第2話「寮母見習いの採用試験は、揚げ物で始まった」

 王都学園の正門は、料理でいうなら“余熱のいらない鉄板”だった。敷石は日差しで熱く、門番の視線は油温計の針よりシビア。ここで跳ねたら終わり——つまり、私は跳ねない。


「臨時寮母見習いの募集、こちらで合ってますか?」

 門番は私の籠を見た。きっちり十個のコロッケが、狐色の隊列で待機している。


「……応募書類は?」


「胃袋」


「は?」


「皆さんの」


 門番は三秒だけ石像になり、そのあと人間に戻って笑った。「通しな。台所へ直行だ。今、他の志願者が最終選考中だ」


 学園の台所は、想像していたより“病人”だった。

 棚は整っているのに、どこか生気がない。調味料の蓋はきつく締まりすぎ、鍋は磨かれているのに疲れた光。なにより、空気の“鍋肌”が死んでいる。ここでは最近、油が歌っていない。


「お、君が最後の志願者か」

 髪に白を散らした調理長らしき男性が近づいてきた。胸元の名札には「舎監補佐・ブラーク」とある。目が良い。鍋を見る目だ。


「本日の最終課題だがね、**『肉なしで、肉の気配がする昼』**を出してもらう。寮費が高騰してね、肉の使用量を抑えたい。ただし、学生の笑顔は減らせない」


「条件、好きです」


「持参物は?」


「油と、勇気。あとコロッケ十個は“名刺”です」


 後ろで、ぱしっと乾いた音がした。

 振り向くと、瑠璃のリボンを締めた令嬢が二人、こちらを見ている。片方は軽く顎を上げ、片方は扇子で笑いを隠した。志願者仲間だろう。顔が“勝ちに来てます”の形をしている。


「あなたが噂の“差し押さえ台所の子”?」顎の子が言った。「お気の毒。でも学園の寮食は戦場よ。飾り切りで勝てる場所じゃないわ」


「安心して。私は飾り切りより“盛り付ける空腹”のほうが得意」


 扇子の子の肩が、ちょっとだけぴくりと揺れた。反応は、塩をひとつまみ落とした鍋のように敏感だ。


「時間は一刻(約三十分)。器具の故障が多くてね、使える火口は二つ。調理員は貸せない。君と——」ブラークが周囲を見渡す。「志願者は三名、同条件。出せるのは一品のみ。評価は笑顔の数で決める」


「審査員は?」


「学生だ。正直で容赦ない」


 私は台の前に立ち、指先に魔力を落とす。

 家政魔法〈台所見取り〉。

 火口の癖、鍋の摩耗、まな板の繊維の割れ目、塩の粒度、水の硬度、台所の“骨格”が一気に透ける。病名は“疲労性味覚減退”。治療は“歌わせること”。油、湯、塩、そして香りの連携。


「献立を宣言してから始めてくれ」ブラーク。


「はい。“肉なしメンチ”のパン粉焼き、玉ねぎの涙スープ添え。メンチの主成分はパンと玉ねぎ、香りの骨は干し椎茸、噛みごたえはおから。油はほぼ使いません」


 ざわ、と周囲の空気が波打つ。令嬢二人の片方が鼻で笑った。「肉なしメンチ? 貧しい発想ね。わたくしはフラム・ブルーを出すわ。炎の舞。学食には派手さが必要なの」


「炎と学食、相性悪いですよ。学生は眉毛を失いたくない」


 秒針が落ちる音がした。——開始。


 私の作業は、手数は多いが走らない。

 〈パン粉再活性〉で古パン粉をさらりと起こし、〈香り継ぎ〉で干し椎茸と味噌の気配だけをパンに移す。玉ねぎは〈涙腺遅延〉でじっくり甘く、刻んだおからと合わせて“肉の触感の寸前”に調える。塩は三回に分けて入れ、胡椒の粒は割るだけにして香りの頂点を浅く。

 タネを丸めるのではなく、薄く広げて平たく。これを鉄板に並べ、表面にパン粉をふり、〈水分偏在〉で外側だけをすこし乾かす。

 火口は二つ。片方で鉄板焼き、片方で鍋——玉ねぎの涙スープ。涙を遅らせ甘みを引き出した玉ねぎに、〈旨味抽出〉で干し椎茸の戻し汁から“骨”だけを引き、塩で背筋を通す。最後に〈湯気誘導〉で香りを“前”へ出す。


