第3話「王宮の昼は、朝の拍から始まる」
朝の鐘が一つ。
学園寮の食堂は、まだ眠そうな木の匂いをしていた。私は“揚げ物封印デー”の宣言どおり、噛むスープから始める。
「おはよう、胃袋の図書室」
家政魔法〈台所見取り〉を流す。昨夜つけた油膜は健在、刃物の歯はまだ立っている。火口は三度寝中。つつけば起きる。
「今日は根菜×豆×海藻で三拍子」
鍋に、角切りの大根、にんじん、干し椎茸の戻し汁。〈旨味抽出〉をゆっくり走らせ、音が“ひそひそ声”になったら豆を入れる。仕上げ直前、短く刻んだ海藻を雨みたいに散らす。
パンは昨日の端っこを〈気泡よみがえり〉で起こし、角を焼いて“噛み音”を作る。サラダは「目が覚める酸」で仕上げたい。酢に〈香り継ぎ〉で柑橘の皮と粒胡椒の匂いを移し、塩はふた呼吸に分けて振る。
ブラークが厨房に入り、鍋の湯気を嗅ぐ。「そのスープ、議論を二割穏やかにする匂いがする」
「狙いどおりです。今日は王宮へ顔を出す日。学園の午前を“平和寄り”に振っておきたい」
「やることが、将軍だ」
配膳が始まる。
「二回だけ目を閉じる」のお作法は、もう何人かに伝播していた。噛む音が揃う。カリ、ふう、コト。三拍子が食堂を歩く。喧嘩の芽は、口の中で噛み砕かれる。
食後、寮の掲示板に小さな紙が増えた。
〈朝ごはん、眠くならないの助かる〉
〈スープの“ひそひそ声”、好き〉
〈テスト前も、この三拍子でお願いします〉
紙は宣伝より強い広告だ。**“生活の側にいる言葉”**は、嘘をつかない。
私は早足で寮の裏口を出る。ミナが駆けてきた。「お嬢さま、王宮の案内、これです!」
差配官エイドルからの伝令。革ケースに挟まれた招待状は、権限の紙の匂いがする。責任と昼食の香り。
「行ってきます。昼までには戻る。ブラークさん、昼は“麩のかつ”で行きましょう。肉の気配、第二弾」
「麩でかつ? 上出来だ。油の歌の代わりに、衣の囁きで行こう」
私はミナと一緒に王都の御門へ向かった。道の石畳が少しずつ滑らかになるほど、権限の粒子が濃くなる。
◇
王宮の厨房は広かった。広いが、沈黙が重い。
銅鍋は磨かれて、壁は鏡みたいに光っているのに、香りの風が走っていない。鍋は呼吸しないと死ぬ。ここは、呼吸の浅い厨房だ。
「君が例の子か」
出迎えたのは、昨日の近侍——カイ・レンスト。黒髪を束ね、歩幅はやはり正確。
「殿下は“昼議(ひるぎ)”の前に軽食を取る。近頃、昼議の最中に眠気が出る者が多くてね。味が“細る”と、会議も細る」
「材料は?」
「制約がいくつかある。肉は使って構わないが重くするな。香りは強すぎると文官が嫌う。時間は一刻(約三十分)」
「条件、好きです」
そこへ背広の鉄板みたいな視線。
総料理長——バルド・ゲルナー。鍛え直された木のような男だ。
「王宮の味は伝統だ。小手先の軽口でいじられる筋合いはない」
「伝統は、拍が続いて初めて伝統になります。止まった拍は飾りです」
言い返した瞬間、厨房の空気が少しだけ身構えた。
私は両手を台に置き、家政魔法〈動線復唱〉を流す。配膳→盛り付け→加熱→洗浄の流れに逆流が多い。香りの“逃げ穴”は天窓の隅に固まっている。まずはそこを塞がないと、どんな料理も記憶に残らない。
「十分ください」
私は棚の布をほどき、窓際の布巾と鍋つかみを高さ順に並べ替える。手が迷う台所は、味も迷う。塩は二種類に分け、**“筋を通す塩”と“表情を作る塩”**の壺を別にする。
