第8話 ショータイム

ピンク、黄色、水色。俺たち三人の真ん中に置かれたコンデンサーマイクが、まるで生き物のように淡く光を放っていた。


「はい、というわけで、不定期開催のおおたわラジオ、今回で29回目〜!パチパチパチ! 登録者が1万人増えるごとに開催しますんでね、張り切っていきましょう〜」


千風の軽快な声と3人分のまばらな拍手の音が部屋に響いた。何も聞かされていなかった俺と舞椰は目を泳がせ、千風の一挙手一投足を観察する。千風はデスクに組んだ仮設の配信スタジオで既に役割に入り込んでいた。配信開始ボタンを押してからほんの数分後には、視聴人数は5万人を超えていた。俺にはまるで異次元の世界だった。


「お、キュンちゃん!またどキツいエピソード期待してるからな〜!」

「しらす丼さん!例のポンコツ部下とは上手くやれてる?」

「めるしーちゃん…推しグループ解散しちゃったけど生きてるか〜?」


千風の声は、媚びず、でも切り捨てない、一人ひとりのリスナーに寄り添う温かさを見せていた。29万人達成を祝福するように、リスナーからは有料のアイテムが送られてくる。千風から話題が唐突にこちらへ飛んできた。


「今日はゲストにむっちゃん&まっちゃんをお呼びしてま〜す!」

「変なコンビ名つけるのやめてぇや!」


舞椰はもう順応しかけていた。実力派俳優のエチュードでも見ているようであっけに取られるが、下手な関西弁がちょっと癪に触った。

《どういうご関係で?》

《イケボですね!》

次々に寄せられるコメントのスクロールが間に合わない。内容までろくに読むこともできず、たまたま目についた短文をかろうじて視認できた程度だった。


「最近一緒にいるよね。定義しづらい間柄です」

「その曖昧な言い方、誤解を生みまんがな!」

会話のテンポが早く、俺だけがその波にうまく乗れずにいた。

「強いて言うなら、その人が抱える課題に耳を澄ませ、人生の節目を迎える瞬間を見守るお仕事だよね」


千風は一拍置いてからそう言葉を紡いだ。


《カウンセラーさん?》

《ブライダルで確定だろ》

《お役所の窓口かも》

《何かのインタビューアーっぽくね?》

《ネズミ講かも…いや冗談す笑》


「フフ、もしかしたらリスナーさんと同業かもね?」

「ボクさん、その辺にいますからね。すれ違ったら声かけてな〜♪」


二人の会話から、自分の仕事がいかにどこにでもある平凡なそれと変わらないのかを再確認させられる。特別でありたいわけでもなかった。


コメント欄が活気づき、オススメに載り、新規が流入した。初期からのファンを大切にしながら新規のファンを取りに行く絶妙な所作だった。割り切るだけでは成しえない、千風の軽快なトークには緻密な計算と訓練の跡を感じた。千風は名前も年齢も職業も非公開のままで「千の風」と名乗っていた。


ランチで時間通りに帰ってこない同僚の話から、モロヘイヤが乗っただけのふざけたラーメンの話まで。舞椰は隣で調子の良いツッコミを繰り返した。軽快な夫婦漫才みたいな笑いは多くのリスナーの耳をくすぐり、本当に1つのラジオ番組みたいに成立してしまっていた。


