第3話 相方

川崎駅東口を出ると、2月上旬の冷たい風が頬を撫でた。俺はこんなことをしている場合なのかと不安になり、辺りを見渡す。ミュージシャンがギターを掻き鳴らして歌い、白塗りのマジシャンが観客を楽しませ、パントマイマーが石像の様に固まっては動き歓声を浴びた。終息時計は見えなかった。見えたところでどうでも良いのだけど。


「こういう場所では歌わないのか?」

「ボクさんの歌声は、有料級だからね!今は無料ではばら撒かないよ〜」

「そうか。あとその沢庵みたいなジャケットはどうにかならないのか…?」

「これはボクさんの渾身の衣装なんだ♪」


舞椰はいつにも増してビビッドな、よりにもよって蛍光イエローのジャケットを着ている。隣を歩くのが少し憚られた。舞椰の容姿端麗さも相まって、すれ違う女性たちが舞椰の姿を二度見する。


焼き芋運転手の一件で涙していた夜が嘘のように、舞椰はケロリとしていた。真昼間からキャッチが立つ街を快活なスキップで跳ね進む。舞椰にはもはや声すらかからない。


アンティークな木造の柱。一面ガラスの壁。分厚いウッドの扉を引くとバー空間が広がり、温もりのあるアンバーライトが俺たちを迎えた。30名ほど収まるカウンター席とスタディングテーブルの奥に小上がりのステージがある。そこにはドラムセットやキーボード、アンプ機材などが並んでいた。「Abyss MOON」ーー外に看板がない代わりに、ステージ奥の壁に店名が刻まれていた。


「舞椰くん、今日もよろしくね」

カウンターの奥から白髪の老練な男性が顔を覗かせた。足元で袋詰めされたおしぼりの袋を避けながら、ディープレッドのチョッキに細い腕を通して出てくる。目尻の皺が優しく弧を描き、口元には穏やかな安定感が漂っていた。笑うと一層深みを帯びた表情でこちらに会釈する。俺もつい連れて頭を垂れた。


「嘉都久(かつひさ)さ〜ん!今日もよろしくお願いします!」

舞椰は急いで鞄から真っ白なCD―Rを取り出した。


「お前って、本当に歌うんだな…」

「ひどい、疑っていたの!?本当に歌うんだってば!」


舞椰はオケ音源のケースに挟んだルーズリーフの切れ端を嘉都久さんに見せた。遠くからでも見える、丸みのある太い文字だった。


「ほぉ〜、また面白い順番にしたねぇ」

「今日はボクさん、こんなセトリの気分なの!」


嘉都久さんは、舞椰の説明になっていない説明を笑顔で受け入れていた。簡単な打ち合わせが終わると、舞椰が小さなポーチを持っていそいそと手洗い場の前を陣取る。鏡を覗き込みながら、赤いアイシャドウを丁寧に瞼にのせていた。


「え…舞椰、メイクとかするんだ?」

「人様の前に立つんだから、そりゃするでしょう!」

「そうじゃなく、その…パッと変化しちゃえばいいんじゃ…?」


こんな小さな変化、妖狐の特殊スキルで一瞬だろうにと思った。嘉都久さんは舞椰の大切な儀式を見守るかのように眺めながら、グラスを拭いては逆さまに吊るしていく。慣れた手つきが長年の経験を感じさせた。指先が皺だらけになるまで自営業を営み、生活を成立させてきた老練のバーテンダー。失職したばかりの俺の瞳には人生の偉大な大先輩のようにも映った。


フリーランスの死神となって一週間と少しが経った。俺は相変わらず、魂を狩る大鎌を生成しようとすると、右手が急に冷たくなり震えてしまう。死神スキルは返還されたはずなのに、身体にやり場の無い不安感が押し寄せる。やった分だけ稼げて、サボった分だけ飢える立場なのに、たまたますれ違う死期確定者に話しかける地道な作業を続けていた。紛いなりにもベスト・グリムリーパー賞受賞歴のあるエリートだったのに。惰性で5、6件、魂を納品してみたけれど、到底食っていける金額ではなかった。面談に行った花屋には「愛想が足りない。逮捕歴もあるし。」と全て断られていた。


「よかったら、何か飲むかい?」

嘉都久さんが、空な目をする俺に気を遣って声をかけてくれた。

「えっと…お酒は今控えていて。トマトジュースありますか?」

「室九郎くんだっけ?舞椰くんから沢山話は聞いているよ。噂通りの素敵な方だ」

「舞椰が?一体何をーー」

「はー!はー!つぇー…!」


舞椰のマイクテストが会話を遮った。パッションイエローの華奢な体から出る声はスピーカーを経て増幅され、その場を震わせる。ただ、絶賛するほど美しい声でもない。これが正直な感想だった。嘉都久さんが店を開くと、店外で待っていた女性客がおしかけた。我先にと席を陣取ったら、カウンター内でせっせと動く舞椰に視線を送る。まだ10代と見られる学生から母親以上の世代まで。多岐に渡る層のお客が自分の立ち位置を確保した。


最前のマダムは、筆文字みたいなフォントで「一生マイヤー宣言!」と刻まれたサイリウムのライトを点ける。「ま」の形をした先っぽのライトには、スイッチひとつでオレンジ色と赤色が切り替わる無駄な機能がついていた。壁際にもたれる若い女たちも自前で作った舞椰のアクリルスタンドを高く持ち上げ、舞椰に無言のアピールを送る。


舞椰くんも一緒に飲んだらいいのに、とカウンター席につく中年女性も赤ワインを煽る。嘉都久さんがアンチョビの乗ったフライドポテト運び、仄かな湯気のカーテンを引いた。


***


暫くすると、軽快なポップミュージックが大きなスピーカーから流れた。そうかと思ったら次の曲は急にバラッドに変わる。セトリに合わせて打ち込まれたステージの照明が曲のトーンに合わせてコロコロと色を変えた。お客たちは舞椰の顔に見惚れながら、大人しくその歌に耳を貸す。


「どうだい、舞椰くんの歌は?」

最後列の壁にもたれる退屈そうな俺に、嘉都久さんが声をかけてきた。

「すみません、俺、ポップスに詳しくなくて…」

「はは、気にしなくていいんだよ。感想は自由だーーあっと」

嘉都久さんはふと音に反応して、ミキサー機器のつまみを素早く動かす。

「なんだ、舞椰のやつ、今日はやけに高音がノるなぁ」

「本当にみんな、舞椰を目当てに来ているんですね…」

「もちろんだよ。数年前に初めてあった日に、『一人も動員できないけど歌わせてくれ』と言ってやってきてさ。滅茶苦茶なオーダーだろ?」


嘉都久さんの顔には柔らかな笑みが広がっていた。口元がほんの少し上がり、目じりのしわがより深くなる。懐かしい何かを愛でるようでもあり、未来に希望を託すようでもあるその表情に、色とりどりのライトが反射して光を弾いた。


「どう断ろうか考える間もなく、当時の奥さんが勝手に許可を出しちゃったの。『昔好きだった男に似ている』とか言って。困っちゃうでしょ」


その頃の俺はまだ死神になりたてで失敗ばかりしていた。冥界へアテンドする魂を道半ばで逃がしては、大閻魔から有難い人格否定…じゃなくて"指導"をみっちり受けていた。今の時代、あんな指導では労務省から一発アウトだろう。結果、俺は心のこりを図太く残す、暴れ出しそうで面倒臭い魂を敬遠しだすようになり、効率よく動ける弱った魂ばかりを狙うようになっていった。…それが丁度その頃だった気がする。


「でも舞椰くんを受け入れた肝心の奥さんは二年前に亡くなってね。癌だった。延命治療だけはやめてと頑なに拒むから…おかげで私が退屈になっちゃってしょーがないよ」


返す言葉をうまく見つけられず、トマトジュースに口をつけた。

「上手いとか下手とか、個性的とか没個性的とか、売れてる売れてないとか。そういうつまらない評価の枠に収まりきらない、まるで人前に立つ星に生まれたような存在が、音楽の世界にはたまに現れるんだよ」

俺は信じられなくて聞き返す。

「舞椰が、それだってことですか?」

「分からない。でもちゃんと狂ってる。あ、これは褒めてるんだよ」


トマトジュースはもう半分以上なくなっていた。確かにどの曲もとっかかりやすくはあるが、胸を振るわす何かは感じ取れなかった。嘉都久さんの言葉の意味を理解したくて舞椰に目を凝らす。トマトジュースのグラスから結露がポタポタと垂れて足元を濡らした。隣で嘉都久さんがプッと吹き出す。


「ハハハ、やっと室九郎くんに会えたよ」

「え?」

「室九郎くん、1日も早くーー舞椰くんのカケラを受け取れると良いね」


セットリストの途中だというのに、汗を吹き出す舞椰が嘉都久さんのもとへ駆け寄るシーンがあった。お客さんたちが「どうした」とこちらを振り返る。そりゃそうだ。自由すぎるだろと思った。


「今日は負けてない。大丈夫、自分に負けてない」

湯気が見えそうな舞椰の言葉に、嘉都久さんがうんうんと頷いていた。


ライブが終わると、ほろ酔いのマダムが物販スペースでCDを何枚も積み上げて舞椰に擦り寄っていた。

「これだけ買うからチェキ一緒に撮りたいんだけど」

「チェキは歌に関係無いからやらないの。CDは聞ける枚数だけ買ってくれたら嬉しい♪」


***


舞椰の締め作業が終わるまで、薄暗くなった川崎の街を歩いた。コアな人気のラーメンチェーン。寂れた居酒屋。シーシャバー、猫カフェ、美容サロン、コワーキングスペース、スナック、ラブホテル、風俗。


「俺たちチームで何でも対応できますよ」

この街の頼もしさに後押しされ、俺も負けじと冥界へ電話をかけた。


「もしもし、死神コード696の東 室九郎ですが」

「お調べします。あー、最近フリーになられたあの。いかがされましたか?」

もう2月4日だというのに、1月の給料がまだ振り込まれていなかった。苛立ちを悟られぬよう、平然を装い話した。


「ご請求書の確認が取れませんが…お出しいただいていますか?」

「せ、請求書?」

「えぇ。請求書をいただかないと振り込むに振り込めなくて…」


1月はたまたま見かけた魂を6件アテンドしていた。このままでは、今月の家賃の引き落としで口座がすっからかんになってしまう。その後の一カ月を生きられない。


「では請求書のテンプレートをお渡ししますので…」


キーボードを叩く音と共に司命(しみょう)の声が淡々と届く。そんな杓子定規な返答をする仕事、今にAIに取って変わられてしまえばいい。愚痴の一つも吐きたくなるが、今は大切な支払い元だった。余計な口は謹んで時を待った。


「あっーー」

司命の甲高い感嘆の声が耳に飛び込んだ。ガチャ、ガタタ、としばらく騒がしいノイズが走る。暫くするとドスのきいた低い声に電話の主が替わった。


「丁度良いところに、東 室九郎よ。ちょっと納品数が足りんのではないか?せっかくフリーランスなのだから目標は高く!この大閻魔をガッカリさせないでくれよ!ハハハ!」

一方的でうるさいので受話器をできる限り耳から離した。人間には聞こえない声なのでスピーカーに切り替える。耳が持たない。

「ーーでな、ちょっと相談があるんだが。」

「はぁ」

「昨今の死神不足を受けて、新たな福利厚生の制度を考えてみたんだ。アヤカシの世界に横串を通し、彷徨える魂を一つでも多く救う画期的な”専属契約”を認める制度なんだがーー」

「話についていけないですよ。アヤカシの世界に横串…?」

「現場で汗を流す死神たちが、より効率的に魂を回収できるよう考案したありがた〜い制度だ。よかったら活用してみてくれ。ほな、請求書のテンプレと一緒に新制度の資料もメール送っとくから!」

