言の葉・コネクション

花房糸葵

第1話

 ジャレックライズは小舟にへばりつき、川を下っていた。ただの川ではない。流れに運ばれているため、便宜上「川」と称しただけで、それが水でないことは明らかだった。川のように見えるのは青白い光の筋で、その周りには紫や緑の粒が、おなじく光彩を放ちながらたゆたっている。

「なんなんだよ……。どこなんだ、ここは……」呆然とした声が、誰にも拾われずに宙へ流れていく。

 天を見あげてみても、底をのぞいてみても、チカチカと光る川の周囲だけが色鮮やかで、あとはどこまでも終わりのしれない濃紺が広がっていた。だからこそ、自身を運ぶまばゆい輝きが際立って見えて、ジャレックライズはしばしの間見惚れ、そして彼女の口角は、どうしようもなく強張っていた。

 凛々しい眉。眼光鋭くつりあがった目。発光した黄色の混ざる、マグマのように赤い髪。どの部分を切り取って見ても、ジャレックライズという少女の見目には、勝気な性格がにじんでいる。しかしいまばかりは、怯えの感情のほうが表に出ていた。

 舟のへりにしがみついた指が痛むが、右手を離した瞬間、果てのない暗がりへ放り出させてしまうのではないかと思うと、とても力をゆるめることはできなかった。

 母から入学祝いにもらった、三連の小さな玉がついた髪飾りだけが、いま彼女が感じられる唯一のよすがだった。青のまだら模様のそれを、飛んでいかないよう髪から外し、左手に握りこむ。

 いったいどうしてこの場所にいるのか。この空間は何なのか。彼女には皆目見当もつかない。なんで、どうして――と疑問ばかりが思考を埋める。

 それはあまりに突然のことだった。


  *


 アメンレーでは年に一度、三日間の祭りが開催される。一年の豊作を祝う、アメンレーにおいて最大規模の祭りだ。

 アイボリーの石積みの壁に、石瓦の屋根、屋根同士をつなげる紫色のレンガ道と、どの家もそろいの外観が並ぶが、この期間だけは、豊饒の神が好むという花にちなんで、窓から黄色の布をさげたり、玄関ドアを黄色に塗ったりと、町中に黄色の装飾がほどこされる。祭りの期間、敷地内すべてに黄色の花々が咲き誇るよう、心血をそそぐ家もあった。

 どこの通りも露店が道を埋め、普段は穏やかな町も観光客でごった返す。

 浮かれるのは「アメンレーコトハ能力訓練学校」の面々も例外ではなく、初日の午前中を除き、この期間は授業が免除されるため、誰もかれも、教師でさえも、祭りへくり出す時を心待ちにした。普段は寮で規則正しく暮らしているので、羽目を外しても多めに見てもらえる絶好の機会なのだ。

 そしていざ、祭りの初日をむかえ、開始の花火があがった瞬間、生徒たちの心は教室を離れ、午前の最後の授業に身がはいる者はほとんどいなくなった。毎年恒例のため、教師陣もこの日だけは浮ついた態度を見逃した。

 授業終了の鐘が鳴ると、学校全体が震えたのではないかというほど歓声が響き、我先にと教室を飛び出していく。三日間をいかに満喫するか、練りに練った計画を実行する時だ。

 友人や恋人、ひさしぶりに会う家族など、親しい人と過ごす生徒が大半で、祭りに関心を寄せない者はよほどの事情があるか、生粋の変わり者だけだ。ジャレックライズは、変わり者のうちのひとりだった。

 廊下を出れば、人で埋め尽くされていて、正門を目指す生徒の波ができていた。興奮に浸ってはしゃいでいるので、ただ会話するだけでも声を張りあげなければならない。顔をしかめて波のなかを歩いているのは、ジャレックライズくらいのものだった。

「……あっ! いたいた! ライズ!」

 チカリと頭上が光ると同時、知った声が聞こえて、ジャレックライズはそちらへ顔をむけた。ラベンダー色の髪を肩のところでゆるくまとめた少女が、小柄ながらに、器用に人の間をすりぬけてそばまでやってくる。学校の制服である、オフホワイトの筒型のワンピースの裾と、生徒の証として首に巻くエメラルドグリーンのスカーフがひらひら揺れる。

 人を観察するのが趣味だといって、いつでも愉快そうに弧を描いているアイスグレーの瞳を、ジャレックライズは感心とともに見おろした。

「パールナム。よく見つけられたな」

「ライズの髪、目立つもの。あと、不機嫌そうにしてるのもライズだけだわ」

 んふふ、と上品にわらうパールナムは「パールナム! まだなの?」と呼びかける声に「すこし待っていて!」と返して、ジャレックライズにむきなおった。

「三日目の待ち合わせ、そっちの部屋に行くってことを伝え忘れていたと思って」

「ああ、そうか……。授業終わりに会うんじゃないもんな。わかった。急いでるだろうに、わざわざわるいな」

 ジャレックライズは、初日をパールナムと過ごすであろう、彼女の友人たちへ目をやった。怯えが隠しきれていないまなざしとかち合い、すぐに視線をもどす。距離をおかれるのは慣れているので、感情に波は立たない。

 友人たちの無言の訴えなどまるで気づいていません、という顔でパールナムは微笑んだ。

「今日と明日でいろいろとまわって、ライズを案内できるようにしておくから。たのしみにしておいてね」

「二日じゃまわりきれないだろ。けどまあ……、うん。頼りにしてる」

「んふっ。それじゃあ、二日後に。あんまり暴れないようにね?」

「アタシからふっかけたことなんて……、そうそうないだろ」

 バツが悪そうに目線を外したジャレックライズに、パールナムはころころとわらった。

「そうだったわね。ジャレックライズはこんなにいい子なのに」

「いい子って……、はあ。ほら、お友だちがしびれを切らしそうだぞ」

「あら、ほんと。もう行かなくちゃ。またね」

 ひらりと手を振って、人波をものともせずにパールナムは友人のもとへもどった。ジャレックライズは人が減るのを待とうと、壁まで移動して窓の外をながめた。

 砂色のレンガで建築された校舎は荘厳で格式高く、町の中にあって何よりも目を惹くが、その裏手に広がる森は、祭りの開催もしらず静かなものだ。午後はどう過ごすか決めていなかったけれど、今日みたいな日に人のいない場所で過ごすのもいいかもしれない。

 ジャレックライズはひとりうなずき、ふたたび生徒の群れへ混ざった。


 一階まで降りると、正門へむかう生徒の流れに逆らい、通用門から外へ出る。すると右手に構えた寮から、ふたりの男子生徒が競うように駆けてきた。

「財布忘れるなんて、ほんとバカだな!」

「わるかったって! 探してくれてありがとな! ……あっ」

 言い合いをしながら正門へと急ぐうちのひとりが、ふと視界にはいった赤髪に気がつき足をとめる。隣の男もつられて立ちどまり、ジャレックライズを横目で見た。

「……見ろよ。こんな日にひとりだなんて、かわいそうにな」

「やめとけって。目をつけられて祭りに遅れたらお前のせいだぞ」

 ジャレックライズがふたりへ視線をやると、力強い眼光に彼らはそろってギクリと硬直し、すぐにそそくさと逃げていった。

(仲のいいことで)

 ジャレックライズは何の感慨もなく、彼らの背をながめた。


 表情にやわらかさや親しみやすさが乏しいためか、入学したての頃から遠巻きにされていたジャレックライズが、学校中から敬遠されるようになったのは、直接ではないにしろ、とある生徒への暴行が原因だった。

 そもそも同級生を陰湿にからかっていた生徒たちに同調しなかったことで、彼女ははやい段階から不興を買っていた。田舎から出てきた少女が歴史と名のある狭き門を通過――しかも飛び級で入学したことも、彼らのプライドを刺激した。地方都市の出身者ほど、生意気だと言って、ジャレックライズを見くだした。

 そしてある日、ひとりの生徒が彼女の家族を侮辱したことで、それまで何を言われてもどこ吹く風と聞き流していたジャレックライズは、相手の顔面のすぐ横、硬い石壁を、肘まで埋められるほどえぐってみせた。教師からは、脅しにしてもやりすぎだと窘められたし、その一件で、ジャレックライズの悪名は、学年を問わず、またたく間に広まったのだ。

 関わりたくないと彼女を避ける生徒ばかりのなか、パールナムは数少ない友人だった。ある日の授業で隣同士になった際、べつの日の準備をしてしまい困り果てていた彼女を見かねて、読めるように教科書をパールナム側へ寄せたことが、交流のきっかけだった。

『なんだ。あなたってちょっと不器用なだけで、やさしいとこもあるじゃない』

 その言葉に、何とも言えず黙りこんだジャレックライズに、パールナムは興味深げに微笑んだ。そしてその日を境に、彼女から話しかけてくるようになり、いまでも友情がつづいている。

 パールナムのように、噂ではなく、目の前にいる相手を見て交友関係を築く者はいる。だからジャレックライズは、目が合ったら噛みつかれると思いこんでいる連中のことなど、気にも留めなかった。

 逃げた男子生徒たちを、ふんっ、と鼻でわらい、ジャレックライズは誰に見られることなく、授業以外は立ち入り禁止の森へはいっていった。


 風がさやさやと葉を揺らし、ついでに赤い髪を撫でていく。ジャレックライズは髪留めで多めに横の毛をおさえた。水色に、うっすらとピンクの溶けたアメンレーの空は、収穫の時期になり、赤みが濃さを増している。

「ここら辺でいいか」

 木の本数が減り、ひらけた場所を見つけたジャレックライズは、うん、とうなずいて宙を見つめた。朗々とした声で言う。

浮雲十段うきぐもじゅうだん

 彼女の言葉に合わせて、何もないところから歪な多角形がいくつも現れる。それらは横になびきながらパズルのように組み合ったかと思えば、紫色の階段をつくった。半透明で、ちょうど十段、宙に浮いている。ジャレックライズがすこし足を持ちあげて階段を踏めば、カツンッと硬質な音がした。きちんと固体になっている。

「……幅は問題ない。ちょっと右側が傾いてるか?」

 ジャレックライズは眉を寄せて、階段をじっくりとながめた。

 

 言葉には色がある。

 雪は白、桜はうす桃、夕焼けは橙色――というように、色を内包している言葉もあれば「やすらぎは木々の色、後悔は深海の色、出会いは春の日ざしの色。数字の一は赤、二は青、三は黄……」というように、イメージとしての色彩を付随している言葉もある。

 もちろん、人によって思い浮かべる色彩は同一ではない。けれどどんな色かはともかく、言葉を発するたびに、色みを連想する人間の無意識は、物質に影響を与え、極小の粒子を生む。

 これをアメンレーでは「コトハ粒子」と呼んだ。

 そして水に溶かすことのできる物質の量に限界があるように、発した言葉が抱えられる色の総量にも限界があり、余剰分の粒子は空気中へこぼれていく。このコトハ粒子をひとまとめにし、粘土のようにこねていって生成したものを「コトハ」という。

 パールナムが廊下で呼び止めた時にジャレックライズの頭上が光ったのも、ジャレックライズが形成した階段も、どちらもコトハだ。ちなみにアメンレーでは、階段といえば多くの人が紫色を連想する。

 ほとんどの人間が、この粒子を操作することができ、たとえば物を持ちあげたり、空中に足場を作って移動したりと、日常的に活用する。目には見えないコトハ粒子を、なぜか彼らは感覚的に扱えた。

 ジャレックライズの通う『アメンレーコトハ能力訓練学校』は、その名のとおりコトハ粒子を操るための能力を育む教育機関で、卒業した生徒たちの多くが即戦力になると評判のため、希望の職種に進める確率は、国内でもトップレベルを誇る。


 コトハは人によっては年単位での維持が可能だが、ジャレックライズの階段はしばらくしてほろほろと砕け、空気に溶けていった。彼女は巨大な塊を精製するのを得意としたが、保たせるが下手だった。

(パールナムのは持ちがいいし、ちいさい代わりに精度が高いんだよな。……アタシの気が短いからか? いや、そんなわけない、はず。今度また、コツを聞くか)

 壊れにくさのほかに、おなじ階段にしても、パールナムは植物の蔦を思わせる、細かな意匠をほどこした手すりまでもつくりだせた。コトハを扱うにも、得手不得手がある。ジャレックライズは子どもの頃から、細かな作業が苦手だった。

 パールナムの得意げな笑みが浮かび、負けず嫌いが顔を出す。ところがふいに、脳内に割りこんできた声があった。

『あんたの母親、コトハをつくれない欠陥品なんだって?』

 一年前に投げつけられた言葉であり、ジャレックライズがある意味で有名になった事件の元凶だ。ジャレックライズはガシガシと髪をかきまわし、余計なことを思い出した、とため息を吐いた。鼻にしわを寄せ、脳内で言い返す。

(それがどうした。コトハをつくれなくたって、おかあさんはいつだってしあわせでいる。おまえらみたいに、何もかもが不満だって訴える目はしない)

 耳の奥から、母の言葉も聞こえてくる。

『たのしいことも、うれしいことも、口にすると叶うの。……たとえばね? あー、しあわせな気持ちになりたいなー、っていうでしょ? そしたらほら、もうなれた! おかあさんはジャレックライズがいるだけで、ずっとしあわせだもの。すごいでしょ?』

 ジャレックライズは記憶のなかの母にうなずいた。

(おかあさんは、ほんとにすごいよ)

 彼女の母親は、世界でも数人しか確認されていないめずらしい病のせいで、コトハ粒子を操ることができない。日常的にコトハを必要とするアメンレー人にとって、これは致命的な欠陥であり、その事実はジャレックライズの逆鱗でもあった。

 生まれ育った村では、母親を邪険にし、それだけでは飽き足らず、時には心無い言葉を投げつける人もいた。けれど当の本人は、申し訳なさそうにすることはあっても、すぐに笑顔を取りもどしていた。

 ジャレックライズはいつだったか、『どうしてわらってばかりでやり返さないのか。どうしてもっと人を警戒しないのか』と尋ねたことがある。その頃は、村での母の扱いにも、冷遇されても笑みを絶やさない母にも、何もかもに腹を立てていた。

 しかし母は目を丸くして、それから穏やかにわらって言ったのだ。

『そうだなあ。そりゃあ生きてれば、わらいとばせないこともあるよ? ひとりも味方がいなくなったら、おかあさんもめそめそしちゃう。でも誰かにワタシの笑顔を奪われっぱなしにさせてるのも癪じゃない? だから大事な人の笑顔を思い浮かべることができるなら、どんな場所にいても、ワタシは悲しいよりも、たのしいを見つけたいの。

 それにね? 不機嫌そうにしてたり、はじめから相手がいやな人だって決めつけて、あっちに行って! って遠ざけてたりしたら、たのしいこともうれしいことも、取りこぼしちゃうかもしれないでしょ?』

『こっちがやさしくしたら、手のひらを返すかも』

『そういうこともあるかもね。でもこの世にはいろんな人がいて、意地悪なことばかりではないの。やさしい人もいるって、おかあさんはしってるんだよ』

 ジャレックライズの手をやさしく引いて歩く母の背は、いつだってまっすぐ伸びていた。凛とした姿は自然と人の視線を集めて、八百屋の親父も、ほかの客から母親へと目を奪われるのだ。

『やあ! レダイシャルさん、いらっしゃい。あんたはうちを贔屓にくれるからな。今日はおまけするよ! ほら、持っていきな』

『まあ! いいんですか? ありがとうございます! ……ほらね?』

 そう言って、受け取った野菜を抱えてウインクした母の顔を、その時抱いた感動を、ジャレックライズはいまでもおぼえている。


 過去のやり取りを思い出して、口角が持ちあがる。――自身の表情の変化を自覚して、ジャレックライズは気まずさに口を拳で覆った。ひとり視線をうろつかせて、そして視界のなかで違和感を見つけ、片眉をあげる。

(……なんだ、あれ)

 木の葉が奇妙に揺れている。動物の仕業ではない。日が沈むように、ゆっくりと葉が垂れていく。

「……あれは、ガージュか!」

 彼女の視線の先には、木の枝からずり落ちた、灰色の物体がいた。サイズは人の顔と同等で、透けた身体ですりすりと地面を這っている。

 ガージュというのは、不定形の原生生物のことだ。コトハ粒子を糧とし、体表面積の小さなうちは、空気中のコトハ粒子で満足している。そのためこの段階では、さほどの被害は出ない。しかし体積が増し、より多くの粒子を求めるようになるとやっかいだった。

 ガージュは床や天井に潜み、真下に来た人間の服の中へ自身の一部を潜りこませると、背中に張りつく。そうして自身の身体を突起のように尖らせて、人間の首につき刺すのだ。この突起によって神経を操作され、意味のない単語を吐き出しつづけるようになる。

 するとガージュはいつでも好きな時に、羅列された言葉からこぼれ落ちるコトハ粒子を食せるようになる――というわけだ。

 ガージュにとりつかれた人は、はじめは目眩や悪心などが、重篤になると意識障害を引き起こす。さらに脅威なのは、ひとりを餌に利用すると、やがては壁内や地下を通じて、ほかの人間にも寄生するようになるところだ。

 刃物などでの物理攻撃は効かず、傷をつけられる手段は、ガージュが主食としている粒子からなるコトハのみだ。粒子は体内へ取りこめるのに、それを固めたコトハが触れると、ガージュの身体は粉々になる。


 常に形が変化する特性上、隠れるのが非常に得意なので、気づいた時には犠牲者が出てしまう。祭りににぎわう町へ逃げこまれるのも面倒だ。教師を呼びに行こうか迷うも、見失っては本末転倒。

 ジャレックライズはこの場で対処することにした。生まれ育った村では、ガージュ退治は何度も頼まれていた。はじめてではない。気負うことなく、周囲のコトハ粒子へ意識をむける。

『渦巻く 六角雪花ろっかくせっか

 ジャレックライズが言い終えるのと同時、空中に散らばっていたコトハ粒子が一か所に集まり固まって、雪の結晶をおさめた六角形のコトハをつくった。エメラルドグリーンを中心に、白や青色がチカチカと瞬いてまぶしい。ジャレックライズはわずかに目を細め、じっと己のコトハを見すえた。

 言葉を口に出すのは、具現化したいイメージを明確にするためだ。より大勢の無意識に影響を受けたコトハ粒子のほうが操作しやすいため、どんな言葉を選ぶのかも重要で、「渦を巻く水」と「雪」は、多くのアメンレー人にとって、おなじエメラルドグリーンを連想させる言葉だった。

 ひとつのコトハを中心に、まさしく渦を巻くように、それぞれの辺に新たな六角形がくっついて、どんどん空を埋めていく。陽の光を受けて、さらに輝きを増したそれは、雪の結晶を敷きつめたモザイク画のようだった。

 コトハは対象が暴れるのもお構いなしに全身を包むと、ガージュが崩れていくのに合わせて、徐々に空気へ溶けていった。ガージュのいた場所には何もない。

(……うまくいったか。誰かにとりつく前でよかったぜ)

 コトハの扱いを学ぶ場所という条件により、ガージュの餌であるコトハ粒子は町なかよりも多く漂っている。そのため気づかずに成長してしまうこともあり得た。

 未然に防げたことに安堵を吐き、ジャレックライズはぐっと伸びをした。――その時に目をつむっていたから、彼女は足元で起きている異変に気づくのが遅れた。前兆はなかったので、仮に目を開けていたとしても対処できなかっただろうが。

 突如として脛まで右足が沈み、バランスを崩した身体がぐらりと傾く。

「……は?」

 何事かと視線を落とせば、地面がぬかるんでいた。

 ジャレックライズははじめ、コントロールがわるかったために、コトハを足元に落としてしまったのかと思った。なぜならやわらかくなった大地が、徐々に渦を巻きはじめたからだ。

 混乱している間に、腰まで飲みこまれてしまう。全身が沈むのは時間の問題だった。ジャレックライズは瞳を揺らし、急いであたりを見渡した。

「……誰かっ!」

 焦燥のにじんだ声は、誰に受けとめられることなく地面を転がる。ハッ、と自嘲まじりの息が落ちる。

 ほとんどが祭りに行っているのに、それでなくとも嫌われ者の自分を、誰が助けに駆けつけるのか。期待がないなら、自分で対処するしかない。

 渦を巻く勢いが強まり、ジャレックライズは流れに身を任せるほかなかった。呼吸をしなくても、草や土のにおいが体内に充満する。

 全身が飲まれたらどうなるのか。想像に身震いして、ジャレックライズは叫んだ。

『舟っ! 舟だ!』

 簡単な単語しか出てこない。それでも、とにかくしがみつけるものを! という一心で、コトハ粒子をがむしゃらにかき集める。

 冷静さを欠いた頭では、子どもがペンを握りしめながら書いたように簡素で、レモン色一種類だけの小舟しかつくれなかった。それでも十分助けになった。粘土みたいな質感の舟の縁につかまり、必死の形相で乗りこむ。ふしぎなことに、身体のどこにも土や泥は付着していなかった。

 舟へごろりと寝転んで、荒い息をくり返す。しかし胸中に広がるのは、安堵ではなく諦念だった。

 これからコトハを操作して舟を浮かせようとかんがえていたが、それよりもはやく、大地に飲みこまれると悟ってしまった。なぜなら船縁から侵入した土に全身が覆われ、もはや露出しているのは頭部だけになっていたからだ。それなのに、まるで水中にいるかのように手足を動かせることもまた、奇妙で恐ろしかった。

 飲みこまれる寸前に見る景色――一面に広がるピンクの空を焼きつけようと、ジャレックライズは目を見開いた。またたきのたび、まぶたの裏に母親の姿がちらつく。

 ――村を離れ、都市部の学校へ進学するよう背中を押してくれた母の、いつもの微笑みと、涙のにじんだ目。

 ジャレックライズの瞳に、髪の色を溶かしたような熱が灯る。

(どこに連れてくんだかしらねえけどな、アタシは絶対にもどってくるぞ! おかあさん、アタシは絶対に、帰ってくるからな……!)

 折れないよう、誓いを胸中につき立てる。とうとう残されていた片目も覆われた。暗闇の中、自分の呼吸音だけが聞こえる。

 かくしてだれにもしられることなく、ジャレックライズは生まれ育った世界から引きずり出された。

 彼女がふたたび目を開けたときには、まとわりついていた泥土はいつの間にか消失していて、どこへつづいているのかもわからない粒子の川に乗り、導かれるまま流されていったのだった。
























 渡良瀬竜生わたらせたつきは腕を枕に、机に顔を伏せていた。

 今日までの一週間、時間が許すかぎり熱心に携帯を操作していたせいで、四限目ともなるとまともに目を開けていられず、半分眠りの中にいた。昨日の夜更かしもまた、まぶたを重くする原因だった。眼球まわりの筋肉を休める時間が、圧倒的に足りていないのだ。明確な眼精疲労だ。幸いにも、いまの時間を受け持っている数学教師は寝ている生徒をわざわざ起こすほど親切ではないので、放置されている。

 そのまま放課後までねむりつづけてしまいたかったが、残念ながら意識が浮上してしまった。上下のまつ毛をこすりあわせるように、腕の中で緩慢なまばたきをしていると、ちょうどチャイムが鳴った。寝入っていても目的の駅に着いた途端目覚めるように、体内時計が仕事した。

 昼休みを迎えた教室がざわめき、まわりの椅子が後ろに引かれて、かすかな振動が机に伝わる。

「竜生寝てんの? ……いまなら顔にうんことか書いても気づかないんじゃね?」

「顔は伏せてるから無理じゃない? 試しにすね毛抜いてみる?」

 不穏な発言が聞こえ、竜生は(なんでだよ……)と心の中で返事をして顔をあげた。

「やめろ、起きてるよ」

 竜生がまぶたの分厚い目でじっとりと睨むと、バスケットボールに生かす長身が机に合わず、いつも猫背ぎみの戸塚楓馬とつかふうまが肩をすくめた。野良猫のボスみたいなふてぶてしい顔が、右隣から不満をもらす。

「なんだよ。つまんねえの」

「うんこ書くのがたのしいとか、小学生か。お前も、すね毛抜くってお互いイヤだろ」

「実行するつもりはなかったって」

 右後ろの席に座った斎木柾人さいきまさとが朗らかにわらうも、竜生は疑いの目をゆるめなかった。柔和な顔にやわらかな声音で、折り目正しい優等整然とした征人は、教師からのおぼえもいいが、いまだに小学生のメンタルを持ち合わせている楓馬と仲が良い時点で、中身は同類なのだ。それは竜生にも言えることなのだけれど。

 竜生はふたりとむき合うよう机を動かし、L字をつくった。

 十六歳でありながら小学生と評されたことに「うんこなんかかわいいもんだろ」と口をとがらせていた楓馬は、ステンレスの弁当を広げた瞬間、目を輝かせた。茶色いおかずの多い中、真っ先にしょうが焼きへ箸をのばす。

「あー、腹減った。今日のバスケ、めちゃ盛りあがったじゃん? あれでもうエネルギー使いきったわ」

「文化部のやつらがかわいそうなくらいな」竜生が口をはさむ。

「ハンデあったろ? てかバスケなのはうれしかったけど、そのせいで、ただでさえ三限目から腹鳴りそうだったのに、四限目が数学とか、死ぬかと思ったわ。まじで二時間くらいに感じたね。時間割かんがえたやつ誰だよ」

「そう? 五限目のほうがいやじゃない? 食べた後の眠気って抗いがたいじゃん」曲げわっぱの弁当の蓋をあけながら、征人が言う。

「とかいって、お前が授業中に寝てんの見たことねえし。だいたい征人は数学得意なんだから、そんな苦でもないだろ。竜生は寝てたから俺側だよな?」

「竜生だって数学苦手じゃないよね? というか、最近は授業中に寝てること多くない? なんか疲れてる?」

 征人の問いに、竜生はあいまいにうなずいた。二段弁当をしばる紐をとり、自分でつくった卵焼きを口にいれる。程よい砂糖の甘さが、じんわりと疲れを癒す。応える時間を引き延ばすため、竜生はゆっくり咀嚼してから、ようやく口をひらいた。

「ちょっと、遅くまで携帯いじってたから、それでねむいだけ」

「え、そうなん? なんだよ。いいエロサイト見つけたってことだろ? なんで黙ってたんだよ」

 露骨ににやつき、前のめりになって声を潜める楓馬に、竜生は思わず半眼になる。

「……俺がいつ、エロイのを見てたって言ったよ」

「はあ? 夜更かしの理由なんて、エロしかないだろ」

「未成年にはコンテンツに限界があるだろ」

 そう反論すると、楓馬は「未成年!」と声を張った。ふたりはお互いに(こいつは何を言ってるんだ?)という顔で見つめ合う。

 そこへ征人が割ってはいった。

「エロ目的じゃないなら、竜生は何をそんな熱心に見てたの?」

「いや……、ちょっと『人魚症候群にんぎょしょうこうぐん』について、調べてただけだって」

 不自然にならないよう、弁当をつまみながら答える。


 人魚症候群とは、原因も治療法も不明の現象のことだ。人魚と略されることもあり、古くは「魚憑ととつき」と呼ばれ、平安時代にはすでにそれらしき記述が残されているという。

 人魚症候群になった者は、はじめに声がかすれ、症状が進行すると、まったく発声できなくなる。その驚きに口をパクパクと開閉させるさまが魚に似ていること、また皮膚の一部が硬質化し、まるで魚の鱗が生えたような見た目になることから、この名がつけられた。

 これらの症状は何もせずとも数日で徐々に治まっていくため、やれ悪霊の仕業だの、やれ未知のウイルスによるものだの、今日まで好き勝手に語られてきた。


 人魚症候群と聞いて、ふたりは納得顔を見せた。

「なるほどね」

「そっちか。まあ気になるよなー。まさかうちの学校のやつから出るとは、って感じだし。急に身近に思えてさ。俺、中学のやつから、人魚になるとどんな感じなのか連絡きたぜ。あんま適当いうのもなって思って『しらねー』って返したけど」

「そっか」竜生はそっと息を吐いた。

 楓馬は短絡的でふざけたことをよくいうが、無責任な言動はしない。竜生はその性根を信頼していた。

 寄せられる信頼をよそに、楓馬はポテトサラダを頬張りながら首を傾げた。パーマをかけているようなうねりのある髪が、軽やかに跳ねる。

「たしか人魚になったのって、六組の……、仲間なかまだっけ? まだ治んないんだってな」

「らしいね。仲間さんが人魚になってから、もう一週間くらいだっけ?」

「今日で九日目」

 竜生が簡潔に答える。

 彼らと同級生の少女――仲間沙穂なかまさほが人魚症候群になったとき、学校中が騒然とし、廊下を歩く彼女へは、好奇心にまみれた視線が常にまとわりついた。

「へー! 長くね? 四、五日とかで治まるんじゃなかった?」楓馬が今度は反対側へ首を傾げる。

「なんか、ネットでも話題になってるって。今度テレビの取材もあるかもって噂聞いたよ」

「テレビ? そんな、病気の人をおもしろおかしく取材するって? 絶対許可なんか出さないだろ」

 竜生は眉をひそめた。

 彼女の家におしかけた取材陣から、無遠慮な問いかけをぶつけられ、好奇の視線を避けるために俯きながら足早で校舎へはいる同級生の姿が、容易に想像できる。

「学校側も許可しないんじゃない?」

「でもさー、気になるよな。人魚って、なんでなるのかも、治る理由もはっきりしてないじゃん? 都市伝説っぽいけど、実際に存在してるんだよ。でもわかってるのは症状くらい。謎だよなー」

「ほんとにな」竜生は深く同意しため息を吐いた。

「……そういや、しってる? 麻酔って、なんで効くのか完全には解明されてないらしいぜ。なのに手術につかってんの。やばくね?」

「そうなの? へえ、はじめてしった」

 征人が目をまたたき、竜生は「なんでそんなのしってんだよ」と半信半疑の目をむける。

「都市伝説系の動画でみた。人魚症候群についても載ってたな。竜生も調べてたんなら、そういうのすきなんだろ? 時間がすぎてくのわかるわー。ああいうのって、ついつい見ちゃうよな」

「……まあ」

「で、調べてなんかわかった?」征人が問う。

「……いや。ネットには原因とか、発症理由とか、いろんな説は転がってたけど、どれも確証のない話ばっかりだった。……ただ一個、そうなんだ、と思うことはあって。この地域はこれまで人魚症候群が治るのが、ほかの地域にくらべてはやかったって。だから今回の件はめずらしいって話してる人がいたんだ」

「この地域って、改井かい市が?」

「そう」竜生は首を縦に振った。

 生まれ育った町についてはじめて耳にした、探れば秘密が掘り出されそうな情報に、征人も楓馬も好奇心をのぞかせた。山に囲まれた豊かな自然と、多くの文化財や歴史的建造物とが街中に点在する土地柄、改井市には多くの言い伝えが転がっていることも、彼らの関心に拍車をかけた。

「正確な記録があるわけじゃないけどな。ただ、この話はネットではそこそこ有名みたいだった。俺たちはあんま意識したことなかったよな?」

「ふうん……。いわれてみれば、身近に人魚になった人って全然いないね。だからこそ、今回の仲間さんの件が騒がれたのかも」

「かもなー」

「そういう、改井市とほかの地域との違いを研究してる人とか、探せばいそうじゃない?」

「それはまだ見つけられてない。この話にたどりついたのがきのうで、今日はそっち方面で調べてみようと思ってる」

 竜生はため息の代わりにもやし炒めを飲みこんだ。

 彼の正面で、ふんふん、とうなずいていた楓馬は、大事にとっておいたしょうが焼きの最後のひと切れを舌に乗せて味わってから、口をひらいた。

「んー、原因ってあれじゃね? 天女さまが守ってくれてるんじゃね?」

「……天女さまが?」征人は目をまたたいた。

「なんで天女伝説が? ……ああ、なんか不浄がどうのっていう、あれか?」

 竜生は確かめるように征人を横目で見た。

 改井市には、とある伝承が残っている。それは、

『その昔、土地の不浄を消し去る術はないかと、方々を駆けずり回っていた若者のもとへ、ひとりの天女が舞い降りた。羽衣をなくした天女は困り果てていたが、若者にたすけられ、恩返しにうつくしい声と心で助力し、この地に安らぎをもたらした』

 というもので、改井市に生まれ育った子どもなら誰しもが、幼い頃に読み聞かせや劇で耳にする。

 征人は竜生からの目配せに首を縦にふった。

「平穏をもたらしたって話だけど、そこでエンディングをむかえたわけで、後々にまでつづいてるっていうのは聞いたことないね」

「だとさ。天女伝説発祥の場所――鶴見大社つるみたいしゃの倅がいうんだから、まちがいないな」

 征人の微笑と竜生の呆れ顔を見て、楓馬は椅子の脚を浮かせてのけぞった。

「なんだよ! みんなあれこれ考察してるんだから、俺だって何言ってもいいだろ!」

「考察っていうのは、ある程度の根拠とか、傾向に基づいた推論とかを言うんだ。楓馬のは当てずっぽうじゃん」

「当てずっぽうでもいいじゃん。美人がたすけてくれるとか、夢あるじゃん」

 すがるような視線に、征人は「それはそう」と深くうなずいた。

「それはそうだし、あながち的はずれってわけでもないかも」

「どういうことだよ?」竜生が尋ねる。

「仲間さんが一週間以上人魚になってることを思えば、天女さまのおかげでうちの地域にいままで影響がなかった、っていう説は眉唾物だとは思うけどさ。でもそういう言い伝えが『実は事実に即していた』っていう可能性も、ゼロではないんじゃない?」

