FILE 16: 蛇の囁き
三崎市役所、市長執務室。
渚は、監査官からのメッセージを読み、全身の血が凍りつくのを感じた。
若宮が? あの、誰よりも信頼し、市政の全てを任せてきた彼が?
あり得ない。だが、これまでの不可解な出来事が、恐ろしい形で腑に落ちた。官邸や警察の内部情報が、なぜかいつも後手に回っていたこと。CIAのディープフェイク動画が、あまりにもタイミングよく投下されたこと。全て、若宮が内部から情報を操作していたのだとすれば。
渚は、顔を上げた。ガラス張りの壁の向こう、秘書席に座る若宮の姿が見える。彼は、何事もなかったかのように、電話でどこかと話していた。その横顔が、今は得体の知れない怪物のものに見えた。
渚は、平静を装い、内線で若宮を呼びつけた。
「……若宮秘書。横浜の件、大変なことになったわ。少し、相談に乗ってくれる?」
執務室に入ってきた若宮は、心底から心配しているかのような表情を浮かべていた。
「市長、お顔の色が優れません。柏木本部長からは、私も報告を受けました。まさか、米軍まで出てくるとは……。これは、もう我々の手に負える問題ではありません。官邸に全てを委ね、市長は身を引くべきです」
その言葉は、どこまでも優しく、渚の身を案じているように聞こえた。だが、今の渚には、それが蛇の囁きにしか聞こえなかった。全てを諦めさせ、日本政府の動きを封じ、中国が天野を完全に手中に収めるまでの、時間稼ぎ。
「……そうね。そうかもしれないわね」
渚は、頷いてみせた。そして、不意に、全く別の質問を投げかけた。
「ところで、若宮君。あなたは、どうして外務省を辞めたの? あなたほどの優秀な人材が、こんな地方の市役所で秘書をしているなんて、今でも信じられない時があるわ」
若宮の表情が、初めて、ほんの僅かに強張った。
「……それは、昔の話です。国の歯車であるより、市長のような方の側で、直接、街を変えていく仕事に魅力を感じた。それだけですよ」
「そう。でも、チャイナ・スクールのエリートだったあなたが、中国でのキャリアを捨ててまで、私を選ぶなんてね。光栄だわ」
渚は、カマをかけた。若宮が「チャイナ・スクール」だったことは、公にはなっていない情報のはずだった。
若宮の目が、冷たく光った。彼は、もう演じるのをやめた。
「……どこで、それを?」
「あなたを信頼しすぎた私が、愚かだったのよ」
「愚か、ですか。いいえ、市長。あなたは、私が今まで仕えてきた中で、最も優秀な指導者でしたよ。だからこそ、惜しい」
若宮は、静かに言った。
「あなたは、この国の古くて硬直したシステムの中で、一人で戦いすぎた。我々と共に来れば、あなたは、もっと大きな舞台で、その能力を発揮できたというのに」
それは、紛れもない、勧誘の言葉だった。そして、彼が「内部の敵」であることを、自ら認めた瞬間だった。
その時、若宮の懐のスマートフォンが、短く振動した。彼は、一瞬だけ画面に目を落とすと、静かに立ち上がった。
「時間切れのようです。市長、残念ですが、私はこれで失礼します」
「待ちなさい! あなたを、このまま行かせるとでも!?」
渚が叫んだ、その瞬間。
市役所全体が、大きく揺れた。停電。全ての照明が消え、非常灯の赤い光だけが、廊下を不気味に照らし出す。窓の外から、低い地響きのような音が聞こえる。
それは、トリトン・コンプレックスの方角からだった。
若宮は、暗闇の中で、笑った。
「言ったでしょう、市長。あなたは、優秀すぎた。だから、北京は決めたのですよ。天野博士だけでは、不十分だと」
彼は、闇に溶けるように、執務室から出て行った。
「あなたという"頭脳"もまた、我々のコレクションに加えるべきだ、とね」
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