 キュイ、と鉄板が歌い始めた。

 大声でない歌。誰かの鼻歌みたいな、でも確実に心の回路を温める音。


 反対側では令嬢の一人が銅鍋に酒をあおり、火口に近づけ——ぼっと青い炎を上げた。歓声、半歩あとずさる学生。扇子の子は静かに美しい野菜テリーヌを固めている。視覚は彼女の勝ちだ。だが、香りの矢印は——私の鉄板から人の胸に向かって伸びていた。


「試食開始!」ブラークが鐘を鳴らす。


 まずは炎の令嬢の皿。

 学生の目が輝き、スマホ(この世界では“視写器”と呼ぶらしい)が上がる。

 一口目——しかめ面。

 火で香りを起こすはずが、アルコールの“生臭さ”が残っていた。炎は派手でも、香りの着地点がずれている。派手なジャンプをして、着地の砂場を忘れた走り幅跳び。


 テリーヌの子は繊細で上品、味は正しい。正しいが——“おかわりの顔”にはならない。寮食は連載で、テリーヌは単行本。つまり、需要は違う。


「次、肉なしメンチ」


 私は皿を渡しながら言う。「先にスープを一口。甘くなったら、パン粉焼きを。噛むときは二回だけ目を閉じて」


「二回だけ?」


「三回目は現実に戻って。授業に遅れるから」


 学生が笑い、指示どおりにスープを飲む。

 その顔が、ふわりとほどけた。

 パン粉焼きを噛む——

 さくっ。

 周囲の空気が半歩前に出るのがわかった。

 肉ではないのに、歯が“肉だと思って”噛む。噛んだ脳が“肉汁だと思って”唾液を出す。これは欺瞞じゃない。人間の“想像力”を味方にした料理だ。想像力は最高の調味料で、しかもタダ。


「これ……肉じゃないの?」

「肉の気配です」

「騙された……けど、うまい……!」

「これなら午後、眠くならない!」


 笑顔のカウンターは、最初の五秒で一気に跳ねた。

 数字が歌詞に見える瞬間。

 私は心の中で、差配官エイドルの手帳に“+20笑顔”を書き足す。


 ——その時だ。

 ぼおっという異音。

 炎の令嬢の鍋が、今度は笑わない炎を上げた。酒の残り火が布巾に移り、そこから油へ、そして棚へ。

 台所の学生たちがどっと引く。ブラークの顔が硬直する。水は近くにあるが、油火に水は禁忌。泡が爆ぜ、炎の舌が天井の煤を舐め始めた。


「離れて!」

 私は反射で飛び込んだ。

 手のひらに落とすのは、家政魔法〈酸素貸し出し停止〉。炎の周囲の空気から、ほんの三拍だけ酸素を**“借りる”**。借りた酸素は、隣の鍋の上に置く。鍋の湯気が一瞬だけ濃くなり、炎の舌が痩せた。

 次に〈油膜延伸〉。火の周りの油に一瞬の“膜”を作り、炎の供給を絶つ。

 最後に〈熱逃がし〉。棚板の金具に熱を流し、温度の梯子を組み替える。

 炎は、怒った犬が不意に眠気に負けるみたいに、しゅうと小さくなり、消えた。


 静寂。

 誰かが喉の奥で拍手をした。次いで、本当の拍手が、波のように押し寄せた。

 炎の令嬢は蒼白になって立ち尽くしていた。私は彼女に濡れた布巾(水ではなく、〈湿度限定〉で**“蒸気だけ多い布”**にしたもの)を渡した。


「学食は派手じゃないほうが、生き延びる。派手なのは祭りに取っておきましょう」


 ブラークが長く息を吐き、笑った。「採用。いや、もう“即戦力”だな。寮母見習い・実務即日開始。条件は三つ。ひとつ、生徒との無用な馴れ合いは禁止。ふたつ、献立は栄養書士の監修を仰ぐこと。みっつ——」