「それはどういう……?」

「仙術だとか神通力だとか、この地を守る人知を超えた力、っていうのはないとしても、改井は山々に囲まれていて、外敵の侵入を困難にしていたっていうし、うちの社が神仏のご利益がある、いわゆる霊場に建立されてるのと合わせて『天女が降り立ってその地を守った』っておとぎ話がうまれるのも、ふしぎじゃないと思う」

 征人の私見に、竜生はかみ砕くように何度か首肯した。

「あー……、なるほど。いくつかの民間伝承が混じって、いつからか天女のおとぎ話に形を変えたかもしれないと」

「あったじゃん、根拠!」

 親指で征人を何度も指して「ほらほら!」とアピールする楓馬に、竜生は、うるさいな、と顔をしかめた。しかし楓馬に威圧は効かず、彼は指揮棒のように箸を振った。

「やっぱ天女のお力、みたいなの、みんなうっすら信じてんだって。その願いに応えて、俺たちを見守ってくれてるわけよ。……できればこう、全体的にふわふわしててほしいよな、天女さま。髪の毛もくるくるしててさ」

「おれは長くても短くても、ふわふわでもさらさらでもいいけど、でも金髪だと気合がはいります」征人は手を合わせて宙へ拝む。

「お前らの好みは聞いてないって。……絶対考察がどうとかどうでもよくて、天女の話したかっただけだろ」

 何をあたりまえのことを、と目で語る楓馬を、竜生はじっとりとにらみ、それから視線の先を彼の弁当へ移して「……適当ばっか言って! 唐揚げ奪ってやる!」と箸を伸ばした。すぐさま反応した楓馬が、そんな横暴ゆるしてなるものかっ! と長い腕で竜生の手首をつかむので、押し合いになる。征人はその攻防を見ながらにこやかにわらった。

「まあ、あれだよ。竜生もさ、調べ物が行きづまったら、うちにきたらいいよ。天女さまが加護をくださるかもよ。そうでなくとも、何か閃きを得られるかも」

「……あー、まあ、時間ができたらな」

 腕を振って楓馬の手を剥がした竜生は、断る時の常套句を告げた。すると今度は征人から、信じられない、といわんばかりの目線を寄こされた。人でなしを見るかのような目つきに「なんだよ……」とたじろぐ。

「時間ができたらって、最優先に参拝してってよ」

「……それが本音だろ」

 片方の眉をクイッと持ちあげ、訝しむ。神社への参拝を誘導する流れが、いささか不自然だ。

 征人は、ばれちゃったか、と微苦笑した。

「まあね。おれは鶴見大社の倅ですから」

「参拝者確保に抜け目ないな」

「だってふたりとも、全然来ないし。小学生の頃はさ、裏の山を探検したりしてたじゃん? その帰りにうちに寄って、きちんと参拝もしてた。ね? いろいろ世話になってることだし、氏子としての自覚を持ってほしいね」

 肩をすくめる征人に、楓馬は跳ねるように座りなおした。

「裏の山とかなつかし! たしか山の中にさ、秘密基地つくったりしたよな! いまでもあんのかね?」

「どうだろうね? 今度確かめに行ってみる?」

「いいじゃん! あー、てか言われてみれば、たしかに最近は正月しか行ってなかったわ」

「そうだよ。さみしいなあ」

 まったく本心ではない、とわかる声色で征人が言うも、楓馬は無視して尋ねた。

「やっぱさー、頻繁にお参りしたほうがいいの?」

「いや? べつに毎日、毎週来てよとは言わないけど、肝心なときにだけ神頼みする人より、日頃から通ってる人のほうが、神さまも手助けしたくなりそうじゃない? それに、もし神さまを信じてなくても、自分に誓いを立てるためとか、そういう理由でもいいよ」

「そうなん? 神社のやつがそんなん言っていいのかよ」

「うん。まずは訪ねてもらうことが大事だから。何にしろ、信じる力は侮れないよー? ほら、言霊ってあるじゃん? 口にしたことは叶う、言葉には力があるって。それが思い込みでも、運を引き寄せることってあると思う。仲間さんもそれを……」

 すらすらとよどみなく話していた征人は、そこで自身の発言の迂闊さに気がつき、ハッと口をつぐんだ。(あぶなっ。口を滑らせるとこだった……)

 竜生から疑問の視線が刺さるが、まだ方向転換できるだろうと、考えをめぐらせる。

「その……、神前で目標を語ることで、自分に誓いを立てることになるから……。そしたら、絶対に叶えようって気持ちが強くなる。……これはおれの自論だけどね」

「えっ、たしかに! それいいじゃん! 大会うまくいくように、もうちょっと顔出すようにしよっかな。いまからでも間に合う?」

「間に合う、間に合う」

「うおー! なら俺、ガンガン参拝しに行くわ!」

 バスケ部のレギュラーとして活躍している楓馬は、拳を突きあげて宣言した。小学生の頃と変わらない笑顔に、竜生は嘆息を吐く。

「まんまと釣りあげられてる……」

「竜生もさ、何かに負けられないとか、気持ちを奮い立たせたくなったら、うちで参拝していってよ」

「……わかった」

 竜生はすなおに承諾した。いまの征人の発言には、参拝客になってくれという意図よりも「人生の手助けになればいい」という、ただただ友人としての気遣いがこめられていると察したのだ。竜生の目元がやわらぐ。

 その穏やかな表情で、弁当箱を片づけながらチラリと時計を見やる。昼休みが終わるまで、二十五分ある。

 竜生は立ちあがり、顔だけでふり返ってふたりへ声をかけた。

「……ちょっと出てくる」

「あいよ」

「いってらっしゃい」

 ふたりの声を背に、竜生はすこしだけ大股で教室を出ていった。その背を見送りながら、楓馬が言う。

「……あいつさー、いっつもトイレ長くね? 全然もどってこねえじゃん」

「んー、その話、これ食べてからにしてくれる?」

 釘を刺し、最後にのこしておいた鮭の切り身と米をひと掬いして、塩気を味わう。その喉が嚥下のために動いたのを確認してから、楓馬は口をひらいた。

「絶対うんこじゃん」

 楓馬が言い終えた瞬間、すぐちかくの席を囲んでいる女子数名から(食事中なのに大声で何言ってんの……?)という蔑みを含んだ視線が送られた。

 その冷ややかなまなざしに目の端で気づいた征人は、勢いよく楓馬の後頭部をはたいた。自分も同類だと見なされたくなかったのだ。何を言うのか、完全に予想がついていた分、ついつい力がはいってしまったが、マナー違反者への制裁としては妥当だろうと、内心で判決を下す。

 征人は口直しに水筒から麦茶を飲んだ。衝撃に頭をおさえ、背中を丸める友人を呆れ眼で一瞥する。

 征人は友人が嘘をついていることも、それを悟られたくないと考えていることも、正確に察していた。そしてその理由を勘ぐるのは野暮だろう。週に二回、昼休みにご飯を食べ終わると教室を出ていく竜生の表情や歩き方で、彼がはやる気持ちをおさえようとしていることはわかっていた。

「とりあえず、その予想は外れてると思う。竜生はさ、大事な用があるんだよ」

「なんなんだよー」と言いながら催促のため右腕を揺すってくる楓馬に、征人は適当に話を終わらせようと助言を投げた。

「そんなに気になるなら……、あれだ。あのー、そう。うまくいくよう、背中を押してあげたら? そしたらいつか、話してくれるかもよ」

「背中を? なるほどな。……なんか内緒で練習してんだな? それは秘密にしておきたいか」

「そうそう。プライドがあるからね」

 あまりこの会話が記憶に残っているとまずいか……と考え、征人はべつの話題をふった。

「そういえば、天女伝説でちょっと思いついたんだけどさ。天女モチーフのお守りとか、どう思う? 羽衣を表現したレースとか、そういうのをデザインしたやつ」

「天女お守り? ……いいじゃん! むしろなんでつくってないんだよ? ビジネスチャンスだ!」楓馬は指を鳴らして軽快に言った。

「うまくいけば、お賽銭よりよっぽど安定するよ」

 にこにこと人好きの良い笑みで俗物的なことを告げた征人に、楓馬は(やっぱこいつ、俺たちと仲良くしてるだけあって天才だな……)と感心した。


  *


 竜生たちの通う高校は、三学年分のクラスが並ぶ教室棟と、職員室などが配置されている管理棟とが、渡り廊下で結ばれている。

 管理棟には文化部の部室がいくつかあり、竜生はそのうちのひとつ、三階の一番端に位置する部屋へむかった。昼休みに管理棟を訪れる生徒はほとんどおらず、教室棟のざわめきがずいぶん遠くに感じる。


 ドアの前で短い髪をかきあげ、妹からは「タヌキ系の柴犬みたいな顔だよね。害はなさそう」と評された顔を引き締める。(せめて男前だったらな……)と縮こまりかけた心を叱咤して、竜生は引き戸を開けた。

 真っ先に、パイプ椅子やホワイトボードの落書きに出迎えられる。日によって言葉は違うが、今日は「三日以内に曲決めする!」と書かれていた。文化祭で披露するための曲決めだろう、軽音部らしい。それから隅のドラムが目にはいる。

 帰宅部の竜生は、この部屋に足を踏み入れるたび、よその部室へおじゃましている気まずさを感じていた。

 はじめに備品や楽器を意味もなくながめるのは、自分の目が一直線に窓際を見つめてしまうとしっているからだ。

 竜生は数秒の間を取ってから、開いた窓枠に半分腰かけ、足をふらふらと揺らしている少女――仲間沙穂へ視線をやった。肩に届いたこげ茶の髪は、寝ぐせなのかすこしだけ跳ねている。

 垂れた目じりがやわらかくほころんだのをとらえて、竜生の肩から力が抜ける。彼女は竜生へひらりと手を振った。その手へ振り返す代わりに「おつかれ」と言って沙穂とむき合う。

 彼女は携帯の画面を差し出した。『やっほー』

 あかるい文面に頬がゆるむが、やはりまだ声が出ないのだとしって、どうしても眉根が寄ってしわをつくる。その顔がよほど不機嫌そうに見えたのか『どうしたの?』と問われた竜生は慌てて、なんでもない、と首を左右に振った。 


 一年の夏のことだ。

 当時は弓道部に所属していた竜生は、練習を仮病で休み、管理棟をうろついていた。明確な理由があったわけではない。ただ、漠然とした虚無感が胸を塞ぎ、ほんのすこしでいいから逃避したくなった。

 どこか人のいない場所はないかと、端から端を歩いて、一階から順繰りに巡っていった竜生がたどりついたのが、軽音部のとなりの部屋だった。その一室は備品を管理している倉庫で、竜生がひとりで過ごすのにうってつけの場所だった。

 彼は倉庫の壁に背をつけて、ぼうっと天井をながめた。閉め切った窓のむこうから、どこかの運動部がランニングしている掛け声が聞こえてくる。静寂はないが、平穏はあった。つぎの日、竜生の放った矢の的中率は安定していた。それを期に、彼は時おりその部屋で精神を落ち着かせるようになった。

 竜生が沙穂の存在をしったのは、三回目に訪れた時だった。

 突然隣からのびやかな歌声が漏れ聞こえてきて、竜生はビクリと身体を震わせた。気づかれないようそっと息をつめる。しかしすぐに、気づかれるはずがないと思い至り、目を閉じてその声に集中した。聞いたことのない曲だったけれど(――あとから確認すると、沙穂の自作曲だった)竜生は音楽で心を揺さぶられる、という経験を人生ではじめて味わった。

 彼女の歌を聴いていると、まるで背中を押してもらっているような、隣に立っていっしょに前をむこうと寄りそってくれているような、そんな感覚を抱いた。

 そして歌を聞き終えた時、竜生は自分の身体が軽くなっていることを自覚した。鳩尾にたまっていた淀みも消え去り、ずいぶんと息がしやすかった。

 だから次第に彼の中で、隔たりをなくして聴いていたい、という欲が生まれたのも、当然といえる。その日から彼の定位置は、部屋の柱の影ではなく、ベランダになった。運がよければ窓が開けられていて、より鮮明に聞こえるのだ。

 毎週水曜日の放課後に開催されるコンサートに、ひとり癒されていた。ところがある日、気まぐれでベランダへ顔を出した少女に、竜生はついに見つかってしまった。

『だれかいる』

『……います』

 はじめて交わした会話がこれだ。

 勝手に癒され、勝手に元気づけられていた竜生は、盗み聞きの申し訳なさに肩をすぼめた。ところが歌声の主――仲間沙穂は、気味が悪いと邪険にすることなく「せっかくならこっちで聞けば?」と名もしらぬ同級生を部室に招いた。

 下心はなかったし、つきまとう気もさらさらなかったけれど、後日沙穂に「ひそひそ隠れて聞いていた異性を、警戒しなかったのか」と尋ねれば、彼女は遠くまで通る声でひとしきりわらってから「害はなさそうだと思ったから」と回答し、竜生を安堵させた。タヌキ寄りの柴犬顔でよかったと、心から思った。

 そして沙穂は、部室に来るのはいいけど――と前置きしてから、竜生に自身の歌の感想を要求した。どうも組んでいたバンドを解散したばかりで、いまはひとりで歌の練習をしているため、客観的な意見が欲しいという。友人や家族よりも忌憚のない意見が聞けそうだからと頼まれ、聞き耳を立てていた後ろめたさから、竜生は了承した。

 それからふたりは水曜日の放課後に、二年に進級してからは、火曜と木曜の昼休みか放課後、約束を交わすことなく、互いの都合があった時だけ、顔を合わせるようになったのだった。


 沙穂が人魚症候群になってから、竜生が面と向かって彼女と会うのは今日がはじめてだった。なんと声をかけるかシュミレーションしていたのに、いざとなると頭が錆びついてうまく稼働しない。

「あーっと……、仲間さん。調子は、その、どう?」

『全然ダメ! いろいろ病院まわったんだけど、やっぱり対処法がないってさ』

「そっか……」

『現代医学でも解明できないとか、人魚ってほんと謎だよね!』

 画面に表示された文字にうなずきつつ、竜生は悟られないよう沙穂の喉元を盗み見た。

 彼女の皮膚は、魚の鱗のように硬くなり、蛍光灯を受けて鈍色に光る。そのきらめきにうつくしさを見出してしまう自分が、ひどく腹立たしかった。

 俯いてつぎの言葉をさがす竜生に、沙穂はかまわず文字を打った。

『でもさ、文化祭までには治すから。絶対舞台で歌うんだ』

 竜生が顔をあげると、目の前には曇りのない笑顔があった。思わず怯んでしまうくらい、完璧な笑みだった。

『渡良瀬みたいに、あたしのファンが待ってるしね』

「……ああ、そうだよ。去年よりも、もっと多くのお客さんの前で仲間さんが歌ってるのを、俺は最前線で聞くよ。ファンとして」

 力強い宣言に、上向いていた沙穂の口角がヒクリと跳ねる。――どうしても喉元に意識がむいていた竜生には、彼女が音にならない言葉を飲みこんだのがわかった。下唇を噛んで、もう一度沙穂は微笑みをつくりなおした。

『あたしはもう少しここにいるけど、渡良瀬は?』

「俺は……、もう行くよ。どうしてるかなって、気になってたから。会えてよかった」

 立ち去るのが彼女の望みだろうと察した竜生は、じゃあ、と手を挙げて踵を返した。その背に手を伸ばし、沙穂はすばやく文字を打つ。

『べつに、ふつうにうちのクラスに来てくれてもよかったのに』

 顔だけでふり返った竜生は、画面の文字を読んで苦笑した。

「いや、遠慮しておく」

 そう? と目で問う沙穂に、竜生は深くうなずいた。

 インターネットにオリジナルソングをあげていた沙穂の存在は、同学年にはそれなりに認知されていたが、昨年の文化祭のステージで披露して以降、知名度は爆発的に跳ねあがった。

 一曲披露するごとに、彼女の歌唱力について賞賛する声が広まり、体育館には観客が押し寄せた。沙穂の歌う姿を携帯におさめる人は多くみられ、竜生も体育館の二階から歌唱する様子を録画した。歌だけでなく、ひとり舞台にあがる彼女の勇姿を残しておきたかったのだ。

 音漏れの心配をせずに思う存分歌声を響かせることができて、目の前で観客の反応を浴びて、心底たのしそうにわらう沙穂は、ライトを浴びてきらきらと輝いていた。

 竜生は彼女へ羨望を寄せた。(俺もそんな夢中になれるものを、見つけられたら……)

 だから彼は、それまで惰性でつづけていた弓道部をやめた。弓の練習は、鶴見大社でもできる。それ以外の時間で、何かやりがいのあることを見つけたいと思わされたのだ。

 最後の曲を歌い終える頃には、歓声と拍手が送られ、沙穂の名を呼ぶ声がしばらく止まないくらいの大盛況となった。その熱狂ぶりは、文化祭が終了してもおさまることはなく、仲間沙穂のファンは学校内外に広がった。

 そして今回、彼女の人魚症候群が取り沙汰されて、しまいにはテレビ局の取材にまで発展したのは、これまでよりも症状が長引いていることだけでなく、沙穂の認知度と「歌声の出なくなった人魚姫」というセンセーショナルな題材のせいだ。

 沙穂にとって不本意な注目が集まっていることに、竜生は歯がゆさを感じていた。それなのに、普段交流する姿を見せていない同級生の男が訪ねていけば、よけいな噂話が追加されることは明白だ。

 竜生としては、自分のまわりが騒がしくなることは許容できるが、自分のせいで彼女を煩わせることはしたくなかった。沙穂はただでさえ、人魚症候群に苦しめられているのだ。

(それにべつに俺たち、探られるような関係ってわけでもないしな。出会った時、お互いなんとなくここが避難場所みたいで、しかも俺が歌を聞きたいってリクエストしたから、むこうが答えてくれただけの、知り合い程度の関係だし……)

 ただのファンとして、時おり顔を合わせるくらいがちょうどいい。


 部室を出て数歩進んだところで、竜生は足をとめてふり返った。

 クリーム色のドアのむこう、ひとり外をながめる友人の顔には、どんな感情が満ちていたのだろうかと思いを馳せる。

 竜生には、なぜ彼女がこの場所にいたのか、その理由に察しがついていた。

 この一年、定期的に顔を合わせていた竜生を待っていたのではない。そんなばかげた勘違いはしない。

 彼女はただ、誰にも見られることなく、聞かれることなく、声が出ないか、人の来ない部室でひとり、必死に音にならない息を吐いていたのだ。どうにか歌おうとして、ただ魚のようにパクパクと口を動かす想像の姿と、もどかしさにひっかき傷をつけられた現実の鱗が、まぶたの裏で交互に映しだされる。竜生は拳を握った。

 今日も人魚症候群について、夜遅くまで調べることになるだろう。

 午後の授業は寝ていても問題なかったか。教室へもどりながら、竜生は時間割と授業内容を思い返した。











 竜生は眉間を指で揉みこんで、きつく目を閉じた。チカチカと白い光が目の裏で閃いている。ほとんどまばたきせずに、携帯の画面を見つづけ、小さい文字を追っていたから、いよいよ眼球が限界を訴えている。

 一度休憩しようと、携帯をベッドに伏せて起きあがる。人魚症候群の治療法に関してめぼしい情報はなく、今日の夜もまた長くなることが確定した。

 自室を出て、一階のリビングに下りると、全部の電気が消され、唯一の光源であるテレビの前で、妹のあかねと弟の勇生ゆうせいが膝を抱えてソファに座っていた。竜生は自分よりも目の丸い、タヌキ顔の柴犬が二匹並んでいる姿を連想し、フッと笑みをこぼした。微笑ましいイメージとは正反対に、画面にはおどろおどろしいテロップで「深夜の病棟」と書かれている。

(……ああ、ホラー番組見てんのか。それにしても……)

 暗いキッチンで弁当を詰めている母に、コップへお茶を注ぎながら声をかける。

「暗くない?」

「暗いよ。けどこれが終わるまでは消してて、っていうから。手元が見えるからいいけど。耳で聞いてるのも面白いしね」

「雰囲気つくって……、勇生ってホラー苦手じゃなかったっけ?」

 小学六年生の弟を見やる。不穏なBGMに、いちいち肩を震わせている姿が哀れだった。

「茜に『悲鳴をあげたほうが負け。勝ったほうのいうことを聞く』って勝負を仕掛けられちゃって。がんばって見てる」

 竜生は妹の後頭部を一瞥し、ため息を飲みこんだ。

(中三にもなって、小学生の弟をいじめるなよ……)

 当の妹は兄の視線に気づかず、顔半分を隠すように髪を引っぱり、すき間から鑑賞している。

「勝敗は?」竜生が母に問いかける。

「いまのところ、茜の勝ち」

「煽られた時点で決まってたな」

 クイッと冷たい麦茶でのどを潤したところで、兄に気づいた勇生が、まるで救世主でも現れたかのようなまなざしをむけた。

「あっ! 竜生! 見て! 見てこれ! はやく!」

 必死の呼びかけに(去年までは竜兄たつにいって呼んでたのにな)と一抹の寂しさに思いを馳せながら、ソファへ近づく。はやく、はやく、と急かされるまま、弟の横のひじ掛けに腰かけた。

 するといまがまさに一番の見せ所だったようで、画面いっぱいに、異様に黒目の大きい血まみれの女性が映った。恨めしそうに、画面のむこうを睨んでいる。

 竜生が(真新しさはないな……)とながめていると、左腕がきつくつかまれた。ついでに「ギィーッ……」と押し殺したような悲鳴が耳にはいる。

「はい、十四回目」茜が無情にも数を足す。

 勇生は悔しそうに歯ぎしりし、縋るように兄を見あげた。

「いまのは無理でしょ! 竜生は怖くないの!?」

 弟のどんぐり眼から逃れるために、顔をそむける。

「……いやー、べつに」

「なんでだよ! あんな……、あんなに脅かしてきたのに!」

「っていわれてもな。いきなりクライマックス見せられても。こういうのは、ストーリーとか展開ありきで恐怖が増幅するもんだろ」

「えー? あんな顔がドアップできたら、幼児番組の途中でも怖いよ」茜がいう。

「それは……、突拍子なさすぎてたしかに怖いけど」

 平然と会話する兄に、勇生の口がへの字に曲がる。巻き添えにしようという目論みは残念、失敗に終わってしまった。

「竜生ってほんとに怖いの平気なんだ。……べつに、おれも平気だけど」

「そうだな……」

 演出に驚かされることはあっても、この手の心霊番組を怖がったことはない。せいぜいが(よくできてるなあ)と演技や映像の出来に感心を抱くくらいだった。

 左からもの言いたげな妹の視線を感じながら、竜生は椅子にしていたひじ掛けから立ちあがった。

「俺は部屋にもどるけど、あんま無理すんなよ」

 弟の頭に手を乗せて、麦茶片手にドアへむかう。すると背後から「あー、待って!ちょっと話があるんだけど。っと、そっち行く」といって茜が駆け寄ってきた。

 怪訝に眉をあげる竜生をしり目に、逃亡を図った姉に勝機を見いだした勇生がこれ幸い、と声を張った。

「姉ちゃん! 勝負を放棄すんの?」

「この回だけね! それでもまだあんたのほうが負けてるから」

「はあ? つぎのやつで姉ちゃんがめっちゃ叫ぶかもしれないじゃん! 不公平だ!」

「うちが叫んでんなら、あんたはばかみたいに泣いてるよ。……けどいいよ。お母さん、うちの代わりやってくんない?」

 母親は弁当箱とリビングとを交互に見て、肩をすくめた。

「えー? まあ、つぎの話だけならいいよ。喧嘩されても面倒だし」

「しないって。じゃあお願い。お母さんが声を出した分、うちのカウントにしていいよ」

「オッケー。それならいいよ」絶望的だった勝利の可能性が見え、勇生の声が弾む。

「ほんとに限界が来たら、あの弓を持ってきたらいいよ」

 母親のセリフに、勇生は床の間へちらりと視線をやった。

「あの弓って……、たしか出生祝いにじいちゃんがくれたやつだっけ?」

「そう。破魔弓はまゆみは魔除けになるんだよ」

「いや、竜生ならまだしも、おれ弓なんてつかえないし。いいよ。気合で乗り越えるから」

「あっちはだいじょうぶみたい。行こ」

 気を取りなおそうと頬を叩く勇生と、じっくり見るなんてひさしぶりかも、とたのしそうな母の会話を背に、妹に押されるまま階段をのぼる。自室の前まで誘導されて、ようやく背中から手が離れた。

 茜とむき合い、竜生は口をひらいた。

「で? 話って?」

「あーのさ……、お願いが、ありまして」言い淀み、長い髪を指に巻きつける。

 しばらく話し出すのを待っていると、彼女は一度咳払いをしてから、口をひらいた。

「実はさ、今度うちのクラスのやつらで肝試しすることになって」

 出だしから無責任が香る話題に、竜生の眉間にしわが寄る。

「受験生がなにやってんだ」

「ほんとにね。最後の夏の思い出づくりだってさ」

 茜は苦い物を食べたような顔で訳を話した。

「でね、うちは怖くないからまだいいんだけどさ、そういうのが苦手な友だちは押しに弱くって。断れないまま参加することになっちゃったんだ。でもやっぱり、誘われたつぎの日からひどく怯えちゃってさあ。当日までに萎れちゃうんじゃないかって心配なの」

「なら中止にすればいい。面白半分で心霊スポットに行くもんじゃない」

「わかってる。けどさ、うちがしった時には止められる段階じゃなかったんだよ。ひとりの意見じゃねじ伏せられるだろうし、その子も一緒に反対しよう……っていっても、輪を乱すのは勇気がいるだろうし」

「まあな。こっちが全部汲み取るのは甘やかしすぎとも思うけど、気の弱い人の参加は絶対に阻止したほうがいいからな」

 竜生が複雑そうにうなると、茜は神妙にうなずく。

「でしょ? べつにその子に頼まれたわけじゃないの。『あの時、ああしてれば……』って後悔したくないじゃん。それにさ、すでに決行を覆せそうにない肝試しを潰せないか画策するより、事前に安全確認するほうが穏便にすませられると思ってさあ。……竜生なら、本物かどうかわかるでしょ?」

 竜生は頭をかいた。妹の選択が最善に思えた。

「……俺も忙しいんだぞ?」

「わかってる」

 茜は真摯なまなざしで、十五センチ以上高いところにある兄の顔を見すえた。

(昔はうちのほうが大きかったのに)

 いつの間にか、こんなにもひらいている。遠くなった兄に、今回の件が、おふざけのためではなく人命のため、そして自分自身も危険に身を投じる覚悟なのだと、わかってもらわなければならない。

「深入りしなくていいから、下見についてきてほしい。そのいわくつきの場所に、ほんとに何か出るのか。それとも噂になってるだけで実際には安全なのか。竜生の指示には絶対従うから。このとおり!」頭をさげて、手を合わせる。

 竜生は妹の、時計回りのつむじをしばらく見つめ、やがて観念して「わかったよ……」とうなずいた。

「何もしないで、ほんとに被害が出たら、さすがに寝覚めがわるいしな……」

「ありがとー! じゃあ、明日! 学校終わりでいい? 部活してないしいける?」

「ああ、だいじょうぶ」

「ごめんね、ほんとたすかる!」

 ぴょんっ、と上機嫌に飛び跳ねた茜は、そのままスキップしそうな軽やかさで階段を降りていった。

「姉ちゃん! 遅いよ! いまめっちゃいいところだから!」

「まじ? 今回どんな話なの? てかお母さんは怖がってた?」

「山奥の集落に、研究のために訪れた大学生が……って話。ていうか母さん、作りがあまいとか、カメラの動きがどうとかうるさいんだけど」

「ああ、やっぱり。お母さん、竜生のつぎにホラー平気だもんね」

「はあ? そうなの」

「そうだよー」母の声が参加する。

「なら姉ちゃんの代わりにするのズルじゃん!」

 三人のたのしそうな騒ぎ声は、二階まで届いてくる。

 竜生は口元に笑みを灯し、今度こそ自室のドアを開けた。気だるい身体に活力がもどっている。まだまだあくびは出そうにない。

 明日、どんなものがでてきても冷静に対応するために、支障がでない程度に調べ物をしよう。

 竜生は気合を入れようと首をぐるりとまわし、ネットに転がる文字を追いはじめた。


  *


 翌日の放課後、さきに授業の終わる茜が竜生の高校へ迎えに来て、ふたりは肝試しを行うという心霊スポットへむかった。

 改井市は四方を山々にかこまれた谷状の地形で、丘陵地も多く、勾配が二十度の場所もある。改井駅を中心とした、谷底にあたる地域は、歴史的建造物が数多く現存しており、石畳が敷きつめられた道はなだらかに整備されているが、山を切りひらいただけの地域とでは、開発にかなりの差が生じた。

 コンクリートで均すにも限界があり、神社仏閣までの道のりを除くと、ある場所からあからさまに足元が土になり、獣道も増えてくる。木々の匂いが濃厚に香り、苔むした岩や石段が目につく。

 ふたりはコンクリートがつなげる道を選び、自転車を漕ぎながら坂道を登っていった。


 途中に征人の家でもある、鶴見大社に寄って、ふたりは駐輪場に自転車を止めた。装いから観光客とわかる人たちを横目に、さらに奥へと進んでいき、やがて目的地に到着した。

「ここから行けるんだよね?」

 茜は声を潜めて、薄暗い山道をのぞきこんだ。この奥に、かつては村があったという。街道から外れると、途端にあたりは影が増え、気温もさがったように感じる。まっすぐに幹がのびる木々さえも、どこか不気味に感じる。

 茜は紺色のセーラー服を、竜生は黒の学ランを着ており、木々のなかではさぞ目立つだろうと思った。万が一遭難したとして、むしろ目立ってくれという願望があった。念のため、竜生はあたりを見わたし、警戒に唇を舐めると山道へ視線をもどした。

「とりあえず、村の手前まで行ってみるか」

「そうだね」

「肝試しはここの廃神社にお参りするって話だったけど、ここに来るまででも危険だろ。肝試しっていうんだし、当然夜に来るんだよな? ……アホか?」

「ほんとにね……。やろうって提案したやつらとは、進学先が誰ともかぶってないから安心だわ。……で、まだ何も見えない?」

「ああ。見えない」

「そっか」

 茜は竜生の横顔を窺い、視線を落とした。兄の表情はなだらかで、不満などは見受けられない。足元の土をつま先で削る。

「あのさ、いまさらだけど、ごめん。竜生、あんまり『見る』の得意じゃないのに……」

 今度は竜生が横目で妹を見て、すこし大げさに肩をすくめた。

「ほんと、いまさらだな」

「うっ……、ごめん」

「いいよ。ほら、行くぞ」

 昨日の夜、勇生の頭にしたように、妹の背をやさしく叩いた竜生は、ふう、と息を吐くと、山道へ足を踏み出す。

 背筋ののびた兄の背中をじっと見つめた茜は、置いてかれないよう慌てて追いかけた。


 竜生の目は、ほかの人よりも多くのものをとらえる。たとえば文字の色だ。

 これは「色字共感覚しきじきょうかんかく」とよばれるもので、ひらがなの「あ」や漢字の「朝」は赤色、といったように、数字や文字にそれぞれ色がついて見える。英単語や人名を覚えるのに役立つくらいで、文字を追わなければ視界に映る色はぼやけているので、日常生活で特段意識することはない。

 問題はもうひとつ、竜生の瞳には霊が映るということだ。

 顔の判別ができるほど鮮明に見えたことはなく、大抵は輪郭のぼんやりとした人の姿だった。霊がそれぞれにまとっている色は異なり、竜生はそれを「オーラ」――いわゆる霊的エネルギーだと考えている。あかるい色や、淡い色の霊は、時間という概念に捕らわれることなく延々と立ちすくんでいたり、おなじ場所をふらふらと歩きまわったり、無害な存在で、一方誰かを害そうとする、悪霊と呼ばれるものは、総じて暗い色だった。

 幼い頃の竜生にとって、それらは死んだ人の姿ではなく、見知らぬおとなという認識だった。それでも無意識に警戒心が働いていたのか、重たい色の人には近づかないようにした。

 だから紫色のぼやけた人が、自分の前を通りすぎていく相手を見定めるようにじっと睨んでいた時も、竜生はママ友と立ち話している母の足にしがみついて、影から様子を窺っていた。

 そしてまだ頭が重く、よたよたと歩くことしかできない妹が距離を縮めているのに気づいた時には『むこうの人はあぶないから、近づいちゃダメだよ』と引き留めた。

『だれー?』

 首を傾げる茜に、竜生は相手に気づかれないよう、どこにいるのか耳打ちした。それでもきょろきょろと宙を探す妹はついに、どこにいるのか見つけ出してやる、と意気込んで、兄の示した場所へ突き進んでいくので、竜生は慌てて妹の手を引いて、話し込んでいた母のもとへもどり、お腹が空いたと駄々をこねた。おかげでその場を離れることができた。

 そして竜生はこの時になってはじめて、ぼやけた人が誰にでも見えるわけではないのではと疑問を抱いたのだ。

 この出来事をきっかけに、茜はふしぎなものが見える兄と、視界を共有したがった。出かけるたびに、何かいるか尋ね、竜生がうなずくと、絵を描いてくれとせがんだ。悪いものでないかぎり、竜生は妹の要望を叶えてやった。

 ふたりとも分別がつく年齢になり、それらがどういった存在なのか知識を得ると、茜は兄に催促することはなくなった。だから彼女が竜生に「何が見えるか教えてほしい」とお願いすることは、ずいぶんとひさびさのことだった。


  *


 自転車が行き交えるだけの幅の山道を、慎重に進んでいく。竜生がもっぱら警戒しているのは、霊ではなく猪の出現だったが、野鳥のさえずりや葉のこすれる音のほかに、いまのところは耳に届くものはない。

 スニーカーの竜生はともかく、ローファーを履いている茜は、石に足を取られないよう恐々と足を運んだ。

 そうして十分ほど経っただろうか。湾曲した道のさきに、廃屋が見えた。

 木造の一軒家で、枠だけが残ったドアのさきを覗きこまないよう、外観だけを目でなぞる。板壁は湿気を含んで色を変え、瓦屋根を重たそうに支えている。

「これが、村のはじまりかな……? じゃあ、もうすこし行けば、神社があるのかも」

 身を縮こませる妹にうなずいて、竜生は瞳だけでぐるりとあたりを見わたした。訪れた客を歓迎する者はない。

「とりあえず、ここらへんはだいじょうぶみたいだな。……けど茜もしってるとおり、俺には一撃で倒せる霊能力とか、霊を退けられるお経とか、対処できる力も知識もないからな? すこしでも危険だと思ったら、すぐに引き返すんだぞ」

「うん。わかってる」

 しっかりと縦に振られた頭を目の端でとらえながら、竜生は割れた道祖神の像を意識的に視界からはずした。


 奥まったところにあるようならば、断念することも視野に入れていたが、ふたりにとって非常にありがたいことに、目的の場所は、何件かの廃屋を通りすぎたところにあった。

 立派だっただろう石の鳥居は、薄汚れて黒ずんでいた。神を祀っていたはずの社は、意外なほど形を保ち、石段の上からふたりを見おろしている。両脇の狛犬には苔がまとわりついているが、道祖神のように欠けていないことが、かすかに竜生を安堵させた。

 茜の喉の奥で、縮こまった悲鳴が「ぎぅ」と呻いた。

「こーれは……、たしかに、肝試しにはうってつけだけど……」

「雰囲気たっぷりだな」

 参拝する気も、鳥居をくぐる気も、まるで湧かない。肝試しをすることが目的ではないので、さっさと終わらせようと竜生は視線を走らせた。仮に蠢く靄が木影に隠れていたとしたら、見つけることはむずかしいが、いまのところ空気は落ち着いている。静けさを、いっそ不気味と受け取ってしまえるほどだ。

 目だけでなく耳もつかって警戒していた竜生は、突如として聴こえてきた葉の揺れた音に、息を殺した。聞こえたか、茜に目で訴えかけると答える代わりに身を寄せたので、竜生は彼女とともに方向転換しようと、ゆっくり足を引いた。葉の音はますます大きくなって、蛇行することなく近づいてくる。

「……たっ、竜生! なんか、来てない? なんか来てない?」

 学ランの裾を揺すられる。竜生は音の発信源を直視する勇猛さも、かといって背をむける無謀さも持ち合わせておらず、姿を現したら横目に見える位置で、目の前の木の肌を凝視することしかできなかった。

 茜は荒々しく息を吐いて、

「やばいって。いま気づいたけど、うちらってホラー映画とかで物語の冒頭に死んじゃう人みたいじゃない? 好奇心で心霊スポットに行って、罰当たりなことする役。ああいうのって、演出としてはわかりやすいけどさ、実際にいたらドン引きするよね。でもさ、うちらはべつに好奇心でこんなとこに来たわけじゃないじゃん。……えっ? そもそもその場所に行ったからとか、そういう理由でアウトだったりする? だとしたらやばいよ。ごめん、竜生。巻きこんじゃった。ああ、どうしよう!」

 とつらつら早口でつぶやいた。

 竜生は何度も裾を引っ張ってくる妹に、落ち着けと小声で話しかけた。しかし彼の頭も混乱のせいで動きが鈍く、最善策は思い浮かばない。

(せめて、せめて鹿とか、草食動物であってくれ!)

