の神父を殺害した。

その二人は、泣き叫ぶ幼児や少年を次々と何年もの間、犯し続けていたのだ。

二人はマニュエラが聖堂に到着すると、そのまま二階にある一室に連れて行った。

そこには手と足を縛られ、猿ぐつわをされた4人の少年がいた。二人は彼女に着ている服を全て脱ぐように言い、次いで順に二人の性器を愛撫するように言った。マニュエラの手によって膨張したものを、二人はこれ見よがしに少年達の方に向けた。少年達はそれを見て一斉に叫びだしたが、声は猿ぐつわに邪魔され余人に聞こえるほどの音にはならなかった。

泣き叫ぶ少年たちを見て、マニュエラの中で何かが生まれた。そしてその何かは彼女に問いかけた。

「あいつらの所業を見ろ。あいつらは断じて神の使いなどではない。神に唾する許されざるべき者たちだ。お前は黙って見ているつもりなのか?おまえが幼き頃より神のために人を殺める技を習得してきたのは、こういうときのためではないのか。」

マニュエラは自分の中に生まれた何者かの声に従い、素早く彼らに飛び掛り彼らの首の骨を折った。

一瞬であった。それでもまだ声は続いた。

「こいつらだけではない。お前にここに行くように言ったやつらは?彼らはこの化け物の二人を殺すように指示したのか?否。彼らはこの二人の要望に答えてお前を道具として送り込んだだけなのだ。今までお前の体を弄んできたやつらも同類だ。全員、殺してしまえ。」

そのとき、マニュエラの心の中は喜びで満たされた。神を恐れず神に反するものを、この手で殺せるのだ。神に仕えるふりをして、その実、非道な行いをしている奴らを、私が根こそぎ殺してやる。

マニュエラの中で生まれた悪魔は神だけを信じ、神に抗うものには容赦のない制裁を下す特殊な人格であった。そして、それは殺すことを心の底から楽しんでいた。

4人の少年達の縄を解き、服を着て、マニュエラはバチカンに戻った。

その日のうちに彼女は2人の司教とその使いである4人を殺害した。彼女の逃亡は、彼女が幼い頃からその才能を認め長きに亘って指導にあたってきた闇の部隊の長が手助けをした。以前から彼は、バチカンの一部の司教達が彼女を翻弄していたことに強い嫌悪と憎悪を持っていたのだ。バルセロナの雑貨屋も彼が知り合いに頼んで用意してもらったようだ。


「まず、教会が彼女を、マニュエラを、調査対象から外して下さることを希望します。」

沈黙を破るように私はトランベール卿に言った。

「貴方は、今回のことのカラクリをどの程度までご存知なのですか?」

卿は私の要望には答えずに、私に聞いてきた。

「詳しくは分かりません。ただ、想像するに、彼ら、マニュエラや私を襲ってきた闇の部隊の10人は、恐らく私がいたことは知らなかったのではないかと考えています。」

「彼らは、ただ彼女だけを拉致するつもりで昨夜、彼女を襲った。そこに、たまたま貴方がいた。そういうことですか?」

「そうです。ただし、彼らに命令を下した人間は、私がいることを知っていたのではないかと。」

「ふうむ。ということは、今回、彼らに指示を与えた人間が彼女もろとも貴方を襲わせ、二人とも亡き者にしようとした。そういうことですね。」

正直に話すといった割には、結構遠回りな会話が続いている。ガルが横で咳払いをした。

思わず苦笑いが浮かんでくる。ガルは本当に敏感だ。大丈夫。私も最近は気が長くなった。

「これは申し訳ない。つい、いつものような会話になってしまいました。ご理解ください。私のような立場のものは、単刀直入に話を進めることに余り慣れてはおりません。私1人の判断で多くのものが苦しむ場合もありますので・・・。」

卿の立場はよくわかる。人間界における最大の組織のナンバー2なのである。

その重責は、恐らく計り知れないほどのものなのだろう。私だって、もちろん卿には敬意を払っているし、卿の考えは十分に尊重したい。それに卿は、今まで会った教会関係者の中で、最も真摯な態度で私に接してくれている。

その卿が何かを考えている。そして意を決したように口を開いた。

「エフ殿。突然ですが、この部屋にはもうお一方、この会談を傾聴されている方がおられることをお気づきですか?」

隣のガルがハッとした顔で辺りを見回した。そして素早くソファから立ち上がり、その横で跪いた。

もちろん私はこの部屋に入ってすぐに誰かの気配を感じていた。それが誰なのかは分からなかったが、今となっては何となく分かるような気がする。

ああ。やっぱりなあ。会いたくはなかったが、こうなったらしょうがないのかもしれない。

卿の後方から重々しい声が聞こえてきた。当然ながら姿は見えない。

「エフ。おぬし、気付いておったな。」

「はい。最初にこの部屋に入ったときから、それとなく・・・」

「そうか・・・まあいい。久しぶりだな、エフ。」

「はい。えっと、100年以上になりますか?ガブリエル様」

「そうだな。そのくらいかもしれん。相変わらずのんきな暮らしをしているようだな。」

「はい、まあ・・・」

神の使徒最高位に位置する大天使、ガブリエルであった。

ガルは跪いたまま、ぴくりともしない。トランベール卿は興味深げに私達の会話を聞いている。

「トランベールよ。」

大天使の言葉に卿が身構えたのが分かる。

「バルトロはもう捕えたのか。」

「は、大天使様。一応、管理下にはおいてあります。」

「ううむ・・・どうしたものかのお・・・その密約を交わしたのは確かなのか。」

「はい。彼の直属の部下からの密告ですので、信憑性は高いかと・・」

「そうか・・それでそやつは何かお前に話したのか。」

「いいえ、バルトロ卿は頑なに否定しております。従いまして今のことろは何も進展がない状況です。」

密約・・誰と誰が?ひょっとして、そのバルトロという教会関係者と・・

誰か・・・まさか・・・・。

「エフよ。勘付いたようだの。ただ、まだ確証がないのだ。それに悪魔と言っても、あそこはあそこで色々なヤツがおるし様々な動きがあるからの。」

「この先いかがいたしましょう、大天使様。」

とトランベール卿。

「ううむ・・・困ったもんじゃのお・・・」

うん?何故かガルが私の方をじっと見ている。それにトランベール卿も同じように私を見ている。

なるほど・・・まあ確かに神や神に仕えるものが、人間を締め上げて白状させるとかなあ、できないか。

と言うか、大天使ガブリエルともあろうお方が人間の心は読めないものなのか?それとも相手や場合によっては読めたり読めなかったりするのか。聞いてみたいところではあるが、止めておこう。相手は大天使ガブリエルなのだ。

私がやるしかない。つまりはそういうことなのだろう。

「バルトロは何処にいるのですか?」私はトランベール卿に聞いた。

「今は東塔の4階にいます。ドアの前には見張りをつけています。」

卿が明快に答えた。

なんだか乗せられてしまった感はあるが、今回の場合はしょうがない。ことは私自身に及んできているし、マニュエラのこともある。

「ガブリエル様もトランベール卿も、このままお待ち頂けますか?早ければ10分程度で戻ってまいります。」

「どこに行くのかは知らんが、わしは待っておるぞ。今日は暇だしの。のお、トランベールよ。それにエンジェルも、な。」

大天使がのんきに答えた。

大天使の姿は見えないが、恐らく満面の笑みを浮かべているのだろう。

私は、すぐに東塔の4階に飛んだ。窮屈な会話で少しいらいらもしてきている。

バルトロがいる部屋に入ると、彼は部屋に備え付けの椅子に座り不機嫌な様子で膝を揺すっていた。彼は私を認めると、最初は少し驚いたような表情をしたが、すぐに不遜な態度に戻り私を睨みながら言った。

「誰だ、貴様は?」

バルトロのこの言葉で一気に血が上ってきた。

彼の周りの空気を一気に薄くする。みるみるうちに彼の顔が赤く膨れてくる。そして私は彼の頭の中に強い恐怖を植えつけた。私の問いに答えなければ、100年間、毎日100度の熱湯を掛けられ続けることになる。一時も休むことなくだ。これは例えでも脅しでもなく、本当にやる。そういう機械を作って彼を100年間縛りつけるのである。彼の傍には私の作った最新の延命機器を配して、100年間死なないように延々と地獄の苦しみを味合わせてやる。

しばらくすると、凄まじい恐怖で震えてきた彼の頭の中に文字が浮かんできた。

イタリア語の文字である。契約書のようにも見える。バルトロのサインが読めてきた。悪魔はサインをしていないのか。

あった。アガレスとある。

アガレス・・・アガレスだと。確かアガレスは悪魔の世界でも比較的上位に位置していたはずだ。

アガレスはルキフグスにつながり、そしてその上のアスタロトにも繋がっている。

アスタロトといえば、ルシファーやベルゼブブと並んで悪魔側の三大勢力の一翼を担っている、超大物である。アガレスか。でも何故アガレスがバチカンのバルトロと契約など結んだのだろう。バルトロは司教枢機卿ではあるが、バチカンでは上位でもごく普通の人間である。それにバルトロごときと、何故悪魔側が危険を犯してまでも契約書にサインをするのだ。密約書の内容を読み取る。さすがに早くしないとバルトロの精神が壊れてしまう恐れがある。ま、私はそれでも構わないが既に彼の指揮下にある部隊のメンバーを10人も殺しているのだ。ここは抑えよう。

なるほど・・・内容もわかった。

ただ、これにはもっと裏があるはずだ。裏に何かがある。

私は息も絶え絶えのバルトロを開放し、またみんなが待つ執務室に戻った。


「おお、帰ってきたかエフ。」大天使ガブリエルから声がかかった。

「おぬし、今まで何をしていたのじゃ。」

相変わらず臭い芝居をしている。ただ、大天使には逆らわない。それに、私はこのとぼけた老人が結構気に入っている。

「はい。バルトロと申す闇の部隊の長と話をして参りました。」

「ほお、バルトロと?で、どんな話をしたのじゃ?」

ふと見ると、トランベール卿が俯いたままだ。

この人、ひょっとすると笑いを必死で堪えているのかもしれない。つくづく不思議な人達である・・・ああ、1人は大天使様だけれど。

「要点だけを申し上げます。何かの契機で、私とあなた方、神とが戦うことになった場合、悪魔側も神に加勢する、という契約内容でした。」

一気に部屋の温度が下がった。

「やはりそうか・・。で、向こうの署名は誰のものだ?」

「はい、アガレスでした。」

「アガレス・・・・そうか、そういうことか。背後にアスタロトがいるのだな?」

「はい、おそらくは。ただ・・・」

「うむ、おぬしの言わんとすることはわかる。アスタロトの命を受けたアガレスとバルトロでは、いかにも格が違いすぎる。」

さすがに大天使が苦しそうに表情を歪めた、ような気がする。

考えられることは一つしかない。それは大天使も私も同様であった。

大天使ミハイル。

私と大天使ミハイルとは、過去に一度だけ悶着があった。

言うまでも無く、ミハイルは神軍の総帥である。敵に回すには最もやっかいな存在だ。

今回のことの裏には、間違いなく大天使ミハイルがいる。本気で悪魔と組んで私と全面的に争おうとしていたのだろうか。私自身、前にも話したように、もうずっと神とも悪魔とも距離を取っている。特に神側とは殆ど接触さえない状態が続いている。

ミハイルと一悶着あったのも、もう100年以上前の話だ。

何故、今更、とも思うが、ミハイルみたいなプライドの塊のような存在にとっては、自分がないがしろにされることには耐えられなかったのかもしれない。恐らく今回のこと全てが彼の計画だったのかは分からないが、彼にとっては、私にバチカン所属の人間を殺させることが肝要だったのだ。神の使途を殺された仇を討つという錦の御旗を掲げて、全面的に私に攻撃を仕掛けることが出来るのだから。

「まったく、あやつもしつこいのお・・・」

大天使ガブリエルは、苦虫を噛み潰したような顔(たぶん)で、ため息交じりに言った。

「のお、エフよ。」

「はい。」

「マニュエラは自由にする。そもそもマニュエラが手にかけた人間どもは殺されて当たり前のことをしたのじゃ。そしてな・・・あやつにはわしの方から言っておく。万が一、あやつがわしの言葉を無視したら、それはもうあのお方に出て頂くしかない。それは、あやつだとて充分に分かっているはずだ。従って、もうこれ以上、おぬしに迷惑をかけることはない。おぬしも我が方の部隊10人を殺害したのだ。これで貸し借りなし、ということにしてくれんかの。」

「お忘れですか?大天使様、その10人の方が先に私を襲ってきたのです。私はやむなく反撃しただけなのです。お貸ししたものとお借りしたものにかなりの差があるようにも思いますが・・・。」

大天使は黙っている。トランベール卿とガルの緊張が伝わってきた。

「・・ですが、大天使ガブリエル様には逆らえません。エフこと私も了承いたしました。」

トランベール卿とガルが、同時にほっと息を吐いた。

「トランベールもそれで異論は無いな。」大天使がトランベール卿に確認した。

「もちろんでございます。ガブリエル様。」

「法王にはどうするつもりだ?」

「はい。その、法王は今回のことは・・・」

「うむ、そうか。それならそれでいい。知らない方がいいこともある。」

「ありがとうございます。ガブリエル様。」

「バルトロはどうする?」

「はい。もしガブリエル様とエフ殿にお許し頂けるのであれば、しばらくはこのまま幽閉しておこうかと。」

「しばらく、とは?」

「はい、司教は現在64歳でございます。20年も幽閉すれば・・・」

「うん。わしもそれで良いと思う。バルトロもやり方は大きく間違ってはいたが、動機はあくまでも神を思ってのことだからの。あまりに酷な罰はあの方の慈悲の心にも違ってしまう。エフもそれで構わないな?」

