ラ・ルーナ闘猟記

@bairinji

第1話

リチャードよ、魔物狩りの頭目などという下賤な役を我が甥子に任ずるつもりか。

忌まわしい‼

忘れたのか‼

そなたに碁戯ごぎを教えたのはこの私である‼

よって、そなたが碁戯好きの王と近づきになれたのもこの私の口添えのためである‼

その恩を今一度思い出したならば、我が甥子にはより貴く相応しい職が与えられるべきであると気づくはずだ。そなたに恩義に報いる善良なる心があることを祈り、今一度考えを改めるよう、 忠言する。

                                   ボマ・グレゴリ

  

エルトン侯爵様、先日は競馬会にて我が家を取り立てていただき、誠に感謝申し上げます。しかしながらお役目の件、我が息子に話したところ、それならば首をくくると言ってききません。騎手としても優れ、馬の扱いにかけてはこの国一の自慢の息子。私共夫婦にとって大切な坊やなのでございます。どうか、此度の任官はご容赦いただきますよう、お願い奉りまする。

                               ミッツェル・フェルマンド


親愛なる侯爵閣下

ラ・ルーナ派遣の件で恐れながらご進言したく、手紙を差し上げました。

我が弟は虚弱なうえに臆病者で、砦暮らしなどとても耐えられる体ではございません。役目を全うすることはおろか、砦にたどり着くこともままならぬでしょう。

それでも構わぬと仰るのであれば、弟の命差し出す覚悟はできております。

されどもし、弟を哀れと思われるのであれば、此度の除目はご免除いただきますようお願い申し上げます。

                                 バーバヒル・リンクス


 リチャード・エルトン侯爵は届いたばかりの書簡を手に苦悶の表情を浮かべていた。

 ガルブレイズ政府の貴院筆頭役を担う彼は年若く、今年四十歳を迎えたばかりである。

 口髭を蓄えた西部地方出身者らしい整った顔立ちの男で、そのせいか国王からの寵愛も深い。   

 穏健で社交に富んでいるとあって、頭の堅い貴院の中では話の分かる人物として知られていた。

 貴院筆頭とは宰相の次に国王、並びに聖父卿との謁見が許される地位である。侯爵の出世の早さは時の王妃一族を凌ぐほどであり、そのため人々からあらぬ疑いと嫉妬の目を向けられていた。

 そんな彼の頭を悩ませているのが、ラ・ルーナの砦に派遣する新しい館主たてぬしの選定であった。

 ラ・ルーナは古えから続く魔物狩りの本拠。砦の館主は代々、無役の貴族かその子弟、縁者が務めている。

 しかしながら、魔物狩りとは狩場で狼や鹿を狩るのとはわけが違う。さすがに狩りに出ることはないだろうが、王都で暮らすよりはるかに危険であることは確かだ。

 そのため、なり手を探すのも骨が折れる。

 特に王都出身の貴族は魔物に対する忌避、軽視が著しい。魔物狩りに対する考えも古く、血や瘴気に対し迷信めいたことを口にする者も多いのだ。

 エルトン侯爵自身、魔物に対し造詣が深いわけではなかった。向き不向きもよく分かっていない。そのため彼は適当な人物を見繕ってはラ・ルーナへの派遣を任じる書簡をかたっぱしから送り付けていた。


 (誰かひとりでもやる気のある者がいればよい)


 もうどうにでもなれと、半ば投げやりな気持ちでいたが、届いた書簡に好ましい返事はなかった。

 「さて、どうしたものか」

 長い間、館主不在では砦の狩人が交誼こうぎの面で苦労するだろう。

 (いい加減、誰か見繕ってやらなければ)

 そのとき、リチャードは彼の愛する侍従の一人、ハミルを見た。そばかす面の線の細い青年で、雪のように白い肌をしている。そんな彼の顔を見て、ふとリチャードは思い出した。

 リチャードがまだ幼く、十代にも満たなかった頃。彼は毎日のように悪夢に悩まされていた。それは鮮明でやけに生々しく、痛みを伴う夢であった。肌を炙られれば、しばらくその場所が火傷したように痛み、首を絞められれば、声が出なくなった。

 悪夢は昼夜問わず眠りにつけば始まる拷問のようなもので、幼いリチャードは神経が痩せ細り、みるみる衰弱していった。

 「このままでは息子が死んでしまいます!」

 母の涙ながらの陳情を父は重く受け止めた。

 そうして屋敷には、父の古馴染みの男が呼ばれた。槍を片手に現れた男は、話を聞くとリチャードのため毎夜寝ずの番をしてくれることになった。

 一周期(およそ七日から十日)が過ぎ、二周期を超えると悪夢は嘘のように消えた。

 夜飛び起きることがなくなり、体の不調も出ていない。

 このとき、父の頼みを一も二もなく請け負ってくれた男のことをリチャードは今でも感謝している。大人が鼻で笑うような夢の中の体験をリチャードが語って聞かせると、いつも真摯に耳を傾け、その恐怖に付き合ってくれた。


(ああいう者でなければ、魔物退治の頭目は務まらぬ)


 不安も孤独もすべて包み込むような、芯の強い、心根の温かな男であった。

 月影の中、背を向けて立つ男の背中を天幕越しに見ていると、幼いリチャードは涙が出るほど安心し、すぐさま寝息をたてることができた。


 リチャードは半身を起こすと、羽筆を手にした。

 筆先にインクを浸す。

 そうしてある人へ向け、手紙を書いた。

 流麗で思わずほぅとため息がつくほど美しい字列を光にかざして確認し、インクが乾くのを待つ。そうして、丁寧に便箋におさめると自らの手で蝋印を捺した。

 「ハミル、これを聖都に届けるよう手配しておくれ」

 「はい、侯爵様」

 ハミルが恭しくそれを受け取る。

 リチャードは椅子に深く腰掛け直し、この頼みを請け負ってもらえることを切に願った。





 「エルトン侯爵から?」

 ジョー・グラハムはリコラ司祭から手紙を受け取り、首を傾げた。

 「なんでも昔、あの子を悪夢の如き呪いから救ってくださったとか。その縁を思い出したそうですよ」

 リコラ司祭はそう言うと、神に仕える者に相応しい慈愛に満ちた表情を浮かべた。小さな顔に大きな額。つるんと剥いた卵のような頭には祈祷用の帽子がちょこんと乗っている。

 グラハムは司祭の貴い微笑みからそっと視線を落とした。

 「先代の侯爵様には生前よくしていただきました。エルトン侯爵様が、あのような昔のことを覚えていたとは嬉しいものです」

 「それほど印象的な出来事だったのでしょう」

 リコラ司祭が微笑む。

 「確か侯爵様は司祭様の遠縁でしたな」

 「ええ。リチャードは私の姉の孫にあたります」

 グラハムは司祭に微笑みを返すと、素早く手紙の文面に目を通した。そうして戸惑いを露わに肩を竦めた。

 「どうしました?」

 グラハムは手紙を司祭へ差し出した。

 リコラ司祭は手紙を読み進めると、「ふむ」と唸ったきり珍しく険しい顔つきで黙り込んだ。

 グラハムは祈りの場に立つ司祭の、複雑な影の動きを眺めながら、彼が話し始めるのを待った。

 長い沈黙の後、司祭が口を開いた。

 「なるほど、つまりラ・ルーナの館主になれと、そういう話ですな」

 回りくどい言い回しや挨拶、美辞麗句をそぎ落としていけば、そうなる。

 「司祭様、私はもう魔物狩りとは縁遠い人生を送っております。こうして年老い、力も衰え、昔より頭も冴えておりませぬ。残念ながら侯爵様のお力添えはできかねます。この話は司祭様から侯爵様にお断りをいれていただきたい」

 「よいのですか?」

 念を押すような問いかけにグラハムは頷きを返した。

 「今や私は神に仕える身。それに、一度神に抗い罪を犯した私は信仰を胸に、今一度立ち働かねばなりません。それに、あの子を喪ってまだ日も浅い。今はあの子のそばを離れたくないのです」

 灰青色の瞳に昏い影が宿る。

 リコラ司祭はそんな彼の肩に手を置いた。

 「後悔しているのですね」

 グラハムは片手に顔を埋め、深く頷いた。

 「であれば、貴方はもう一度悪魔と戦わなければならない」

 司祭の言葉にグラハムはゆっくりと顔を上げた。

 「ジョー・グラハム、この世には貴方のようにあと一歩のところで踏みとどまれた者がいる。その一方で、闇の囁きに心を奪われ、身を落とす者は悲しいことに大勢います。その者たちの助けとなりなさい」

 司祭の手に力がこもる。 

 グラハムの落ちくぼんだ両目が篝火に照らされ、瞬いた。

 そうして、リコラ司祭は祭壇に置かれた聖櫃から、革袋に入った短槍を取り出すと、グラハムの眼前に差し出した。

 「ラ・ルーナの窮状は私の耳にも届いていました。どうやら聖都の外で恐ろしい陰謀が渦巻いているらしいことも―――――――――。今こそ、これを貴方に返すときでしょう」

 グラハムは両手で槍の柄を掴み、刃先に触れた。ずっしりと重いそれは長らく放置されていたとは思えないほど磨き抜かれ、刃こぼれ一つない。

 「手入れしてくださっていたのですな」

 グラハムが微笑む。

 「預かりものですから」

 司祭が微笑みを返した。

 グラハムは篝火の光を受け赤くなった頬をそっと緩めると、槍の柄を手の中で回転させた。ひゅんっと鋭い音がして、槍が二回転して手の中に戻ってくる。あまりに高速であったため、リコラ司祭はその動きを目でとらえきれず、瞠目している。

 にこりと笑ったグラハムは槍の柄を握ると、覚悟を決めたように力強く石突を床に突き立てた。






【ラ・ルーナの狩人】

 その日、砦の中はいつにも増して活気に満ちていた。

 王都モンドールで数十年ぶりに聖花が開花の時を迎えたのだ。

 聖花エスメラルダは魔物除けの聖遺物の一つ。その開花は国をあげて喜ぶべき吉事と定められている。

 ラ・ルーナの砦でも各所で祝賀祭の支度が整えられ、久方ぶりの吉報とあって、行き交う人々の表情も明るく見えた。

 ラ・ルーナの狩猟頭しゅりょうがしらショーン・ライナスは式典のため広場に掲げられた王国旗と猟旗を一瞥すると祭事にそぐわぬ難しい顔で肩の銃器を担ぎなおした。

 私邸から猟館りょうかんまでは一本道。高低差があり、さほど距離はないが歩いて行くには人の往来が疎ましい。狭い道に人が押し合い圧し合いして進むため、遅々として前に進まないのだ。そのため砦の中はいつもどこかで喧嘩騒ぎが起きていた。なにしろ砦暮らし――――――それも魔物狩りの本拠ともなれば住み着く者は皆、我の強い者ばかりなのである。

 一本道を北へ進む。

 その足取りは重く、表情は険しい。

 祝賀祭の活気もこの男の鬱屈とした気分を晴らすことはないらしい。

 やがて土塁の左手に古い木製の跳ね橋が見えてきた。砦の中央に聳える古城へと続く橋だ。元はこの場所に濠が張り巡らされていたその名残である。ラ・ルーナの狩人と共に幾度となく外敵の進入を阻んできた歴史ある跳ね橋だが濠の半分は埋められ、その跡が僅かに残るのみになっている。

 ライナスは顔を上げ、今にも崩れ落ちそうな城の外壁を仰ぎ見た。古い城は住む者もなく、風雨にさらされ、そのままにされている。


(ラ・ルーナの歴史が消えていく――――――――――)


一族の半数が狩り手を務め、亡き父の跡を継ぎ、自らも狩り手となったライナスには、廃墟と化したラ・ルーナ史蹟が己の姿に重なって見えた。

 



 ラ・ルーナの砦はかつて千人の狩人を擁する魔物狩りの本拠であった。

 ドラゴン、サイクロプス、ゴーレム。狩猟覚書しゅりょうおぼえがき『ラ・ルーナ闘猟記』には名の知れた『二つ名もち』の怪物が狩猟団の手で討伐された克明な記録が残っている。

 こうしたラ・ルーナの活躍は評判を呼び、その恩恵にあずかろうと砦の周りには町ができ、町同士を繋ぐ道が生まれた。平地の少ない高低差のある土地柄にもかかわらず、この地域に小規模な山城型の町が多いのはそのためである。古い時代ラ・ルーナはところの人々にとって魔物に対抗する唯一の希望であった証左といえる。

 しかし百年、二百年と時代は流れ、かつての風儀は失われつつある。

 今や金子集めのため、隊商の護衛や屋敷の門番の依頼を他の砦と奪い合わなければ組織を維持することすら難しい。多くの狩人たちが暮らし、権威の象徴であったラ・ルーナの城は放置され、骨組みと僅かな外壁が遺るだけの史蹟に成り果てていた。


(栄華とは儚いものだ)


 ライナスは城に祈りを捧げると、再び猟館に向けて歩き始めた。

 城が使い物にならなくなってからは北の城門に面した、見習いのための訓練演習場があった場所にその機能が移された。その場所は今、猟館と呼ばれ、狩猟団の足溜りとなっている。

 ラ・ルーナの狩人たちはこの猟館を足場として館主が振り分けた仕事をこなし、報酬を受け取ることになっていた。

 猟館まで続く道の前でライナスの足取りはさらに重くなった。と、いうのも前任の館主が残した仕事が山のように待っていたのである。書きつけの山を思うと気が滅入る。


(もう何日もこいつを扱っていない)


 肩の銃器はいつでも撃てるよう手入れがされている。

 だが、最後に引き金を引いたのはいつだったか。日々の雑事に追われ、最早自分が狩り手であることすら忘れてしまいそうであった。


 (それもこれも、あの男が来てからだ)


前任の館主エドワード・マークルは一言でいえば善人だった。

少なくともライナスにはそう見えた。




 猟館には主がいる。

 館主と呼ばれ、表向きは狩猟団を束ね、その動きを監督するのがその役目だ。

 戦時、狩猟団の力が他国に流れることを恐れたガルレシア政府によって定められた賦役の一つで、館主は四星巡ごとの任期で交代する決まりになっている。これは砦創建時からの通例であり、館主就任には貴院の承認が必要であった。そこに狩人らの意見が挟まる余地はない。館主とはいわば狩猟団の後ろ盾。狩人はあくまで雇われ人にすぎないのだ。

 しかしながら館主という役目は難儀なもので、選ばれたとて国から十分な報酬があるわけではなかった。そのうえ、魔物狩りとは無尽蔵に金が出ていく仕組みになっており、館主は時に私財を投げ打ち、狩猟団の編制に力を注がなければならず、貧乏賦役と侮られていた。

 そのため館主の多くは王都で不始末を起こした貴族の子弟や爵位目当ての新興貴族であった。  

 もちろん、彼らに務めに対する忠義などあろうはずがない。

 だが前任の館主エドワード・マークルは違った。

 珍しくも聖都から派遣されたこの男は神官らしく、狩人らに弱者救済の心を説き、報酬の格で仕事を選ぶことをやめさせた。少ない報酬や実入りの悪い仕事も積極的に受け入れさせたのだ。 

 無論収入の不満はあったがライナスはこの決定を悪いことと思わなかった。

 怪物に襲われるのは圧倒的に貧しい者が多いのだ。怪物に襲われ、財産や家を奪われ、目の前で家族を殺された者の中には盗賊に身をやつす者や魔術信仰に傾倒する者もいる。そんな彼らの破滅を止められるならば悪いことではない。安い報酬でも意味がある。そう自分に言い聞かせた。


(思えば最初から奴の手の内だったのやもしれん)


 に気づいたのは出納金を担当する勘定役の年かさの狩人だった。

 バートという名の狩人は仕事終わりに密かに砦を抜け出し、身元を隠して辺鄙な酒場で一杯ひっかけることをささやかな楽しみとしていた。

 彼はその日〈紺碧亭〉という酒場でたらふく酒を飲んだ。そしてとある男の愚痴を聞かされた。それはラ・ルーナの取り立ての厳しさを嘆くものだった。


 その男はクミンの里の農夫であった。

 男には九歳になる娘がいた。

 その娘にあるとき『印』がつけられた。

 『印』とはいわば魔物の手形である。人を攫う魔物が獲物につける目印であり、印をつけられた者は数日のうちに魔物に襲われることが決まっている。

 男は藁にも縋る思いでラ・ルーナに駆け込み、娘の保護を求めた。

 猟館はこの依頼を請け負ったらしい。だが『印』が消失しても娘は戻ってこなかった。娘を返してくれ、せめて会わせてくれと頼んでもなんやかやと言い訳をされる。

 数日後、手渡されたのは目を瞠る金額の書かれた報酬金の催促状であった。その中には娘が汚した寝台や壊した祭具の修理費が含まれていたという。

 それを聞いたバートは、すかさず「それはおかしい」と男に文句を言った。

 バートの役目はラ・ルーナの狩人らの報酬の受領や狩りにかかった経費を記録し管理することであった。クミンの里から保護した娘の存在も知っている。だが娘が猟館の物品を壊したなどという話は耳にしていない。なにより、ラ・ルーナの狩人は報酬金を取りたてるような真似はしないはずであった。

 不審に思ったバートは猟館の金周りを徹底的に調べ上げた。そうして、館主と彼に与する取り立て屋の存在をつきとめた。

 それがつい四環季かんきほど前のことである。

 しかし、その働きが実を結んだ矢先、エドワード・マークルは任期終了を待たずに聖都へ帰った。腰の持病の悪化と田舎風邪が原因と公表された。ライナスは説明を求め館屋に向かったが、時すでに遅く、聖堂の保護を受け、マークルは不正に蓄えた資金を持って悠々と砦を去ったあとだった。



 ライナスは深々と溜息をついた。眉間に深い皺が刻まれる。

 気落ちするのも無理はない。

 四環季前に発覚したラ・ルーナの悪事は驚くほど早く世間に広まり、狩猟団に対する市民の不信と疑念が、いたるところで鋼熱泥まぐまのように噴き出していた。

 審問所まで出てくると、砦の金庫が閉鎖され、ラ・ルーナは徹底的に取り調べられた。

 調べによるとマークルから口止め料を受け取り、取り立てに協力した狩人は想定より多かった。その処遇を決めるのにライナスは忙殺され、審問所の裁きの結果十二人の狩人が砦から追放された。



 「ただ懸命に働く者が損をする。これでは何のため誰のために働いているのか……」

 つい愚痴が口を突いて出てしまう。諸事に頭を下げて回り、人の減った猟館をなんとか立て直そうとしたはいいものの、ラ・ルーナへの依頼は以前の半分ほどに減っている。残ったのは少人数では扱いの難しい討伐依頼ばかりだ。これでは狩りに出ることもままならない。

 そうこうするうちに前任者の代わりとして新しい館主が派遣されてくることが決まった。

 それも、マークルと同じ元神官らしい。

 「一体、ガルレシア政府は何を考えているのか」

 なにもかも、


 「馬鹿らしい」


 のである。


 舌打ちをこぼしたライナスはふと港に停泊する帆船に目をやった。三本マストの立派な船が港に停まっている。

 都で人気の旅役者が今日は砦を訪問するらしいと妻のナエが嬉しそうに話していたことを思い出した。家計を困らせまいと観劇に行きたいと言い出さない妻にライナスは気の利いた言葉の一つもかけられなかった。こんなとき快く送り出してやれない己の不甲斐なさに腹が立つ。

 「いっそ何もかも放り出してしまうか」

 ナエの経営するパン屋は評判が良いし、二人で小さな店を切り盛りするのもいい。

 狩りにはいかんせん金がかかる。

 防具を揃えるのも、銃弾を買うのも猟館から出る僅かばかりの金符きんぷでは賄えきれない。ナエの援助がなければ、とてもではないが暮らしていけなかった。

 防具を安価なものに変えればナエを束の間の楽しみに送り出すこともできるだろう。

 しかしナエは装備品だけは上等なものをと譲らない。

 その思いがありがたく、心苦しくもある。

 ライナスは革ひもで結んだ防具の胸板に手をあて、大きく息を吐いた。

 そのとき、

 「化け物だあ!」

 「逃げろ!」

 路地の向こうで叫び声がした。

 男の声に、幾人かの悲鳴が重なる。

 その声を聴いた通行人が慌てた様子で逃げていく。

 ライナスは素早く銃身を掴み、身構えた。

 こちらに向けて何者かが近づいてくる足音がする。やがて路地から血相を変えた親子が足を引きずりながら現れた。

 「大丈夫か?」

 ライナスが駆け寄る。

 足から血を流した息子を支えていた母親が、狩り装束のライナスを見て怯えたように立ち竦んだ。

 「何があった?」

ライナスはそんな母親の腕から息子を受け取ると腰鞄から手早く止血帯を取り出し、子供の足の傷をおさえた。母親は青くなった唇を震わせながら、

 「あ、あれは……」と血走った眼を泳がせている。

 子どもの足には猛獣が噛んだような歯形がくっきりとついていた。肉が削げ、骨の一部がむき出しになっており、止血帯だけでは出血が止められない。

 「他に怪我はないか?よし、ここからほど近い場所にベンゲスという名のお医者様がいらっしゃる。魔物傷も診てくださる故、急ぎなさい」

 痛みで意識が朦朧としている少年を母親に預け、ライナスは悲鳴の聞こえた方角へ駆け出した。

 銃を構え、素早く弾をこめながら路地を進む。家と家の隙間を縫うように進むと、暗がりの向こうに三間ほどの開けた場所があった。

 そこは日の光をせり出した屋根に遮られ、陰気なほどに薄暗かった。石畳に絨毯を敷きのべ、露天商が商売をしていたらしい。ケムリ草やアサ花、油や火紙の他に皿や子供の玩具など雑多な品が散乱している。店主はとうに逃げ出し、店はもぬけの殻であった。

 物乞いのたまり場でもあるのか壁に沿ってボロ布が並んでいる。香のツンと刺すような臭いが立ち込め、張り詰めた空気をライナスは肌で感じた。

 「ほう、早かったな」

 暗がりから声がする。

 ライナスは咄嗟に声のする方へ銃を構えた。目を凝らせば薄闇の中で影がのそりと動いた。声の主は薄煙の漂う中、悠々とこちらを眺めている。目が合うと、男がにこりと笑った気配がした。

 「何者だ!」

 鋭く問う。

 すると男は、鷹揚に両手を掲げ、

 「なあに、通りすがりの者だ。こやつが人に危害をくわえたので、捕まえた」

 と言ってのけた。

 見ると、男は片足を地面に押し付け、暴れる何かを押さえこんでいる。

 ライナスは銃口を男に向けながら近づき、蠢くモノに目をやった。


 一見するとそれは犬のように見えた。

 毛むくじゃらの体は一抱えもありそうだ。

 男はその頭を片足で容赦なく踏みつけている。


 (これは‼黒妖犬こくようけんではないか)


 ライナスは驚きに目を見張った。

 黒妖犬はヘルハウンドとも呼ばれる冥界の犬だ。黒い毛並みと体の数倍はある巨大な頭、そして燃えるように赤い瞳をもっている。影の中を移動し、人を死に追いやる怪物で、この猟犬は狩りを得意とするだけあって、好戦的で毎年数名の狩人が命を落としていた。

 「致命傷は与えてある。この体はじきに消えるだろう。だが、最期の瞬間まで気が抜けぬ故、そこの地面で眠っていた老爺に頼んでラ・ルーナに応援を呼びに行かせたのだ」

 男の言葉通り、黒妖犬は既に力を失っていた。首と腹の傷が深い。そこから瘴気が漏れ、周囲の空気を淀ませていた。魔物は恨みのこもった眼差しを男に向け、唸り声をあげている。

 そのとき、犬の首から瘴気が蒸気のように一気に噴き出した。

 男が咄嗟に肘で顔を覆う。

 その隙に、伸びた首が最期の一撃とばかりに鋭い牙をむき出しにして男の足に飛びかかった。

 瞬間、ライナスは躊躇なく銃口を魔物の頭に向けた。そうして、銃弾を一発、眉間の間に撃ち込んだ。黒妖犬の両足がピクリと痙攣し、黒い体が塵となって霧散する。男の足が地面につく頃にはその体は風に乗ってどこかへ消えてしまった。瘴気が霧散し、空気が澄みはじめる。

 紫煙が立ち上り、火薬の微かな香りが漂ってきた。

 「見事!」

 男が感歎の声をあげる。

 「一発で仕留めきるとは」

 にやりと片頬を引き上げたその表情は少年のようだ。

 男は靴先を弾丸が掠めても眉一つ動かさなかった。寧ろ焦げた靴を誇らしげに見つめている。

 「さて、浄化は君らに任せよう」

 ひと段落といった様子で、男が踵を返す。

「あの!」

 ライナスは慌てて男を呼び止めた。

 そのとき、男の手の内に長物があることにライナスは気づいた。短い金属製の柄に半丈ほどの細い穂先がついている。磨きこまれた刃には血の一滴もついていなかったが、先ほどの見事な傷痕を見てもその鋭さは明らかだった。

 手の中の槍を器用に回し、槍鞘におさめる。一連の動作を見て目の前の男が相当な使い手だとライナスは見抜いた。


(何者だ?)


砦の人間ではない。このあたりでは見ない顔だ。

年かさで頬の肉はたるみ、そのせいか優しげな顔立ちをしている。白髪まじりの髪は伸びるままに放っているらしい。立派な髭に隠れているが笑うと両の頬に小さな窪地ができる。それがなんとも愛嬌があり、親しみすら覚える。革の肩当てに胴巻きと着ているものは粗末だがそのために、長い手足の先から鍛え抜かれた肉体の一つ一つがはっきりと見て取れた。

 「襲われた子供はどうした」

 「近くの医者のもとへ向かわせました」

 「そうか」

 男がにこりと笑う。

 どうやら物見遊山の客ではないらしい。表情は穏やかだが、瞳の底に常人にはない剣呑な光を感じる。その視線は今もまっすぐにライナスの姿をとらえている。中身を探り取られるような感覚があったが、不思議と嫌な気はしなかった。

 短い沈黙のあと、男が口を開いた。

 「夜を好むヘルハウンドが日中に現れるとはな。それも、砦の内に出るとはな。ラ・ルーナではよくあることなのか?」

 「いえ……」

 ライナスは答えに窮し、口ごもった。途端、身の内がカッと熱くなるのを感じた。

 砦の内には狩人が大勢いる。彼らにはそれぞれ役目があり、『狩り手』『捕り手』『嗅ぎ手』と呼ばれる。

 砦の中を守るのは『加護手』だ。

 『篭目』という独自の罠を巡らせて砦の中に魔物が入らないようにするのが彼らの務めであった。

ラ・ルーナにはその独特な地形に合わせた複雑な『篭目』が受け継がれている。

しかし、前の館主に与し、追放された狩人の多くが加護手であったために、人手が不足し、籠目の修復が間に合っていない。そのせいで近頃は砦のいたるところで魔物が目撃され、ラ・ルーナの面目は丸つぶれであった。魔物狩りの砦が魔物の進入を抑えられていないのである。

 男はその思いを察したらしい。

 ライナスの肩に手を置くと、とんとんとその肩を叩いてその場を去った。

 背後から聞き馴染みのある掛け声と共に物々しい足音が近づいてくる。

 猟館からの応援が到着した。




 その三日後、怪鳥オオガラの討伐を終えたライナスは新たに赴任した館主と会うことなく、次の狩りに向かった。

リオン川の河口に現れた化け物をどうにかしてほしいという船会社からの依頼だ。調査の結果、商船を襲っているのはゾンガラエビという怪物だった。鋼殻獣はいかんせん動きが早い。なかでもこのエビの怪物は巨大で、リオン川の複雑な地形も相まって捕まえづらい。そのうえ繁殖力も強いため、川に潜む相当数を駆除するのに二周期を要した。

 ひと仕事を終え、隊の皆を屋敷に帰したあと、ライナスは一人ラ・ルーナの猟館へ向かった。 

 狩りの記録をまとめ、新しい館主へ渡す報告書を作らねばならない。かかった費用は馬鹿にならなかったが、ひとまず誰一人怪我なく帰って来られた。

 館につくと、ライナスは番所に顔を出した。

 「旦那、おかえりなさい」

 「長旅ごくろうさまです」

 門番から労いの言葉を受け、頷きを返す。

 「他の皆は先に帰した。翼竜ドラゴは砦の外に待機させてある。世話役を走らせてくれ」

 「はい、ただいま」

 門番の一人が裏手へ駆けていく。

 「留守中、変事はなかったか?」

 「ええ、まあ」

 初老の門番は頬にできたイボを指先でいじりながら、

 「狩り手の皆さんが旦那の帰りをお待ちですよ」と気まずそうに応えた。

 その言葉通り、猟館一階の詰所には仰々しい顔の男たちが腕組し、ライナスの帰りを待っていた。

 「おお、ライナス。よく戻った」

 ライナスと同じ邸に暮らしているマーカス・グリンジャーが真っ先にその帰りに気づき、立ち上がった。ライナスより二つ下の三十歳。年下ではあるが『試練の丘』を共にし、互いの家族も部屋を行き来する仲だ。二人はすぐさま抱擁を交わし、拳を突き合わせた。

 「どうした、今日は非番であろう」

 ライナスの問いに

 「それがな」

 栗色の捲き毛を掻き毟りながら、グリンジャーは厳めしい顔をさらに顰めた。

 「ライナスに意見をもらおうと皆で待っておったのだ」

 「意見?」

 「うむ、どうも新しい館主殿はお勤めに関心がないらしい」

 元々グリンジャーの声は野外でもよく通るほど大きい。人目を憚り、声を潜めたものの獅子の咆哮のようなその声は詰所にいる全員の耳に届いていていた。

 古株の狩り手であるレオンバルトが立ちあがる。

 「グリンジャー、ライナス殿は未だ館主と面会していないのだ。お会いする前に我らの主観を印象付けるのはよくないと私は思う」

 「そうは言ってもなレオンバルト。お会いしようと思っても、部屋にいないではないか」

 「いない?館主様が?」

 ライナスは目を瞠った。

 猟館には館主のための館居が設けられている。館主とその家族はそこで寝起きし、火急の報せに備えるのが習わしであった。

 「それで、どこにいらっしゃるのだ」

 「それが、誰にも分からぬ」

 「供の者は?」

 「つけていない」

 困り顔の仲間を見回し、ライナスは眉間の皺を深くした。

 「今は誰が館の指揮をとっている?」

 「レオンバルトとロドリゲスだ」

 どうやら新しい館主は赴任早々、全てを部下に任せ、外出したまま帰っていないらしい。 『諸々、これまでの通りに』との命を下し、『ちょっと出てくる』と言い残して館主が猟館から姿を消し、早二周期が経とうとしていた。