 竜生が内心で祈っていると「あれっ?」という声が、張り詰めた空気を破いた。

 それはあまりに能天気な響きで、あまりに死者らしくない。そもそも竜生は霊の声など聞いたことがなかった。口を引き結んでいた茜の口から、スーッと吐息がもれる。

 何かが近づいてきた方向へ、恐る恐る顔をむけたふたりの目に、女性らしい滑らかな手が映る。「ひえっ」とすっとんきょうな声をあげた茜は、竜生の腕を力任せに引っ張った。腕の痛みに苦情を伝える余裕はないので後回しにし、木々のむこうへ目を凝らす。

 ふたりの焦燥をよそに、木の枝をかき分けた腕の主は、自身へ注がれる二対の目とかち合って首を傾げた。

 そこにいたのは、茶色い髪を低い位置で団子にした、二十代半ばの女性だった。黙っていても微笑んでいるような顔で、社へすばやく視線を走らせると、つぎに興味を隠さずにふたりを見つめた。気さくな雰囲気に、全身に張り巡らされた緊張が、風船がしぼむようにほどけていく。

 彼女はジーパンにTシャツとラフな格好で、ワインレッドの楽器ケースを背負っていた。形はくびれのある落花生に似ている。女性の平均を下回っている彼女の身長では、竜生の目線からだと、巨大な楽器ケースに押しつぶされているように見えた。

「人だ……。絶対に人」

 茜が茫然とつぶやく。そのひと言で、竜生はようやく、目の前の女性に実体があると確信を得られた。

 女性――稲岡明咲いなおかめいさは、口角をあげたまま目をまたたいた。

「いやあ、困ったなー。まさかここに人が、しかもこんなに若い子がくるなんて。肝試しにでもしにきたのかな? たしかにね? 恋人同士、スリルを味わうにはピッタリの場所かもしれないけどさあ……」

 眉をさげて困り顔をつくっているが、言葉の端々に非難の色を感じる。驚愕に固まっていた竜生は、誤解を解くため即座に否定しようとした。

「いや、そういうんじゃ……」

「あー、ごめん! もしかして、付き合う前の微妙な時期だった? 恐怖のドキドキを、恋のドキドキと勘違いしてもらおうとか、そういう?」

 にやにやとからかいを含ませた年上の女性の言葉に、恐怖で錆びついていた茜の思考が稼働をはじめる。まっさきに浮かんだのは(ひどい勘違いだ!)という思いだった。

「えっ? いやっ、ちがいます! うちら兄妹なんで!」

「あ、そうなの?」

 あっさり言い分を信じてもらえたことに、茜は安堵した。明咲は面食らった顔でふたりを交互に見ると、顔立ちに血のつながりを見出し、申し訳なさそうに眉をさげた。「それはとんだ勘違いを」と手を合わせる。それから弁明するため顔の前で左右に手を振って、思いこみの訳を語った。

「普段は男女の二人組を見たところで『恋人かな?』とか品のない勘繰りはしないんだよ? わたしにはいっさい関係ないし。けどね? 場所が場所だからさあ。道理を求めたくなるんだよ。安心するから。まさか兄妹で心霊スポットにいるとは想定してなくて」

 彼女の弁明に、竜生は「べつに気にしてないので」と苦笑する。ふたりのほうこそ、自分たち以外の人間が現れる可能性を、みじんも考えていなかった。

 気を悪くしてないならよかったよー、といささか大げさに胸を撫でおろした明咲は、ふう、と息を吐き、にこりと笑みをつくると「それで、兄妹なのはわかったけどさ。どうして立ち入り禁止の場所にいるんだろうね?」と尋ねた。

 ふたりはぎくりと肩をすくませた。彼女の口調には圧があった。瞬時に顔を真横にむけて(立ち入り禁止だったのか?)と竜生が目で問えば、茜は音が鳴るほど頭を振り(しらないよ!)とまなざしで無実を主張した。

 沈黙を保つ兄妹をつぶさに観察してから、明咲は腰に手を当てて言った。

「わたしはここの土地の管理人に許可をもらってるんだけど、君たちはそうじゃないよね? ……しょうがない。ほら、誰にも連絡しないでおいてあげるから、もう帰りな。何か起きる前に見つけられてよかったよ」

 追いやる意図を含ませて、ひらりと手を振った彼女の双眸が、記憶するように制服を行き来したので、竜生はとっさに襟元の校章を握りしめて手で隠し、それから頭をさげて、妹に「行こう」とささやいた。うん、とうなずいた茜とともに、すなおに踵を返す。

 明咲は、肝試し目的にしては潔い、と満足そうに微笑んだ。しかしその時、彼女の首筋に悪寒が走った。頭のなかで警報が鳴り響く。

 ハッ、と息をのんだ音に、どうしたのかと、竜生は背後に目をむけた。――彼の眼球は、鳥居のむこうのぼやけた人影をとらえる。揺れる墨色に、心臓が早鐘を打つ。

(……やばい。黒だ。……黒色。まじか。いや、いや、待てよ、落ち着け……。なんとなく、黒に近いほうが脅威だって判断してたけど、根拠はない。……俺の思いこみってことはないのか?)

 かすかな可能性を見いだしつつ、しかし自身の直感はあながち外れていないだろうと、竜生にはわかっていた。これまで直視しないよう注意してきたというのに、社から顔をのぞかせる影に、釘付けになる。顔がないのに、目が合っている気がする。

「出たっ!」

 耳打ちに身を縮こませた茜はすかさず背後を見やるも、先ほどまでとの相違点を見つけられなかった。それでも彼女は兄の言葉を信じ、じゃまにならないよう数歩下がって距離をとった。

 竜生の頭にあったのは、いかに霊に気づかれないようにしつつ、ふたりをこの場所から遠ざけるか、ということだった。ところが、明咲が切羽詰まった様子で「何してんの? はやく帰りなよ!」と促してきたことで、ひとつの可能性が頭によぎった。

(そういえば、俺が霊に気づいたのって、この人が驚いたからなんだよな……。もしかして、見えてる?)

 彼の疑問は、すぐさま晴らされた。

 微動だにせず、じっと三人を見つめていた霊が、社に残っていた半身をずるりと引き出し、石段をゆっくりと降りてきた。横幅は三十センチ程度なのに、全長は二メートル近くある。腕は地面につくほど長いが、ふらふらとおぼつかない足取りに(これなら逃げられるかも……)とふたりは期待を抱いたが、突如として地面を蹴って、明咲へ襲い掛かった。

「あぶないっ!」

 走って突き飛ばそうにも間に合わない。竜生が注意をうながすと、明咲は真横へ転がるように避けた。そして霊から目を離すことなく「ちょっと! もしかして君、見えてんの!?」と驚愕の声をあげた。

 その発言で、竜生は確信を得た。しかし悠長に話している暇はなかった。明咲は正面を見すえたまま「ここはわたしに任せて。あぶないから逃げて!」と声を荒らげた。霊は直線的にむかってくるため、避けるのはむずかしくない。

 女性が何者かも、対処できるのかも不明な状況で、自分たちだけ退避するのはとまどわれ、竜生は後ずさりしつつ、(ほんとにだいじょうぶなのか?)と動向を窺った。

 決定的なけがは負っていないが、明咲は焦燥に駆られていた。やっかいな相手から逃げつつ、守るべき対象がふたりもいるうえ、反撃の隙をまったくつかめないでいた。

(ああっ、もう! 廃神社から出てくるとか、こんなのわたしには荷が重いよ! 入念に準備してから挑む相手でしょ!? 今日は調査だけのつもりだったのに! ……若い生命力がふたつも手にはいりそうで、好機だと思ったわけ?)

 内心で不満を叫ぶ。とにかくここにいてもどうにもならない。明咲は唇を噛み、改井市の地図を脳内に広げた。

 息をのんでその背を見守っていた竜生は、わずかに逡巡してから口をひらいた。

「おい! 茜は見えないんだし、さきに帰ってろ」

「えっ!」

 非難めいた声を背に、竜生は明咲に駆け寄った。

「アレの気を引けば、対処できますか? 俺なら囮になれると思うんです」

「えっ、なに? 囮?」

 明咲は目を見開き「一般人にそんなことはさせられないよ!」と吠えた。すかさず覆いかぶさろうとしてきた霊を避ける。

 その様子を歯がゆい思いで見守っていた竜生は、この場に留まっている妹を一瞥し、「それなら、何か手段はあるんですか?」と問いかけた。

 明咲は渋面をつくり、霊を睨みながら言った。

「……そうだね。あのさ、地元の子ならさ、鶴見大社ってわかる?」

「えっ、はい。ここを降りたとこにありますけど……」

 突然慣れ親しんだ神社の名が出てきて、竜生は面食らう。脳内に疑問が乱立するが、いまは解消することを優先すべきでないと飲みこんだ。

「そう。それならさ、ここからどんな道を通ってもいいから、最短ルートでわたしを案内することは、可能?」

「……できます」

 小学生の頃の記憶を引きずりだす。征人と楓馬と三人で、庭のように駆けまわっていた。カブト虫やクワガタを求め、道なき道を進んだこともある。

 頼もしい肯定に、明咲の口角が上向く。

「よしっ。いいね。だったら全員全速力で、そこまで逃げるよ」

「鶴見大社に? ……それでどうにかなるんですか?」

「神社だからね。結界がある。漫画やアニメみたいに、一撃必殺の技なんてないけど、とりあえずいまよりは可能性がある! 合図を出すから、君は妹ちゃんが遅れないよう引っ張ってあげてね!」

「わかりました! 茜! 聞こえたか?」

「う、うん!」茜は動揺を押し殺しうなずいた。

「よし! おねえさんは、明日の筋肉痛覚悟で行くぞー!」

 ニッと頬を持ちあげた明咲は、竜生に小声で「まずはどっちに逃げる?」と問う。

「とりあえず右に。……あの、ほんとにちゃんとした道がなくても、険しい斜面でも、最短ルートでいいんですよね?」

「命あっての物種だからね! けがしないようにだけ、気をつけて!」

「わかりました」

 竜生がうなずくと、明咲は「ちょっと! 全然捕まえられないじゃん!」と言って、霊の気を引いた。そして三人が逃げるのとは反対の方向を位置取り、じわじわと追い詰められたようによそおって、守るべき少年少女と距離をとる。

 一方、竜生は妹を手招いて、脳内で鶴見大社への位置を確認した。最短ルートのなかでも、なるたけ走りやすい経路を構築する。

 明咲が大声で挑発した。

「この、のろま! わたしを捕まえてみろ!」

 彼女の言葉を理解しているのか、霊は地面を滑りながら明咲との距離を縮め、そして手が届く距離までくると、まるで猪のように突進した。

 瞠目し、息をのむ竜生たちをよそに、明咲は触れそうになるぎりぎりまで霊を引きつけ、眼前まで迫ってきたところで地面を前転しながら避けると、その勢いのまま走りだした。「行くよ! 走れ!」

 彼女の声に押され、弾かれるように駆けだす。明咲が引きつけてくれたおかげで、霊との距離はかなりひらいている。廃屋の横を通り抜け、竜生を先頭に足を取られないよう斜面を走る。

「やっぱり追ってくるか……」

 耳が拾ったひとり言に、竜生は目だけで背後を窺った。あいまいな輪郭だった黒い影の足に、髪が生えていた。またたきするたび、長さが伸びていく。

「なんかっ、姿が、変わってるんですけど」

「え? ……ほんとだ! うわっ、はやめにケリつけないと!」

 明咲が顔をしかめ、脳内で作戦を練った――ちょうどその時だった。

 彼らの頭上で雲が割れ、日差しが差しこんだ。天使の梯子とも呼ばれる現象は、あまりにこの状況に不釣り合いだったが、まるで自分たちを応援してくれているような心地になって、竜生の足に力がはいる。

 ――けれど、何かがおかしい。

 どんどん光がつよく、雲間から差すにしては太くなっていく。さらには時おり波打った。

「……なに?」

 霊に集中していた明咲も、違和感に困惑顔で空を見あげる。そして三人とも、はてには霊までもが、足を止めていた。

「あの、あのさ……、ねえ! なんか……、落ちてきてない?」

 怪訝に満ちた声で、茜が空を指さした。

 雲の中から、ゆるやかな弧を描いた青白い光の筋が、大地へと伸びている。まさに「光の川」とでも呼ぶべき光景に、呆気に取られていた竜生は、光の中に小さな赤い点を見つけた。何かが流されている。竜生は極限まで目を細めた。

(……なんだ、あれ?)

「え……、あれ、なんだろ? ……舟? ……舟だ! しかも人が乗ってる!」茜が叫ぶ。

 茜の言葉は正しく、舟にはひとりの少女が乗っていた。

 黄金色に輝く小舟が、光の川によって竜生たちの頭上へ運ばれる。そして顔が視認できるくらいに地上へ近づくと、三人の視線は少女の容貌へ吸い寄せられた。

 ひとたび見つめられたならば、心臓を縫いとめられてしまいそうなとがった目元。

 触れたくなるのに手をのばすのは恐れ多く感じる、発光した黄色の混ざるマグマみたいに赤い髪。

 白いワンピースは透けるように軽やかで、首元を彩るエメラルドグリーンが目を惹いた。

 狛犬や稲荷のような、野性と神秘が同居した美しさがあった。

 人生ではじめて女性に見惚れた竜生は(まさしく天女みたいな……)と考えたところで我に返った。自分の思考をふり返り、まばたきをくり返す。まるで催眠術にでもかかったみたいだった。

 三人からのまなざしを一心に浴びている少女――ジャレックライズもまた、自身の目を疑い放心していた。どこまでも濃紺で塗りつぶされていた空間が突如ひらけたかと思えば、つぎの瞬間には空の上にいたのだから、動揺は当然といえる。

 誰しもが呆気に取られていた。しかしその間にも、舟は速度を落とすことなく流れていて、このままでは地面に衝突するのは明白だった。

 ひとり正気にもどっていた竜生は、舟と地面とを見くらべてとっさに叫んだ。「ぶつかるぞ!」

 吠えるような声に、茜と明咲はハッと意識を取りもどし、瞳を揺らしていたジャレックライズは、眼光を鋭くした。

 彼女は左手の髪飾りを急いでつけると、舟から身を乗り出して、地面との距離を確かめた。それから首のストールへ手を伸ばしすばやく解く。そうして羽織るようにまとうと、ぐらりと揺れるのも物ともせず、船から立ちあがって、トンッと底を蹴った。

 数階分のビルと同等の高度があるにもかかわらず、躊躇なく飛び降りたジャレックライズに、茜は悲鳴まじりの息を飲みこみ、しわが刻まれるつよさで兄の学ランをつかんだ。

 見守られるなか、ジャレックライズが口をひらく。

『コトハは羽撃はうつ』

 言葉を練る時間はなく、目的だけを添えてコトハをつくるしかなかったが、ジャレックライズがまとったストールは、コトハによってパラセーリングのように膨らみ、少女をゆっくりと地面におろした。――竜生の目には、ダイヤモンドのごとき輝きがストールを撫でたかと思うと、つぎには彼女が宙を舞ったように見えた。

 コトハの舟は、地面にぶつかるとともに、はじけて消えた。ジャレックライズのまとった布もまた、突然しぼみ、バランスを崩した彼女は一メートルほどの高さで地面に放り出された。とっさに受け身を取ることはできず、ジャレックライズは露出した木の根の上に落ちた。

 またも言葉を失っていた明咲は、硬い音で我に返ると「ちょっと、だいじょうぶ?」と駆け寄った。ジャレックライズは目を白黒させ、尻もちをついたまま明咲を見つめたが、ふいに見知った気配を感知し、顔を横へむけた。彼女のまぶたが持ちあがり、竜生たちを追っていた霊を鋭く睨む。

『おいおい、訳のわからないところに連れてこられたかと思えば、ガージュがいるじゃねえか』

 ぽかん、と間の抜けた顔をさらした三人には、ジャレックライズの言葉が聞き取れなかった。ただひとつ明確だったのは、彼女の目が確実に、霊へとピントを合わせているということだ。

(見えてる人だ……)

 竜生の動揺など露しらず、ジャレックライズはガージュ――竜生たちにとっての霊から三人へ視線を走らせた。自分以外は対処できそうにないと判断し、目つき鋭く立ちあがる。

 力をつけられても面倒なので、即座に倒してしまおうと正面から対峙する。

『なんでそんなナリしてんだ? 人のマネして、どういうつもりだ?』

 自分のよくしる形状とは異なるうえに、染料に浸したのではないかと思えるほど体色が濃い。生物としての意識も乏しいようだった。

 おとなしく佇んでいるさまに、薄気味悪さを感じたジャレックライズは、空気中のコトハ粒子を集めた。ところが、まるで水中で作業しているみたいに、コトハ粒子の動きが鈍重だった。

(……ハァ? なんでだ。コトハがうまくつくれねえ……)

 しかたなく『丸まれ!』と言って球体にしたコトハを、ガージュの頭へ浴びせる。これまでジャレックライズが目にした個体にくらべれば、サイズは中程度のため、十分全身へ行き渡るだろうと予想する。

 それが甘い考えだとしったのは、ジャレックライズの投げつけたコトハが、ガージュを溶かすことなく、吸いこまれた時だった。「ハッ?」

 ジャレックライズは目を疑った。

『おかしいだろっ!』

 さらに最悪なことに、コトハを取りこんだガージュは、三十センチほど縦にも横にも成長したうえに、背中から黒い翼を生やした状態で四人と相対した。

 予期せぬ事態の連続に、無理やり稼働させていたジャレックライズの頭が、いよいよ完全にショートした。むしろ、よくここまでもったといえる。彼女は並々ならない精神力だけで、弱気に丸まりそうだった背を叩いていたのだ。

 突如として地面に飲みこまれたかと思えば、ゴールがあるのかもわからない光の川に運ばれ、そうしてようやっとあかるい場所に出られたという喜びもつかの間、そこは見慣れない景色の広がる空の上――と、情報の濁流を受けとめるので精いっぱいだった。

 呆然と立ち尽くすジャレックライズの後方で、明咲は混乱を引きずりつつも、一連の行動を観察していた。

(どうやら、この子の攻撃はあまり効果がなかったみたいだね)

 あるいは少女が天からの使いで、霊から自分たちをたすけてくれるのではないかと期待したが、計画に変更はないらしい。

「少年! 当初の予定どおり、神社に逃げ込むよ! 君もね!」

 こう着していた時間を、明咲が動かす。

 ただ目の前の光景を受けとめるだけだった竜生は、己の使命を思い出し、茜に「行くぞ!」と声をかけて走り出した。明咲はジャレックライズの腕をつかんで、ふたりの後を追う。腕をつかまれた当人は『なんだ! 離せ!』と訴えたが、あいにく明咲には通じなかった。

 ここで引かないだろうか、という祈りは届かず、霊は先ほどよりもスピードをあげて追ってくる。

「あー! もう! 相手がどこにいるのかもわかんないのに全力疾走しなきゃいけないの、まじできついんですけど! バレー部の脚力で乗り切ってみせるけど!」

 涙まじりに叫ぶ茜と会話する余裕は、竜生にはなかった。彼はひたすら四肢を動かし、道なき道を下っていく。

 まだか、まだか、と気を揉んでいると、やがて前方に立ち並ぶ木々の雰囲気が変わった。荒々しくもたくましい自然の気配が薄れ、静穏な空気がにおってくる。手入れされた枝葉に、竜生は「もうすぐそこです!」と声を張った。

 明咲は「わかった!」と答えると、いつでも使用できるよう、片腕からストラップを抜き、腹側に楽器ケースを移動させた。

 竜生の言葉どおり、間もなく木々のむこうに鶴見大社が見えた。四人は急な斜面を足で削るように滑り降り、神社の裏手から敷地内にはいった。石のこすれ合う音がじゃらじゃらと盛大に響く。幸いなことに、本殿の裏に人の姿はなく、無礼な行いを見咎められずに済んだ。

 しかしこれで解決ではない。

 明咲は敷地内にはいったことを確認するなり、すぐさま楽器ケースを地面へおろした。留め具を外し、蓋を開ける。その意外性に、竜生は霊から視線を外してまじまじながめた。

琵琶びわだ……)

 茜はあぐらをかいて、膝のうえに琵琶を乗せた。

「えっ! まさかの琵琶? 意外すぎる! 琵琶ってなんか、カブト虫っぽい!」

 霊を視認できないために、どこか緊張感の薄い妹が興奮気味に話しかけてくるのにうなずいた竜生は、斜面に留まり、じっと見おろしてくる黒い影の動向を見張った。結界でも貼られているのか、霊は境内へはいろうとしない。

 明咲は琵琶を縦にかまえ、しずく型の胴に張られた四本の弦を、イチョウの葉に似たバチで弾いた。――ジャリリッ。

 竜生が耳にしたことのあるものよりも濁った、深い音色が境内に響く。明咲はじれったくなるほどゆったりと伴奏を奏で、スーッと腹から息を吸った。


祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声――』


 とっさに唇を内側へしまわなければ、声を発していただろう。竜生は明咲の横顔を見た。

(……平家物語?)

 琵琶の演奏に合わせ、平家物語の冒頭を朗々と歌う。

 神社に避難したのは、神主に祝詞を唱えてもらうとか、もしくは鈴を鳴らしたり、白いハタキのような御幣を振ったり、あるいは五寸釘を用いるとか、どれも除霊の効果のほどはしらないけれど、そういった手段を想定していた。そのため予想外の方法に、これまで以上に目が離せない。

 ジャレックライズは自身のコトハが役に立たなかったこと、また有無をいわさず連れてきた相手が、何やら打つ手があるのだと悟り、鶴見大社の厳かな雰囲気のなかで、事態を静観していた。

(なんだ? こいつ、コトハ粒子をそのまま浴びせてるのか……? そんなの食われて終わりだろ。……いや、待った。……効いてる?)

 ジャレックライズの目には、大量のコトハ粒子がガージュに張りついたのが見えた。そしてコトハ粒子を食らうはずのガージュは、触れられた場所から崩れていく。

 通常、コトハ粒子がジャレックライズたちアメンレー人の瞳に映ることはない。もしも目でとらえられていたのなら、視界に色があふれて日常生活もままならない。粒子をこね、混ぜ合わせ、コトハにすることで、視認できるようになるのだ。

 しかし明咲が歌うにつれて集合したコトハ粒子がガージュの全体を覆い隠す頃には、まぎれもなく視界に映るようになっていた。

(まさか……、そういうことか……? アタシのしるコトハ粒子とは、別物……?)

 ――だからコトハが制御できなかった?

 ジャレックライズが顎に手を当て推測しているすぐそばで、竜生もまた自身の目に映る光景に言葉を失っていた。

 光り輝く白や金の細かな粒が、陽炎のように揺らいでいた黒い靄を覆うと、霊の輪郭がほぐれていき、しだいに空気へ溶けていく。夕日に切り替わった空を背景にしたその様は、筆舌に尽くしがたい、神秘的なうつくしさだった。

 霊は抵抗のために激しく身じろいでいたが、逃れられないとわかったのか、最後の悪あがきにまっすぐ四人へ――正確にはジャレックライズ目掛けて突進してきた。

 彼女は瞬時にコトハで防ごうとしたが、芋虫のようにうにょうにょと蠢くだけで役に立たない。明咲は目をとがらせ、琵琶の演奏はテンポをあげた。歌は早口になる。

 眼前まで迫った霊――ガージュに舌打ちしたジャレックライズは(もっとコトハ粒子が集まれば……!)と意識を集中させようとして――つぎの瞬間、何かに引っぱられて地面を転がった。打ちつけたひじの痛みを無視して、何事かと顔をあげれば、男もいっしょになって小石の上に倒れている。竜生が腕を引いて避けたのだ。

 往生際のわるい霊は、ジャレックライズを襲おうと方向を変えるため一歩踏み出そうとして、その場に留まった。足が形を失っていたのだ。顔はないけれど、ふしぎそうに自分の身体を見おろしているとわかる。

 そしてすぐに腕も、胴も消え、頭だけが宙に浮いて、それもバラバラに解れ、やがて空が落とす茜色のなかで、霊は消えていった。


 目を凝らし、霊の残滓がのこっていないことを確認すると、明咲は琵琶の弦をつよく弾いて手を止めた。余韻を響かせて、静寂が訪れる。

 ふう、とため息を吐く兄へ、茜は恐る恐る「……もういなくなったの?」と尋ねた。疑問には明咲が答えた。

「もうだいじょうぶだよ」

「あー、よかった!」

 茜の頬がゆるみ、肩から力が抜ける。ここが境内でなければ大の字に寝そべりたかったが、気力で我慢する。

「あの、うちには……、あたしには、何が何だかって感じだったんですけど、でも、たすけてくれてありがとうございました」

「いいえー。むしろこっちこそ、この辺の土地勘はないからさ、お兄ちゃんにはたすけられたよ。ありがとね」

「いえ……。もとはといえば、俺たちが不用意に近づかなければこんな目には遭ってないので……」

 視線を落とした竜生は、反省は後にして気を取りなおすと、立ちあがって服をはたいていたジャレックライズに「あの……、だいじょうぶですか?」と声をかけた。力任せに腕を引いてしまった申し訳なさのせいで、つづけて質問することを躊躇させた。

 竜生の脳裏には、彼女が光とともに空を舞ったときの光景がいまだに焼きついていた。聞きたいことは山積みで、自分の顔の無害さを意識して彼女の顔色を窺う。

 ところが返ってきたのは、これでもかというほどのしかめ面だった。敵意はないが、関わり合いを拒絶している。倒れたせいで髪飾りはななめにずれていたが、教えることもためらい、竜生は問いかけようとした言葉を口内で砕いて飲みこんだ。

 ジャレックライズは、先ほどまでガージュがいた場所をしばしの間見つめていたが、ふいに視線を外し、あたりを探るように見わたした。親しみの湧くものはひとつもない。目にする何もかもが、「この世界は自分の生まれ育った場所ではない」と訴えかけてくる。

(だめだ。情報が圧倒的に足りてない……)

 呼吸が乱れ、視界はぶれ、怖気がせりあがってきたのを気合で押し留め、ジャレックライズは三人の顔を流し見た。

(こいつらに聞くのは……、いや、やめとこう。わるいやつらじゃないんだろうが……、もっと知識のある、けどアタシから搾取しそうにない相手がいい……)

 言葉が通じないことには何もできない。ジャレックライズは『とにかく、帰り道だ。手がかりを見つけないと……!』とつぶやいて、三人に引き留める隙を与えず、急ぎ足でその場を離れ、鳥居をくぐっていった。あまりに迷いのない足取りだった。

「えっ、行っちゃったんだけど……」

 呆然とその背を見送った三人は、不可思議な赤髪の少女の姿が完全に視界から消えると、とまどいがちに視線を重ねた。

「なんか……、いろいろあったね」明咲が苦笑する。

「そうですね」

 鏡合わせのようによく似た弱弱しい笑みを浮かべて、茜は緩慢に首を縦に振った。バレー部としてのプライドと、兄を巻きこんでしまった罪悪感とを胸に、足手まといにはなるまいと必死に駆けていただけでも全身が重いのに、正体が見えていたふたりは、いったいどれだけの心労があったのだろうと眉をさげる。

 琵琶を片しながら明咲が言う。

「ていうか、あの子、空から落ちてきたよね?」

「はい……。夢じゃないですよね?」

「だよね? あー、調べないといけないことが増えたー」

 明咲は頭を抱えたが、ふたりには関係のないことだ。すぐに憂鬱を振り払って、やわらかな笑顔をつくった。

「とりあえず、全員無事でよかったよ」

「ほんとに、ありがとうございました」

 竜生は頭をさげた。茜もつづく。礼儀正しい少年少女に、明咲はまなじりをゆるめた。

「うん。とりあえず、もう肝試しはやらないほうがいいよ」

 琵琶ケースを背負う明咲に、ふたりは神妙にうなずいた。彼らの肩をなぐさめに叩くと、明咲は本殿を仰いだ。

「お騒がせしちゃったし、守ってもらったから、帰るまえにお礼を言おう」

「ああ、そうですね」

「小銭あったかな」

 三人は神社の表へまわり、何食わぬ顔でほかの参拝客の後ろに並んだ。乱れた髪を手櫛で整え、小銭を手のなかで握り、順番がくると賽銭箱の前で横並びになり、それぞれ鈴を鳴らした。階段の下で順番待ちしていた参拝客が「若いのに感心するね」とこぼすくらい、三人は深くお辞儀をした。


  *


「それじゃあ、わたしは後片付けとか、まだやることあるからここで。気をつけて帰るんだよ」

 はい、と同時に返事をしたふたりに微笑んで、明咲は先ほどの廃村の調査のため、ふたたび坂道をもどっていった。

 琵琶を弾くこと、平家物語を歌ったことが、なぜ霊に効果があったのか、疑問は胸中で宙ぶらりんになっていたけれど(あの人が守ってくれたということだけ、わかっていればいいか)と竜生は自分を納得させ、遠目ではよけいに覆いかぶさって見える、琵琶ケースに隠れてしまった背中をながめた。

 そのとなりで、茜がぽつりとつぶやく。

「うちさあ……、霊がいても、すぐには襲われないと思ってたし、遭遇したとしても、もっとじわじわ迫ってくるような、それこそホラー映画みたいに陰湿なことするんだと思ってたから、まさかあんな、鬼ごっこになると思ってなかった」

「ほんとにな」

「しかも息を吐く暇がないくらいの展開になるなんて、きのうの時点ではすこしも想定してなかったよ……」

 兄妹は目を合わせ、くたびれたようにわらった。

「俺たちだけだったらどうなってたか……。もうすっかり夜だ。暗くなる前に帰ろう。ここに自転車とめといてよかったな」

 ふたりは足を引きずりながら駐輪場へむかった。その道すがら、茜の脳内でもっとも印象的な場面が映し出される。

「あのおねえさんさあ……」

「どっちの?」

「赤髪の」

「ああ」

「あの人、あれだね。天女みたいだったね」

 竜生は相槌をやめて沈黙した。幼い頃に読んだ絵本では、天女の姿はどれも優美で神秘的に描かれていたが、赤髪の少女はまなざしから指先から生命力がほとばしっており、天女の印象とはかけ離れていた。