今回は確認ではなく半ば強制であったが、もとより私にも異論は無い。ただ・・

「ガブリエル様、後刻で構いませんので、もう一度彼と、バルトロと話をさせて頂きたく存じます。」

大天使が黙っている。

「全体像は確かにはっきり致しました。ただ、まだ腑に落ちないことが幾つかございます。それだけ確認させて頂ければ、あとは大天使様の仰るとおりに致します。」

「・・・彼の体も心も傷つけないと約束してくれるのであれば、その申し出を了承しよう。」

「ありがとうございます。もちろん、これ以上彼を傷つけるような真似は致しません。」

しまった。これ以上、という言葉は余計だったか・・。と思ったが、大天使もトランベール卿も黙したままだ。恐らく想定内のことだったのだろう。まったく。

「のお、エフよ」

まだあるのか。そろそろこの窮屈な対談から遠慮したい。

「ひょっとしておぬし、あのヴィーナスのことを疑っているのか?」

驚いた。まったく、このじいさん、油断も隙もあったもんじゃない。

「・・・彼女以外には考えられないのです。」

「そうだの。おぬしの言うとおりだ。だがな、彼女は利用されていただけじゃ。」

私は大天使の次の言葉を待った。

「もちろん、彼女は自分が利用されていたことも知らなかった。ただのお、彼女の心は、ある者たちからすると非常に読みやすいんじゃ。彼女の心を読むだけでおぬしの行動を知ることができたようだ。神とておぬしの心は読めないというのにな。」

「・・・そんなことが・・」

「うむ、彼女は純粋じゃからの。おぬしがマニュエラのところに行ったことで、彼女の心は泣いておった。そこのガルと一緒にいたときでさえも、遠くにいるおぬしを思っていた。その思いがそのままおぬしのいる場所を告げていたのじゃよ。」

そうだったのか。それでバルトロ達は私の居場所を正確に知っていたのだ。もちろん今回の件に加担し彼女の心を読んだ存在があったのは確かだが。

そうか。全てがはっきりしてきた。

たぶんその、リンダの心を読んだ存在も分かったと思う。そいつがバチカンか悪魔側にたぶらかされ、もしくは脅されてやむなく行ったことか、或いは自ら進んで行ったかは分からないが。

私がリンダやガルと別れてマニュエラの家に向かったことを知るためには、実際に私を見るしかない。私の脳は、神からも、もちろん悪魔からも読むことは出来ないし、存在さえも認識できない。何人であろうと私は、目視でのみしか確認できないのだ。唯一リンダだけが、自分に紐づいた私の脳の一部が見えていたのだろう。要するに、その存在はリンダの心を読むことで私の場所をある程度把握し、且つ目視でも私を確認していたのだ。

マニュエラの家に行く途中で会った、あの東洋の女優が恐らくそうだ。多分、彼女もリンダと同じヴィーナスの末裔なのだろう。それに私はご丁寧に彼女の脳に電話番号を刻み込んでしまったのだ。脳波は追跡できなくとも、携帯電話なら簡単に追尾可能である。まったく、私ときたら・・・。

「分かったようじゃの、エフよ。」

「はい、理解しました。」

「あの子は、リンダは良い子じゃ。わしが言うことでもないが、あまりあの子を傷つけないようにしてくれ。」

大天使にしては珍しい言葉だ。もちろん私は、リンダを傷つけるようなことはしない。

「やはり、神のお仲間というお気持ちはあるのですか?ガブリエル様」

「どうかの・・。まあそうかもしれんし、そうじゃないかもしれん・・。」

なにかあるのだろう、きっと。それこそ神どうしの口には出せない深い何かが。

これ以上は踏み込まない方が良さそうだ。私が最も触れたくないものには違いないのだから。

「ところでな、向こうの方だが・・・」

大天使が気持ちを切り替えるように言った。

「むこう・・・?ああ、向こうですね。」

「うむ。こちらは、わしの方から釘をさすようにするが、向こうはどうだろうと思ってな。」

確かにそれはある。アスタロトのような大物が何故、通常では考え難いことに着手したのか。

表に出てきたのはアガレスではあるが、彼が独断でこのような大事を引き起こすはずがないし、当然のごとくその後ろ盾であるアスタロトの関与が考えられることになる。

実際、神側のもう一方に、要するにガブリエルに露見してしまったのだ。

今後の向こう側の対応が不明でもある。

「エフよ。」

「はい。」

「おぬし、あれはいつだったかの、向こうに乗り込んで暴れたのは?」

・・・確かDC2が約60年と言っていた。そう。もう60年も経つ。

「向こうの、おぬしに対する憎悪と怨嗟は、相当なものであったと聞いている。おぬしはアモンと話をしたらしいが、アモンもまたルシファーという後ろ盾があればこその存在でもある。そして恐らくルシファーがおぬしに興味か、ひょっとすると何らかの価値を見出したのかもしれない。だからこそ、おぬしも無事だった。そうは思わぬか、エフよ。ただ、ルシファーに反するものたちもいる。もしアスタロトがそうであり、あのとき彼の部下の多くをおぬしが殲滅させたとすると・・。」

悪魔にとって、時間は関係ないのかもしれない。60年どころか100年経ったにも係わらず、事実神側ではあるが、ミハイルは私を憎悪しているのだ。そのミハイルとアスタロトの利害が一致したのか。

そうすると、今回の件における全ての発端は私にあるということになる。

100年前の件にしても、60年前の件にしても、どちらも私だけが悪いのではない。特に100年前のミハイルとの一件は、完全に逆恨みとも言える。何故、どちらも執拗に私を狙う。何故、私だけが咎を受けなければならない。それに私が双方にうまく利用された可能性もある。

じわり、と怒りが湧いてきた。

何故だ。私はもう何十年も神とも悪魔とも出来るだけ接触しないように、静かに生きてきたのだ。

何故、今更、双方から攻撃されなければならない。

ふざけるな、ミハイルもアスタロトも、まとめて破壊してやろうか。そもそもは悪魔側の配下の者が私を殺したことが発端なのだ。まずは今回のアスタロトを徹底的に破壊し、そのあとにミハイルの軍団を襲撃すればいい。どこまでやれるかは分からないが、ミハイルだけでも殺してやろう。

それに彼らと刺し違えるのであれば私の死にも意味がでてくるかもしれない。

怒りと憎悪の炎が、徐々に私の全身を覆いつつある。

「エフ!」

ガルの声が聞こえてきた。はっと我に返る。

慌ててガルを見ると、目を見開いて私を凝視している。

「落ち着け、エフ。」さっきとは違う、落ち着いた声でガルが私に話しかける。

そうか・・また、例のやつが出てきそうになったのか・・・。

ガルが私の両肩に手を置き、じっと私の目を見ている。ありがとう、ガル。

「大丈夫だ。ガル。もう落ち着いてきたよ。ありがとう。」

私は素直にガルに礼を言って、大天使に向かって軽く頭を下げた。

「凄まじい怒りだの、エフよ。」大天使が言った。

思わず私が言い返そうとすると、

「待て。先にわしの話を聞け。」

「・・・わかりました。失礼しました。」

「よろしい。いいか、エフよ。ものごとは、そう簡単ではない。引き続き向こう側の話だが・・・おぬしが乗り込んでから後、同等であった三家のパワーバランスが大きく崩れてしまったのじゃ。

わかるか、エフよ。おぬしが破壊の限りを尽くした場所は、アスタロトの本拠地であった可能性が極めて高い。しかもそのとき、アスタロトは不在だった。おぬしは知らんだろうが、アガレスはルシファーに応援を依頼し、それでバシムやアモンが駆けつけたという次第じゃ。ルシファーにすれば、労せずしてアスタロトの勢力を削ぐことが出来たし、直系のバシムやアモンに騒動を解決させたことにより、アスタロトに貸しが作れたことにもなる。ルシファーにしてみると、おぬしの存在は正に突然の僥倖だったのかもしれんな。逆に言うと、不意打ちを受け、己のテリトリーの多くを破壊されたアスタロトの、おぬしに対する怨みは相当なものだったかもしれん。

待て。まだ話は終わっとらん。もうひとつ。ミハイルのことだ。あやつは確かに好戦的ではあるが、非常に賢明でもある。密約を交わしたように見せかけ、弱体化したアスタロトを一気に殲滅するための大儀名文としてアガレスの名前を出させたのかもしれん。こちらでサインをしたバルトロに裏切り者の烙印を押した上でな。もちろん、同時におぬしも弱体化できれば好都合だった。

もっと穿った考え方もあるぞ。ルシファーはいまや向こうでは最大の勢力を誇っている。アスタロトをうまく誘導し、神側と密約を交わさせる。そして首尾よくおぬしと神側の戦いが始まると、密約を破り傍観する。密約書にはアガレスの名前しかないのだ。ルシファー側にすれば、知らぬ存ぜぬで通すことは十分に考えられる。そしてミハイルが手負いの状況になったところを狙って、こちらを攻めてくる可能性もあるということだ・・・」

・・・なんだ、この話は・・・。全ては可能性の問題だ。どれひとつ、恐らく立証はできないと思う。

ただ、だからこそ、下手な動きはできない、ということだ。或いは、ことを収めるために大天使が言葉を弄しているだけなのかもしれない。もういい。真相など不要だ。これだから神や悪魔と関わると碌なことがない。

それに・・・さすがに大天使だ。全てを見通している。こちらの話の方が本題だったのだ。

先にマニュエラの自由と私への今後の不干渉を約束したのは、今日の会談の序章に過ぎなかった。

いかにも、ついでと言った体で話し出した、この話の方を私に含ませたかったのだ。

あとで私が真相に気付いてしまった場合の混乱を、取り返しのつかないような惨劇を、未然に防ぎその可能性の芽を摘んでおくための会談だったのだ。

「大天使様。貴方のお考えはよく分かりました。先ほどの約束をお守り頂けるのであれば、私はこのまま帰ります。そしてまた、暢気に暮らしていきます。もう、この件については全てを忘れるように致します。それでよろしいですか?」

大天使は、声のトーンを落とし、私に答えた。

「うむ、そうしてくれるか。わしも、あやつに二度とこのような事がないようしっかりと釘を刺す。まあ、あやつは認めないとは思うがの。それでも、あやつはわしに知られてしまったことで、これ以上の動きが出来なくなる。それで十分じゃろ。それが終わったら、わしも全て忘れてしまおうと思っとる。」

今度こそ、大天使の笑顔が見えたような気がした。

「面倒かけたな、エフよ。次回は楽しく会いたいものよの。」

「私もそう思います。失礼します。ガブリエル様。そしてトランベール卿。お会いできて光栄でした。」

トランベール卿はソファから立ち上がり私の方に素早く歩いてきた。

「エフ殿。今日はお会いできて本当に良かった。ありがとう。」

この人は、本当にバチカンを更に良くしてくれるかもしれない。私は、今度はキスではなく卿と握手をして、執務室をあとにした。

少し歩いたところでガルを待つ。リンダのところに案内してもらわなければならないし、彼女に一刻も早く会いたい。マニュエラは・・・まあ、DC2が用意した部屋だ。それにジェイミーがいてくれる。なんの不自由もないだろう。

先にリンダに会ってから、マニュエラにさようならを言いに行こう。

5分ほどしてガルが出てきた。

「ガル、リンダのところに案内してくれ。」

「わかった。これから一緒に行こう。ああ、それとな、ガブリエル様から言付けがある。」

「ことづけ?なんだ?」

「一部を除いて、しばらくは悪魔側とは接触しないようにと。何かあったらトランベール卿を通じて連絡をくれ、とのことだ。そう言えばわかると仰せだった。」

「・・・なるほど、うん、了解した。」

一部とはアモンのことで、ガブリエルのじい様は暗に、そのアモンと話せということを言っているのだ。そしてその結果をまた大天使に報告せよ、ということだ。

大天使とアモンがどう繋がっているのかは分からないが、取り敢えず大天使に言われなくてもそうしようと思っていたのだ。何も問題はない。

「リンダは今回のことは知っているのか?」

私はリンダのことが少し心配になってガルに尋ねた。

「いや、知らないと思う。ただ、何かは感じているかもしれない。突然、いろんな動きがあったのに何も聞いてこなかった。それに今、彼女の周りには護衛のために私の仲間が何人もいる。」

「・・・そうか。」

「彼女になんと伝えるつもりだ?」

「それを今、考えている。出来るだけ簡単に、出来るだけ彼女を傷つけないようにしたい。」

「そうだな・・・。私も彼女には傷ついてほしくない。」ガルが心配そうに言った。

リンダとの昨夜のことを聞いてみたい衝動に一瞬かられたが、聞かないでおく。

私はそこまで野暮ではない。



リンダは、コルシカ島にあるガルの仲間の家にいた。

驚いた。ガルの仲間がいるとは聞いていたが、建物の外にいるのはエンジェルではなく10数人の人間だったのだ。それも全員が自動小銃で武装していた。

ガルはコルシカンマフィアとも接点があるのか?まあでもバチカンからの襲撃を防ぐにはもってこいの場所である。それに建物の中に入ると、今度はあちこちにエンジェル達がいた。こちらは悪魔側からの攻撃を防ぐためか。本当にガルのやることに抜かりはない。さすが100年来の親友である。

リンダがいる部屋をノックすると、私が待ち望んだ声が聞こえた。そしてドアを開けたリンダは泣きながら私の胸に飛び込んできた。本当に、彼女を傷つけたくない。それでも幾つかは確認しないといけないこともある。でも、まずはガルと3人でゆっくり食事でもしよう。

家の中にいたエンジェル一人ひとりに挨拶をしお礼を言った。全員の顔は覚えた。

次回会ったときにはこちらから話しかけるようにしよう。それから外で警護にあたってくれた、見るからに荒くれ者の14人の人間達には、それぞれ5千ユーロずつ渡して労った。彼らは素直に喜び何台かの車に分乗して帰っていった。

私達はその後ミラノに飛び、遅い夕食を取った。ミラノには私やDC2が認める警備のエキスパートがいる。もちろん私がいる間はそんな連中に頼らなくとも大丈夫だが、今日はリンダやガルとずっと一緒にいるわけにはいかない。

