湖から来たモノ
スター☆にゅう・いっち
第1話
2012年。南極大陸の氷床にて、ロシアの調査隊は歴史的な瞬間に立ち会っていた。
掘削機が厚さ四キロメートルに及ぶ氷を貫通し、数百万年のあいだ人類から隔絶されてきたボストーク湖に達したのである。
「地球最後の未踏の水域」と呼ばれたその湖から採取された水は、研究員たちの歓声とともに試験管に収められた。
だが、その水の中には、予想もしなかった存在が潜んでいた。
――アメーバに似た、単細胞の生物。
公式報告では「無害」とされた。顕微鏡で観察されたそれは単なる奇妙な原生生物に見え、危険性はないと結論づけられたのだ。だが数週間も経たぬうちに、研究所の周辺で異変が広がりはじめる。
その生物は接触した細胞を精密に複製し、増殖する。
単なる寄生でも感染でもない。対象そのものを「置き換えてしまう」のだ。
やがては、人間の姿すら完全に模倣し、社会に紛れ込むことが可能になった。
最初に違和感に気づいたのは、とある研究員の妻である。
ある晩、彼女は夫に紅茶を差し出し、何気なく尋ねた。
「あなた、昨日まで砂糖を三杯も入れていたのに……今日は入れないのね?」
夫は軽く笑い、「健康のためさ」と答えた。
しかしその笑顔に、妻はなぜか戦慄を覚えた。
そこにいるのは夫の姿をした何か別の存在――すでに「コピーされた夫」であった。
こうして、一つの法則が浮かび上がる。
コピー人間は、砂糖を受けつけない。
奇妙なことに、彼らは甘味を忌避し、苦味や塩味ばかりを選ぶのである。
やがて「ノンシュガー」の流行がロシアを席巻し、瞬く間にヨーロッパ各地へ広がった。健康志向だと信じて疑わぬ人々は、自らがすでに「置き換えられた存在」であることに気づかぬまま、日常を続けていった。
学者の一部は、この生物について古代の伝承を紐解いた。
かつて南極に栄えたという幻の文明――メガラニカ。氷床の下に眠るその文明を滅ぼしたのは外敵ではなかった。
内部に忍び込んだこの「人に化けるアメーバ生命体」である。
文明は内側から浸食され、誰が本物で誰が偽物か分からぬ混乱の果てに、歴史から姿を消したのだ。
現代。
政治家の唐突な政策転換、芸能人の不可解な失踪と奇行。
ニュースを賑わす彼らの姿に、人々は違和感を覚えながらもすぐに忘れる。SNSでは「彼らは人間ではない」という陰謀論が飛び交い、動画配信者たちは「コピーの見分け方」なる都市伝説を競って広めた。
だが、その陰謀論を笑い飛ばしている者たちこそ、すでにコピーである可能性が高かった。
友人、恋人、同僚――そして自分自身すら。
最後に残された本物の人間は、いったい誰なのか。
いや、それを問う資格があるのか。
なぜなら――。
あなた自身が、本物であると証明できるだろうか?
湖から来たモノ スター☆にゅう・いっち @star_new_icchi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます