第9話 セルキーの秘密④
突如現れたアザラシは、力強く泳いで、シャチの周りを素早く回りました。乱入してきた存在に最初は驚いたシャチですが、邪魔をしてくるアザラシを先に片づけるべき獲物だとみなしたようです。ニーヴから注意をそらして、アザラシに頭突きをしようとしています。
ニーヴは信じられない思いでした。このままあのアザラシを置いて逃げるべきなのはわかっていますが、そうしたら相手は一体どうなってしまうのでしょう。すぐにシャチに掴まってしまうでしょうに、どうしてあのアザラシは捨て身で向かっていくのでしょうか。
「……ニーヴさん!」
上空からかすかに声が聞こえて、ニーヴは水面から顔を出しました。
空には、大きくふくらんだパセリの上に乗ったレイモンドがいました。フクロウも旋回しています。
「よかった、ご無事で!」
「ええ、でも、私のかわりに他の方が……」
「大丈夫です、すぐに対処してもらいます」
レイモンドはそう言うと、ニーヴの後ろ側に向かってうなずきました。
ニーヴが振り向くと、そこには水面の上に立つ、豊かな黄昏色の髪を腰まで伸ばした女性がいました。その体は夜の海でもわかるほどつやつやと白く輝き、半透明のヴェールを全身にまとっています。
ニーヴも昔、何度か見たことがあります。海に住むという妖精、ニンフです。
ニンフは両腕を広げると、大きくあおぐように動かしました。すると、いきなりいくつもの魚の大群が向こう側から現れ、シャチやアザラシの横を次々と通り過ぎていきます。
シャチたちはお宝のような魚の群れを見て、すぐに方向転換しました。勢いよく追い始め、後にはアザラシが二頭と、レイモンドたち、それとニンフが残されました。
「ありがとう、テアさん」
レイモンドが声をかけると、ニンフはにっこりと笑いました。顔を出しているニーヴにもほほえみ、それから海の中に、とけるように消えていきました。
少し離れたところに、もう一つアザラシの顔が浮かびました。
「レイモンドさん、ありがとうございました。おかげで、ニーヴも私も助かりました」
アザラシが発した声を聞いて、ニーヴはひどく驚きました。
それは夫の、オーダンの声だったのです。
◇ ◇ ◇
ニーヴたちの息子は近所の人に任せてあるということで、ひとまず一行は、村に近い海辺に向かいました。
砂浜にたどりつき、ニーヴがアザラシの毛皮を脱ぐと、夫も隣で同じように毛皮を脱いでいました。
レイモンドも地面に降り立つと、パセリがしゅるしゅると縮み、元の大きさに戻ります。フクロウはレイモンドの腕に留まりました。
「どういうこと……? あなたは人間なのではなかったの」
ニーヴが問いかけると、オーダンはためらいがちに横を向きました。
「……僕もセルキーだったんだ。人間のことをものすごく知ってるセルキーというか……」
「意味がわからないわ」
問答をしている余裕などないので、辛辣なニーヴです。
オーダンは頭をかきました。
「海の占い師に、取引をしてもらったんだよ。僕が人間として暮らしていけるように、人間として生きることの全てを教え、全てを整えてくれって。その代償が、その……きみの、僕にまつわる記憶だったわけで」
「あなたにまつわる記憶……?」
ニーヴはますます混乱しています。
レイモンドが進み出ました。
「ニーヴさん、あなたがセルキーとして暮らしていた時、すでに幼なじみとして、オーダンさんとお知り合いだったんです。ところがあなたには、ある日、海に戻ったら死ぬという予言が告げられました。それを聞いたオーダンさんは、陸で生きるあなたを隣でサポートしたいと思い、自分も人間として陸で生きることに決めたんです」
「その代償が、私がオーダンを忘れることだったっていうのですか……?」
「はい。そしてオーダンさんはニーヴさんが陸にあがると、毛皮を隠しました。それから初対面のふりをして、ニーヴさんと暮らすことにしたのです」
「そんな……」
ニーヴは呆然とつぶやきました。
事情はなんとなくですがわかりました。
けれど、わからないことがあります。
「なんで、そんなことを……私があなたのことを忘れるってわかっていたのに」
「きみを失いたくなかったから」
オーダンはそっぽを向いたまま答えました。
「……きみは覚えてないけど、僕ときみは本当になかよしだったんだ。きみが僕のことを忘れるより、きみが死んでしまうことのほうが、僕には耐えられなかった」
ニーヴとオーダンは気づきませんでしたが、フクロウがレイモンドのほうを向きました。レイモンドはうなずいて、興味津々なパセリの背中に触れてうながしつつ、そっと二人から距離をとりました。
「私はそんなこと、あなたに許したの?」
「いや、全て僕が勝手にやった。きみには何も言わずに」
「なんで、そんな、どうして……私は」
ニーヴは顔を手で覆いました。
「私は、馬鹿みたいに、何も知らずに……ごめんなさい、あなたの生涯をめちゃくちゃに、私が……それなのにいまだに何も、私、思い出せなくて……」
「いいんだ」
オーダンは妻を抱き寄せました。
波が引いては寄せる音が、二人のセルキーがささやき声で話すのを覆い隠し、どこからか、ニンフの歌声が聞こえてくるのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます