第6話 魔王軍の影、迫る

 王都の夜は、わずかな光にすがるような静けさに覆われていた。

 昼間、パンを口にした兵士や民は久しぶりに笑顔を見せた。だが、その笑顔の背後には、迫り来る恐怖の影が濃く伸びている。


 城壁の上に登れば、それは誰の目にも明らかだった。

 遠くの地平線に、赤い火の帯がゆらめいている。焚き火でも野営の灯でもない。魔王軍が進撃の合図として掲げる“戦炎”だ。

 数千の松明が夜を赤く染め、まるで地平そのものが燃えているように見えた。


「あと三日もすれば……王都に押し寄せるだろう」

 アルドが険しい声でつぶやいた。

 かつての勇者らしい鋭い眼差しが戻ってはいるが、その背には疲労と迷いが重くのしかかっていた。


 聖女マリアは手を組み、祈りを捧げる。

 しかしその光は弱々しく、もはや彼女一人の力では王都全体を守ることなどできそうになかった。

 ザイラスもまた魔力を使い果たし、杖を支えにしている。


 私――レオンは窯の前に座り込んでいた。

 王都に入って以来、休む暇なくパンを焼き続けている。兵舎、病院、孤児院……パンを配るたびに、倒れていた人々が再び立ち上がった。

 けれど、魔王軍が本格的に攻め寄せれば、それだけでは到底足りない。


『ねえ、レオン』

 風の精霊ミルが囁く。

『癒すだけじゃ、戦は終わらない。守るパンも、戦うパンも……もっと強い焼きが必要だよ』


「わかってる。だが、どうすれば――」


      ◆


 その時、王都の広場に兵士の怒声が響いた。

「西門に偵察隊が現れた! 迎撃せよ!」


 私は窯から焼きたての籠を抱え、兵たちに駆け寄った。

「これを持っていけ!」

 白パンと硬焼きパンを渡すと、兵士たちは驚きながらも頷き、口にしてから駆け出した。

 彼らの瞳には再び光が宿っていた。


 私は胸の奥で確信した。

 ――パンは剣にはなれない。けれど、人を立たせることができる。立った人間が剣を握る限り、戦える。


      ◆


 翌朝、私は窯に新たな生地を仕込んでいた。

 混ぜるのはオズから渡されたハーブと岩塩。

 さらに、ミルが持ち込んだ風の花びらを練り込み、独特の清涼感を加える。


「これは……?」

 アルドが覗き込み、眉をひそめる。


「勇気パンだ」

 私は答えた。「食べた者の体温を上げ、心臓を強く打たせる。剣を握る力を与えるパンだ」


 アルドは黙って一つを受け取り、齧った。

 次の瞬間、その瞳がかつて戦場で見せた光を取り戻す。

「……すごい。本当に力がみなぎる……!」


 マリアもまた、小さく口に含んで涙をこぼした。

「心が……折れかけていたのに、不思議と前を向ける」


 ザイラスは渋々ながらもパンを噛み、そして深く息をついた。

「認めざるを得ん。おまえのパンは、我らの魔法よりも……よほど兵を動かす」


      ◆


 その日から、私は王都の窯で昼夜を問わずパンを焼いた。

 癒やしの白パン。眠りパン。爆裂パン。硬焼きパン。

 そして、新たに生まれた勇気パン。


 兵士たちは次々とパンを口にし、戦意を取り戻していく。

 広場はかつての市場のように賑わい、人々は列を作って焼き上がりを待つ。

 パンの香りが街を満たすと、不思議と魔王軍の影すら遠ざかっていくように感じられた。


『見て、レオン』

 ミルが風の中で笑う。

『みんな、あなたのパンで立ち上がってる。これなら――魔王軍にだって立ち向かえるよ』


「……ああ。だけど問題は、どこまで焼けるかだ」


      ◆


 その夜。

 王城の塔から見張りの声が上がった。

「魔王軍、本隊の旗を確認! 総攻撃が始まるぞ!」


 城壁の外を覆う炎の帯が、一気に広がる。

 大地を踏み鳴らす軍勢の音が、王都の石畳を震わせる。

 数万の兵を従える魔王軍が、ついに動き出したのだ。


 アルドが剣を握り直し、マリアが祈りを捧げ、ザイラスが杖を構える。

 そして兵士たちは――腰の袋に、私の焼いたパンを詰めていた。


「レオン!」

 アルドが振り返る。

「おまえのパンで、俺たちは戦える! 一緒に来てくれ!」


 私は頷き、窯の火を強めた。

「わかった。だが俺は剣を振るわない。……パンで支える」


 燃え上がる炎が夜空を焦がす。

 いよいよ、聖なるパン職人の真価が試される時が来た。


👉 次回「第7話 パン屋の軍勢、出陣」

魔王軍との全面戦争。兵士たちの手には剣と――そしてレオンの焼いたパンがあった!

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