 「聖都に帰ったのではないか?」

 「神官あがりなど、やはり碌なやつがいない」

 「ガルレシア政府に進言し、取り替えてもらおう」

 好き放題意見が飛び交う中、狩り手衆の中核を担うグリンジャーが

 「ライナスの判断を聞こう」と言ってその場をおさめた。

 そうしてライナスが砦に戻るのを、皆やきもきしながら顔を突き合わせて待っていたのだ。

 『いくら貴い血が自慢の館主であろうと一言、物申しておかねば気が済まぬ!』というのである。若い狩人の中には現状に不満を抱く者も多い。彼らの士気や忠誠には館主の一挙一動が関わってくるのだ。それはラ・ルーナ全体の繁栄にも繋がってくる。

 「事件にでも巻き込まれていなければよいが」

 ライナスの言葉に皆がハッと目を見開く。

 その可能性を誰も思いつかなかったらしい。

 「通報はあったか?」

 「いや、加護手からは何も」

 「辻の目には聞いたか?」

 「おい何と尋ねるつもりだ?うちの館主様を見なかったか訊くのか?乳離れしていない子供じゃないんだぞ。館主がいなくなったと知られればそれこそラ・ルーナの恥だ」

 「人が魔物に攫われたとしたら篭目が反応するはずだ」

 「確かに」

 「捜索すべきか?」

 皆が口々に騒ぎたてる。そのとき、吹き抜けの天井付近から聞き覚えのある声が降ってきた。

 「こんな時間に一体何を騒いでおる」

 それは呆れたような、出来の悪い生徒を叱りつける教師のような声だった。低く朗々としてよく響く。人の心を落ち着かせる声だ。

 見上げれば、手すりに手をかけながら男がこちらを見下ろしていた。

 「あ」

 ライナスは驚きに目を瞠った。

 着ているものは上等な寝間着に変わったが見間違いようがない。階下の喧噪を興味深げに眺めていた男がライナスの視線に気づく。にこりと笑ったその顔に思わず目が釘づけとなった。

 隣にいたグリンジャーが同じくぽかりと大口を開けて男の姿を見つめている。

 一瞬後、詰所の喧噪は波が引くように消えた。

 「ライナス、あの方がラ・ルーナの新しい館主、ジョー・グラハム卿だ」

 空気を引き裂くように、それまで沈黙を守っていたロドリゲスが言を発した。


 ジョー・グラハムは長期の不在を咎め、苦言を呈する狩り手衆に

「すまなかった」

と、迷いなく頭を下げた。そのあまりの潔さに憤懣を溜め込んでいた狩人たちもつい毒気を抜かれてしまったらしい。次からは外出先を伝え、戻る時間を伝えるように―――――と、子供相手のような約束をとりつけるとその場は解散となった。

 中には未だ不満と疑心に満ちた眼差しを向ける者もいたがグリンジャーとレオンバルトがとりなし、それぞれの持ち場へ戻っていく。

 皆が落ち着きを取り戻すと、ライナスは改めて新しい館主と顔を合わせた。

 「ジョー・グラハムだ」

 骨太い手が差しだされる。

 「はじめまして、ではないな」

 「ショーン・ライナス。ラ・ルーナの狩猟頭を務めております」

 ライナスが籠手を外そうとすると、館主はそれを手で制し、右手を強く握り返してきた。革ごしでもその手の分厚さが伝わってくる。手の平は古木の樹皮のように固く、よく日に焼けた手の甲には古傷がいくつも残されていた。

 「狩りの手ほどきをどちらで学ばれたのですか?」

 つい口をついた質問に、グラハムは優しげな笑みを浮かべ、

 「父に教わった」と短く答えた。

 青灰色の瞳がライナスの全身を眺めやり、

 「なるほどそなたがライナスか、働きぶりは聞いている」

 と、満足そうにうなずく。

 「狩りの帰りで疲れていよう。つもる話は明日にしよう。いやあ、さすがに二周期、館を空けたのはまずかった。皆に怒られてしまったから、明日はさすがに出て行けぬだろう。執務室に来てくれ。狩りの報告も明日でよい。今日はそなたも帰って休め。帰りを待つ家族に顔を見せ、安心させるのも狩人の務めだ」

そっと背中を押され、ライナスは眉尻を下げた。

「報告が遅くなると部下に渡す報酬の支払いがその分遅くなりますので」

できれば、今日のうちに報告を済ませてしまいたい。

自分やグリンジャーのように家族の支えがある者はまだいい。

狩人の中には装備費が家計を圧迫し、生活苦から借金をして暮らす者も少なくない。報酬の滞納が彼らの生活に大きな痛手となることをライナスは十分承知していた。

 グラハムは俯くライナスの肩に手を置くと、

「分かっておる。そなたの思いは無駄にせぬから」

そう言って、グラハム卿はライナスを追い立てるようにして帰らせた。



 翌日、ライナスは珍しく騎竜姿で猟館に現れた。朝の早い時刻で当直の狩人以外は出勤していない。報告書を書いていると背後からぬっと影が現れた。

 「はやいのう……」

 眠たげな目をしたグラハムが欠伸を噛み殺しながら立っている。

 「十分休めましたので。妻にも会えました」

 「それは良かった。朝餉は食べたのか?」

 「いえ、まだです」

 「ならば、一緒に食べよう。報告を聞きながら食事を済ませる」

 そう言うと館主は朝食を二人分、居室に運ばせるよう下働きの老爺に伝言を頼んだ。

 二階に繋がる階段を上る途中、

 「ところで――――――」と、グラハムが話を切り出した。

 「あの日黒妖犬に襲われた親子のその後をそなたは知っているか?」

 ライナスは首を横に振った。母親に医者のもとへ向かわせたが、その後近所に消息を尋ねても親子を見かけた者はいなかった。

 「気になりますか?」

 「息子のほうは重い怪我に見えたからな。黒妖犬の牙に毒はないが、〈印〉をつけられたやもしれぬ」

 〈印〉は魔物が獲物につける追跡具のようなものだ。その場で殺さず、執拗に獲物を付け狙い、襲われる恐怖と追い詰められる絶望を与えて殺す。

そのあまりの恐怖に心を病み、自ら命を絶つ者も多く、中には〈印〉のついた者が逃げ込んだ先で、巻き込まれた一家が魔物に襲われ惨殺された例もある。そのため、〈印〉持ち自身が人から迫害を受け、住む場所を追われ、処刑されることもあった。そうした人間同士の混乱や憎しみを魔物は好む。

 「止血した際に傷口を診ましたが〈印〉はついておりませんでした」

 「足の傷か?背中はどうだ?」

 ライナスは言葉に窮した。

 「子供は二撃食らっておった。足を噛みつかれ、なんとか振り払った後、背中に一撃。そこに私が通りかかったのだ」

 ライナスは口惜しげに下唇を噛んだ。

 足の出血に気を取られ、そこまでは見ていなかった。

 「私の落ち度です。確認不足でございました」

 「仕方あるまい。それに助けが必要なら向こうから訪ねて来るだろう」

 グラハムはのんびりと言ったが、その目はどこか遠くを見ているようである。

 「加護手に探させましょうか。知り合いの辻の目にもそれとなく当たってみます」

 「そうか、頼む」

 グラハムは力強く頷くと、居室に続く扉を開けた。

 部屋の中には机が一つ。火桶を囲むようにベルベット地の背もたれ付きの椅子が二つ並んでいる。

 ライナスは招かれた部屋を見て意外に思った。

 居室は猟館における館主の私室だ。そのため装飾を自由に変えることが許されている。

 前任の館主は壁の一面を祭壇に変え、生花で飾りたてていた。部屋の中は常に煙たく、濃密な香油の匂いが立ち込めていたものだ。

 ジョー・グラハムは聖都から来た神官だ。てっきりあの男と同じ、神聖で煙臭い部屋に違いないと思ったがマークルが作らせた特注の祭壇は片付けられ、代わりに狩猟団を描いた美しいタペストリーが壁一面を覆っていた。

 それから見覚えのある金属製の柄でできた短い槍が机の後ろ側の壁に飾られている。南向きの壁には窪みがあり、窪みの中に小さな聖像と水鉢と香炉が並んで収まっていた。

 荷ほどきはまだ終わっていないらしい。扉のすぐ脇にグラハム卿の荷物が運び込まれている。

(グラハム卿は随分慎ましい方のようだ)

 ライナスは新しい館主をそう見て取った。

 炭の入っていない火桶の上に館主自ら板を敷く。

 ちょうどそこへ調理場から朝餉が運ばれてきた。

 トマトスープ、練った小麦生地を薄く引き延ばして焼いたパン、それから腸詰の肉を炙り、爽やかな玉葱ソースがかかったもの。匂いを嗅いだだけで喉が鳴る。なかなかありつけない贅沢な朝食だ。

 「遠慮なく食べるといい」

 そう言うと、グラハム卿はライナスが用意した報告書を読みはじめた。

 ライナスは戸惑いながら匙を手に取り、スープを口に含んだ。あたたかい。それに、甘い。丁寧に裏ごしされたトマトの優しい甘さに胃の腑がじんわり温まる。次にパンを手に取った。薄い生地は僅かに膨らみ、表面に焦げがついている。千切ると小麦の芳醇な香りが広がり、ライナスはそれを子供のように頬張った。

 腸詰を齧ると口の中でぱちんと肉汁が弾けた。肉には臭みが一切なく、ぴりりと辛みをきかせた玉葱ソースが食欲をそそる。パンと共に食べると絶品で、頬張る手が止まらなくなった。

感激のあまり言葉もないライナスに

 「美味いだろう。我が家に伝わる調理法だ」

 館主が誇らしげに語る。

 「はい、とても」

 頷きつつ、ライナスは不思議に思った。

 ラ・ルーナでは館主の家族は猟館の敷地内にある館屋で暮らすのが習わしだ。しかしグラハム卿は供の者を三人ほど引き連れ、一人で館に現れたと聞いている。港で一行の到着を待っていたグリンジャーは肩透かしを食らったらしい。

 ライナスはトマトスープを飲みこむと失礼にならないよう、上目でこっそりと館主の顔を見つめた。

 ジョー・グラハムについておおまかなことは調べてある。

 聖都から派遣された元神官であること。生家はケルン地方の子爵家で、三十歳を過ぎた頃三つ上の兄が家督を継ぎ、今は亡き兄の息子が家を継いでいる。裕福な貴族の子弟が家督を継げず、神官を目指すのはよくあることだが、ジョー・グラハムが神の道を志したのは十年前らしい。神官になる以前はガルブレイズ政府の〈防人司〉〈鷹司〉といった武役を兼任していた。

家族は妻が一人、娘が一人。

 いたって普通の経歴だ。

 しかし分からないのはあの槍の腕前であった。

 あの日悲鳴を聞き、ライナスが現場に駆け付けるまでの僅かな時間で黒妖犬を一人で押さえこんでいた。

 一般貴族の子弟が魔物を狩りきれるものではない。貴族の中には庭に捕らえた下級悪魔や野獣を解き放ち、狩りを楽しむ酔狂な者もいるが、それはあくまで遊びであり、町中で突然魔物に襲われれば鍛え抜かれた王城の騎士であってもただでは済まないだろう。

 「何か訊きたいことでもあるのか?」

 唐突に尋ねられ、ライナスは慌てて姿勢を正した。

 「い、いえ」

 「よい、申せ」

 青灰色の瞳にとらえられ、ライナスは身じろぎした。

 (これは逃れられまい)

 短い沈黙の後、観念したライナスは口を開いた。

 「狩りをお父上から学ばれたとお聞きしましたが、貴族の御屋敷で魔物を狩る術を学ぶものなのでしょうか?」

 ああ、とグラハムは溜息のような相槌を打つと、穏やかに笑い返した。

 「父といっても実の父親ではない。私は家族と縁が薄くてな、十四のときに実の父との軋轢に耐え切れず家を飛び出した。当時はもう手が付けられん悪ガキでな。祖父がその度に連れ戻し、心を砕いてくださったが恥ずかしいことに良識など持ち合わせておらず、度々家を飛び出ては好き放題暴れまわった。思い返すと冷や汗が止まらぬよ」

 ライナスが呆気にとられるのも構わず、グラハムは屈託なく話をつづけた。

 「結局そんなに暴れたいなら、好きなだけ暴れさせてやろうと、祖父は私をとある狩人のもとに預けた。魔物狩りを専門にするお方でな、祖父は私がさっさと音を上げて帰ってくると踏んだらしい。魔物の脅威に身を竦ませ、大人しくなるだろうと考えたのだ。だが私はあの家がとにかく嫌いだった。それに外の生活は愉快で、魔物と出くわすのも面白うてな」

 懐かしげに目を細めるとグラハムはライナスの視線に気づき、

 「すまぬ。狩りかりびとの前で魔物に会うのが面白いは不謹慎であったな」

 と、頭を下げた。

 「いえ、その……こちらこそ浅慮な質問をしてしまい、申し訳ございませぬ」

 初めて会ったときから感じていたグラハム卿に対する親しみやすさは、市井暮らしの長さ故か。こうして貴族の血を引く人物が狩人の身である自分に頭を下げることも、ライナスには信じがたい行動であった。

 「ところでライナス、そなたは私を信用するか?」

 ライナスは唐突な問いを受け、答えに窮した。

 「それは、一体どのような意味でしょう」

 「私をこの猟館の主として認めるかと訊いている」 

 ライナスは答えない。薄い唇が強張り、きゅっと引き延ばされる。

 「正直な男だな」

 にやりと片頬を引き上げたグラハムが青灰色の瞳をついと細めた。

 「ま、あのようなことがあっては仕方あるまい。マークルの阿呆が迷惑をかけたのう」

 グラハム卿はそう言うと椅子の背に体を預けた。

 「聖教府に送りつけたそなたの陳述書はよくできていた。バートという老狩人もよくあそこまで調べ上げたものだ。さすがに聖都の連中も焦ったらしい。ただでさえ悪魔崇拝が勢いを増し、聖教全体が苦境にある中、あのようなやり方で金を巻き上げていたなどと知られれば聖教府の信用は地に落ちる。それを知らぬ存ぜぬで、十二人の年若い狩人に責を負わせ、自分だけ逃げ出すなど許されるものではない」

 「やはり聖都の皆様はマークルを審問所にかけるつもりはなく、金を返す気もないわけですね」

 「難しい。やつの親はガルレシア政府の高官だ。それに、やつの教育係は聖下の肝いりでな。恥ずかしいことに枢機卿連中の中にも奴から金を受け取った者がいると聞いている」

 グラハム卿の顔つきが険しくなり、目の色が変わった。

 「阿呆どもめ」

 吐き捨てるように言った館主を正面から見つめ、ライナスは意外の念に心打たれた。


(この方は本気で怒っている)


その気持ちがありありと伝わってきたのだ。

 「私はな、枢機卿閣下より直々にラ・ルーナと聖堂の間を取り持つようにと言われている。特に、ショーン・ライナスという男を何が何でも懐柔せよとの命令でな」

 「それは私に聞かせてもよいのですか?」

 「言うなとは命令されていないからな。口止めしないのが悪い」

 無茶な理論だ。ライナスは呆気にとられ言葉が出ない。

 そんなライナスの顔を見てグラハム卿は愉快げに笑った。

 思わずライナスも笑みを返す。

 こうして笑みをこぼすのはいつぶりであろうか。

 澱のように凝っていた思いが少しずつ溶けだしていくようであった。

 そのとき、グラハム卿の腕がおもむろに音もなく伸ばされた。

 銀糸の刺繍が施された柔らかなシャツの袖口から、白い細かな粒が入った紙包が出てくる。グラハム卿はそれをわざと見せつけるようにゆっくりとライナスの杯にこぼした。結晶はすぐに葡萄酒の中に溶けだし、見えなくなった。

 「これは……」

 ライナスは戸惑い、口を噤んだ。

 「そなたが余計な事をするようなら、こうしろとの命令でな」

 グラハム卿の眼差しが恐ろしいほどに鋭くなる。怒りと屈辱に瞳の奥が燃えていた。

 ライナスの杯に手で蓋をするとグラハム卿は不本意だと言いたげに口元を歪めた。

 (あれは毒か。いち狩人相手にここまでするとは……さすがにあの報告は堪えたらしい)

 ライナスは苦笑を浮かべ、

 「よいのですか?」

と館主に尋ねた。

 グラハム卿は苦り切った顔で笑った。

 (忠告のつもりだろうか)

 言葉にされるよりはるかに効果がある。

 ライナスは改めて目の前の男を正面から見据えた。

 「私はたった今、殺されかけたわけですね」

 「そうだ」

 腕を組み、堂々と頷いた男の顔は誠実さと自信に満ちていた。


 (お前は人を信じすぎるきらいがある、とグリンジャーによく言われたがまったくその通りだ)

 ライナスは居ずまいを整えると、

 「それでは詫びとして一つ、館主様にお願いがございます」

 拳に力を込めた。

 「申してみよ」


 「ラ・ルーナの立て直しに力を貸していただけないでしょうか」



 ラ・ルーナの栄華を取り戻したい。先祖の代から続く狩人の歴史を絶やしたくない。にもかかわらず、猟館は危機的問題を抱え過ぎている。人手は足りず、金も足りず、土地も足りず、養う手もなく、皆がただ毎日を惰性で生きている。これではいけないとそれぞれが複雑な想いを抱えながら、どこから手をつければいいかが分からない。

 赴任する館主によって方針が変わるため、思うように改革が進まず、そうこうするうちに、エドワード・マークルによる略取が起き、ラ・ルーナの評判は地に落ちた。

 それだけではない。

 マークルは捕えた魔物を私的に高値で取引していた。

 聖教は魔物祓いを徳の高い善行とする。その聖教の神官が穢れた魔物を売り渡し、儲けていた。これは魔物を信仰の敵とする聖教府にとって大きな痛手だ。

 そこで聖教府はこの事実が露見する前に策を打った。

 魔物の取引自体をラ・ルーナの悪習だと断罪したのだ。

 魔獣の皮や牙をラ・ルーナが市場に卸すことは珍しくない。

 その収益は微々たるものだが、猟館の貴重な収入源の一つであった。しかし聖教府はそれ自体が罪だと決めつけ、マークルの私的な取引を上書きしてみせた。

 「我々も抵抗はしましたが、法が決まってしまえば逆らえませぬ。交誼に弱く、王都に我々の味方がいないことが決め手でございました。元々魔物の取引は曖昧な取り決めのもと、古くからの慣習で行ってきたことです。今さら咎めたてられることはなかろうと、高を括っていたことが、まさかこのような形で罪にされようとは」

 ライナスは頬を引き攣らせた。

 「そればかりか、聖教府は無償で魔物祓いをする神撰騎士団を結成したのです」

 神撰騎士団の評判は上々と聞く。見目の優れた若者による帯同は華やかで、何より無償奉仕である。ラ・ルーナに届く依頼は日増しに減り、討伐の依頼者から金を取るのかと怒鳴られ、村人から守銭奴と石を投げられることすらあった。

 魔物狩りは命懸けだ。狩人にとってその務めは奉仕ではない。生活の糧なのである。

(息ができない)

 何故自分たちがこれほどまで苦しい思いをしなければいけないのか。

 ライナスは憤懣を口にしながら、泣いていた。

 惨めで口惜しい。命を懸けて魔物を討伐し、人々をその脅威から守っている。それなのに何故……何故これほど軽んじられなければならないのか。

 世間に向け恨みの言葉を口にしかけ、ライナスはそれをグッと飲みこんだ。亡き父に言われた言葉を思い出す。


 『人を恨む心には魔物が吸い寄せられてくる。人を呪うな』


 その言葉を律儀に守り続けてきたが限界はとうの昔にこえていた。

 思い切って吐き出そうと口を開く。

 そのとき、

 「言わずともよい」

 静かな声がそれを制した。

 顔を上げたライナスの前でグラハム卿は身じろぎもせず静かに耳をすませていた。

 灰青色の瞳と目が合った。


 「任せよ」

 その一言に、ライナスは年甲斐もなく声を上げて泣いた。





 「ひとまず、砦の守りをどうにかせねばな。ここ数日で色々と見て回ったが篭目の至る所で裂け目ができておったわ」

 そう言ってグラハム卿は懐から羊皮紙を取り出した。それは砦の精巧な地図だった。路地や水路まで事細かに記されており、そこに赤い細かな点が足されている。

 「青は正常な篭目。修復が必要な箇所は赤だ」

 ライナスは地図を覗き込み、驚きに目を見張った。

 「砦の中、全てを確かめたのですか?」

 「気になってな」

 グラハム卿が頷く。

 ラ・ルーナの砦は広さ六圏。急こう配の多い、複雑な地形で一通り見て回るだけでも骨が折れる。それを一人でやってのけたのか。ライナスはグラハム卿の横顔を凝視した。

 「ところで、加護手と狩り手は仲が悪いのか?」

 「詰所が違いますし、近頃は顔を合わせることもあまり……」

 ライナスは曖昧に答えた。

 先の騒ぎで加護手衆から多くの不届き者が出たのだ。責任の所在を求め狩り手は加護手に強く当たる。彼らも彼らで思うところがあるのか言葉を飲みこむことが増えた。

 くわえて近頃は砦の中で魔物の出没が相次ぎ、そうなると出張っていく狩り手衆も市井の人々に怒鳴り散らされる破目になる。その不満は必定、加護手衆へ向けられ、苛立ちを募らせた両者が溜まり場で顔を合わせ互いに罵り合うことが増えていた。

 「なるほど、だが加護手の仕事に問題はない。そうではないか?手が足りぬだけだ。全てを一気に修復するなど不可能。特に重要な箇所に手を集めよう。女子供の多く集まる場所、学校、病院、それから市場の周り」

 「港と各門の周りも重要かと」

 「うむ。全体の修復が終わるまで狩り手衆も狩りには出さぬ。篭目の隙間に入り込んだ魔物を一掃できるよう、砦の内の見回りを増やすのが先じゃ。地域と組み分けはグリンジャーとそなたで決めてくれ。私は外と連絡をとり、加護手を何人か貸してもらえないか頼んでみよう」

 グラハム卿の指示は的確だった。ライナスは涙で赤くなった顔を破顔させ、鼻水をすすりながら彼の指示に応じ頷いた。

 「落ち着いたか?」

 と、穏やかに問われ思わず頬が紅潮する。

 「お恥ずかしいところをお見せしました」

 「構わぬ。男はな、人前で泣けるくらいがちょうどよいのよ」

 グラハム卿は親しみ深い柔らかな笑顔で頷き、

 「そうじゃ、これはよくできていた」

 そう言ってライナスの報告書を掲げ持った。

 「このまま闘猟記に載せてもよいくらいじゃ」

 ライナスは首を横に振った。

 「残念ながら、長らくラ・ルーナでは闘猟記を編んではおりませぬ」

 二つ名持ちの魔物や悪魔を討ったことなどはるか昔のこと。今のラ・ルーナの狩人が対抗するのは農場を荒らす小型の魔獣や墓荒らしの怪物といった小物ばかりであった。とても闘猟記に載せられるものではない。

 「なるほど、そうか」

 グラハム卿は強いて訳を聞かなかった。代わりに

 「俸給についてだが今日中に支払いを済ませる。夕刻までに皆を集めておいてくれ」

 と言った。

 「今日中でございますか?」

 「何か不都合があるのか?」

 「いいえ、願ってもないことです」

 「よし」

 その言葉通り、俸給の支払いは午後のうちに終わった。急遽猟館に集められた狩人たちは思ってもみない報酬に驚きながらも心の底から喜んだ。金額も想定より多い。

 グラハム卿は『狩り手』だけでなく『嗅ぎ手』や『捕り手』『加護手』にも金符を渡し、飛竜の世話役や門番、炊事場の若衆や出入りの洗濯女たちにも気前よく符を配った。

 懐が温まれば、人は心にいくらかの余裕を持つ。

 (館主様は人の心の機微というものをよくよくご承知らしい)

 世の中は金が全てではないけれども、先立つものがない不安は人の歩みを固く窮屈なものへ変えてしまう。考え方も意固地になるし、視野も狭く暗くなり、見えるものも見えなくなっていく。

 それだけではない。

 グラハム卿は自ら巡回役を買って出ると、皆の制止もきかずに毎日決まった時間、一人で砦の中を見回るようになった。夕刻になると汗と埃にまみれた顔で館に戻り、報告を済ませると部屋に籠り、書き物の整理をする。困った人だと呆れながら、狩人たちの館主を見る目が日増しに変わっていく。いつしか短槍を杖代わりに、ふらりと館の潜り門を出て行く背中を誰もが頼もしく思うようになっていた。

 ライナスはグラハム卿の指示を受けてすぐ、グリンジャーと共に砦の巡回地域と組み分けを決めた。連絡役に騎竜姿の狩人を各辻に配置する。朝、昼、夜の三交代制で二人組の狩人が特定の地域を歩き回る。このやり方は上手くいった。

 狩り手の働きにより、五日間で六体の魔物が討伐され、十六体の魔獣が捕まり、三か所で魔物の〈巣〉が見つかった。これは稀に見る大きな成果であった。

 


 「多いな」

 グラハムは伸びた髭を掻きむしると低く唸った。

 「私もそう思います」

 ライナスが頷きを返す。

 居間の火桶に板を張り、その上で二人は額を突き合わせるように砦の地図を見下ろしている。  

 地図には見つかった魔物の位置や特徴が正確に記されていた。

 砦に入り込んだ魔物の痕跡が、想定よりも多いことに二人は驚いていた。

 「魔物の多くは南門の傍で見つかっております」

 見つかったのはどれも小型の魔物だったが、それでも五日のうちにこれだけ見つかるのは

「どうもおかしい」のである。

 ラ・ルーナはただの町ではない。狩人の砦なのだ。怪物狩りの膝元であり、警備は厳しく、魔物を取り囲む罠がいくつも張られている。いくら籠目の修復が間に合っていないからといって、襲うには不向きな土地だ。

 「奇妙なのは巣の位置じゃ。これはスレインとジャスがたまさかに見つけたものであろう」

 「はい」

 北の古い時計塔の地下蔵に骨喰らいの巣が見つかった。

 二人の若い狩人が小便をするのに立ち寄った折偶然見つけたもので、巣には古い痕跡と真新しい痕跡が残っていた。

 「見張りは置いたか?」

 「はい。戻ってきたところを仕留められるよう、捕り手に罠を用意させてあります。万事抜かりはございません」

 時計塔にほど近い廃屋と樫の古木の虚にもそれぞれ巣が見つかっている。これらの巣は既に捕まった魔物の痕跡と一致していた。

 グラハム卿は腕を組み、深く思案する様子で黙り込んだ。

 篭目の隙間を突いて砦の中に侵入した魔物が北面に巣を作り、港のある南側に姿を見せた。そのことがどうも引っかかる。ラ・ルーナの北面は南面ほど栄えておらず、傾斜がきついうえに高さのある建物が多いせいか陰鬱な町並みが広がっている。しかし南側との境に位置する削平地に猟館があり常に目を光らせているため魔物の被害はさほど多くない。

 グラハムは指の先で地図に触れた。とんとんと小刻みに文字の上を叩いていく。

 独り身の狩人が暮らす寮、狩人の近親者が身を寄せ合いながら生活する借家、鍛冶師や革職人の工房、救貧院、水路に面しているのは石組みの倉だ。狩りに使う火薬や弾丸、鏃などを保管している。そのため警備は厳重で常に人の目がある。

 見回りのため、あちこち歩き回ったおかげで、グラハムの頭には砦の地形が入りきっている。地図を見ればそこがどのような場所かすぐに思い起こすことができた。

(やはり……)

どうも胸騒ぎがする。嫌な予感とでもいうのか。

(狩人の目に留まらず、砦の中を移動する手段があるのではないか。あるとすれば……)

「加護手頭を呼んでくれるか」

長い沈黙の末、グラハムは加護手頭のドミニク・ヴォルベッサを執務室に呼びだした。




 

 ドミニクは端的に言えば扱いにくい男だった。

 小太りで小柄。手足が短いので毬に棒を突き刺したような見た目だが、顔立ちは色濃く、目も鼻も口もその全てに妙な迫力がある。

 血走った眼で睨み上げるように人を見る癖があり、吐き捨てるような物言いは粗野で荒っぽく、とても人好きのする男ではない。しかし仕事ぶりは真面目で、いささか精根を詰めるきらいがあった。そのせいか長い間独り身を貫いている。

 ドミニクは館主の呼び出しに応じると、分厚い唇をへの字に曲げながら現れた。

 「まあ、座れ」

 新しく用意させた椅子にドミニクを座らせるとグラハムはいつもの穏やかな笑顔を向けた。

 ドミニクは緊張しているのか頬を強張らせ、赤ら顔を一層赤くしている。その目が板の上の地図に向けられ、ぐっと険しくなった。

 「酒を用意させよう」

 「いえ、あっしは下戸ですから」

 ボソリと小声で呟いたきり、ドミニクは黙り込んだ。

 「では単刀直入に訊こうヴォルベッサよ、この地図を見てそなたは何と心得る?」

 ドミニクの両の拳が握られる。

 「あんたも、あっしどもがヘマをしていると言いたいのか」

 「これ、ヴォルベッサ。口が過ぎるぞ」

 ライナスの制止を無視し、ドミニクは屹と激しい眼差しを新しい館主に向けた。グラハムは眉一つ動かさない。

 「ヘマをしたのか?」

 その問いにドミニクが舌打ちを返した。

 「あっしどもはよくやっているほうでさあ!通りに篭目を張り、家の戸口に魔物除けの呪を施し、防具や車にも――――――毎日毎日、一分の金にもならぬ仕事を粛々とこなしてきた。旦那はようく御存知のはずだ」