最初にシャンパンで乾杯をし、今日までに分かったことをまとめながらリンダに話すことにする。

マニュエラの部屋に私がいたことは伏せては置けない。全てはそこから始まったのである。

マニュエラは元バチカンの人間であり、彼女を傷つけようとした司教を殺してしまった。

その後すぐに彼女はバチカンを抜け出し長い間ずっと身を潜めていた。

バチカンの一部の連中はそんな彼女を許さず、執拗に彼女の行方を追っていた。ようやく彼女の住まいが判明し、彼女を拉致もしくは殺すために真夜中に襲ってきた。そしてそこに、たまたま私がいて相手を返り討ちにしてしまった。バチカンはすぐに私への報復を検討した。

「そうなると、私も黙ってはいられない。バチカンとは言え、相手は殺人も厭わないプロの集団なのだ。それに、マニュエラはともかく、今もっとも私と親しい存在であるリンダにまで危険が及んでくる可能性もある。もちろん私だってこれ以上バチカンとは争いたくない。それでガルに段取りを取ってもらい、バチカンに出向いた。そういうことだ。」

リンダが知らなくてもいいことは極力省いて、筋が通るようにはしたつもりだ。

「向こうでは、バチカンではどういう話をしたの?」リンダが聞いてくる。

「うん、ガルにも付き添ってもらって、むこうの首席枢機卿と話した。」

リンダが驚いて

「えっ、いきなり首席枢機卿と会ったの?」

「うん、そこはガルがうまくやってくれたんだ。」

隣でガルが黙ったまま頷いた。

「エフは、いやカインは・・・もうエフでいいよな、面倒だ、エフと何も知らない司教や下位の枢機卿と話をさせたら、いったいどうなると思う?」

ガルが真面目な顔でリンダに尋ねた。

「うーん、きっとエフはすごく面倒がると思うわ。それに、かなりいらいらしてくるかも。」

ガルが少しだけ笑みを浮かべる。

「うん、そのとおり。でも、それだけじゃ確実に済まなくなってくるんだ、エフの場合は。」

うん?話がそれてきている。それに私の話はいい。話を続けた。

「その首席枢機卿、トランベール卿と仰るんだけどね、とても話が分かる方だったんだ。どうもマニュエラの件も上には内密で一部の部隊だけがしつこく追っていたようだし、マニュエラが殺した枢機卿も相当なことをしていたみたいなんだよ。それに私が殺した奴らにしても、最初に襲ってきたのは向こうの方だし、防衛上反撃しただけの話だしね。これ以上、問題が大きくなるのを卿は好まなかった。

バチカンはマニュエラを開放し私への報復もしない。その代わり私もマニュエラも今回のことやバチカンで知ってしまったことは全て忘れるということで合意した。それで一件落着ってわけなんだ。とにかくリンダ、心配かけて本当に悪かった。」

私はざっくりと一気に事の顛末をリンダに話し終えた。

ガブリエルじいさんのこと、悪魔のこと、密約のこと、ミハイルのこと、それらのことはリンダが知らなくてもいいことだし知るべきことでもない。

「それだけ?」リンダが首を少しだけ傾げて私に聞いてきた。

「うん。ただね、一つリンダに確認しておきたいことがあるんだ。」

「いいわよ、なに?」

「バルセロナにリンダの仲間はいなかった?その、前に話してくれたヴィーナスの末裔の仲間だけど。」

「え、何故知ってるの?」

リンダが驚いたように後ろに仰け反った。

「何日か前に、久しぶりに連絡があったの。こっちに来てるから近いうちに会わないかって。」

「ひょっとして東洋系の女性じゃないかな。とても綺麗な若い女性。」

「・・・エフ、どうしてそこまで知ってるの?」

リンダが目を細めて私を見ている。

「あ、そういうことじゃないんだ。多分なんだけどね、その女性が、私の居場所を漏らした可能性が高いのではないかと思っている。」

「え・・・どういうこと?ミアがバチカンのスパイだって言いたいの?」

「そうか、ミアって名前なんだね。まだはっきりとはしないんだけど、その可能性が高いってことは事実なんだ。」

「・・・よく分からないわ。そもそも何故彼女が貴方のことを知っているの?それに彼女はどうやって貴方の居所を知ることができたの?それに彼女は、そんな子じゃないわ。とてもいい子よ。」

「わかってるよ。リンダの大事な仲間がそんなことを好んでするはずがない。恐らく彼女は、誰かに騙されていたか或いは脅されていたか、だと思う。どちらにしても彼女にはちゃんとそれを伝えてあげないといけない。わかってくれるかい?」

リンダはしばらく考えていたが、ふとガルに向かって尋ねた。

「ガルはどう思ってるの?貴方もエフと同じ考えなの?」

「うん、私もエフと同意見だ。出来るだけ早く彼女に会って話した方がいい。ひょっとすると彼女の身が危険に晒されることになることだってあり得る。」

「ミアが危険・・・?」リンダが怯えたように自分の両腕を掴んだ。

「そう、確かにバチカンは理解してくれた。だが、首席枢機卿からの指令がすぐに行き渡るかは分からない。それに彼女を利用した連中が口封じの為に彼女を傷つけることだって考えられるんだ。まあ、そんな可能性は極めて低いとは思うけど、とにかく念のため、彼女と話をしたいんだ。」

「・・わ、わかった。ミアに連絡を取ってみる。」と言ってリンダは携帯を手に取った。

しばらくすると相手に繋がったらしく、リンダが相手と話す声が聞こえてきた。明日、ランチを一緒にということで話がまとまったようだ。ただ最後にリンダが、ハッとした様子で私に聞いてきた。

「どうしよう、ここがミラノだったこと、すっかり忘れてた。彼女が指定してきたお店、バルセロナにあるの。」

私を誰だと思っている。あのエフだぞ。ミラノからバルセロナなんてすぐだ。私は笑って親指を上に突き上げた。リンダはそれを見て少し笑ってから、相手に大丈夫よ、楽しみにしてると答え電話を切った。

「ところで、エフ。私からも一つだけ聞いていい?」

とリンダが携帯をバッグに仕舞いながら聞いてきた。

なんだろう?これ以上は深く聞いてほしくはないけどな。

「いいよ。」

「ガブリエルのおじさんに会ったでしょ?」

思わずガルと顔を見合わせてしまった。案外、私達は素直なんだなあ、と互いに思い知らされた。

リンダはそんな私達を見て笑っている。

「ごめんなさい。別に不意打ちするつもりはなかったんだけど・・・」

でもまだ笑ってるじゃないか。

「ありがとう。分かりやすく答えてくれて。だからエフもガルも好きよ。」

まあ、しょうがない。隣でガルも肩をすくめている。

「昔から仲良くしてもらってるの。ううん、いろいろとお世話にもなっているかな。」

ふうん・・・。あのじいさんが言っていたよりもっと深い付き合いだったのかもしれない。

なるほど、それはそれでまた新たな疑問が湧き上がってきたが、今は忘れよう。

それに今更、たいした問題でもない。

「そうだったんだ。まあ、同じ神の仲間でもあるしね、君達は。まあ、いずれその話も聞かせてくれ。」

今日中にマニュエラの様子を見に行きたい。リンダのことがひとまず落ち着いたのだ。

きちんとマニュエラに会って話をしよう。それでマニュエラとは終わりにしよう。

「・・・マニュエラのところに行くのね?」

やはりリンダには分かってしまうのか。でも、もうそれもこれで終わりだ。

私をじっと見つめるリンダの目に少しだけ驚きの色が浮かんできた。

「エフ。貴方・・・私のために彼女と別れようとしてくれているのね・・・どうして?」

そうか。それさえも分かってしまうのか。

「彼女は・・・とても魅力的で素晴らしい女性だと思う。でも私は、今はリンダのことしか考えられないんだ。それに君が言うところのガブリエルおじさんにも約束しちゃったしね。」

リンダが私の目を見たまま、微笑もうとしている。泣くなよ、おい。あー泣いちゃった。

「ガル、悪いがまたリンダのことをしばらく頼む。長くなるかもしれないので、明日、バルセロナで直接会おう。」

「わかった。相変わらず忙しいやつだ。リンダのことは任せておけ。」ガルが笑いながら言う。

リンダとガルに手を振り、私はすぐにロンドンにいるマニュエラの元に飛んだ。

ううむ・・私にとっては余り歓迎すべき状況ではないかもしれない。出会ってまだ1週間くらいしか経ってないのに、私は既にリンダを愛し始めてしまっていたのだ。

まだ完全に最終局面には至ってはいないが、今回の一連のことで少し疲れてしまったのかもしれない。珍しく私は1人の女性だけを求めていた。そう、本当にリンダのことしか考えられなくなっていたのだ。

いつまで続くかは分からない。まあこうなったら、しばらくの間はしょうがない。

そう思いながらも、私は結構幸せだった。



4.エフ ロンドンにて


話すとまた長くなるので省略するが、私はあることでMI6とも多少の繋がりがある。

そのことはDC2も知っている。DC2は我々が最も信頼できるMI6の高官に紹介を依頼し、MI6御用達のホテルの一室と警護を提供してもらったようだ。

マニュエラはその部屋で安全に快適に過ごしていた。部屋の外にはMI6選り抜きの警備が4人。室内にも2人がいた。室内の2人は目つきの鋭い筋肉質の女性と、一見ごく普通の女性だった。後者の女性は人間としては相当に強い。筋肉質の方が身を挺して相手の動きを止める。そして普通の方が確実に相手を仕留める。さすがに我々が信頼する高官、ジェイミー・ブランドンである。最強の陣容でマニュエラを擁護してくれていたようだ。

ジェイミーは部屋まで私を案内してくれた。中にいた二人の女性は最初、私を怪しげに少々の敵意を持って見ていたが、ジェイミーの態度や私を認めたマニュエラの笑顔で警戒を解いた。だがジェイミーが私とマニュエラだけにするように指示をすると、再度警戒心がもたげてきたようで了解したものの、なかなか部屋を出て行こうとしなかった。

本当にいい警護官である。私はしばらく普通の方の女性の目を見た。彼女は数秒で何かを感じ取ってくれたらしく、筋肉質の方を促して速やかに部屋を出て行った。

「ジェイミー、本当に助かった。ありがとう。」私はジェイミーの手を取った。

「とんでもありません。お役に立てて光栄です。エ・・・カイン。お話が終わったら連絡してください。お迎えにあがります。」

そう言って彼は部屋を出て行った。

二人だけになった部屋で、マニュエラがようやく安心したように私に抱きついてきた。

そのまま彼女をずっと抱いていると、少しずつ彼女は震えだした。ふと見ると彼女が嗚咽している。

「泣くことはない。もう全て終わったんだ。今日、バチカンに行って話しをつけてきた。もう安心だ。今までみたいに隠れて暮らすこともない。君は完全に自由になったんだ。」

しばらくして、ようやく彼女の涙が収まってきたようだ。涙でぐちゃぐちゃになった顔をくいと上げ唇に軽くキスをする。彼女が少しだけ笑ってくれた。

「カイン・・・貴方、エフって呼ばれてるのね。」

「・・・誰かが君に話したんだね。」

「ううん、違うの。私、稀に人の心を読むことができるの。あのジェイミーって人。とってもいい人なのよ。私をすごくいたわってくれたの。それで彼のことは信用できるのかなって、そしたら彼の心が読めてしまったの。」

ジェイミー・・・。まあ確かに君はいい奴だ。人にはあれだけ厳しい君が、何故この殺人巧者のマニュエラに優しかったのかは謎だが、心を読まれたらダメだろ。まあ、でもそのくらいはしょうがないか。

そもそもエフという名前だけでは何も分からない。

「ふうん・・他にも彼から何か分かったことはある?」

「彼がエフのことを、貴方のことを凄く敬愛し畏怖していることが分かったわ。それに貴方が、今起きているトラブルを全て解決してくれるという絶対的な自信を持っていた。」

マニュエラの緊張が少しずつ解けてきている。化粧は全て落ちてしまっているのに、それでも心を思わず奪われてしまうくらいに美しい。ううむ・・ちょっと抱きたくなってきたかもしれない。

いやいや。それはダメだ。私は女にだらしないが、女とした約束は必ず守る。だから・・・ん?・・・彼女と、マニュエラと、もうセックスはしないという約束はしていないような気がする。確かに彼女と今日で別れる約束はしたが・・・。うん、ここで我慢するのも私らしくないしな。まあ、今回だけしちゃおう。リンダ、約束は守るから見逃してくれ。

というわけで、それから二度マニュエラを抱いた。思い切り抱いてしまった。

ま、そんな男だ、私は。それはそれとして・・。

「マニュエラ、聞いてくれ。」私は本題に入ることにした。

「・・・言わなくていいわ、カイン。分かってるつもりよ。」

「そうか・・・。悪く思わないでくれ・・その、いろいろあったけど、君に会えて良かった。」

マニュエラが私を見て微笑んだ。

「大丈夫よ。貴方は普通じゃないもの。最初から、貴方には本気になっちゃダメだって思ってたから。それに貴方みたいな浮気性の男に振り回されたくないしね。せっかく貴方が苦労して私を自由にしてくれたのだもの。これからは私も誰にも縛られない自由な人生を送ってみたいと思ってるの。」

「うん、それはいいね。特に君みたいに美しい女性は本当の意味で人生を謳歌できる。」

「ありがとうカイン。それにね、私の中の悪魔のことだけどね。」

「うん?ああ、それがどうかしたの?」

「あんな奴と本気で付き合うのなら、私が彼を、貴方のことね、殺してあげようかって。」

なるほど・・・。これは、なかなかの別れの決まり文句かもしれない。いくら私が死なないからと言っても、これはきつい。生まれ変わった体に慣れるまでは相当の時間がかかるのだ。