「……どこが?」

「きつめの顔だったけどさ、そこらの芸能人よりも美人だったし。でもなにより地面に降りてくる時の! あれって、まさに羽衣みたいじゃなかった?」

「……たしかに」

 首元の布を広げてまとったとき、竜生は美しさに心を奪われていた。しかし彼は十七歳の思春期。妹と女性の話をして、それが美人だったと同意するのは気恥ずかしかった。

 鼻をかいて、なんでもないようなふりをする。兄の羞恥など気にも留めず、茜は恐怖から解放されたばかりの興奮のまま語る。

「空から舟でやってくるなんて、ふつうの人間じゃないよ。うちにも見えてたんだから、幽霊じゃないでしょ? やっぱり天女だよ。……やばい! うちらって、すごい体験してない!? あー、それなのに写真も動画もなにも撮ってないから、誰にも話せないのつらいよ! だってこんなの、絶対信じてもらえないもん!」

「そうだろうな。……ん?」

 廃村の方向へ視線をやり、つぎに鶴見大社をながめた竜生の目に、チカリと光るものがはいりこむ。何かと思って地面へ目を落とすと、道路の脇に髪飾りが落ちていた。

 竜生は「あっ!」と声をあげる。デザインに見覚えがある。三連の玉が特徴的な青いそれは、ジャレックライズの髪飾りだった。

 拾いあげる手を茜が横から覗きこんでくるので、竜生は説明した。

「これ、さっきの、赤い髪の人がつけてたやつだ」

「そうなの? 落としちゃったんだ。……名前をしらないし、どこに行ったかわからないから返せないね」

「……今日はもう遅いし、明日交番に持ってく」

「ええ? ほんとに?」

 茜は目を丸くして、竜生を見あげた。

「天女が交番に、落し物がないか尋ねにくるの?」

「え? あー、……交番とかしらないと思うか?」竜生は困った顔で妹を見た。

「こっちに来たばっかなら、そうなんじゃない? わかんないけど……」

「どうすっかな……」

 髪をぐしゃぐしゃとかき回す竜生に、茜は「うーん……」と首を傾げ、ひとつ提案した。

「……こういうのって、昔話では落とした場所を探すものじゃない?」

「そう、だな」

 それで? と目線で続きをうながす。茜は自身の自転車へ足を進め、「だから、ここにもどってくるかもだから、しばらく学校帰りに寄るようにすれば?」と言って、かごに鞄を放った。

 竜生はむずかしい顔で髪飾りへ目をやった。

「いやあ……、毎日……?」

「じゃあどうするの? 見なかったふりする?」

 茜の問いに、髪飾りを手のなかで転がしていた竜生は(それなら、ここの社務所に預けようかな……)と顔をあげ、神社へ引き返そうとした。するとその視界に、見慣れた制服が映る。おなじ高校の制服ということと、遅い時間に参拝するめずらしさに、自然とそちらへ目線が流れ、そうしてそれが、人魚症候群になった仲間沙穂だと気がついた竜生は、そっと息をのんだ。

「……ちょ、ちょっとさき帰ってろ」

「えっ!」

 妹を置いて、竜生は沙穂のあとを追った。話しかけるつもりはなく、とっさの行動だった。ただ、彼女がどうして鶴見大社を訪れたのか、たったひとつだけ思い浮かぶ理由が、竜生を突き動かした。

 沙穂は賽銭箱の前に立ち、鱗に覆われた手を隠すことなく熱心に祈っている。

 彼女の表情は見えない。しかし肩をすぼめ、縮こまった後ろ姿がそこにある。軽音部の部室で話していた時の、あっけらかんとしていた様子がいまの彼女と重なって、竜生は喉が引き絞られたような息苦しさを感じた。

(征人は何も言ってなかったな。……参拝者のことをペラペラ話すやつじゃないか)

 長い祈りを終え、彼女が顔をあげると、竜生は弾かれたように踵を返した。境内を駆ける非常識な高校生を、何人かの目が咎めたが、彼の足は止まらなかった。

 誰よりも幸せを祈る相手の寄る辺にもなれない自分が、情けなくてしょうがなかった。


 自転車に跨ったまま兄を待っていた茜は、走ってもどってきた竜生の苦しそうな顔に目をむいた。どうしたのかと心配するまなざしには答えず、竜生は無言で自転車のスタンドをあげて、サドルに座った。

「お百度参りってあるだろ」

「……神さまにお願いするために、百回参拝するやつ?」

「それ」

 唐突な話題にとまどいつつ、茜は、うん、と相槌を打った。竜生がぽつりという。

「……髪飾りはついでにする」

「ついでって、お百度参りの?」

「そう」

 その声はあまりにひそやかだったので、茜の耳は拾えなかった。「え? なに?」と聞き返すも、竜生は静かに首を横に振った。握りしめていたために手のひらに刺さっていた髪飾りをズボンのポケットにしまうと、彼は「なんでもない」と返した。

 口を閉ざした兄に「どうして急に、お百度参りしようと思ったの?」とは問えず、茜は肩をすくめ、自転車を漕ぎだした。

 鶴見大社へ心を残しながら、竜生は重たいペダルを踏んだ。

 一列になって坂をくだっていく。夕焼けは夜に飲まれはじめ、どこかの家から醤油が香ってくる。それがどうにも、童心を呼び起こし、ずいぶんと育った身体が重く感じる。ほかのことへ意識をそらそうと、竜生は妹に話しかけた。

「そういえば! 肝試し、どうすんだよ」

 背後からの問いかけに、茜は大声で返した。

「絶対に中止にする! 今日のはあの人が追い払ってくれたみたいだけど、ほかにもいるかもしれないし!」

「そうしろ!」竜生も大声でいう。

「もう考えてあってさ! 肝試しをやろうって言いだしたやつには、下見にのぞいてみたらあそこを管理してる人に『肝試しにくる学生が多いけど、立ち入り禁止だから、つぎに見つけたら通報しようと思う』って言われたって話すつもり! ……どう? いまの、本当っぽく聞こえるかなー?」

「いいんじゃん?」

「よし! やっぱ竜生についてきてもらってよかった! ありがとね!」茜の口が、微笑をつくる。

「ああ!」

 車のヘッドライトがふたりの顔を照らす。竜生は瞳にこびりついた白い光を散らそうと、まばたきを増やした。パチリ、パチリ。

 まぶたを閉じるたび、明日からのお参りへの決意が、強固になっていくようだった。












 竜生は教室の自席で頬杖をつき、虚ろなまなこで宙をながめていた。

 肝試しの下見に付き合った日から、毎日鶴見大社を訪れていたが、沙穂の症状が軽くなることはなく、赤髪の少女と再会することもなかった。鶴見大社の神主の倅である征人には、熱心に訪ねてくれてありがたいと言われたけれど、信心からの祈りではないと自覚している分、どんどん願いに欲が混じる。これでは神も叶える気が失せてしまうのではと、竜生は気が気ではなかった。

(もういっそ、髪飾りは預けよう)

 懸念はひとつにしたほうがいい。

 決意し、天井のシミから視線を外すと、竜生は窓側の中央に座る征人へふり返った。視線が合って、征人の顔に疑問符が浮かぶ。終わったら話そうと目配せし、竜生は教師にむきなおった。はやく授業を終わらせてくれ、と目で念じる。ほかのクラスははやめに終わったのか、ざわめきが届く。

 ようやくチャイムが鳴って、教師が教科書を閉じた。本日の授業が終了し、放課後に突入する時間帯。クラス中の空気が弛緩する。

 そのやわらかな雰囲気は、乱暴にドアが開けられたことで揺らめいた。

「……え、誰?」

「めっちゃ美人!」

 歓喜の声をあげる楓馬につられ、竜生はドアへ目をむけた。

「あっ!」

 動揺を吐き出すクラスメイトたちを差し置き、彼は誰よりも大きな声を発した。

 あの日、空から落ちてきた赤髪の少女が、ドアの前に立っていた。白いワンピースでもなく、もちろん制服でもなく、上下黒色のゆったりとした服を着ている。その瞳がぐるりと教室を見わたし、竜生のところで止まると、満足そうに弧を描いた。

「ああ。ようやく正解にたどりついたか」

 赤髪の少女――ジャレックライズはため息を吐いた。彼女の口から飛び出た日本語に、竜生の目がさらに見開かれる。

 ジャレックライズの言葉を耳にして、ようやく思考が動きだしたらしい。警戒を露にした教師が「君、入校証がないぞ。……そこで止まりなさい」と声をかけるが、ジャレックライズは煩わしそうに眉をひそめ「ちょっとそいつ借りてくぜ」と言うと、竜生にずかずか近づいた。

 なんだ、と彼が疑問を抱いている隙をつき、すばやく腕をつかんで立ちあがるよう引っ張る。そしてジャレックライズは芯の強い声で、包みこむように言った。

『アタシがここにいることを、誰も疑問に思わない』

 竜生はその時、彼女のまわりに紫色の粒が舞い、教室内を包んだのを目にした。

 全員の目の焦点が、まるで催眠術にでもかかったかのようにぼやける。そしてジャレックライズへむけられていた視線がすべて外れた。それぞれが何事もなかったかのように動き出し、アイコンタクトで話があると伝えたはずの征人も席を立って、テニス部の練習へむかうために鞄を手に取った。教師もジャレックライズに注意することなく、ぼんやりとした顔で教卓に広げた教科書などを片づけている。

「……何をしたんだ」

 当惑する竜生に、ジャレックライズは口角をあげた。

「話をしよう。ついてこいよ」

 有無を言わさず教室を出ようとするが、竜生はつかまれていた腕を振り払った。

「いきなりなんなんだ。そんな急には――」

「急いでるんだ」

「そんなこと急に言われても、こっちだって簡単についてく気にはならない」

 好奇心よりも警戒心が働いて、初対面時はていねいだった口調もぶっきらぼうになる。一方、強気に返されたジャレックライズはツンとあげていた顎をもどし、表情に焦燥をにじませた。

「わ、わかった。そっちの言い分はわかった。急に押しかけて混乱してるのもわかる。けどこっちにも、のっぴきならない事情が……!」

 そこまで言って、彼女は落ち着きなく教室内を見まわした。

「あー! まずい! 解けちまう!」

 竜生がどうしたのかと彼女の視線を追うと、先ほどまでうつろだったクラスメイトの目は、だんだんと焦点が定まっていく。何度もまばたきし、「なんか、ぼんやりしてた……」と頭をおさえる者もいる。廊下に出ていた教師も、ふしぎそうにふたりを見ているが、まだ意識がはっきりしていないようだ。

「なにが……?」竜生は困惑した。

「全然効果ないな! やっぱこんな大人数相手じゃ無理があったか! なあ、頼む! ついてきてくれって!」

 先ほどまでの、従わせようとする高慢な態度から一転、必死の形相で頼みこまれ、竜生はついつい押しに負けてうなずいた。なんだかかわいそうにも思えたのだ。

 ジャレックライズは瞳を輝かせ、何度もうなずいて「わるい、たすかる」と言って、竜生の腕を引いたまま教室を飛び出した。背後から「……あれっ? 竜生ー?」と征人が呼んでいる声が聞こえた。

 階段を駆け下り一階までくると、ジャレックライズが途中で足を止め、「くそっ! 出口はどっちだった?」と忙しなく首を左右に振る。見かねた竜生は、先導して玄関口まで案内することにした。明らかに学校外からきたとわかる装いと、彼女の見目に、どんどん注目が集まっていた。


 下駄箱で靴に履き替え、校門へむかう。

「取り乱してわるい。アタシも探り探りなんだ……。とりあえず、腰を落ち着かせて話したい。長くなるかもしれないしな」

 盛大にため息を吐いたジャレックライズが、竜生を窺う。彼は一度了承してしまったし、と彼女の提案を受け入れた。

 しかしその前に、とひと声かけて、駐輪場から自転車を取ってくる。立ち止まって待っていたジャレックライズは、彼がもどってくると「ここからすぐのとこだ。十分くらい歩く」と声をかけた。

 うなずこうとした竜生は、彼女のむこうに仲間沙穂を見つけ、合流する手前で足を止めた。沙穂は携帯をつかって友人と会話をしているが、人魚症候群による鱗が、指先まで浸食している。

 ジャレックライズは片眉をあげ、彼の視線を追った。そして、ああ、と首肯する。

「ここにも食われたやつがいるのか」

「え?」

 竜生はその発言を聞いて、つかみかかる勢いでつめ寄った。自転車がなければ、ほんとうにつかんでいたかもしれない。

「……食われたって、どういう意味だ?」

 ジャレックライズはうっとうしそうに、ハンドルを押して距離をとらせた。張りつめた表情に肩をすくめ、大股で歩きだす。

「そのまんまだ。体内のコトハ粒子を食われたんだろ」

 そう言うと、彼女は沙穂を追い越し、横目に見やった。竜生はジャレックライズの隣に並んで、つぎの言葉を待つ。

「喉のとこに印が出てるな」

「……印。あの鱗のこと?」

「鱗ね。たしかに見えなくもないな……。こっちでははじめて目にしたけど、アタシがしってるのとは、やっぱり状態が違うんだな」

 首を傾げてから、ジャレックライズはむずかしそうに顔をしかめた。

「あいつがああなって、どのくらい経ったかわかるか?」

「えっと、今日で、二週間……、十五日目、だな。ずっと声が出ないって」

 ジャレックライズは、そうか、と言って顎を撫でた。彼女の目は、竜生たちと異なる物を映している。

 問題は、少女の内部で起こっていた。

 沙穂の声帯周辺は、呼吸できているのがふしぎなほど、鱗で覆われている。声が出ない原因は明白だ。ガージュが体内に侵入しており、拒否反応を起こしているために鱗が生えているのだ。

 ガージュが二週間以上とりついているのなら、吐き出されるコトハ粒子を食らうために地面を伝って身体を伸ばし、ほかの人間にも自身の一部を寄生させているはずだ。

 いますぐ沙穂についているガージュを退治することは、不可能ではない。しかしそれは、一時しのぎにすぎない。つながっている部分から、また自身を伸ばして餌を確保するため、全身を一度に倒さなければならない。

『風に乗る、風が遊ぶ』

 ジャレックライズは自身のまわりに漂うコトハ粒子を操作し、透明に近い一枚の布のようなコトハをつくった。そしてそれを、沙穂の姿を視界におさめることなく、見事に制服の下から忍び込ませる。

 何をするのかと、コトハの行方を追った竜生は、それが沙穂の服の中へはいりこんだ瞬間、首の筋を痛めてもおかしくない速度で顔を正面にもどした。絶対にまじまじと見つめないという固い意思で、目線を前方へ固定する。彼はそっと首を押さえた。

 コトハを飛ばされた当の本人は、違和感に背中をちらりと見やり、気のせいかと友人との会話にもどった。

 アメンレーにいたときよりも、コトハ粒子は種類が豊富なうえに、性質も複雑で、思いどおりに操ることは容易ではない。ジャレックライズが世界を跨いでから、まだ数日しか経っていないのだから当然だ。

 コトハを移動させられたことに安堵していたジャレックライズは、しかしすぐに眉を寄せた。

(ガージュが、いない……?)

 ガージュの有無は、対象へ近づけたコトハ粒子を食すかどうかで判断する。コトハに食いつけば、ガージュはその人間のすぐそばに隠れているということだ。沙穂の鱗を見ても、ガージュの被害を受けていることは明白なのだが、ジャレックライズの仕向けたコトハは、わずかも削られなかった。――この結果が何を意味しているのか。

 なるほど、とつぶやいて、ジャレックライズは竜生に告げた。

「あいつ、あのままだと窒息するのも時間の問題だろうな」

 あっさりと、整備された道と変わらぬ平坦な声音で告げられた内容に、竜生は絶句した。思考が巡るよりもはやく、彼女の服をつかみ、押し出すように言葉を吐く。

「死ぬって……、そんなバカな。人魚症候群での死者はいないはずだ」

「人魚症候群? へえ。そんな名前なのか。人魚ってあれだろ? 赤い魚。とりあえず立ち止まっていてもしかたない。ほら、行くぞ」

 袖を一瞥され、竜生は力なく手を離した。ジャレックライズは歩みを再開する。

「今回が特別なのか、変異したのか……。そういやガージュの姿が違ったな。それが原因か?」

「ガージュ?」

「ああ。はじめて会ったとき、女が消滅させてただろ? あれをアタシのとこでは、ガージュと呼ぶ」

「あれは、幽霊じゃ……」

「幽霊? なんだそれ」

「え? 幽霊っていうのは……、死んでもあの世に行けずに留まっている魂……、のこと」

「魂?」

 ジャレックライズは目をまたたいた。はじめて見るまろやかな表情に、荒立っていた竜生の心が、ほんのわずかに揺れをおさえる。

「ここじゃカージュは、そういう認識なのか?」

「いや、俺がそう思ってただけだ」

「そうか。あれは言葉からこぼれ落ちた粒子を食らう、ガージュって生き物だ。……どおりでこの数日、情報を集めても何もでないわけだ。ったく」

 面倒くさそうに舌打ちしたジャレックライズに、竜生ははやる気持ちを抑えきれずに尋ねた。

「それで……」

 緊張に、乾いた唇を舐める。

「あなたは……、あれの正体も、人魚症候群についてもしってるってことで、いいんだな? それなら、それなら彼女の命を救うことはできる?」

 必死な物言いに、ジャレックライズは足をとめてふり向いた。じっと竜生の顔を見る。

「そういや、お前の名前を聞いてなかった。なんていう? アタシはジャレックライズ」

「えっ。……竜生。渡良瀬竜生」

「タツキな。その疑問に答える前に、お前に聞きたいことがある」

 ジャレックライズの瞳が鈍く光り、竜生を押し留める。

「アタシの髪飾り、見なかったか? 丸い玉飾りが三つついた、青いやつだ。あの日に落としたみたいなんだよ」

 竜生はそれを聞いて「……髪飾り? あっ!」と声をあげた。毎日通っていて、今日も征人に預けようと思っていたのに、登場から驚かされてばかりだったので、竜生の頭からすっかり消し飛ばされていた。

 彼は鞄に手を入れ、内ポケットを探った。壊れないようそっと手に取る。

「これ、だよな? あの日拾って、あんたに会えたら渡そうと思って、毎日神社に通ってたんだ。全然会えなかったけど」

 そう言って差しだすと、ジャレックライズは奪うように髪飾りを取った。安堵を噛みしめ「ああ、よかった……」と髪飾りを包んだ両手を額に当てる。それから数秒目を閉じた。  

 竜生が見守っていると、彼女は目を開け、すかさず髪につけて髪飾りをそっと撫でた。

「真っ先にあんたにあたりをつけたのは、運がよかったな。手間が省けたぜ」

 ジャレックライズは先ほどよりも早足になった。数拍遅れた竜生が「ちょっと!」と声をかけると、彼女は顔だけふり返り、口角をクッと持ちあげた。

「タツキ、あんたの行いが、あんたを救うかもしれないぜ」

 竜生は(なんなんだ……)と内心でぼやきながら、彼女に連れられるまま足を動かした。

 人魚症候群を調べてきて、はじめて有力な情報を得るかもしれない可能性に、胸が締めつけられる。歌う時の、沙穂の幸せそうな横顔が視界にちらつく。

 ヒーローになりたいのではない。感謝されたいわけでもない。

 ただ、ごまかして浮かべたのではなく屈託のない笑みを、苦しそうに俯いた姿ではなくのびやかに歌声を響かせる生き生きとした輝きを、ふたたび目にできたなら、それを取りもどすための力になれたなら――。

 そう願う気持ちが、沸き起こって消えないのだ。 

 期待に跳ねる鼓動と連動するように、竜生の踵は力強く地面を蹴った。


  *


 ジャレックライズは学校から十分ほどの距離にある商店街の端までくると、一件の店の前で足を止めた。

 その店は縦に長く、こぢんまりとしていた。青いサンシェードは日に焼けて色が褪せており、薄汚れて黒い縦線がいくつもはいった看板には、角張った字で「支倉書店」と書かれていた。

 古本屋らしく、軒先には本が雑多に積まれている。いくつか背表紙が剥がれかけていた。一部に曇りのあるガラス窓には、地元の演歌歌手のポスターが張られていて、そのむこうには、棚にぎっしりと詰まった本の背表紙が見える。外まで古い本ににおいが漂ってきた。

「話は中でしよう」

 ジャレックライズは滑りの悪いドアを開け「おばあさん! 帰ったぜ!」と店の奥にむかって声を張った。

 竜生はつばを飲みこんで、店先に自転車を止めてから、店内へ足を踏み入れた。途端に流れてくる、インクや紙のにおい、かすかなカビ臭さに、鼻がひくひく動いた。

(地震が起きたらたいへんそうだな)

 天井まで埋め尽くされた本に圧倒される。身体をななめにして避けないと、棚にぶつかってしまう狭い通路を、背表紙に見つめられながら進む。

 奥の壁際、背の低いカウンターには、柔和な顔立ちの高齢女性が座っていた。ジャレックライズに気づくと、彼女は目じりのしわを濃くした。「ライズちゃん、おかえり」

「ただいま。店番はアタシが代わるから、引っこんでていいぜ」

「そう? ありがとう。……あら、お友だち?」視線がジャレックライズの後ろへ移る。

「そんな感じ。気にしなくていいから」

「おじゃまします」竜生は頭をさげた。

「いらっしゃい。それじゃあ、あとはよろしくね」

 店主は微笑むと、カウンター内のドアを開けて、住居スペースへ姿を消した。

 ジャレックライズはカウンターの台を持ちあげ「ほら、受け取れ」と言って、脚が短く四角い座面の椅子を頭上に掲げた。竜生は手を伸ばして受け取ると、カウンターの前に置いて腰をおろす。クッション部分は押しつぶされて硬かった。

 ジャレックライズはカウンター内のもうひとつの椅子に腰かけ、カウンターに両ひじを置いてニヤリとわらった。

「さてと、待たせな。とりあえず、どんな話よりもまずは、これを聞いとかにゃ。じゃないと集中できないだろ?」

 竜生が眉をあげてうながすと、ジャレックライズは言った。

「タツキ、お前はあの鱗の生えた女をたすけたいんだな?」

 不機嫌そうでいて、真剣な顔が竜生を見すえる。

 明確な治療法がないなかで、好機を逃すわけにはいかない。部室で歌う沙穂の横顔、そして神社で祈る姿が目の裏を走る。名前しかしらない相手からの問いかけに、竜生は恥じらうことなくしっかとうなずいた。

 ジャレックライズは苦そうな顔で「しょうがないか」とため息を吐き、それから憂鬱をどかそうと首を左右に振った。

「こっちに落ちたっていう、人生最大の不運はあったが、それ以外はうまくまわってる。まさかこんなに早く、お前の願いを聞きだせるとはね。しかもアタシが叶えられる可能性が残されてるんだから」

「叶えられる……? それは……」

「こういうのはきちんと言葉にしないとな。あの女の命をたすけることが、お前がアタシに望むことだな?」

「そうだ」

「よし。これを拾ってくれた恩返しは決まりだな」

 ジャレックライズは髪飾りを指先で撫でた。その指先を一瞥し、竜生は彼女の言葉を待った。

「さて、何から話すかな……」

 ジャレックライズが腕を組む。竜生は神妙な面持ちで彼女が口をひらくのを待っていた。ところが、いざ本題にはいろうという時、水を差す音があった。――店の扉がひらいた音だ。来客の知らせに、ふたりとも同時にそちらへ首をまわす。

「めったに客なんて来ないのに。めずらしいな」

 首をのばして棚の間をのぞいたジャレックライズは、客を目にした瞬間立ちあがった。椅子の脚がバランスを崩してガタリと揺れる。

 いったい何事かと、竜生も彼女のまなざしを追った。そして彼も瞠目した。

 そこには先日幽霊――ジャレックライズいわくガージュという生き物――からともに逃げ、あまつさえ退けた女性がいた。

 彼女のとなりにはもうひとり、端正な顔立ちの見知らぬ男が、興味深そうに本の山をながめていた。その立ち姿に、竜生は内心で(雰囲気のある人だな……。あそこだけ切り取ったら雑誌の表紙になりそうだ)とすなおな関心を抱いた。

 男は生成り色の浴衣に、薄い緑色の帯を締めている。神社仏閣や文化財などを観光名所として押し出している改井市では、着物姿を見かける機会は多く、さほど物珍しくはないのだけれど、竜生の目にはどうも、男が浮世離れしているように映った。

 髪の黒色が、いやに深いからだろうか。あるいは茶色い瞳が、光の当たり方によって時おり赤く見えるからだろうか。

 あまりまじまじと見つめるのは失礼だろうと、視線を外す。

(……それにしても、まさか同じ日にふたりと再会することになるなんて)

 心底から驚く竜生とは裏腹に、ジャレックライズは警戒心を隠すことなくぶつけた。目つきが鋭さを増す。

「妙な客だな」

 女性――稲岡明咲いなおかめいさは、細い通路をそろそろと進みながら「そんなに威嚇しないでほしいなあ」と苦笑した。初対面の時と変わらず、人当たりがよさそうな印象を受ける。

 その隣で、色褪せた背表紙からジャレックライズへ視点を移した男は、うっすらと口元に微笑みを乗せて言った。

「はじめまして、天女ちゃん」

 ジャレックライズは黙したまま、片眉を器用にあげた。

 竜生が「天女って……」と困惑にふたりを見やると、男は「空から落ちてきたんだから、天女だろうよ」といって目を細めた。

 竜生は、なるほど、と内心で首肯した。女性から話を聞いたのだろう。茜とおなじく、彼女にはジャレックライズの様子が天女に見えたのだ。

 男が言う。

「ぜひともオレたちも、その話し合いに参加させてほしくてね。どうだろう? もとの世界に帰りたいんだろう? こっちもしりたいことがあってね。お互い情報が必要というわけだ。協力しよう」

 ――事情を把握しすぎている。

 ジャレックライズが無言で睨むと、明咲は眉をさげて男を見あげた。

「師匠、警戒されてますよ」

「まいったね」

 わざと威圧的に振舞ってもまるで意に介さない態度に、ジャレックライズは唇を舐めた。(落ち着け。相手に主導権を握らせるな)と心に唱え、深く息を吸う。

「あんたらが、何の情報を持ってるって?」

「そうだな。まずは信用してもらわないと聞く気も起きないだろうよ。そっちの少年に恩返しするだけじゃあ、元の世界には帰れないよ。……と、この情報をタダで渡すのはどうだ?」

「なんだって?」

 ジャレックライズは目を丸くした。精いっぱいの威圧が解け、幼い表情が表出する。

「……アタシらをつけてたな? どっから盗み聞きしてたんだ」

 いつでも動けるよう腰を低くすると、明咲は手を合わせて謝罪のポーズを取った。

「あー、ごめんね。師匠に君の話をしたら、興味を持ってさ。そっちの子の高校を張るよう言われて、しばらく様子を窺ってたんだ。わたしもね、こんなことしても会えないんじゃないかって思ってたんだけど、そしたらまさかの今日! 君が現れたから、この人に連絡して合流したの。

 ちなみに聞き耳立ててたのは、このお店についてからだから。恩返しのところしか聞いてないよ。ちなみに指示したのは全部この人」

「おいおい。オレだけ悪者にしようって?」

「わたしが信頼を得られるなら、師匠を売ります!」

 言動とは不釣り合いほど晴れやかな笑顔に、男は肩をすくめた。

「ま、いいや。それで、どうだい? 聞くだけ聞いてみるのは。情報以上の対価は求めないぞ」

 ジャレックライズは、しばし刃物のような眼光で男を見すえた。しかし男の表情が変わらないのを悟ると、すっと立ちあがり、店の出入り口へむかった。扉に「閉店」の札をかける。そして「椅子はないぞ」と言って、ふたたびカウンター内に腰かけた。

 男は棚にもたれて目を細めた。

「このままでいいよ。それじゃあ、まずは自己紹介をしよう。オレはカクト。親しみをもって呼んでほしいから、ただの『カクト』でおぼえてくれよ。ちょっと人よりもいろいろなことに詳しいだけの、しがない職人だ。よろしく」

 十以上は歳が離れているだろう男に、幼い子どもを相手にしたような穏やかな目で見られ、竜生は居心地の悪さに指先をもみながら「どうも……」と返した。ジャレックライズは無言で顎をあげ、男――カクトの隣につぎをうながした。

 明咲が口をひらく。

「わたしは稲岡明咲。ようやく名乗れてうれしいよ。稲岡でも明咲でも、すきに呼んで。一応、霊能力者をやってます。けど、そんなたいそうなものじゃなくて……。あの日も、心霊スポットとして噂になってるから調査してほしいって依頼があってね。べつに対処するのが目的だったわけじゃないんだけど。そしたら君たちが現れるし、霊も出てくるしで、実は内心パニックだったんだ。けど全員無事で、ほんとよかったよ」

「あ、その節は、ありがとうございました」

「そうだな。あの時のアタシだったら、もっと手間取っただろうから、感謝する」

 ふたりの礼に、明咲は口角をゆるめた。

「そんな、できることをしただけだから。それを言うなら、わたしが霊能力者として仕事できるようになったのは、この人に指導してもらったおかげでね。師匠なの。全然しがなくないよね? あやしいだろうけど、わるい人じゃないんだよ?」

「知識を授けるミステリアスな男……。かっこいいだろ?」

 妙な話だけれど、ニヤリといたずらっ子のような笑みをつくったカクトに、竜生ははじめて彼もおなじ人間なのだと実感した。

「ね? こんなことばっか言ってるんだから。警戒するだけ疲れるよ」明咲が言う。

 カクトは小首を傾げた。

「おかしいな。こういうのはロマンだろ? 少年は共感してくれるよなあ?」

「いや、あの……」

 共感できず、口ごもる。品行方正に見えて、意外にふざけるのがすきな征人なら同意しているだろうな、と友人の顔を思い浮かべた竜生に、明咲が「気にしなくていいよ」と声をかけた。

「そっちも、自己紹介してもらっていい?」

「あ、はい。渡良瀬竜生です。俺も呼び方はなんでも。とくに突出したとこはない、ただの高校生、です」

 これ以上に言えることはなく、竜生は目線でジャレックライズへ終わりを伝えた。彼の意を受けとって、彼女は背筋を伸ばした。

「アタシはジャレックライズ。呼び方はジャレックライズで、丁寧な口調は聞き取りに不安があるから、楽に話してくれ。あんたらには見られたし、隠し通せないから言うけど。お察しのとおり、この世界の人間じゃない」

 本人の口から告げられた内容に、竜生はひそかに息を止めた。これまで半信半疑だったことが、ついに断定されてしまった。

 本人の申告どおり、竜生はごくごく普通の高校生だ。だからこそ、異世界人との出会いに瞳を輝かせることはなく、むしろ非現実的な出来事に遭遇しているという事実に、嫌な汗が出る。

 竜生が目を白黒させている間にも、ジャレックライズは語る。

「もとの世界で、急に地面が波打ったかと思ったら、そのまま飲みこまれたんだ。それで青白い光の川に流されて、気づけば空の上にいた……。あとはお前らのしってるとおりだ」

 明咲は「うわあ……」とこぼし、口元を手で押さえた。

「実際目にしたし、師匠から事前に推測を聞かせてもらってはいたけど、ほんとうにべつの世界からきたんだ……。奇妙な現象は心霊関係で慣れたと思ってたけど、さすがに驚きを隠せないね」

「そうだろうな。アタシだって、いまだに信じられないっての」

 ふう、と息を吐くジャレックライズに、カクトが「それじゃあ」と切り出す。

「自己紹介も済んだことだし、お互いの目的を話そう。まずはオレたちから……」

 しかし言葉の途中で、ジャレックライズに遮られた。

「ちょっと待った。その前に、さっきの話をしてくれよ」

「なんだった?」

「アタシが帰れないって言ったな。その訳を話してもらおう。それともやっぱり、アタシをあんたらの企みに利用しようと、適当言ったんじゃねえだろうな」

「ああ。そりゃそうだ。集中できないよな。いいぞ」

 カクトは顎をさすり、脳内で話の内容を組み立てた。聞いたとて、彼女は反発するとわかっていたが、誠実な答えを渡してあげたかったのだ。

「さっきもいったけど、学校を出てからのキミたちの行動を見てたから、ジャレックライズが少年――タツキを訪ねたのは、なくし物を探してたからだとわかった。はじめてこの世界にきた日、その髪飾りを落としてしまったから」

 頭を指差され、ジャレックライズの手が髪飾りに伸びる。

「……そうだ」

「キミの予想どおり、異なる世界へ渡ったら、どんなに小さな物でも、もとの世界から持ってきた物をなくしたら帰れない。だからタツキが持ってないか探しに行った。けど、それだけじゃダメなんだ。もとの世界とこの世界とを行き来するのには、圧倒的にエネルギーが足りない。だから、すぐには帰れない」

「そんなバカな!」

 ジャレックライズは声を張った。否定したい思いの分だけ、声量が増した。

 そしてさらに言い募ろうとした時、彼女の大声が聞こえたのか、カウンターの奥のドアがひらいた。

 荒い呼吸をくり返していたジャレックライズがふり向くと、店主のおばあさんが、お盆を片手に顔を出した。明咲とカクトを見つけると、目を丸くして「あらまあ。足りなかったわねえ。ちょっと待ってね」と言って、カウンターに湯飲みを置いてまたもどる。