 ライナスは頷きを返した。

 加護手の役目の過酷さは目立たぬところにある。篭目が正常に働いている間は誰もその功労に気づかない。加護手が注目されるのは篭目がうまく働かなかったときだ。篭目が作用せず、魔物が町に現れると「加護手衆は一体何をしているのか」と方々から咎められる。

 砦の中は安全と皆が信じ切っている。しかしそれを守っている者の顔は誰も知らないのだ。

 「人が足りない中でね、できるかぎり早く篭目の修復をしているし、休み返上で監視だってしている。これ以上あっしらに何をお求めになると言うんですかい」

 唇の隙間から漏れ出たドミニクの声は怒りに震えていた。

 そのとき、カツン―――――――――と甲高い金属音がした。

 ドミニクが怯えたように肩を竦める。

 それはグラハム卿が革帯に挟んでいた髪掻きを打ち付けた音であった。

 「ヴォルベッサ、私は加護手衆の働きを聞いているのではない。そなたに、この図を見て思うところがないのかと訊いておるのだ」

 館主の言葉は普段と変わらず穏やかだ。しかし、その声は威厳と凄みに満ちていた。

 思わずドミニクが黙り込む。視線を逸らそうとするのを制するように、またカツンと髪掻きが火桶のふちに打ち付けられた。

 やがてドミニクの丸い赤ら顔から血の気が引きはじめ、額に汗が滲みだした。

 長い沈黙のあとグラハムは

 「訊き方を変えよう」

 と、無造作に身を乗り出した。

 「ヴォルベッサよ、先日見つかった魔物の巣は知っておろう?古い時計塔にあった巣じゃ」

 ドミニクが臆したように頷きを返す。もはやその目に先程までの威勢は残っていなかった。

 「報告によるとそこには古い魔物の痕跡と新しい痕跡の二つが見つかっておる。しかしな、猟館の過去の記録にこの場所で魔物が見つかった報告はない」

 グラハムの目が爛々と光る。それは獲物を狙う猛禽類のような眼差しであった。にたりと笑ったその顔はいつもの優しげなものとは打って変わり、冷酷ですらある。

 「これはその折、若い狩り手が見つけたものじゃ。気働きの良い男での、私にだけ打ち明け、見せてくれた」

 ライナスはグラハムの手の内を覗き込み、あっと息を呑んだ。

 グラハムの皺深い骨太の手に握られていたのは篭目のもととなる護符の欠片だった。器の表面にラ・ルーナの紋章が刻まれている。

 「他にも巣の周りで魔物祓いの器物の残骸が見つかっておる。これは一体どういうことか―――――」

 グラハム卿は俯くドミニクの顔を覗き込んだ。

 「ヴォルベッサ、何を知っておるか、話せ」

 ドミニクは両目を固く閉じると観念したように話し始めた。

 



 ラ・ルーナの加護手衆は砦の中に魔物の巣や痕跡を見つけると、それを猟館に報告せず内々に処理をしていた。

 砦の中に魔物が入ったとなれば、仲間が咎めをうける。それを嫌った末の工作であり、篭手頭自ら隠蔽を指揮していたことがドミニクの告白により明らかとなった。

 「一体何故そのような……」

 ライナスの問いにドミニクが苦い笑みを返した。

 「狩り手様には分からないだろう。あっしども加護手衆は猟館の中でも下の下。惨めで窮屈な思いを常日頃からしてきたんでさあ。砦の中に魔物が出ちまうと、非番の狩り手が出張っていくことになる。そうするとね、休みを潰された旦那さん方からそれはもう、酷い嫌味を言われるわけだ。役立たずだとか、穀潰しだとかね。

 加護手なんてね、地味な役目は百も承知。魔物相手に命懸けの仕事をなさる旦那方のように泣いて喜ばれるわけでもなく、謝礼がもらえるわけでもない。それでもあっしがこの役目を続けていられたのは、誰かが見てくださっていると信じていたから――――――。仲間はきっと分かってくれていると信じていたからでさあ」

 ドミニクが笑う。それは痛々しいほど苦しげな笑顔であった。

 「あるときね、ふと何もかもが嫌になった。砦に続けて何匹も魔獣が姿を見せて、旦那さん方も苛立っていたんだろう。毎日、毎日頭ごなしに怒鳴りつけられ、心苦しく思っていたところに、部下の一人が空き家で魔物の巣を見つけちまったんだ。

 そいつがね、泣くんだよ。『ああ、またどやされる』って。興奮して泣きわめくそいつを宥めるうちにあっしもね、プッツンと糸が切れたようになりやして、その場で巣を壊し、上から篭目をかけたんでさあ。

 何日か見張ったが魔物が帰って来る気配はなかった。篭目が効いているんだと思った。そうなるとね、これでいいじゃないかと―――――――」

 「良いわけがあるか!」

 ライナスはドミニクに怒声を浴びせた。

 ドミニクが力なく肩を落とす。

 魔物の巣の処理には時間がかかる。卵や繭がある場合は特に注意が必要で、建屋ごと燃やすか香油や香草を用いた浄化が必要になる。巣に不用意に近づき、壊したことで逆上する怪物や逆に壊したことで巣を拡散させる魔物もいるため巣の処理は特に慎重に行われた。

 魔物を根絶やしにするには捕り逃しなどあってはならない。ひとまとめにして一気に討伐するのが肝要である。そこでラ・ルーナの狩人たちは巣を突き止めると、長い時間をかけて監視し、その生態を探り取ってから一気に巣を破壊することで魔物の拡散をおさえていた。

 加護手衆が猟館に無断で処理した魔物の巣は二十を超えていた。

 「あっしが把握していない分を合わせれば、もっと多いかもしれやせん」

 ドミニクの言葉にライナスは頭を抱えた。

 この隠し工作は六環季にわたって行われている。もし魔物の巣が時間をかけ周囲に侵食する厄介なものであった場合、もはや砦の中は安全ではなかった。

 「ライナス、分かるだけでよい。明朝、狩り手に確認に行かせよ。こうなっては焦っても仕方あるまい」

 グラハム卿は驚くほど落ち着いていた。

 「ヴォルベッサの処分をどういたしますか」

 猟館への報告を怠ったことは通報義務違反。狩人の掟に反する。このままなかったことにはしておけない。だが、ただでさえ加護手の数が足りていないうえにドミニクは加護手の統率を任されている加護手頭だ。失うのは手痛い。そのことはドミニク自身が重々承知していた。

 「館主よ、どうか挽回の機会をくだせえ。今、あっしが抜ければ若い連中の負担は今以上に重くなる。あっしがこれまで以上に働きます」

 グラハムは静かに目を閉じると

 「ヴォルベッサよ」

 男の名を呼び、その小さな体を見下ろした。

 「そなたはしばらく休め」

 「あ、あっしがいなければ加護手衆が―――――――」

 「問題ない。他の砦からの応援がもうすぐ到着する。心配せずとも手は足りる」

 グラハムの声は凪いだ湖面のように穏やかだった。

 「そなたは色々と背負い過ぎじゃ」

 ドミニクは深々と首を垂れるとそのまま動かなくなってしまった。




 グラハム卿の言葉通り、その日の夜半、近隣の二つの砦から加護手の応援が到着した。

 「ライナス、今夜のうちに巣の周りで動きがなければ嗅ぎ手を呼んで追跡させよ」

 嗅ぎ手とは魔物の痕跡を辿る専門の狩人だ。その正体は非人間種――――多くが魔物と人間の混血奴こんけつどである。人でありながら人でない彼らに世間の目は冷たい。人目を恐れ隠れ棲む混血奴は生活に困ると野盗や追いはぎといった悪事に手を染める者が多い。そのためラ・ルーナでは信頼が置けると判断した非人間種に仕事や家を持たせると、各所で魔物の情報を探らせ、追跡の手として働かせていた。

 「嗅ぎ手は夜のうちにしか動かせませぬ。それでも構いませぬか?」

 嗅ぎ手はその正体を世間に隠して生活している。だからこそ活動には十分な注意を払う必要があった。その格別の配慮があってこそ、非人間が人間に協力するのである。

「構わぬ」

 グラハムは僅かに顎を引き、ぶらりと立ちあがると日課になっている見回りに出て行った。


 翌日になり、時計塔傍の巣に動きがあった。巣の主である魔物が戻って来たのだ。狩り手五名と捕り手二名の手柄により、三体の魔物が討伐され、一体が捕まった。生け捕りにされたのは悪魔の一種で〈ワイズ〉と呼ばれている魔物だ。

 「知恵の回る悪魔です。いくら尋問にかけても何も吐きませぬ」

 クジャ・ロドリゲスが口惜しげに歯噛みする。ロドリゲスは祓魔の経験豊かで聖堂からの信任も厚い男だ。その男が髪を乱し、汗をかき、泥と吐瀉物にまみれた顔をくしゃくしゃにしている。瘴気の立ち上る体は一回り小さくなったように見えた。それほど〈ワイズ〉の尋問に手こずっているのだろう。

 報告を聞いたグラハム卿は静かに頷くと、「よくやった」そう言って懐から金符の入った袋を取り出し、この討伐で手柄をあげた狩人たちに分け与えた。

 「明日は私が尋問室に行く」

 「館主自らですか?」

 狩猟頭のグリンジャーは驚きのあまり目を見開いた。

 「やってみようと思っての」

 「ご、御経験がおありなのでしょうか?」

 「ない」

 「そ、それはあまりにも無謀というものです」

 「無謀か」

 愉快そうにグラハム卿が声もたてずに笑う。

 「何かあっては、いけません」

 「そなたとロドリゲスがおるなら平気じゃ。やつが私に憑りつくようなら、そなたたちで止めてくれ」

 軽く言ってのけると、グラハム卿はさっさと私室に籠り、明日に備えると言って眠りについてしまった。


 明朝、ライナスとグリンジャーは念のため銃器と祓魔道具を揃え、尋問に立ち会うことにした。緊張と心配でグリンジャーは昨晩よく眠れなかったらしい。

見た目は剛毅、豪胆を絵に描いたような男だが気性は繊細で、情も深い。この一環季を共に過ごし、グリンジャーの中にあった館主への猜疑心は薄れていた。むしろ、関われば関わるだけグラハム卿への好意は増している。

 「備えは万全だと思うが、どう思う?」

 「さっきから同じ質問を何度するつもりだ、マーカス」

 「うむ。館主様と段取りの確認をしたいのだが」

 朝から猟館に詰めているロドリゲスも困惑の表情を浮かべている。

 当のグラハム卿は居室でゆっくりと朝食を楽しんでいた。

 「大丈夫と思うか?」

 グリンジャーの問いにライナスは答えない。彼もまたこの状況に戸惑い、緊張していたのである。


 捕らえた悪魔は上級でなくとも、力のある魔物だ。

 吐き出す瘴気のすさまじさ。腐臭と汚物の臭いが混じったような呼気や耳障りな声。その全てが不快で、〈ワイズ〉に吐瀉物を吹きかけられた若い狩人は気を失って倒れてしまった。尋問経験の豊富なロドリゲスであっても此度の〈ワイズ〉は相当に

 (手強いやつ……)

 と、眉間に皺を寄せる。

魔物、特に悪魔への尋問は体力と気力を使う。気を緩めれば魂を乗っ取られ廃人にされる恐れがあった。

「ロドリゲス、グリンジャー、おおライナスもか」

グラハム卿はいつもと変わらぬ軽装で現れた。靴は狩猟靴であったが、他は何一つ変わっていない。腰に短槍とサテンの布をぶらさげている。

「食事は摂ったか?」

「はい」

グリンジャーが緊張の面持ちで応えるとグラハム卿は

「布きれを用意しておけよ」

と言ってにやりと笑い、鷹揚な足取りで悪魔が封じられている聖牢へ向かった。

 猟館には本邸、館屋とは別に訓練所と騎竜場が併設されている。石造りの堅牢な建物群は圧巻でその広さは八場五間もある。広大な敷地に設けられたそれらの施設は維持するだけでも大変な出費で、使われずに放置されているものも多い。聖牢は四半世紀の間使われていなかった。



 狩り手衆の根気強い働きのために捕らえられた〈ワイズ〉を見てグラハム卿は

 「聖牢に連れて行け」

 考える間もなくそのような下知を発した。

 「聖牢……でございますか?」

 狩人たちは一様に困惑の表情を浮かべた。

 聖牢は魔物に対する尋問で用いられる特殊な施設だ。魔物を閉じ込め、その真名と仕える主を聞きだし、巣の位置や企てを暴きだす。尋問は長期にわたることもあり、時には聖都から祓魔術に優れた神官を呼び魔物と対峙することもあった。長く使われてこなかったのは魔物の数が増え、万事一つ一つの事柄にじっくりと構えていられなくなったからだ。

 放置されていたといっても、きちんと整備はされていたのか聖牢は滞りなく機能した。

 聖牢の壁に埋め込まれた鉄窓の隙間からグラハムは中の様子を覗いた。

 刻字や護符で守られた壁に聖火が灯され、中央の石柱から鎖が垂れ下がっている。そこに件の〈ワイズ〉が聖油を浸した縄で縛り付けられていた。捕り手が三人、その動きを監視するように立っている。中央ではロドリゲスの配下の一人であるブラムが悪魔に向けて尋問を続けていた。

悪魔の顔は見えないが弱った様子はない。一方ブラムの額には汗が滲み、疲労と焦りが見えた。どうやら昨日悪魔に吐瀉物を吹きかけられ、昏倒したのはこの男らしい。

 報告を受けていたグラハムは真名を問いながら悪魔に聖水を浴びせかけ、汗みずくとなって罵声を発する若い狩人の横顔を見守り、くすりと口元に笑みを浮かべた。

 「あれでは、な」

 振り返ると、長身痩躯を縮め、申し訳なさげにロドリゲスが立っていた。

 「しっかりと仕込んだつもりでしたが、足りなかったようでございます」

 ブリムはすっかりあの悪魔に舐められている。鞭をしならせ、叩きつけるがその腰が引けていた。このままでは真名を問うどころか、かえってブリム自身が魂を抜き取られかねない。

「休ませてやれ。あのままではまずい」

 グラハム卿はそう言うと、グリンジャーの制止を振り切り、自ら鉄扉を引いて中に入った。

 聖火の淡く温かな光を掻き消すように、黒い瘴気が渦巻き、牢の中心にぽっかりと穴が開いている。その穴の中にふてぶてしい顔をした悪魔が両手足を縛られ、吊るされていた。一見すると人のように見える。しかし、明らかに人ではない。

 肋の浮いた腹には聖印が焼き付けられ、その動きを何重にも封じている。

 逃げられないと観念しているのか悪魔に暴れる様子はない。しかし獣のように血走った両目にはどす黒い殺気がこもっていた。じっとりと濡れた髪の隙間から覗く眼差しにライナスはぞくりと肌が粟立つのを感じた。

(これは生半可な気持ちでは飲みこまれる)

 ライナスは隣のグリンジャーと目を合わせ互いに覚悟を決めたように頷いた。

 館主が現れると、聖牢内に緊張が走った。ロドリゲスがブラムに駆け寄り、その体を支える。さすがにラ・ルーナの狩人らしく、若い狩人はその場にへたり込むようなことはしなかった。

 グラハム卿はその様子を確認すると、吊り下げられた悪魔の前に歩を進めた。

 「それは人の体であろう」

 臆することなく悪魔に顔を寄せる。

 「一体どこで拾った?」

 にたりと笑った悪魔が軽蔑の眼差しを向けてきた。答えが返ってこないことを見越してか、グラハム卿は灰青色の瞳を静かに動かした。

 「その体の持ち主は既に死んでおる。出てゆく気はないのか?」

 悪魔は答えない。

 「私はお前のようなモノを私はよく知っている。その目は多くの人を悪戯に殺めた者の目じゃ。女、子供、年寄り……一体何人殺した?」

 「さあな、数えたことがない」

 ワイズはきりきりと金属を引っ掻いたような不快な声で笑い、縛られた手首を窮屈そうに揺らした。

 「健康な男は狙わぬ。幼く、弱く、非力な者を狙い、嬲り殺す。食べるため、生き延びるためではない。楽しむため、仲間内で自慢し箔をつけるため、そのために奪い、いたぶって殺す。哀れなものよ。何ゆえ、このようなモノがこの世に蔓延っているのか」

 グラハム卿は静かにそう言って、吊るされた悪魔の顔を見上げた。軽蔑と哀れみがないまぜになった眼差しを受け、悪魔の頬がぴくりと痙攣する。

 「我らだけではない。ヒトも同じことではないか!殺し合い、憎み合う。嬲り、嘲り、戯れに殺す!お前も我らも同じ怪物よ!お前はどれほど殺めた?我の同胞をどれほど塵芥に変えたのか!」

 「ほう、同胞か。ヒトならざるモノでも仲間を想う心はあるらしい。感心、感心」

 揶揄うように言われ、悪魔は黄色い歯をむき出しにして唸った。目が見開かれ、眼球が黒く染まる。膨らんだ腹と胸がゴボッゴボッと嫌な音をたてた。

 「館主様!」

 グリンジャーがグラハム卿の腕を引こうとする。捕り手たちが慌てて退避し、悪魔を繋ぐ綱がプツプツといくつか千切れた。

 ゲップをした悪魔の口から腐肉と汚物の強烈な臭いが噴き出す。

 どうやらこの場に吐瀉物をぶちまけるつもりらしい。

 ライナスが館主を庇おうと前に出る。

 その動きより早く、グラハム卿は持っていた槍を悪魔に向けて突き出した。〈ワイズ〉の膨らんだ喉の上に槍がずぶりと突き立つ。悪魔の目が見開かれ、内側からの圧力に耐え切かねたように腐った両の目が飛び出た。噴き出すはずの吐瀉物が詰まり、体の中で暴れているようだ。その異様な光景にライナスとグリンジャーは思わず動きを止めた。

 悪魔の両手足がぶるぶると震え、痙攣する。

 「二人共、離れておれ」

 グラハム卿はそう二人に言い含めると、槍の柄を握る手に力を込めた。

 そのまま悪魔の肉を磨り潰すように穂先を回転させる。途端、〈ワイズ〉の口から声にならない悲鳴が漏れた。それでも構わず、喉を抉る。槍が喉を貫通した。すかさずグラハム卿は槍の柄を片手で器用に動かした。槍先がぱかりと花の蕾のように開き、穴が膨らむ。赤黒い喉の肉が奇妙に泡立ちながら収縮するのが見えた。

 「水を持ってこい」

 退避していた捕り手に指示を出す。用意させた聖水をグラハム卿は槍でできた傷痕に少しずつ流し込ませた。傷が塞がらず、そこからどくどくと瘴気を含む液体が溢れ、床に落ちる。

 「が、ががあがああああ」

 暴れまわる悪魔の体から跳ね飛んだ液体がライナスの肩にかかる。

 「ライナス、使え」

 グラハム卿は布きれを投げ渡すと、自分は猛烈な瘴気を顔に浴びながら

 「さて、まずは何を訊こうかの」

 口元に静かな笑みが浮かべた。




 尋問は昼を迎える前に終わった。

 哀れな〈ワイズ〉は息も絶え絶えとなり、最期には泣きじゃくり、悲鳴と命乞いを交互に繰り返すだけになった。普段は温厚で年老いた猫のように丸い館主の、そのあまりに容赦のない責め立てに監視役の捕り手たちは声も発せず、しばらくその場に磔になったように動けなかった。

 後にグリンジャーはライナスと酒を酌み交わしながら

 「あのときばかりは肝が冷えた」

 と言って怖気をふるった。

 「悪魔に同情などしたことはなかったが、思わず目を瞑りたくなった」

 そう言って大男が身を縮める。その横でライナスはあの日の館主の凄絶な様を思い出し、杯の酒を一気に飲み干した。


 グラハム卿は終始、声を荒げることはなかった。息一つ乱さず、淡々と尋問を重ねていく。ゆっくりと、体の中に聖水を注ぎこまれた〈ワイズ〉は苦しげに声をあげ、暫くの間は沈黙を守っていた。しかし、館主が新しい槍を幾本も用意し始めるとその顔に恐怖の色が浮かんだ。二本、三本と槍が体に打ち込まれる。それも急所の傍、きわどい場所をゆっくりと刺し貫かれるのだ。悪魔に乗っ取られても、その体は元は人間である。鈍くとも感覚は残っている。呻き声は次第に悲鳴に変わった。

 「真名を明かせ。答えれば楽になれるぞ」

 館主の穏やかな声が聖牢の中を反響する。

 「強情な奴じゃ」

 そう言うと、グラハム卿は悪魔の眼球に鋭くとがった棒を差し向けた。

 「な、なにを……」

 途端、ぎゃああああああっという凄まじい叫び声があがった。

 グラハム卿は躊躇なく眼球の隙間から突きこんだ棒で脳を磨り潰し始めた。たまらず捕り手の一人が目を逸らし、その場に嘔吐した。

 「答えよ、そなたの名は?ラ・ルーナで何をするつもりじゃ?」

 グラハム卿は悪魔の顔を覗き込み、無傷の目に指をあてた。

 ガクガクと〈ワイズ〉の体が痙攣する。血の気の失せた唇が震え、汗が滴る。それは紛れもなく恐怖そのものだった。開いた口から「あぁ」と吐息が漏れる。

 観念したように肩を落とすと〈ワイズ〉は全てを白状した。

 そして、この尋問によって〈金の教導イミナリウス〉によるラ・ルーナの砦に向けた急襲計画が明らかになったのである。



 グラハム卿はすぐさま部隊を指揮し〈ワイズ〉が示した建物を包囲した。

 教団が根城にしていたのは北町にある救貧院傍の瀟洒な邸宅であった。しかし、取り囲んだときには既にこちらの動きを察知したのか、邸に人の姿はなかった。

  「近所の者の話によると、住んでいたのは人の良さげな老爺と息子夫婦だったようで、仲睦まじく、また誰にでも親切で、身寄りのない者に炊き出しや生活の世話をよくしていたそうでございます」

 邸には魔物の召喚法や悪魔と契約する方法を教えていた形跡があり、魔獣を操る調教具の他、焼き鏝、革紐の結びついた台、虫の卵に鉱物、それから黄色く乾燥した皮膚片の詰まった瓶が几帳面に並べられていた。調べたところ、皮膚片は人間の鼓膜であった。

 血と体液が染みついた寝台が二つ。そこからも人皮の一部が見つかった。

 「救貧院から消えた者が数名おるそうじゃな」

 「はい。先日から六名ほどいなくなったそうで、今行方を探しております」

 「無事でおればよいがな」

 グラハム卿は口惜しげに歯噛みし、床に染みついた古い血の跡に指を這わせた。

 


 それから数日の間、ラ・ルーナの狩人たちは慌ただしく働いた。

 〈ワイズ〉の証言によると、イミナリウスは〈黒狐〉と名乗る男に率いられ、魔物や魔獣を使い猟館を襲う計画をたてていたらしい。

 魔物を砦の中に誘い込み、巣を作らせ、北町と南町を繋ぐ〈黄泉路よみじ〉を敷く。そうしてわざと昼中に魔物を出没させ狩人の目を砦の南側に向けさせておいて、北にある弾薬庫や狩人の家族が暮らす借家を襲うのだ。その混乱に乗じて町に火を放ち金品を奪うつもりであったらしい。

 まさか猟館の目と鼻の先でそのような計画が練られているとは考えもしない。襲撃は長い年月をかけた周到な計画であり、到底三人だけでことを運んだとは思えなかった。

 「裏で不届き者どもに金や物資を与え、後押しする力があったに違いない」

 老爺がラ・ルーナに居を移したのは十登勢前だという。それにラ・ルーナを狙ったという目的も不明なままだ。

 「北町の巣は万事滞りなく処理を済ませ、南町に繋がる黄泉路も随時埋めております。隠れていた魔物も相当な数を討伐いたしました」

 ライナスの報告を受け、グラハムは深く頷いた。

 常日頃、狩猟頭として多忙なライナスだがさすがにその表情にも疲れが見える。グラハムはそんな彼を椅子に座らせ酒を勧めると自らも杯を手に取った。

 「よく働くのう」

 「今度ばかりは怠けていられませぬ」

 ライナスは血走った眼にぐっと力を込めた。

 魔物の通り道を〈黄泉路〉という。

 古い言い伝えでは冥府の獣の毛と闇が擦れてできた道とされ、裂け目を通じてあの世とこの世が結ばれているらしい。とある村で人が消え、遠く離れた街で見つかる。こうした異変は人が黄泉路を通ったためといわれる。

 しかしこれらは偶然生まれる産物であり、人の目に映ることはなく、もちろん操ることなどできるはずがない。ところがイミナリウスは黄泉路を広げ、膨らませ、網目のように砦一帯に張り巡らせていた。魔物の臓物処理場や刑場、浴場といった瘴気の多い場所を的確に狙い、巧妙に隠された黄泉路を嗅ぎ手も感知できなかった。

 その黄泉路の一本がライナスの妻ナラの働く工房にも繋がっていたのである。

(気づくのがもう少し遅ければ妻が襲われていたかもしれない)

 想像しただけで身の毛がよだつ思いがする。

 安全と信じていた砦が最早安全ではなかった。

 狩り手衆は不安を押し隠しながら見回りの回数を増やし、昼夜警戒にあたっている。

 「さて、教団の連中がどうやって黄泉路を操っておるかが問題じゃ。気位の高い冥府の獣が都合よく人間に味方するとも思えぬ」

 尋問にかけたワイズも黄泉路については何も知らなかった。

 「そのことで一つ気になる話を耳にいたしました」

 ライナスは杯を飲み干すと背筋を伸ばした。

 「ほう」

 「教団の根城となっていた邸に頻繁に出入りしていた者がいたようなのです。それが母と子で――――――――」

 その瞬間、グラハム卿の瞳に鋭い光が宿った。

 ライナスは察しのよい館主に頷きを返し、

 「どうやらその二人、我々が初めて会った日黒妖犬に襲われた母子に背格好と人相が似ているようなのでございます」と言った。

 「黒妖犬か」

 「あれも元を辿れば冥府の獣です。この話、なにやら繋がりが見えてくるようではございませんか」

 思いもよらない接点にライナスは僅かに頬を紅潮させている。

 「まあ、待て。今はまだ憶測にすぎぬ。まずは落ち着くことが肝要じゃ」

 グラハム卿はそう言ってライナスの空の杯に酒を注いだ。

 「しかし、どうやらあの母子から話を聞く必要があるらしい」

 とはいえ肝心の二人の行方が分からない。辻の目に尋ねて回ったが怪我をした息子の情報すら出てこなかった。

 「あの怪我では目立ちそうなものですが。一体どこに消えたのでしょうか」

 足を黒妖犬に噛みつかれ、血を流し、半死半生の体で逃げてきた。痩せた体は頼りなく、幼さの残る顔は青ざめ、恐怖に怯えていた。

 ふとライナスは思いついたことがあった。

 「息子……ではないのかもしれませぬ」

 「なに?」

 ライナスの言葉にグラハム卿は顔をあげた。

 「娘か」

 「悪魔崇拝に関与しているとなれば我ら狩人に見つかったことで警戒するはず。たとえ男であったとしても布巻きをして足元を隠せば怪我を悟られず、頬被りで顔を隠せば……」

 足を悪くしている娘と母親に見える。見る者の印象は変わるだろう。

 「改めて辻の目に訊いてまいります」

 ライナスは立ちあがると慌ただしく部屋を出て行った。

 残されたグラハムは静かに立ち上がり、壁に設えた小さな祭壇に手を伸ばした。水鉢と香炉が置かれ、どれも一流の装飾がなされている。中でも聖像は極めて美しく、台座が抽斗のついた小箱になっていた。

 グラハム卿は短い祈りを捧げると小箱を開き、中から髪留めを取り出した。生まれて一年経つ赤ん坊に送られる花冠―――――それをとめるためのもので蝶やテントウムシがモチーフにされることが多い。

 その小さな髪留めは銀でできており、螺鈿細工のトンボの飾りがついていた。クリスティーナと刻まれた名前を指でなぞり、グラハム卿はそれを胸あての中にしまいこんだ。




 (ああ、どうして。どうしてこんなことに)

 アンジーは壁の隅で蹲り、顔を覆って肩を震わせた。

 (何もかも、こんなはずではなかった)

 馬小屋の端で苦しげな息を吐いている息子に目を移す。あれから随分月日が経ったというのに、足の傷は一向によくならない。痛みと熱で気が狂うばかりだというのに、息子のカーは気丈に振る舞い、母に心配をかけまいとする。その健気な姿が一層、母親の心を乱した。