火口の癖を読んで、炎の背を撫でる。
厨房の背骨が、動いた。
「献立は?」カイ。
「“喉がひらく粥(かゆ)”と“薄切りの王宮カツサンド”。粥は生姜×白胡麻×白身魚の骨で出汁の透明を作ります。サンドは肩ロースではなく、冷めても噛める部位で薄く。脳に油の負担をかけず、眠気を起こす血糖の波を緩やかにする」
総料理長の眉が、ほんの一ミリだけ上がった。「粥、だと?」
「粥は敗走の朝食にも勝利の夜食にもなる。今日は前哨戦の昼です」
開始。
鍋に水。〈硬度調律〉で少しだけ柔らかくする。生姜は刃を立てず擦って香りを“湯気の手前”まで引き、白身魚の骨から“骨格だけ”を借りる。米は洗いすぎない。必要な粘りは武器だ。
〈湯気誘導〉で香りを人の顔の高さに通し、胡麻は割るだけ。香りの頂点を低く、長く保たせる。
サンドは薄切り肉に〈繊維交差解(ほど)き〉をかけ、塩は筋の塩を先に、表情の塩は仕上げ。衣はパン粉を二層にする。内側は細かく、外側は粗く。噛みはじめと終わりの景色を変えるためだ。揚げずに高温で焼く。油は刷毛で薄く塗るだけ。**音は“薄い雨”**になればいい。
カイが腕を組んで見ている。総料理長は沈黙。
私は“厨房の呼吸”を整えるように歩幅を刻み、盛り場に立つ見習いの手元を一拍遅らせる。慌てる盛り付けは、味の肩を落とす。
「運ぶ順番は粥→サンド。粥で喉をひらき、サンドは二口目で現実に戻す。三口目は会議室に入ってからです」
盆が数枚、静かに出ていく。
私は残りの粥にごく少量の白胡椒を落とし、**“遅れてくる覚醒”**を仕込む。
◇
昼議の間は、すでに紙と声で満ちていた。
王太子は若く、目がよく動く。牙を隠した笑顔。相手の歩幅を測る笑顔だ。
彼は粥を一口。目の焦点が半拍、奥に寄った。
「——喉が、開くな」
「殿下、二口目で温度が一度上がります。発言者が増えますが、口論は減ります」とカイが手短に告げる。
議場を見ていると、本当に声の質が変わった。
紙をめくる音が軽くなり、咳払いの数が減り、“反駁の声”が丸くなる。
サンドを二口で済ませた文官が眠気の手をはねのけ、目が前を向く。
胃袋は、会議の影の司会者だ。
殿下が私を見た。「君か。“胃袋の外交官”」
「まだ名乗るのは早いですが、昼は味で説得できます」
王太子の側に、一人だけ眉間を固くした男がいた。財務府の参事官。書棚の匂いをまとう理屈の人。
「粥で政治が変わると?」彼は笑いの棘を隠さない。「小手先の効果だ。午後には薄れる」
「薄れます。だから毎日やる。伝統は継続でできていると、先ほど学びました」
彼の視線が僅かに泳ぐ。理屈の人は、正しい言葉に弱い。正しさは音量を上げないからだ。
殿下がカイに目配せをして、こちらに向き直る。「条件を言え。王宮の味を平穏へ寄せる任を——期間限定で——頼みたい」
「条件は三つ」
私は深呼吸して、鍋の余熱みたいな声で言う。
「一、寮の朝食を最優先。朝の拍は学園に置く。
二、厨房の動線と香りの抜け穴に手を入れさせてください。味は動線で半分決まる。
三、“笑顔の数”を評価軸にすること。文句は台所ではなく数字で受けます」
総料理長が口を開きかけ——殿下が先に笑った。「採用。期間は七日。まずは試練の週だ。笑顔が増えなければ、そこで終わり」
「笑顔は油と違って捏造できません。公正です」