彼女は、本当に彼女の中の悪魔ともうまく付き合っていけそうである。

「でもね、マニュエラ。」

「うん?」

「なにか困ったことがあったら必ず連絡をくれ。社交辞令なんかじゃなく、必ず君を助けに行くから。」

彼女がまた強く抱きついてきた。

「知ってるわよ、カイン。貴方はそんな男だわ。それに一度した約束は破らない。あ、そうだ、天井の電球が切れても呼んじゃっていい?」

可愛い女だ。マニュエラも本当にいい女だ。

彼女がその魅惑的な目で私をじっと見ながら囁いてきた。

「ねえ、もう1回する?」

・・・断れるわけがないなあ。ごめんね、リンダ。もう1回だけ、これで最後だからね。


1時間後、部屋を出た私はジェイミーに連絡をいれた。迎えに来てくれた彼に礼を言い、彼に誘われるまま、ロンドンのバーに久しぶりに飲みに行った。

明日はまたバルセロナだ。それが終わったらアモンに会って話を聞く。それで全てが終わると思う。そうしたらリンダとゆっくり旅行にでも行こう。

そんな事を考えていると、ジェイミーが私をじっと見て微笑んでいる。

「なんだ?」

「いえ、楽しそうなお顔をしているなあ、と。」

これじゃジェイミーのことは言えない。私も最近は感情がそのまま表情に出るようになってしまったようだ。

私が無言でグラスを傾けると

「それにしてもお綺麗な方ですね、マニュエラさん。」

「うん?そうだな・・。だが、彼女とは別れてきた。」

ジェイミーは少し驚いたようにしている。

「そう、ですか・・・。」

「なんだ?」

「いえ、あんな綺麗な方なのになあ、と。」

「彼女には彼女の生き方がある。それに、私には別に待ってくれている女性がいる。」

ジェイミーが更に驚く。

「・・珍しいですね。天秤にかけるとか・・。」

「なんだよ、天秤って。そうじゃなくて、もう一人の方は本気なんだよ。」

今日一番驚いたように目を丸くしたジェイミーが

「・・驚きました。そうですか・・・あの、エ、じゃなくてカインさんがねえ・・」

「君、わざと言ってるだろ?」

ジェイミーが楽しそうに笑う。

「しばらく、な、しばらく」

「いえいえ、それにしたって、本気って、かなり、いや、初めて聞いたかもしれません。」

「そんなことは・・まあ、いいじゃないか。そのうち、君にも会わせるよ。」

「本当ですか?それは楽しみです。」

「そういう君はどうなんだ?そろそろ身を固めろと言われているんじゃないのか?」

ジェイミーは途端に渋面を作った。

「・・難しいですよね、我々の仕事は・・」

「敵に弱みは見せられない、か。」

気持ちは分かるが、今はそんな逼迫した状況でもない。まあ、この男の真面目さ故なんだろうが、そのうち誰か紹介してもいい。

「まあまあ、そんなことは忘れて今日は飲みましょう。せっかくお会いできたんですから。」

ジェイミーがおどけた調子でグラスを上げた。

少し誤魔化されたような気もするが、まあいいだろう。

ロンドンでのジェイミーとの夜は、思ったよりも楽しかった。



【インタビュー その4 ワシントンにて】


もうボニートには、ボニート・スキャパレリには会ったんですか?

・・会ったけど何も知らなかった・・そうですか。

まあ、固く口止めされていましたからね。

でもね、それほど気にすることもなかったと思うんです。あの人とボニートのおじいさまは友人だったのですから。もちろん私の祖父もね。

祖父はねえ、よく話してくれましたよ。あの人のこと、そして110年前に起こったあの事件のことを。

そうそう、まだ私が幼い頃ですが、あの人に会ったことがあるんです。

確か8歳か9歳頃ですから、既に半世紀以上は経ってますかねえ。

私が祖父の部屋の前を通ると、中から何とも楽しそうな笑い声が聞こえてきたんです。

部屋に入ってはいけない、と一応言われてはいたのですが、なんだか私もその輪に入りたくなったのでしょう。

祖父は驚いていましたが、あの人は優しげに私を迎えてくれました。

子供ながらに綺麗な顔の男の人だなあ、と思ったのを覚えています。

祖父は

「カイン、この子はわしの孫だ。ジェイムズと言う。ジェイムズ、ご挨拶しなさい。」

私が挨拶をすると、あの人は

「よろしくな、ジェイムズ。私はカインだ。」

カイン・・少し変わった名前だったのでよく覚えています。ただ、祖父が晩年に彼のことを話すときは、エフと言っていましたね。年を取って物事の道理が分かるようになって、彼が敢えてカインと名乗っているのだろうと予想できるようになりました。

まあ、その理由も何となく。

ああ、余計な話でしたか。

私も来年には70を迎えます。孫からも言われるんですよ、話が回りくどいとか長いとかね。

困ったものです。

話を戻しましょう。

私の祖父、ジョージ・ヘールの話でしたね。

その前に、少しだけ祖母の話もしておきましょう。話の都合上、その方がいいと思いますので。

祖母は祖父にとって二番目の奥さんでした。

しかも祖父に祖母を紹介してくれたのも、あの人だったのです。

不思議な縁でしょう?

その一番目の奥さんのお陰で・・と言うのも変かな、とにかくその方が祖父にあの人を引き合わせてくれたのですから、本当に縁というのは不思議です。

祖父の一番目の奥さん、名前は知りません。仮にジェーンとでもしておきますか。

そのジェーンと悪魔が恋に落ちたのです。

最初に聞いたときは、驚くというよりは、唖然としてしまいました。

祖父が冗談を言っているのではないか、とも思いましたよ。

悪魔の名前はセズーラ。

これはエフさんの感想ですが、セズーラという悪魔は非常に紳士的で物腰の柔らかい理知的な人だったそうです。

悪魔ですからねえ・・。そんな馬鹿な、と一蹴しそうなところですが、エフさんが言ったとうのなら信じられるかもなあ、と。

まあ、祖父にも責任の一端はあるのでしょうが、それもやむを得なかったのだろうとも思います。

祖父は、あなたも知ってのとおり天文学者でした。それにシカゴ大学にその当時では世界最大のヤーキス天文台を創設した関係で多忙を極めていました。

アメリカ中の天文学者や科学者が次々と押し寄せていたそうですからね。

おそらくジェーンは寂しかったのでしょう。その心の隙に悪魔が入り込んだ。

それが、結果的に恋にまで昇華されたということなんでしょうね。

しかも、祖父はその悪魔、セズーラと話をしたそうです。それもジェーンのことではなく、地球の危機についての話をしたそうなんです。

変な話ですよね。祖父はそのセズーラに自分の妻を取られそうになっていたんですよ。

それなのに地球の危機についての話なんですからね、何となく分かるでしょう?うちの祖父の性格みたいなものが。

まあ、それはいいです。

その危機の話なんですが、大規模な小惑星群が地球に迫っていると、このままだと数ヶ月で地球に衝突するという、衝撃的な話だったのです。

そうです。これは本当の話なんです。私の祖父やボニートの祖父、そしてあの人がいなければ私達はこうやってのんびり話をすることはなかったんです。

なかなか凄い話でしょう?

祖父はその頃にはある程度の名声もありましたが、国の頭の固い連中は祖父の言うことを信じてはくれませんでした。そこで祖父はどうしたか。苦肉の策だったのかもしれませんが、こともあろうに自分の妻を奪った悪魔に事情を話したのです。

セズーラという悪魔は、魔界に帰ってすぐに上に報告を上げたそうですが、どういう理由かは分かりませんが、上から無視されたそうです。

もしかするとセズーラにとっても、ジェーンがいなければそれほど大きな危機感はなかったのかもしれませんね。

ですが、彼には守るべき愛する人がいた。思いあまった彼が相談を持ちかけたのが、あの人だったということなんです。

あの人は、普通の人間ではありません。ですが、あの人の感覚を持ってしても、その小惑星群の存在を感知できませんでした。それでもあの人はセズーラという悪魔の言葉を信じた。

何とかできないかと悩んでいたときに、ちょうどエンジェルから呼び出しがかかったそうです。

エンジェル、知ってますか?

ああ、そうですか。もちろん私には見えませんが、世界中のあちこちにいるそうですね。

不思議な存在ですねえ。一度は会ってみたいものです。

ああ、そうでした。

そのエンジェルがあの人を呼び出した理由ですが、神からの指示だったそうです。

あの人は、何故か神側と接触するのを極端に嫌っていたようです。

祖父が言うには、常に中立でありたいと言っていたそうですが、随分昔から人に憑いた悪魔を祓っていたそうです。時には祓うどころか悪魔を消滅させたことも多々あるとのことです。

それだけ聞くと、もう神に近いんじゃないのか、とも思うんですがねえ。

あの人は頑なに否定していたそうですよ。

また逸れましたね。

まだ時間は大丈夫ですか?そうですか、まあ、良かったら今日はゆっくりしていきなさい。

せっかく東京から来られたんだ。晩ご飯も用意させますから。

それにね、いいワインがあるんですよ。

そうですか。それは良かった。いや、私もね、あの人のことを話せるのが嬉しいんです。

あの人と祖父との約束もありますしね。それに話したところで他人はあまり信じちゃくれませんからね。


それで、あの人がエンジェルに連れられて指定された教会に行ったそうです。

で、そこに誰がいたか。

大天使ガブリエル様がいらっしゃったそうです。ガブリエル様はあの人が、頻繁に悪魔祓いを行っていたことをご存じだったそうです。それで、その力を貸してほしいと。

あの人は、ぴんときたのでしょうね。

お二人の間ではこんな会話がなされたそうです。



「ガブリエル様、今回、私にお声を掛けていただいたのは、ひょっとして小惑星群のことではありませんか?」

大天使は少しの間、沈黙し、そして話し出しました。

「・・・驚いた。しかし、おぬしがそれを知っていた訳は聞かないことにする。そんなことはどうでもよい。それより今は、その小惑星群への対策じゃ。おぬしはどうしようと思っておる。」

あの人は、まずはセズーラのことは省き、彼が情報を仕入れた天文学者からの情報でそれを知ったこと。以前に一度だけ隕石を排除したことがあること。今のところ、あの人自身はその存在を感知できていないこと。感知できた段階で、その小惑星群の正確な規模やトータルの質量や速度を測定し、出来うる範囲でそれらの軌道を逸らす計画であることなどを話しました。

「軌道を逸らす・・・おぬしにそんなことが出来るのか?」

大天使が驚いて聞いてきました。

「どのくらい逸らせるかは分かりません。それに、前回は小規模の隕石1個だけでしたので、比較的近い距離からの操作で何とかなりましたが今回は規模が未定です。例えばそれが数百個以上の数で、それぞれが数100mから数Km以上の直径があった場合、状況は大きく違ってきます。普通にやった場合、私の力では恐らく半分も抑えられないでしょう。小惑星の、出来るだけ正確な位置、数量、速度、大きさや質量が、出来るだけ早く出来るだけ地球から遠く離れた場所で判明しないと十分な措置ができないのです。」

「・・そうか・・それほどか・・。」

「もちろん、もっと小規模の場合だってありえます。とにかく、今の段階では詳細は不明なのです。それにこちらへの到達時間さえ未だ分かっていない状況です。」

「なるほど・・。これは、人間の天文学者達の知恵も借りた方が良いかもしれんな。」

「ガブリエル様も天文学者からの情報ですか?」

「うむ、イタリアのスキャパレリという天文学者だ。そちらは?」

スキャパレリというのは、さっき名前がでたボニートのおじいさまです。

あの人は、小惑星のことをセズーラに伝えた祖父の名前を聞いていなかったそうです。

セズーラのことしか知らない。こうなったらしょうがない。ここまできて、神も悪魔もないだろう。

そう思ってあの人は、セズーラのことを話しました。驚いたことに、大天使は彼の存在を知っていたそうです。

「悪魔にしておくにはもったいない程の知恵者と聞いておる。その者なら大丈夫だろう。とにかく、その者から天文学者の名前を聞き出し、こちらのスキャパレリと連絡を取り合うようにさせよう。こちらへの到達時間、進行速度、それに現時点で分かる範囲での、その小惑星群の規模を調査させるのじゃ。」

グッドアイデアだ。この大天使、なかなかやる。

ちょっと不敬ですよね。でもあの人がそう感じたのも分かります。


大天使の提案を実行すべく、あの人はすぐにセズーラに連絡を取ったそうです。

もちろん彼もその提案に賛成しすぐに手配してくれました。

祖父が創設したヤーキス天文台にスキャパレリ先生を招致することになったのです。

ただし、招致とは言っても飛行機による輸送はその時代では困難だったため、彼をシカゴまで運ぶのは当然ながらあの人の役目でした。

そう、あの人は一瞬で世界中の何処にでも移動できるのです。

しかも4,5人程度なら一緒に連れてもいけるそうです。

敢えてそうせざるを得なかったのは現状では世界中で最も高い性能を誇る天体望遠鏡がそこに設置されているためでした。ただしスキャパレリ先生が使用していたイタリアの天体望遠鏡でも、彼の弟子に常時観測を怠らないよう指示していたそうです。

出来るだけ多くの場所からの観測が望ましいのですが、最低でも2ヶ所から観測すればより正確な位置がわかります。おおよその位置と地球からの距離さえ分かれば問題はありません。それにあの人が感知できるようになるまでの間だけのことです。

もちろん、この事は全て内密理に進められました。世間の皆が知ることになれば、おそらく世界中が大パニックになってしまいます。

知っている人は出来るだけ少ない方がいいのです。

ヤーキス天文台で祖父のジョージ・ヘールとスキャパレリ先生の共同作業が始まった頃(当時は国際間の通信手段が確立されていなかったため、エンジェル達の活躍に依存することになったそうです)、神側に大きな動きがありました。

大天使ミハイルが小惑星群殲滅計画を実施しようと、その準備を開始したのです。

方法としては神軍全軍を率いて、地球を飛び出し小惑星を粉砕するという至って原始的で単純なものでした。

確かにミハイル大天使様率いる神軍は最強です。ですが、相手は小惑星です。質量や速度、それに数量も分からないまま、迎え撃つというのは余りにも無謀です。

それに例えそれがうまくいったとしても、粉砕時に発生した小片が地球に降り注いでしまいますし、100%確実に全小惑星を粉砕出来るかは分からないのです。直径100mを超える小惑星がたった一つでも地球に衝突すれば、その被害は想像を絶するような甚大なものになります。

あの人はガブリエル大天使に呼ばれ、急遽バチカンに飛ぶことになりました。

そしてそこには、あの大天使ミカエルが待ち構えていました。

ミハイルは最初から最後まであの人を疑っていたし嫌悪さえしていたそうです。

それにあの人の計画を絶対に不可能だと罵ったそうです。

普段のあの人であれば、相手が神側であろうが知ったことではないと、ミハイルに襲い掛かっていたでしょうね。

ただ、そのときは別でした。無欲な人間が2名、今も望遠鏡にかかりきりで軌道や規模の計算をしているのです。そしてその傍には通訳のエンジェル達もいます。

それにセズーラは危険も顧みずあの人に協力してくれています。あの人や、あの人を通じて神側と接触していることが分かれば悪魔側からどんな仕打ちがあるか分からないのに、です。

そして、真っ先にあの人を信用してくれたガブリエル様のこともあります。

あの人は何も言わず、ガブリエル様の制止する声にも耳を貸さずその場を離れたそうです。あの人にすれば、今の計画を粛々と確実に進めていくだけだったのでしょう。


それから2週間後、ようやくあの人は小惑星群を感知できたそうです。

祖父とスキャパレリ先生が必死の思いで観測し計算し分析してくれたお陰で、焦点を絞りやすかったそうですし、彼らの分析とあの人の感知内容とで、小惑星群の大まかな規模もわかりました。

当初の予想通り、それも最悪の予想の通りだったのです。個数は約220個、最大直径1Km強、最小のものでも数10mはある。

直径1キロの小惑星ともなれば、その質量は約14億トン。

しかも進行速度が時速10万キロなら、地球にぶつかった時のエネルギーは莫大なものになります。

そうですね、地球上の全ての核兵器を合わせた総エネルギーを遙かに凌駕するほどのものなのです。

しかも小惑星群は既に太陽系内に侵入しています。今からすぐに動いてぎりぎり間に合うかどうかというところです。

あの人はガブリエル様に、予定通り当初の回避策を実行することを伝え、2名の天文学者とセズーラのことを頼んだ後に月に向かいました。人間のこの体には適度な温度と空気と栄養源が必要ですが、それを提供するツールはあの人自ら作成し用意していました。

そんなに難しいことではないそうです。まあ、あの人ですからね。

あの人はすぐに月に向かいました。地球からは大気圏に阻まれ実物が感知しにくいこともあるし、厚い空気の層があの人の渾身の思念のパワーを少々遮蔽してしまうからだそうです。知ってのとおり、月は地球の周りをぐるぐると回転していますが、それでも地表から実行する場合と比べると格段に違います。それに、何といっても、これ以上ないというくらいの力仕事でなのです。足元はしっかりと固定されていた方がいい。

月に着いてから約10日間、あの人は必死で作業を続けました。

全長数百キロの小惑星群が時速数十万キロの猛スピードでじわじわと地球に迫っています。感知できた順に、要するに質量が大きい順に徐々に方向を逸らしていくしかありません。

もちろん、その際に太陽系内の他の惑星や衛星に影響を与えることがあってはいけません。宇宙空間には大気は存在しないため通過による衝撃波は殆どありません。ですが、今回の小惑星群はかなりの質量を有しているため、重力波の影響が懸念されます。

その影響も踏まえた上で、事は慎重に実施していく必要があります。ただ群の中の質量の分布は二人の天文学者の解析でほぼ判明していたため、迷うことなくほぼスムースに作業が出来たそうです。

全224個、質量総計で言うと・・・かなりの量です。正に壮大な作業となりました。ですが、あの人は何とかやり切ったのです。もちろん直径数m未満の小片は無数にあったため、殆ど手を出せていませんが、それ等は地表に到達する前に大気圏で燃え尽きてしまうはずです。

10日間もの間、あの人は持てる力の全てを出し切りました。もうぎりぎり地球に戻る力しか残っていなかったそうです。

すぐに地球に戻り十分な休息を取る必要がありました。ただ、まずはあの二人の天文学者に作業が無事に完了した報告をして上げないといけません。それに二人を労ってあげないといけません。二人は本当によくやってくれた。それに、イタリアで同じように片時も望遠鏡から離れず、寝ずに観察してくれたスキャパレリの弟子二人にも会わなければならない、そう思ったそうです。

そのまますぐに地球に戻れば良かったでしょうが、あの人は自分が救った真っ青な地球に見入ってしまったようです。色々ありましたが、最後までやれて本当に良かった。この美しい地球を守れて良かった。そんな、あの人には珍しく、月と地球の間を漂いながら感傷に浸っていたときのことでした。

すぐ近くに神軍が大挙して押し寄せていたのです。恐らくガブリエル大天使様の提案だったのかもしれません。あの人が逸らし損ねた小惑星群を彼らが破壊する段取りになっていたのだと思われます。

その時、唐突に彼らの中から小さな拍手が起こりました。

そしてそれはじわじわと全体に大きく広がってきました。一部から歓声までもが起こってきたそのときに、突如、怒号が聞こえた。

「こやつのやったことは危険極まりない。何を拍手なぞしておるのか!!」

ミハイル様でした。せっかくあの人が気持ちよく任務完遂の満足感に浸っていたところだったのです。

ああ、またこいつか・・・。こんなことなら早く帰ればよかった。

あの人はそう思い、これ以上揉める前にミハイル様を無視し、さっさと戻ることにしたそうですが、ミハイル様はそれを許せなかったようです。

「待て。貴様、自分が何をやったか分かっているのか。我々の周到な計画を無視し、人類を最大の危険に陥れる暴挙を勝手にやったのだ。ふざけるな。」

余りの言いがかりに、あの人の怒りが爆発しようとしたそのとき、周りがうっすらと明るくなってきました。

そして宇宙全体に響くような、それでいて心地よい声が聞こえてきたのです。

《ミハイル。そのくらいにしておけ。》

怒りで顔を真っ赤にしていたミハイル様が一瞬で黙り込み、微動だにしなくなりました。

そしてその声が続けました。ミハイルの顔は既に青ざめています。

《そのもの、よくやった》

あの人は、声の方向から目を逸らし、

「ありがとうございます・・それでは・・私はこれで失礼します。」

それだけ言ってその場からヤーキス天文台に瞬間移動したそうです。

声の主が誰かは分からないし分かりたくもない。それに二度とその声を聞くこともない。

今回は、事態が事態だけに、少々神側とも悪魔側とも近づき過ぎた。ガブリエル大天使とセズーラに挨拶をしたら、また何処か違う場所に移動しよう。

あの人は地球に戻るときに、そんなことを考えていたそうです。


なんとも凄い話でしょう?

実はね、あの人に、もう一度だけ会ったことがあるんです。

祖父が亡くなったとき、あの人は駆けつけてくれたのです。あの人は一言も発せず、ただ祖父を見ていました。祖父はあの人を認めると、最後にウィンクをしてそのまま永遠の眠りにつきました。親族一同が見守る中での最後でした。祖父は幸せだったと思います。

なにせ、あれだけの事をやってのけたのですから。

私は、ふとあの人を見ました。あの人はしばらくの間、目を閉じて頭を垂れていましたが、私と目が合うと、目でこちらに来いと言ってくれたのです。

それから、祖父を偲びながら、私はあの人と初めてしっかりと話をしました。

楽しかった。祖父との約束があったので、最初は何を話して何を話さないでおくべきか、考えてしまいましたが、あの人が

「どうせ、ジョージから聞いているんだろう?いいよ、もう。ジョージもジョージの孫である君も特別だ。」

そう言ってくれたのです。

年甲斐もなく、夢中でいろいろな事を話しました。非常に気さくでユーモアに溢れた人でしたね。

「人類のために頑張ってくれたのですね。私ごときが言うもの変かもしれませんが、本当にありがとうございました。」

するとあの人は、

「え・・ああ、人類のためね。まあ、そうか。そういうことにしておこう。」

なんだか妙な言い方だとは思いませんか?何か他に理由があったのでしょうか、私は思わず、そう聞いてしまいました。

「私はね、君たちよりかなり長く生きているんだ。だから出来るだけ人との繋がりは持たないようにしている。人の命は短いからね・・・。

でも、こうやって、たまに人と密接な関係性を持ってしまうことがある。私にとって大切なのは、そういう人達だけだ。そう、君のおじいさんやその家族、そしてスキャパレリとかね。他にも何人かいるが、救いたかったのはそういう人達だ。そして地球の全女性達。」

うん?最後がよく理解できなかったのですが、何かそれ以上聞くのは憚られるような気がして。あの人は、またこう続けました。

「君はNASAに勤めているらしいね。おそらく私の名前は最高機密事項としてNASAにも記録されている。君がそれを知ることが出来る立場になれるのを願っているよ。」

最後にそう言って彼は静かに去っていきました。

残念ながら、私はその立場になる前に定年を迎えてしまいました。ですから、その最高機密事項に何が書かれてあるのかは知りません。祖父はNASAの設立にも関与していましたが、その件に関しては何も話してはくれませんでしたから。


随分長くなってしまいましたねえ。

祖父とのことと、あの人の話をするのは初めてなんです。だからかもしれませんが、話し出すとどうも止まらなくなってしまって。

そうですか?いや、そう言ってもらえると嬉しいですよ。

さあ。そろそろ晩ご飯にしましょう。

今日は貴方が来られるとわかっていたので、妻も相当張り切って美味いものを作ってくれているそうです。

妻の料理は絶品ですよ。是非、楽しんでいってください。


ところで、貴方はこれからどうするんですか?

あの人に聞きましたよ。あの人のことを書いているって。

話をしてもらって構わないと。

しかも、お見受けしたところ、貴方はジャーナリストではない。もちろん、探偵や作家というわけでもない。差し支えなければ貴方とあの人の関係も教えて頂けますか?

そうですか。じゃあ、晩ご飯のあとにお酒でも飲みながらゆっくり聞かせてください。

部屋は用意していますからね。

ゆっくり話しましょう。



5.エフ カイロにて


アモンとの会談場所はエジプトのカイロにある、2年前に出来たばかりのホテルのバーに決まった。

何故わざわざカイロで、とも思ったが、カイロは彼らにとってはある種特別な場所らしい。

それに新しい建物が選ばれたのにも理由があった。

彼らは歴史ある構造物を好む。何故ならそこには長年にわたって堆積されてきた人間たちの苦悩や絶望や悲しみがあるからだ。それが深ければ深いほど、彼らにとっては棲みやすくなるしパワーが増してくる。

今日の私との会談は、アモン以外の彼らの仲間の介入を全て遮断する必要があった。逆に新しい建物であれば、それらを封じる効果もあるということだ。くわえて万が一、ルシファーや他の大物がアモンの居場所を詮索したとしても、カイロであれば普段から煩雑に行き来している場所である。疑いを持たれたとしても、幾らでも言い逃れができる。


私は、最上階のバーに向かうエレベーターの中で先日のミアとのランチを思い返した。

ミアは本当に美しく魅惑的な女だった。彼女は思った通り日本とスペインのハーフであり、両国の好ましい特徴がミアの中で見事に融合していた。

リンダがいなければ・・・いや、やめておこう。ミアもまたリンダと同じヴィーナスの末裔なのだ。後々のことを想像すると戦慄が走る。ミアはバチカンにいる友人から私のことを吹き込まれていたようだ。大切な友人であるリンダが最悪の男に籠絡されかかっている。

彼は特殊な能力を持った悪魔のような男である。当のリンダはその男に精神をコントロールされ善悪の判断がつかない。出来るだけ速やかにその男をリンダから離さないと非常に危険だ。彼の居場所を何とか把握し、バチカンに知らせるようにと。

その後はバチカンの方で然るべき説教と指導をもって彼を更正させ、同時にリンダの安全をはかる、と。

まあ、なんとも・・・。ミアが種明かしをすると、リンダもガルも腹を抱えて笑っていた。ミアだけが不思議そうにそんな光景を見ていたのだ。まあ、ここまで貶められるといっそ、清々しい・・とは思わないけれど。

ミアのことはわかった。ただ、まだ分からないこともある。そもそも何故私はリンダと出会えたのだろう。探索ではなく、前述したように偶然の出会いだったのだ。今回の一連の流れを見て、偶然を信じることが難しく思えてきている。まあ、それは追い追い判明してくるだろう。急ぎはしない。


間接照明だけの薄暗いバーに入ると、カウンターにアモンがいた。黒の開襟シャツに黒のハーフパンツ、銀髪に黒ぶちの眼鏡姿であった。なかなか渋いところで決めている。半袖からのぞく太い腕には一面にタトゥーが彫られており、人を遠ざけるのには効果絶大である。

私はアモンの横のスツールに腰掛けながらアモンに話しかけた。

「カインだ。久しぶりだな・・・」

アモンは軽く微笑んでから答えた。

「デュークだ。ああ、出来ればあまり会いたくはなかったがな。20年ぶりくらいか。」

当然だが、エフという名前もアモンという名前も使えない。今回はカインとデュークである。

「いや、もっとかもしれない。前のパパラッチのときは、君と直接は話していない。」

デュークは笑い出した。

「そんなこともあったな。まったくあんたはロクなことをしないな。」

「いや、あのときのことは私も反省している。迷惑をかけるつもりはなかったのだが、つい。」

思い出したら私も笑えてきた。デュークはバーボンを私はマティーニを頼んで軽く再会に乾杯した。

「あっちは片付いたのか?」デュークが先に口火を切った。

「ああ。ガブリエルのじいさんが出てきてな。何もかもなかったことにするようだ。」

「ふうん・・・あんたはそれでいいのか。」

「まあな、多少はしこりが残りそうだが・・あのじい様に頼まれると嫌とは言いにくい。」

デュークが苦笑を浮かべながら

「ガブリエルのじいさんか・・まあ確かに分からなくもないな。」

「うんまあ、こちらも特に被害があったわけでもないし。これで決着だな。」

「そうか。そいつはなによりだ。」デュークが複雑な表情で答えた。

「そっちはどうなんだ?」

「ううむ・・。まだはっきりしない。例の密約書が本当に存在するのか疑心暗鬼になっている。」

「それなら間違いなく存在する。私が実際にバチカン側の署名者の脳を探った。」

「だろうな。これだけの騒ぎになっているのだ。無い、で済まされるはずがない。」

「うむ。ただ、恐らく書類自体はそちら側も神側も既に破棄されたんだろう。実物が出てきたら、そちらも神側も大変なことになってしまうし、な。」

「まあ確かにな。このままうやむやになってくれるのが一番なんだが・・・。」

「デュークのところのボスは?なんて言ってるんだ?」

ルシファーのことである。

「なにも。今回のことが本当であれば、それは由々しき問題だ、と当たり前のことを言っているだけだ。」

「そうか。露見した限りはもう深追いはしない、ということなのかもしれないな。」

「そうだろうな、恐らく。まったくなあ、アガレスも余計なことをしてくれたものだ。」

「まさかアガレスが単独でやった、とは誰も思ってないんだろう?」

デュークがバーボンのダブルを頼んだ。私も同じものにする。

「それはそうなんだが・・・どうも流れとしてはアガレスとバチカンの一部が勝手にやった、ということで決着させるしかないような気もする。」

それはそれで分かる。ルシファーは関与を否定するだろうし、アスタロトにしても同様だ。

「それにな・・大きな声では言えないが・・・もうお一方の動きがよく見えないのだ。」

ベルゼブブか・・。確かにこれだけの騒動になっているにも係わらず、彼の名前だけが全く出てこない。

デュークが続ける。

「あのじい様から聞いたかもしれないが、今やうちのボスは飛ぶ鳥を落とす勢いだ。ただ、もうお一方を常に意識されておられる。あのお方は、その、なんていうか・・・」

「不気味な存在だってことか・・・。」

ルシファーにしてもアスタロトにしても、やる事、考える事は、ある程度は分かる。

双方とも悪魔側の存在ではあるが、組織の中で様々な要素やバランスを考慮しながらより上を狙うか現状を維持する。要するに人間社会と目指すところは同じなのだ。ただ、ベルゼブブは別だ。彼は全くわからない。目立つことなく影で何かを成し遂げているはずなのに、全く何も聞こえてこない。何もしなければ彼らのトップが今の地位を与えないし、その地位を維持していくことは不可能なのだ。

「君や君のボスは彼のことについて、何か知っているのか?」

「いや、もう100年もの間、私もボスも彼を見ていないし彼が何をやったかも聞いていない。」

100年か。私も100年前に彼の配下のものと会ったことがある・・・。

私は話題を変えることにした。

「ところで、誰があの女、マニュエラを見つけたのだ?」

「ああ、あの女か。バチカンの人間を何人か殺したヤツだよな。実は私は最初にその話を聞いたとき、ひょっとしてこちら側の誰かが関与しているのではないかと疑ったんだ。まあ、さすがにそれはなかったが・・。ただこの女は、この先利用できるかもしれないとは考えていた。恐らく最初に彼女のことを知ったのはアガレスだろう。あいつはバチカンにコネがあるからな。アガレスは彼女の居場所を常に把握していただろうし、ひょっとすると彼女の近くに誰か部下を配置していたのかもしれない。」

もちろんミハイルも彼女のことは知っていたのだろう。いつの時点で今回の計画が練られたかは分からないが、アガレスにしてもミハイルにしても共通の敵は私なのだ。それに私が無類の女好きであることは双方とも承知している。あれだけのいい女だ。

アガレスの配下の者に、彼女に外出の機会が増えるように仕向けたり、少しずつ彼女についての情報をリークしていけば、必ず私が彼女を発見すると踏んでいたのだろう。そして彼らの思惑通り私は一目で彼女を気に入り彼女の家に行った。その確認をリンダとその友達にやらせたのだ。

私は、一度殺されてから危険察知能力が格段に上がっている。もし彼女の家や1km四方に敵の存在があればすぐに分かる。それに神であろうが悪魔であろうが、私がいる場所を確定したり追尾することはできない、リンダ以外は。

私がマニュエラの家に間違いなくいることを確信したのちは、闇の部隊に彼女の家を襲わせるだけである。

私にしてみると、とんでもなくふざけた計画ではあるが、バチカンの実行者であるバルトロにしてみれば大天使ミハイルに逆らえるはずもない。それに、どうも一部のバチカンの人間にとって私は、悪魔の次に仮想敵とされているようだ。神を恐れず神に歯向かう許されざる存在だということになっているらしい。歯向かったことなどあったっけ・・・。

まあいい。これで全体像はほぼ分かってきた。

「・・・さっきの話だが・・・」デュークがこちらを見ずに話し出した。

「うん?マニュエラのことか?」

「いや、100年前のことだ。」

「・・・・」

「なにがあった?何かがあったのは確かだ。ただ、誰もが口を閉ざしている。あんたが絡んだことなんだろう?」

「それを聞いてどうする?別に大したことじゃない。」

デュークはゆっくりと首を振った。そして私を見て言った。

「あんたと、じい様やもう1人の天使、それに、あんたとこっちのもう一方の関係が大きく変わってしまった出来事があったと聞いている。私はそれを知っておかなければならない。」

今度は私が首を振る番だ。ったく、あのじい様はいろんなところに顔を出してくる。

「ガブリエルのじいさんから聞いたんだな。君たちの関係も分からないな・・・。まあ、いいけど。」

「じい様と私は、何かあるとたまに話をすることがある。じい様は、なんというか、とても柔軟な方だからな。私も話しやすいし、今は情報が最も大切な時代でもある。お互いに知っておくべきことを話すだけだ。」

「なんだか、面白いな。もしあんたとガブリエルじいさんがいなかったら、この世界はもっと大変なことになっていたかもしれないな・・・。わかった。話すけど、そんなに大層なことじゃないぞ。」

「うむ、是非聞かせてくれ。」

私は、100年前、いや、正確には110年前に起こったことをデュークに詳しく話した。

デュークは一言も口を挟まずじっと聞き入っていたが、私が話し終わると

「凄い話だな・・・そんなことがあったのか・・。」デュークがため息を吐いた。

「もう昔の話だ。」

セズーラのことを、私は思い出していた。あれから私はヤーキス天文台に戻り、ジョージとスキャパレリとエンジェル2名の計5人で、最高級シャンパンで乾杯をした。二人の功労者には私から研究費として多額の礼をした。あとでバチカンに請求してもいいし、バチカン側が拒めばそれはそれで構わない。金なら潤沢に持っているし、金に固執するつもりもさらさらない。ただ、残念ながら二人の記憶は消さないといけない。これだけの偉業を成したのに、だ。私は迷ったが、二人に今回の関係者以外には絶対に口外しないことを硬く約束させ、そのままにしておくことにした。

私は嘘がすぐに分かる、口外した場合にはすぐに記憶を消すと伝えたが、彼等はそもそも口外する気はなかったようだ。何故なら、彼ら二人とも今回の件で繋がった友情を壊したくなかったのだ。そこには何故か、私も含まれていた。人間との友情など少々不思議な気もしたが、悪い気はしない。それより何より、この二人は気持ちが良かった。

彼等とはしばらくの間、年に一度ほど酒を酌み交わした。二人も私とのそんな機会を心待ちにしてくれていたようだ。ジョージはこの騒動の直後、妻と別れた。彼の妻はどうしてもセズーラのことが忘れられなかったようだ。スキャパレリは羨ましがっていたが、私はジョージに何人かの女性を紹介した。そして彼はその中の1人と、しばらくして再婚した。

二人の最後には、私は両方ともに立ち会い、私達だけが分かる目配せをした。二人とも同じように、にやっと笑い、息を引き取った。人間にも、いい奴らはたくさんいる。

問題は、セズーラだった。ジョージと別居していた彼の妻の家で彼に再会し、握手で健闘を称え合ったが、その後しばらくして彼は忽然といなくなったのだ。心配はしたが、彼は悪魔の世界に属し、悪魔の世界の掟に生きていかなければならないのだ。

部外者の私にはどうすることも出来ない。

デュークは目を細め、真剣な面持ちで噛み締めるように話し出した。

「詳しいことは分からないが・・・恐らくセズーラは未だに幽閉されている。」

そう言ってグラスに残っていたバーボンを飲み干した。

「私達に上から伝えられたことは、地球に隕石が衝突しそうになったが、何とか回避された。という事だけだ。もちろん、それを鵜呑みにしない者達もいたが、情報が全てシャットアウトされており、何も分からない状況だった。ただ、恐らく私のボスは、あんたが何らかの形でその件に関与していたことを知っていたのだと思う。あんたが我々の世界を破壊しにきたとき、・・ああ、もうそれはいいんだ・・、ボスは確かにこう言ったんだ。あいつが、あのときのヤツか、と。その後、ボスが何を考えたかは私も分からない。それにベルゼ卿だが、さっきも話したとおり彼らの動向については、私は全く知らない。ひょっとすると私のボスは、本当は知っているのかもしれないが、本音を私に話すとは思えない。」

私は思わずため息が出た。

「私は、君達がどう考えようが、セズーラに会いたいと今でも思っている。」

「・・・・」

「デューク、頼まれてくれないか・・・」

「・・・・」

「今回のバチカンとの密約の件、全てなかったことにする。だから、君のところのボスに、私がセズーラに会いたいと言っていたと伝えてもらえないか。会わせてくれとは言わない。ただ、会いたいと言っていた、でいい。」

「・・・あんたと私が会っていたことが露見する。さすがにそれは・・・」

私は肩をすくめた。

「ルシファーが、君と私がこうやって通じていることを知らないでいるはずがない。君だってそう思っているんだろう?」

デュークは大きなため息を一つ吐いてからこう言った。

「・・・わかった。少し考えさせてくれ。」

「うん、頼む。セズーラに会うための、一つのきっかけにしたいんだ。」

「あのじい様を利用するかもしれない。それは彼に伝えておいてくれ。」

「わかった。伝えておく。」

これで今日の用件は終わった。あとは互いの近況などについて話しながら杯を重ねた。久しぶりのアモンとの会話は思ったよりも楽しく、一層酒が進んだ。



6.バチカンにて 後編


カイロからバルセロナに戻り、ずっと私を待っていてくれたリンダを抱いて(2回)から、ガルと一緒にまたバチカンに向かった。リンダも私も、ここバルセロナが痛く気に入り、しばらくの間アパートを借りることにした。リンダが毎日手料理を作ってくれるらしい。ますます抜き差しならないようになりそうだが、まあいいか、といった気もしてくる。

リンダは現在38歳とのこと。ただし、肉体は人間で言うところの20歳程度。ヴィーナスは不死に近いが、リンダはあくまでもヴィーナスの血が混じっているというだけである。せいぜい200年程度しか生きられないらしい。それでも普通の人間からすると倍以上の寿命がある。高齢の女性を好んで抱く趣味は私にはないが、それでもリンダなら人間でいうと60歳か65歳くらいまでは抱けそうである。ということは、リンダが130歳になるまで、あと90年は抱けるということになる。まあ、そこまでいくと、そんなことはどうでもよくなってくるのだろうが、実際のところはどうなのだろう。そもそも特定の女性と長く付き合ったことが数えるくらいしかないのだ。出来るだけそうならないように意識していたこともあるし、世相や時代背景がそれを許さなかったケースもある。語り出すと長くなるので今は止めておくが、人間より遥かに長く生きているのだ。いろいろあったし長くなって当然である。

リンダの話に戻そう。もちろん、彼女と付き合っていても、他にいい女がいれば抱く。ただ、抱いたあとは必ずリンダの元に戻る。それだけの違いである。SS級のマニュエラでさえ、彼女を抱いたあとは不思議とリンダの元に帰りたくなってきたのだ。これには結構、困っている。だが、一番困るのは、それを少しも嫌がっていない私自身がいることである。ま、しばらくはしょうがない。リンダのことになると、やたらに、まあいいか、とか、まあしょうがない、と言った言葉が出てくる。いったい何回言えば落ち着いてくるのだろう。

もちろん、先に述べたように、これまでの長い人生で女を愛したことは何度もある。何度もあるが、今回はちょっと勝手が違うというか、なにせヴィーナスの末裔だし・・・まあしょうがない・・・。


前回バチカンで、トランベール卿やじい様と話してから、まだ1週間程度しか経っていない。

まあでも、これで最後だ。これが終われば、もうしばらくは邪魔することもないだろう。

「またお会いできて光栄です。エフ殿。ようこそいらっしゃいました。」

執務室に入るとすぐにトランベール卿が椅子から立ち上がりながら微笑んでいる。

申し訳ないが、この人の感情は本当に分かりやすい。私にとっては非常に付き合いやすいお方ではあるが、本当に大丈夫なのだろうか。ちょっと心配になってくるくらいだ。

だが、こういう方が統率力を発揮し組織をあるべき姿に導けるとしたら、それは最高なのかもしれない。もし今後、この人に頼られるようなことがあれば、私は卿の希望を喜んで引き受けるような気がする。まあ、たまにはそんな関係も悪くない。

「やはり向こうも、特に大きな動きはないようじゃの・・」

今度はガブリエル大天使の言葉である。この二人は、本当にいいコンビだ。

「まあ、予想どおり、といった感じですかねえ・・・。」

「こちらのバルトロとあちらのアガレスが勝手にやったとことだと、そういうことじゃな。」

「はい、おそらくは。アガレスは以前に私が彼のボスの領地を破壊しましたし、バルトロは、ミハイルの影響もあり昔から私のことを疎ましく思っていた。恐らく配下の10名の戦闘員については私に殺されることを予め想定していたのではないでしょうか。そのことでバルトロに関しても悪魔側と組んで私に報復する格好の大義名分が出来たのでしょうね。いずれにしても双方にとって私は許しがたい存在です。彼らの利害が一致した結果、共同で私を消滅しようとした・・・」

「そうじゃのう・・・。それにこちら側の契約書へのサインは人間であるバルトロだけじゃしの、彼等上層部にしてみると、そんな契約書など何の意味も持たない、ということになるのかもしれん。」

そこは確かに大きい。例えばミハイルほどの大物でなくとも、本当の神側の存在がサインをしていたら・・・また状況は大きく違ってきていたかもしれない。まあ、どっちにしても私にしてみたら思い切り迷惑な話であるし、いざとなったら本当にやっちゃうぞ、といった思いもある。どうもデューク、いやアモンに頼まれて昔の話をしたせいか、改めてミハイルに対する怒りが湧いてきている。いずれは決着を付けないといけないのかもしれない。