 「母さん、水がほしい」

 か細い声で頼まれ、アンジーは笑顔を見せながら息子の傍により、汲んできたばかりの水を飲ませた。

 「今日は調子が悪いね。逃げ切れるかな」

 「お前の心配することじゃないよ。母が守ってあげるから安心をし」

 カーは頷きを返し、再び目を閉じると熱い呼気を吐き出した。熱がまたあがったらしい。医者に診せてやりたいが、外に助けを求めるのは危険だ。

 計画を失敗った母子に頼る者はいなかった。

 「どうすれば……」

 思考を巡らせてもどうどう巡りで解決策は降ってこない。

 「でもカーを娘の姿にさせたのは正解だった」

 どうやらラ・ルーナの狩人が母子の消息を探しているらしいのだ。ただでさえ難しい役目であるのに狩人にまで目を付けられれば身動きはとれなくなる。

 アンジーは奥歯をぎしぎし擦り合わせると、胸のブローチを強く握りしめた。

 「あと少し。あと少しだ。あと少しでカーは助かる」

 何度も祈りの言葉を唱えた。

 難しい発音だが教祖に教えを乞い、必死に覚えた。精霊のことば、古代語なのだという。

 カーの全身が小刻みに震える。何度も何度も必死に主の名前を呼ぶが返事がない。アンジーは頭を掻きむしった。

 「ああ、ああ、ああ!ねえ、カー!ど、どうしよう。どうすればいいの。誰か教えてちょうだい!」

 そのとき、耳孔の中でもぞりと何かが蠢いた。掻痒感に耳朶を掻き毟ると、


 『犠牲を払えば、母はそなたの望みをお許しになるだろう』


 耳の奥でアルト調の麗しい女の声が響いた。心地よい天界の音楽を思わせる声である。

 耳朶を掻き毟る手が止まった。


 『この世に望んではならない願いなどない』

 『我が子を愛し、生きてほしいと願うは真の愛』

 『それを否定するものこそ邪悪』


 「ええ、そうよ。そうよ。リリス様はお許しになる。許してくださる。カーを助けてくださる」


 『そなたは真の母。使命を果たせ、アンジー』


 アンジーは感涙にむせび、震える手で空に向け一心不乱に祈りをささげた。 




 ラ・ルーナの館に辻の目からの使者が訪れたのは夜半を過ぎた頃。行方知れずとなっていた母子の隠れ家が見つかったと聞き、ジョー・グラハムは寝所を出てすぐさま応接間に顔を出した。寝屋で控えていた狩り手衆が控えの間に顔を揃えている。

 辻の目からの使者は館主自らが姿を見せたことに驚き、緊張で体を強張らせた。

 グリンジャーが辻の目の主、チェイズリーからの手紙をグラハムに渡す。

 素早く文面に目を通すとグラハムは大きく頷いた。

 「なるほど、辻の目に例の怪我を負った子供が自ら現れたのか」

 「は、はい!つい、四半刻ほど前のことです」

 四半刻前、辻の目に詰めていた番役の前に足を引きずった少年が現れた。少年は娘の出で立ちをしており、懐から手の平より少し大きなブローチを取り出すと、それを猟館に届けてほしいと頼んできたのだという。

 チェイズリーからの手紙には布に包まれたブローチが同封されていた。三つの三角形を組み合わせた幾何学模様の精巧なブローチだ。その模様の表面に血文字で邪教を意味する逆文字が描かれている。

 グラハムは背後に控えていたロドリゲスに視線を投げた。

 ロドリゲスが頷きを返す。

 「念のため護りを張り、中を検めたところ何かが仕込まれていた痕跡が残っておりました。おそらく呪いの一種でございましょう。大部分を何者かに細工されていたため効果はなかったようでございます」

 「細工か」

 「失敗したからよいものの、子供相手だと気を抜いていられなくなりましたな」

 グリンジャーが毛深い腕を胸の前で組む。

 グラハム卿はしばらくブローチとそれを包んでいたボロ布を眺めていたが、やがて使者に目を移し

 「その子供はどうしておる」と尋ねた。

 「番役が引き留めましたが、どうにも抵抗するので、仲間の者がひそかに後をつけ、居所をつきとめました。場所は番役近くの物置小屋でございます」

 「グリンジャー、先に行ってチェイズリーの手のものと連絡をつけよ」

 「はっ」

 「ライナスを呼んでくれ。母子を保護する手筈を整えさせよ」



 件の母子は辻の目とラ・ルーナの狩人の手で捕らえられた。館主からは危害をくわえぬようにとの命だったが、母親の激しい抵抗により、仕方なく親子には縄が打たれた。主導したのは先に到着していたグリンジャーである。捕らえられたとき息子は衰弱がひどく、逃げる気力もないようであった。

 報告を受けたグラハムは辻の目の主に礼を伝え、猟館に戻ると捕らえた母子と面会した。

 二人はそれぞれ違う部屋に押し込まれていた。二人共憔悴しきりすぐさま尋問に答えられる様子ではない。館主の計らいにより子供には、はめ込み式の格子窓がついた日当たりの良い部屋が用意された。

  翌日、グラハムは回廊で、ちょうど治療を終えて出てきた医者とすれ違った。

 「先生、子の容体はどうですかな」

 尋ねると館通いの老医師アーナード・ロブレスは難しい顔で首を横に振った。

 「あまりに酷い。よくあの状態で心を保っておられるものだ。健康な大人でも堪えきれるものではない」

 足の傷も深いが背中の傷が相当に重いのだと告げたロブレスは無念そうに息を吐いた。

 「館主殿、あれは印傷に相違ない。それも、何度も何度も何度も繰り返しつけられておる。どのような方法かは分からぬが狙って同じ場所に傷をつけたとしか思えぬ」

 長らく魔物傷患者を相手にしているロブレス医師も言葉にできない醜悪なやり口であった。

グラハム卿は話を聞きながら、先日見つけた教団の隠し部屋の様子を思い出していた。

 魔獣が人の背を噛むのは難しい。押し倒し、子供を床に跪かせ、むきだしになった背中を晒す。そこに印に導かれ現れた魔獣が襲い掛かる。

 おそらく安定した黄泉路ができるまで、その作業は何度も何度も繰り返されたに違いない。

魔獣を誘うためには恐怖心が必要だ。子どもは泣いたに違いない。恐怖で震えたに違いない。その様子を、薄ら笑いを浮かべて見守る大人たち――――――そんな悍ましい姿が目に浮かんだ。

 「それにあの子は胃を患っているらしい。そちらも深刻だ。ワシはしばらく猟館に詰めておる故、いつでも呼んでくれ」

 「よろしくお頼みいたします」

 「うむ。今は薬で眠っておる故、子に用があるなら後にせい。長居は禁物。それに脅しつけるような真似をして気を触れさせるなよ」

 ロブレス医師はそう言うと、手をふりふり去って行った。

 気さくで鷹揚。治療の腕も一流とあって狩人たちからの信頼も厚い。老医師の去っていく背を見つめ、グラハムは頬を緩めた。




 ロブレス医師の忠告に従い、グラハムは母親の部屋を先に訪れることにした。

 母親は息子と離されたことで昼夜の境なく泣き叫び、見張りを務める小者を罵ると、部屋中に唾を吐いて回っているらしい。

 「お気をつけください。あの女、おそらく憑りつかれているかと」

 小者はすっかり委縮し、青い顔に汗をびっしりかいている。

 「ふむ、憑りつかれておるか……」

 グラハム卿はそう言うと部屋の中に足を踏み入れ、女の傍に膝をついた。

 先ほどまで狂った獣のように泣いていた女がぴたりと泣き止んだ。

 目が大きい。見開かれた両目に嫌悪と憎しみがこもっている。

 「アンジーじゃな」

 辻の目の調べで親子の身元が分かった。

 アンジー・メイとカー・メイ。

 二人はラ・ルーナの生まれではなかった。

 「コルカタの村からよくここまで来たのう」

 立てた膝の上に肘を置き、頬杖をついたグラハムは静かな眼差しをアンジーに向けた。その様子を不安げに二人の小者が見つめている。

 「イミナリウスの目的はラ・ルーナに対する襲撃とかく乱。しかしそなたは違う。そうであろう」

 広がったシャツの胸元から邪教崇拝の証である紋章が焼き付いた皮膚が覗いている。乳房の一部が爛れ、柔らかな皮膚は痛々しいほどに腫れ上がっていた。


(これほどまでの覚悟か)


グラハムは視線を落とした。

 「そなたの息子カーは胃を患っているそうじゃな」

 アンジーの瘦せこけた頬がぴくりと痙攣した。

 「長くはないと医者に言われ、そなたは息子を救う手立てを考えた。高直な薬を買い、何人も医者を変えた。聖堂にも通った。それでも容体は良くならなかった」

 グラハム卿は再びアンジーに目を向けた。灰青色の瞳が緩む。

 「辛かったのう」

 途端、アンジーはワッと声をあげて泣き出した。少女のように顔を両手で覆い、泣き声をあげる。そんな彼女をグラハム卿は慰めるでもなく、ただ傍で見守り続けた。



 アンジー・メイの夫はコルカタの村の裕福な粉挽商であった。夫婦は息子のカーをことさら愛し、大切にしていた。しかし、カーの病が分かった途端、夫は息子に目をかけなくなった。

 「それがただ悲しかった」

 アンジーはなんとしても息子の病を治したいと薬を買い漁り、医者に縋った。カーはきっと良くなる。あんなに優しい子が親より先に死ぬはずがない。彼女は息子の生きる力を固く信じ、決して諦めなかった。

 あるとき、酔った夫が親族に心中を漏らした。その場に立ち会ったのはアンジーではない。久方ぶりに体の調子を取り戻し、寝台から起き出していたカーである。

 息子に見られているとも知らず、夫は「二人目さえできれば、あの子はいらない」と、そう言って笑った。

 「カーはみるみる痩せていった。まるで自分から生きることを拒絶するように。訳を聞いたら――――――――――ああ、もうあの人と一緒にはいられない。そう決意してあたしは二人で家を出た」

 かといって女に行くあてなどない。

 そんな折、彼女のもとに救いの使者が現れた。

 「お困りですか?」

 その男は優しかった。

 「衣食住を与え、色々な相談に乗ってくださった。天使のような人だった」

 アンジーはそう言って頬を赤らめた。

 「その者に頼まれ、〈黄金の教導イミナリウス〉に協力することにしたのか。しかし、あれは魔に魂の輝きを見出す者たちだ」

 「カーを救う手立てはほかになかった。聖教なんて無能者の集まりだ。祈りは気休め。聖教府は寄進を強請るだけの腐った金箱。でも教団は違った。彼の言う通り。あの御方はケチな神と違って我らの前に現れ、確かにカーの病を癒してくださった」

 「あの方とは誰だ?」

 グラハムの問いにアンジーはぴくりと唇を引き攣らせ、口を閉ざした。

 「そなたたちの策は失敗に終わった。砦の黄泉路は塞いだ。もうラ・ルーナを襲うことはできぬ。策を失敗った、そなたたちはどうなる」

 「失敗ってなどいない!」

 アンジーの瞳が興奮に見開かれる。

 「カーはここにいるんだろう?あの子がいる限り、あの方の策は失敗しない。あの子がいれば黄泉路が開ける。いつでも魔物が攻めて来るぞ!」

 「そのときカーはどうなる」

 グラハムの声は穏やかであった。しかし、その口調は氷のように冷ややかである。

 「これまでは上手く逃げおおせていたらしいが、今あの子は一人。冥府の犬に襲われれば息子の命はないぞ」

 「う……ううう」

 「それと一つ私には我慢ならぬことがある。教団はそなたに息子の命を救うと約束し、働かせたらしい。しかし私が見る限り、犠牲を払っているのはカーではないか!病で傷つき、苦しむ子に印傷までつけさせて何が親だ!魔獣に襲われ、恐怖に慄く子を見てなんとも思わなんだのか!」

 グラハムの怒号は壁を震わせ、天井をも揺らした。石壁から塵と埃が降って来る。 

 アンジーは心臓を掴まれたように全身を硬直させた。その目に恐怖が浮かぶ。

 「あ……あああ!」

 顔を両手で覆ったアンジーの痩身が震えはじめた。

 「館主様!」

 そこに、ライナスが駆けつけてきた。

 館主を背に庇うように腕を伸ばす。

 その視線の先でアンジーが顔面を血が出るまで掻き毟りはじめた。

 「母よ!どうか襲って!襲ってくださいませ!こやつらを!こやつらを殺してくださいませ!黄泉路を!黄泉路を通しました!あの子をあの子を使って!だから私をこの悪夢から御救いくだっ―――――」

 アンジーの意識が途切れる。頽れた躰をグラハムは抱き留めた。血の噴き出す顔を袖で拭う。彼女は泣いていた。

 グラハムは天井を見上げ、溜息をついた。

 「ライナス、カーはどうしている?」

 やがて地を這うような声で彼は尋ねた。

 「印が消えるまで捕り手が見張っております」

 「当然のことよ。ラ・ルーナが印持ちをそのままにしておくはずがないわな」

 グラハムは、今度は鋭い眼光で倒れたアンジーを睨みつけると、その細い体を抱きかかえ寝台に寝かせた。胸元の焼き印が露わになる。

 ライナスは眉間に皺を寄せ不快感を示した。

 「愚かな。よりにもよって悪魔に身を捧ぐなど……」

 「子が絡むと親というものは見境がなくなるものよ。それが子の命に関わるなら尚更な」

 グラハムは寂しげに笑い、アンジーの胸元を敷布で隠した。

 「私にはその気持ちが痛いほど分かる」

 



 カー・メイは頭の良い子であった。

 グラハムは衰弱しきり、起き上がることすらままならない少年に優しい笑顔を向けた。

 カーはすぐさまグラハムに心を許した。

 「これに細工し効果を失わせたのはそなたじゃな」

 グラハムが取り出したのは猟館に届けられたブローチである。

 「中についていた指紋が小さく、子供のものじゃった」

 おそらく母親がもしものときのため用意していたブローチを使ったのだろう。細工を取り除くとき、指を使ったのか、寝台の裾から覗く少年の人差し指の先が赤黒く変じていた。


 (素手で触ったのか)


 「痛かったであろう」

 骨ばった小さな指に触れる。

 「ブローチに邪教の印をわざと刻み、ラ・ルーナへの忠告とした。そうして辻の目の者にわざと後をつけさせ、自分たちを捕らえるよう仕向けた。何故そうした?」

 「もう、母を苦しめたくなかった。母がおかしくなるのを見たくなかった」

 「母御の様子を知りたいか?」

 頷くカーにグラハムは偽りのない真実を告げた。

 「泣いていた。そして、母よ!猟館を襲えと言っておった」

 「ごめん……なさい」

 大きな目に涙が溜まる。

 「ごめんなさい。僕のせいなんです。母は僕のために……」

 「そなたが謝ることではない」

 少年の背を擦る手が優しい。

 大きく身を捩り、咳き込んだ少年はぎゅっと館主の腕にしがみついた。痩せた躰は小さく、枝人形のように風が吹けば折れてしまいそうだ。しかし、心の臓は力強く脈打ち、肌の温度は温かい。

 (この子は生きている)

 そのことが堪らなく胸に迫り、グラハムは固く目を閉じた。



 それから毎日、グラハムはカーのもとを見舞った。

 菓子や絵巻を差し入れ、小一時間ほど話をするのだ。カーはグラハムの語る与太話に聞き入り、夢中になった。まるで幼子のように館主の膝に乗り、もっともっとと話をせがむ。グラハムの語る話は元神官とは思えない、荒唐無稽なものばかりであった。時には寝る間を惜しんでカーに博打のやり方やイカサマの方法、見破り方を教え込み、ロブレス医師を怒らせたりもした。

 そうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。

 カーの身に刻まれた〈印〉はなかなかに解けない。

 それは彼の体が抵抗する余力を残していないことを示していた。

 カーは自らの体に残された刻限を知っているようであった。

 あるときグラハムはカーに呼ばれ、彼が気に入っていた砂糖菓子の袋を手に現れた。

 「最期は母と一緒に過ごしたい。その代わり、教団の神殿がある場所を教えます」

 カーの両目には強い覚悟が宿っていた。



 カーの記憶を頼りに邪神崇拝者の潜伏先を突き止めたラ・ルーナの狩猟団はそこから、二手に分かれ、西のユーレラとグリッセンの町にあった隠し神殿を強襲した。神殿にいた邪神崇拝者は全員捕らえられ、檻の中で監禁されていた十人の女性と三人の子供が救い出された。

 この報せは瞬く間に王都、聖都、そしてラ・ルーナの砦にもたらされた。

 「此度はよくやった。皆には金符をはずむと伝えよ」

 執務室の小さな祭壇を掃除していたグラハムは報告に現れたライナスに目を向けると、満足げな笑みを浮かべた。

 「館主様のご命令があってのことです」

 ライナスが報告書を机に置くと聖像を磨いていたグラハムは呆れた顔を彼に向けた。

 「はやいのう……少しくらい遅れても構わぬと言っておるのに」

 館主の小言を聞き流し、ライナスは言葉を続けた。

 「されど驚きました。これまで、人が魔物の味方をするなどあり得なかった。それが今では魔物を人が支配し、悪事を企てようというのですから」

 魔すら自らの手の内で操ろうとするとは、人の業とはどれほど深く、傲慢なのだろう。

 「王都からもイミナリウスの動きに目を光らせるよう各砦に通達が出た。これでしばらく大人しくなるとよいがな」

 グラハム卿の言葉を聞きながらライナスは机の上の聖櫃と髪留めに目を向けた。

 「ご息女のものですか?」

 「うむ」

 グラハム卿はそう言うと髪留めを小箱の中に大切にしまいこんだ。

 「病でな、亡くなって一年が経つ」

 「失礼をいたしました」

 「よい。いずれ話すことになっていただろう」

 聖像を見つめるグラハム卿の眼差しは柔らかかった。それは父から娘に向けられるものに他な らない。

 「娘を一人にせぬよう妻には聖都に残り、娘の柩に寄り添うよう頼んでいてな。そのせいで館の中には我ら夫婦の仲を案じる声もあるようじゃが」

 「恐れ多いことで……」

 「来なくてよいと言っておるのに、体が心配じゃからと、とうとう砦で生活することに決めたらしい」

 グラハム卿は部屋の脇に積みあがる荷物の山を見て溜息をついた。

 「冬支度やらなにやら、毎日のように届く故、片付けが大変じゃわ」

 ライナスはにこりと明るい笑顔を見せた。

 「ようございました」

 「よいか」

 「はい。砦には館主様と対等にお話しする相手はおりませんので」

 爵位はなくともジョー・グラハムは子爵家の血を引いているれっきとした貴族である。本来であればいち狩人のライナスが気安く声をかけられる相手ではないのだ。

 「深酒や寝たばこを注意してくださる方がいてくだされば助かります」

 グラハムが口をへの字に曲げる。

 「十分対等に話しておる気がするがな」

 ライナスは笑みを返し、

 「奥方を迎え入れる準備をいたします。ご不便のないよう取り計らいますので」

 と言って頭を下げた。


 数日が経ち、猟館内で騒ぎが起きた。邪神崇拝に与した疑いで審問所の聴取を受けていたアンジー・メイとその息子のカーが死んだのだ。

 報せを受けたグラハムが二人のもとに駆け付けると、息子の骸に覆いかぶさるようにして母親は息絶えていた。二人の周囲は血の色に似た赤い花びらで埋め尽くされ、その体は水気を吸い取られたように痩せ、木乃伊ミイラのように干からびていた。

 グラハムは二人の骸に近づき、その体から甘く濃密な薔薇の香りが漂っていることに気づいた。一歩近づいたグラハムの靴の端が花びらを踏みしめる。その瞬間、花びらが溶けだし、辺りは血と死臭に覆われた。母子の体に蠅が集り始めている。そんなぞっとする光景を前に皆が言葉を失った。

 戸口に背を向ける館主の表情はうかがい知れない。

 しばらくしてグラハムは床に焼き付いた紋様に気づき、眉根を寄せた。

「館主様はご無事か」

 館に到着したばかりのグリンジャーが駆け寄って来る。大男の体を肘で押して脇にどかすと、グラハムは腰を屈めて紋様を眺め、焼き付いた文字を読みあげた。

 「我、全なる母にして魂の解放者。軛を断ち切る者。」

 紋章がちりちりと火花を吹きながら燃え始める。

 「お前の魂は我が手にある」

 火が燃え上がった。

 騒然とする狩人たちの前で、グラハムはそれを無造作に片足で踏みつけた。暴れる炎を、じりじりと踏みにじる。

 火が消えると、紋様は塵となって消えていた。

 「リリス……か。どうやらイミナリウスの連中は恐ろしい女悪魔と手を結んだらしい」

 グラハムは沈痛な面持ちで二人の骸を見下ろした。


 その日、さらに一同を驚かせたのは謹慎を言い渡され、部屋に籠っていた篭手頭のドミニク・ヴォルベッサが砦から姿を消したことであった。

 「行方を捜したところ、レオンドの町の外れで長年懇意にしていた娼婦と夫婦となり、暮らしている家を見つけました」

 「そうか」

 グラハムはライナスの報告に気のない返事をした。このようなことは初めてでライナスは虚を衝かれた。

 「連れ戻しましょうか」

 「よい」

 グラハムはヴォルベッサが残した置き手紙を読みながら首を横に振った。

 「これは私の落ち度じゃ、ライナス」

 頬杖をつき、重い溜息をつくとグラハムは小さく舌打ちをした。

 「忙しさにかまけ、あの男の心の澱を見落とした。休めと言ったのは、なにもあやつを疎み、その仕事を取り上げるためではなかったのじゃが、結果あやつの心の拠り所を奪ってしまった」

 もうここに俺の居場所はない。思い極めた男は出奔を決意したらしい。

 「惜しい男を失った」

 「皆にどう伝えましょう」

 ラ・ルーナは逃亡を禁じている。狩人が砦を出るのは追放か逃亡か、二つに一つだ。どちらにしてもヴォルベッサを慕っていた篭手衆は動揺するに違いない。

 「捨て置け」

 そう言うとグラハムは炭の中に手紙を放り込んだ。紙の端が青緑色に光り、ゆっくりと燃え始める。

 「探したが、見つからなかった。それでよい。五十を過ぎた男が好いた女とようやく結ばれ夫婦となったのじゃ。それをまた仕事漬けの日々に戻すのは長い間あの男を待っていた女がきっと許さぬ。どこぞで幸せに生きておるなら、それでよい」


 







【狼狩り】

 雨が降っている。本降りにはまだ間があると思ったが予想に反して雨脚はすぐに強くなった。木の葉を打つ雨音は激しさを増し、昼だというのに辺りは夜道のように暗い。ぬかるみ始めた地面を忌々しげに踏みしめながら、男は見通しの悪い森の中を早足で進んでいた。

 エーゲテルの森は緩やかな丘に楢、椚といった広葉樹の木々が茂る広大な森林地だ。別名を狼の森といい、人食い狼の伝説がいくつも伝わっている。そのため町の人間はこの森に滅多に近づかない。森には木こりや材木業者の家族が暮らす集落が点在し、それらを結ぶ道は僅かに砂利を撒いただけの小路である。

 今、その路を進むのは頭巾を目深にかぶった中年の男ただ一人であった。

 血なまぐさい逸話があるというのに、男の歩みにはいささかの不安も恐怖も感じない。

 途中、ちらと後ろを振り返った男は注意深く辺りを観察すると、茂みをかき分けながら小路を右に折れた。よく見ると確かにそこにも道が続いている。知らなければ大半の者が見落としてしまうに違いない。

 視界を覆う蔦や足をとる木の根に悪態をつきながら、男は足を速めた。

 行く手を阻むように雨は勢いを増し始める。

 しばらくして、道は途切れ、開けた場所に出た。

 そこは森がぽかりと口を開けたように、木々の生えていない場所だった。小さな池があり、その畔に貧相な小屋が建っている。人が暮らしているのか煙突から煙が立ち上り、鎧戸の隙間から橙色の光が漏れていた。

 男は明かりの色を見て、ホッと息をついた。

 そのとき足音を聞きつけたのか、小屋の扉が内側から開いた。

 「あっ!」

 中から現れた女が喜びの声をあげる。

 頭巾を外した男が顔を見せると、女の顔に花が開いたような満面の笑みが浮かんだ。


 美しい女であった。


 短く切りそろえた茶褐色の髪を頬にたらし、優しい目をしている。

 寛いでいたのか大きく開いた胸元から柔らかな双乳もろちが今にも零れ落ちそうであった。

 女は降りしきる雨にも構わず、男のもとへ駆け寄り、その胸の中へ飛び込んだ。

男は両腕を広げ、女の身体を抱きとめた。女の柔らかい肌身からは、ハーブと香辛料のにおいがした。

 「ああ、よかった。サーミットさん……てっきりもう会いに来てくれないかと」

 「まさか、そんなはずあるまい」

 「ええ。そうですよね。でも、私心細くって」

 そう言って頼りなげに俯く女をケネス・サーミットは強く抱き寄せた。

 胸の底から沸き立つ感情をケネスは抑えることができない。

 それは女も同じであるらしい。

 目と目が合う。

 互いにその想いを感じ取ったように、二人は同時に唇を重ねた合わせた。

 「このままでは雨に濡れ、風邪をひく。さあ、こっちへ」

 ケネスは小屋の軒下に女を引き込んだ。

 濡れた髪が女の頬に張り付き、しっとりと湿った肌からはなんともいえぬ色香が漂ってくる。男は堪えきれず、形のよい女の唇に指の先を引っかけた。そうして吸い寄せられるように唇を重ねようとしたとき、小屋の中から赤ん坊の甲高い泣き声が聞こえた。

 「ああ、坊やったら」

 女が慌てて家の中へ駆け込んでいく。

 やがて、扉の向こうから子供をあやす母親の声が聞こえてきた。その優しく朗らかな声音にケネスは心惹かれ、扉を開けて中に入った。

 炉に薪がくべられ、部屋の中は温かかった。

 土間に煉瓦と石で造られた炉とテーブル、粗末な木製の椅子が二つ置かれている。その向こうに板張りの床があり、藁に麻布をかけただけの粗末な寝床がしつらえてあった。

 部屋の奥へ入ると、赤ん坊を抱いた女がこちらを見て微笑んだ。その姿は我が子への愛情に満ち溢れ、あまりにも美しかった。

 母親の腕の中でさっきまで泣きじゃくっていた赤ん坊が、涙に濡れた円らな瞳をケネスに向ける。そうして目が合うとふわりと綿のような笑顔を見せた。ふっくらとした両手を持ち上げ、両足を嬉しげにばたつかせる。

 「あら、坊やったらサーミットさんのことが好きみたい」

 赤ん坊を慎重に籠の中に寝かせると、女はケネスの腕に手を押し当てた。

 「服、濡れてしまったでしょう。脱いでください。乾かしますから」

 「いや、今日はお前たちの無事を確認し、帰るつもりだ。狩場の報告をしないといけなくてな」

 「まあ、そうなのですね。せっかくお会いできたのに」

 肩を落とす女の横顔を見て、決心が揺らぐ。

 そのとき、近くの森で落雷があった。壁が軋み、屋根が揺れる。雨音が強くなり、女は不安げに耳を聳て、外の様子をうかがっている。細い肩が震えているように見えた。

 ケネスは意を決し、

 「今外に出ては却って危険やもしれぬ。雨が止むまで世話になろう」

 と言った。

 女が嬉しそうに頷き、さっそくケネスの濡れた服を一枚一枚剥いでいく。

 腰巻き一枚となったケネスの身体を女は毛斤たおるで拭うと、今度は水桶を手に戻ってきた。

 「さあ、これに足を浸してください」

 桶にはぬるま湯が張ってあった。

 言われた通りにすると、泥に塗れてふやけたケネスの足を女は一所懸命に洗い始めた。

 「そこまでしなくても」

 「いいから、やらせてください」

 それから女は甲斐甲斐しく男の世話を焼き、水を吸って重くなった狩装束を炉端の竿に引っかけた。その腰つきに目が奪われる。パチパチと薪がはじける音がした。

 「ミシェーラ」

 ケネスは女の身体を後ろから抱き寄せ、テーブルの上にゆっくりと押し倒した。ミシェーラは柳の枝のようにしなやかに、その動きを受け入れている。

 胸元をはだけさせ、白く柔らかな肌に口づける。張りのある肌は指に吸い付くようで、しっとりと湿ってあたたかい。ケネスが指でなぞると、ミシェーラの身体がぴくりと跳ね、半分開いた口から熱い吐息が漏れた。かっと身の内が熱くなる。

 (まったく、俺はどうしてしまったのだ)

 頭の芯が溶けだし、思考が絡めとられる。

 (ああ、もうどうにでもなれ)

ケネスは夢中で女の身体に絡みついた。


 


 「そうだ、サーミットさんお腹は空いていませんか?」

 荒い呼吸を整えながらミシェーラが尋ねた。

 「なに?」

 動きが止まる。

 女が躊躇いがちに顔を上げた。その額には汗が滲み、頬が赤く上気している。

 「お腹は空いていないかと気になりまして。簡単なものでよければ拵えますよ」

 そういえば、空いている。

 見回りのときはいつも、干し肉やチーズを持って出る。しかし臭いがきついものでは獲物に気づかれる恐れがあると思い、最近は干し葡萄やキイチゴなどを持って出るようにしていた。しかし木の実は腹に溜まりにくく、気づけばいつも腹を空かせている。

 そのとき、ケネスの腹の虫が盛大な音色を奏でた。

 ミシェーラがふふふと軽やかな声で笑い、

 「少し待っていてください」

 ケネスの腹の下からするりと抜け出すと、乱れた服を整えながら土間におりた。

 炉に水を張った平鍋を置き、石を半分水に漬ける。そうしてミシェーラは固くなったパンを棚から取り出すと、石の上にのせて蓋をした。

 それから彼女は玉ねぎとハーブを刻み、小鍋にくわえると火にかけた。

 やがて玉ねぎが焼ける香ばしい匂いが部屋いっぱいに漂い始める。

 小鍋に水をくわえ、沸騰したところに塩を入れる。

 次に彼女は蒸したパンに切れ込みをいれ、そこにオリーブ油で和えたフレッシュなハーブと燻製肉を挟んだ。

 手際良く完成した料理を皿に盛りつけていく。

 調理中ミシェーラは時折、息子の様子を気にして振り返り、ケネスの腕の中で遊ぶ我が子に微笑みかけた。ケネスと目が合うと気恥ずかしげに俯く。さきほどまでの乱れた姿とは打って変わったその表情にケネスは心揺さぶられた。

 「さあ、できました。温かいうちに召し上がってください」

 皿に盛られたパンとスープ。水で割った葡萄酒が出てくる。

 ケネスはパンを掴むと、勢いよく頬張った。

 しっとりと湿ったパンに燻製肉の香りがすきっ腹に突き刺さるようだ。燻製肉には香辛料で辛みがきかされており、爽やかなハーブとの相性が格別によかった。熱いスープを喉に流しこむ。玉ねぎの香ばしさと甘さが溶けるようで、こちらもハーブで味付けされており、素朴で奥深い味わいがする。ケネスは胃の腑が興奮でしびれるのを感じた。

 「美味い!こんなに美味い食事をするのは久方ぶりだ」

 「まあ、そうなのですね」

 赤子を抱き、向かいの椅子に腰かけたミシェーラが慈悲深い眼差しをケネスに向けた。

 「おかわいそうに。こんなに懸命に働いていらっしゃるのに。見回りなんて大変でしょう」

 ミシェーラの琥珀色の瞳に影が差す。

 「それに、狩場なんて……恐ろしい」

 「怖くはない」

 ケネスはそう言って胸を張った。

 「少し退屈なだけだ」

 毎日、同じルートを辿り、狩場に仕掛けた罠を確認し、記録をつける。報告をまとめて、家に帰り、寝る。顔を合わせるのは、無口な同僚と気の利かない女房と愛想のない娘くらいで、まともな会話もできやしない。

 しかし、そんな退屈な毎日もミシェーラと出会い、変わった。

 気立てのよいミシェーラと愛らしい彼女の息子。いつしかケネスはこの親子に会うことを心の拠り所としていた。

 「暮らしはどうだ?このような寂れた家しか与えてやれずすまないな」

 「そんな!私にはもったいないくらいです。それに、デイルおじさまが良くしてくださるから」

 デイルとはケネスの叔父である。この小屋の管理を任せており、親子のことを明かした後は面倒をみてもらえるよう頼んでいた。

 「肉や卵など滋養に良いものを届けてくださるからとても助かっています。おかげで乳の出もよく、坊やもすっかり元気になりました」

 「確かに以前よりも顔色がいいな」

 「ええ」

 「ところで、子の名前は決めたのか?色々あって決めかねると言っていたな」

 ケネスの問いにミシェーラは

 「ジョアンと名付けようと思います」

 我が子を見下ろし、愛しげにつぶやいた。

 



 「へえ、こんなところに家があったのか」

 兎は茂みの中に身を隠しつつ、池の畔に建つ小さな家を遠巻きに眺めた。念のため頭巾を深くかぶり、顔を隠してはいるが、森の中には彼の他に人がいる気配はない。

 一方、家には明かりが灯り、食事の支度がされているのか燻製肉とハーブのかぐわしい香りがした。

 「サーミットの旦那も隅に置けねえな」

 兎はそう言って赤い目を光らせながらほくそ笑んだ。

 雨の気配を感じ、その日の配達を早く切り上げた兎は偶然、森の中に入っていくケネスを見つけ、その後ろを追いかけた。

 理由は分からない。

 普段ならば狩人特有の鋭い勘で、兎の存在にいち早く気づくケネスがそのときは、一心に歩き進め、すれ違ったばかりの兎の存在に目も向けなかった。それがかえって兎の注意を引いた。

 (この顔に気づかねえなんて、どういう了見だ?)