殿下は席に戻り、粥をもう一口飲んだ。喉が通る音がした。
◇
厨房に戻ると、総料理長が静かに言った。「私は、君を嫌っているわけではない。ただ、伝統が軽く扱われるのが嫌いなだけだ」
「私も同じです。軽い伝統は揚げすぎた衣みたいに、噛んだ音だけ派手で、すぐに砕ける」
ゲルナーは笑った——刃の丸い笑いだった。「七日の間、君の“拍”を見よう」
午後の仕込みに入る前、裏口でカイが小さな紙袋を渡してきた。「殿下からの私信だ。文字は少ないが重い」
袋の中には、硬い砂糖菓子が三つ。手書きの紙が一枚。
〈朝を守れ。昼は任せる〉
砂糖菓子は、長旅の兵隊に配るやつだ。拍を長持ちさせる糖。
「任せます。が、夕方には寮に戻る」
「わかっている。王宮は“天下”を運営する。だが、天下は夕飯で機嫌が決まる」
「よくご存じで」
私が笑うと、カイは珍しく先に笑った。厨房の軍人に、ようやく油の音がついた。
◇
学園に戻ると、ミナが迎えに飛び出した。「麩のかつ、大成功です! 最初は『麩ってあの……坊さんの?』って顔だったのに、噛んだら『あ、肉だ』って」
「気配は裏切らない」
ブラークが手で○を作る。「昼の“争い率”、廊下担当に聞いたら、昨日比で三割減だ」
「三割?」
数字が、歌詞に見える。
私は壁にチョークで書いた。
〈今日の家政Tips:“負けそうな議論”は、まず喉をひらけ〉
差配官エイドルが、夕刻の弁当を受け取りに現れた。
「王宮の騒ぎ、もう紙の端に乗り始めているぞ。“喉の開く粥”だと」
「紙は早い。お弁当の胡麻豆腐、今日は“遅れてくる覚醒”仕様です。会議、多いでしょう?」
「読まれたか。……七日のうちに、差し押さえ再評価の場を作る。君の“笑顔の数字”を資料にする。飯で議会を説得するという前代未聞の提案になるが」
「前代未聞ほど、胃袋は強い」
エイドルは満足そうに頷き、帰っていった。
◇
夜。
寮の消灯が近づくころ、私は厨房の隅で明日の段取りを書き出す。
王宮の昼:“脳に重さを残さない三皿”。
学園の朝:“五分で起きられる匂い”。
借金返済の道筋:七日分の弁当と笑顔の換金。
ミナが湯飲みを持ってきた。「お嬢さま、休んで」
「休むのも段取りだね」
湯飲みの湯気に〈香り継ぎ〉で柑橘の白い部分だけを少し移す。苦味が眠気の手をやさしく引く。
「ねえミナ。平穏って、どこから来ると思う?」
「えっと……お金と、良い人間関係と、あと天気」
「だいたい正解。もう一つ。台所の勝率」
彼女の目が丸くなる。「勝率?」
「一日に三回ある試合で、二勝一敗を繰り返すこと。朝昼夜。たまに三タテが取れたら、それが“幸せ”って呼ばれるやつ」
「三タテ、今日できました?」
「たぶん二勝一分。明日は三タテ狙う」
ミナがうなずく。「じゃあわたし、揚げ箸の練習します。二口目で現実に戻すために」
「いいね。現実は、だいたいおいしくできる」
消灯の鐘が鳴る。
静けさが降りて、厨房は本のように閉じた。
私は最後の火口に手を当て、明日の拍を一つ、心の中で打った。
——平穏最優先。でも、確実に揚げる。
胃袋は戦争を嫌う。だから私は、日々の勝ち方を増やす。
壁の片隅にもう一行、白いチョークで。
〈今日の家政Tips:伝統は“続いた段取り”の別名〉
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