「ちょーー」


ガチャリと電話が切れた。人でごった返すアーケード街。歩行者の邪魔にならぬよう店と店の間の細い路地に入った。嘉都久さんみたいな人生の先輩と話したばかりだからか、自分がいかに狂った職場にいたのかまざまざと見せつけられたようだ。花屋を探したい。


「専属バディ制度ーー『契り』の試験的導入のお知らせ」


家族、恋人、親友。死神は"バディ"と「契り」の合意がとれた時、連携して円滑に持続的に仕事をこなせるよう、其々に追加スキルが付与される。


・死神はバディを半径10メートル以内に強制召喚できる。

・死神はバディとテレパシーで会話できる。

・死神はバディを生命の危機から守る為の非科学的な力を宿す。

・バディは、死神の為になると信じるスキルなら何でも1つ付与される。


ずっと一人で死神をやってきた俺には無縁の制度だと思った。それよりも一刻も早く請求書を作成して送りたかった。カフェに入ろうとしたが、コーヒー代を出す勇気がもてなかった。自動ドアが開いたのに入れない俺を店員が困惑の表情で見た。俺は「あの期間限定もう終わってんのか…」と誰も聞こえない小言をぼやいて後ずさる。


仕方なく店と店の間の隙間に戻り、立ち作業で請求書を送った。労働側から請求されなければ報酬を振り込まないなんて、フリーランスや下請けに対して世間の風あたりは厳しい。納品物を受け取ったんだから、そちらから「ありがとう」って払うのが筋だろうーーなんて考える俺は、ずっとお役所で守られてきた甘ちゃんなのだろう。


どのお店の店員たちも、皆おもてなしの笑顔で人々と会話をしていた。誰一人として俺に用が無いアーケード街で、通り過ぎる雑踏を眺めていた。


***


その時だった。俺は見てしまった。


【00:00:03:58】マルヤマ・リカ

遠く向こうに、小さな真っ赤のゆらめきがあった。


カウントダウンは残り4分を切っている。肉体が完全に再起不能状態になるまでのラグを考えるとーー間も無く目の前で「きっかけ」が起こる。目を細め、数字の持ち主のマルヤマ・リカを見つけた。白いファーのコートを羽織り、隣を歩くライダーズを着た強面な男と腕を絡ませていた。おそらくまだ20代か。ミルクティーのような色の巻き髪を耳にかけながら、チョコバナナクレープに頬張ろうとしていた。その瞬間に、世界は一瞬の静寂に包まれた。


ドン。

鈍い音が響き、俺の視界からマルヤマ・リカが消えた。数秒遅れで周囲の人々がマルヤマ・リカの居た場所を見て静止する。沈黙はやがて悲鳴となり、アーケードの屋根に反響してまた地面へと落ちて広がる。


絶叫。走り逃げる者。向けられるスマホ。遠くから背伸びして覗き込む者。ガタイのいいサラリーマンに取り押さえられたスカジャンの男。背中に鳳凰の刺繍。隣を歩いていた強面のライダーズは微動だにできない。足元には一緒に食べるはずだったクレープが落ちていた。


我先に避難する群衆を掻き分けて俺だけが現場へ向かって走っていた。いかにも面倒臭そうな匂いがした。別に放っておけば良い。俺はフリーランスだ。首を突っ込みたい案件にだけ首を突っ込んでいれば、それで良い。ただ、カフェにも入れない俺でも存在して良い理由があると思いたかった。マルヤマ・リカの綿毛のように潔白なコートは、横腹、胸、首元から真紅に染まり始める。スカジャンがダガーナイフをカランと手放し、目の前の現実離れした光景を前に涙をこぼす。止めどなく流れ続ける鮮血が、カウントダウンの数字と反比例するようにその面積を増す。そのスピードの一定感があまりに機械的で、人間の積み上げてきた物語の脆弱さを見たようだった。


俺は釈放されたあの日から、人間がこの世を去る瞬間に立ち会うことが増えていた。死後の魂を誘うのではなく、生前のうちに駆けつける死神になったんだ。こんなコスパの悪い"案件"、どの死神もやりたがらないだろうーー。


【00:00:01:47】マルヤマ・リカ


マルヤマ・リカの蒼白い球体が肉体から浮き出す。それは肉体と図太いゴムチューブのような「心のこり」の管で繋がっていた。ほら見ろ、超面倒臭い案件じゃねぇかーー。マルヤマ・リカの魂は、間も無く再起不能になる肉体へ戻ろうと何度もそれにぶつかっては離れてを繰り返していた。


「マルヤマ・リカさんですね」


路地で人知れず黒い翼を開いた俺は、その球体に静かに近づいた。サイレンの音が徐々に近づく。現場には既に黒と黄の立入禁止テープが張られていた。「撮影はご遠慮ください!」と叫ぶだけの女性警官もいる。救急隊員たちがマルヤマ・リカのコートを引き裂くと、血を噴く傷口が露わになった。まさに止血と人工呼吸が始まろうとしていた。


「ーー残念ですが、死神です。マルヤマ・リカの肉体はあと1分ほどで再起不能状態となる。俺は今、肉体から放出された魂へ直接語りかけています」


「え…死神?」


隣を歩いていた男、ナイフ両手に突っ込んできた男、それを抑えこむ人々。誰一人、浮遊状態の俺を認識しない。人間のことは、人間にやらせておけばいい。


「マルヤマ・リカとしての命が終わるってこと?」

なぜか輪廻転生できる前提の質問が飛んできた。信仰は自由だから特に触れずに話を続ける。

「間違ってはいません。あとおよそ1分は断定できませんが」


マルヤマ・リカの魂はその場で震え出す。肉体を繋ぎ止める心のこりのチューブの太さに、腹を括った。会話でどうにかなる相手では無さそうだった。


「絶対に結ばれたい人がいました。許されない恋でした」


赤裸々となった魂は、基本的に嘘をつかない。その言い草から、本命はライダースでもスカジャンでもないことが伝わってきた。魂が肉体を突き破らんばかりのダイブを始める。未来へ向かうよほど強い信念がなければそれは難しいーー。


【00:00:00:00】マルヤマ・リカの肉体が再起不能状態となりました。


その時だった。蒼白の球体が紅蓮が染まる。漆黒のプラズマがチリチリと不規則に飛び散り、血生臭い瘴気が鼻腔を刺す。触れてはならない凶暴なかまいたちが渦巻きながら、地面にめり込むように落ちていく。ーー冥界における最悪の事故認定事象ーー『ジバク化』が始まっていた。


胸が苦しく、心音が速くなる。息は吸えるのに吐けない。もしも足を踏み入れれば、永遠にその力に飲み込まれる恐怖が背中を這い上がる。俺は叫んだ。


「聞け!マルヤマ・リカの魂…!」

「もういい…」

低く歪む声。もはや、先ほどまで弱々しく戸惑いを見せたマルヤマ・リカのそれではなかった。

「地縛霊となると、恨みと憎しみが心の穴を埋め尽くし、今後何千年もの間、眠れぬ夜を過ごすこととなります!絶対にお勧めしません!」

「それでも!!」

声なき声は、そのボルテージをあげた。

「冥界へ行き、二度とあの人に会えなくなるなら!此処に居止まり、あの人が居るこの惑星(ほし)で一緒に過ごしたい!」


大切な人とは、時間さえかければ必ず結ばれるものなのか。俺にはそれすら分からない。右腕を背の後ろへと回した。大丈夫、きっとできる。自分に言い聞かせながら右の掌をゆっくり開いた。空気が震え、歪みだす。黒い霧が渦を巻き螺旋となってから一体化し、持ち柄の部分が体を成した。冷徹に輝く刃の生成が追いついてーー冥界へ誘う死神の大鎌の具現化が完了した。


大鎌を目にしたマルヤマ・リカの魂が一瞬たじろぐ。だけど止まることはなかった。こちらの都合で申し訳ないけど、仕事にはタイパってものがある。命の終わりは唐突に、全員へ平等にやってくるんだ。マルヤマ・リカの身体が救急隊の手によって担架で運ばれていく。脳汁の止まらぬ感覚がーー溢れ出す!