「みっつ?」


「夕食の揚げ物比率を週二まで。厨房がすぐ太る」


「了解。厨房のダイエットは私の専門外ですが、やってみます」


 令嬢二人はそれぞれ礼をして退いた。扇子の子は最後に私へ小さく囁いた。「あなたの“二回だけ目を閉じる”の指示、あれは詩ね。覚えておくわ」


 学生たちは、肉なしメンチとスープのおかわりを要求した。おかわりは評価。もしかすると恋よりも信頼が速い評価方法だ。


 私が鉄板を掃除していると、背後から誰かが立った。

 ——香りが違う。

 革と紙と、日向の金属。王都の上流で、**“権限の匂い”**がする。


「噂の新入りか。王太子の代理人だ」

 声は若いが、言い慣れている。黒髪を後ろで束ね、視写器用の薄板を手にしている。

「殿下が**“胃袋の外交官”**を探している。王宮の台所、味が細ってね。明日の昼、試食の席を用意する。来られるか?」


「来られます……が、私は“平穏最優先”です。王宮は平穏と縁遠い」


「平穏を持ち込める者を探している、という話でもある」


 会話の温度が、鉄板の余熱みたいに残る。

 私は代理人の名を聞き忘れ、代わりに彼の歩幅を見た。十人の厨房をまとめられる歩幅。つまり彼は厨房の“軍人”だ。


「条件が一つ」私は言った。「寮の朝食導入が最優先。王宮に行くとしても、朝の“拍”はここのために使う」


「珍しい志願だ。殿下はそういう“逆走”が好きだ。承知した」


 彼が去ると同時に、ブラークが耳打ちした。「あれは王太子近侍の一人、カイ・レンストだ。噂より早い」


「噂より早いのは、たいてい空腹のせいです」


 囁き合いながら、私は台所の“骨格”に目をやった。ここを最初にやるべきことが山ほどある。

 配膳の動線は逆流、洗浄の棚は遠すぎ、香りの抜け穴が窓の上にある。病名は“疲労性味覚減退”——処方箋は、“拍を作る”。


「ブラークさん、今日の夕食、揚げは封印。**“噛むスープ”**をやりたい」


「噛むスープ?」


「具だくさんで、噛むたびに体温が半度上がるやつ。争いが減ります」


「争い?」


「お腹が鳴ると、議論は怒声に変わりやすい。逆に、よく噛ませると、喧嘩は半歩遅れる。半歩遅れれば、たいてい止まる」


 ブラークは一瞬だけ目を閉じて、笑った。「やってくれ」


 私は鉄板を丁寧に祓い、棚に手を当てて家政魔法〈台所に名をつける〉を走らせた。

 この台所は今日から**“胃袋の図書室”**。

 知識も、噛む。記憶も、湯気でめくる。

 名前を与えられた台所は、すこしだけ背筋を伸ばした気がした。


 夕暮れ前、差配官エイドルが予定どおり現れた。私は彼に“本日の日替わり弁当”を手渡す。

 —玉ねぎの涙スープ(学園仕様)

 —肉なしメンチのパン粉焼き(学園第1審査通過記念)

 —じゃがいもの皮のカリカリ(廃棄率削減おやつ)


「笑顔の数は?」とエイドル。


「ざっと五十。うち“おかわり”は十五」


「おかわりは、笑顔二倍換算だな」

 彼は手帳にさらさら書き入れ、「黒字の匂いがする」と言った。


「油は救える。人もたぶん。今日の結論です」


「明日の結論は?」


「王宮でも、人は腹が減る。それは王族も同じ」


 エイドルは満足げに笑い、帰っていった。

 厨房に残ったのは、鉄板の余熱と、学生たちの笑い声の名残。

 私は壁の空白に、あのチョークで今日の一言を書く。


〈今日の家政Tips:肉は“気配”でも噛める。予算も同じ〉


 窓の外、学園の木立が風でざわめく。香りが、未来のページをめくる音に似ていた。

 平穏は、願うものではなく、段取りで呼ぶもの。

 明日、王宮。だが朝は寮の拍を守る。

 焦らない。跳ねない。でも、確実に揚げる。


 胃袋外交官——名乗るのはまだ早い。

 けれど、揚げ箸を置いた私の指は、次の拍を知っていた。

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