そんな中、「当て逃げ事件」の話題が上がり、空気が引き締まった。


《サカイ・ユキの件、グッジョブすぎる証拠映像でした》

《千様の因果を解き明かす姿勢に勇気をもらっています》

《一生ついていきます!もう他のニュースは見ません!》

《拍手〜!88888888》


コイン、お茶、ギフトなどの課金アイテムがまた目で追えないほど表示されては消えた。


《みんなありがとね》


千風はそう言いながら、空中で右手を別の生き物のように動かし、エアでそろばんを弾いていた。


その手に気付いた舞椰が問いかける。


《ほんで千の風さんは、そもそもどうしてこのようなどえらいチャンネルを立ち上げたんどすえ?」


舞椰の関西弁がもはや京都の誇張したそれになっていた。


《確かに気になる!ってか関西弁下手で草》

《ファンを代表して言う、まっちゃんナイス質問》

《ってかむっちゃんさん居る?》

《千様って自分のことは殆ど語らないよね》


コメントが盛り上がる中、千風は虚な目をして唇をゆっくりとマイクに近づけた。


「ずっと独りだったから、オトモダチほしくて」

部屋の空気が止まった。


「何があったんどすえ?聞かせてぇや、千の風さん♪」


舞椰が配信のノリを引きずったまま隣にいる生身の千風を見つめた。現実と架空の境界線が曖昧になった空間で、千風はギシリとチェアの背もたれに体重を任せて天を仰いだ。


「ある週末の夕方だった…私だけスイミングスクールで家に居なかったのよ」

「う〜ん、話が見えへんねぇ」


確かに気になっていた。気付けば俺も明日のリープ先を探すタブレットの手を止めていた。


「私、10歳で家族を全員、失ってるの」

「うしな…え?」

「その犯人は未だ逃亡中」

「犯人?誰かのせいでってこと?」


リアクションの声がまっちゃんから舞椰に戻っていた。


《流石に演出ですよね?》

《こういうことで嘘つく人じゃないでしょ》

《ガチ?ってかコメ同士で会話すんなよ》

《お前もな》


千風はコメント欄を見て、自分がついライブ感に身を任せて言ったことを改めて認識した。それを掻き消すように締めの挨拶に変える。


「…なーんて境遇の人と会えたら面白いなと思って!これからも千の風チャンネルは、世の不条理を明るみに晒すべく、カメラ1つでどこまでも駆け回ります。どうか応援、よろしくお願いします」


千風はコンデンサーマイクをそっと手でミュートして配信を閉じた。いっぱい食わされた、という表情で舞椰を見つめていた。


「やったわね化け狐…暫くコンビ配信はお休みね」

「そないなこと言わんといて〜な、堪忍え♪」


千風がシャワーに立った。「先に寝ててね」と部屋の電気を一方的に消した。


***


港区。梅雨の高所作業場。バケツをひっくり返したような大雨が振り付けた。足を滑らせて落下した作業員と、通話しながら地上を走るサラリーマンが衝突した。夢に見た一大プロジェクトがまさに締結しようとしていたところだった。湿度90%を超える空気の中、千風はその身よりもカメラを傘で守り、ずぶ濡れになりながら二人の最後の瞬間を記録した。日差しを浴びたせいでその後、熱を出した。


江戸川区。遠くの川辺に上がる花火を見上げる街は人混みと猛暑で汗の匂いが立ち込めていた。無差別切付け事件はそんな花火が見えるとある団地の敷地内で起きた。甚兵衛姿の男の子の遺体のそばでリンゴ飴が割れていた。外出がツラい祖母の為に持ち帰っていたものだった。素材に入り込んだ千風の不規則な吐息音が、現場の尋常じゃない緊迫感を伝えていた。花火の度に上がる歓声が不穏なBGMとなった。


西多摩郡のアウトドアスペースには清涼感のある川のせせらぎが響いていた。お盆のバーベキュー。川で女児が足を滑らせ、咄嗟に飛び込んだ叔父がてんかんが発症して溺死。女児は川下で釣りをする男性に救助された。この世を去った叔父は2ヵ月後に再婚相手の女性と挙式をあげる予定だった。千風は、男が姪っ子を我が子のように可愛がっていた事実をテロップで記載するか否かで一晩中悩んでいた。


積み上げた幸せがある日唐突に崩れ去る事実。その終息時計は必然の積み重ねにより、ある時突然頭上に現れる。そんな人生を生き切った人間の最期が高頻度で更新される千風のチャンネルは見る見る間に登録者を増やしこの夏で50万人を突破した。その社会的影響は大きかった。


知らせは9月の涼しげな風と共にやってきた。雨天の中で高所作業を続行させたゼネコン。その劣悪な労務環境にメスが入り、責任者が記者会見を開いて辞任した。少年を切り付けたシャブ中毒者は証拠映像をもとに逮捕。てんかんの薬を開発する製薬会社は薬品の効能とリスクの表記見直しが指摘され、現在対応中らしい。