 ケネスの姿を目の端に留めつつ、兎は慎重にその背中を尾行した。

 (何かある)

 兎がそう感じたのは、ケネスが茂みに隠れた小路の向こうへ消えたのを見たときだ。

 ケネスの警戒から逃れるように木の影に身を潜め、兎は長い間、彼の足音が消えるのを待った。そうして再びその背を追った。幸いこの雨のせいで足音は掻き消え、靴跡も残らない。


 そうして、兎はケネスの隠れ屋を見つけた。

 家の中には女がいた。若い女だ。

 女とケネスが親しく寄り添う姿を見て、兎はついと唇を歪めた。薄い唇の隙間から尖った細かな歯がのぞく。

 「なるほどな」

 狩人の中でも堅物として知られるサーミットの旦那に愛人がいたとは驚きだ。

 かくして、兎はその秘密を胸に秘め、その場を離れた。

 雨脚がまた一段と強くなる。

 雷鳴がとどろき、バーニーの青白い肌をぴかりと照らし出した。

 バーニーは人間ではない。母親は人間だが、父親はストラムと呼ばれる怪物である。母親はストラムに犯され、その身に怪物の子を宿した。バーニーは半人半妖の混血奴こんけつどであった。

 青みがかった異様な肌に、鋭く尖った歯。赤い双眸は金環を帯び、闇の中でも炯々と光る。

 これが彼の本来の姿であった。

 町の入り口まで来ると、雨脚が弱まり、雲の切れ間から太陽が顔を出した。

 日の光に当たると、バーニーの肌は赤みを帯びはじめ、赤い両目が色を失い、赤茶色の柔らかな虹彩に変化した。異質な歯がぎちぎちと音をたてて形を変え、小さくて丸い歯が揃う。

 やがてバーニーの姿はすらりと背の高い平凡な顔つきの男になった。

 バーニーは腰にさしていた小刀の刃を鏡のように使い、己の姿を確認すると頭巾を外し、町に入る列へ紛れ、人の群れに溶け込んでいった。





 ケネスが狩猟小屋に戻ったのは夜半を過ぎたころであった。

 バーニーに見られていたことに男は気づいていない。

 狩猟小屋の責任者である首役くびやくのジルギスに見回りの報告を終え、家へ帰る。

 ケネスの家は狩猟小屋の裏手にあった。四軒の家が連なり、所帯持ちの狩人がその家族と共に暮らしている。

 「戻ったぞ」

 家に明かりはついていなかった。

 女房も子もすでに眠りについているのだろう。

 ケネスは炊事場に足を運び、甕から水を汲んでそれを一気に飲み干した。

 物音で目が覚めたのか、女房のメガが迷惑そうに奥の部屋から顔を覗かせる。

 「水、汲んでおいてね」

 それだけ言うと、彼女はさっさと奥の寝床へ引っ込んでしまった。

 「労いの言葉一つかけられないのか」

 小言を言いつつ、ケネスは井戸に向かい、何度も往復して甕に水を溜めた。

 思えば結婚当初から女房との仲は冷え切っていた。どうせ親の付き合いが深かったために結ばれた縁だ。互いに相手に対して無関心で、特に娘が生まれてからは愛想が尽きたかのように、女房の態度は頑なであった。指一本触れることすら許さず、こちらをもの言いたげな目で睨みつけてくる。こちらが「何だ」と問えば口を閉ざし、返事すらしなくなるのだった。

 「どうせ心の中では早く死んでほしいとでも願っているに違いない。俺が死ねば猟館からいくらか金が貰えるものな」

 このような調子であるから、家の中は常に暗鬱として、夫婦に会話らしい会話もなかった。娘は娘で表情の乏しい、愛想のない子供で、ケネスは愛しいと思ったことがない。そのため自分はきっと子供が嫌いなのだと思っていたくらいだ。しかしミシェーラの子に対しては心の底から愛情が湧き出てくるのが不思議であった。血のつながりなど関係ない。泣きじゃくる姿を見ても苛立たず、遊びに付き合わされるのも苦ではない。

 (思えば、この家に帰るのが嫌で、見回りの時間を増やしたのだった)

 仕事に没頭し、家には寝に帰るだけ。

 女房の作る食事も凝ったものではなく、今もテーブルには乾いた堅パンと干からびたソーセージが置かれているだけであった。

 ケネスは皿の上の粗末な食事に目を落とすと、それを裏庭の一角に放り捨てた。

(野犬かネズミの餌にでもなるだろう)

 そうして彼はテーブルの上に狩装束を脱ぎ置くと、炊事場脇の小部屋に引っ込んだ。寝室は女房と娘が占領している。小部屋には木枠に藁を敷き詰め、リネンの布を張り付けた寝台が一つ置かれていた。

 ケネスは寝台に横になると、目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

 瞼の裏にはミシェーラの美しい笑顔とジョアンの愛らしい寝顔が浮かんでいた。







 夜も更け、ラ・ルーナの砦は門扉の錠前を落とし、砦全体が息を潜めた獣のように静まり返っていた。夜は魔物が最も活気づく時間だ。外壁には獣避けの篝火がたかれ、灯火台の明かりが、ちらちらとコートウェルの湖面に反射している。

 宿直のため泊まり込みで館に待機していた狩猟頭のライナスは、猟館に向けて飛来する鳥の羽音を耳にして嫌な予感を覚えた。

 窓の外には猫の爪をひっかけたような細い月が出ている。

 刷毛でこすったような雲がわずかばかり、闇の中に浮いていた。

 猟館の東側に、鳩舎として使われている二基の尖塔が建っている。

 塔の最上段には煌々と明かりが灯り、鳩番が小窓を開けて着いたばかりの鳩を迎え入れた。

 赤目の鳩は急報を携えている。鳩番は手紙を受け取ると、すぐさまそれを館主のもとへ届けに走った。


 館主の居室に呼び出されたライナスはついてそうそう、不穏な報せを耳にすることとなった。

 「ベンフィットの町に狼が出たらしい」

 その言葉にライナスは眉根を寄せた。

 狼といえば、人狼。それもベンフィット周辺に現れる人狼は二つ名持ちが多いことで知られている。

 「グランベリ砦の狩人が追い詰め、首と腹に致命傷を与えたらしいが取り逃がした。未だその死骸が見つかっておらぬらしい。警戒せよとの通達が届いておる」

 ジョー・グラハムはそう言って王都から届いたばかりの鳩文を机の上に転がした。

 「百発の弾丸を浴び、足二本を失ってなお、逃げおおせたらしい」

 ライナスはグラハムに促され、王都から届いた通達を読み進めた。文面からはグランベリの狩人たちと魔獣との壮絶な戦いぶりが窺える。人狼は体長六丈の大物であり、被害者は分かっているだけで四十人をこえている。

 「生きているのでしょうか」

 「死んでいてもおかしくない。だが、骸を見るまで安心はできぬ」

 グランベリ砦の狩人たちも同じ考えであるらしい。

 「暴王カリオス。聞いたことはあるか?」

 ライナスは首を横に振った。ベンフィットは北東の国境沿いに位置する町で、ラ・ルーナとは直線で二百里あまり離れている。東西に伸びる青峰山脈に遮られ、互いの情報が届くことは稀であった。

 「兎はどうじゃ?」

 グラハム卿の問いかけに、床に座って酒を飲んでいた男が振り返った。

 「ないね」

 兎はそう言って、尖った歯を見せつけるようにして笑った。

 男は異相であった。青白い肌に、尖った歯、赤い目。見るからに人間ではない。しかし魔物特有の物々しい雰囲気も持ち合わせていなかった。分厚い革の上下を着こみ、頭巾を肩に下げ、一抱えほどの木箱を机替わりに酒を飲んでいる。木箱には黄色地に黒で双頭の鷲が描かれており、この男が郵便使者であることを示していた。

 「人狼は群れ意識が強い。俺のような半端ものを迎え入れるような奴らじゃない。ただ……」

 「ただ?」

 「ベンフィットに怪物が出たとは聞いている。随分殺して回っているものだから、ここに来るまでいろんな町で噂になっていた。殺されるのは屈強な若い男ばかりで、公表はされていないが砦の狩人も相当な数やられたらしい」

 それを聞いたグラハムが死者に向け冥福の祈りを口にした。ライナスも志半ばで命を落とした同志に向け、祈りを捧げる。兎はそんな二人の様子を興味深げに見つめ、酒を口に含んだ。

 祈りを終えるとライナスは再び通達に目を落とした。

 「怪我を負った人狼が、二百里離れたこの地までやってくるでしょうか?」

 「さて、どうであろうな。ま、警戒するにこしたことはなかろう」

 そう言うとグラハム卿は鳩文に同封されていた小さな紙きれをライナスに手渡した。

 「これが件の人狼の、人に寄せた姿らしい。砦の絵師に頼み、拡大して複写するよう伝えてくれ」

 差し出された紙には精緻な人物絵が銅板刷りで描かれていた。

 「これが……」

 ライナスは言葉に窮した。

 描かれていたのは、とても怪物とは思えない、見目に優れた男であった。

 顔立ちはどちらかというと、精悍で男らしい。太い眉に、高い鼻梁、分厚い唇。長い髪を首元まで垂らす姿は古代彫刻のようだ。このような男が歩いていれば、酒場女が放っておかないだろう。恐ろしいのはその両目であった。眼光鋭い双眸は男の冷酷さを物語っていた。

 絵の裏には細かな字で男の容貌の詳細や男に関する情報が記されている。

 髪と瞳は赤みがかった茶色。背は二丈を超える長身。狼の姿で負った怪我が人間の姿でどのように反映されるかは不明――――――とある。

 人狼は多くの偽名を使って暮らしてきたらしい。仕事も転々としている。中でもジョアン・バートリという名では聖堂の調理場で下働きをしていたというから驚きだ。直近では材木商のもとで木こりとして働いていた、とある。

 ライナスの肩口にバーニーが手元の絵を覗き込んだ。

 「ふーん」

 「見覚えはあるか?」

 「いいや」

 バーニーは首を横に振り、絵の中の男を凝視すると、その姿を目に焼き付けた。

 


 バーニーは杯の底に残った酒をちびちびと舐めながら、視線を巡らせた。窓際の椅子に腰かけ、猫のようにまどろむ男を上目に見つめる。

 (寝てやがる)

 非人間種と同じ部屋にいて、平気で寝息をたてる人間をバーニーは初めて見た。

 (豪胆なのか、それとも単に考えが足りないだけか)

 バーニーは狩人ではない。訳あってラ・ルーナに〈嗅ぎ手〉という役目を与えられてはいるが、猟館に忠誓を誓い、狩りに人生を捧げるような莫迦ではなかった。狩人のなかにはいくらか話の分かる者もいるが、所詮は人間だ。人と化け物、両者の間に仲間意識はない。互いに利用し、利用される。都合が悪くなれば、〈嗅ぎ手〉の地位などいつでも捨てるつもりであった。

 おもむろにバーニーは立ち上がり、館主のもとへ歩み寄った。

 館主に目を覚ます様子はない。

 見れば、壁に短槍がかけられている。売ればいくらかの金になりそうだ。槍のそばの壁に僅かな窪みがあり、聖像と香炉、水桶が置かれていた。祈りのための祭壇である。

 バーニーは物珍しげにそれらをしげしげと眺めまわした。

 最も高価な品は、聖像だろうとあたりをつける。台座の部分が小箱になっているらしい。触れようと伸ばした手を止める。振り返ると、館主はいまだに椅子の手すりに体を預け、ゆるやかに胸を上下させていた。

 悪魔を泣かせた噂の館主がどのような男か、未だにバーニーは掴みかねている。

 この様子ではいつか魔物に頭から食われるのではないか。

 バーニーは拍子抜けに思い、無言で居室を去ろうとした。

 そのとき、バーニーの背に向けて声がかかった。

 「兎、いつでも顔を見せに来いよ」

 吃驚してバーニーは振り返った。

 さっきまで眠っていたはずのジョー・グラハムが顔を上げこちらをまっすぐに見つめている。灰青色の瞳に見据えられ、バーニーはその場に立ち尽くした。

 「酒を用意して待っておる」

 にこりと笑った館主にバーニーは躊躇いがちに頷きを返し、逃げるようにその場を去った。

 



 バーニーがラ・ルーナの砦に捕まり、その身の保証と引き換えに魔物狩りの協力者となって二環季が経とうとしていた。嗅ぎ手に堕ちることを決めたバーニーは、かつての仲間の情報を次々にラ・ルーナに売り、報酬を得た。

 こうした裏切り者を怪物仲間は『家畜者』と呼んで大いに蔑み、嫌っている。

 もしバーニーが家畜者だと知られれば、ただでは済まない。そのときは死ぬよりも辛い仕置きを受けるに違いない。だからこそ嗅ぎ手の暮らしには一層の注意が必要であった。

 くわえてこの顔だ。日の光をしばらく浴びないとストラムの血が反応し人相が変化してしまう。日中しばらく家の中にいるだけで顔が変わるのだ。これではすぐさま魔物の血を看破され、まともな職につくことはおろか定住すらできなかった。

 今バーニーは猟館から郵便使者の職を与えられ、表向きは手紙や小包を届ける仕事をしながら各町を訪ね歩き、魔物の情報を集めていた。変事を聞けばすぐに領館に報告へ行く。今のところ暮らしに不自由はない。といっても、彼自身はいつでも役目を放り捨てる覚悟はできていた。

 もはや自分が人なのか、怪物なのかすら分からなくなっている。

 狩りへの協力も、人間に対する信頼や愛情のためではなく、いくばくかの金と安全、そして彼自身の信念のためにはじめたことであった。

 頭巾を深くかぶり直すと、バーニーは猟館の北向きの隠し門から外に出た。

 そうして、森の中を通り抜け、ラ・ルーナからほど近い山間の町に身を寄せた。

 人の目がある街道を避け、獣道や崖を進む。

 町に着く頃には朝になっていた。

 朝日がだんだんと山際に押し寄せ、星が瞬く青紫の夜空と桃色に滲んだ暁の空が陣を取り合っている。朝と夜が溶け合った空の色は絵に描いたように美しかった。

 町の時計塔裏にある小さな靴屋の裏口にバーニーは滑り込んだ。

 息を整える。

 すると、二階から声が降ってきた。

 「おかえり、うさちゃん」

 「うさちゃんはやめてくれよ、おやじ」

見上げると、二階の階段穴から靴屋の店主で、長い間世話になっている老爺が顔を覗かせ、嬉しそうに笑った。

 「今日はえらく遅かったじゃないか。朝方に戻るなんて珍しい。女かい?」

 バーニーは煩わしげに舌打ちをし、

 「猟館に顔を出していただけだ」と言って首を横に振った。

 「へえ」

 ベンと名乗る老爺はひらりと階段を飛びおり、炊事場に入ると

 「何か食べるか?」と尋ねた。

 「いや、大丈夫。少し寝てまた出るよ」

 「そうか」

 不意にベンが小鼻をひくひくと膨らませた。

 「酒の匂いがする。しこたま飲んだな?」

 「館主様に勧められたもんでね」

 バーニーは酒気で赤らんだ頬を引き攣るようにして笑った。尖った歯が覗く。それを気にするように、彼は頭巾を口もとに巻きしめた。

 ベンはまるで一人息子を見守るように

 「あんまり根を詰めるんじゃねえぞ」

と言って顎をしゃくった。

 「寝具は整えてある。服はそこに置いておけ」

 「いいのかよ、そんなに甘やかして」

 「いいから、ちっとは素直に甘えとけ」

 ベンは人間ではない。

 その正体は小鬼であった。

 人の血は混ざっていないが、生まれつき額の角が成長せず、そのせいで小鬼の一団から大いに虐められ、人間社会に降りてきた。白い髪がちらちらとまばらに生えた頭は巨大で、額に瘤のような大きな塊が突き出ている。見目は悪いが、一見すると瘤が突き出ただけの小柄な老爺で、その正体が怪物だとは誰も気づかない。愛想もよく、靴作りの腕も良いとあって店の評判は上々であった。

 バーニーはベンの存在をラ・ルーナに明かしていない。

 それはベンが半人ではなく、怪物だからであった。会話ができ、人を傷つけず、ただ懸命に働いている。それでも人は怪物の血を恐れ、その居場所を容赦なく奪う。

 バーニーは腰巻一枚になると、甕から水を汲み、ごくごくと飲み干した。

 郵便使者として各地を駆け回るため、バーニーの肢体は無駄な肉が削ぎ落され、鋼を引き絞ったように研ぎ澄まされている。

 横顔に突き刺さるような視線を感じ、バーニーは目を眇めた。

 「なんだよ」

 「近頃のお前さんは、ずいぶん楽しそうだ」

 「楽しい?」

 心外だと言いたげにバーニーは目を剥いた。

 「よく猟館に顔を出しているだろう?以前のお前さんなら考えられなかったことだ」

 「来いといわれるからさ。別に行きたくて行っているわけじゃねえ。それに、俺は近々嗅ぎ手なんて辞めてやるつもりなんだ」

 「おい、そんな勝手は許されんだろう」

 ベンはバーニーが人間社会に溶け込むことを望んでいる。

 バーニーが怪物連中と共に空き巣窃盗を繰り返していた頃から、何かと気にかけ、世話を焼き、盗みはやめろと滾々と諭してきた。今、彼がラ・ルーナの協力者となり、仲間を売ることに複雑な思いを抱えながらも、その務めを全うしていることをベンは心の底から喜んでいる。

 老爺自身、若い頃は悪い輩に誘われ、穴掘り窃盗で稼いでいたらしい。詳しく語ったことはないが、ベンがその過去を大いに悔いていることは分かった。

 「冗談、冗談。今さら逃げ回るのも骨が折れるし、首吊り台に送られるのも御免被る」

 バーニーが笑うと、ベンは安心したように胸をなでおろした。

 「それで新しい館主ってのはどんな人だ?悪魔を泣かせたって男なんだろ?俺も会ってみてえな」

 「退治されちまうかもしれねえぞ」

 「そりゃ恐ろしい」

 ベンが笑う。

 「まあ、――――――――」

 言いつつバーニーは館主の穏やかな寝顔を思い出した。

 「おやじとは気が合うかもしれねえな」

 「へえ」

 「少し似てるよ」

 「ほう、館主ってのはずいぶん背の低い御人なんだね。そいつは気が合うに違いねえや」

 ベンの言葉にバーニーはぷっと吹き出し、そのまま二階の寝室へ転がり込んだ。





 ケネスは汗みずくとなりながら、ミシェーラの体にしがみつき、肩で大きく息をした。ミシェーラもまた、青空の下に裸体を晒し、身悶えている。

 いつしかケネスは昼夜問わず、親子が暮らす小屋に通い詰めるようになっていた。

 ミシェーラが己の腹の下で悦びに喘ぎ、乱れる姿を見るたびに、ケネスは心満たされ、全身に力が漲るのを感じた。抗いがたい彼女の魅力にとらえられ、朝晩の見張りも罠掛けも半端に切り上げて、心の赴くまま彼女のもとへ足を向けてしまう。家に帰ることすら億劫になり、もはや女房子と顔を合わせることすらなくなっている。

 「サーミットさん」

 肌身を隠すように、ミシェーラがケネスの腕に縋りつく。

 「幸せ。ずっとこうしていたい」

 耳朶に熱い吐息がかかる。背筋に電流が走り、ケネスは喜びに打ち震えた。

 「俺もさ、ミシェーラ」

 いつしかケネスはミシェーラとの未来を心の中で思い描くようになっていた。

 ミシェーラとジョアンを我が家に迎え入れ、三人で暮らす。

 それはどれほど心地よく、幸せで満たされた日々だろうか。

 気がかりなのは、ミシェーラが時折、もの言いたげな顔をすることであった。

 あの手この手で話を聞こうとするが、「迷惑がかかるから」と女は頑なに口を閉ざす。するとケネスは拒まれた気になり、ミシェーラを突き飛ばし、却って彼女を泣かせてしまうのだった。

 妻や子のことを気にしているのか。

 それともジョアンの父親の話だろうか。

 ミシェーラは常に姿の見えない敵に怯えているようであった。

 「ちくしょう」

 ケネスは爪の先をきちきちと噛みながら、狩猟小屋へ続く道を足早に進んだ。

 その後ろを小さな影がぴたりとついてきている。

 影の存在にケネスが気づく様子はない。

 影は茂みや木陰をうまく使って狩人の目を避けると、その姿が狩猟小屋の中に消えたのを確認して、再び元来た道を引き返した。

 「バーニー」

 「ん?」

 「やつは狩猟小屋に戻ったよ」

 「そうか。助かったよ、おやじ」

 池の畔の小屋を見張っていたバーニーが振り返って礼を言う。茂みの中から顔を出したのは小鬼のベンであった。

 「まったく昼日中からお盛んなことだ。うらやましい」

 ベンは先ほどまで男女が絡み合っていた森の一角に目を向けた。

 当の二人は監視されていることにも気づかず、会って早々に唇を重ね、あろうことか森の中であられもなく求めあった。女の艶めかしい声が森の向こうから絶え間なく聞こえてくる間、バーニーとジムは気配を消して、ことが終わるのを待った。

 惜しいことに、ここからでは低木が邪魔をして詳しい様子は伺い知れない。地の底すら透過するバーニーの特殊な目があれば、きっと汗の一粒までよく見えたに違いなかった。にも拘わらず、当のバーニーは顔色一つ変えず、最中も池の畔に建つ寂れた小屋ばかりを見つめていた。

 男と女は行為に耽った後、小屋に入り、少しばかり言い争いをしていたようである。

 小屋の中から物騒な物音と剣呑な声が聞こえ、すぐに男が飛び出してきた。

 「おやじ、行ってくれ」

 ベンはバーニーに頼まれ男の尻を尾行した。


 男と分かれた女は今、池の水で体を流している。

 「いい女だ」

 細身に見えたが、意外にも凝脂に照る豊満な体つきをしている。

 「おやじ、もう戻っていいぞ」

 バーニーが言った。

 ベンは露骨にがっかして、

 「いいのか?一人で。ラ・ルーナに事情を話して手伝いを頼んだほうがいいんじゃないか?」

 と言った。

 「いいさ。これは猟館とは別の話だ」

 バーニーはそう言ってベンが持ってきた干し肉と乾燥芋を噛んだ。

 「おやじは何か気づかないか?」

 「いんや、この辺りは臭いが溜まりやすいみたいだな。いたるところに仲間の瘴気を感じる」

 ベンが首を巡らせる。

 「お前さんの勘では、あの小屋に何かいるんだね」

 バーニーは無心で干し肉を噛み、それをごくりと飲み込むと小さく頷いた。

 「気をつけろよ」

 「おう」

 ベンが気配を消す。バーニーは思わず後ろを振り返った。足音が消えた瞬間、ベンの体が森の中に溶けて消えたように感じた。試しに目を凝らしてみるが、ベンの姿は森のどこにも見えない。どちらの方向に行ったのかも分からなかった。

 現役時代、相当に悪稼ぎしたとは聞いていたが、盗賊として一流の素質があったことは確かだろう。

 そのときバーニーは茂みを荒っぽくかき分け、こちらに近づく足音を聞いた。しばらくして、池の向こうの窪みから小太りの中年男が顔を出した。池に半身を浸し、体を洗う女の裸体をじっくりと眺めまわし、舌で唇を何度も湿らせている。

 女は男の視線に気づくと恥じらうように俯いた。



 あの口論のあった日から、ケネスは何度もミシェーラのもとを訪ねたが彼女はジョアンを連れて出かけたきり、帰ってこなかった。

 (一体どこへ……まさか、このまま戻らないつもりだろうか)

 不安と焦燥にかられ、仕事も手につかない。

 (まさかジョアンの父親が現れたのか)

 (それとも誰かに連れ去られたか)

  頭皮をかきむしり、今日何度目かのため息をつく。

  すると、

 「お疲れですね」

  布帽子をかぶり、木箱を背負った郵便使者が気さくに笑いかけてきた。ケネスは渋面を浮かべ、不機嫌を露わにした。

 「何の用だ」

 「猟館から手配書を届けるように言われていましてね。なんでもベンフィットの町を襲った人狼の似顔絵だそうです。各狩場に持っていくよう頼まれておりまして、まったくラ・ルーナの旦那がたは人使いが荒くて大変ですよ」

 「そこに置いておけ」

 ケネスはぞんざいに顎をしゃくって、よく喋る使者をあしらった。

 「ここに貼りだしておきましょうか」

 「したいならそうしろ」

 使者が手際よく壁に手配書を釘止めする。

 ケネスはふと手配書に描かれた男の顔に目を止めた。

 (どこかで見たような……)

 絵を凝視するケネスに郵便使者が不思議そうな顔をする。

 「旦那、何かありましたか?」

 「いや」

 「実はこの人狼、恋人の女と一緒に逃亡しているらしいですよ」

 「女?」

 ケネスは妙な胸騒ぎを覚え、胴巻きを握りしめた。




 ミシェーラと出会い、ケネスは人が変わったように垢抜け、明るくなった。陰鬱として賭けはおろか酒もケムリ草すら嗜まなかった堅物が、仲間にもよく声をかけるようになり、冗談を言うことも、声をあげて笑うことすらあった。これまでの隠者のごとき生活を考えれば、驚くべき変化である。それが彼女と会えなくなってからというもの、仕事には身が入らず、腑抜けた態度をとるようになり、とうとう首役のジルギスに𠮟り飛ばされ、その日ケネスは這う這うの体で夜の見張りを済ませた。

 月が出ていた。月の周囲に笠を被ったように雲がかかり、青白い月光が砂利道を朧に照らしている。

 不気味な夜だ。どこかでミミズクの声がする。

 ケネスは足を速めた。

 「そういえば、あの日もこんな夜だった」

 ケネスはミシェーラと出会った夜を思い出し、拳を握った。



 その日ケネスは狩猟小屋を出発し、街道筋に張った罠の様子を見て回った。

 罠、といっても直接魔物を捕らえるためのものではない。罠を踏んだ魔物の足に痕跡を残し、嗅ぎ手が追跡しやすくするためのもので、魔物の巣や塒を探しあてるために使われていた。

 ラ・ルーナの狩場は主に大きな街道のそばに設けられ、ケネスの持ち場はエーゲテルの森の近くであった。

 夜になりケネスが罠の確認のため松明を掲げ、周囲を見回したとき、彼は微かな足音と魔物の気配を感じた。森の奥から何者かがこちらへ近づいてくる。松明を差し向け、音のする方向へ目を凝らすと、突如として茂みの中から若い女が飛び出してきた。胸に丸い小さな布の塊を抱きしめていた女は草に足をとられ、身を投げ出すようにして倒れた。

 「お助けください!」

 「な、なんだ‼ど、どうした」

 慌てて駆け寄ると、女は茂みの向こうを指さした。

 すると、茂みの中から狼に似た小型の怪物が次々に女の荷物に向けてとびかかった。

 死肉喰グールだ。

 「やめて‼やめてちょうだい‼この子は生きている‼生きているのよ‼」

 女が咄嗟に丸い布の塊に覆いかぶさる。布がめくれた。女がその身で庇い、必死に守ろうとしているのが、汚れた布にくるまれた赤ん坊だと気づいたとき、ケネスは死肉喰を力いっぱい蹴飛ばしていた。松明の火をその腐った体にたたきつける。ギャッと音をたてて、死肉喰は飛び退り、ケネスが何度も松明を振ると諦めたようにその場を逃げ出した。

 「無事か?」

 怯える女の肩を抱き、ケネスは腕の中の赤ん坊の顔を覗き込んだ。

 赤ん坊はひどく痩せていた。死んだように肌は青ざめ、頬は骨ばり、手足は小枝のように細い。まるで餓鬼のような容貌に、最初ケネスは赤ん坊が死んでいると思った。しかしよく見ると小さな胸がわずかに上下している。だが呼吸は浅く、いつ死んでもおかしくないように見えた。

 「酷い衰弱だ。食事は?乳はでないのか?」

 放心状態の女に尋ねる。女は首を横に振った。

 「少し歩くが狩猟小屋まで行こう。医者にみせる。近所の者に乳をもらえるはずだ」

 女はそれを嫌がるように、赤ん坊を強く胸に抱き寄せた。深い事情を抱えているのだろう。頬の痣だけではない。女は全身に打撲や切り傷を負っていた。固く閉ざした唇が震えている。

 ケネスは考えた末、

 「汚いところだが、この近くに俺の家族が暮らしていた小屋がある。そこならどうだ?」

 と尋ねた。女は迷いながらも顎を引いて頷いた。

 「よし」

 そうしてケネスはミシェーラを森の中の小屋に案内した。

 最初は警戒していたミシェーラも、ケネスの仕事がラ・ルーナの狩人だと知ると安堵したように肩をなでおろした。心細げな女のため、ケネスは親子のもとへ仕事の合間に顔を出した。どうしても通えないときは近所に住む叔父に、親子の面倒をみてもらった。鶏肉や卵、野菜を差し入れてもらうのだ。

 ミシェーラは次第に乳が出るようになり、赤ん坊も見違えるほど健康的な美しい子に育った。

 「子の成長というのは早いものだな」

 あれほど衰弱していたとは思えない。

 赤ん坊の柔らかくふくふくとした手に触れながらケネスは感心した。

 丸くて大きな瞳が愛らしい。笑うと、唇の隙間から生えたばかりの乳歯が見えた。

 ミシェーラが我が子の顔を覗き込み、微笑む。その横顔を見て、ケネスは胸が締め付けられた。

 目と目が合う。

 躊躇いがちに指を重ね、肌に触れる。

 孤独な女と男。二人が想いを通わせるのに時間はかからなかった。

 途轍もなく長い時間をかけて抱き合った二人は、互いの心を埋めるように肌を重ねた。

 耳朶に吐息がかかる。

 

 ふと、その正体が湿気を含んだ生ぬるい夜風だと気づいたとき、ケネスは我に返った。

 すべて己の夢だったのではないか。

 美しい母子は幻で、己の欲と妄想が凝り固まった幻影だったのでは――――――。

 焦燥と寂しさに心が乱れる。

 そうして彼は我が家へ続く道を引き返し、エーゲテルの森に向かう道をたどり始めた。




 小屋に着いたケネスは大きく肩を落とした。

 小屋に明かりはついていなかった。

 しかし、しっとりと湿った夜気の中に妙な気配を感じた。

 ケネスはゆっくりと小屋に近づき、戸を開けた。

 扉に鍵はかかっておらず、床に閂が転がっている。

 ランタンを掲げ、部屋の奥に明かりを向ける。

 「あ……」

 テーブルの上に男が寝ていた。

 服を纏わず、両手両足を投げ出している。むき出しの局部が目に入り、ケネスは愕然とした。

 男の裸体のそばに、同じく裸のミシェーラが立っていた。

 わなわなと体が震える。

 「あ」

 振り返ったミシェーラは全身が血に塗れていた。

 「な……」

 ケネスは言葉を失った。

 テーブルの上の男は絶命していた。

 体から流れ出た血がテーブルを赤く染め、床にしたたり、土間に吸い込まれていく。

 ケネスは明かりを掲げ、その男の顔を見て喉を鳴らした。

 「デイルおじさん!」

 死んでいる男はミシェーラとジョナスの世話を頼んでいた叔父のデイルだった。

 でっぷりと肥えた体は毛に覆われ、胸と腹がぱっくりと裂けている。そこから肋骨と内臓が飛び出していた。顔は半分潰れたように欠けている。ざっくりと切り裂かれた喉からは折れた骨の断面が見えた。

 「あ……」

 そのあまりにも惨い姿にケネスは思考が停止した。

 「ミシェーラ……君は」

 ミシェーラに視線を向けると彼女は全身を震わせ、立ち尽くしていた。

 「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。私……」

 頽れた彼女の体をケネスは抱きとめた。その瞬間、ゴトッと音がして、皮膚一枚で繋がっていたデイルの首が床に落ちた。




 「首役のジルギスからケネス・サーミットが狩猟小屋から姿を消したとの報告がございました」

 「ケネスが?」

 ジョー・グラハムは封書を開く手を止めた。

 「親元にも帰っていないそうで、今朝、狩猟小屋が探索をはじめたとのことです」

 「なんぞ、事件にでも巻き込まれたか」

 グラハムは眉根を寄せた。報告に現れた狩人が首を横に振る。

 「それが、自ら失踪したらしく――――――――」

 「失踪?」

 「女房の話では、部屋の中にジルギス殿宛てにこの手紙が残されていたとのことでございます」

 グラハムは差し出された手紙を読んだ。

 焦って書いたのだろう。汚い字で女房と子に謝罪と弁明が書かれている。

 【二人ともすまない。守りたいものが出来た。俺はミシェーラとジョアンのために生きたい。お前たちも自由に生きてくれ。ケネス・サーミット】

 愛のための逃避行か。

 (そのわりには、血なまぐさい手紙じゃな)

 グラハムは紙の臭いを嗅ぎ、眉根を寄せた。

 

 


 体を洗い、服を着替えたミシェーラが現れる。

 その顔は蒼白で恐怖に全身が震えていた。

 「何があったのだ。どうして叔父上が」

 ケネスの声は上擦っていた。

 「デイルおじさまが服を脱いで突然襲いかかってきたのです。それで堪らず……」

 「お前がやったのか?」

 ミシェーラは視線を落とした。

 「これは、まるで獣の仕業のようだ。人間の、ましてお前のような女ができる所業ではない。隠し事はせず、すべてを明かしてくれ」

 「ああ」

 ミシェーラは額に手を当てると板間の向こうへ視線を向けた。

 促されるようにケネスもそちらに目をやった。

 闇の中で何かがこちらを見つめている。それがゆっくりと這いずるように近づいてくる気配があった。ケネスは背筋が凍りつくような恐怖をおぼえ、後ずさった。ミシェーラが手燭を手に影の中へ足を踏み出す。ぼんやりとした灯りに照らされて、闇の中から這いずり歩きをする赤ん坊が現れた。手燭を置いたミシェーラがその身体を抱きかかえる。そうして彼女は覚悟を決めたように深く息を吸い込んだ。

 「サーミットさん、貴方に伝えなければならないことがあります」

 「な、何だ?」

 「ジョアンは……この子は人狼の仔なのです」

 「な……!」

 腕の中の赤ん坊をミシェーラはケネスに見せた。

 ジョアンはまた一回り大きくなっていた。

 美しい顔立ちの玉のように愛らしい子だが、笑みを浮かべた赤子の口の周りには赤い果肉のようなものがこびりついている。ぴちゅぴちゅと音をたて、指をしゃぶるその手には血がべったりとついていた。

 「ま、まさか」

 「ジョアンの父は人狼です」

 ミシェーラは処刑台に上る罪人のように神妙な顔をしていた。しかしその両目は恍惚として、どこか遠くを見つめているようである。

 「私は人狼と恋に落ち、人狼の仔を産みました」

 そのときケネスは狩り小屋に貼られた手配書の絵を思い出した。精緻な銅板刷りの一枚絵だ。その絵に描かれた男に見覚えがあった。それは、目の前のこの子だ。

 ジョアンは手配書の男と目鼻立ちがよく似ていた。瓜二つと言っていい。

 気づいた瞬間、怖気が襲ってきた。

 「まさか、父親の人狼はベンフィットを襲った怪物か?」

 ミシェーラは深く頷いた。

 「な、なぜ」

 「愛してしまったのです。愛する者の子を産み、育てたい。それは罪になるでしょうか」

 ミシェーラはうっとりと、我が子を見つめ微笑んだ。赤ん坊の口からは血が混じった涎が噴き出し、濃い血の臭いが漂っている。

 「ですが、人狼の仔は人の子とは違う。乳だけでは上手く育たず、途方に暮れていたところ、死肉喰に襲われ、貴方に出会いました。きっと神の御導きだわ。あのままでは母子共々死んでいたでしょうから」

 ミシェーラはジョアンの頬についた肉の塊を指で拭い、土間の上に弾き飛ばした。それが叔父の肉片であることをケネスは受け止めきれず、目を逸らした。

 「つまり叔父上を殺したのはジョアンということか?」

 「仕方がなかったのです。止められなかった。ジョアンは成長が早い。狩りを覚えてしまったから」

 「狩り?」

 「ええ。この小屋に監視の目があることにジョアンは気づいてしまったのです」

 (監視だと?)

 ケネスは全身から血の気が失せるのを感じた。

 「すぐにジョアンはその者を追いかけ、居場所を突き止めました。そして何日もかけてその者の周囲を探り、昨晩とうとう狩りをしたのです」

 ミシェーラは誇らしげであった。

 「な……」

 ケネスはその場に卒倒しそうであった。

(監視?一体だれが?いつからだ?)

 頭の中を疑問が駆け巡り、息が詰まる。

 大きく息を吸い込むと、今度は猛烈な血の臭いに目が眩んだ。

 むせかえり、ケネスはその場に屈みこんで嘔吐した。

 「安心してください。誰にも見られておりません。この子は狩りがとても得意なのです」

 ミシェーラの手が嗚咽に喘ぐケネスの背に伸ばされる。女の手のぬくもりが、ケネスには悪夢のように感じられた。

 「殺したのか?」

 「ええ」

 ミシェーラが微笑む。

 「ああ、でも気になさらないで。殺したのは人ではなく、小鬼でした。だからきっと騒ぎにはなりません。汚らしい。きっと私たちの行為を見て楽しんでいたんだわ」

 「叔父上は……叔父上は何故殺されたのだ」

 ケネスはうつろな眼差しで、床に落ちた叔父の首を見下ろした。

 「おじさまはジョアンの正体に気づいていました。おじさまの養鶏場でジョアンが鳥に噛みついてしまい、それで正体が知られてしまったのです。私はこの子の秘密を守るため、何度もおじさまに体を差し出しました。けれど、要求は増し、とうとうこの家でも体を求められるようになり、抵抗の末……ああお許しください、ケネス。裏切るつもりなどなかった。明かせなかった。明かしてしまえば、貴方がいなくなってしまうと思ったから」

 ミシェーラに勢いよく抱きつかれ、ケネスは尻もちをついた。

 葛藤が彼の脳裏に渦巻く。

 (今、彼女を許してしまえば、戻ることはできない)

 「狩りを成功させたジョアンはおじさまを次の獲物に決めてしまった。きっと私が嫌がっていることを察したのね。ごめんなさい、ケネス。私、止められなかったの」

 涙を両目いっぱいに溜めたミシェーラが後悔の言葉を口にする。

 その声が空虚に耳を打った。

 このときケネスは猟館にすべてを告白するつもりでいた。

 ジョアンの行く末もミシェーラの処罰も猟館の差配に任せるしかない。

 母子を告発する。その覚悟を決めたとき、ケネスの耳にミシェーラが唇を寄せた。

 「一緒に逃げましょう、ケネス。家族になるの。貴方だってそれを夢見ていたじゃない」

 「あ、ああ、夢見ていたさ」

 「まさか、迷っているの?」

 俯くケネスの頬を両手で掴むと、ミシェーラは彼の唇に熱烈なキスをした。舌が絡み、熱い吐息が漏れる。

 そのときケネスは鋭い視線を感じ、背後を振り返った。板間に腰かけたジョアンの双眸が赤く光っている。その首が凄まじい勢いで上下左右に振られた。次第に頭蓋骨の形が変化しはじめる。赤ん坊の体に巨大な犬のごとき頭。大きな顎を支えきれず、首が上下に揺れている。赤黒い舌からは涎が滴り、残忍な瞳がぎらぎらと闇の中に光った。猛烈な獣の臭い。それと濃霧のごとき瘴気が頬を打った。

 死の恐怖が全身を覆う。

 「もしかして、家族のことが気がかりなのかしら?」

 後ろからミシェーラの腕が伸び、ケネスの首に柔らかく絡みついた。胸が背中に押し当てられる。ひやりと背筋に冷たい汗が滴り落ちた。

 耳孔に生温かい彼女の息が吹きかかる。

 「だったら、気がかりをなくしてしまえばいいわよね」

 「な、なにを……言って」

 「ジョアンはいつもお腹を空かせているの。だから、ね?貴方だって二人の文句を散々言っていたじゃない。愛していないのでしょう?疎ましい。消えてほしいと言っていたじゃない。せっかくだから、活用しましょうよ」

 「ち、違う……そんな……」

 ケネスは首を勢いよく振った。

 「女は良質な肉。子供は文句なく美味しいと彼が言っていたわ。彼、子供を産んだ女の肉が好みだったの」

 ふふふと笑ったミシェーラはもはや人の顔をしていなかった。

「分かった‼に、逃げる。い、一緒に。だから妻と子だけは、二人にだけは手を出さないでくれ‼」

 ケネスは脳裏に浮かぶ二人の姿を想い、泣き叫んだ。



 最後に父親らしく女房と子に別れの挨拶をさせてほしい。

 ケネスの提案に、ミシェーラは不服そうに唇を尖らせたが、根気強く説得すると最後には渋々その話を受け入れた。ミシェーラが旅支度を整える間に、ケネスは叔父の亡骸を池の底に投げ沈めた。池の中で腐れば、水を苦手とする死肉喰は寄ってこない。狩人が小屋の中の惨状に気づくのを遅らせられるとミシェーラには説明した。

 「行きましょう」

 狩猟小屋が仕掛けた罠の位置を、ケネスはすべて把握している。ラ・ルーナの手形があれば、関所を通る必要もない。ミシェーラの狙いは旅の安全と狩人による護衛であった。まさか狩人が人食いの怪物を供に連れているとは誰も思わない。もし気づかれても狩人が一緒なら、警戒の目を免れると考えたのだろう。

 今さらながらに気づく。

(この女の中にあるのは俺への愛ではない。最初から、こうなる運命だった。俺が愚かだったのだ)

 狩猟小屋の前まで来て、ケネスは立ち止まった。

 「ここから先はジョアンの気配に気づく者がいるやもしれん。俺一人で行くから待っていてくれ」

 「分かったわ、ケネス。ところで、この子はとても良い耳を持っているの。きちんとお別れしたら、まっすぐ私たちのところに帰ってきてね」

 ジョアンをおぶったミシェーラが笑みを浮かべる。

 「手紙を置いて帰るだけだ。その手紙も君に見せただろう?」

 「ええ、そうね」

 ケネスは足早に狩猟小屋の前を通り過ぎると、久方ぶりに我が家の戸を開けた。

 戸に鍵はかかっていない。明かりはついておらず、部屋の中は静まり返っている。戸を閉めて数瞬後、ケネスはその場にずるずるとしゃがみこんだ。身の内から震えが湧き上がってくる。

 とんでもないことになってしまった。どの道を選んでも待っているのは地獄である。助けを求めようにも、すぐさま怪物に変じたジョアンが小屋の者たちを皆殺しにするだろう。

(あれは相当に人を喰っている)

 人狼の首を思い出し、ケネスは震えあがった。

(狩猟小屋ではだめだ。猟館が動かねば)

 ケネスは首役のジルギスに宛てた手紙を寝具の上に乗せた。 

 寝具は藁が入れ替えられ、敷布も真新しいものに取り換えられていた。

(しばらく帰っていないというのに……)

 炊事場のテーブルにはいつもの通り、乾いたソーセージと堅パンが乗っている。

 ケネスはそれを泣きながら口の中に頬張った。

 (ずっとここにいたい)

 だがそれは許されない。戻るのが遅ければ、どのような咎めを受けるか分からなかった。

 後ろ髪が引かれる思いでケネスは家の戸に触れた。

 そのとき、

 「おとうさん、どこいくの?」

 振り返ると、寝間着姿の娘が眠たげな目をこすりながら立っていた。

 「アン」

 少し見ないうちに大きくなった。

 アンは柱越しにこちらを覗き、駆け寄ってくる様子はなかった。

 (当たり前だ。近づくなと怒鳴ったことが何度あったか)

 ケネスは腕を伸ばそうとして、服に叔父の血がついていることに気づき、差し出した手を引っ込めた。

 「仕事に行く。俺がここを出たら家の戸と窓をすべて閉める。できるな?」

 娘が頷く。

 「よし」

 ケネスは満足げに頷き、家の戸を引いて外に出た。さっそく娘が戸に閂をかける音がした。

 「おとうさん、気を付けてね」

 娘のか細い声が戸口ごしに聞こえる。

 「おう」

 立ち止まりそうになるのを堪え、ケネスは一歩前に足を踏み出した。




 ケネス・サーミットの置手紙を前にジョー・グラハムは神経を尖らせていた。

 ケネスの失踪は狩猟小屋ではさほど大事にとらえられていなかった。近頃は人が変わったように浮足立ち、若い愛人でも囲っているのではともっぱらの噂だっただけに、ケネスの駆け落ちに疑問を抱く者はいなかった。

 加護手衆の頭目であったヴォルベッサがつい先ごろ、失踪したばかりであっただけに、猟館では狩人の逃亡により厳しい罰則を設けるべきだという声もあがっている。


 (しかし、この臭い。それに、宛名が妻と子ではなくジルギスであったことが気にかかる)


 紙は罠の記録をつける巻紙を破ったものが使われていた。

 紙の表面を嗅ぐと膠、それから木炭の他にわずかに血が混ざったような臭いがする。

 グラハム卿はインクをまじまじと見つめた。紙を光に透かしてみる。そうして乱雑に走り書きされた文字に指先で触れたとき、インクの膨らみに奇妙な凹凸があることに気づいた。片眼鏡をかけ観察すると、インクの中に毛が混じっている。人間の毛ではない。動物のものだ。赤褐色の太い毛は犬、もしくは狼の毛に見えた。

 (生臭さの正体はこれか)

 グラハム卿は棘抜きを使って獣の毛を丁寧に引き抜いた。

 腐臭。それと瘴気。

 (何故狼の毛が?)

 そのとき、彼の脳裏に閃くものがあった。

 狩猟頭を集めようと席を立ったとき、居室の扉が音もなく開いた。

 男が立っている。

 「どうした、兎」

 兎の顔は青ざめていた。



 兎に伴われ、グラハムは砦から僅か一里半の小さな山間の町に向かった。傾斜のきつい、ほとんど道と呼べないような獣道をバーニーは一心に進む。グラハムは槍を杖代わりに、その後ろをついていった。バーニーはその間一言も話さなかった。

 そうして彼に案内され、グラハムは町のシンボルらしき時計塔の裏にある靴屋の裏手に招かれた。

 そこで男が死んでいた。

 背中から襲われたのだろう。相当に抵抗した痕が見える。引きずり回され、何度も床にたたきつけられ、押さえ込まれた。喉を最初につぶされ、次に腹が裂かれ、そして足を食いちぎられた。びりびりに裂けた服の間から赤黒い肉の塊が覗いている。

 「この男、人ではないな」

 死骸に虫がたかっていない。

 顔は喰い尽くされ、判別できなかった。

 「一体誰だ?」

 「俺が世話になっている靴屋のおやじだ」

 バーニーが答える。

 「今日、配達から戻ったらこうなっていた。弔ってやりたいが、できない。おやじは小鬼なんだ」

 「殺した相手に心当たりはあるのか?」

 バーニーは黙り込んだ。

 グラハムはじっくりと周囲を観察し、血溜まりの中から赤褐色の毛を見つけた。それはケネスの置手紙についていた毛とよく似ていた。

 「人狼じゃな」

 バーニーはびくりと肩を跳ね上げた。

 灰青色の瞳が白刃のごとき鋭い眼差しで、バーニーを見据える。

 「その人狼は、狩猟小屋の捕り手ケネス・サーミットと関係があるのか?」

 バーニーはあまりの驚きに目を見開き、そのまま息を詰めた。

 「話せ」

 グラハムの有無を言わさぬ一言に、バーニーは肩を落とし、ことの経緯を話し始めた。




「つまりそなたは、たまさかにケネスと女の逢引現場を目撃し、その二人の逢引小屋に人狼が潜んでいると気づいたわけだな」

 「雨と香草のきつい臭いのせいで気づくのが遅くなったが、あの日ベンフィットから届いた手配書を見て、あれはもしや人狼の臭いだったんじゃないかと思い至った。確認に行ったら、小屋の中に何かいるのは分かった。だが貧弱でなかなか尻尾を見せない。しばらく監視して、目を使って覗いてみた。確かにあれは人狼だった」

 「なぜ報告せなんだ」

 グラハムの厳しい問いかけにバーニーは下唇を噛んだ。

 答えなくとも、グラハムにはバーニーの考えが見通せるらしい。

 「狩人が人狼を匿っているとなれば大事になる。その話で猟館を脅し、〈嗅ぎ手〉から解き放たれるつもりであったのであろう」

 「う……」

 この男の前では隠し事は通じない。バーニーは冷や汗を流して首肯するしかなかった。

 「馬鹿」

 一言それだけを言い、グラハムは難しい顔で顎に手をあてた。

 「しかし何故、この小鬼が殺された?」

 「きっと……きっと俺がつけられたに違いねえ。おやじは後をつけられるようなヘマはしない。監視していたつもりが、逆にこの家に入るところ見られたんだ。それで……それで……」

 バーニーは頭を抱えて呻いた。

 「くそっ、すまねえ!おやじ!俺が失敗っちまったばっかりに」

 バーニーの瞳が赤く色づく。両目から涙が溢れ頬を伝った。

 グラハムはその肩をとんとんと軽く叩いて宥めると、立ち上がり、現場の様子を注意深く観察した。

 小鬼の体は死後、裏口近くまで引きずられていた。まるでここから入ってくるのを待ち構えるように、裏口の正面に置き直されている。見せしめのためだろう。

 (悪趣味。それでいて知恵が回る獣じゃな)

 「兎、ここを襲った人狼はベンフィットを襲った者と同じだと思うか?」

 「分からない。見たことないからな。でも俺が見たのはほんの小さな、子供ほどの大きさだった」

 無造作に頬をぬぐいながらバーニーが答える。

 グラハムは小鬼の亡骸に目を向けた。大きな頭に噛みついた痕がある。太い牙が食い込み、皮膚を裂く。しかし嚙み切れない。小鬼の頭は硬いのだ。苛立った人狼が小鬼の体を床にたたきつける。骨が砕けるまでそれは続いた。

 人狼が獲物を引きずった跡を目で追う。その目が一か所で止まった。

「兎」

 グラハムは布を懐から取り出すと、靴型の並んだ棚の下から千切れた丸い肉片をつかみ取った。それを丁寧に布で包む。

 「この場は任せよ。小鬼の弔いは必ずする。とにかく件の人狼をそのままにはしておけぬ。そなたは先に猟館に戻り、女が暮らしていたという小屋に狩人を案内せい」

 バーニーが頷く。

 グラハムは猟館宛てに仔細を記した手紙をバーニーに持たせ、走らせた。



 館主の手紙はすぐさま猟館に届けられた。

 狩猟頭のグリンジャーが手紙に書かれた指示を読み、深く頷く。

 「ご苦労だったな、兎。ちょうどエーゲテルの狩猟小屋から使いの者が来たばかりであった。ライナスが向かっておる。そなたも行って確認してきてくれ」

 バーニーが案内するまでもなく、ケネス・サーミットの隠れ屋は狩猟小屋の狩人たちによって発見されていた。

 早朝、エーゲテルの森の中で死肉喰が出たのだ。

 ただの死肉喰ではない。水死肉喰ウォーターグール――――――これは死肉喰の中でも特に水死体を好む、怪物であった。水死肉喰は死肉喰よりもはるかに強烈な死臭を放ち、現れればすぐにそれと分かる。

 森を巡回中の狩人が水死肉喰の臭いに気づき、すぐさま討伐体制が整えられた。

 そうして彼らは水死肉喰を追って池の畔に建つ小屋を見つけ、池の底から惨たらしい遺体を発見した。水死肉喰に喰われ、ほとんど白骨化していたが、残っていた右足首の入れ墨からその骸がケネスの叔父のデイルだと判明した。

 「遺体は全身の骨が折れておりました。あれは死肉喰の仕業ではないでしょう。牙の痕から人狼で間違いないと思われます。小屋の中からは館主様のお話通り、赤褐色の獣の毛が多数見つかっております」

 首役のジルギスが報告のため猟館に参上し、頭を垂れる。

 グラハムは背後に控えるグリンジャーに目を向けた。 

 「狩猟団の編制は済んでいるか?」

 「滞りなく。合図があればいつでも出立できます」

 「よし」

 グラハムはテーブルを広げた地図を前にジルギスを招き寄せた。

 「ケネスが逃亡に使うとすれば、どの道を通る」

 「連れているのが人狼であれば、罠の近くは避けるでしょう。大きな宿場は人目がある。 それに人狼は船を嫌います。水路は外して――――――」

 ジルギスは推定される道程を三本、地図の上に引いた。

 「女の足ではそれほど遠くまでは行ってはおらぬはずじゃ」

 グラハムがアタリをつける。

 そのとき、それまで黙然として部屋の隅に固まっていた兎が徐に言葉を発した。

 「一ついいか?無関係かもしれないが、小屋の中で変な数字を見つけた。テーブルの裏に血文字でN224S23と指で書かれていた。何の数字か分かるか?」

 ジルギスは頭巾をかぶった男が非人間種であることに気づき息を詰めた。しかし、すぐさま気を取り直し、「それは罠の通し番号だ」と答えた。

 「それはこの地図だと、どこだ?」

 グリンジャーが尋ねる。

 「ここ、それからここ」

 ジルギスが地図の上に印を打つ。それはジルギスが引いた三本ある線のうちの一本にぴたりと一致していた。

 「グリンジャー、狩猟団を出立させよ。ドラゴを使い、上空から二人を探せ。ジルギスは狩猟小屋の面々を集めてくれ。人手が要る。私はレオンバルトの支度が整い次第、地上でこの道を行く。近隣の家々への声かけも忘れるな。一軒一軒、被害がないか確認して回れ」

 グリンジャーが掛け声とともに大股で居室を出ていく。その大きな声と足音にびくつきながら、ジルギスも退出した。

 一人残された兎にグラハムは視線を向けた。

 「そなたも来るか?」

 兎が力強く頷きを返す。

 「ならば私と共に狩猟団の後ろをついてこい。人狼はどうも飢え切っておるらしい。逃がしてはならぬ。逃亡を図るようならそのときは、そなたの目が必要になるだろう」




 ケネスは牛舎の隅で体を縮め、目の前の惨劇から逃れようと、身を捩らせた。

 ミシェーラが男の下半身に触れながらほくそ笑む。

 「ふふ、怯えているのね、でも大丈夫。もうすぐ終わるから」

 半裸になったミシェーラの背後で唸り声をあげた獣が人間の体を弄んでいる。雑巾のようにその身体を絞ると、血や肉が周囲に飛び散り、骨が粉々になる音が薄暗い牛舎の中で不気味に鳴っていた。藁の上には血が溢れ、死んだ牛が山と積まれている。悪夢のような光景であった。

 人間の両足を裂くように引き千切ると、人狼はようやく落ち着いたのか動きを止めた。掌についた血をペロペロと無心で舐め始める。

 「ね?あの人ったら餌を与えてもすぐ飽きてしまうの」

 ミシェーラが熱い視線を獣の毛深い背に向ける。

 その両目は劣情に煽られ、燃えるようであった。

 ここは狩猟小屋から南西に十里ほど進んだ、小高い丘の麓にある放牧場である。罠や監視の目を避けるためだとミシェーラに言い含め、遠回りに道を選んでようやくここまでたどり着いた。大きな騒ぎが起きないよう細心の注意を払ったつもりだ。しかし、牛舎に産褥期の牛がいたのか、血の臭いを嗅ぎつけたジョアンが突如として人を襲ったのだ。牛の面倒をみていた農夫二人が犠牲になった。

 既にジョアンの体は六歳ほどの子供にまで成長している。

 ケネスは農夫の遺体から目を逸らし、祈るような気持ちで牛舎の天井を見上げた。

 この先の水道橋を渡れば、ラ・ルーナの管轄を外れる。仲間に居場所を伝えるのは困難になるだろう。

 (これ以上の犠牲は避けねば……)

 ケネスは吊り帯に手を当てた。

 機会があるとすれば一太刀。

 (もし猟館が間に合わなければ、俺がこの手で仕留める)

 ケネスは覚悟を決め、拳をきつく握りしめた。



 その夜、ケネスは闇の中でドラゴの翼の音を聞いた気がした。気のせいだろうか。見上げてみるが、重なり合う木の葉の影に隠れ、月はおろか空も見えない。雨が降るのか、森の中には湿った土の匂いが漂っている。

  ケネスは森の中を小さなランタンの明かりを頼りに進んでいた。

 その後ろをミシェーラとジョアンが寄り添いながらついてくる。

 ジョアンは退屈そうに欠伸を嚙み殺し、時折ぎちぎちと歯を鳴らした。その顔はますます、手配書の男の顔に近づいている。

 鳥の羽音はおろか、虫の音すら聞こえない夜であった。土を踏む音と呼吸、それから衣擦れの音だけが聞こえている。

 そのとき、ミシェーラが立ち止まった。

「どこかで水を汲んできませんか?」

「なら、俺が汲んでこよう。この辺りの地形は頭に入っている」

 ケネスは革袋を受け取り、ミシェーラを休ませると、川のある方向へ足を向けた。

 小さな川だ。川の水の一部を引き込み、このあたりの住民が洗濯場にしているらしい。石鹸の良い匂いが漂い、人の微かな話し声が聞こえている。

 こんな時間に洗濯女たちが仕事をしているのか、柵の向こうに明かりが灯っていた。

 ケネスは空を見上げた。星の見えない夜だ。濃い雲に覆われた空は灰色に霞み、風の流れは速い。今にも大粒の雨が降ってきそうだ。

 水を汲もうと腰を屈めたそのとき、ケネスの体をぞっとするほど大きな影が覆った。

 振り返ると、それはジョアンであった。

 両目を爛々と見開き、笑っている。その目は川向うの洗濯場に向けられていた。こちらから柵の中の様子を見ることはできない。だが、ジョアンにはそこにいる獲物がはっきりと感じられるのだろう。ケネスは全身の毛が逆立つのを感じた。浮ついた足取りでジョアンが川を渡ろうとする。その手を思わず掴んでいた。

 ジョアンが首を傾げる。

 「ダメだ。騒ぎを起こすな。こんな場所で暴れれば狩人が大勢寄ってくるぞ」

 ジョアンは冷や汗を浮かべるケネスを嘲るように笑うと、

 「それがどうした」

 そう言ってケネスの腕を振り払った。子供とは思えないすさまじい力だ。

 (こいつ……喰うつもりだ)

 ケネスは愕然とした。

 「あの女は、俺に他の女の肉を喰わせない。だからこんなにも回復が遅いんだ。まったく、馬鹿な女の嫉妬にこれ以上付き合っていられるかよ」

 ジョアンの声は子供のそれではなくなっている。

 「お、お前は……」

 「なんだ?ああ、あんたには俺が人狼の仔だということにしているんだっけ?」

 長い髪を搔きながら人狼は下卑た顔で笑った。

 「面倒だから明かしてやるよ。俺は正真正銘、ベンフィットを襲った人狼だ。そうだな、お前ら狩人が名前をつけてくれていたっけ?暴王カリオス。この名前、結構気に入ってるんだぜ?」

 「どういうことだ?だってお前は赤ん坊で……彼女が産んだと……」

 「あの女に産み直してもらったんだ。狩人どもの卑劣な作戦に追い込まれ、半分死にかけていた俺の体の一部をあの女の腹の中に植え付けた。腹というか子宮だな。あの女の中で俺の細胞は傷を癒し、増殖し、赤ん坊の姿まで回復した。本当は腹を裂いて出ていくつもりだったが、力が足りなくてな、しばらく赤ん坊として過ごす羽目になった。悲劇だろう?」

 人狼は説明を終えると、ゆったりとした足取りで洗濯場に向けて歩き始めた。

 ケネスは人狼の前に立ちふさがった。

 人狼が面倒そうに首を横に振る。

 「やめとけ。お前如きでは俺は止められない。それに男の肉は喰い飽きている。死んでも俺の血肉にはなれないぜ?」

 (これ以上の犠牲は……!)