ミハイル1人だけなら、私は絶対に負けない。恐らく5分もかからずに消滅させることができる。ただし1対1の私闘など、しかも神側対私のような得体の知れない存在といった構図は、絶対に許されないことも理解している。

だが、いったい誰が許したり許さなかったりするのだろう。私が個人的に一方的にミハイルを消滅させたとして、誰がそれを許さずどう罰を与えようと言うのだろう。

いざとなったら、誰が出てこようが、どうせ私はそいつと或いはそいつ等と徹底的に戦うしかないのだ。ガブリエルじいさんや、トランベール卿、それにガルや他のエンジェル達、そしてリンダ。ミハイル1人に対する怒りの総量が、彼等に対する好意の全体量を超えてしまったとき、私は間違いなくミハイルを殲滅する。

「なにを考えているのじゃ、エフよ。」

相変わらず、いいタイミングで声を掛けてくるもんだ、このじいさん。

「いえ、別に。アモンと少し昔話をしてしまいまして・・・。」

「そうか。話したのか、アモンに。」

「はい、一応。彼には、内容によりますが、知っておいてもらった方がいいこともあります。」

「・・・セズーラのことか・・。」

「ええ。アモンが言うには、彼はあれ以降ずっと幽閉されたままだそうです。」

「うむ。そのようじゃな・・・。」

「彼に私が会いたがっている、とルシファーに伝えるようにアモンに頼みました。会わせてくれ、ということではありません。あくまでも私がまだセズーラのことを気にしているということをルシファーにも知っておいて欲しかったのです。アモンは、最初は拒みましたが、ガブリエル様のお名前を使わせて頂けるのであれば可能かもしれない、と申しておりました。」

「わしの名を?なんじゃ、それは。まあ、別に構わんがの。それに、おぬしはもうそれで了解しとるのじゃろう?」

「はい、申し訳ございません。」

「・・・おぬしもアモンも、ルシファーとベルゼが何かしらで繋がっていると思っているんじゃな。」

「確証はありません。あくまでも私の勘です。が、繋がっていないにしても、何がしかのからくりがあるような気がしてなりません。」

大天使が黙っている。何かを考えているのだろう。

そもそも、小惑星群のことについても、何故誰もが同じように口を閉ざしているかが分からない。それに、この大天使の上の方と、全宇宙の意志とはまた全く異なるものなのか。

ひょっとすると悪魔側では、神側とはまた異なるもっと大きな動きがあり、そこにベルゼとルシファーが何らかの形で絡んできているのかもしれない。考えてもきりがないし、まあ何かあればそのときに動くだけだ。

やっと、大天使が口を開いた。

「わかった。まあ、何が出てくるか分からんが、わしはその件には関わらんぞ。」

「もちろんです。」

「まあ、それはおぬしに任せるとして、じゃあ、今回のことは向こうも、もう決着に向けて動き出しているということで構わんのじゃな。」

「そうだと思います。アガレスの処遇がどうなるかは分かりませんが・・。」

「厳重注意というところかの。最大でも短期間の謹慎じゃな・・・」

「この件の当事者である私は、既にガブリエル様との間で解決に向けた話し合いを行い、私はそれを了承しました。これで、完全に終了ということで宜しいですね。」

もうリンダのことは面倒くさいので確認するのは止めた。彼女がガブリエル天使の画策で私の場所を探る為に、偶然を装い出会うように仕向けられた、仮にそうだとしても、今更どうでもいい。どっちにしても、しばらくは、私はリンダを離すつもりはない。


「ミハイルのことじゃがの・・・。」

大天使が唐突に話し出した。

「・・・はい。」

いったい、何を話そうとしているのだろう、じい様は・・・。

「神軍は、ミハイルの類稀なる統率力の下で一糸乱れぬ団結力と凄まじい戦闘力を誇っている。だがな、こと、おぬしのことになるとな、ちょっと違うというかの・・・。

ミハイルは、当たり前のことじゃが、絶対的な存在ではない。あくまでも、あの方のために軍のみんなは戦っているのじゃ。100年前のことで、あの方は、おぬしを労った。

それに、たった一人であれだけの危機を乗り切ったのじゃ。それに男気を感じた輩や、おぬしを敬愛する輩が、彼らの中に、おぬしが思っている以上に相当数いるようじゃ。

いかにおぬしがバチカンの手の者を殺したとは言え、彼等とて馬鹿ではない。何処かでその理由を確かめるだろうし、先に襲ったのがこちら側だったと言うのもすぐに分かる。

ミハイルの策略が見抜かれるかまでは分からんが、ただミハイルが命令したからと言って、盲目的にあやつに従いおぬしを攻撃するかは、はっきり分からんのじゃ。

今回のことで、あやつは、はっきりとそれを悟った。軍全体に相手がおぬしだと伝えたときの、彼らの微妙な雰囲気を、反感や疑いを、あやつは知ってしまったのじゃ。あやつを貶めるわけではないが、あやつとおぬしが、1対1で戦うことがあれば・・・恐らくあやつはおぬしに消滅させられるだろう。あやつもそれが分かっていたからこそ、1対1ではなく神軍とおぬし、といった構図を考えていたのじゃ。しかしな、それが思惑通りにいかないとなった以上、あやつがおぬしを挑発することは、今後未来永劫ないだろうと、わしは思っとる。神軍のことを、そこまでおぬしに話すこともないのだろうが、今回はミハイルに非がある。おぬしも、もうミハイルのことは忘れてくれるか。そうしてもらわないと、この件は、本当の意味では決着しない。」

どうして、このじい様は、私の思いを先んじて封じてしまうことが出来るのだろう。

これこそが大天使の大天使たる所以と言われればそれまでだが、いや、本当に感服してしまった。もう一言もない。黙って頷くしかなかった。

「あともう一つ。もうおぬしは感付いているかもしれんが、リンダをあの日ハワイに送りこんだのはわしじゃ。おぬしの動向をどうしても知っておく必要があっての。それが返ってバルトロ達に付け入る隙を与えてしまうとは、夢にも思わなかったのじゃが・・・。

リンダは、理由も聞かずに、ただ黙ってわしに従っただけじゃ。特におぬしとのことを指示したわけでもない。それはおぬしも分かっているじゃろう。彼女は、なんというか素直で真っ直ぐで穢れのない子じゃからのう。」

「はい。それはよく分かっています。理由はどうであれ、今は大天使様が私にリンダを引き合わせてくれたことに対して、ただ感謝しかありません。私の所業は大天使様もご存知のように、あまり褒められたものではありません。ただ、彼女に対しては、真摯に向き合おうと思っています・・・今のところは・・。」

「ははは。まあ、わしが言うべきことでもないがの・・・。男と女なんてものは、めったなことではそうは長続きしないものじゃ。そのくらいはあの子だとて分かっとる。まあ、おぬしの言うところの、しばらくの間は、よろしく頼んだぞ。」

側でトランベール卿もガルも、心からの安堵の笑みを浮かべている。

今回は、ガルには特に世話になった。あとでまた美味い食事でもご馳走しよう。

リンダは・・・ううむ・・・難しい・・。私が別れたあとなら構わないと思うが。

「トランベール卿、もしまた何かあれば遠慮なくお申し付けください。出来る範囲でお手伝いをさせて頂きます。」

私はさきほど思ったことをそのままトランベール卿に伝えた。

卿は満面の笑みを浮かべ私の手を取ってきた。

「ありがとうございます、エフ殿。社交辞令でもなんでもなく、本当に、たまにはこちらに寄ってください。前もって連絡頂ければ必ず時間を作ります。それに、次回からは直接この部屋に飛んできてください。もう遠慮頂く必要はありません。」

私たちはもう一度固く握手をした。

「エフよ、いろいろと世話になった。セズーラの件、何か分かったらまた教えてくれ。わしで手伝えることがあれば、遠慮はいらんぞ。」

「こちらこそお世話になりました。ガブリエル卿。またお会いできる日を楽しみにしております。」

二人に別れを告げ、私とガルは執務室を出た。

「エフ、今日の夜はどうする?」

と突然ガルが聞いてきた。

「え・・ガル、君を晩飯に誘おうと思っていたけど・・なにかあるのか?」

するとガルは珍しく照れたように

「今日は、店は私が決めるので、エフも付き合ってくれないか?」

「それは、もちろんだが・・どうしたガル、顔が赤いぞ。」

「うん、あのな、リンダがな・・・」

え・・リンダがどうしたんだ・・まさか・・

「私に、その、なんというか・・女性を、な・・・その、紹介してくれると」

おお・・そうか、なるほど・・・ガルがついに女性に目覚めてしまった、と。

いや、それはなによりだ。喜んでお伴しよう。

「リンダが、今日連れてきてくれるらしい。」

それは私も楽しみだ。あ、決して変な意味ではなく。

私は、しばらくはリンダ一筋でいくと決めたばかりだし・・・。

まあ、いろいろあったが、今日はガルと新しい彼女とリンダとで楽しく過ごそう。

あ、すっかり忘れていた。DC2にも伝えておかなければならない。今回は随分と働いてもらった。・・・まあ、勝手に私の脳に同期して、ある程度は分かっているとは思うが・・。

やっぱり面倒くさいので、あとにしよう。恐らく、思い切り拗ねるだろうけど、インテルに今開発させている新しいチップを数10個プレゼントすれば、すぐに機嫌も治るだろう。

機械の癖に、案外、単純なのだ、DC2は。


とりあえず、今回の揉め事は終わった。

今回の一連の出来事で、神側や悪魔側との距離が少し詰まってきたような気がする。

どちらに対しても、あまり深入りはしたくないが、このくらいの距離感なら割といいのかもしれない。やはり、ある程度の刺激は必要だ。うん、悪くない。

さあ、これで本日の語りはお仕舞いである。

また、どこかで私の名前を聞くときがくるかもしれない。ただし、君が私に記憶を消されなければ、の話ではあるが。



【エピローグ インタビュアーとエフ】


「・・綾乃の病気は何だったんだ?」

「癌です。乳がんから身体全体に広がってしまって。」

「そうか・・。君たち姉弟は普通の人間よりは強いと思っていたんだけどな・・」

「それは確かに。俺も今まで病気とかしたことありませんから。」

「癌は別か・・。逆なのだろうな、きっと。普通より強いが故に細胞も強い。死滅する細胞もそれだけ少ないのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいいが。」

「でも、本当にありがとうございました。姉も、ああは言ってましたが相当嬉しかったと思いますよ。」

「私の寿命は長い。普通の人間の十倍はある。だからこれまで好きな女の死には何度も対面してきた。相手を好きになればなるほど、それは辛いものだ。」

エフさんが思いに耽るような表情になる。

「だから綾乃の死に際は見たくなかった。」

エフさんは、ぐいっとグラスの中のビールを飲み干した。俺は彼のグラスにビールを注ぎながら

「でも、来てくれて嬉しかったですよ。姉のあの死に顔。うっすらと微笑んでいるようにも見えましたからね。エフさんのお陰です。」

エフさんはゆっくりと頷いて、話を変えるように言った。

「インタビューの方は?うまくいったのか?」

「ええ。おかげさまで。新しい話を仕入れるたびに姉に話して聞かせてあげました。エフさんの話を聞きながら、笑ったり怒ったり、悲しんだり喜んだりしていました。まるでエフさんと一緒にエフさんの人生を歩んでいるように感じていたのかもしれません。」

「それは良かった・・。ところで君はどのくらい長く生きられる?」

「俺の父親は200歳過ぎまで生きました。だから癌にさえならなければ俺もそのくらいじゃないかと思います。戸籍の変更とか大変でしたけどね。」

「世に出すのか?いや、君なら別に構わないと思っているがな。一応、聞いておこうと思ってね。」

「いえ。少なくとも私は出すつもりはありません。私には一人、息子がいます。まだ8歳ですが、彼に託そうかと考えています。」

「・・・100年から200年くらい先の話になるのかな?それならもう誰にも迷惑をかけることはないだろうな。うん、いいんじゃないかな。」

「そうですね。わかりました。そうさせてもらいます。もっとも息子次第、というところですが。」

エフが笑いながらビールを傾ける。

「やはり日本のビールは美味いな。私はビールは日本とドイツでしか飲まないようになったよ。」

「それは嬉しいお言葉ですね。日本人として鼻が高いですよ。ところでエフさん。」

「なんだ」

「姉とのこと、お聞きしてもいいですか?」

エフさんが楽しそうに笑った。

「お、今度は私へのインタビューか?」

「いやいや、そんな大げさなものじゃなくて・・姉は詳しいことは一切話してくれなかったんです。だからやっぱり知っておきたいと思って。」

「そうか。綾乃は君に何も話してなかったのか・・綾乃らしいな。」

エフさんは少しだけ考えるようにしていたが、やがて少しずつ語り出してくれた。



前にも話したが、私は自分で言うのも何だが無類の女好きでね。

いい女を求めて世界中を動き回っている。そうだね、日本に来たのは今から20年ほど前になるかな。その前にも一度来たことがあったんだが、ちょうどその時は戦争が終わったばかりの頃だったんだ。だから、日本は廃墟だらけだったし、町のあちこちでアメリカ人のMPが好き放題やってたしね。