「さぁ時間だーー!その面倒臭そうな長話、冥界に向いながら聞かせてもらおうか!」

死神の大鎌を握り締めた。暴れるなら冥界に行ってから好きなだけやってくれ!一刀両断の覚悟を決めた。その時だった。


マルヤマ・リカの魂だった何かが、かまいたちを吹き荒らすのを止めた。漆黒のプラズマもふっと消え、球体の紅色が蒼白に戻ったのを視認した。振り返ると背後に小柄な男が立っていた。スーツの上からでも分かるダラシない中年太り。左襟には有名な信用金庫の社章バッジが輝いていた。目の前の惨状に全く動じることなく立ち尽くす男は、何も発言していないのに、驚くほど俺たちの会話に馴染んでいる気がした。


「トシキさん…」

そう言いながら、浮き上がった球体がトシキの方角へ歩を進めた。人間が俺たちの会話を聞き取れるはずも、その様子を目で見ることもできるはずもなかった。過去に経験したことのない、イレギュラーな事態が起きていた。


「もうすぐ離婚が成立すると聞いていたのに…私がヘマしちゃうなんて」


現場にはすでに、若き女の血痕を覆い隠すブルーシートと、風に吹かれる弛んだバリケードテープしか存在していなかった。この殺傷事件は後に、無責任な憶測と共にネットニュースとなり大きな話題を生んだ。その最後、トシキと呼ばれる男は浮遊する小さな光にそっと手を伸ばした。傷口をそっと温めるように、しばらく包み込んでいた。何を言わなかった。


「トシキさん、愛している」

「私が居なくなったら若い子を好きになるかな?」

「なんてね。ちょっと心配だっただけよーー何か言ってよ、もう」

「どうか、幸せで」


***


納品を済ませ、冥界を出ようとしたその刹那、後ろから大きな地響きと共に大閻魔が岩みたいな指先で俺の肩を叩いた。連日まんまとやって来る俺が面白いのか、目元を細め、唇をにんまりと口角上げていた。


「やはり大した奴だ。ありゃ稀に見る"大ネタ"だよ!あのままジバク化したらS級の悪霊になっていた可能性すらある!いやぁ感謝感謝!大手柄だ!」

「あのワケありの魂を"ネタ"と呼べるアンタは…やっぱり腐ってるよ」

「そう言うなって!さっきのお前の変わった仕事のしかたを見て良いことを閃いたんだ」


これ以上は勘弁してくれ、という代わりに翼を広げて合図した。すると大閻魔は一台のタブレットを差し出す。大閻魔のロゴが刻まれた悪趣味なカバーは外すことができない。やがてこのタブレットが俺と舞椰をトンデモない事件に引きずりこむーーなぜかそんな予感がプンプンしていた。


「…これは?」

「死亡者リストはさすがに機密情報なので…与信のない野良の死神にはこれをやろう!『終息予定者リスト』!」


俺は耳を疑い、タブレットの画面を覗き込んだ。数名ばかりだが…エクセルに並ぶ数名のデータ。ソウル・リープで瞬間移動できるよう、ご丁寧に顔写真と氏名(カタカナ)と都道府県が打ち込まれていた。


「これ…いいのか?」

「大体ややこしい事故か事件か重篤な病気…ま、普通の死神ならやりたがらねぇ骨の折れる案件ばかりだわな」

でも、このリストがあればーー。

「そう。宛もなく街を歩き、対象者を探し続けるより、よほど効率的に稼げるとは思わないか?」


大閻魔の思い通りにことが進んでいるようで釈だった。しかし、次の瞬間には、もうこのリストの使い道を考え始めていた。


***


すっかり夜だった。玄関の扉を開けると、金色の弾丸が飛んで来て俺の鳩尾を捉えた。男二人、その場に転げて倒れ込む。油断していた。


「むっくがボクさんをやっと受け容れてくれた!?感激なんだが!?」

「考え事してただけだっつーの!…あれ?」


キッチンからいつものラーメンではなく、カレーの香り漂っていきた。視線の奥に見えるローテーブルの上が騒々しいことになっていた。マカロニサラダ、浅漬け、カニクリームコロッケ、イワシの南蛮漬けが所狭しと並ぶ。全部スーパーの惣菜だった。綺麗に皿に盛ればここまで明るい食卓になるのかと驚いた。