 両足が震えている。

 ケネスはグッと下唇を噛み、俯いた。

 人狼がにたりと笑い、その横を悠々と通り過ぎていく。ばしゃばしゃと川の水が跳ねる音がした。

 そのとき、ケネスは吊り帯をぐいと引き、仕込んでいたナイフを振り返り様、人狼の首に突き刺した。一瞬で狼の姿に変じた人狼がげたげたと笑う。

 「愚か!」

 みるみる人狼の体が大きくなり、しがみつくケネスはその体にぶら下がる形となった。それでもナイフの柄は離さない。そんなケネスを人狼は軽々と掴み上げ、地面に叩きつけた。

骨が砕けるかと思った。だが、まだ動ける。起き上がろうとするケネスの腹を人狼は無造作に踏んだ。内臓が圧迫され、潰れる感覚があった。

 「ぐっ」

 骨が軋む。喉の奥から生臭い塊が上ってきた。吐き出すとそれは血であった。死がひたひたと肩口に迫っている。だが、ケネスは眼底に力を込め、二本目のナイフを何度も怪物の足の指に突き刺した。目の端にしぶきのような鮮血が飛ぶ。

 全身が熱い。今ならばどんな敵も怖くなかった。

 人狼が血の臭いに鼻をひくつかせ、両手をうずうずと蠢かせるのが見えた。

(柵の向こうに危険を伝えねば!)

 意識は妙に鮮明で、不思議と痛みは感じない。

 なおも人狼が足に力を込めるため、声が出ない。

 ケネスは火打ち指を擦った。火が指先につき、それを腰の袋に突っ込む。

 中の導火線に火がついた。

 煙幕が沸き上がり、辺りに爆音が鳴り響く。

 「ぐっ」

 人狼の呻き声と共に人の声がした。

(にげてくれ)

 怒りに我を忘れた人狼がケネスの左肩に噛みつき、その体を振り回そうとする。それより先に、ケネスは潰れた体を捩り、人狼の首に両腕を巻き付けた。そうして、何度も、何度もナイフを振り下ろした。意識が途切れるまで、何度も何度も突き立てる。

「俺は狩人だ!俺は狩人だ!俺は!俺は………っ!」

叫び声を聞きつけて、何人もの足音が近づいてきた。



 「放て!」

 夜の闇に雷鳴のごとき銃声が轟く。

 驚いた人狼は持っていた獲物を地面に放り捨て、逃げ出した。

 「追え!決して逃がすな!」

 無数の足音が人狼を追う。

 飛竜ドラゴの羽ばたきが暴風のように響き渡った。

 風に煽られた木々がごうごうと音をたてて揺れる。

 ジルギスは地面に落ちたケネスの体に駆け寄った。

 「ケネス!ケネス!目を開けよ!」

 その後ろから、龕灯がんどうを掲げる小者を連れてジョー・グラハムが現れる。

 ジルギスは館主の影に気づくと無念そうに首を横に振った。

 ケネスは事切れていた。最後まで戦いぬいたのだろう。握りしめたナイフに力がこもっている。

 グラハムはその場に跪くと、ケネスに祈りを捧げ、その額に手をあてた。

 顔を上げる。

 「皆の者!よく聞け!人狼はまだ近くにいる。ケネス・サーミットが最後の力を振り絞り、手傷を負わせた!ラ・ルーナの誇りに賭けて必ず仕留めきれ!」

 「応!」

 狩人たちの声が森の中に響き渡った。

 「待ち伏せが知られたのでしょうか?」

 レオンバルトが駆け寄ってくる。

 「さて、な。分かるのはケネス・サーミットという男が狩人として戦い死んだということだけじゃ」

 グラハムは立ち上がり、後ろを振り返った。

 「兎は?」

 「既に出ました。あの者の目と鼻からは逃れられぬでしょう」

 グラハムは頷きを返すと分厚い雲が立ち込める空を見上げた。

 「雨か」

 その一言を待っていたように、雨粒が狩人たちの頭上にひたひたと落ちてきた。



 ぐるる、ぐるる……。

 喉が鳴る。

 獣の声は苦しげであった。

 見れば、固い毛の隙間から赤い血が滴っている。

 女は獣の両腕に包まれながら、随分と長い距離を運ばれていた。木の葉が掠れ、枝が折れる音がする。

 「撃たれたんだね?狩人?あいつはどこ?まさかあの男、裏切ったの?」

 質問にジョアンは答えない。

 「ああジョアン、邪魔なら置いていって構わない。私は平気だから」

 その言葉を拒絶するように肩に爪が食い込んだ。

 (ああ、この人は私を手放したくないんだ)

 「大丈夫。また産んであげる。貴方のためならいくらでも」

 ミシェーラはジョアンの胸に頬を寄せ、悦びに身を震わせた。



 獣は走り続けた。

 肩から血が噴き出している。

 浅い傷だと思ったが、的確に急所を狙われ、太い血管の一部が傷つけられた。

 (腐っても狩人の端くれだったか)

 傷の治りが悪いのは栄養不足のせいか、それともナイフの刃に毒でも仕込まれていたのか。獣は肩の筋肉に力を込めた。出血が止まる。

 足から流れる血は少ないが厄介であった。力を込めれば走る速度が落ちる。そのままにせざるをえない。両方とも命に関わる傷ではない。しかし、地面に点々と続く赤い痕跡を辿って、一人の男が猛烈な速さでこちらに向かってきている。草葉をかき分ける音はあまりにも静かで、土を蹴る音は虫の音に掻き消えるほど小さい。しかし人狼は追跡者の存在をその大きな耳で感じ取っていた。

 上空には狩人を乗せた飛竜の騒がしい羽音がまるでこちらを牽制するかのように聞こえている。

 (邪魔くせえ!)

 そのとき、雨が降り始めた。

 雨はすぐに本降りとなる。

 激しい雨音と共に、遠くで雷が鳴りはじめた。風が吹き荒れ、飛竜が雷雲を回避して飛び退る姿が木々の隙間から見えた。

 (しめた‼運はこちらの味方をしている!)

 獣はほくそ笑んだ。

 土砂降りの雨が血を洗い流し、雨煙が獣の姿を巧妙に隠す。臭いはかき消え、この先の追跡は難しくなるだろう。

 獣は走り続けた。

 追跡者は構わずあとを追ってくる。

 一人だ。

 (殺したほうが早い)

 獣は足を止めた。 

 腕の中の女を見下ろす。

 女は幸せそうに微笑んだ。



 ミシェーラ・レオネッサはかつて、ディーンの丘にある聖教の分派、神院の天女童てんにょどうであった。神に仕える娘に相応しい、素朴で無垢な美しい女であったが、貞淑と節制を重んじる神院の暮らしにおいて、彼女は身の内に溜まる熱情を抑える術を知らなかった。

 毎夜、吹きあがってくる感情をどうしていいのか分からない。寝具の中で狂おしいほどに身もだえし、体が火照る。ミシェーラはそんな己を恥じ、持て余していた。

 そんな折、神院から祭祀のため町に出向いたミシェーラは生まれて初めて男を見た。そして、猛烈な乾きと飢えに襲われた。

 以来彼女は問題行動ばかりを起こし、とうとう神院を破門となり、聖堂の修道院で暮らし始めた。そこで彼女は調理場で下働きをしていたジョアン・バートリと出会ったのである。

 魅力的なジョアンに彼女は心惹かれた。精悍な顔つき。たくましい体。男の眼差しにとらえられる度に心が震えた。ミシェーラは男の危うい魅力に憑りつかれたようにその身体を追いかけた。

 そして、女は偶然、好いた男の正体を知ったのである。

 殺されたのは近所に住む、年増の女だった。

 ジョアンに誘われ、おこがましくも鼻息荒く男の肌に触れた女は一瞬にして肉塊となった。悲鳴を上げる間もなかった。ミシェーラは驚きと共に、激しい嫉妬に襲われた。女の身体に取りつき、その肉に歯をあて、舌なめずりをする男の横顔を食い入るように見つめる。獰猛な獣の顔だ。毛深く、大きく広がった口の隙間から鋭い犬歯が覗いている。本性を知った今、女の欲望は消え去るどころか溶岩のように噴き出していた。

 ミシェーラは男の前に進み出た。そして服を脱ぎ、若い肌身を晒した。赤褐色の双眸がこちらを無感情に見つめる。値踏みするような眼差しにミシェーラは興奮をおぼえた。しかしすぐさまそれは絶望に変わった。

 「去れ。俺は美食家なんだ。お前のような硬そうな肉は食べない」

 男は一言そう言うと、再び手の中の女の肉を噛みちぎりはじめた。

 「な、ならどうすればいい?私はどうすれば貴方に求めてもらえるの?」

 男はほくそ笑んだ。

 「そうだなあ。近頃は女の味に飽きてきたところだし、いろんな男を喰わせてくれよ。お前が誘って俺が喰う。どうだ?そうすれば俺好みの女になれる」

 ミシェーラは震えた。

 男が人間の姿に変わる。

 裸の上半身は張りがあり、艶やかで、適度についた筋肉が呼吸するたびに波打った。

 美しい顔に血が滴り、ぽってりとした唇に肉の欠片がついている。ミシェーラがそれを指ではがすと、男は逞しい両腕をミシェーラの背に回した。うなじに手が当てられる。その瞬間、背筋に衝撃が走った。悦びに体が震え、思わず声が漏れそうになる。唇が重なる。強く唇を吸われるたびに体が天に昇るかと思った。ミシェーラは我を忘れ、血の味のするキスに酔いしれた。



 唐突に立ち止まった人狼は抱えていた女を地面におろすと、

 「ジョアン」

 恍惚とする女の両頬に手をあてた。

 女が目を閉じる。

 その変化に気づいたバーニーは足を止め、距離をとった。

 瞬間、人狼は無感情に女の頭を両側から叩き潰した。

 潰れた頭から血が噴き出す。それを人狼はすかさず啜りはじめた。

 「ああ、美味い。いい女になったな。これだよ、これ!俺好みの味わいだ」

 女の頭をバリバリと貪る。

 「やはり子供を産んだ女が一等美味い」

 バーニーは叢から人狼の様子を伺い、眉根を寄せた。

 近くに飛竜はいない。

 予定と違うがやるしかない。

 人狼が女の胸を裂き、内臓を喰い荒らし始める。人の頭ほどある巨大な心臓の鼓動が速くなり、獣の体温があがっていくのが分かる。力が増しているのだ。

 気づいたとき、バーニーは迷わなかった。

 一歩、足を踏み出す。

 足元の小枝がポキリと音をたてて折れた。

 音の出た方向をぎろりと睨んだ人狼が顔を上げる。

 骨を勢いよく吐き出すと、人狼がこちらに向けて走り出した。すさまじい速度で迫ってくる。じきに追いつかれるだろう。

 バーニーはすぐさま茂みをかき分け、人狼とは別の方向に斜めに駆けた。次第に距離が詰まり、獣の体臭と吐く息がすぐそこまで迫ってきた。それでもバーニーは後ろを気にせずただ一心に走った。生臭い息が耳に吹きかかるかと思うほど、両者の体が近づいたとき、バーニーは体を投げ出すようにして倒れこんだ。そのまま地面に突っ伏す。勢い余って前方に飛び出した人狼はバーニーの体を超えて、その先の窪地に転げ込んだ。

 無数の切り株が並んでいる。そこはまるで即席の闘技場のようであった。

 一斉に龕灯が掲げられた。

 強烈な光の束が人狼の姿を照らし出す。

「放て!」

 窪地の上から無数の手槍が人狼に向け、投げ込まれた。

 意表を突かれた人狼は体中に槍を受け、煩わしげに呻いた。

 やがて攻撃が止んだ。

 槍はほとんど当たっていない。地面に突き立った槍を見回して人狼が嘲るように笑う。

 そのとき、今度は上空から雨を切り裂くように飛んでくる塊があった。

 飛竜ドラゴだ。

 ずっとこの機を狙っていたのだろう。

 五体の飛竜が獲物に向けて一斉にとびかかった。人狼の体を蹴飛ばし、押しつぶし、持ち上げて宙に投げ飛ばす。空からの強襲に人狼は為すすべがない。

 「終わりじゃ」

 地面に倒れたバーニーの体を支えると、グラハムはその場から離れるよう木々の後ろに隠れる狩人らに声をかけた。


 まるで球遊びのように人狼の体を弄び、地面に叩き落した飛竜がその場を去る。

 人狼はまだ生きていた。

 半分人間の姿に戻っているが、体の傷は少しずつ修復が始まっている。

 女の血はやはり回復を早めるらしい。

 痛みに呻きながら、 ジョアンは怒りに震えた。

 「殺す!殺す!殺す!殺す!くそ狩人ども!皆殺しだ!」

 空に向けて喚き散らす。その声が雨煙の中、空しく響き渡った。

 そのとき、泥を蹴立てて窪地に近づいてくる一団があった。

 皆、青い衣をまとい、銀の鎧靴を身に着けている。濃紺に白い十字、金糸で獅子の頭が刺繍された旗を掲げ、颯爽と現れたのはグランベリ砦の狩猟団であった。

 隊を率いる老年の狩人が窪地の壁を滑り降り、ジョアンの前に歩を進めた。

 「暴王カリオス」

 枯葉をこすり合わせたような渋い声音に気づき、ジョアンは首を巡らせた。視界いっぱいに、あの疎ましい青い衣が目に飛び込んでくる。

 「なんだ、また俺を逃がしてくれるのか?」

 ジョアンの挑発的な問いに、狩人は首を横に振った。

 「狼王の請願により生きたまま捕らえるよう命を受けていたが、それも反故となった。狼王からは此度の狼藉は許しがたく、その命、いかようにしても構わぬとお墨付きをいただいておる」

 「お前らに俺は殺せまい。百発の弾丸を浴び、足をもがれてなお、生きていたのだ!どれだけ傷つけようと、どれだけ血を流そうと、俺は死なないぞ!必ず蘇る!なぜなら俺は人狼王の息子だからだ!」

 喚き続けるジョアンに背を向け、狩人は窪地を出ると無造作に手を掲げた。

「落とせ」

 その一言と共に、上空から青白い稲妻が一閃。天地を割るほどの大音響とともに、落ちてきた。周囲に青い光の放射が広がり、空気が震える。

稲妻はジョアンの体を一瞬で焼き尽くした。黒い炭の塊となった体が雨に溶け、風に流され、土に還る。



 人狼の脅威は消え去った。



 「グランベリ砦の者たちから土産じゃ」

 グラハムはそう言って、品物の詰まった木箱を小者たちに運ばせた。

 木箱の中身はベンフィットの特産である青かびチーズと白ブドウ。それから袋いっぱいの青い貝殻であった。これは砕くと鮮やかな青い顔料となり、王都や聖都では高値で取引される品である。

 「つまりは口止めですか?」

 箱の中身を覗いたレオンバルトが意味深な笑みを浮かべる。グラハムは頬を掻いた。

 「ま、そう言うな。ケネスの失踪話を有耶無耶にする代わりじゃ」

 ケネス・サーミットの失踪は猟館からの指示ということになっている。猟館の命で死んだとなれば、その家族は猟館からの保護が得られる。館主はケネスの女房と子に多額の見舞金を払い、生活の面倒をみることを約束した。

 ケネスがミシェーラ・レオネッサと愛人関係にあったことは秘密にされている。

 女の存在はなかったことにされた。これは神院からの圧力だろう。

 元とはいえ、一度は天女童として神に仕えていた女が人狼を産んだとなれば大きな問題になる。ミシェーラ・レオネッサはたまたま居合わせた、人狼の哀れな犠牲者の一人として扱われた。

 「二人がただならぬ関係にあったのは確かでしょうに」

 「ケネスの女房子のためじゃ。喪った者はこれ以上、傷つかなくともよい」

 ケネスの妻は夫の死に無関心であった。経緯を話しても「そうですか」と朴訥な返事しかせず、葬儀が終わり、夫の棺が納められると娘を連れてさっさと実家へ帰ったらしい。いささかケネスが哀れに思えたが、家族とはそういうものなのかもしれないとレオンバルトは思い直した。

 「兎はどうしておる?一番の功労者であろう」

 「はて?随分前に墓地へ向かう姿を見ましたが、まだ来ておらぬようですな」

 風が吹いている。空は晴れ晴れとして、雲一つない。

 騎竜場の先に小高い丘がある。

 丘の斜面には小ぶりで丸い石が並び、その様はまるで石の畑のようであった。

 石の表面は磨かれ、それぞれに故人の名と没年が刻まれている。

 そこはラ・ルーナの管理する共同墓地であった。

 華やかな装飾もアーチもない。しかし墓石はどれも手入れがされており、整然として厳かであった。

 「兎」

 グラハムが声をかけると丘の上に立ち墓地を見下ろしていたバーニーが振り返った。

 その手には丸い掌ほどの大きさの石が握られている。

 「それは?」

 「おやじの墓石にしようと思ってさ」

 バーニーはそう言って寂しげに笑った。

 「俺にはこの大きさしか買えなかった。けど、あのおやじなら小鬼に相応しいサイズだって笑いそうな気がする」

 グラハムはバーニーの背を軽く叩くと、

 「少し歩きながら話をしよう」

 そう言って彼を誘い、丘に敷かれた小路をゆったりと歩き始めた。

 バーニーは問われるまま、ベンとの思い出話を語って聞かせた。

 出会いや日常のこと。どれだけ彼を慕い、その存在に支えられてきたか。

 ベンの顔を思い出すたびに後悔が胸を突く。

 「大昔のことだが、俺にも小鬼の友がいた」

 そう言ってグラハムは懐かしげに目を細めた。

 「ま、悪友達だな。いいやつだった。こざっぱりとして、善も悪もなく、俺の味方でいてくれた。面白かったなあ」

 バーニーは意外に思った。

 貴族の生まれである館主と小鬼とは妙な組み合わせだ。一体どこでどう繋がれば、その二つが結びつくのだろう。

 「やつめ穴掘り盗人をしておってな、それを懲らしめ、とっちめたところ、どうにも気に入られてな」

 くつくつと笑うグラハムは心の底から嬉しそうであった。

 「俺がところの者と喧嘩になれば顔を出し、いつもその固い頭を振るってくれたものよ」

 「それは……友なのか?人間と怪物だろう?」

 「俺は友だと思っている。やつもそう思っていただろう。祖父が亡くなり、生家に送り返されると決まったときはあいつのそばで泣いた。そのとき、やつが『本当につらいときは俺が穴を掘って助けに行ってやる』とそう言ってくれてな。あれで幾分か気が楽になった」

 グラハムが微笑む。

 バーニーは唇を噛んだ。喉の奥に苦いものがこみあげてくる。

 「俺は…………人は人、人外は人外だと言われて育った。俺はそのどちらにも当てはまらねえから、どこにも居場所がなかった。おやじだけが、その苦労を分かってくれた。どんなに耳心地の良い話を聞いても俺は、人は人としか、人外は人外としかつるめないと思ってる。ガキの頃から染みついたもんは剥せねえ」

 「人は人。人外は人外。それもまた真理。しかしな、この世界には、『そうでない場所』もあるということじゃ」

 グラハムの言葉がストンと胸の中に落ちる。

 「そうか……そういう場所もあるのか」

 グラハムはバーニーの言葉にうなずきを返した。

 そうして二人は墓地の入り口まで戻り、足を止めた。

 風が二人の間を通り過ぎていく。遠くで飛竜の鳴き声がした。

 「兎、私は猟館の主として、そなたを手放したくはない。しかし此度の功労と、これまでの働きぶりを鑑みればそなたの罪は十分贖われたと考えるべきじゃろう。仲間を裏切る嗅ぎ手としての立場の難しさも重々理解しておるつもりじゃ。猟館を離れるというのであれば止めはせぬ。そなたに不利にならぬよう取り計らってやろう」

 バーニーは目の前の男をじっくりと見つめ返した。

 皺深い顔。

 灰青色の瞳は誠実な光を宿していた。


(どこか、おやじに似ている。おやじも仕事について話すときこんな顔をしていたっけ)


 この男の下で働きたい。

 浮かんできた心に、バーニーは素直に従うことにした。

 「今度のことで、俺は自分の甘さを重々思い知った。それに、もう俺には他に行くところがない。だから、ここで……ラ・ルーナで働くさ」

 「そうか」

 グラハムが笑みを深める。

 そうして彼は徐に、後ろを振り向いた。

 「らしいぞ、ベン」

 グラハムの掛け声に合わせ、低木の間から男が顔を覗かせた。

 「あ」

 バーニーは目を剥いた。

 立っていたのは小鬼だ。きまり悪そうに額をこすりながら現れた小鬼を見下ろし、くつくつとグラハムが肩を揺らす。小鬼はグラハムの傍まで歩み寄ると、バーニーの顔を見上げた。

 「小鬼が死を偽装できること、知らせておけばよいものを。まったく、お前は」

 グラハムが肘で小鬼を小突く。

 「でもよ、生き返るのは必ずってわけじゃねえ。それに蘇生術は一応、小鬼族の秘蹟なんだ。秘密にしなきゃなんねえ。見破ったのはお前さんくらいだよ、ジョー」

 ベンは一回り小さくなっていた。しかし、体は矍鑠として千切れた四肢はぴんぴんしている。そのうえ潰された顔も体も傷一つ負っていない。

頭でっかちの小柄な老爺――――――――懐かしい姿、そのままであった。

「あー……バーニー。その……つまりだ。小鬼ってのは、角さえ無事なら体は元通りになる。まあ、それも色々と条件があるんだが、俺の場合角の半分が額に埋もれてやがるからな。見目が悪いかわりに、生き残る確率も高くなるわけで……」

 ベンの説明も頭に入ってこない。

 バーニーは墓石のために用意した石を思い切りベンの頭に投げつけた。

 小鬼の頑強な頭がそれを受け止める。

「いて!なにしやがんだ!危ないだろう!」

「う、うるせえ!てめえが墓から蘇ってくるからだろ!お、俺がどんな気持ちで!」

「ああ、ジョーから聞いたぜ?自分が尾行されて、ヘマしちまったと思ったらしいな。違う違う、ありゃ俺の失敗だ。お前さんのいない間に、男と女の……ほら、あれだよ、あれ!をもっと近くで見たくなってよ。だが、興奮してちょっと近づきすぎちまって、あの犬っころめ!撒いたつもりだったんだがな。だからお前さんが追われたわけじゃねえぞ。安心したか?」

 ベンが軽く言ってのける。

 バーニーは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。

 「このすけべ爺!馬鹿!間抜け!」

 「なにを!てめえ!誰に向かって言ってんだ!恩を忘れたのか!恩を!」

 「おめえだよ!おめえに言ってんだ!すけべ爺!」

 バーニーはベンの額の瘤を掴んで振り回した。

 その顔は笑っているのか泣いているのか、怒っているのか分からなかった。

 グラハムが苦笑を浮かべて肩を竦める。

 「ベン、砦に空き家を一軒見つけてある。そこで靴屋を開くといい」

 「いいのか?」

 「ああ、あの店の様子では元の町には戻れんだろう。落ち着いたら猟館に顔を出せ。昔のように酒でも飲もう。バーニー、道具を運び出すのに手を貸してやれ。喧嘩は程々にな」

 グラハムは満足げに笑うと、喧嘩の仕切り直しをはじめた二人を交互に見つめ、手を振りながら去っていった。







【拾いもの】

 ラ・ルーナは王都モンドールから二十里離れた、コートウェル湖の北に位置する砦である。広さは六圏。古城を中心に扇状に広がる町並みは雑然として、資材を継ぎ足して作られた箱庭の玩具のようであった。

 首都に近く聖都ローズフェレーとは船で五日かからない距離にあるため、ローカッシェルの港は通商の拠点としても重視されている。砦は人や物の出入りが多く、商いも盛んで、街では旅の無事を祈る護符や守り札、厄除け網が毎日飛ぶように売れていた。

 この時代、旅は命懸けである。

 特に陸路は魔物の襲撃に遭いやすく、幌車を曳いて旅をする行商人の多くが、旅の途上で命を落としていた。そのため人々は寄合ごとに隊列を組み、腕の立つ用心棒や狩人を雇って旅をした。それでも人死には後を絶たない。

 一方、町自体が襲われることは減った。

 これは芒星ぼうせい大学寮が研究し、広めた『篭目』の効果が大きい。

 伝承や神話をもとに怪物が忌避する物質、環境を調べあげそれを人為的に町に施すことを『篭目曳き』という。

 たとえば、ラ・ルーナの砦の石壁は特殊な石の組み方がされている。六角形の石を組み合わせた亀甲模様の外観は堅固でありながら美しく、魔除けと守護の効果をもつ。くわえて鏡石に古代神殿からの転用石を用いることで死霊や悪霊は砦の中に入って来ることができない。

 北と南の門扉にはジンを封じる巨神アスラの手形。櫓には甲殻蟲の天敵、蛇の目の造形が施され、井戸には水仔除けの生物環――――――――といった具合にそれぞれの護符が魔物や魔獣に対して効果を発揮し、篭目を保っている。

 護符には一つ一つに意味があり、その目的は多岐にわたる。それらを的確に把握し、保持に努めるのが『加護手』――――――狩人の役職の一つであった。

 しかしながら、つい先日ラ・ルーナは邪神崇拝教団イミナリウス〈黄金の教導〉による企てで篭目は破られ、砦は寸でのところで大規模な魔物の襲撃を受けるところであった。

 この出来事は瞬く間に外に漏れ、砦の人々を恐怖の底に引きずりこんだ。

 「恐ろしい」

 「新しい館主様は信頼できる方なのか?」

 「しばらく一人歩きはしないほうがいいな」

 「夜店を出すのを禁じたほうがいいんじゃないか」

 「港を閉める時間を早めたら、うちは商売ができなくなる」

 「マッカーキング商会が会議をしているって噂だ。商談の引き上げじゃないといいが」

 「色々と物入りなのに品物が入ってこなくなると困るよ」

 「新しい館主は信頼できる方なのか?」

 「なんでも猟館の弾薬倉庫が吹き飛ばされかけたらしい」

 「子供の誘拐計画だって噂だよ」

 「ああ、こんな町で子供たちを育てられないわ」

 狩猟団の働きにより大きな事件には発展しなかった。しかし人々の不安の芽はそう簡単に消えない。事態を重く見た砦長オーガスト・フィンチはラ・ルーナの館主ジョー・グラハムを屋敷に招待した。

 招待といえば聞こえはいいが、砦長が館主を呼びつけたことに他ならない。

 慇懃無礼なこの行動にラ・ルーナの狩人たちは険しい表情を見せたが、とうの館主は「構わぬ」とだけ言って、フィンチの邸にゆったりとしたサテンのシャツに布帯、武骨な狩猟用ブーツを履いた姿で現れた。

 「フィンチ殿、お久しぶりですな。お招きいただき光栄です」

 ジョー・グラハムはそう言って恭しく礼をした。

 オーガスト・フィンチは民団の支持をうけ、砦長という役職を与えられているが元は漁師の生まれだ。一方グラハム卿は、爵位はなくとも貴族の血を引いている。そんな男に礼節を示され、フィンチは面食らった。

 「議会の皆さまもお揃いとは思ってもいなかった。このような軽装では失礼でしたかな」

 フィンチは夕食会場に評議会の面々も呼んでいた。

 彼らは皆、一様に古めかしいかつらをつけ、議会出席のための正装である長襟にフリルつきのシャツを身に着けている。何やらその様子が田舎芝居の一幕のようで、フィンチは顔を赤くした。