 話を中断させられ、ジャレックライズは髪をかき乱したが、おかげで冷静さを取りもどしていた。ため息を吐いて、湯飲みを手に取る。手のひらから伝わったじんわりとした温もりに、力んでいた身体が弛緩する。口に含んだほうじ茶が、内側からも彼女を温めた。

(落ち着け。焦ってると、正しい情報も取りこぼす)

 店主はすぐにもどってきて、追加でお菓子も乗せたお盆を持ってきてくれた。「みんなで食べなさいな」

 ありがとうございます、と礼を言う三人へ、ジャレックライズは湯飲みと、小皿に乗った羊羹を差し出した。自分も爪楊枝で刺したひと切れを味わい、甘さに頬をゆるめる。彼女は小豆の味を堪能してから尋ねた。

「あんたの話には、証拠も根拠もない。ただ聞かされただけで、どうして『はい、そうですか』って言える?」

「そうだな」

 カクトは本の上に羊羹の皿を置くと「でもさ」とつづけた。

「どうしてオレが、そんなにそっちの事情をしってると思う? 帰る際の注意事項も、帰るために何が必要なのかも」

 ジャレックライズは沈黙でもって話をうながした。

「ほかにも落ちてきたやつをしってるからだよ。それも、ジャレックライズとおなじ世界からな」

 この回答には、ジャレックライズだけでなく、竜生も明咲も瞠目した。その可能性を、彼らの頭は微塵も考えつかなかった。

 ジャレックライズは動揺を飲みこんで、努めて冷静であろうとゆっくりと言葉を選んだ。

「それは、いろいろ聞いてみたいな。けど、そうだったとして……、結局は信ぴょう性があるかどうかって話にもどってくるだろ」

「そう。けどさ、いまお前は思っただろ? ほんとうかもしれないってな」

 ジャレックライズは閉口した。カクトの態度は堂々としていて、嘘を吐いているようには見えない。これで騙そうとしていたのなら、詐欺師を相手に負けてもしょうがないと思えた。

 カクトが言う。

「だからとりあえず、いまはオレたちの話を聞いて、どうするかは後で決めればいいさ。どのみち、タツキへの恩返しが終わらないことには帰れないんだしな」

 あっけらかんとした態度で言われ、ジャレックライズはしばし押し黙った。

 自分が異なる世界からきた、特殊な存在であること。この世界の人間にとって、その事実にどれだけの価値があるのかということ。目の前のふたりを信じて、もし騙されていたのなら――。

 可能性を並べ立て、彼女はひとつの結論を出した。

(もし何かするつもりなら、そもそも話す手間なんてかけないか。それに裏があっても、やっぱりどのみち話を聞いてからでないと判断できない……)

 鼻から大きく息を吐き、ジャレックライズはうなずいた。

「……わかった。情報交換しよう」

「ああ、よかった」

 カクトは微笑んで、ほうじ茶に口をつけた。

 話がまとまって、いよいよ本題にはいろうとしたのだけれど、ちびちびお茶をすすっていた竜生が、申し訳なさそうにおずおずと手を挙げた。

「すみません。本題にはいるまえに、疑問を解消したくて。……いいですか?」

「なんだ?」

「さっきから出てくる、俺への恩返し、っていうのは?」

 ジャレックライズの口ぶりから、恩返しのために連れてこられたというのはわかった。その代わりに、人魚症候群の治療に尽力してくれるのではないか、という期待もあった。ところがカクトと明咲の登場により、話が流れてしまうのではないかと、竜生は気が気でなかった。

 焦燥が竜生の顔を横切ったのを見て、カクトは心配するなと微笑んだ。

「ほら、昔話にもあるだろ? 鶴の恩返しとか、狐の恩返しとか。それとおなじように、受けた恩は返さないといけないんだよ」

 竜生が、そうなのか? と目で問うと、ジャレックライズは深くうなずいた。

「タツキがこれを拾ってくれてたすかった。もとの世界へ帰るためには、残すものがあってはいけない。だからこそ、アタシはあんたに恩を返さなきゃいけないんだ」

「返さなくちゃいけない……?」

(義務なのか?)という疑問に、竜生の眉が寄る。

「アタシもよくしらないけど、なんでも大昔の姫が決めた約束らしい。呪いみたいなもんだ。子どもの頃に、誰でも言い聞かされる。

『しらない場所に行って恩を受けたなら、かならず返さなければいけない。そうしないと、帰ってこられないよ』ってな。これがただのおとぎ話や教訓なんかじゃなく、強制力があるって、なんでか自然とわかってた」

「うん。オレもそう聞いたよ」

 カクトは懐かしそうに目を細めた。

「強制力が……? それは、どこまでを恩と判断するかによって変わるだろうし、ちょっとやっかいでは……?」

 竜生がむずかしい顔をすると、ジャレックライズはほんとにな、と言って、肯定と否定どちらともとれる角度で首を傾けた。彼女の表情に諦念を見つけた竜生の頭に、呪いという言葉が渦巻く。

 つかの間の沈黙は、明咲が突然手を打ったことで消えた。

「そういえば、ここって天女の言い伝えがあったよね? 羽衣を返してもらえなくて結婚するやつ。なんか、ジャレックライズちゃんの話を聞いた後だと、実際の話だったのかな、とか思うよね」

「たしかに」竜生は首肯した。

 伝説の天女を祀っているのが、四人で幽霊から逃げこんだ鶴見大社だったというのは、普段あまり祈ることはない竜生でも、なにかしらの縁――神の思し召しのようなものを感じた。

 明咲はもうひとつひらめきを得て、瞳をきらめかせた。

「じゃあジャレックライズちゃんは、その天女とも、おなじ世界の人かもしれないね」

「どうだろうな。けど可能性は高いかもな」ジャレックライズは肩をすくめた。

 竜生の疑問に答えが出たところで、カクトが「さて」と話を仕切りなおす。

「もういいかな? 問題ないなら、そろそろ本題にはいろう」

「ああ」

「あ、すみません。だいじょうぶです」竜生は頭をさげた。

「うん。まずは、オレたちの求めてる情報についてだな。

 オレと明咲と、あと何人かで、人魚症候群について調べていてね。ここ数百年は変わらなかったのに、どうも近ごろ症状や期間に変化が起きている。変異した原因はなんなのかはまるで不明。だから情報はあるだけいい」

 カクトの発言に、竜生とジャレックライズは自然と目を合わせた。それぞれの目的は近しいのかもしれない。

 ジャレックライズが竜生に問う。

「タツキ、お前の願いを話してもいいか? さっきは、アタシが叶えられる可能性があるって言ったけどな。正直、情報が足りなくて、かぎりなく可能性は低かった。それでもできることはするつもりだったけどな。

 けどこいつらと協力すれば、あるいは……。それで無理でも、こっちのことに詳しくないアタシが考えるより、こいつらの頭も足せば、何か突破口が見つかるかもしれない。どうだ?」

「うん。俺は……、俺にできることはほとんどないけど、それでもほかの人たちの手を借りれるなら、それで希望が見えるなら、いくらでも頭をさげるつもりなんだ」

 出会ったばかりの人たちに自分の願いを明かすことへの葛藤は、湧きあがった瞬間に握りつぶした。羞恥に身動きできなくなるのなら、深夜遅くまで人魚症候群について調べていたのがバカみたいだ。

 竜生は、ジャレックライズを圧倒する眼光で、彼女を見すえた。それで、言いたいことは伝わった。

「そうかよ」ジャレックライズの口角が上向く。

 ふたりのやり取りを黙って見守っていた明咲とカクトが、顔を見合わせる。

「どういうことだろうね?」

「いまのやり取りを聞くに、話してくれそうですけど」

 声を潜めるふたりに、ジャレックライズが説明をはじめた。

「こいつの学校に、鱗持ちが……、人魚症候群、だったか。それになったやつがいるんだ。アタシが見た感じ、ほっといたら死ぬだろうな」

 カクトと明咲の顔色が曇る。ジャレックライズはかまわずつづけた。

「こいつ……、タツキはそれを止めたい。そしてアタシの恩返しは、その手助け。あんたらが来る前に、そのためにはどうやって対処すべきか話し合おうとしてたんだよ」

「……ああ、なるほど」

 カクトのまぶたが驚きに持ちあがる。彼は数回目をまたたき、俯いてしまった竜生に視線をやった。

 鬱々とした声で竜生は言う。

「……その人、仲間さんは、もう二週間以上、声が出ないままで」

「アタシの暮らす世界なら、そんなに長くついてることなんてない。ガージュってのは生き物で、人の発した言葉からこぼれ落ちた粒子を餌にする。そんなのにとりつかれるから、鱗が生えるんだ。けどガージュを倒せば、徐々に回復していくんだよ。それなのに、あの女には、鱗はあってもガージュがいなかった。そうなると、アタシの世界のやり方、コトハ粒子をつかっての攻撃もできない」

「そうだろうな。しかしこれは……、奇妙な偶然がつづくな。オレたちのほしい情報っていうのが、まさしくその子、タツキ少年の同級生のことなんだよ」

「なに?」

 ジャレックライズの眉が持ちあがる。明咲が説明した。

「世間でも話題になってる。期間が長いって。それがどうしてなのか、調べてたの。だからその子の調査を、ふたりにお願いしたかったんだよ」

「おなじ学校なら、本人から話を聞けるし調べやすいだろう? ジャレックライズは同学年に見えるし。けどオレたちだと、そう易々と校舎にいれてもらえない。こっちも手をこまねいてたんだ。……けど、そうか。オレたちの目的はおなじってわけだ」

 四人は視線を交わす。妙な連帯感でつながっていることを、それぞれが自覚していた。

「じゃあ……、それじゃあつまり、協力してくれるって、ことですよね? 人魚症候群を治す、協力」

 竜生は尋ねた。腹に力をこめなければ、声はみっともなく震えそうだった。それでもどうしようもない激情に、語尾が跳ねる。

 カクトは竜生の目を見すえて言った。

「そうだ。むしろこっちがお願いしたかったんだ」

「わたしたち、これまでにも人魚症候群になった人を治してきたんだよ」

「そうなんですか?」まぶたを持ちあげた竜生の瞳は、蛍光灯の明かりを受けとめてきらめいた。

「ああ。けどそれは、これまでの人魚症候群にかかった人の話だ。最近はどうもおかしい。これまでと違うんだよ。その子のも変異していて、だからこれまでとおなじやり方が効かないんじゃないかとみてる。それで、ジャレックライズの話を聞きたい。その同級生の子、どんな状態だった?」

 ジャレックライズは宙へ視線をやった。何か見落としていることはないか、沙穂の様子を思い浮かべながら話す。

「どんな……。体内、喉のとこまで鱗で覆われてた。だから窒息して死ぬと思ったんだよ。アタシの世界では、そんな症状聞いたことも見たこともない。こっちではよくあることなのか?」

「いいや。人魚症候群の症状は、声が出なくなることと鱗が生えることだけど、体内までっていうのは初耳だな」

「そうか。正直な話、アタシじゃ対処法が思いつかねえ。原因を退治すれば解決できるが、さっきも言ったろ? 調べてみてもいなかった」

「そんなはずないんだけどね」明咲が眉根を寄せる。

「ああ。……こっちの世界では、いままで命を奪われたことはないっていうが、そもそもの話、コトハをつかえないあんたらが、どうやってあれを治してるんだ? ……いや、そうだ……。そういえば、あんたはあの日、ガージュを退けてたよな。手段が異なっていても、あんたらでも対処できるってことだ」

 明咲は「方法はあるけど……」と言って、師匠へ視線を投げた。それを受けて、カクトが答える。

「そうだな。知識を統一しよう。ジャレックライズはあれをガージュという生き物だと言った。けどあれは、こっちでは心霊という認識だ」

「ああ。なんかタツキが言ってたな。死んだやつの魂がどうの。しらないとそんなふうに思うのかって、異世界にいる実感をさせられたぜ」

「そう思うのもわかる。けどあれは、たしかに霊なんだよ」

「……どういうことだ?」

 ジャレックライズは訝しんだ。死んでいるのなら、食事を必要としない。しかしこちらの世界でも、ガージュはコトハ粒子を食らっている。あきらかな矛盾だ。

「正確に言うなら、生き物でもあり、霊でもある。それを説明するには、言霊(ことだま)の概念をしってもらう必要があるな」

「コトダマ?」

「こっちに落ちてきた日、見ただろ? 明咲がどうやって、おまえのいうガージュを倒したのか。あれは言霊をつかったんだ」

 耳慣れない言葉を聞いて椅子へもたれたジャレックライズとは対照的に、竜生は彼の話をひと言も取りこぼさないよう、熱心に耳を傾けた。

 一朝一夕で超常的な力を習得するのはむずかしいと理解している。修業したとて、明咲のように消滅させるほどの開花には至らないかもしれない。けれど、それでも、友人を脅かす未知の存在へ一矢報いることができたなら――。そう思わずにはいられなかった。

 まったく知識のないふたりが理解できるよう、カクトは一から説明をはじめた。

「言葉には、力がある。こうなったらいい――、こうなってほしい――。ひとびとの願いが言葉に宿り、実現させる。そういう言葉が持つ力のことを、言霊という。ネガティブな言葉よりポジティブな言葉を口にしたほうが幸せになれるって考えるのも、言霊を信じてるからだ」

「ああ、なるほどな」

 ジャレックライズの耳に、母の声が触れる。

(たのしいも、うれしいも、言葉にすれば返ってくるの!)

 心底からそう思っているとわかる、得意げな声色だ。

 ジャレックライズはフッと笑みをこぼした。世界を渡ってからはじめて彼女の表情に乗った、やわらかな笑みだった。そしておなじく、やわらかな声で言う。

「その考えは、理解できる。おなじ考えをよく口にしていた人が、身近にいたから」

「そうか。いいことだ」

 カクトは柔和に微笑んで、説明を再開した。

「当然、言霊によってすべてが叶うはずもないが、まったくの無力というわけでもない。多くの人が共通してイメージし、言葉にするほど、言霊は効力を持つ。もちろん、すべての言葉が叶うわけじゃない。生き死には関与できないとか、ルールがある。そんななかで広まるのは、たとえば『人魚症候群は、霊の仕業だ』という噂話とかだな」

「えっ。人魚症候群って、言霊が関係してるんですか?」竜生が尋ねる。

「そうだ。ガージュという生き物と『あれは霊である』という言霊によって、合体した存在なんだ。もしかしたら、ほんとうに霊魂が混ざってる個体もいるかもしれない。だから人の姿なんだよ。霊は人の魂だから。つまりあれだ。あれは『レイジュ』ってわけだ」

「……レイジュ?」ジャレックライズが復唱する。

「名前を統一させたほうが話しやすいだろ? これからあれはレイジュな。

 そんでレイジュは、一度食らった粒子に執着するんだ。言霊としての効果もあるから、なんかうまいのかもな。ちなみに系統が似ている言葉、つまり類語は粒子の色も近しいんだ。それでレイジュの全身はまばらじゃなく、同系色なんだよ」

「……そういうことか。どうりで見たことないはずだ。まったくの別物って認識すべきなんだな」

「……そしてもうひとつ。ジャレックライズ、こっちではコトハ粒子をうまく扱えないだろ?」

 カクトの問いにジャレックライズは面食らったが、すぐに目をとがらせた。

「……そうだ。まさかそれも、言霊が関係してるのか?」

「そういうこと。ふたつの世界では、言葉の持つイメージが異なる。しらないってことも関係してるだろうな」

「しらない?」

「たいていの人は、バラの花と聞いたら真紅を連想する。だけどジャレックライズはバラが何かも、何色かもしらないだろ? 自動車と聞いても、道を走行する乗り物だとわからない」

「ああ」

「コトハ粒子が思いどおりに動かせないのは、言葉のイメージにギャップがあることが原因だ。ジャレックライズはいま、この世界にいるんだから」

「……つまり、アタシの発した言葉が、この世界の大多数の人間と共通した認識でないと、コトハ粒子は反応しないんだな?」

 ジャレックライズは視線をさげ、顎をなでながらいまの話を頭の中で整理した。

「……こっちの人間が持つ言葉のイメージ、コトダマの力が、コトハ粒子には宿っている。そしてそれは世界のルールで、アタシのコトハもコトダマとして機能するんだな? だからコトハを使おうとした時、こっちの世界のコトダマに人数差で負けてたってことか……」

「そういうこと」

 生徒の成長をよろこぶように、満足げに頬を持ちあげたカクトをよそに、明咲はそろりとカニ歩きで竜生に寄ると、小声で話しかけた。

「いまの、わかった?」

「……なんとなく?」

 むずかしい顔で小首を傾げる竜生に、明咲は「だよね。わたしも」と言って微苦笑した。

「いや、お前が霊を相手にする時も、言霊の力をつかってるだろ」カクトが言う。

「師匠は前からそう言いますけど、こっちにその意識はないんですよ。言霊の力ってなんですか? 必死に読み上げて、『効け! 効け!』って祈ってるだけですよ」

「……歌う時、無意識に歌詞のイメージが浮かぶよう修行させて正解だったな」

 呆れ顔を見せるカクトに、ジャレックライズは探るような目をむけた。

「ほんとうに、いろいろと詳しいんだな」

「まあな。散々検証したから」

「その……。アタシとおなじ世界から来たって人に、今回助力をたのむことは……?」

 ジャレックライズは平静をよそおって口にしたが、どんな答えが返ってくるかは悟っていた。見込みがあるのなら、はじめからこの場にいるだろう。

 予想は的中し、彼はただ静かに首を横に振った。

「そうか」

 ジャレックライズはそこで口をつぐんだ。その人物がもとの世界に帰れたのかどうか、尋ねることはできなかった。恐怖に心が縮こまってしまえば、ふたたび奮い立たせる余裕など、いまの状態では沸き起こる気がしなかったのだ。

 彼女の心情を察してか、カクトは朗らかな声で言った。

「言霊のことは理解したよな? それでここからは、どうやって対処してるのかっていう疑問の答えになるが。人魚症候群に関しては、密かに明咲みたいな、いわゆる霊能力者に要請がきて、対処してるんだ。医療行為ではどうにもならないから。

 けどこの事実――霊的な存在が原因だと広まったら、少々やっかいでな。なんといっても、金稼ぎに偽物が湧いたら手遅れになる可能性がある。だから人魚症候群が出たら、認可されてる霊能力者が派遣されて、誰にもしられないよう治すことになってるんだ。この業界は横のつながりがつよい。人魚がこれまでそれほど広がらなかったのも、発生したらすぐに応援要請がくるからだ」

「しらなかった……」竜生がつぶやく。

「あんた、そういう筋ではかなりの腕なんだろ」

「あははっ。それほどでもないけども、褒められるとうれしいね」明咲ははにかんだ。

 ジャレックライズは竜生を横目に見る。

「そういうことなら、こいつがたすけてほしいって言ったあの女も、要請があったのか?」

「そうだ。そして、誰も成功していない。しかも、なぜか要請は取り下げられた」

「じゃあガージュ、じゃなくてレイジュか。あれはどこ行ったんだよ?」ジャレックライズは不服そうに片眉をあげた。

「そこなんだよ。可能性はかなり低いが、野良の誰かがやったのか、それともオレたちのしらない、またべつの事態が起きてるのか。だから調べてたんだ。けどジャレックライズは、レイジュがいなかったって言ったろ?」

「そうだな」

「ふむ……」

 何やら顎に手を当て考え込むカクトに、竜生はジャレックライズ、明咲、と順番に顔を窺い見て、それからおずおずと口をひらいた。

「あの……、彼女、仲間さんが、熱心に神社に祈ってたんですけど。鶴見大社に。その効果があったとか、そういうのは、ないですか? まだ目に見える変化がないだけで、徐々に回復していくとか……」

 絶対的な効力でなくとも、言霊に力があるというのなら、彼女の祈りが功を奏していてもおかしくはないはずだ。神頼みが聞き入れられてもいいではないか。

 竜生から縋るようなまなざしを浴びて、カクトは乱雑に頭をかいた。

「あー、あそこか……。まあ、可能性がゼロではないと思うが……」

「ざんねんだけどな、そういう感じはしなかったぜ。治りかけなら、ガージュがいるか調べた時に気づく。けどアタシのコトハに反応はなかった。だから、あいつの治療が恩返しになると踏んだんだ」

 ジャレックライズの意見に、カクトは「そうだな。あの神社はたしかに神力がみなぎっているが、声をもどしてくれるほど優遇することはないはずだ」と同意した。

「そうですか……」

 暗い顔で視線を落とす竜生に、カクトは言った。「だが、やれることはまだある」

 場違いに感じるほど明朗な声だ。彼の双眸の中で光がきらめく。

「師匠……?」

 違和感を無視できず、明咲が視線を投げる。カクトは含みのある顔でわらった。

「やることはひとつだ。取りもどしに行こう」

「取りもどすって……、何を? ……まさか、声をですか?」明咲が目を丸くした。

「ああ。ジャレックライズと話しているうちに、光明が見えた」

「いつの間に?」

 弟子からまっすぐな尊敬をそそがれ、カクトはなんてことない顔で首裏をさすった。

「言霊の話といまの、レイジュがコトハに反応しなかったってところでな。もしかしたらレイジュは、ジャレックライズの操るこの世界にはないコトハを警戒したのかもしれない」

「警戒? 目の前の餌に食いつかずに?」ジャレックライズは目をすがめた。半信半疑だ。

「ああ。心霊と混じってるっていったろ? もとが人なんだ。思考するし、危険がせまったら対策を取る。ジャレックライズのコトハにすこしも反応しなかったっていうのは、オレもにわかには信じがたいが、そう仮定するなら気づかなくてもおかしくない」

「そうか……。こっちのガージュについて詳しいあんたがいうなら、可能性はあるな。じゃあ、声を取りもどすっていうのは……?」

「これは完全にオレの推測だが――」

 一拍置いて、カクトは言った。

「その子の声を奪ったレイジュは、どこかに身を隠してると思う」

「それって……、じゃあ、そいつを倒せば、仲間の声がもどってくるってことですか?」竜生は息をつめた。

「まだ、確定したわけじゃないけどな。だから検証してみよう」

「検証?」

「ああ。タツキ少年。人魚症候群の少女との縁を感じられるような何かを持ってないか?」

 突然の問いかけに、竜生は「え?」ととまどいを見せた。

(……縁を感じられる何か?)

「ふたりがどれくらいの関係性なのかによるけど、たとえばもらい物だな。彼女から手渡された、飴でもいい。ないか? 理想としては、貰い物より、全身が映ってる写真とかがいいんだけど」

 けどなあ、写真があっても全身はむずかしいだろうから高望みだな、とつづけたカクトに、竜生の脳みそは慌ただしく動きだす。何かないか、沙穂と出会ってからの記憶をすばやくかき分ける。――そして彼はつかんだ。

「ある! あります!」

 ズボンのポケットに手を入れ、携帯を取りだす。皮膚を突き破りそうなほど暴れる鼓動のせいで、操作する指が震えた。それでも竜生は、カクトの要望にピタリと該当するもの――仲間沙穂が文化祭で歌った動画を再生した。

 のびやかな歌声が、古本屋の一角に色をそえる。カクトはほう、と感嘆の息を吐いた。

「お、これは想定外。声がはいってるなんて完璧だ」

「深みのある声ですね……。それで師匠、これをどうするんです?」明咲が問う。

「ここから縁をたどれば、消えた声がどこにあるのかたどれるはずだ。どうだ、ジャレックライズ」

「やってみるけど……。さっきあんたが教えてくれたんだぜ? こっちの世界じゃ思いどおりにコトハをつくれないって」

「この動画の声から落ちる粒子をもとに、もとの声と線でつなげるイメージでやってみな」

「線でつなげる……。わかった」

 訝しげな顔をしつつ首肯したジャレックライズを、竜生は一心に見つめた。そこへ「そうだ、タツキ少年」とカクトが声をかける。

「さっきいってたこと、ムダじゃなかったみたいだぞ」

「え?」

「その子が神社でしてた『声が返ってきてほしい』って祈り。それはきっと、ジャレックライズの手助けをしてくれるはずだ」

「はい……」

 携帯をにぎる竜生の手に、力がこもる。

 ふたりの会話を耳の端のほうで拾いながら、ジャレックライズは思考に耽った。アメンレーでは、言葉に宿る色の系統が似通っているものでコトハをつくっていたが、こちらの言葉がどんな色を持っているのか、まだ把握できていない。

(やっぱり、いまはあのやり方が無難か……)

 言霊を信じるのなら、単語ではなく、意味に託す。ジャレックライズは周囲に漂うコトハ粒子へ意識をむけた。

『お前の居場所を教えておくれ』

 語りかけ、慎重に粒子を手繰り寄せる。竜生の目には、ジャレックライズの顔の前にあたたかな光が集まっていくのが見えた。

 針みたいに細長いコトハを、ジャレックライズは歌声からこぼれ落ちる粒子へ当てた。するとコトハは、羅針盤の針が方位を示すようにぐるぐると回り、やがてある方向を指したまま、ピタリと止まった。

 固唾をのんで見守っていた竜生は、コトハへ目をむけたまま尋ねた。

「えっと、これは……? この店の上にいるとか? それともまさか、見つけることはできないとか、そういう……?」

「いや、どっちでもないな……。なるほど、そうきたか」

 カクトは苦い顔で言うと、コトハの示すさき――天を睨んだ。

 成功したことを密かに安堵していたジャレックライズは、彼と同様にコトハを見あげた。

「それで、ここからどうするんだ?」

「その子の命が危ないって言ってたよな」

「ああ。あと二、三日ってとこか」

 竜生の心臓がギシリと軋む。カクトは顎に手を当てうなずいた。

「ジャレックライズのおかげで、どこにいるのかは見当がついた。ただこれからそこへ乗りこむには、準備が心もとないな。そうだろ?」

「そうですね。今日はジャレックライズちゃんと交渉するだけだと思ってたから、あんまり手持ちがないです」明咲が答える。

「だよな。それなら……、一旦解散して、そうだな……。一時間後にまたあつまるか。それと動きやすい格好に着替えたほうがいい。学ランが破れたりしたら困るだろうし」

「……レイジュを相手にするんですよね? 竜生くんも連れていくんですか?」

 明咲は声を落としたが、カクトが返事をするよりもはやく、竜生が口をひらいた。

「俺も行きます」

「……気持ちはわかるけど、竜生くんができることは、その、あんまりないんだよ」

 眉をさげる明咲に、カクトは肩をすくめた。

「まあ、待て。隠れてついてこられてもこまるだろ? それに少年にも同行してもらわないと。役割はあるんだ」

「そう、ですか……。わかりました」

 渋々引いた明咲へ頭をさげ、竜生は何が必要か思案した。

(霊に効果がありそうな……、お札とか、そういうのは専門の稲岡さんが持ってくるだろうし……。一応鶴見大社で買ったお守りがあるから、それを持ってくか。ほんとかわからないけど、ご利益あるって征人も言ってたし。あ、いや……、言霊があるなら、信じたほうがいいのか。あとは何か……)

 玄関、自室、リビング、と手当たり次第に思い浮かべた家の中をさらっていくと、まるで存在を主張するかのように、とある一角へ光が降りそそいだ。そこに飾られている物を思い出し、「あっ!」と声が出る。

(あれなら俺にもつかえるし、役に立つかもしれない……)

 有用かもしれない物がひとつでも見つかり、竜生の肩から力が抜ける。

 一方のジャレックライズは、頭の後ろで手を組み、天井を眺めた。

「アタシはべつに、準備するものとかねえな。コトハ以外につかえる物はないし。……一時間後か」

「ごめん。道具を揃えるのもだし、移動の時間を考えるとそれくらいかかっちゃうんだ」

 申し訳なさそうに手を合わせる明咲に、ジャレックライズはいや、と首を横に振った。

「そういや夕飯の買い出しがあったのを思い出した。そっちがいろいろ準備してる間に、買い物すませておく」

「へえ。ちゃんとてつだいして、えらいな」

 ニヤリと口角をあげ、まるで親戚のような気安さで褒めてくるカクトに、ジャレックライズはフンッと鼻息であしらった。

「世話になってるんだから、あたりまえだろ」

「こっちに来てまだ短いのに、ずいぶんなじんだな」

 カクトが目で同意を求めると、明咲は深くうなずいた。

「ほんとに。……そういえば、ジャレックライズちゃんに聞きたかったんだけどさ。師匠が『この数日で日本語をおぼえたんだろう』っていってたんだけど、それってほんとう?」

「ああ、そうだな」

「ええっ、ほんとだったんだ!」

「アタシらはコトハ粒子、言葉からこぼれ落ちる粒子を日常的に活用する。それは言葉によって、粒子の色がちがう。だからおぼえるのは得意なんだ」

 明咲は感嘆し、目をぱちり、ぱちり、とゆっくりまたたいた。

「得意ってレベルじゃないけど……。日本語は複雑だったでしょ」

「あー、そうだな。だからここを選んだんだ。言葉をおぼえるのに最適だろ?」

「まあね。本ならいくらでも読み放題だもんねー。……え? 待って? 狙ってこの場所にいるの?」明咲は信じられない思い出ジャレックライズを見た。

「そうだよ。帰るためにも、まずは何よりこの世界について情報収集しないといけない。それには拠点がいる。外で寝泊まりもできるが、常に警戒してちゃ、いざって時に動けない。初日にガージュを目にしてるから、敵がいるのもわかってたしな。

 だからひとり暮らしの老人を探したんだ。息子たちはとうに家を出て、つい最近旦那を亡くして部屋が余ってる。これ以上ない好条件だ。だからちょちょいと、おばあさんの意識にコトハで介入して、居候させてもらった」

「えっ……、それって、洗脳したってことか……?」

(俺はいま、法では裁けない犯罪を聞いている……?)

 竜生が頬をひきつらせると、ジャレックライズは不満そうに眉を寄せた。

「そこまでの強制力はねえよ。むこうに承諾の意思がかすかにでもあったから、コトハが作用したんだ。こっちに来たばかりで全然コトハ粒子を扱えなかったからな。受け入れてくれてたすかったぜ」

 見知らぬ世界へ落とされた日。

 鶴見大社を後にしたジャレックライズは、とにかく情報を集めようと、人のいる場所へ足を進めた。

 彼女はさながら、飢えた獣みたいに沈んだ目でまわりを威嚇し、緊張に痺れる手足をどうにか動かし、商店街を練り歩いた。そうして端から端まで行ってようやく、自分の置かれた状況を飲みこむと、絶望に足を止めた。世界を渡ってしまったことはまちがいないのに、誰かに嘘だと言ってほしくてたまらなかった。

 どういった行動をとるのが最善なのか、可能性を脳内で並べ立てるも、耳のすぐ横で聞こえてくる自信の荒い呼吸音のせいで、思考がまとまらず堂々巡り。焦燥だけが募っていった。

 その姿があまりに哀れに見えたのか。ジャレックライズはおばあさんに声をかけられ、自分のせいで入り口がふさがれていた古本屋の店内へ招かれた。とりあえず落ち着きましょう、といって出されたお茶を飲んだ時、ジャレックライズはこの家に置いてもらうことを決めた。

 だから頼れる身内も家もないことを説明し、住まわせてほしいと頭をさげた。断られないようコトハで同情をうながした。けれどももとよりそのつもりだったとでもいうように、おばあさんはシワを深めて微笑んだのだ。

 色褪せた古本に囲まれているのに、その時のジャレックライズの目には、妙に世界が色づいて見えた。何もかもがあたたかく感じた瞬間を思い出し、ジャレックライズの口角がゆるむ。

 思い出し笑いをごまかすために、彼女は咳払いしてつづけた。

「だから数日は、言葉をおぼえるのに専念した。それからようやく落し物、この髪飾りについて調べるために行動を開始したってわけだ」

「気が気じゃなかったでしょ」明咲は慰めるような調子で言った。

「まあな。けどもしかしたら――、っていう期待はあったんだ。お前の、タツキの服は特徴的だろ? おばあさんに聞いたら高校の名前がすぐ出てきたから、そういう意味でも運がよかった」

「あ、そうだね! 学ランは、たしかにおぼえやすい」

 ふたりが同時にながめてくるので、竜生は一年半と着慣れた制服へ、視線を落とした。学ランは、このあたりでは竜生の通う高校だけが採用している。

 ジャレックライズは三人へ視線をめぐらせ、自慢げに顎をあげた。

「ちなみに、アタシは家賃も払ってるからな。先払いで、数か月分」

「えっ! どうやって?」

「まさか……、コトハをつかって盗んだ、とか?」

 数日で手に入るはずのない金額を耳にして、竜生は思わず胡乱な目をむけてしまった。ジャレックライズは不服を瞳に乗せて、彼を睥睨した。

「おい……。おまえがアタシをどう思ってるのか、よくわかったぜ。んなわけねえだろ。それで捕まったらおばあさんに迷惑かかんだぞ」

「ごめん! ほかに方法が思い浮かばなくて、つい……」

 慌てて頭をさげる竜生に、ジャレックライズは鼻でわらった。

「そんなことしなくても、簡単に稼げる方法がある」

 彼女のセリフを耳にして、親睦を深める若者たちを眺めながら残っていた羊羹に舌鼓を打っていたカクトが、誰よりも興味津々で顔をあげた。

「それはぜひとも、教えてほしいね」

「いいぜ。ここからちょっと行ったとこに、競馬場があるだろ」

「あ、流れが読めたぞ。なるほど、そういう」カクトは後頭部をかいた。彼ではまねできそうにない。

「賢いね。誰にも気づかれないし、馬も無理やり走らされたわけじゃないんでしょ?」明咲は感心した。

「当然だろ。お察しのとおり、勝ってほしい馬に、ちょちょいとコトハでやる気を出してもらっただけだ」

「よし! つぎの休みは決まりだな。ジャレックライズ、一緒に競馬場へ行こう」

 指を鳴らしたカクトに、明咲は目つきを鋭くした。

「何を言ってるんですか師匠。あんまり出入りしないほうがいいですよ。ジャレックライズちゃんがこっちとおなじ年の重ね方なのかわからないですけど、未成年か調べられたら困るでしょう。戸籍もないんですし」

 彼女の言葉に、ジャレックライズも同意する。

「まあな。あれは必要に駆られてやったから、しばらくはやらないぞ。……なんかついつい喋っちまった。ほら、準備するんだろ? アタシはおばあさんに買いだしに出るって伝えてくる」

 いつの間にか打ち解けていた気まずさに、ジャレックライズは頭をかいて、カウンターの奥の扉をあけた。そのままするりと身体を滑りこませようとして、カクトが「待った待った! 集合場所は鶴見大社だ!」と声をかける。

 ジャレックライズはとびらのむこうへ半分身体をひっこませた状態で、ひらりと手を振って、それから扉を閉めた。

 カクトがぼやく。

「慌ただしいな」

「伝えられてよかったですね。わたしたちも行きましょうか」

 明咲の目配せに、竜生もふたりのあとにつづいて店を出た。オレンジ色の電球に照らされた本の山が、彼らを無言で見送った。


 外へ出ると、制服にしみ込んだ紙のにおいと、数軒先の肉屋のコロッケのにおいが混ざる。拳大の空腹を自覚しつつ、自転車に鍵をさしてスタンドをあげたところで、カクトに「タツキ少年」と呼び止められた。

「はい」

 竜生が顔をあげると、ひどく穏やかな表情をむけられて面食らう。

「すこしは心が回復したか?」

 わずかにも角がない、まろやかな声にとまどいつつ返事をした。

「え? あ、はい。そうですね……」

「そうか」

 カクトの目がやわらかく弧を描く。

「ジャレックライズも言ってたろ? いつも気を張ってちゃ、いざというときに動けないって。何もできないことのもどかしさは、オレにもよくわかる。実際オレは、わかったような顔して口を出すだけで、実行は全部ほかのやつに任せるしかない」

「師匠……」

 明咲が気づかわしげに見やる。カクトはおどけた笑みをつくった。

「ま、タツキ少年はオレとはちがうからな。集合時間までは余裕がある。なるべく休んで、これからに備えるといい。キミの活躍にも期待してるんだ、オレは」

「はい……。わかりました」

 しっかりと頭を縦に振ったのを見て、カクトは満足げに目じりをさげ「それじゃあ、またあとで」と言って、竜生とは反対方向へ歩いていった。彼につづいた明咲がふり返り、そっくりな表情で手を振る。

 身体の前でちいさく振り返しながら、うなずくように頭をさげた竜生は、自転車のハンドルを握ったところでふいに悟った。先ほどのジャレックライズとの雑談は、焦りに気を急く竜生が、ささやかにでも心にゆとりを持てるよう、あえて時間をとったのだということに。

 ふたりのやさしいまなざしを、記憶の棚にしまうと、竜生はひとりでわらっていると思われないよう唇を引き結び、それから自転車を押した。

 一時間もあるのだ。商店街を抜けるまでは、気ままにゆったりと歩きたかった。


  *


 必要な物を取りに帰宅し、ゆったりとした上下に着替え、一時間後。竜生は鶴見大社へやってきた。

 すでにジャレックライズが待っており、彼女は竜生を目にして「よお」と声をかけた。彼女のもとへ早足で歩み寄る。

「お待たせ」

「おう。アタシが一番準備がなかったしな。お前は……、その背中の、なんだ?」

弓袋ゆぶくろっていって、ふつうの弓と、それとはべつに破魔弓と破魔矢はまやがはいってる」

 竜生は自身の背にある弓袋へ首をまわして答えた。

 彼の出生祝いに、母方の祖父が用意した破魔弓は、名前のとおり魔を破る弓として、邪気や厄をはらう願いがこめられている。人魚症候群の原因に霊も関係しているのなら効果があるのではないかと、床の間に飾ってあったものを拝借してきたのだ。高価な物なので、なるべく破損させないよう気をつけなければならない。

 ジャレックライズは興味深そうに竜生の背後をながめた。

「弓ってあれだろ? こうやって引いて攻撃する、遠距離武器。おばあさんが好きで流してたテレビで見たぜ。お前扱えんのか?」

「何年か弓道をやってたから、腕にはそこそこ自信がある。破魔の弓矢は、魔を祓う力があるとされてるから、レイジュにも効くんじゃないかと思って」

 いつレイジュが現れても構えられるよう、弦から指を保護するがけを、この段階から右手にはめてきた。

「へえ。けどお前が弓矢を扱うとこ見たわけじゃないから、なんとも言えねえな。いままでにどんな獲物を狩ったことがある? ここらの山ならいろいろいるだろ? すこしだけなら、こっちの動物もわかるぜ。ここ、鶴見大社の鶴ってのは、白い鳥のことだ。縁起がいいんだろ?」

 得意げに顎をあげるジャレックライズに、竜生は「いや……」と言って視線をさげた。

「……弓道は、生き物を的にしない。動かない的に矢を射るんだ」

「なんだ。それならなんで持ってきたんだ」ジャレックライズは、解せない、と眉根を寄せた。

「どこかで役に立てる場面が来ないとも、かぎらないだろ……」

「どうだろうな」

 肩をすくめたジャレックライズに、竜生は唇を噛んだ。

(俺に何ができるんだろう……。居ても立ってもいられずここまでついてきたけど、特殊な力のない俺がいたところで、足手まといになるに決まってるのに……)

 うしろ向きの思考が頭を俯かせる。それでも、何度無力感に苛まれようとも、そのたびにライトを浴びて輝く沙穂の姿が、まぶたの裏にちらつくのだ。

「……矢は何本かあるから、チャンスはあるはずだ。幽霊と混ざっていても、レイジュは生き物なんだろ。それならこの矢はあたる。いざという時は、かならず射抜いてみせる」

 ジャレックライズは、弓袋の背負い紐をきつくつかむ、血がたまって赤くなった竜生の指を一瞥した。そうして小声で「コトダマだったか……」と吐き出した彼女は、彼の目をのぞくように見た。

「わかった。お前の覚悟はおぼえておく。けどな、そっちもおぼえとけよ。やれるって口にしたんだ。その時には絶対決めろよ」

「……ああ」

 竜生は顔をあげ、真正面から彼女の目を見かえした。

 ジャレックライズの口角が、ほんのわずかに上向く。そこで、計ったかのようなタイミングで声をかけられた。カクトと明咲だ。

「よっ。待たせたな」

「ごめん、ごめん。あれもこれも必要に思えて、ちょっと手間取っちゃった」

 カクトは身軽なもので、何も荷物を持っていなかったが、明咲は琵琶を背負っていた。やはり体格に対してやたら大きく見え、参拝客の視線を集めている。

 カクトの目が竜生の背にむいた。

「お、それって弓か? 似合うな」

「……どうも」照れくささをごまかすため、ぶっきらぼうに返す。

 カクトは不快になることなく、むしろ微笑ましそうにわらった。

「さて。さっそくだが移動するか。おまえらが出会ったっていう、噂の廃村に」

「え……」竜生は動揺に瞳を揺らした。

 霊に襲われた日、巨大な黒い影に追われる夢を見た。どれだけ走っても離れず、いよいよ襲い掛かってきた時に、わあ! と叫び、その声で夢から覚めた。ねむったのに体力を削がれるという、最悪の目覚めだった。

 だから竜生は、あの日の光景を意識して思い起こさないようにしていたし、あいまいな記憶にしようと、脳内に残っていた廃村の輪郭をぼやけさせていた。

 それもふたたび訪れるなら、無意味に終わる。抵抗の意思が、眉間に深い線をつくる。

 しかしカクトは「そう怖い顔するな」と言って、カラリとわらった。

「だいじょうぶ。明咲が調べて何もいなかったから。そうだろ?」

「はい! それに今日はあの時と違って万全の状態だから、だいじょうぶ。おねえさんに任せて」

「だってよ」

「わかりました」

 竜生には、ふたりのあっさりとした態度がありがたかった。慰めなくとも、自分で乗り越えると信じてもらえているように感じられた。

 カクトを先頭に、廃村への道を登って行く。

 竜生は己を奮い立たせるように、恐怖心をふるい落とすように、首がもげそうなほど大きく左右に振った。

 ほんとうに怖いことは、霊を相手にすることではない。怖気づいて、好機を取り逃がしてしまうことだ。

(目的を見失うな)

 竜生は己に言い聞かせ、背中の弓袋にそっと手を添えて歩いた。


  *


 廃村は変わらず薄暗く、草木に生気を吸いとられたみたいに深閑としている。

「おお、雰囲気あるなー」

 あたりを見わたすカクトに、明咲が声をかけた。

「あの、師匠」

「ん?」

「みんな疑問に思ってると思うので、わたしが代表していいますけど。そろそろどうしてここに来たのか、聞いてもいいですか? ジャレックライズちゃんのコトハは、高所を指していたから、ここにきたってことですか?」

「いいや? ここを選んだのは、ひと目のない場所のほうが、都合がいいからだ。なんてったって、これからべつの世界に行くんだからな。そういうのは、心霊案件を受け持つお前ならよくわかるだろ? 

 あとはまあ、世界を渡るのに、扉を通るのが適してるからでもある。この方法なら、お前たちのイメージを統一させやすいと思ってな。というわけで、条件に合致しているのが、この廃村ってわけだ」

 つらつらと語られる内容に、竜生は目を点にした。突拍子もない話に冗談かと耳を疑う。そんな心境を代弁するように、明咲が驚きと困惑をさらけ出した。

「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ? ……世界を渡るって、どういうことですか?」

「そのまんまの意味だ。ジャレックライズのコトハは、空中で途切れていたな? それはつまり、目当ての物はこの世界にない、ってことだ。そうなると、原因を倒すにはその場所へ行くしかない」

「そんな当然みたいに、べつの世界って……」

 明咲は頭痛を感じ、額をおさえた。

「これまでにも散々、荒唐無稽な話に振り回されてきましたけど、今回が一番、頭が混乱してますよ」

「そうかい。振り落とされずについてきてくれよ」

 明咲はため息をどうにか飲みこんで、疑問を吐き出した。

「……ほかの世界に行くのに扉をイメージするのは、たしかにわかりますけど、この扉を押せば、もうべつの世界に行けるんですか? それともまた、ジャレックライズちゃんのコトハ頼みです?」

「いや、あれはそんな万能じゃない」

「そうですよね? 簡単に行き来できるなら、ジャレックライズちゃんも恩返しを終わらせればすぐに帰れるはずですもんね?」

「そうだな」

 ジャレックライズも加わって圧をかけてくる疑問の目に、カクトは腕を組み、三人が理解できるよう説明をはじめた。

「そうだな。これから行く世界は、お前らの想像してんとはちょっと違う」

「それはどういう……?」明咲の眉間が疑問の分だけ近づく。

「まったくの異世界ってわけじゃないんだよ。あくまでこの世界と地続きの場所だ。お前も桃源郷とうげんきょうって聞いたことあるだろ?」

「はい。俗世から切り離された、理想郷。桃の花が咲き乱れた美しい場所で、ひとびとは平穏に暮らしているといわれてます。仙人の住まう場所とも」

「そうだ。その桃源郷も、ある意味では異なる世界だが、どこに存在してるか想像した時、この世界のどこか、っていう感覚じゃないか?」

「たしかに……。異世界にあるとは思わないですね」

「だろ? けどジャレックライズの世界となると、次元が異なる」

「次元?」竜生が問う。

「ああ。これから行くのが外国だとしたら、ジャレックライズの世界はテレビの中。それくらい別物だ。わかるか?」

「なるほど……」

 明咲はうなずいて、それから懐疑的な目でカクトを見あげた。

「それで、師匠なら、この扉をべつの世界へつなげられるってことですか? ほんと、どんだけ知識があるんですか」

「知識はあっても、オレには変わらず手段はないぞ」

「じゃあ、どうやって?」ジャレックライズが問う。

「もちろん、できるやつの手を借りる」

 そういうと、カクトは木々の間に目をむけた。

「おーい。そういうわけだから、頼まれてくれるかー?」

 顎をあげ、周囲へ呼びかける。

 ほかの三人が彼の視線を追って、周囲へ目を走らせると、すこし離れた木の影から、ひとりの人が姿を現した。白い着物に、藍色の帯を締めたその人は、足元に黒いスニーカーを履いていた。

「げっ……」

 明咲が隣りで難色を示したのが聞こえたけれど、竜生が彼女の様子を窺うことはできなかった。それよりも、前方へ目を奪われてしまう。その人が二メートルほどの距離まで近づくと、彼は思わず「う、わ……」と声をもらした。許容量以上の感嘆が留められず、押し出されたのだ。

 カクトの呼びかけに応えたのは、まさしく天女と呼ばれるにふさわしい、昔話であれば「玉のような」と評されるだろう人だった。

 腰までの艶やかな黒髪は青みがかっていて、光って見える白い肌に、赤い唇が際立つ。まるで雪のかぶった、ナナカマドの実のようだった。空気に溶けてしまいそうな儚さで、触れるのが恐ろしいと感じてしまう。

(こういう人のこと、なんていうんだっけ……。ああ、そうだ。美人薄命だ……。薄明っていうか、生きてるけど。けどその言葉の語源になりそうな人だな……)

 竜生が気圧されていると、その人はカクトの横に並んだ。カクトが口をひらく。

「こいつは乙女おとめ。今回手を貸してもらう、オレの相棒だ。世界を渡るのは乙女に頼む。案内もな。そういうのが得意なやつなんだ」

「こんにちは。乙女と申します。皆さまのお力になれること、うれしく思います」しずしずと頭をさげる。玲瓏とした声が鼓膜を撫でる。

「……渡良瀬竜生です」

「あー、乙女さん。おひさしぶりです」

 先ほどの感情を隠し、明咲は微笑んだ。

「明咲さん、こんにちは。おひさしぶりですね。しっかり案内役を務めさせていただきますのでよろしくお願いします」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 ぎこちない笑みを浮かべた明咲に(ずいぶんと苦手そうにしてるな)と目で窺ったジャレックライズは、乙女を見やった。

「アタシはジャレックライズ。あんた、そういうのが得意ってのは、どういうことだ?」

「そうですね……。明咲さんが琵琶で霊をしりぞけるように、ワタシも特別なことができるのです。それが、ほかの世界へ渡ることです」

「そんなことできるのか」

「かなり特殊だけどな」カクトが言う。

 表情を取り繕うのに意識を割いていた明咲は、ふと我に返り、おずおずと問いかけた。

「……あの、乙女さんもむこうに行くんなら、渡良瀬くんとジャレックライズちゃんは、やっぱりこっちで待っててもらえばよくないですか? ほかの世界って、危険すぎます」

「アタシにはコトハがあるから問題ない」ジャレックライズは不満そうに口をとがらせる。

「いやいや、うまくつかえないんでしょ? あぶないよ。ここはおねえさんたちに任せてもらって……」

 説得しようとした明咲の言葉を、カクトが遮る。

「いや、ふたりにも行ってもらうぞ」

「ほんとうにそのつもりなんですか? でも、ジャレックライズちゃんはわからないですけど、竜生くんは未成年ですよ? そんな未知の場所に行かせるなんて……。わたしだって、怖くてしょうがないのに!」

「なんだ、怖いのか?」

 カクトが意外そうにまぶたを持ちあげると、明咲の頬がピクリと跳ねた。ついで目が据わる。竜生とジャレックライズは、彼女が感情を荒立たせるのをはじめて目にした。

「あたりまえじゃないですか! これからどこに行くのかも、何が待ち構えているのかも、何にもわからないんですよ? わたしが霊能力を仕事にしていて、霊に対抗できる術があるから行きますけど、逃げていいなら逃げてますよ!」

「そうかい。責任感があってすばらしいことだ」

「どうも!」

 吐き捨てる明咲に、カクトはカラカラとわらった。暖簾に腕押しとはまさにこのこと。説得すべき相手はべつにいると悟り、明咲は竜生の目を真摯に見つめた。

「竜生くん。わたしたちは絶対の安全を保障してあげられない。命の危険があるって、わかってる? それなのに、他人のために命をかけるの? 竜生くんがまったくしらない場所で命を落としたりしたら、ご家族はどう思う? ……もしかしたら、自分の命を惜しんでくれる人はいないって、そう感じてるのかもしれない。でもわたしは、君の命に重みを感じてるよ」

 明咲は待機するよう言葉を尽くしたが、竜生はどうしてもうなずくことはできなかった。視線がさがりそうになるが、決意を疑われたくなくて、彼女をまっすぐ見つめ返した。

「俺は……、他人のために、仲間さんのために命をかけるんじゃありません。俺は、俺のために命をかけるんです。何かしたいって、そう思わずにはいられない、神頼みをするだけじゃ満足できない自分のために、ここにいる。誰かのために――なんて、俺の選択の責任を、人になすりつけたりはしません」

 ふらふらと迷いながら言葉を選んだ演説は、不器用でいて、どこまでもまじめな竜生の本質がよく表れていた。

 カクトが口笛を吹く。

「かっこいいじゃん」

「師匠……」

 めったになく視線で咎めてくる明咲に、カクトは肩をすくめた。

「そうは言ってもな。ジャレックライズは、まずもって恩返しをしないことには帰る方法を見つけても帰れないだろ? だから今回は率先して動かないといけない。それにタツキも。人魚になった少女との縁をつなぐ人間がいないと、声を見つけられない。

 そういうわけで、ふたりが待機するのは論外なんだ。ふたりとも、初対面の相手に委ねるのは不安だろうけど、協力してくれ」

 ジャレックライズと竜生がうなずくのを、明咲は渋い顔で見つめていたが、どうにか不満を飲みこんだ。

「そう、ですか……。わかりました……。人魚症候群になった子の命も、猶予はないですもんね」

「ああ。だから四人全員でもどってきてくれよ。

 それにな、オレだってこんな少人数で、しかも半数が子どもなのに、ぶっつけ本番で危険な場所へ送りこもうとは思わないさ。さっき桃源郷の話しただろ? お前らが行くのも、そういう場所だからそんなに気負うなって」

「桃源郷? そうなんですか? ほんとうに……?」強張りが解け、明咲の表情に親しみやすさがもどってくる。

「ああ。ガージュは危険を察知して、べつの世界へ逃げこんだんだ。安全が確保されてないと意味ないだろ」

「あっ、そっか! たしかに! そう考えると、すこし気が楽になりました。まあ、師匠もいてくれるんだし……、ん? 四人?」

 明咲はそこで目をまたたいて、竜生、ジャレックライズ、乙女、そして自分と、一人一人指差していき、最後にカクトへ指をむけた。そして四人の内訳を悟り、パカリと拳大に口をあけた。

「……師匠は? 師匠はこないんですか!?」

「そりゃあな。全員で行って、万が一にでも迷子になったら困るだろ? そういう時、こっちとの縁をつなぐやつがいないと」

「それならなおさら、わたしよりよりもよっぽど頼りになる師匠が同行したほうが、絶対いいじゃないですか! いや、行きたくないとかではなく! 成功確率が段違いだと思うんですけど!」どんどん声量が大きくなる。

「俺がいたところで何もできねえよ。まあ、気持ちはわかる。お前らは不測の事態にも対処できるだろうが、今回は非日常に慣れてないのがふたりもいる。けどだからこそ、帰り道は頑強でなくちゃいけないんだ。そのためには、乙女との縁が一番つよいオレが、残らないとだろ?」

 明咲は肩を落とした。弟子がいくら疑問を広げて訴えてみても、納得のいく答えは用意されているのだ。

「わかりました……。じゃあ、せめて、せめて普段の乙女さんになってくださいよ!」

 悲痛にも感じる声で叫ぶ。乙女はつぶらな瞳をぱちくりとまたたいた。

「わたし、ですか?」

「普段の?」

「なんだそれ」

 竜生とジャレックライズは目を見合わせる。明咲はうなだれた。

「わたしたち、今日知り合ったばかりなんですよ? それなのにほかの世界だなんて、未知数の場所を訪れるんです。信頼はむずかしくても、なるべく協力して事にあたりたいじゃないですか!」

 それを……! と言って、音の鳴りそうなほど勢いよく、乙女へ人差し指をむけた。

「この近づきがたい美貌に、そのおしとやかな性格で、委縮しないほうがムリですって!」

「アッハ!」

 破裂音のような声でわらった乙女に、四人の視線がつき刺さる。乙女はそっと口に手を当て、聞き間違いかと思うほどしとやかに微笑んだ。

「だそうですが」

 カクトは「あー……」と唸って、眉間をかいた。

「お前ら、乙女はとっつきにくいか?」

 ジャレックライズは小首を傾げた。

「べつに見た目はどうとも思わないけど、いまのところ頼りになるとは思えねえな」

「俺は……、あーっと」竜生は言い淀む。

「正直に答えてくれ。安全のために」

「ちょっと、緊張します……」

 ふたりの返答を聞いて、カクトは即座に今後の方針を定めた。

「なるほど、わかった。明咲の言い分を飲もう」

「それじゃあ!」明咲の瞳がかがやく。

「乙女、ふたりの前でも演技はしなくていい」

「あ、そう? 了解」

 乙女はパチリとまばたきして、そしてつぎの瞬間には、表情を一変させた。楚々とした雰囲気は風で飛ばされたかのように消え去り、溌溂とした生気に満ちる。控えめだった微笑ではなく、少年を思わせる屈託のない笑顔を浮かべて、乙女は言った。

「そんなにイヤだった?」

「嫌というか……、ただ知り合って話すだけなら何も言わないですけど、今回は特殊な状況なので。やりづらいのはちょっと……」

「ふうん、そういうものなんだ」

 好奇心旺盛な小鳥のように、つぶらな瞳をきょろきょろ動かす乙女を、ジャレックライズは胡乱げに見た。

「これが本性だってことか?」

「本性だなんて、人聞きわるくない? ワタシがああやって清楚で神秘的な女を演じてるのは、そのほうがスムーズに話が進むからだよー。あとは顔のイメージどおりの性格じゃないと、いちゃもんつけてくるやつもいてさあ。面倒でしょ? だから期待に応えてあげてんの」

「あー、なるほど……」竜生は首肯した。

 これだけ容姿が目立つとなると、たいていは高嶺の花として遠巻きにされるだろうけれど、関わる人の中には無遠慮な者も当然いるだろう。そういう輩は、理想から外れた言動を取ると勝手に失望して、裏切られたと攻撃してくる。そういった理不尽を避けるために、演技は無理からぬことだった。

 ところが同情した竜生をあざ笑うように、乙女は艶やかな髪を後ろにはらい、ニヤリとわらった。

「マ、一番の理由は、あとで演技だったってばらして、盛大に驚く顔を見るためなんだけどね。今回は早々に明かすことになってざんねん」

「えっ……」

「おい、こんなこと言ってるぞ」

 ジャレックライズが告げ口のようにカクトに言うと、乙女は彼女を正視した。その横顔を見て、竜生は気づく。乙女はあまりまばたきをしない。する時も、ずいぶんと緩慢な動作で目を閉じる。

(独特の雰囲気があるのは、こういう、人と違う面があるからなのかもな)

 観察されているとはしらず、乙女はニヤリといたずらっ子のような笑みをつくった。その表情が、あまりにカクトに似ているので、竜生はパチリと目をまたたいた。

 竜生とジャレックライズが思わず明咲へ目をやると、彼女は頭が痛いとでもいうようにこめかみをおさえた。

「悪趣味ですよ……。からかうと、かえって反感を抱く人もいるんですから。とりあえず、今回は阻止できてよかった。密かにドギマギしてたのが全部ばれてて、しかもそれを延々からかわれるのなんて、わたしだけで十分だよ……」胸元に手を当て、過去のふるまいを思い起こしてうなだれる。

 竜生はそんな明咲を気の毒そうに見やり、慰めを含めて礼を言った。

「なんか……、ありがとうございます」

「なんでもいいけど、さっきのよりはたしかに動けそうだな」

 ジャレックライズは乙女をじろじろ見つめ、うん、と満足そうにうなずいた。

 先ほどまでのなよなよとしたふるまいより、いまの覇気ある姿のほうが、となりを歩いていても気が散らない。ほかの世界へ赴こうというのに小股でちまちま歩かれては、案内役を捨て置き、好き勝手に探索してしまいそうだ。それで帰り道を失っては目も当てられない。

 明咲の進言は英断だったな、と感心していると、当の本人は疲れたように肩をさげた。

「あの、師匠。もう質問はないので、進めてください……」

「ああ。時間もかぎられてることだし、おまえらも覚悟を……って、聞く必要はないか。ジャレックライズ、竜生。ガージュが声をどこに隠したのか、なるべく正確な位置を探るから、もう一度さっきのをたのむ」

 カクトの言葉に、竜生は携帯で動画を流し、ジャレックライズはコトハ粒子を操作した。発光した針が、やはり天を示す。

「乙女、いけるか?」

「はいはーい」

 乙女は光の針を見あげながら、軽やかな足取りで廃屋へ近づくと、いまにも割れてしまいそうな木製のドアに手を伸ばした。そうして取っ手をひねる。言葉はなかった。

 そのままドアを引くと、目に飛び込んできたのは土埃の舞う室内ではなく、いくつもの亀裂がはいった暗色の岩壁だった。

(なんか聞こえる……。これ、水だ……)

 ザアザアと流れる水の音に、竜生の肌が粟立った。

 このちかくに川はない。それなのに、まるですぐそばにダムがあるのではと錯覚してしまうほど、大量の水の音が聞こえてくる。――このドアはいま、たしかにべつの世界とつながっているのだ。

 弓袋をつかむ手のひらに爪が食いこむ。浅くなる呼吸を落ち着かせようと、深呼吸した。

 カクトは竜生の背を鼓舞の意味をこめて叩き、三人の顔を順番に見やった。

 全員が、恐れや不安を皮膚の下に押し隠し、勇ましい顔つきで彼を見かえした。責任感と義務感をまとった顔だ。

 彼らのまなざしの頼もしさに、言葉は必要ないと悟る。カクトはうなずき、乙女に声をかけた。

「乙女。三人のこと、よろしくな。お前の判断に任せる。誰かの命が危ぶまれたら、なりふり構わず全員連れて帰ってこい」

「はい。たのまれました」

「気をつけてな」

「じゃあ、わたしから、行きます」

 開け放たれた扉のさきをじっと見つめて、明咲がはじめに足を踏み入れた。

 つぎにジャレックライズが、そして竜生がつづき「またあとで」と歯を見せてわらった乙女を最後に、ふたつの世界をつなぐ扉はゆっくりと閉じていった。廃村にふたたび静寂がもどる。

「ああ……。こんなに歯がゆい思いをするのはひさしぶりだな……」

 カクトは自身の手を見つめ、それから無力感に顔を手のひらで覆った。

 桃源郷に似通った場所だろう、という確信に近い推測をしても、百パーセント安全とは言い切れないのだ。だからこそ、送り出した者の責任として、不安から目をそらさずに、むき合いつづける。

 カクトは扉の前でひとりあぐらをかいて、手を組んだ。瞑目して祈る。

「あいつらが全員、無事にもどってきますように……」

 たったひとりの願いでも、ないよりはましだろう。

 カクトは心の底から叶うと信じて、思いを込めた言霊をくり返し、何度も何度も吐き出した。


















 扉をくぐると、空気がガラリと表情を変えた。四人は川べりに立っていた。

 廃村も山中にあったが、木々や花のにおいがより濃厚に広がっている。水気が皮膚をしっとりと湿らせ、ヤシの葉を揺らす涼やかな風が、緊張に絞られていた肺を動かした。日本ではまず見られないジャングルを前にして、べつの世界へ渡ったのだと実感させられる。空から地上を照らす光は、太陽ではないのだろうか。

 そんな疑問も隅に追いやられるほどの大自然に出迎えられた竜生は、言葉を忘れ、間抜けに口をあけた。

 何よりも驚かされたのは、首をそらしても、視界のすべてにおさまりきらないほどの大瀑布が、目の間に待ち受けていたことだ。飛沫や泡が光を散乱させ、雪崩のように白い水が流れ落ちていく。白い糸どころか、滝にテーブルクロスがかかっている。しかもダムの放流がかわいらしく見える勢いで、ゴウゴウと落下するために、滝の音がすべてをかき消していた。明咲が「信じられない!」と声をあげても、誰の耳にも届かない。

 彼女が無邪気にはしゃぐのも無理はない。高層ビルを易々と飲みこんでしまうほど、縦にも横にもダイナミックな滝を前に、目がくらみそうなほど感動しているのに、そのうえ奇妙なことに、川の中からいくつもの木が生えていたのだ。それらは滝に負けず劣らずの長身で、等間隔に並んでいるため、てっぺんに生い茂った枝葉も相まって、空中にぽつぽつと足場をつくっているように見えた。

 壮大な滝に圧倒されていたジャレックライズは、袖を引いた明咲が、抑えきれない興奮にパクパクと口を動かすさまを目にして呆れ顔になった。「何言ってんのかわかんねえよ」とこぼし、周囲のコトハ粒子を探った。幸いにも、この場所にもコトハ粒子は存在していて、しかも比較的扱いやすかった。

 彼女は四人の口と耳に、ホースみたいな細い流れをつくって告げた。

「コトハ粒子を操作して、それぞれの声が届くようにした。これで聞こえるだろ」

 耳に吹きこまれた声に、明咲は「あっ!」と声をあげ、ジャレックライズの肩をすばやく何度もたたいた。

「すごい! ふつうに聞こえる! たすかるよー」

「いてえよ。もっと害のない方法で感謝してくれ」

 苦情をあげるジャレックライズにひと言謝って、明咲は上空へ目をやった。木々のまわりを無数の黒い点が飛び交っている。

「この滝も壮観だけど、鳥の数もすごいね。どれだけいるんだろうってくらい、空を埋めてる……」

「なんか、思ってたのと全然ちがいました……。たしかに絶景には驚かされましたけど、もっとわけのわからない、常識の通用しない場所へ飛ばされるのかと……」竜生がぽつりと言う。

「ほんとにね。師匠がだいじょうぶって言ってたの、信じてないわけじゃなかったけど、わたしも想像とは違ったな」

 じわじわと目の前の光景を受け入れはじめたふたりに、乙女が声をかけた。

「しかもラッキーなことに、比較的安全な場所だしねー。ここは鳥たちの世界だから」

「鳥たちの世界?」竜生が復唱する。

「カクトが言ってたっしょ? まったくの異世界じゃなく、さっきまでと地続きの桃源郷みたいなものだって。だからここは、いうなれば鳥たちの楽園。鳥たちにとっての桃源郷。その証拠に、あちこちで鳥は見るけど、それ以外は全然いないでしょ? この世界をまわれば、いろんな鳥が見れるだろうね。そんな時間はないんだけど」

「うーん、興味深いけどしょうがない! 急がないとだしね!」

「こんな状況じゃなければ、ちょっとまわってみたい気もしますね」

「そうだね。怖いもの見たさだよね」

 生まれ育った地に足をつけていないという恐ろしい事実を押しのけるため、ぎこちなく雑談を交わす竜生と明咲に、乙女はあかるく言った。

「でもここに目的の物があるなら、運がいいよ」

「運がいい?」

 乙女は器用にウインクした。

「ワタシ、鳥との相性がいいんだ」

「なんだそれ」

 ジャレックライズは奇異の目で見たが、その口角はかすかにほころんでいた。乙女も目じりをやわらげる。

「さて、緊張はほぐれた? さっそく探そうか。ジャレックライズ、取られた声がどこにあるのか、正確な場所を調べよう。タツキ、歌を流して」

「わかった」

「はい」

 三回目ともなると慣れたもので、竜生が携帯を出して歌を流し、ジャレックライズはコトハでその声のつながるさきを探す。するとコトハは、滝壺からつながる川へ根を下ろした木々のうち、もっとも背が高い木の頂点を指した。

「あそこか……」ジャレックライズがコトハの示す場所を睨む。

「あんなとこに隠したってこと? そうか。取られないよう高所を選んだんだ」

「あんな高いとこ、どうやって行くんですか?」

 明咲と竜生の疑問に、乙女は馬を宥めるように手を前に出した。

「その前に、全員に言っておく」

 注目が集まったのを確認し、ふたたび口をひらく。

「いい? 声を確保したら、レイジュが取り返しにもどってくるはず。だから時間との闘いだ。レイジュとちんたらやり合う余裕はないよ。自力で世界を渡れるような力があるんだから。

 警戒もしてるって話だったよね。ひとりのコトハ粒子に執着してるから、ワタシたちを襲う時に声を奪おうとするかはわかんないけど、でも無力化しようと攻撃はしかけてくるはず」

