次元を駆けるチョーク

クソプライベート

相対性理論

​「諸君、今日も授業を始めるぞ。……と、その前に」

​国立時空大学、量子物理学研究棟。江波戸(えばと)教授は、そう言いかけると、ピクリとも動かない。否、動いているのだ。常人には視認できない、秒速一万キロメートルという超絶的な速度で。彼の講義は、いつもこんな調子で始まる。

​江波戸の体感時間では、彼は既に教室を飛び出し、地球を半周して南米のコーヒー豆農園で最高の豆を厳選し、月面にある個人ラボで焙煎・抽出、淹れたての香ばしい一杯を手に、何事もなかったかのように教壇に戻っている。その間、現実世界では0.001秒も経過していない。まさに、神速。

​彼の悩みは、その超スピードを活かして解決できるはずの「時間がない」という問題ではなかった。目の前の学生たち、特に最前列でヨダレを垂らして居眠りしている佐々木(ささき)くんの存在だ。

​「佐々木、起きなさい」

​江波戸の声は、彼が南米から月へ移動中に、佐々木の鼓膜の奥に直接届くように調整されている。だが、佐々木はピクリともしない。彼の居眠りは、もはや宇宙規模の揺るぎなさだった。

​江波戸はため息をついた。体感では数万回目。

​「(またか……。どうすれば彼を起こせる? 直接触れれば、相対速度で人体がミンチになる。音波は試したが効果がない。脳波を直接刺激すると、倫理規定に抵触する可能性がある。これは、私の研究テーマである『超光速移動時の物理現象における人体への影響と、その応用』よりも難しい問題だぞ)」

​江波戸は思考を巡らせる。その間、彼の周囲では、空間がほんのわずかに歪み、時間が僅かに遅れる「江波戸場(えばとば)」と呼ばれる現象が発生する。

​彼は再び教室を飛び出した。

今度の目的地は、佐々木が愛用する枕の製造工場。

「(佐々木の居眠りの根本原因は、彼の枕にある。あの極上の低反発素材が、彼の覚醒を阻害しているのだ。ならば、その素材の分子構造を僅かに改変し、”覚醒効果”を付与すれば……!)」

​工場に到着した江波戸は、生産ラインに乗せられたばかりの枕に、超高速で分子レベルの改変を施していく。彼の手が触れると、まるで時間が止まったかのように粒子が動き、枕の素材が持つ物理特性が書き換えられていく。

「(これでどうだ。今度こそ、快適な目覚めを保証する『覚醒枕』だ!)」

​満足げに教室に戻ると、0.001秒前の江波戸がまだ佐々木に声をかける直前だった。江波戸はもう一人の自分に視線を送り、ニヤリと笑った。未来の江波戸は過去の江波戸に、佐々木の居眠り問題が解決したことを、眼差し一つで伝達する。

​「佐々木、起きなさい」

過去の江波戸の声が響く。だが、佐々木はやはり起きない。それどころか、彼の顔は、以前にも増して至福に満ちた表情で、白目を剥いていた。

​「(な、なぜだ……!? 計算が、最適化されたはずのアルゴリズムが、なぜ機能しない!?)」

​江波戸の脳内シミュレーションが激しくエラーを吐き出す。

彼の体感では、数千億回に及ぶ試行錯誤が瞬時に行われた。しかし、どんなアプローチも佐々木の居眠りには効果がない。

​その時、江波戸はふと、教室の窓から見える空に目をやった。一点の雲もない、抜けるような青空。

「(もしかして……佐々木の居眠りの問題は、彼の物理的な状態だけではないのでは?)」

​江波戸は、再び光速を超えた。今度は、宇宙へ。

たどり着いたのは、太陽系の端、冥王星の軌道上。

そこで彼は、膨大な数の宇宙塵と星屑が、特定のパターンで佐々木の頭上に集束しているのを発見した。

それは、宇宙規模で形成された、佐々木専用の「眠りのオーラ」だった。

​「(まさか……宇宙そのものが、佐々木を寝かしつけようと!)」

江波戸は驚愕した。これでは、どんな物理的な覚醒策も無力だ。宇宙の根源的な力が、佐々木を眠らせようとしている。

​江波戸は教室に戻り、静かに教壇に立った。

佐々木は、相変わらず幸せそうに白目を剥いている。

​「(佐々木……君は、宇宙に愛されているのか。あるいは、宇宙の理(ことわり)に逆らってまで授業を受けようとしない、究極の反骨精神を持っているのか……)」

​江波戸は、人生で初めて、”時間”が無限ではないことを感じた。この途方もない問題に、彼の超スピードも、IQも、全く通用しない。

​「佐々木くん。今日はもう、寝てなさい」

​江波戸の言葉に、佐々木は奇跡的に、ゆっくりと目を開けた。

そして、ぼんやりとした目で教授を見上げると、一言。

​「……せんせぇ、今日の授業、もう終わりっすか……?」

​江波戸は、全身から力が抜けるのを感じた。

彼の体感では、宇宙の始まりから終わりまでの全ての時間が、この0.001秒の間に凝縮されていた。

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