「ボクさんの歌の臨時収入さ!好きなだけ召し上がれ!」

「へぇ。ライブって分前、ちゃんと入るんだな」


豪勢な食卓から、嘉都久さんの気前の良さが伺えた。テレビのワイドショーで、川崎のアーケード街で起きた殺傷事件が取り上げられていた。画面の上の二隅が下世話なキャッチフレーズに彩られ、反吐が出そうだった。あの死について、お前らに何が分かると言うのだろう。視聴者からの共感を集めたいだけのコメンテーターが無責任に吠える。「不倫をされた側は一生の傷が残るんだ」。男性MCは柄にもなく黙りこくっている。


今は節電を心がけている。舞椰も寝る直前までは上着は羽織っていた。


「見事だった。ありがとう。」

「え?ボクさんの歌、そんなに良かった?」

「歌もまぁ…新鮮で楽しかったんだけど、そっちじゃなくてーー」


舞椰の"カケラ"を受け取れるといいねーー。

嘉都久さんが放った言葉がよぎった。


「まさか相手が想像する者にも化けられるなんて。驚いたよ」

「なりたいものなら何でもなれる!イマジネーションのその先へ♪」

「なんだ、新曲の歌詞か?」

「うーんとさぁ、むっく」

舞椰はポテサラを掴む箸を止めて言った。

「みんなが、少しでも幸せに終われたら…」

「うん」

俺は続きを待った。

「…とっても良いよねぇ」


小学生みたいな感想に俺は肩からズッコケた。ちょっと気持ちは分かるけどさ。死期の見える人生ーー俺は今、舞椰をそれに付き合わせようとしている。


未払いの報酬。路地裏で作成する請求書。滞納確定の家賃。埃を被るベスト・グリムリーパー賞の盾。大閻魔からの悪趣味なタブレット。何の為に設けられたか不明だったPDF資料の『新制度』ーー。久しぶりに大鎌を握った手の感触がまだ残っている。一瞬また頭が飛んだ。結局、振らなかった。


「舞椰ーー」

俺は電気を消して、その名を呼んだ。変わりたかった。


「舞椰って、何の為に歌っているの?」

「何の為に?質問の意味が分からないのだけど」

「何を成し遂げたくて、とか。いくら稼ぎたくて、とか。」

「歌いたいから歌うんだよ。それ以外には特にないよ」

「そうかーーこっちへおいで」


大きな満月の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。冷たい部屋の中で、その淡い光が唯一の照明だった。手のひらと心臓の鼓動が重なって、不規則な呼吸が一瞬跳ね上がる時、舞椰の首筋に死神の刻印が刻まれた。背を向けたままベッドに横たわる舞椰が、月光のスポットの中でぽつりと訊ねた。


「むっくってさ、ボクさん以外のアヤカシとも…こういうことする?」


それは初めて知る“特別”への戸惑いか。しばらく黙ってから瞳を閉じた。今夜のアテンドのことを思い出していた。


***


マルヤマ・リカの魂のアテンドは拍子抜けするほどあっけなかった。俺を急かすように、グングンと冥界まで飛んでいった。


「分かってる。確率的にはとても難しいって。だけど早く冥界に着いて、早く生まれ変わって、早くまたトシキさんに会いたいじゃないですか。0.01%でも可能性があるなら、行くしかないじゃないですか」

ベスト・グリムリーパー賞受賞の経歴が聞いて呆れるが、死神の大鎌は今日も出る幕が無かった。そして何かが変わり始めていた。肩書きも実績も一度全て失うフリーランスという生き方に、俺は出会った。


「誰にも相談できない恋だったから。死神さんに話せて晴れやかな気持ち」

花屋を探すのは、一旦辞めようと思った。

「また愛する人に会えると…」

「ええ。はい」

「…とっても、良いですね」


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