千風はやはり来る日も来る日も俺の10メートル後ろを付いてきた。千風がチャンネル視聴者を焚き付ける。大衆の激励コメントは「千様」の栄養分となり取り込まれてゆく。徐々に千風が人間離れした何かになっていくように見えた。


***


カーテンの隙間から差し込む日差しが、朝に弱い俺の眠気まなこを突き刺す。上質な豆のコーヒーの香りが立ちこめた。土日は休むこと。四六時中タブレットを気にしている俺に舞椰と千風が持ちかけたルールだった。化け狐は俺の左腕に痺れを残してベッドから去っていた。


「あれ、舞椰のやつ、今日嘉都久さんのバーの手伝いとか言ってたっけ?」

「いや?聞いてない」


千風は振り返りもせず、パソコンを見たまま返事した。千風には土日がない。いや、土日こそチャンネルの作業を進めるチャンスだと3割増で意気込む。俺は葬儀会社との安売り合戦に張り合うことで、今でもかろうじて案件を流してもらえていた。もはや冥界の案件は単価が安い。先日ふと暇を持て余した際に、試しに他の死神の手伝うバイトをやってみた。よほど困った時しかもう受けたくないと思った。


「源泉徴収後の金額で再提出し…」「T番号の記載を…」ところ変われば経理のルールが変わる。小遣い稼ぎ程度の気持ちで手を出したアルバイトだった。自分の思い通りに仕事を進められないストレスが想像以上にかかり、コミュニケーションコストが高いと判断した。今もその請求書の差し戻しにかれこれ40分、頭を抱えている。


「もうさ…こういうの全社でルール統一しない…?」


エクセルの関数が壊れてセル内の数字が呪文みたいに文字化けしていた。


「ほぉ〜、フリーランスやってるわねぇ」

「…大手さん、こんな風に下請けをいじめて楽しいんですか…」


両手の細い指が肩に触れて、背後から整った顔が伸びてきた。千風が珍しく明るいアイシャドウを引いていた。その顔をマジマジと見つめていると、千風の眉が鋭く顰み、容赦のないブラインドタッチで俺のファインダーの中身が丸裸にされた。キョロキョロと瞳が左右に細かく動き、指先がまたエアそろばんを弾き出す。視線の先には過去の請求書データがズラリと並べられた。


「千風さ〜ん、流石にこの状況は一言ほしいです」

「…むくちゃん、ちょっと、本当にこの金額でやってるの?」

「え?うん。そうだけど…」


千風はため息をついて大きく肩を落とした。「おどき、ダメ死神」の言葉に、俺はベッドへぴょんと移りチェアを譲る。千風は俺の定位置に座ってカチャカチャと難しそうな表を作り、「死神収支表_20XX」とタイトルをつけて保存した。売上総額の下に赤字で新たな項目を付け加えた。


「えっと…所得税、住民税、個人事業税、国民年金保険、国民健康保険…」

「あの、千風さん?」

「見てなさい。半分以上吹っ飛ぶわよ」

「千様…それ以上は勘弁してください…」

「私じゃなくて国に言いな!ちゃんと選挙行ってるの!?」


あると信じていた手取り金が面白いくらい引かれて無くなった。何に使われているのかよく分からないところへ溶けるお金たち。千風にはニュース動画を一時休止してでも、先にこのふざけた税制度に悪の鉄槌を降してほしかった。


「よし。家計がヤバいことは分かったわ。むくちゃん。アンタ今日1日、私に付き合いなさい」

「へ?」


***


神奈川のとある駅を降りると、市民たちが駅前のロータリースペースで小さなお祭りを開催していた。舞台でダンスを披露するキッズ。わざとらしく牛串焼きの香りを遠くまで飛ばす大将。9月中旬でもホットパンツを履くギャルママたちの集まり。


斜め前を歩く千風はギンガムチェックのワンピースに水色のカーディガンを羽織っていた。平日はパンツスタイルのオフィスカジュアルだし、死神業務にはTシャツにジーンズ姿でついてくるから珍しい。初めて日傘が似合うと思った。


「こっちこっち。ちょっと早かったかなぁ」

よく来る場所なのか、千風は手慣れた様子でひらひらと手招きをした。俺は祭りを楽しむ群衆の中に真っ赤なカウントダウンを2つほど見つけた。千風に視線で刺され、その数字は見なかったことにして歩を進めた。


辿り着いたのは立派な面構えのお寺だった。「花のお寺」「河童のお寺」などいくつかキャッチフレーズがあるようで商売っ気の強さが伺えた。荘厳な雰囲気の門をくぐると風情ある庭が広がる。初めて来る場所なのに、足が進むべき道を知るように整えられていた。いつかこういうアテンドができたら良いなーーそう感じた刹那、千風が小走りで石段を数段駆け上がり、何かを見てからこちらを振り返った。


「よかった!…今年もタイミングバッチリ」

千風が指差す先には、赤と白、たまに黄色で敷き詰められた庭園があった。

「花?変な形してるな…」

「彼岸花よ。これくらい知っていなさい」


それは細長い茎の先に細長い花びらを付け、反り返るように咲いていた。周りから伸びる触覚のようなオシベが炎のようなフォルムを作り、そこらの花とは一線を画す特異な生命力を感じさせた。


「いろいろな花言葉があるのよ。今のむくちゃんにピッタリなのは…『独立』かしら。収支表もろくに作れないけど」


今朝見た収支表のショックからまだ完全に立ち直れていない。俺は張り出された説明書きを読んだ。球根に毒があるせいで不吉なイメージを持たれがちだけど、仏教では「天界に咲く花」という意味があり、おめでたい花として親しまれているーーとある。


「全員から愛されるような花より、これくらいの方が私は好きだな」

「そういうもんか」

「あのさ、むくちゃんーー」

観光を楽しむ母娘が銅鐘を打つ。その音で千風の声が途切れた。


俺が手洗いに立ち寄った隙に、千風は本堂で土産を買っていた。小さなオレンジ色の紐のようなものをバッグに入れる姿が見えた。何を買ったのかは見せてはくれないようだ。


「私は毎年ここに来るんだよ」

千風はまた日傘を開いて歩き出す。そして最後に妙なことを言うのだった。

「今年もここに連れてきてくれてありがとう。むくちゃん」


駅前のベンチで、慣れない紐だらけの靴で靴擦れを起こした千風を休ませた。もう険しい日差しではなかった。アキレス腱にできた傷口に絆創膏を貼って、目の前の出店で氷漬けにされたスポーツ飲料を買って一緒に飲んだ。結局まんまと塩胡椒のきいた牛串も買って、市民祭りに金を落としている。最近の千風はチャンネルが順調で、生活面もかなり助かっていた。家主の俺を退けて大黒柱の座に君臨しつつあった。


そういえば、千風と二人きりで出掛けるのは初めてだった。一緒に暮らしてもう半年になるが、一度も寝顔は見たことがない。信じられない音量で歯軋りを奏でているのはよく知っていた。


「ねぇ、むくちゃん」

「ん?」

千風が急に顔を覗き込んだ。賑わう市民祭りのノイズにモヤがかかり、千風の声が異様に浮き上がって聞こえた。

「今、傷の手当てをしてくれたのは、私がたくさん生活費を運んでくるからですか?」

「なっーー」

俺の声がひっくり返り、おみくじで当たるラムネ笛みたいな音を出した。それとこれとは全く無関係で。千風の傷口に絆創膏を貼ることに、メリットもデメリットも存在しないわけで。


「ふふっ。冗談よ」

「変なこと言うなよ」

「私にしてくれたそういう優しさを、むくちゃん自身にもしてあげてほしいと思うよ」

千風の言っていることを理解できなかったのは初めてだった。


「時間とお金を交換するのは、雇われの身の発想よ。サボっても無理しても時間さえ差し出しておけば、給料は発生するのだから」

俺はどこからこの話になったのか、その繋がりを思い出していた。


「むくちゃん、あなたの価値は、『コスパの良さ』なんかじゃない。イップスで大鎌を手放して魂を狩れなくなった死神。そんなポジションを取った人、他にいないから傑作だと思うのよ」


千風は天を仰ぎ、爽やかな笑みを浮かべていた。俺の右の掌は薬局のビニール袋を握りしめている。ねぇ、千風。さっき牛串が焼き上がるまでのちょっとした時間で、彼岸花の花言葉の意味をちゃんと調べたんだ。


赤と白と黄色のそれは互いを牽制するわけでも引き立て合うわけでもなく、それぞれの信念を持って空へ伸びているように見えた。


***


オクラのサラダを口に運びながら、今日の長い1日を振り返っていた。夜8時を回っても舞椰は帰ってこない。嘉都久さんのバーで酒でも飲んでいるのだろうか。


大閻魔の秘書である司命から相談の連絡を受けた。命令が降ることはあっても相談は珍しかった。葬儀会社の死神によって納品された魂たちが、現世に帰りたいとアーカイブセンターで暴動を起こしたり、受けていた説明と違うと再度ジバク化を図ったりするトラブルが相次いでいるそうだ。それで冥界の人的リソースが大幅に持っていかれているらしい。


「…むくちゃん、今日はお休みでしょ」

「あぁ、ごめんごめん!」


俺は慌ててメールを閉じた。今日も千風の料理は美味かった。昔から料理を自分でやっていたそうだが、配信でのアノ発言と何か関係があるのだろうか。俺は初めて他人の過去に興味を持っていた。


「…あの家族の話って」

「うん、本当よ」

千風は食い気味に、はっきりとした口調で返した。

「旭川市強盗殺人事件ーー」

「え」

「今は関東近郊のやばい組織と繋がってるって噂。その犯人」


俺はワケもなくツナとクリームの冷たいパスタにフォークを移し、カチャリと音を立ててみた。


「相続した遺産はあった。だけど親戚が後見人になっていた時期に、遺産の一部がものすごいスピードで使われていたことに気づき、家を出た。人生の主導権を誰にも渡してはいけない。自分で稼がなきゃと思って、ずっと独りで生きてきた」


目の前に座るのは、地獄の果てまで俺の10メートル後ろをついてくる不思議な人だった。


「私ね、この名前を一人でも多くの人に知ってもらいたい」

千風の耳が赤くなっていた。よく聞く台詞のわりには、あまりにぎこちない口調だった。

「それはーー舞椰と気が合いそうだな」

「アレとは、似て非なるものよ」

「そうなんだ」


静かな夜、千風は珍しく自分のことを沢山話してくれた。実は直射日光を浴びると皮膚の疾患が出てしまうこと、猫舌で熱いものが全く食べられないこと、大学でゼミ長を務めたがメンバーが誰もついて来れなかったこと、そして今日が誕生日だったということ。


「誰かに祝ってもらった記憶が殆どないの。だから誕生日の切り出し方もよく分からなくて」

「来年ちゃんと祝うよ。今日はもう大したことはしてあげられないけれど」

千風は少し黙ってから、俺と視線を合わせて言った。

「今日だけでいいので、舞椰が寝てるそこで寝てみたい」

「ええっ。ダニがいるかもよ」


危険を顧みずにカメラひとつで現場に踏み込むその危うさを、俺はいつもヒヤヒヤしながら見守ってきた。10年前の事件。毎年訪れる寺。彼岸花の庭園。花言葉。一張羅。アキレス腱の絆創膏。祝われ慣れない誕生日。消し忘れたコンデンサーマイクのカラフルな光だけが部屋の中で光っていた。


***


「舞椰が帰ってくるまでに、出ろよ」

「うん、ありがとう」


千風が動く度、俺と同じシャンプーの匂いと、初めて近くで嗅ぐボディクリームの香りが混ざり合った。今は背中の後ろで寝返りを打つ度に布団が引っ張られて体に擦れる。しばらくして千風は静かに呟いた。


「ねぇ、むくちゃんって、笑うことあるの?」

日中浴びた紫外線が応えたようで、俺たちは気付けば眠りに落ちていた。


朝方に帰ってきた舞椰が同じ布団で眠る俺たちに気付いて絶叫し、ムンクの叫びを更に誇張したような表情でこちらを見ていた。

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