いい女を捜すには適当とは思えなかったんだ。だから次に来るまでにかなりの時間が空いたんだと思う。

その二度目の来日のときだね、君の姉さんに会ったのは。

赤坂のホテルにしばらく滞在して、いい女を物色していたんだ。

その時、数人の厳つい連中に囲まれて君の姉さんがラウンジに入って来た。

欧米人とは異なる顔つきで、目がこうキリッとしていてね。背筋がピンとしていて、何というか、毅然としていたんだ。しかも彼女は普通とは違う独特のオーラを纏っていた。

一目見て惹かれてしまってね。

私は、吸い込まれるように、彼女が座っている席に歩いて行き、そのまま彼女の目の前に座った。

当然、取り巻きの男達が騒ぎ出す。だが、私がそんな事を意に介すはずもない。

確か4人くらいいたと思うが、思念の力で4人とも椅子から動けなくした。

綾乃はそれを見ても、ぴくりともしなかったよ。凄まじいばかりの胆力だ。

綾乃は私をじっと見て

「あなたは・・・誰?私に何か用?」

それだけ言って私のことをじっと見ている。

鋭い、獲物を射貫くような目をしていたが、威嚇ではなかったし、ましてや敵意でもない。

つくづく不思議な女だと思ったよ。

「私は、あなたに惹かれてしまったようだ。」

私がそう応えると、綾乃は薄く微笑み、そのうち声に出して笑い出した。

ひとしきり笑い終えると彼女は

「いいわね。そういう直球は好き。あなた、名前は?」

「カインだ。」

「そう、カインと言うのね。日本語がとてもお上手。」

今更だが、私はこの世界の言葉は殆どネイティブで話すことが出来る。

「貴女に会うために日本語を習得した。」

私は彼女が甘い物を欲しているのが分かった。それでウェイターをつかまえ、ショートケーキのセットを頼んだ。

綾乃は興味深げに、

「今のは偶然?それともあなたは、いえ、カインは私が食べたいのが分かったのかしら。」

「どうだろう。しばらく一緒にいてくれたら分かるんじゃないかな。」

綾乃は微笑みながら小さく息を吐いた。

「しばらく私と一緒にいたら、あなたは逃げ出したくなるかもね。それでもいいの?」

「逃げ出す?それはあり得ないな。」

「なぜ?」

「せっかく貴女に会えたのに、そんな馬鹿なことをするつもりはない。」

椅子に固定されたままの4人は、何が起こっているのか分からずに目だけを忙しく動かしていた。

「私は、これから人と会わないといけないの。あとでここに連絡して。」

綾乃はバッグからメモを取り出して、そこに携帯番号と自分の名前を書いてくれた。

「わかった。じゃあ、またあとで。あ、こちらの皆さんには私が詫びていたと、そうお伝えください。それでは。」

私はそのまま自分の部屋に戻り、夜を待つことにした。初めての女性と会うのなら、夜だと相場が決まっている。

だが結論から言うと、私から彼女にその日連絡することはなかった。

何処で知ったか分からないが、面倒な連中がホテルまで押しかけて来たのだ。

実は綾乃と会う数日前に、少し日本の暴力団と揉めてね。切っ掛けが何だったかはもう覚えていないが、そんなに大層なことではなかったと思う。

だが、そいつらは執拗だった。まあ、日本という国はそれほど馴染みがないし、あまり派手なことはしたくなかったのでね。揉めたと言っても4,5人を気絶させるくらいで済ませたんだ。

どうやらその時に残った一人が私を着けてきていたらしい。

まあ、すぐ済むだろうと思ったし、ホテルに来た連中をぶちのめしても大元を潰さない限り、いつまでも来るんだろうな、と思い、そいつらに言われるまま連れて行かれたんだよ。

事務所に着くと、そこのボスが出てきてね。そいつを見ると、何かが違うような気がしたんだ。

不思議に思ってじっと見ていると、そいつが怒りだした。いきなり日本刀を出してきたので、思わずそいつの利き手を切り落としたんだ。面倒なので事務所にいた連中、全員を気絶させた。ああ、ボスの止血はちゃんとしたよ。たかが因縁を吹っかけられたくらいで知らない人間を殺すわけにもいかないしね。

「・・貴様、鬼だな。くそ、このままで済むと思うなよ。」

ボスが苦しげに言った。

捨て台詞とは分かっていたが、この私を鬼と勘違いするとか・・

そのとき、ようやく理解したんだ。このボスも普通の人間ではない。では、こいつは・・。

そのとき、事務所のドアが大きな音を立てて開かれた。

見ると、変な奴が立っている。裸に布きれを巻き付けたような格好をした、やけに筋骨隆々の大柄な奴が立って私を見ていた。頭はモヒカン狩りのような感じだったと思う。

そいつはいきなり私にタックルを仕掛けてきた。ガタイはでかいのに、やけに素早い動きをする奴でね。もちろん、私は軽くかわせたが、そいつは懲りずに何度も私にタックルを仕掛けてくる。それにそのたびにどんどんそいつの怒りが増幅されてくるようで、少し困ったなな、と。相手が武器を持ち出すようならすぐにでも身体を切り刻むか、殺すかするんだが、相手はひたすらタックルを仕掛けてくるだけだ。

すぐにそこから逃げ出してもよかったのだが、私もそいつらに興味を持ってしまってね。

モヒカン男は既に肩で息をしている。ただ、戦意はまだ喪失していないようにも見える。

私は一応、そいつに話しかけてみることにした。

「そろそろ休憩にしないか。そもそも君はなんなんだ?人間じゃないよな。」

「・・・天だ」

よく聞こえなかった。なに天?・・・うん?待て。日本の神って、何々天って言うんじゃ・・・。

あ、これはちょっとまずいかも。

そう思ったとき、なんともう一人、同じ様な格好のヤツが新たに事務所に入ってきた。

もちろん、そいつも前のヤツと同じく、私に対して敵意をむき出しにしていた。

困ったなあ・・。私はその地の神やその関係者とも争うつもりはないんだ。

それに、最初に喧嘩を吹っかけてきたのは、こいつらなんだ。

私も段々、腹が立ってきてね。

おそらくその敵意というか殺意に近いものが向こうにも分かったのかもしれない。

2体の天が身構えるのがわかった。

そしてそのとき、また違うヤツが現れたんだ。なんだよ、次から次へと、と思ってその新たに来たヤツを見ると、どうもこれまでの2体とは格が違うような気がしてね。

そうだな、簡単に比較はできないが、向こうで言えば大天使というところだろうか。

そいつは、俺の前に立って

「ぬしは・・鬼ではないな。さりとて神、我々の仲間でもない。」

そいつは俺の全身をゆっくり見回している。

「私はエフだ。神でも悪魔でもない。もちろん、あなたが言う鬼でもね。で、あなたは?」

「わしは釈迦提婆因達羅(しゃかだいばいんだら)。まあ、長いので皆は帝釈天と呼んでおる。」

はああ・・・まずい。そりゃ知ってるよ。日本の神の中ではかなり上の存在だ。

そうか、だとすると、さっきの2体は、四天王のうちの二人か・・。おそらく増長天と広目天・・。

「そこの、ぬしに腕を切られた男はわしの血を引くものじゃ。」

なるほどね・・普通の人間ではない、と思ったが、そういうことか。

ちょっと、いや、非常にまずい状況になってしまったのは確かだな。

まさかこんな極東の地でこんな目に遭うとはね。さて、どうするか・・。

「この男は、札付きでな。あまり褒められたものではない。だがな、ぬしは余所者だ。余所者に血縁者を傷つけられて、黙って引き下がるわけにはいかんのじゃ。」

そりゃそうだろう。ここは日本、私にとっては完全なアウェイだしね。

でもまあ、こうなったら逃げる訳にもいかないし、お相手しますか。ただ、この帝釈天という存在は相当強い。それに四天王というからには残りの2体も漏れなく付いてきそうだ。

特に持国天はかなり強いと聞いている。なかなかの接戦になるかもしれない。

私がそう覚悟を決めたときに、来たんだよ。誰だと思う?

持国天?

それが違ったんだ。君の姉さん、綾乃が何故か来てくれたんだよ。

凄かった。全身に激しい怒りのオーラを纏ってね。それにね、私にはうっすらと見えたんだよ。額から突き出た二本の角がね。

もうびっくりしてね。綾乃は鬼だったんだ、と。

「この人は私の知り合いだ。それに、ここの事務所の連中が先にこの人にちょっかいを掛けたらしいじゃないか。たぶん、この人はそのときにそいつ等全員を殺せた。それなのに気絶させるくらいで済ませたんだ。それなのに、なんだ、この有様は。」

いや凄まじい啖呵だったね。惚れ惚れするくらいの迫力があった。

「これ以上、ゴタゴタ言うようなら、私達、鬼がこの人に付くよ。それでもいいなら、ここで決着つけるかい?」

帝釈天は、面白そうに私と綾乃を交互に見ていたが、彼の両拳が硬く握られているのが分かった。

さあ、どうする、帝釈天どの。

どのくらいの時間、その場が沈黙に包まれたかは分からないが、そのうちに帝釈天の大きな溜め息が聞こえてきた。

「わかった。その男を連れて行け。それと、わし等は二度と関わらない。それで良いか?」

「・・分かりました。それでは」

綾乃は承諾し私の手を引いて事務所を辞した。


事務所を出ても、しばらく綾乃は無言だった。

私はそれでも綾乃が来てくれたことが少し嬉しくて、気分が良かったんだ。

「あんた、あいつ等と揉めたのは、うちの奴等を助けたからだろう?」

え。それは初耳だった。私は正直に

「そう、だった、ような気がする。そうそう、たった二人に対して5,6人で一方的に殴ったり蹴ったりしていたからね。さすがに見ちゃいられなくて。そうか、あの二人、綾乃さんのところの者だったんだね。」

「・・だったんだね、って。暢気だねえ、あんたは。」

「いや、いいじゃないか。こうやって約束どおり君と会えたんだから。」

綾乃はしばらく私を睨んでいたが、そのうち笑い出してしまった。

「・・ったく、最初から面白い人だと思っていたけど、まさかここまでとはねえ・・。」

「そうかな。これでも感謝しているんだよ、来てくれて。」

「・・・確かに行って良かったよ。あんたのため、ってわけじゃなく、帝釈天様のためにね。」

「うん?それは聞き捨てならないな。確実に私が勝つとは言えないだろう?」

「それはそうかもしれないけど、まともにやり合っていたら、あの人達も間違いなく深手を負ってた。」

「まあ、どちらにしても、君が来てくれて助かったことに違いはない。さ、お礼に何か食べに行こう。いや、とは言わせないよ。」

綾乃はじっと私を見ていたが、そのうち諦めたように

「わかったわよ。じゃあ、寿司でも行くかい?それとも肉の方がいいかい?」

「綾乃さんに任せるよ。じゃあ、行こう。」

私達はそれからタクシーをつかまえて、銀座に向かった。


そこからかな。少しずつだけどね。ほら、綾乃は見たとおり強情だから。

少しずつ私と綾乃は始まっていった。

そして、そのときに君のあの事件が起こったんだ。

いや、君は悪くない。あれは明らかに罠だった。

あの時は、恥ずかしながら怒りが頂点に達してしまってね。そりゃそうだろう。

好きな女と、その実の弟が拉致されているんだ。

何故、わかったのかって?

分かるさ、こう見えて私は好きな女のことは良く見ているんだ。ちょっとの違いでも見過ごさない。

それにしても身体にダイナマイトを巻き付けて突撃するとはねえ。あれは本当に驚いたよ。

とにかく、私は怒りのあまり、あいつ等を皆殺しにしてしまった。まあ、証拠は一切残していないからね。誰かが身代わりになることもなかった。

それに警察の上層部に、ちょっとした知り合いもいるから何とかなるとは思っていた。

あれ以降、綾乃は私を頼りにしてくれるようになった。嬉しかったよ。

君もそうだが、綾乃は鬼の気質がより強かったと思う。よくあんなふうに抑えられていたと思うよ。鬼は、本来は人の敵だからね。でも、本当にそうなのかな、という気持ちもある。

歴史というのは、その時々の為政者によって簡単に歪められてしまうものだ。

時には全くの出鱈目でさえまかり通ることもある。

鬼の本質は何なのだろう。本当に人の敵なのだろうか。人を食い物にする存在なのだろうか。

君はダギッシュとも話をしているよな。

彼は人の血がないと生きていけない。それは人に敵対するということにも繋がる。

だが、彼は人間の女を愛した。それも10年に亘って本当の愛を捧げた。

そういうものだよ。

それに、セズーラのこともある。彼は愛する女を救うために自分の本分さえ裏切った。

そう、彼は悪魔なのに人間の女を愛してしまったためにその存在さえ危ぶまれているんだ。


だから、私は、彼女が鬼であろうが気にしない。ただ、真っ直ぐに彼女を好きでいるだけだ。

幸せだったよ。

でもそれは彼女にとっては、ある意味、忌むべきことだったのかもしれないね。

組員が200名以上に膨れ上がったのもある。彼女は組員とその家族に対して責任がある。当然だが、彼女はそれをひたすら全うしようとしていた。

愚直なほどに真面目で情に厚い女だったんだ。

私が身を引こうと考えているときに、綾乃の方から申し出があった。

いいタイミングだったのだろうね。



「姉さんはずっと貴方のことが好きでした。一時たりとも忘れたことはなかったと思います。」

俺がそう言うと、エフさんは、少し苦しそうにしていた。

「実は、私は今、本気で好きになれそうな女と一緒にいる。綾乃以来、久しぶりにね。」

「・・そうですか・・。それは良かったです。姉さんも気にしてましたよ。あの人はねえ、しょうがないんだよ。まあ、そういう男だからね。と言いながら、いつもニヤついていましたよ。」

「・・・綾乃らしい。」

エフさんはそう言って可笑しそうにしていたが、そのうち眩しそうに俺を見て

「そろそろ帰るとするよ。あとで綾乃の墓を教えてくれ。命日には出来るだけ行くようにする。じゃあ、大志も元気でな。また会おう。」

そう言ってあの人はその場からすっと消えた。

風も音もなく、ただ、グラスの中の泡だけが少しだけ揺れていた。


姉さん、あなたの愛した人は、あなたのことをとても大切に思ってくれていたよ。

良かったね、姉さん、鬼、なのにね。

俺はあの人に助けてもらって、たくさんの話を聞けた。

あれ以来、俺はずっとあの人のことが気になってしょうがなかったんだ。

それに姉さん、あなたが心から愛した、たった一人の人だったからね。

そうだね・・これは、やっぱり姉さんと俺と、そしてあの人だけの物語にしよう。

俺は必死で涙を堪えた。



―――― 完 ----------


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エフ(神からも悪魔からも一目置かれる男) NAKA @nakako1025

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