第3話 アフター・チェンジリング③
大きな顔に伸びた鼻、薄い耳に、丸く曲線を描く体。そこにいたのは、泥を体中に貼りつけた豚でした。
「なんだ、豚さんか……」
ユールは安堵の息を吐いて、木から手を離しました。豚はふんふんと匂いをかぎながら、ユールの足元に近寄ってきます。
「君、ここに住んでるの?」
膝をついて声をかけ、豚の鼻先に手を差し出しました。濡れた鼻が指に触れ、あたたかな鼻息を感じます。
「僕、今、薬草を探しているんだ。君は見なかったかい」
豚は顔を上げて、黒いスグリのような瞳でユールを見ました。
「ふふ、君、かわいい豚さんだね」
「どうしました、ユールさん」
声を聞きつけたのか、木の陰からレイモンドが顔を出しました。すると突然豚が鼻を跳ね上げて、
「あーっ、レイモンド様ぁ!」
嬉しそうに甲高い声で叫びました。
えっ、とユールが驚くと、豚も、あっと短く声をあげました。恐る恐るユールを振り返り、ごまかすようにブヒ、と鳴いてみます。
「今しゃべったよね、君」
「……」
ユールが豚の顔を指差すと、豚は気まずそうに押し黙り、両者の間には沈黙が訪れました。
「話していいよ、パセリ。彼はお客さんだ」
レイモンドが手を伸ばして、豚を撫でました。
「あふん」
豚が体をくねらせてレイモンドの手を享受しています。ユールが呆然としていると、レイモンドは言いました。
「この子はパセリといいます。使い魔です」
「はっじめましてぇ! おいらパセリです!」
「はじめまして……」
魔女の使い魔の動物は、なんと言葉を話すようです。
それにレイモンドのことを『様』をつけて呼びました。魔女の使い魔の中でも、上下関係があるのでしょうか。
パセリの協力もあり、どうにか薬草を集め終えると、泥だらけのパセリの体を洗うため、一行は川へと向かいました。水辺にたどり着くと、パセリは勢いよく飛び込みます。
「パセリ、けがしないように」
「はぁーい!」
パセリの水しぶきに巻き込まれないように、ユールたちは少し離れた場所に腰を下ろしました。レイモンドが靴を脱ぎ、はだしを水につけたので、ユールもならいます。
水はとても冷たく、足が触れたとたんに頭の芯までしびれが駆けのぼりました。それでも我慢してつけていると、少しずつ水の流れが感じられるようになり、水音が自分の中に流れ込んでくるような気持ちになってきます。歩き続けて火照った足の疲れがほどけて、水の一部になってどこまでも流されていくようでした。
「驚きましたか、パセリが話せることに」
隣のレイモンドが聞きました。ユールが素直にうなずくと、青年はパセリを優しい目で見ました。
「話せる豚は、普通ではないですからね」
「魔女様の魔法の力ですか?」
「そうです」
二人が見ていることに気づいたパセリが、嬉しそうにおしりを振って見せました。レイモンドも手を振って応えます。
ユールはほほえみました。
「でも、僕は普通ではない豚のほうが、ずっと好きです」
「私もです」
絶え間なく続く川のせせらぎに、鳥のはばたく音が混じります。それきりレイモンドは話しませんでしたが、ふたりで黙っていても、少しも気まずくはなりませんでした。
パセリが周囲に水滴をまき散らしながら体を乾かすと、彼らは立ち上がって再び歩き出しました。今回もレイモンドを先頭にして、ユール、パセリと続きます。
行きは不気味に感じた森が、今では親しみやすい空気を醸し出しているように思えてきます。川の水の中に自分の一部をさらしたことで、森の一員となったような気がしました。
ほう、ほう、とフクロウの鳴き声が聞こえて、ユールは木の上を見上げました。暗さに慣れた目でも、密集した枝葉の中に鳥の姿を認めることはできません。それでもかなり近くで聞こえたようです。
パセリを含め、自分たちはフクロウに狩られるほど小さくはないはずです。どうして警戒心の強いはずのフクロウが、こんなにも近づいてきているのでしょうか。
ぼんやりと考えていたユールは、まさか、とふと恐ろしい可能性に思い至りました。
魔女の森に住むフクロウは、とんでもなく大きいのかもしれません……それこそ、いたいけな豚を一呑みしてしまえるくらいに!
「レイモンドさん、あの」
聞いてみようと思った時、振り向いたレイモンドの肩越しに、魔女の家が見えました。
ほっとしたのもつかの間、バサバサッと力強い羽音がして、ユールたちのすぐ上を何かが飛び去りました。
「ひゃあ!」
ユールは肩を縮めて悲鳴をあげました。
森の闇から出てきたのは、小ぶりな茶色のフクロウです。羽を広げて滑るように魔女の家の軒先まで飛んでいくと、玄関に降り立ちました。その姿がゆらめき、長く伸びたかと思うと、一瞬にして茶髪の女性の姿へと変わりました。
ユールを出迎えた、あの女性でした。
「魔女様はフクロウに変身できるのですか!」
知らず知らずのうちにレイモンドのローブにしがみついていたユールが問うと、レイモンドは首をかしげました。
「どうやら私たちのことを心配して、ついてきていたみたいですね」
ユールたちが近づくと、女性はすっと手を伸ばして、玄関の扉を開けました。
「おかえりなさい」
「ただいま」
レイモンドはパセリに先に入るよううながし、自分も家の中へと入っていきます。ユールは女性に向き直りました。
「魔女様、薬草を採ってきました。ほかにお手伝いできることはありますか?」
「薬を作るのは魔女の仕事だと言ったはずです」
ぴしゃりと言われて、ユールは困った顔で彼女を見上げました。何も手を出すなということでしょうか。
「で、でも……それなら僕はどうすれば……」
「先ほどから、あなたは頼む相手を間違えています」
背筋を伸ばしたまま、女性は家の中へと顔を向けました。そこではレイモンドが、カバンから出した薬草を、暖炉の向かいにある小さな作業机の上に広げています。
レイモンドはユールに向かって、苦笑してみせました。
「ユールさん、すみません。あなたの勘違いを正さないままで」
「え、ど、どういうことですか?」
「彼女の名前はペトロニーラ。私の助手をしてくれています。魔女ではありません」
レイモンドの手が、彼自身の胸に置かれます。
「魔女は、私です」
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