「人数差があるとはいえ、圧倒的にむこうが有利だな。逃げちまえばどうとでもなるんだ」

「そう。だから成功させるためには、行き当たりばったりじゃなくて、事前に作戦を立てておくのがいいと思う。迅速に終わらせるために」

「作戦って、なにか策はあるんですか?」明咲が窺う。

「うん! ないね!」

 さわやかな笑みに、ジャレックライズは胡乱な目をむけた。

「なんでそんな得意げなんだよ」

「四人で考えれば思いつくでしょ。で、どうしよっか?」

 三人は顔を見合わせた。明咲が口火を切る。

「一応、わたしとジャレックライズちゃんを中心に動くべきだと思ってるんだけど。レイジュに対処できる術は、わたしたちしか持っていないし」

「そだね。ワタシ、戦闘面では役に立たないし」乙女がうなずく。

「鶴見大社では、待ち構えて対処したけど、あれはわき目もふらずわたし達を狙ってくれたからできたことで……。本来だったら事前に準備して、罠を張るんだよ。結界を張ったそこに霊をおびき寄せて、閉じ込めた状態で対処する。けど今回は見知らぬ土地だし、どこに現れるのかも予測できない。

 だからレイジュが現れた瞬間、ふたり同時に攻撃して、速攻で倒すのがいいと思う。それなら、不意打ちに相手が怯むのを期待できるし。竜生くんがたすけたい子のためにも、逃げられてまた探して……、なんてやってる余裕はないからね」

「そうだな。作戦も何もない。速攻で終わらせる」ジャレックライズが同意する。

「バカっぽいけどそれしかないかー。じゃあワタシとタツキは、声を守る係ってことだね。全力の鬼ごっこ、たのしみだなー。タツキ、つかまるなよ?」

「死ぬ気で守ります」芯のある声で答える。

「うん、うん。若さってまぶしいね!」

 意見がまとまったところで、明咲はコトハの指した樹木へ目をやった。

「……それでつぎは、あそこまでどうやって行くのか考えないとだね」

「ああ。手に入れられないんじゃあ、倒すどころの話じゃないからな。空中に階段をつくるのはどうだ? こっちに来た当初よりは、うまくコトハをつくれるぜ」

 ジャレックライズが提案すると、明咲は小首を傾げた。

「どうかなあ……。師匠の話じゃ、こっちの人間の印象とか言葉のイメージとかが、言霊になって、コトハ粒子にも影響するんだよね? わたしは階段をつくれないんじゃないかと思うんだけど……。どう思う?」

 話を振られた竜生は、あいまいにうなずいた。

「そう、ですね……。ファンタジー系のアニメとか映画では、空中に階段が浮いてたりしますけど……」

 明咲と視線を交わす。互いに考えていることはおなじだとわかった。

「それはそれとして、現実的に足元に支えがないと階段が崩れるイメージも、おなじように湧きますよね」

「そうなんだよね。イメージが共通してないと、うまくつくれないんじゃないかなあ?」

「……そうか。こっちでは空中に足場があるのはめずらしいんだったな。イメージが割れると、操れるコトハ粒子が少なくなる。……わかった。四人であそこまで登るにはそれなりの量がいるだろうから、階段はナシだ」

 肩をすくめ、何かほかに案はないか思案する。その横顔へ何度か視線をやっていた明咲は、意を決すると話しかけた。

「ねえ。レイジュと対峙する時のために、コトハにつかう言葉を決めておいたほうがいいんじゃないかな? 色のイメージをしっていれば、いまよりはやりやすくなるんじゃない?」

 ジャレックライズは宙に視線をやり、レイジュを前に言葉を探し、慌てふためく自分を想像した。

「なるほど……。それはアリだな」

「そうでしょ? じゃあ、どんなのがいいんだろう? 色とイメージが統一されているのがいいんだよね? ふたりはどう? 何か思いつく?」

 竜生はジャレックライズへ目をやり、思い浮かんだままに答えた。

「……やっぱり、火とか、炎系じゃないですか?」

「ああ。いいかも。言霊としてもダメージを与える印象があるし、火に関連してるなら色のイメージも統一されるし」

「確認するが、それはどんな色を想定してるんだ?」ジャレックライズが問う。

「ジャレックライズちゃんの髪みたいな色だよ。どう? 火に関係する日本語、おぼえてる?」

「そうだな、アタシの髪の色と火か……。時代劇とかでおぼえたし、案外いけると思う」

「そう? なら決まりだね」

 うれしそうに微笑んだ明咲は、すぐに表情を引き締め「脱線しちゃった。それで、どうやってあそこまで行くか、ですよね」と首をひねった。

 乙女が言う。

「つまりさー、そっちとこっちでイメージが合致して、なおかつ高所まで行ける方法を考えるってことだよねー」

「乙女さんは、何かあります……?」竜生がおずおずと尋ねる。

 人間らしさが希薄なこの人なら、何か妙案が浮かぶのでは――という期待があった。

「ワタシ? いやー、ワタシは自分で高いとこに行ける手段があるから、ほかの方法はてんで思いつかないなあ」

「は? なんだよ。じゃあそれで行けばいいだろ」

「ワタシにしかできないから無理! だから考えてって言ったんじゃん」

 なんだよ、と白けた目をむけるジャレックライズに、乙女は「なんだよー。できるなら最初から提案してるよー!」と嘆いて、わざとらしく口をとがらせ、さらにはふてくされた顔をつくる。

 ふたりの会話をBGMに考えこんでいた竜生は、先ほどの火の会話から、ふいに思いついて口をひらいた。

「木の、樹木のイメージはどうですか?」

「樹木?」

 三人に目でうながされ、竜生はおずおずと考えを述べた。

「コトハを足元に置いて、それで成長した木をイメージする。そうすると、高いとこに行けるんじゃないかと……」

 ジャレックライズは顎に手を当て、「アタシはイメージできるぞ。乗った木が育つイメージか。それ、奇抜だけどいいな」と口角をあげた。「わたしもわるくないと思う」と明咲も賛同する。

 しかし彼女は「ただ――」とつなげた。

「あの一番高い木、あれって何メートルある? コトハをそれだけの高さまで伸ばすの、むずかしいんじゃないかな? ジャレックライズちゃんの世界では、あそこまで木は育つ?」

「いや? けどそれがどうした? べつにアタシが想像すればどこまででも……。あー、そうだった。コトハ粒子は言霊の影響を受けてるんだったな。育つのに限界があるんだな?」

「そうだね」

「くそっ! アタシの常識と違いすぎて、全然意識に定着しねえ。いちいち忘れる!」

 ジャレックライズは乱雑に髪をかき混ぜた。赤い髪が火花を散らすように揺れる。

「面倒だな。アメンレーなら、自分のイメージだけでどうにでも、それこそ思いどおりの形をつくれるってのに。こっちではほかのやつの認識も、合わせて考慮しないといけないなんて」

「そうだね。だから制限があるなかで、できることを考えよう。……そういえば、こっちに来た時、なんかジャレックライズちゃん、羽衣みたいなので空飛んでなかった? あれは?」

「ああ、これか?」

 ジャレックライズは首元のスカーフを引っ張ってみせたが、首を横に振った。

「これは上には行けない。降下した時に、速度を落とすための道具だ。それにこっちのコトハ粒子が合わないのか、あの瞬間しかつかえなかったんだよな」

「そうなんだ」

 当てが外れて肩を落とした明咲に、乙女が案を出した。

「それならさー、比較的低い木までコトハの木で登って、そこから高いとこに移動すれば? 高低差は階段じゃなくて……、斜面ならどう? 木の頂上同士にコトハの板を置いて、つなげるイメージ! それならどんどんつなげて行けば、あの木まで登って行けるんじゃない? ……あれっ? 結構よくない?」

 指を鳴らして表情を明るくする乙女に、明咲は感心をむけた。

「アスレチックみたいな感じですか? それなら、うん。枝の端と端の間隔は、十メートルないかな? うん。そんなにないし、かなり生い茂ってるから板が乗る想像もできる。……いけると思います」

「板をかけてつなげるイメージだな? わかった。……あそこの木をスタートにするか」

 ジャレックライズは周囲を見渡し、水中ではなく大地に根差す、十五メートルほどの高さの木を選んだ。川の中で等間隔に並んだ木と、ちょうど直線状の位置にある。

 四人はその木のそばまで移動した。

 草の生えていない裸の岩が、時おり土踏まずに当たる。その痛みが、この場所が夢ではないと主張していた。


「いきなり上昇するから、全員足を踏ん張れよ」

 ジャレックライズから助言を受け、三人は肩幅に足を開き、わずかに腰をかがめた。

「いくぞ」

 その言葉の直後に足が地面から離れ、身体が上昇していく。

 竜生には、足元へ集まった茶色のコトハ粒子が、長方形の板を形成したように見えた。それがヘビ花火のように、ぐんぐん伸びていく。花火と異なるのは、まっすぐに上を目指していることだ。コトハ粒子が見えない人には、UFOへ引き上げられていく姿と見間違えられるかもしれない。

「うわー! おもしろっ! 浮いてるみたいだけど、足場はある!」

 歓喜の声をあげる乙女に、ジャレックライズはコトハをつくりながら注意した。

「はしゃいで落ちるなよ」

「そんなまぬけじゃないよー。……あれ? メイサ、なんか態勢変じゃない?」

 三人の視線が明咲に刺さる。彼女はへっぴり腰の体勢で、表情を固まらせていた。目を見開いたまま、眼前の木の肌を凝視している。

「ちょっと、わたし高いとこが苦手で……。それなのにこれ、足元が、うっすらと透けてるじゃないですか。下を見たら、わたし、一歩も動けないかもしれない……」

 そう言って、彼女は怖いもの見たさでチラリと眼下へ視線を落とした。すぐさま後悔し、焦点をもとの位置にもどして「ひぃーっ」とか細い悲鳴をあげた。

 ジャレックライズは右目に同情を、左目に呆れを宿して明咲を見た。

「そんなんでだいじょうぶか? これからあの一番高い木まで行くんだぜ?」

「うう……、わかってるけど、時間がほしい。……ジャレックライズちゃん、手を握ってください。おねがいします……」

「ハァ……。わかったよ」

 右手を差し出すと、汗でびしょびしょの手が痛いくらいにつかむ。ジャレックライズは眉をひそめたが、何も言及しなかった。

「アッハ! カクトへの土産話にしよー」

「情けない姿は、わすれてください」

「うーん、それをおぼえてたらね」

 乙女と明咲の会話を何とも言えない顔でながめている竜生に、ジャレックライズが声をかけた。

「ほら、行くぞ」

 すでにひとつ目の木へとコトハの板がかけられており、ジャレックライズは平然とその上に立っていた。手をつないでいるため、必然的につぎは明咲になる。明咲は、まるでペンギンみたいにちいさな一歩でコトハを進んだ。そして幸か不幸か、ジャレックライズに手を引かれ、強制的に歩かされることになり、ヒイ、ヒイ、とかすれた声をこぼしていた。

 竜生も、恐る恐る片足を乗せた。コツリとガラスに触れたような感覚だ。意を決し、えいやっ! と勢いをつけ、もう片方もコトハに乗る。

(稲岡さん……、これは怖いだろうな……)

 明咲と違って高所に耐性があっても、これまで触れたことのない物質へ身を任せる恐怖に、背筋が凍る。

 鈍い音を立てる心臓とおなじ速度で、十五メートルの高さにいてもまだ見あげなければならない木の天辺へとむかった。


  *


 目的の木にようやっとたどり着いた四人は、それぞれ枝を足場にして立っていた。コトハを長時間保っていられないので、明咲が嘆いてもしょうがなかった。高さと比例して、人の腕よりも何倍も太いことだけが、彼女にとって唯一の慰めだった。

 はぁ、はぁ、と荒い呼吸をくり返す明咲は、枝にしがみついて、決して地面を視界に入れないよう、きつく目をつむっていた。落ちたら確実に命はないので、足を滑らせないための策でもある。

 動けない明咲をよそに、竜生は滝から吹かれる冷たい風に腕をさすりながら、ぽつんと枝の上に置かれた鳥の巣を見おろしていた。なぜなら枝を器用に編みこんだ一メートルほどの巣にひとつ、あからさまに異質な物があるからだ。

「これは……、貝?」

 それは手のひら大の貝だった。内と外をひっくり返したみたいに、全身が螺鈿のごとく虹色に輝いている。乙女は興味津々でまぶたを持ちあげた。

「へえ! キレイだなー! これがもし目当ての物じゃなきゃ、持って帰りたいね」

「目当ての物じゃなきゃって、明らかにこれがそうだろ。それともこっちでは、樹上に貝があるのが普通なのか? それなら何もいえねえが」

「いや、普通じゃないけど……。けど本当にこれに……、仲間さんの声が……?」

「確かめてみよっか」

 乙女は何の躊躇もなく枝を足場に、巣へと近づく。「いーっ! 揺れる!」と抗議の声をあげる明咲を無視して、間近で巣をのぞいた。チカチカと光を反射した貝に、目を奪われる。

 そうしてほんのわずかに見惚れたその隙をついて、茶色い塊――一羽の鳥が、おなじく輝きに惹かれ、巣の中へ飛び込んできた。

「わっ!」

 驚きのけぞる乙女をよそに、鳥は興味深そうに貝を嘴でつっついたかと思うと、蓋を持ちあげた。聞き覚えのある声で、貝が歌う。――仲間沙穂の声だ。

 竜生は目を見開いた。「これっ!」

「やっぱりこれで間違いなかったみてえだな」

「ざんねーん」

 乙女は口をとがらせ、巣の中へ手を伸ばして貝をつかもうとした。ところが彼女の手が届くよりもはやく、鳥が貝を閉じたかと思えば、足でつかむと飛び去ってしまった。

「あっ!? 嘘だろ!」

 唖然とした三人に、いまだにまぶたをおろしていたために一部始終を見逃した明咲が、ようやく目を開けてあたりを見渡す。

「なに? どうしたの?」

「あのツバメ! それはワタシらのだぞ!」明咲が拳を突きあげて怒声を投げる。

「おい、あいつ滝にはいっていったぞ」

「やられた……」

 ジャレックライズは苦虫を噛み潰したような顔で、ツバメの消えたさきを睨んだ。ツバメが飛んでいったのは、滝の中だった。

 そして近くで滝を目にした竜生は、鳥達の桃源郷を訪れただけでも、十二分に稀有な体験をしているというのに、まだ度肝を抜かれることがあるのかと閉口した。

 見あげていた時には気づかなかったが、滝にはまるでハサミで切り取ったかのような丸い穴が、いくつも開いていた。距離があるため、直径は定かではないが、熊ぐらいまでなら通れるだろうな、と竜生は思った。

 なぜか水は穴を避けているので、白いテーブルクロスに虫食いがあるみたいに見える。その穴から、ツバメが自由に出入りしていた。

「あいつら、滝のむこうの岩壁に巣をつくってるんだよねー。その時に行き来しやすいよう、滝に穴が開いてるのかな? さすが鳥の桃源郷。発想が自由だね」と乙女が言う。

「声を持ってかれちゃった、ってことだよね?」

 明咲は頬をひきつらせた。こうなれば、レイジュよりもさきに対処しなければならない事態が起こった。どうにか己を奮い立たせ、両足に力を入れて、中腰から身体を起こす。

「どうするー?」案内役の乙女が問う。

 ジャレックライズは鼻でわらった。

「どうって、行くしかないだろ」

「ちょっと待って。一回冷静になろう」

 誰よりも震えていた明咲のセリフに、全員の視線が痛いくらいに彼女を突き刺す。明咲は気まずそうに口を引き結び(いやいや、恥ずかしがってる場合じゃない!)と頭を振って、意見を出した。

「どうやってあそこまで行くつもり? この木に登るのだって、どうにかやっとって感じだったのに。さっきも言ったけど、階段とかはつくれないんだよ?」

「ああ。けどひとつ、この木まで来れたおかげで、確かなことはわかっただろ? 道はつくれた」

 自信満々の語り口に、明咲は顔をしかめた。

「道って、あれは木と木の距離がそこまで離れてなかったからつくれたんでしょ? ここからじゃ滝のむこうまで距離がありすぎる。道も階段も変わらないよ。宙に浮かせられるとは思えない」

「まあ聞けよ。要はさ、消える前に移動すればいいんだ」

「どういうこと?」乙女が尋ねる。

「足元に何枚もコトハを重ねる。そうすれば、壊れても足場がありつづけるだろ?」

「……そんなこと、可能なの? もといた世界と違うから、うまくつくれないって話だったのに」

 明咲の疑問に、ジャレックライズは「そうだな」とあっさり同意した。それならなぜ、と訝しがった面々に、彼女は片方の口角を下まつ毛につきそうなほど、グイッと持ちあげてわらった。

「だから、全力で走ってくれ」

 竜生はいまの発言を脳内で咀嚼し、痙攣したかのように顔を引きつらせた。彼女はとんでもないことを提案している。

「……それは、だからつまり、俺たちが走っている場所だけに、足場ができるってことだよな?」

「そんな一か八かに駆けるなんて、リスクが高すぎる!」

 とても許可できない、と頭を振る明咲に、ジャレックライズは肩をすくめた。

「つってもな。ほかに案はあるか?」

 明咲は何か言おうとして、しかし音にならずに口を閉じた。そこへ乙女がジャレックライズに加勢する。

「リスクはあるけどさー、ちんたらしてる暇ないよ? 隠してたとこからあのツバメが持ってっちゃったから、レイジュがいつ現れてもおかしくない。そうしたら、またべつの場所に逃げられて、今度はもっと巧妙に隠されるかもよ」

(マァ、もし全員落ちたら……、しょうがない。ワタシがたすけるしかないよねー。たすける術がなかったら、カクトに任されてるのにこんな危険なこと提案しない、とは言わないけど。だってこんな機会じゃなきゃ、空中を走るなんてできないもんね!)

 内心を隠して挑発的に微笑む乙女に、明咲は言葉を探した。

「それは……」

「覚悟を決めろ。アタシは決めたぜ」

 ジャレックライズと乙女だけでなく、時間がないとしった竜生までもが、黒目を濃くして眼光を強めるので、明咲は両手で顔を覆って、最後の抵抗に不満を叫んだ。

「あー!! あのツバメが取っていかなければ、こんな危険はなかったのに!!」

 腹から不満を吐き出し、顔をあげる。瞳に揺らぎはなかった。

「わかった。行こう」

 ジャレックライズは一瞬だけ口角をあげ、つぎには表情を引き締めた。

「よしっ! 縦に一列で並べ。横だと速度の差で距離ができた時、カバーしきれない。殿はアタシが務める。

 それと、コトハ粒子がなくなったら一巻の終わりだからな。言葉を吐きだしながらで頼む。あんま意味のない、たとえば……、そうだな。『おねがいします』だとかは、あいまいすぎてコトダマになりづらいだろ。そういうの以外でよろしく」

「了解」明咲がうなずく。

「じゃあ、ワタシが先頭になろっかな。いい?」

 目を細める乙女に、三人はうなずく。。

「全速力でいいんだよね?」

「ああ。あんまり離れたら、明咲、お前が呼びかけてくれ」

「わかった。乙女さんのつぎが竜生くん、そのつぎにわたしが走る」

「わかりました」

 竜生は一度目を閉じて、ふーっと長息を吐くと、ふたたびまぶたをあげた。

 目眩が起きそうなほどの緊張に見舞われているのに、逃げ出す気は起きない。自分でもふしぎだった。論理の埒外にある現象の数々に、恐怖心が麻痺しているのかもしれない。それでも「仲間沙穂の声を取りもどす」という目的を思い出すたび、灯火のように尽きそうになっていた活力が、どこからともなく湧いてきて、指のさきまで満たすのだ。

 明咲は気合を入れるため、腕をぐるぐると回した。

「オッケー。それじゃ、ジャレックライズ。準備できたら言って!」

「ああ。スタートに遅れないよう、簡易の足場をつくる。乗ってくれ」

 彼女の指示で、枝からコトハへ移動し、一列に並ぶ。

「いつでもいいぞ!」

「はーい! じゃあ、行くよ!」

 グッ、と足に力をこめ、乙女は駆け出した。置いていかれないように、震える手を握りこんで、竜生と明咲も順番に飛び出す。

「怖い、怖い、怖い!」と叫ぶ明咲、

「頑丈! 丈夫! 壊れない!」と言霊を意識する竜生、

「アハハッ! スリル満点! 空中を走るなんて、面白すぎるー!」とはしゃぎ、感情そのものを吐き出す乙女と、三者三様の言葉を口にしながら、空に浮かんだ道を駆ける。

 つぎに踏み出した時に足が抜け落ちるかもしれないという、生きた心地のしない想像を振り払い、無我夢中で走る。

 全力疾走しながら足場のコトハを前方へのばしていくジャレックライズは、目を血走らせていた。身体は手足に任せ、思考はコトハを途切れさせないことだけに集中する。彼女には、自分の足元が消失する恐怖を感じている余裕などなかった。――ひたすらに走る。ひたすらにコトハをつくる。


 滝まで来れば、ツバメの逃げ込んだ岩壁までは距離が短い。岩壁にも穴が開いていて、ツバメはそこに逃げこんだのだとわかる。あとはそこへ飛び込むだけだと、四人全員の心に希望が差しこむも、想定していない事態が起こった。

 滝から飛び散る大量の水によって、足場のコトハが滑る。穴からは落ちてこないけれど、いかんせん莫大な水量のため、濡れるのを避けることができない。

 歯を食いしばり、足元を気にかけながら走る。視界がにじみ、速度が落ちる。

 そのせいで、ただでさえ複数の作業を同時に行っていたジャレックライズの集中力が乱れた。――左足が滑る。

(まずいっ……!)

 彼女はとっさに出した右足で踏ん張り、バランスを取った。そしていまの動揺で短くなってしまったコトハへ足をつくのは不可能だと、瞬時に判断した。新たにつなげる余裕はなかった。彼女は驚異的な瞬発力で、ちょうど左足が踏みしめる場所にだけ、コトハの足場をつくると、思いきり蹴って、まだ消えていなかった前方のコトハに飛び移った。

 三人はすでに、岩壁にあいた穴へと到達していた。もう目と鼻の先だ。彼らの分のコトハをつくる必要はなく、自分のことに集中すればいい。

 ジャレックライズには、もはや道をつくれるほどの思考力は残っていなかった。だからただ、自分の足元にだけコトハをつくり、飛ぶように駆けた。

 しかし強く蹴りあげた弊害に、またも水のせいで足を滑らせてしまう。身体が落ちる。三人が四つん這いになり、必死の形相で手を伸ばしているのが、いやにゆっくりと認識できる。何かを叫んでいるが、聞き取れない。

(だめだ……、頭が働かない。粒子が散らばる……)

 コトハはもうつくれない。ジャレックライズは歯を食いしばり、なけなしの力をすべて、まだ足場に乗っていた右足にこめて、ジャンプした。――わずかに距離が足りない。

 ジャレックライズは最後の気合で、つま先分の足場をつくったが、それも滑る。

(岩壁に届けば……!)

 ――その時「四人とも」が手を伸ばしていた。

 ジャレックライズの右手を明咲がつかんだ。明咲の左手を乙女が、もう片手を竜生が、同時につかみ、壁の中にいる三人が、死に物狂いで自分の手がつかんだものを引っ張った。

「ワアァーッ!!!」

 腹から振り絞った声が反響する。

 気づいた時には、ジャレックライズは硬い場所で腹這いになっていた。無事に引っ張りあげてもらえたのだと、岩が刺さった頬をつりあげ弱弱しくわらう。

 荒い呼吸音だけが、四人の耳に届いていた。

 滝のせいだけでなく、全身は汗によってぐっしょりと濡れていたが、彼らは構わずその場に転がった。

 しばらくの間、誰も口を利くことができなかった。


  *


 震える腕を支えに起きあがり、明咲は薄笑いを浮かべて言った。

「わたしたち……、いいチームに、なってきたんじゃない?」

「あー、ハハッ。いまのは、すごかったね」

 乙女は大の字に転がり、ぼうっと天井を見あげた。

 その横で、ようやく言葉を吐き出す力がもどってきたことに気づいた竜生は「手汗が、やばいです……」と手を何度も開閉し、命と腕が無事だったことを確かめた。弓がけを外して汗を拭いたいが、そのせいで好機を逃したらと思うと躊躇する。

(帰ったら、しっかり手入れしよう……)と考えたところで、当たり前に帰還すると想定している自分に気づき、フッと笑みの混ざった吐息を落とした。

 ジャレックライズは疲弊しきって、何度も深呼吸をくり返していたけれど、どうにか呼吸の合間に「たすかった……」と礼を言った。

「お互いにね」

 明咲は岩肌にすがりながら、竜生とジャレックライズもよろめきながら立ちあがる。

「……それで?」

 乙女は岩壁内を見渡した。「あの横取り鳥はどこ行ったって?」

 岩壁内は、洞窟さながらに奥行きのある空間で、十メートルほどの高さを確保している。意外にも緑にあふれており、蔦や葉が好き好きに伸び、天井にはツバメの巣がちらほら見える。その天井にもやはり穴が開いていて、木漏れ日のようにやわらかな明かりを提供していた。

 明咲は焦れる気持ちのまま、自分の唇を人差し指で何度もたたいた。

「まずいよ。はやく見つけないと、いよいよレイジュが勘づくかも」

「そうだな。おい、コトハで探すぞ」

 ジャレックライズが竜生に声をかけ、動画の声を使ってコトハで探すと、ひとつの巣へ伸びていく。さほど距離がないことに安堵して、四人は痛む身体に鞭打つと、外と変わらないちいさなジャングルをかき分け、巣の下へむかった。

「……ここまで来たは、いいものの、これ、どうやって返してもらおうか?」

「さすがにあの巣を壊すのは、気が引けますね……」

「適当に、巣から出るようにしむければいいんじゃねえか?」

 巣を見あげならあれこれ相談している三人をしり目に、乙女が得意げに胸をそらした。

「そんなことする必要ないって。ワタシに任せなさい! ……おーい! そこのツバメやい!」

 口の横に手を当てて声を張ると、巣の中からひょっこりとツバメが顔を出した。

「なんだ。ニンゲンの姿なんかで、変なヤツラだ。なんの用だ」

「えっ、しゃべった……」

 はじめから敵意がむき出しなことよりも、人の言葉を操ることに目を丸くした三人に、乙女は「ここは理想郷だから、言葉は通じるんだよ。あと言ったじゃん? 鳥との相性はいいってさ」とわらって、交渉役を買って出た。目を眇めてツバメを見る。

「キミ、さっき貝を拾ったでしょ? あれはワタシたちの探し物なんだよ。わるいんだけど、それをくれないかなー?」

「イヤだね! これはオレが、メスに番になってもらうために使うんだ! この声なら、オレを選んでくれるに違いない!」甲高い声が返事をする。

「鳥も魅了するって、竜生くんが助けたい子、すごい歌声だね」と感嘆した明咲に耳打ちされ、うれしいような、返してほしいので複雑なような、微妙な気持ちで竜生は「そう、ですね」と相槌を打った。

 明咲が説得をつづける。

「それは持ってると危険なものだから、手放したほうがいいよー。オスなら自分の魅力で勝負しなよ!」

「オレが見つけたんだ! それこそオレの魅力だろ!」

「……たしかに」

 あっさりと納得させられた乙女に、ジャレックライズは思わず、おい、と注意した。

 乙女が「ごめん、ごめん」と謝ると、優位に立ったと思ったツバメは「だいたい、ニンゲンの姿をしてるような軟弱なヤツラに何言われても、渡さないね。見ろ! みんな警戒してるんだぞ!」と羽を広げて威嚇した。

 うながされるまま、周囲を見渡す。――四方八方から、小さな黒目に見つめられている。

 肩を跳ねさせ、そろりと後退りする。ところが怯んだ三人をよそに、乙女は顎をあげて、高慢そうな笑みをつくった。

「人の姿をとっているのは修行のためだからなー。ワタシたちは街中に住んでるから。むしろほかの言語を操って人間を騙してるんだから、こっちのほうがすごいでしょ」

「……たしかに」

 さきほどの乙女同様、すなおに認めるツバメに、

「すなおだな」

「ちょろいですね」

「これなら返してもらえるんじゃない?」

 と乙女を抜かした三人でひそひそと話していたが、しかしツバメのすぐそばに、紫色の靄が現れたことで「あれって!」と表情を強張らせた。――レイジュだ。

 何もない空間から、人の頭がズルズルと出てきたかと思えば、巣にむかって首をのばしはじめた。もしも竜生の弟がこの場にいたら、ホラー番組を見ていた時に負けず劣らず絶叫するだろう。

 作戦は短期決戦だ。相手の出方を窺うことはせず、明咲は背中のケースから琵琶を取り出し、バチで弦を叩いた。平家物語の一節が洞窟内に反響する。

鬼火六連おにびろくれん!』

 ジャレックライズも即座に周囲のコトハ粒子を固めた。シリンダーに装填された弾のように、空中に赤いコトハが六つ、揺らめきながら浮かぶ。しかし、まだレイジュは上半身までしか出てきていない。倒すには、同時に全体へ攻撃しなければならない。

「くそっ! あいつわざとやってんのか? しかも神社のやつよりでかいじゃねえか! どんだけ歌を聞いたんだ。鑑賞会でもやってたのか?」

 焦燥を口にしながら、ジャレックライズは頭を動かす。(どうにか複数のコトハをつくれたが、明咲の言霊と合わせればいけるか?)

 緊迫した様子に「な、なんだよ!」とツバメはうろたえた。レイジュが腕を伸ばしていることに気づいていない。

「まずい! ……おい! 死にたくないならそれをこっちに寄こしな!」乙女が叫ぶ。

 強い口調にムッとしたツバメは、「イヤだね! これがほしいんなら取ってみろ!」と言って、貝を嘴で押して巣の端に乗せた。――レイジュの首が、貝へと焦点を定める。六本に増えた腕と首とが、いっせいにツバメへむかって突進した。

 乙女は舌打ちすると、「借りるぜ!」と言って、琵琶ケースをつかみ、巣にむかって投擲した。――明咲は歌っていたために何も言えず、ただただ目を見開いていた。

 そのまま落下してきた巣とツバメの両方に飛びかかると、乙女はふたつを抱えたまま地面を転がった。乙女が避けなければ、落下地点に上体部分を落としたレイジュに捕まっていただろう。腕を二本首を一本に減らし半身のみになったレイジュは、ゆらりと起きあがった。

「なんだ、なんだ!」

 騒ぐツバメは、乙女の腕の中からレイジュを目にして、銅像のようにピキリと硬直した。「だから言っただろ」とぼやいた乙女はつづけて「わるいっ! 作戦を台無しにしちゃった!」と声を張る。

 明咲の言霊とジャレックライズのコトハは、ガージュの出現した場所にぶつけられていたが、乙女がツバメをたすけようと介入したことで、ガージュは上半身をちぎったため、わずかに身を削るだけで終わったのだ。しかしふたりは首を横に振った。

「いいえ! ナイス判断でした!」

「台無しにされたおぼえはないな」

 ふたりの返事に、乙女は歯を見せてわらった。

「サンキュー! とりあえず、貝は確保したから!」

 右手につかんだ貝をかかげる。

 ツバメは「いつの間に?」と驚愕したが「こうやって自分の実力を見せて、番をつかまえるんだよ」と乙女に言われ、キュルリと囀りを漏らした。

 乙女が立ちあがったのと同時に、レイジュの残りが世界を移動してきた。ふたつに分裂するか、あるいは人数に対応してそれ以上に増えるかと思われたが、上半身とくっつき、三メートルほどの人の姿を取った。

 それはまるで、ロングドレスを身にまとった人のようだった。ひとつの首を二本の腕で締めあげており、頭部は上向き、顎がはずれていないとおかしいほどに、口をパカリと開けている。

「うわあ……」

 嫌悪の声を漏らした竜生は、乙女のほうへ数歩近づいた。全員がレイジュを注視している。洞窟内のツバメたちも、巣の中へひっこんでおとなしい。貝を手にした乙女はいつでも動けるように、中腰で構えていた。

 互いに出方を窺っていると、突然レイジュの肩から四本の腕が生えた。そうして四人の喉元をつかもうと、鞭みたいに腕をしならせる。

 全員すぐさま飛び退いたが、座って琵琶を弾いていた明咲と、ツバメを巣ごと抱えていた乙女は避けきれず、明咲は左の前腕を、乙女は顔の右目まわりに触れられた。すると一瞬で肌が硬質化し、鱗に覆われる。

「ちょっと! こいつ、触れただけでこんなことになるのやばくない!? なんでよ!」

 鱗のせいで片目をつぶることになった乙女が、憤りを見せる。けれどギロリと睨んだ瞳の中に、かすかな迷いが揺らめいた。

(……いま? 攻撃を受けたいま、撤退すべき?)

 全員で無事にもどるため、出直して作戦を立てなおすか、もうすこし無理を通すか。

 またたきの少ないまなこで逐一状況の変化を確認しつつ、明咲へ声をかける。

「明咲は? だいじょうぶ?」

「平気です! ……それにしてもまいったね。で、ここからどうする?」

「最初と変わらねえよ。全力でやる!」

 ジャレックライズは力強く宣言し、明咲のもとに駆け寄った。

「でも近距離じゃ、むしろむこうが有利だよ。こっちが捕まる。けど距離があると、逃げられちゃうし……」

「アタシに考えがある! オトメ! タツキ! ふたりでそれを守れ! 手放すなよ!」

「りょうかーい! それくらいしかできないしね! タツキ! ふたりで交互に貝を持って逃げよう!」

「わかりました!」

 ほかを無視し、貝へと標的を定めたレイジュが、ふたりを追いかける。時に覆いかぶさるように、時に先ほどみたいに腕を伸ばして捕まえようとするも、植物が壁になってなかなか取り返せない。

 その攻防を目で追いながら、「どうするの?」と尋ねる明咲に、ジャレックライズはべつの問いを投げた。

「明咲。お前のコトダマって、物体にまとわせることはできるのか?」

 予期せぬ発言に面食らいつつ「できるけど、ほんの数秒しか留まってくれないよ?」と明咲が答えれば「できるんだな? 十分だ。それから、もうひとつ。お前のそのコトダマの力をつかえば、あの大きさでも動きを止められるか?」と質問を重ねる。

「止めるだけでいいの? それならできる。……でも空中ではむずかしいかな」

「ああ、それでいい」

 苦い顔をする明咲に、ジャレックライズは瞳をのぞいてしっかりとうなずいた。

「おーい! 話はまとまったのかー?」

 乙女が叫ぶ。

 ジャレックライズたちは、ほんのつかの間目を離した隙に変化していた光景に目を丸くした。

 洞窟内をツバメが飛び回り、竜生と乙女の目くらましになっていた。――乙女の抱える巣に身を潜めたツバメが、ガージュのじゃまをするよう仲間に助太刀を頼んだのだ。いまは竜生の手に貝があり、背を低くして逃げていた。

 ジャレックライズが声を張る。

「もうすこしもたせてくれ! ……タツキ!」

 呼ばれた竜生は、ガージュの攻撃を寸前で避けてから顔をむけた。ジャレックライズが言う。――「できるか?」

 その問いで、竜生は彼女の言いたいことを理解した。ガージュに視線を突き刺したまま、ひと言告げる。

「できる」

 深いうなずきに、ジャレックライズはニヤリと口角を持ちあげた。

「タツキ! それは乙女に任せてこっちに来い!」

「わかった! おねがいします!」

「任された!」

 滑るように駆けた乙女が、竜生の手から貝を受け取る。

「おーい! こっちにあるぞ!」

 乙女が腕を大きく振って引きつけている間に、竜生はジャレックライズたちのもとへ走った。

 ジャレックライズは竜生の目を見て言った。

「お前の矢にコトダマをつけて、ガージュを射抜く。すこしでも動きを止めれば、分裂する前にアタシがかならず仕留めてみせる」

「わかった」

 うなずいて、弓袋から弓を取りだした竜生は、一瞬悩んで、破魔弓ではなく普段から使用して手になじんでいる弓を、そして破魔矢をつかんだ。紅白と金というめでたい色が目にはいり、ふしぎと心強さが胸に溜まる。

「魔を祓い、幸福を射止める……」

 竜生がひとりつぶやく声に、ジャレックライズの言葉がかぶさった。

「あいつが壁を背にした時だ。明咲、ちょうどいいタイミングで言霊をつけてくれ」

「結構むずかしいこと頼むじゃん! 失敗しても怒らないでよ!」

「心配するな。矢の分だけは失敗できる」

「あー、それなら安心だね!」

 投げやりに言って、ガージュを睨む。

「だそうだから、竜生くん! あんまり気負わないでね」

「はい!」

 足を開き、破魔矢を弓に番える。すくうように両腕を挙げ、息を止めずに発射のタイミングを待つ。ギチギチと弦が張り、緊迫感を呷る。

あたる、中る、中る、中る……」

 自分ひとりの言葉に、言霊が宿ることはないだろう。それでも竜生は言葉を音にした。

 的中させようとする欲を捨て、平常心を保つことが弓道の精神だ。だけどいまは、無心とは真逆を目指している。けれどそれでいい。相手は動かぬ的ではなく、これは弓道ではないのだ。

 言葉には力がある。――力を持たせるのは自分だ。

 竜生は目をすがめ、レイジュの動きに弓を合わせる。

 闘志に満ちた三人の気配を感じ取り、逃げまわっていた乙女は首を後ろへそらし、いよいよ窮状を訴えた。

「あー! ワタシは普段足を使わないんだって! そろそろ限界だよ!」

「乙女! そいつを壁に近づけてくれ!」

「はいはーい!」

 竜生と明咲はまばたきせずに、レイジュへ目をそそいだ。

 壁を背にした乙女は、追い詰められたかのように壁面に張りつき「あー、まずいー! このままじゃ、声を、奪われるー」と、若干感情の乗らない声で言う。企みを悟り、明咲は鱗で動かしづらい手の代わりに、肘で琵琶を支え、言霊をつむぐ。

 演技と気づかず、ツバメは羽を広げてたすけようとしたが、乙女は「いいから、ここにいて!」と頭を押さえた。その一瞬、わずかに目線を落とした隙に、レイジュが突進する。しかし乙女はすかさず察知し、驚異的な反射神経でレイジュの腕の下をくぐるように、前方へ飛びこんだ。反対に、レイジュが岩壁に勢いよくつっこむ。

(いまだ!)

 岩壁へめりこんでいるレイジュへ矢を放つ。しなった弦が弓(ゆ)幹(がら)に当たり、バチンッと音が鳴る。

 破魔矢は砂に潜るドジョウのように左右へ振れながら、レイジュの腹部目掛けて飛んでいった。明咲の言霊によって、矢尻が黒く変色している。

 しかし相手も、世界を移動するほどのレイジュだ。ただではやられず、ぶつかった衝撃に鈍る身体を動かして、矢を避けるために飛びのいた。

「あっ!」

 矢の軌道から完全に外れている。

(くそっ! やっぱり動かない的しか中てられないのか。弓道と狩猟じゃ必要な技術が全然違うから……)

 悔しさに顔を歪めた竜生は、しかしつぎに瞠目した。

『ずらせっ!』

 ジャレックライズの飛ばした細長いベージュ色のコトハがふたつ、矢羽根をつまむと、ダーツを投げるように力いっぱい矢を押し出した。曲線を描いて落下していた軌道は上向き、勢いによって速度も取りもどした破魔矢は、レイジュの足をとらえ、壁に縫いとめた。

 ジャレックライズはさらに声を張りあげた。

『すべてを塵に……! 焼尽浄火しょうじんじょうか!』

 煌々とした焔光のごときコトハが、レイジュを包む。

 レイジュは矢の刺さったところから分裂しようとしたが、矢尻からガージュの全身へ黒い網状のものが這い、その場に押し留める。

 もう遅かった。コトハ粒子をとりこめきれず、身体が空気へ溶けていく。諦めわるく、距離の近い乙女から吐き出されるコトハ粒子へ、その身を伸ばしたが、延焼するようにコトハが広がり、崩れていく。

 やがて四人が見守る中、レイジュの姿はわずかにも残らず消失した。


 竜生は脱力し、弓を腕に抱えた。

「うまくいった、んですよね?」

 まじまじと目を凝らしていた明咲は、うん、と首を縦に振った。

「そうだね。取りこぼしはないみたい。……あー、よかった。その矢を無駄にせずにすんだよ」

「髪がぼさぼさになっちゃった。こんなに走ったのひさしぶりだなあ」髪を手櫛でとかしながら、乙女が三人のもとへ歩み寄る。

「やっぱりわたしたち、いいチームだったでしょ」

 明咲が晴れやかにわらう。さあな、と肩をすくめたジャレックライズは、差し出された手のひらに眉をひそめた。

「なんだそれ?」

「うまくいった時に、こうやって手のひらを合わせて叩くの」

 明咲は自分の手で実践してみせた。

「これ。ハイタッチ。海外ではね、勝負に勝った時とか、褒める時とか、気持ちを分かち合う時によくやるんだけど、わたしはやったことなくて。子どもの頃に映画で見てから、ちょっと憧れてたんだよね」

「……遠慮しとく」

「なんで!? ……いや、わかった。じゃあ手の甲を合わせるだけのでもいい! こうやって拳を握ってね? お互いの甲を、こう……、コツンッって! どう? こっちなら簡単だし」

 ワァワァと喚く明咲を無視して、ジャレックライズは首筋をかいた。

「それで? その貝を持って帰ればいいのか?」

「そうだね。とりあえず、帰り道を――」

 滝へ目をやり、思案した乙女に、チリチリと不穏なさざめきが重なる。

「弓だ」

「弓矢だ」

「アレを殺した」

「つぎはワタシたちだ」

 穴の中に反響する囀りに、明咲は「な、なに?」と怯えながらきょろきょろとあたりを見渡した。

「上だよ、上」

 のんきな声で告げた乙女以外の三人は、ハッと気づいた顔で天井を見あげた。ツバメたちが、忌々しそうに四人を見おろしている。

「まあねー。鳥に弓矢は警戒されるよねー」

「見りゃわかる! どうするんだ、これ!」ジャレックライズは苛立ちに声を張る。

「どうするって、アハッ! そんなの一択でしょうよ! 逃げるが勝ちってやつ!」

 乙女が迷いなく走り出し、慌てて三人もその背に続く。もう一歩も動きたくなかったが、そんな不満をもらせるはずもなく、ツバメたちは弓矢を警戒し、距離をあけながら四人を追いかけてきた。

 チラリと後方へ目をやった明咲は、黒い波が押し寄せてくる錯覚に頬を引きつらせ、急いで顔を前にもどした。

「やばい、やばい! どうするのこれ! 数が多すぎるよ!」

「いまは様子見してるけど、こっちに手立てがないとわかると、急襲してきそうだな」

 冷静に見せて、背中に冷や汗を垂らすジャレックライズは(このまま走って滝のとこまでたどり着いても、来た時のようにコトハをつくれる力は残ってないぞ……)と焦燥に口を歪めた。

 そこへ、乙女の肩を止まり木にしていたツバメが声をあげた。

「おい、おい!」

「どしたの?」乙女が問う。

 乙女の手の中の貝を嘴で指して、ツバメは言った。

「それは、お前に返してやる。だから、オレと番になってくれ!」

 一瞬、四人は足を止めそうになった。ここまで困難を乗り越えてきた気概が彼らを走らせるが、わずかに沈黙が落ちる。

「えっ、まじか」

 ぽつりと漏れた竜生の声は、口説き文句を吐き出すツバメには届かない。

「お前みたいな強いメスなら、オレの子もしっかり守ってくれるだろ!」

「すごい場面に遭遇しちゃった……!」

「走りながら何やってんだ。おい、もう逃げ場がないぞ!」

 明咲とジャレックライズはそれぞれに困惑を口にする。穴の際まで到着し、四人は足を止めた。すぐ眼前を滝が落ちていく。

 危機的状況で繰り広げられる喜劇のようなやり取りに、乙女は愉快な気持ちのままに「アッハッハ!」と声をあげてわらった。

「わるいね、ツバメくん。ワタシは産ませる側だから、キミとの子は無理だねー」

 にっこりと微笑んだ、乙女の口から飛び出したセリフに、今度こそ数拍の間が生まれる。いまの発言が、脳内で何度も再生される。(産ませる側……?)

「……え?」

「はあ?」

「あー……」

 呆気にとられる竜生とジャレックライズの横で、乙女の性別をこの中でただひとりしっていた明咲が、哀れんだ目でふたりと一羽を見た。

 ツバメは気の毒なほどブルブルと震えた。

「オス、なのか? た、たしかに、尾羽が長いとは思ってた……!」

「……髪のことか? あれが尾羽判定なのか」ジャレックライズは胡乱な目で乙女の髪を見つめた。

「嘴も赤いし……!」

「ほんとにねー。あれで何にも塗ってないっていうんだから、いやになるよねー」明咲がうつろな目で投げやりにいう。

「んっふっふ! いい驚きっぷりだねー。この顔を見るのがたのしいんだよなあ」

「わたしもどれだけ驚かされたか……!」

 明咲は口元を手で覆い、まるで悲劇が繰り広げられたかのように悲痛な声をあげる。ジャレックライズは白けた目でふたりを流し見したが、すぐにあたりを囲む気配が蠢いたことで、警戒心を持ちなおした。

「おいっ! なんか突き落そうとしてないかっ?」

 数で押されたら、容易に滝つぼへ落ちる。ショックで硬直しているツバメを地面におろすと、乙女は笑みを薄めてうなずいた。

「そうだね。そういうことだから、キミ、ほかのツバメを探してね! ワタシたちはもとの住処に帰るから!」

「帰るって、でも扉はないし、どうやって……」衝撃から引きもどされた竜生が尋ねる。

「全員、手をつないでー」

 えっ、困惑する三人へ、乙女は「ほらほら、はやく!」と急き立て、ツバメたちに背をむけた状態で手をつながせる。前方の切り立った崖まで十メートル。

「じゃあ、行くよー!」

 あまりに軽快な掛け声で、乙女は滝へむかってまっすぐ、コトハの道もないのに走り出した。つながれた手が引っ張られ、三人も足を動かすほかない。

「……待て、待て待て待て!」

「乙女さんっ!? ほんとに? ほんとにこの方法で?」

 ジャレックライズと明咲は、乙女の思惑を察し、恐怖に顔を青ざめた。つま先に力をこめるが、つっかかって転びそうになるだけで、速度が落ちることはない。竜生の思考は停止しており、ふたりのように抗いもせず、訳もわからずなすがまま、どんどんと崖までの距離を縮めていく。

 現実逃避できる猶予はない。

「絶対に手を離さないでね!」

 耳鳴りをかき分けて乙女の忠告が飛びこみ、つぎには足が地面を離れていた。一瞬の浮遊感の後、抵抗の甲斐なく落下する。

「うわああぁーーーーっ!!!」

 恥も外聞もなく叫ぶことができたのは、落下した瞬間だけだった。すぐに呼吸が苦しくなって口を閉じる。発散できない死への恐れが体内に満ち、骨が折れそうになるのも構わず、汗で滑りそうになるのを離れまいと、互いの手にすがる。

 喉を潰すほどの絶叫も、滝の音に飲みこまれ、その姿が完全に見えなくなると、ツバメたちは興味をなくし、楽園での生活へともどっていった。


  *


 風が耳を塞ぐ。いつの間にか滝の音が消えていた。水をひっかぶることもない。

 濡れた身体はすっかり渇いていたが、寒さに凍えそうだった。それでもジャレックライズは無意識に、互いの声が聞こえるようコトハ粒子を操作していた。

(もしかして、もう死んでたり……)という疑問も、いまだに固く結ばれた手の痛みが否定する。

「おーい。目を開けないと、今度こそ地面に激突するよー」

 朗らかな声にうながされ、三人は恐る恐る目を開けた。

 視線の高さには空が、眼下には森が広がっている。木々の色か植生か、竜生にはそこが先ほどまでいた鳥の世界ではなく、見慣れた改井の山だとわかった。

「お、落ちてる……っ!」明咲は慄いた。

 悲鳴が口の中で潰れ、自分の握力の可能性に驚くくらい、さらに強く手を握る。

「これっ……!」

 ジャレックライズは引きつる喉を叱咤し、声を振り絞った。

「なんであそこからもどってこれたのかはしらねえが、これじゃあ状況は変わってねえじゃねえか!」

「ごめん、ごめんね竜生くんっ! 守るって約束したのに……!」

 悲壮感に満ちた顔と声で謝罪する明咲に、乙女は目を丸くした。

「なんであきらめムード? 協力すればいいじゃん」

「協力って、どうやって……」竜生はどうにか首をあげて、乙女のほうへ眼球を動かした。

「……おい、まさかとは思うが、アタシを天女だなんだっていって、期待してるんじゃないだろうな。空なんか飛べないぞ!」

「ええ? そんなんじゃないよ。そうじゃなくて、できるでしょ。三人とも、空から落ちてきた時にたすかるイメージ、あるはずなんだけど」

「イメージ?」

 乙女の言葉を咀嚼した明咲は「三人」「空から落ちた時」「たすかる」というワードを脳内でこねくり回した。そうしてふいに、さきほどの「天女」という一語とくっついて、ひらめきが迸る。

「あっ……! もしかして、ジャレックライズの時の!?」

「アタシの……?」

 怪訝な目のジャレックライズとは裏腹に、竜生の瞳にも閃光が走った。

「それって、ジャレックライズがこっちに来た時、川みたいな光に運ばれてたのを、再現するって、ことですか?」

「あの川を?」ジャレックライズが眉根を寄せる。

「そうそう。おぼえてたならよかった。あんまり長いと構築しつづけるのがキツイだろうから、カクトの顔が見えるくらいまで近づいてからにしよ」

「そんなこと、できるのか? 落下してる人間を四人も受けとめて、さらに地面まで運ばせるって……?」

「いけるって。それにさ、世界を渡った直後ってさ、ふしぎなことが起きるものなんだよ。昔話でもそうでしょ? 竹が光ったり、村にもどってきたらすごく時間が経ってたり」

「それは、物語だからで……、現実に起こせるとは……」竜生は不安に瞳を揺らす。

「あのねー、そういうのはすくなからず、事実に即してるもんなんだって」

 乙女とつながる手が、なだめるように上下に振られる。

(なんだか聞いたことがあるような……)とほかへ飛びかけた竜生の思考が「ほら! あそこ、廃村がある。カクトは……、あれだね」という発言で引きもどされた。目線をうろつかせれば、小さな人影が見える。

「あそこにむかって滑り降りるイメージでよろしく! 急流はやめてね。ゆるやかにおねがい」

「くそっ! こんなんばっかだ!」

「なんか、行き当たりばったりになっちゃうね……。でもやるしかない……。竜生くん、だいじょうぶそう?」明咲が気づかわしげに問う。

「はい。あの時の光景は、目に焼きついてるので」

「ふふっ。うん、わたしもだ」

 緊張に固まっていた顔が、ほろりとほころぶ。そして地上の廃村、そこにひとり佇むカクトへ視線をそそいだ。

「それじゃあ、いつでもどうぞ」

「ああ。……火のイメージ、火のイメージ。ああ! もうしらねえ!」

 ジャレックライズは声を荒らげ、息を吸った。


『弧を描くはコトハの川』


 しかし何も起こらない。

「……あれ?」

 明咲の声がむなしく空へ溶ける。

「あらー。なんでだろ?」

 落下しながら器用に腕を組んだ乙女に、竜生はいま目にした事実を伝えた。

「たぶん……、コトハ粒子があんまりないからかもしれないです。集まりかけて、霧散したので」

「ああ、なるほど! 上空すぎて少ないんだ! それは誤算だった。ぎりぎりの勝負になるね」

「まじかよ」ジャレックライズは頬を引きつらせた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。うまくいくって」

「なんでそんなに落ち着いてるんですか! ……あっ! もう師匠の顔がはっきり見える! やばい、やばい!」明咲が甲高い声で騒ぐ。

「あーっ! ちょっと黙れ! もう一回だ!」

 ジャレックライズは着地点へ視線をそそぎながら吠えた。息を吸う。


『弧を描くはコトハの川!』


 三度目の正直を祈ることなく、怒鳴りながらのコトハは二回目で成功した。

 青白い光がゆるやかな螺旋を描き、空から大地へ川がのびる。コトハはすっぽ抜けたり破れたりすることなく、彼らをすぐ真下から受けとめた。水中へ落ちたみたいに身体が沈み、滑り台の要領で流されていく。

 頭から大地へつき刺さらないために、四人はコトハの川に流されながら、急いで上体を起こした。

 乙女は両手を天へ突きあげ、「フーッ! アトラクションに乗ってるみたい! 気持ちいー!」と歓声をあげた。

 その横では対照的に、明咲は表情を凍らせて、恐々つぶやいた。

「……あの、なんか、このまま行くと、ぶつからないですか?」

「んー? あっ。目標をカクトにしてるから、ぶつかるね」

 おやまあ、と目を丸くする乙女に、明咲は「だめじゃないですか!」と頭を抱えた。地上まで三十メートルもない。衝突したら、どちらも大ケガはまぬがれない。

「あいつのいる場所を目印にしたから、いまさら終着点は変えられないぞ! この大きさのものを生み出してるだけでも褒めてもらいたいくらいなんだ」

「ならどいてもらうしかない。……師匠、師匠、師匠―! 避けてください!」

 声を張りあげて注意喚起する明咲に、竜生も加勢して「カクトさんっ!」と名を呼ぶ。乙女も呼びかけに参加して「おーい! カクト、そこにいるとあぶないよー!」と声を張った。

 突如として空に現れた光の川を唖然としたまま見あげていたカクトは、川を流れる四人と、その行きつく先、さらには三人の言葉から、事態を正確に把握した。飄々としていた顔が、必死の形相に変わり、その場から一目散に駆けだす。


 ――数秒後、飛びのいたカクトと、川から地面へ転がった四人全員が、倒れ伏していた。全速力の後遺症に肩で息をしながら、カクトが口をひらく。

「お、おまえら……。無事にもどってこれた、みたいだな」

「そう、見えます……?」

 土に顔をつけたまま、明咲が問う。大地に触れている安堵に涙がにじんだ。すり傷程度のケガで済んでよかったと、大息を吐く。

「あー、スリル満点だった! ね? うまくいったでしょ?」

「それは、そうですけど、ほんとになんで、そんな自身満々だったんですか……」

 ひとりすばやく立ちあがった乙女に、竜生がぼやく。ジャレックライズは上体を起こし、彼の横であぐらをかいた。

「けどまあ……、そいつの言うとおり、うまくいってよかった。……たしかに、いいチームだったかもな」

 明咲は目を丸くし、それから顔をほころばせた。

「みんなおつかれさま」

 カクトが頭をかきながら言う。

「おまえらの顔を見るに、うまくいったみたいだな」

「はい、なんとか……」

「どんなに泥臭くても、命があれば結果オーライだ。明咲も、よくやってくれたな」

「……はい!」

 師弟はやわらかな視線を交わし、微笑みあった。その余韻に浸る暇なく、乙女が腕をつき出した。手のひらを上にして、中を見せる。

「これ、この貝に、人魚になった子の声がはいってるんだってさ」

「へえ、貝にはいってたのか。そうか。そうしたら、あとはその声を返してあげるだけだな。タツキ少年、よかったな」

 そっと肩を叩くような、温かみを感じる口調に、竜生の肩から力が抜けた。

(ああ、そうか……。これで彼女の声がもどるんだ……)

 いまになってようやく実感が湧き、胸の内から歓喜が噴きあがる。

「……ありがとうございます!」

 力のある声で返事をした竜生に、四人ともが目じりをゆるめた。

「それじゃあこれを、明日彼女に渡すといい。貝ってことは、この中身を飲みこめば、声はもどるはずだ」

「貝の中身を?」

 手渡された貝に視線を落とす。光の当たる角度によって、七色の輝きはさまざまな表情を見せる。

「そうだよ。ちょっと飲むのに勇気がいるかもな。そこは竜生少年がうまく誘導するしかないが」

「はい。……いや、そうですよね」

 竜生は目線をさげ、しばし閉口した。どうやって口にしてもらうか、いくつものシミュレーションが浮かんでは消える。

「どうした?」

 沈思したまま動かない竜生に、カクトが声をかける。竜生はそこで顔をあげ、ジャレックライズの目を見すえた。

「あのさ……、頼みがある」

「アタシに?」

「ああ」

 力強いまなざしに、気圧されそうになる。ジャレックライズは疲弊していたが、それでも気合で目に力をこめ「なんだ?」と問いかけた。

 竜生は唾をのみ、はやる鼓動にせっつかれるまま、自身の頼みを話して聞かせた。



















 昼休み、黙々と食事を進めていた竜生は、気合入れのために残しておいた最後の唐揚げを口に放り込んで、弁当を片づけた。しっかりと飲みこんでから立ちあがる。

「……ちょっと出てくる」

 いつものように声をかけると、米をかっこんでいた楓馬は端を止め、ハッと目を見開いた。意味ありげに征人へ目配せし、訳知り顔でうなずくと、できうるかぎりの真剣な表情をつくる。

「竜生、俺は応援してるからな。お前のがんばりは、絶対に結果に出る!」

「……はあ?」竜生は思わず足を止めてふり返った。

(急になんだ?)

 不審な目をむける竜生に、楓馬はまなざしを強める。

「俺、まじだから。鶴見大社にも行って、お前のことも祈ってきたから!」

「楓馬ってほんといいやつだよね」

 けらけらとわらう征人に(なんか変なことでも吹きこんだんだろ)と目で訴えれば、(無実だよ)と返される。竜生は額に手を当てた。

「なんなんだ……」

「竜生。楓馬に乗るわけじゃないけどさ、おれも応援してるから」

 竜生は口を閉じ、それから試す気持ちで尋ねた。

「……俺が何しようとしてるかしらないのに?」

「関係ないよ」

 肩をすくめる征人のむかいで、楓馬は自身満々にうなずいた。

「あれだろ? 都市伝説系の動画つくって配信するんだろ? 俺さ、ひとり目のファンになろうと思って、報告待ってんだよ。昨日の夜とかさ、活動名考えたりして。もちろん、採用しなくてもいいけど。それからサインもさ、あったほうがいいじゃん? だからいろいろ候補出してて。……見る?」

 そう問いかけた楓馬の目に、期待が見え隠れする。征人は片眉を持ちあげて、感心したような、わらうのをこらえているような、奇妙な顔をした。

「……楓馬、そんなことしてたの? 思いこみがすぎる……。それなら竜生は毎回トイレに行ってるって思わせてたほうがマシだったかも。ほかの人に話してないよね? 噂は広まるとはやいんだから」

「え……? 違うんか。まじかよ……。いや、聞いてから広めようと思ってたから、言ってないけど……。てかいま話してて気づいたわ。俺がサインの練習する必要ないじゃん」

「練習までしてるし」

 目を丸くする楓馬に、征人はやれやれと首を振る。

 そこにフハッ、と噴き出した音が聞こえて、ふたりは掛け合いをやめて竜生を見た。彼は気の抜けた顔でわらった。

「お前らの気持ちはわかった。とりあえず、楓馬の勘違い、ってことは伝えとく。……けどふたりとも、ありがとな」

「おー! ほかのことでも、なんでもいいや。がんばってこいよ!」

「いってらっしゃい」

「ああ」

 ふたりに見送られ、教室を出た竜生は、クスリと笑声をこぼした。

(楓馬も征人も、ほんとアホだな)

 昨日からのしかかっていた息苦しさが、服を脱ぎ捨てたように消えていた。漠然と、うまくいくと思えてくる。

 トンッと床を蹴ったつま先を自覚して、竜生は慌てて上向いていた口角を指でさげた。ひとりでわらっている不審者にはなりたくない。

 彼は管理棟へと急いだ。


  *


 軽音部の部室のドアを開ける。

 呼び出しに応じた沙穂は、誰の姿もない部室を見まわした。不用心にも窓が半分開けっ放しで、吹きこんだ風で机の上の楽譜がパラパラとめくれては閉じる。一度、すこし強めの風が吹いて、止めていなかったメトロノームの振り子が、コッコッとリズムを刻みはじめた。

 あーあ、と声に出そうとして、出ない事実に沙穂は目を伏せた。胸元に手を当て、鱗のような皮膚を撫でる。そしてすぐに視線をあげ、誰に見られずとも笑みをつくった。

(窓、閉めないと! 鳥がはいりこんだから困るし!)

 管理を怠った軽音部も叱られるだろうと、彼女は振り子を止めて、窓へ近づいた。すると陽の光がチカリとまたたき、室内に影が落ちる。

 今日は快晴だったけど、と四限目の体育を思い出しながら顔をあげた沙穂は(あっ!)とふたたび、音にならない声をこぼした。

 人が宙に浮いている。――白い着物に金の帯を締めた女性の、光り輝く赤い髪と、透けるような羽衣が、ふわりとなびく。

 沙穂は呆気にとられ、その人が浮きながら室内へはいるのを黙って見守った。髪の色とおなじ赤色が目元を彩っている。

「仲間沙穂」

 朗々とした声に名を呼ばれ、沙穂は背筋をのばした。いったい何が起きるのかと、心臓がうるさく訴えかけてくる。

 女性が言う。

「ワタシは鶴見大社に祀られている天女。あなたは近頃熱心に祈っていたでしょう。あまりにあわれに思えたので、ワタシが願いを叶えにきたのですよ」

(……天女さま?)

 携帯の画面で会話をするのは失礼に思えて、しかたなく読唇してもらおうと口をパクパク動かし尋ねる。

「これを」

 天女は着物の袂に手を入れ、そっと沙穂へ差し出した。恭しく両手を前に出し、落とさないよう慎重に受け取る。

「これは霊薬。この中身を飲み干せば、あなたは声を取りもどすでしょう……。いいですか? すぐに口にしなければ、あなたの命は危ぶまれる……」

 コクコクと何度もうなずき、深く頭をさげた沙穂に、輝くばかりの微笑を浮かべ、天女は「それではワタシは、社へ帰ります」といって踵を返した。

 何ひとつ言葉は浮かんでいなかったが、沙穂はとっさに手を伸ばして、引き留めようとした。しかしその手は何もつかめず、天女は窓から軽やかに飛びたっていった。

 ぼうっと後ろ姿をながめていた沙穂は、ハッと正気にもどり、慌てて窓へ駆け寄った。しかし当たり前だが、天女の存在はどこにもない。幻としか思えない出来事だったが、手の中の重みがそれを否定する。

 沙穂は誰もいない窓の外と、手の中の貝とを交互に見やると、貝を強く握りこんだ。それから力を抜き、震える指先で貝をひらく。するといきなり自分の歌声が飛び出したのであっ! と驚いた彼女は、貝を取り落しそうになった。

(まさか、ほんとうに……? これを飲めば、私の声が……?)

 震える唇を舐め、貝におさまる白く輝く真珠を、恐る恐る指で持ちあげた。ふう、と息を吐き、覚悟を決めた一泊の後、舌の上に乗せて真珠を飲みこむ。――大きな塊が喉を通っていく。心臓は皮膚を突き破りそうなほど跳ねていた。

 沙穂は震える手で喉を押さえ、それから慎重に、期待半分で声を出した。

「……あ」

 かすれ声が、ひとりだけの部室に落ちる。

「あっ、あ……、ああっ! んん、あー!」

 二週間以上、声を出していなかったので、咳払いをして引っぱりださなければならなかった。涙が溜まり、まつ毛を濡らす。喉の奥で、これまでせき止められていたものが、自分も外に出してくれと騒いでいる。

「声が出る! 声が出る! 声が、出る……!」

 嗚咽にじゃまされないよう息を吸い、貝を包み込んだまま手を合わせ、天女に祈った。

(ありがとうございます……! ほんとうに、ありがとうございます……!)

 沙穂は頬をすべった涙をぬぐい、満面の笑みで「やったー!」と声を張りあげた。


 その歓喜の声を、竜生はベランダで聞いていた。身を隠すために柱の横で座りこんだ彼の隣には、天女に扮したジャレックライズがいる。

 作戦がうまくいってよかったと、竜生は壁に背を凭れた。


  *


 同級生に「これを飲めば声がもどる」と貝を渡され、すなおに飲みこむ人はどれだけいるだろう。何日も治らないまま、どんどんと症状が進行し、近づく死の気配を見て見ぬふりして、気丈に振舞っているのに。

 バカにされているか、からかわれているか。そこまで質の悪いことをするとは思わなくても、愛想笑いは崩れるだろう。

 竜生は沙穂に、そんな思いをさせたくはなかった。けれど明日にでももどさなければ、彼女の命にかかわる。――だからジャレックライズに協力を仰いだのだ。天女のようにふるまい、神秘的な雰囲気で信じこませてもらうために。

 沙穂が鶴見大社で祈る姿を目にしていたから、天女の存在を受け入れるのはむずかしくないだろうと踏んだ。乙女のほうが世間一般的な天女のイメージに近かったが、真実味をもたせるためには、空からの登場が必須だった。そのためには、ジャレックライズのコトハが力を発揮する。

 竜生の考えを聞いたジャレックライズは『それも恩返しの範疇にしてやるよ』と言って、すんなりと引き受けた。

 明咲は『ほんとにそれでいいの? あんなにがんばったのに、すこしも竜生くんの努力をしってもらえない。もちろん感謝もないんだよ?』と心情を慮った。

 竜生は『べつにいいんです。言ったじゃないですか。俺は俺のためにやったんです。それなのに飲みこんでもらえなかったんじゃ、それこそ本末転倒ですから』と話し、晴れやかに笑んでみせた。

 そうして話を聞いていたカクトが『それなら見目も演出しないとだな。設定にそぐわないと、それは違和感になる。なあ? 乙女。着物やらなんやら、手を貸してやれよ』と言い、乙女も『腕が鳴るねー! 思わず拝みたくなるほどの天女にしてあげる!』と協力を申し出てくれた。

 そうして誰が見ても神々しい天女によって(もしも失敗したら……)という竜生の心配は杞憂に終わり、沙穂は声を取りもどすことができたのだった。


  *


「うまくいったな」

 そっと耳打ちしてくるジャレックライズにうなずこうとした竜生だったが、聞こえてきた歌声に、反射的に口を手で押さえた。

(声が、あかるい……)

 天まで届きそうなのびやかな声に、竜生のまぶたの裏に、ステージライトを浴びた、沙穂の笑顔が蘇る。

 気を抜けば、嗚咽がこぼれ出てしまいそうで、唇を噛みしめた竜生は、手のひらで両目を覆った。それでもあふれてくる水が、五指をすり抜けて口にはいる。かすかに甘い。

 目をつむり、とぎれることのない歌に耳を澄ませる。

 見慣れはじめてきた、この世界の青い空をながめていたジャレックライズは、竜生の様子を横目で見て、肩同士をコツリと触れさせた。そして「なんだったか……。手のひら?」とぼそぼそつぶやいてから、竜生に言う。

「なあ。手、出せよ」

 訳がわからないまま、竜生は指のすき間からジャレックライズを見やり、左手を身体の前に出した。その手を叩こうとして、ジャレックライズは首を傾げた。

「ああ? ……ああ、これ逆の手だろ。そっちだ、右」

「……右? ああ」

 竜生はうなずいた。それでもう、言葉は必要なかった。ジャレックライズはニヤリとわらい、竜生の右手に自身の左手を当てた。

 ふたりの間で「パンッ!」と高く、音が跳ねた。

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