 「いや、なに……固くならずとも、皆で楽しく食事でもと思ったまでです」

 フィンチの答えに

 「ほう」

 グラハム卿はにやりと片頬を引き上げ、丁寧に整えた髭を掻きまわした。

 夕餉の宴はつつがなく進んだ。

 食事が運ばれ、酒も出た。

 しばらくして鼻頭に脂汗を溜めた一人の議員が酒気に顔を赤くし、グラハム卿のテーブルに手をついた。

 この男はフィンチの取り巻きの一人であった。

 酒臭い息を吐きながら、唾をまき散らし、己の素性を明かす。

 男のぞんざいな挨拶を、酒杯を片手に聞いていたグラハム卿は顔色一つ変えない。その様子を見て取ると、男はますます調子づいた。

 「此度の魔物騒ぎ、館主殿はいかようにして責任をとるおつもりかな?」

 「責任?」

 グラハム卿が小首を傾げる。

 その瞬間、男は得意げに鼻腔を膨らませた。

 「まさかこの期に及んで誤魔化されるつもりか!ここにいる者たちは皆知っているのですぞ!魔物の出没が相次いでいると思ったら、砦の篭目が長きにわたり機能していなかったというではないか!これは酷い怠慢である!貴殿はどうするつもりだね!」

 「篭目の修復は終えている。心配するようなことはない。安心されよ」

 グラハム卿の冷静な答えに、ドンッと拳をテーブルにたたきつけ、男がぐっと顔を怒らせた。

 「我らは砦の暮らしを安全だと信じてきた!猟館はその信頼を裏切ったのだ!我らの浄財がいかにして使われているのか、一度改めねばなりますまい!まったく、近頃の猟館の腑抜け具合は目に余る!大した成果もあげず、何が狩人だ!その仕事を咎めたてるのが館主の役目!今一度監督の目を厳しくされるが賢明であろう!」

 「ラ・ルーナの狩人たちはよくやっている。怠慢と咎めたてられるような者は猟館には一人もおらぬ」

 「それは本当かな?」

 声を発したのはそれまで黙って成り行きを見守っていたフィンチである。

 フィンチの言葉にグラハム卿は顔を上げた。

 先ほどまで血気盛んに唾を飛ばしていた男が、まるで自分の台詞を終えた役者のように一歩後ろに下がる。フィンチは立ち上がり、グラハム卿のテーブルに近づくと、役者が観衆を煽るように両腕を広げた。

 「砦から加護手頭が姿を眩ましたそうではないか。これだけの事態を引き起こしておきながら、責任もとらず、逃げた。なんと身勝手で無責任な男か!見つけ出し、広場に吊るすべきだ。それで民の溜飲も少しは下がるだろう。それだけの罰がなければ狩人などまともに働かぬ、金食い虫の集まりだ!」

 喝采があがる。

 「館主殿、猟館から正式に謝罪文を出されよ」

 「何の謝罪だ?」

 「もちろん、此度の――――――」

 その瞬間、フィンチは「あ」と目を剥いた。

 先ほどまで陽だまりの中でまどろむ猫のように穏やかであったジョー・グラハムが悪魔も黙り込む凄絶な表情を見せたのだ。

(あの噂……虚栄の一つと侮っていたが。真かもしれぬ)

フィンチはここに至ってようやく、その考えに辿り着いた。

フィンチだけではない。つい先ごろまでラ・ルーナをあげつらい、一言物申してやると気色ばんでいた評議会の面々もまた、ジョー・グラハムの存在そのものに圧倒されていた。

 「何の謝罪だ?」

 答える者は一人もなかった。



 「いかがでしたか」

 フィンチの邸を早々に辞したグラハムは待たせていた曳車に乗り込むと、中で待機していた狩猟頭のライナスに目を向け、苦い笑みを浮かべた。

 「そなたの言った通り、評議会の面々に囲まれたわ」

 「やはり……」

 「先日の魔物騒ぎの件で、仔細を詰められた」

 「館主様の御身を煩わせることになり、申し訳もございません」

 「なに館主に直接、二言三言嫌味でも言いたかったのだろう。あれで気が済んでくれるとよいがな」

 オーガスト・フィンチは気位の高い男だ。したたかで頭が良い。世故に長け、理財に通じ、人気取りのためならどんな手も使う。それが己の評判の役に立つのなら、人前で館主をあげつらい、貶すこともあるだろう。

 ライナスは頭を垂れた。

 「面目もございません。この一件は館主様の落ち度ではなく、我々の不徳の致すところ。寧ろ卿はラ・ルーナを危機から救って下さったというのに――――――――」

 ライナスは負い目を感じているのか、恐縮しきりで、肩身を狭くしている。

 「顔を上げよ、ライナス」

 グラハムは窓枠に肘をかけ、頬杖をつきながら変わりゆく車窓に目を移した。

 「ま、確かに面白くはなかった。奴らどこから聞きつけたのかヴォルベッサが砦を離れたことを知っていたからな。まったく、よく知りもせぬくせに――――――――――」

 グラハム卿はそこで何かを思い出したのかチッと鋭く舌を鳴らし、やがて気を取り直したように身を乗り出した。その顔には悪戯を思いついた少年のような笑みが浮かんでいる。

 「しかし、私も黙ってばかりいたわけじゃないぞ?ごちゃごちゃと煩いものだから、フィンチの鼻づらに言ってやったのだ。『ラ・ルーナは今にガルレシアで最も裕福で安全な町になる。国王陛下さえも住み暮らしたくなるほどの町じゃ。私が館主でいるうちはこの砦によからぬ輩を寄せ付けぬ。安心せい――――――』とな」

 ライナスは驚いた顔で、目の前の男を見つめた。

 グラハム卿の言葉には力がある。本当にそうなるのではないかと思わせる不思議な魅力が備わっていた。

 「ですが国王陛下が越してくれば、この砦が王都となり、砦長は最高権威者の椅子を追われ、大きな顔ができなくなりましょう」

 「確かに。あの男にとっては安心できぬか」

 グラハム卿がくつくつと喉を鳴らす。

 灰青色の瞳が再び窓の外に向けられた。

 薄暗い路地に外暮らしの者たちが肩を寄せ合い、暖を取っている。寂しいもので、酒場や宿の明かりは消え、路上に人の姿はない。魔物騒ぎで砦の人々はすっかり息を潜め、夜間は外出を控え、門扉を固く閉ざすようになっていた。賑やかな大道芸の列も、酒場の踊りも、歌の合唱もなくなった。それはあまりに、もの寂しい光景であった。

 グラハム卿が車窓を眺め眉尻を下げる。

 「寂しいものじゃ…………のうライナス、立て直すと大見得を切ったからには、必ず成し遂げねばならぬ。安心とは一朝一夕に生まれるものではない。信頼もじゃ。取り戻すには時間がかかろう。お前たちには存分に働いてもらうぞ」

 グラハムの言葉にライナスは顔を綻ばせ、力強く頷きを返した。



 〈鹿茸ろくじょうの季〉が過ぎ、ラ・ルーナは徐々に落ち着きを取り戻しつつある。

 篭目の修復もひと段落し、遠征討伐に向け、新たな狩猟団の編制も始まっていた。

 これはジョー・グラハムが館主に就任して初めての外狩とがりである。

 失敗は許されない――――――と、皆準備に余念がない。

 特に狩猟頭筆頭の役目を託されたマーカス・グリンジャーは久方ぶりの狩りに並々ならぬ意気込みを抱えている。

 もう一つ準備といえば、館主の妻女マリア・グラハムを猟館に迎え入れる支度も滞りなく整えられていた。

 グラハム卿の妻マリアは家柄の良い女性で、もちろん魔物狩りには縁もゆかりもない。亡き娘の弔いと墓守りのため、就任当初はグラハム卿に同行しなかったが、離れて暮らす夫の身を案じ、聖都を離れる決意をした。

 年の差は二十歳。グラハム卿の口ぶりからしても仲の良さが窺える。

 ライナスは奥方に会う日を心待ちにしていた。

 その日が近づくにつれ、詰所も館主夫婦の話でもちきりになっている。

 「どのような女性だろうな」

 「知的な方に違いない」

 「いや、淑やかで百合のように凛とした方だろう」

 「愛らしく、タンポポのように可憐なのでは?」

 「あの館主様が惚れた御方だぞ。きっと素晴らしく妖艶で気が強い方だ」

 「それはお前の趣味だろう」

 皆が皆、好き勝手なことを口にする。

 狩人の中には家庭に憧れを持ちながら、独り身を貫く者も少なくない。

 魔物狩りは汚れ仕事と嫌悪されがちであるし、命の保障もないうえに出費もかさむ。

 仕事をしつつ家庭を切り盛りする稀有な女房に巡り会えたライナスやグリンジャーは、仲間から羨望の眼差しを向けられていた。

 「しかし、館主様も隅に置けない。二十も下の妻女がいらっしゃるなんてな」

 「高貴な家同士の結婚なら、なくはない話だ」

 「ソルフェージュ家といえば公爵家にも連なる名家。それも奥方は一人娘であるらしい。それを貴族の出であっても爵位を持たない、親子ほども年の違う者に嫁がせるだろうか」

 真っ当な問いである。

 ジョー・グラハムは子爵家の次男であった。今、その生家は亡き兄の息子が爵位を継いでいる。つまり彼はマウントベッケン子爵の叔父という立場であり、たとえ貴族の生まれといえどソルフェージュ家のご令嬢であるマリアとは到底釣り合うものではなかった。

 そのため狩人たちの間では格式が上の、しかも父娘ほど年の違う令嬢を館主がどのように口説き落としたのか、その憶測が毎夜のように語り合われていた。


 話が次第に熱を帯びてくる。突如二階の居室から館主が姿を見せたので、詰所にいた狩人たちはぎょっとして息を詰めた。

 館主は小者に荷物を持たせ、階段を軽い足取りで下りてきた。

 「館主様、どちらに向かわれるのです?」

 先程まで話の輪に加わらず、長椅子に腰掛け本を読んでいたクジャ・ロドリゲスが立ちあがり、館主に声をかけた。

 「飛竜ドラゴに乗るための拍車をつけておられるようにお見受けします。この時間に、まさか遠乗りではありますまい」

 グラハム卿は腰帯に小刀をさし、背に短槍を負ったいつもの見回り姿であった。

 よく見ると底の厚い革長靴の踵に特殊な形の拍車がついている。拍車はコの字型に曲がっており、スプーンのような形の金属板が取り付けられていた。

 これは飛竜に乗るときに用いられる竜装具の一つである。

 ロドリゲスは目敏くそれに気づいた。

 グラハムは長靴の踵をちらと一瞥し、頬を緩めた。


 ドラゴは飛竜とも呼ばれる運搬用の騎乗動物である。

 ドラゴンと蜥蜴、ウミヘビを掛けあわせた創造生物の一種であり、それぞれの遺伝的特徴を色濃く残し、空や水中を長時間高速で移動できる。便利な移動手段だが、乗り方にコツがいるうえに、慣れていないとその強固な鱗と皮膚が擦れ、乗り手の内腿や尻の皮が剥けるハメになる。

 猟館では狩りのため百頭近い飛竜を世話していた。

 グラハム卿は白いものが目立ち始めた髭を掻き、

 「実はな、ルッシェルの港まで妻を迎えに行こうと思うのだ」

 とはにかみながら呟いた。

 その姿に狩人たちが面食らう。館主の手腕、槍術の冴え、魔物に対する容赦のない責め立てぶりを知っているだけに、そのあまりの落差に驚きを隠せない。

 「奥方に何かあったのでございますか?」

 「鳩文が届いてな。迎えが欲しいと頼まれた」

 「でしたら誰か人を――――――」

 「いや、人をやるほどではない。それに、このようなことで皆を起こしたと知られれば妻に叱りとばされる。朝の交代の折にでも皆に館主が少しの間、留守にいたすと言っていたと伝えてくれ」

 「承りまりました」

 「では行ってまいる」

 グラハム卿はいつも通りのゆったりとした足取りで騎竜場の方角へ足を向けた。

 ロドリゲスは恭しく礼をして館主の背中を見送ると、

 「あれは相当に尻に敷かれておられる」

 真面目くさった顔で呟いた。

 会話に聞き耳をたてていた狩人らが一斉に頷きを返した。

 「奥方を溺愛なされているのは本当らしい」

 「俄然気になる。類まれな美人か、はたまた才媛か」

 そうした仲間の言葉をロドリゲスは首を振って遮った。

 「分かっていないなお前たち。ドラゴでの迎えを許容なさるご婦人だぞ、豪胆、剛毅。女武者も顔負けの強者に違いなかろう」

 ロドリゲスは自分の推理に満足すると、長椅子に体を投げ出し、読みかけの本を開き直した。



 ルッシェルの港はラ・ルーナから東へ三十里。コートウェル湖からサンクトペテルブルク湾にそそぐ運河の中ほどに位置する。

 小さな港で、木造屋根の家々がみっちりと港を囲むように建ち並び、その周囲を背の低い幽魔除けの石壁がかろうじて守っている。守りが手薄に見えるのはここが国や聖教府の直轄地ではないためだ。ルッシェルは私営港であり、管理者はこの地域に根をおろす商工会や廻船業者の座寄合であった。

 ジョー・グラハムがルッシェルの港についたとき、まだ夜は明けていなかった。

 グラハムは港の東端に設けられた駅場に目をやると、拍車をドラゴの腹にあて、その鱗を二度逆向きに擦った。

 駅場には松明がいくつも掲げてあり、空からでもその様子を確認できる。

 ドラゴは鱗と分厚い皮に覆われた両足をぴんと伸ばすと、ゆっくりと降下をはじめた。湖面すれすれをドラゴの鉤爪が掠めて行く。やがて速度を落としたドラゴが翼を大きく広げ、駅場の広い一画に土埃をあげて着地した。よたよたと二、三歩前に進むが体幹を崩さない。さすがに狩りのため鍛えられているだけある。

 着地の音を聞きつけると、すぐさま駅場の裏戸が開き、小者が二人飛び出してきた。

ドラゴの手綱をとり、乗り手のために足場を用意する。

 「お疲れさまでございました。旦那さん、いやあ惚れ惚れする着地だったね」

 「壁にぶち当たらない人を見たのは、久しぶりだよ」

 小者二人はそう言って、小ざっぱりとした笑みを浮かべた。

 ルッシェルの駅場は狭い。そのため駅場の壁には藁束がいくつも重ねられ、緩衝材の役目を果たしている。それでも衝突が頻発するのか、壁には修復の跡がいくつも残っていた。

 小者二人の手を借りて、地面に降りるとグラハム卿はドラゴの首を優しく撫で、「ありがとよ」と声をかけた。

 篝火の光で照らされたドラゴは、青緑色の鱗がきらきらと輝き、闇の中で一層美しく見えた。

 「こやつを、しばらく休ませてやってくれ。食べ物と水を、これで」

 懐から金子を取り出す。

 小者二人は喜んでそれを受け取った。

 ドラゴに乗る間、防塵用の頬被りをつけていたが、茸期明けの肌寒い季節。凍り付くような夜風が顔に吹き付け、息もままならない。頭についた霜を払いながら、グラハムは袋に入った荷を自ら背負った。

 「旦那、ここに署名をいただきやす」

 グラハム卿は差し出された手帳に名前と居住地を走り書きにした。

 ラ・ルーナからの使者と知り、小者二人はグラハム卿を一介の狩人と思ったらしい。

 ドラゴの扱いが慣れているのもそのためだと合点のいった顔で、荷の中の得物に触れることもなかった。

 「では頼んだぞ」

 グラハム卿は酒手を弾み、小者二人にドラゴの世話を託すと機嫌よく夜の町へ出て行った。


 駅場から出ると、ジョー・グラハムはルッシェルの町の沿岸を、明かりも持たずに歩いて回った。

 妻マリアが乗る船が聖都を出立して五日が経っている。予定通りにゆけば、彼女を乗せた船はこの港に寄港しているはずであった。しかし港にそれらしい船はない。グラハム卿は懐から小筒に入った巻紙を取り出した。

 鳩文は、かねてよりマリアの侍女を務めるアーリという女から届けられた。

 心配性なうえに神経過敏なアーリは今度の船旅を随分と怖れているらしい。

(まったく困ったやつじゃ)

 グラハムは手紙を一読し、呆れたように頬を掻いた。

 文面には聖都を離れるマリアの様子と共に、旅への憤懣と、猟館からの迎えがないことを責めたてる言葉が蟻のような細かな字で十数行に渡って書き連ねてあった。

 どうやらアーリは館主の妻を狩人たちが護衛するのは当然。聖都まで迎えに行くことが何よりも優先されるものと思い込んでいるらしい。一刻も早く護衛の部下を寄越せと書かれた手紙にグラハムは思わず苦笑を浮かべたのだった。

 館の狩猟頭たちは貴族の出であるマリアを気遣い、迎えの船を出すつもりでいたらしい。しかし、猟館の金庫が底を尽きかけていることを知っているグラハムは、その出費に首を縦に振らなかった。

 妻の身に不安がないわけではない。

 しかし、聖都とコートウェル湖を結ぶ運河は巡礼航路であり、騎士や狩人の監視、監督の目が行き届いている。なにより、魔物狩りの遠征を控えた時期に狩り手衆に猟館を離れてもらっては困るのだ。慌ただしい時分は、不思議と変事が重なるものとグラハムは知っていた。

 現に狩猟頭のライナスとレオンバルトは街道筋に変事ありとの報せを受け、団を率い、砦を出ている。

 それでも、ドラゴに飛び乗り己の身で妻を迎えに行く気になったのは聖都を出てすぐ、妻とその家人を乗せるため私費で用意していた船が故障したという報せを受けたためだ。どうやらマリアたちはルッシェルの港に戻る平底船に乗せてもらい、郵便貨物と一緒に運河を上ってくるらしい。

 船はまだ来ない。

 波の音を聞きながら、グラハム卿は息をつき、真っ暗な夜闇にたゆたう川面をしばらくの間眺めていた。

 ルッシェルの港は私営ではあるものの整備が行き届き、荷卸しのための艀がいくつも沖に浮いている。港に人の姿はなかったが、倉庫街の傍には盛り場があり、水夫や荷役のための酒場や賭場、色小屋などがひしめき合い、窓からの灯が道に漏れて明るかった。

 グラハムは繁盛している酒場の前を通り過ぎ、その先の間口の狭い店の前で立ち止まった。店には看板がかかっていない。しかし、開いたままの扉の向こうからなんとも言えぬ良い香りが漂ってくる。

 「まだやっているか?」

 「ええ、もう半刻ほどで閉めてしまいますけれど、よろしければどうぞ」

 尋ねると、中から闊達な若い娘の声が返ってきた。

 店の中は案外広い。灰の敷き詰めた炉に炭がくべてあり、それを囲むように丸太椅子が並んでいる。グラハムの他に客はいなかった。老いた父と娘の二人で営んでいる飯屋らしい。寡黙そうな親父が窯に薪をくべ、火にかけた鍋を匙でかきまぜている。

 炉から立ち上る温かな空気が店の中に満ち、肌を包む。

 戸口のすぐ傍の椅子に腰かけると、気の利いた娘が湯を溜めた桶を運んできた。

グラハムは靴を脱ぐと桶の中に足を突っ込み、冷えた指先を温めた。

 「これはありがたい」

 体から力が抜ける。 

 娘は毛巾を持って現れ、

 「お客さん、どこからいらしたの?」

 と和やかに尋ねた。

 「ラ・ルーナからじゃ」

 「まあ、それじゃあ、狩人さん?」

 「そんなところだな」

 グラハムはそう言うと、両の頬に笑窪を浮かべた。その穏やかな面貌に娘はすっかり気を許したらしい。和やかな会話の後、グラハムは娘に葡萄酒と食事の支度を頼んだ。

 ほどなく、窯焼きパンと黄金色のスープが運ばれてきた。小麦の香ばしい香りが鼻腔をかすめ、胸が膨らむ。スープは玉蜀黍――――――それも炭で焼いて焦がしたものが使われているらしい。一口飲むと薪の香りが鼻に抜け、チャイブの風味をまとわせ焼いた舞茸に玉葱の甘味が食欲を引き立てる。

 次に運ばれてきたのは殻のまま薪火で焼いた牡蠣だ。タイムやレモン、ニンニクを混ぜたバターソースが絡んだ逸品で、とろりとした牡蠣の舌触りと炭の香りがたまらない。窯焼きパンはさっくりと軽く、ソースやスープを絡めると、いくらでも腹に入りそうだ。

 「美味いな」

 グラハムは満足げに頷いた。

 窯の前で腕組みをし、火の加減を見ていた親父がこちらを見て、にこりと笑う。その人懐っこい笑顔にグラハムもまた笑みを返した。

 「客がいないのが不思議なくらいだ」

 「少し前までは繁盛していたんですよ」

 娘が身を乗り出す。その不満げな表情にグラハムが目を移すと

 「レティ」

 それまで口をきかなかった父親が娘を制した。

 「だって父さん!」

 娘が悔しげに唇を尖らせる。

 「何かあったのか?」

 グラハムが尋ねるとぐっと唇を引き絞ったレティは

「聞いていただけますか、ラ・ルーナの狩人さん」

 と言って身を捩った。

 父親は、今度は止めなかった。

 「狩人さんはサミュールを御存知?」

 「ああ、知っている」

 「父はサミュール出身なんです」

 サミュールはルッシェルの町から南へいくらか下ったところにある村だ。近くに川はあるが水嵩が浅く、大きな船を浮かべるには向かない。グラハムは頭の中にところの地図を思い浮かべ、あの場所からここまで食材を運ぶのは大分に骨が折れるだろうと慮った。

 「店の食材は全てそのサミュールでとれた野菜や果物を使っています」

 「どれも絶品であった」

 「父と私の自慢です」

 レティは頬を赤らめ、嬉しそうに笑みをこぼした。

 「そのサミュールがどうかしたのか」

 「サミュールの村には昔から農場を襲う怪物が頻繁に出るんです」

 気候や星巡りの周期にあわせ、魔物や魔獣が村に現れることはよくあることだ。そうした出来事は親から子へ口伝えで残され、農夫たちはそれを忠告と受け取り、逞しく生きてきた。

 当該の周期が巡って来ると畑に魔物除けの石を置いたり、祈り水をまいたり、魔物に農園を荒らされる被害を少しでも減らす努力をしたのだ。これはサミュールだけに限った話ではない。

 「被害が深刻なときは近くの砦の狩人さんたちが退治してくれました」


 農園を襲う怪物は多い。

 作物を枯らし、食い荒らし、土を汚す。

 魔物の根源は人の憎しみや争いである。

 一方、食べ物とは『生きる』ことそのものだ。

 狙うのは当然といえる。

 飢餓や渇きが人をどれほど残酷に醜いものに変えるか奴らは知っているのだ。


 「町で暮らす人たちは魔物による農園の被害をほとんど知りません。魔物が畑を荒らし、汚した土で作った野菜なんて食べられないと平気で言う人もいるくらいですから。だから農園の人々もわざわざ、魔物に襲われたなんて言いふらしたりしません」

 レティは前掛けの裾をきつく掴んだ。

 「それがつい先ごろ、どういうわけか知られてしまったんです」

 二環季ほど前、店で扱う食材が魔物の血に汚染されているという悪評を書きつけた紙が店の軒先に投げ込まれたのだという。

 「紙には、うちで扱う果物には魔物の卵が産みつけてあるとか、食べると腹の中が腐るとかそうしたことが書いてありました」

 その紙は町のいたるところに貼りだされ、時には家の戸口や宿の一室にまで投げ込まれた。中には噂を気にせず店に通う者もいた。しかしそれが毎夜続くとなると、さすがに気味が悪くなる。商人というものはとかく揉め事を嫌うものだ。

 やがて店には客が寄り付かなくなり、親子は看板を下ろして営業するはめになった。

 グラハムのように事情を知らぬ船客がふらりと足を運ぶことはあっても地元客の足は遠のいたまま。思い悩んだ末、とうとう父親は店を畳む決心をしたらしい。

 レティが悔しげに片頬を噛む。

 この店は両親の大切な店だ。店名は死んだ母の名前から『オリビア』とつけた。

 酒場の女主人であった母が生きていればきっと飛び上がって喜んだだろう。

 この店で亡き母を想いながら親子二人、働き詰めの日々を送ってきた。

 頑なな父は妻と自分の故郷であるサミュールの食材にこだわりぬいている。

 今更その心根を覆す気はない。

 娘には父の意地と無念が痛いほど伝わってくるのだった。

 「親切ぶった内容なのが、余計に性質が悪いんです」

 魔物をことのほか恐れる者は多い。その投げ文は日々の不安におびえる人々の心に、巧みに不信の種を蒔き、疑念という黒い染みを産み落としたのだという。

 もう、この町で商売はやっていけない。

 狩人さんが最後の客になるかもしれない。

 そう言ってレティが寂しげに笑った。

 ルッシェルの港では今、噂を鵜吞みにし、サミュール産の野菜や果物の取引を中止している。サミュールの農場主たちはこの決定に悲鳴をあげているらしい。ようやく採れた野菜を売りに出そうにも、買い取ってもらえなければ意味がない。

 グラハムはテーブルの上の空の皿に目を落とした。

 「一つ、聞いてもよいかな」

 「なんでしょう」

 「それまで噂にもならなかったサミュールの魔物について知る者が現れたということは、村によほどの変事が起こったのではないか?」

 人の口に戸はたてられない。

 サミュールが投げ文の主に目をつけられたのには理由があるはずであった。

 すると、それまで黙って話を聞いていた父親が口を挟んだ。

 「弟の話だと近頃は魔物の数が多く、村はその扱いに相当苦労しているそうだ。砦に頼んでもなかなか根絶できないとかで。いくつも畑が潰されて、そりゃもう酷い有様で。人も襲われ、どうにもならないと嘆いていたよ」

 「そうか」

 グラハムは灰青色の瞳を、店主の背中に向けた。

 「しかしね、狩人の旦那。もう俺はここで店を続けるつもりはないよ。娘には悪いがね。評判ってのはどうにもならない。一度泥がついちまった看板は元には戻らねえんだ」

 話を聞き終えると、グラハムは立ち上がった。

 「世話になったな。どうもありがとう」

 荷を背負い、入ったときと同じようにふらりと店をあとにする。

 そのあとは振り返ることもしなかった。

 見送りに出た娘が何か声をかけようとして押し黙る。その両目には諦めの色が濃く滲んでいた。



 朝になって、各地から船が港に到着した。

 サミュールの港は小さいながら、陸路や空路、水路を駆使し、様々な品物が集まってくる。倉庫に集められた品物は艀に移され、運河や湖を渡り、次の町へと運ばれるのだ。

 グラハムは港の外れにある小屋の壁に背を預け、白み始めた空を眺めた。川面を寒風が吹きつけてくる。首巻を締め直したとき、物騒な言葉が耳に入ってきた。

 「襲われた――――――」

 「怪物――――――」

 「人が死んだらしい」

 「沈んだか?」

 それは到着したばかりの平底船の船員と荷役の男たちの会話であった。彼らは桟橋に船を舫うと、紙巻のケムリ草に火をつけ、本腰をいれて話し始めた。

 グラハムは音もなく男たちの傍に寄り、その会話に耳を聳たせた。

 「この川で化け物騒ぎなんて滅多にないことだ。それで?襲われたのは誰の船だ」

 「さあな。ただ完全に沈没しちまったんじゃないかって話だ。重装備を担いだ砦の狩人さん方が現場に向かって飛ぶところを見たよ」

 「運の悪いことだ。可哀想に」

 「化け物に食われながらおぼれ死ぬなんて御免だわな」

 「それよりも川が封鎖されねえかが心配だ」

 「違いねえ。しかし今日は仕事にならねえわな」

 魔物騒ぎが起きると、川の通行に規制がかかる。水物である果物や生花を運ぶ船にとっては大きな損失になるだろう。船主たちは商売に傷がつかないか戦々恐々としているに違いない。

 港には溜息と不安の声が溢れている。

 少しして、運河を管理するハードレイドの砦から正式に全船通行禁止の御触れが発布された。

このとき既に、ジョー・グラハムの姿は港から消えていた。

 船着き場での会話を聞きつけたグラハムはいち早く事態を察知し、騎竜場から飛び立ったあとであった。


 ロマーヌ運河は幅六十間。美しく雄大なその流れは聖都の威光を受け、『太陽の川』とも呼ばれている。その上空を西に向け、グラハムは空を切り裂くように飛んでいた。

 途中、グラハムはハードレイドの砦から駆け付けた狩人の一団に出くわした。

 岸辺に陣幕を張り、急ごしらえの救助場を建てている。

 船の残骸が川面に浮いており、小舟に乗った狩人らがそれらを一つ一つ回収している姿が目に入った。

 グラハムが声をかけると、ハードレイドの狩人たちは相手がラ・ルーナの館主だとは思わず、不審者を追い払うように声を荒げた。

 グラハムはそんな彼らをいなし、狩猟頭らしき男に改めて声をかけた。この男がなかなかにできた男で、グラハムの振る舞いや口調に並々ならぬものを感じ取ったらしい。

 「いかがされましたか」

 ようやく話を聞いてもらえそうだ。

 グラハムが事情を語り、立場を明かすと、ハードレイドの狩人たちは恐縮した様子で陣幕の中にグラハムを招き入れた。そこには川中から拾い上げられた人間の肉塊や、骨の一部が並んでいた。生存者は見つかっていないらしい。

 「襲われた船は二隻。襲ったのは沼鼠と呼ばれる中型の魔獣で、未だ捕まっておりません。館主殿もどうかお気を付けください」

 グラハムは襲われた船の名を聴き取り、深く頷いた。

 被害に遭った船は妻の乗った平底船ではなかった。だが、まだ安心はできない。

 「沼鼠はどちらに逃げた?」

 「おそらく川上に。群れで動いております故、全ての個体を捕まえるには時間がかかると思われます。聖都からロードリアまでの川には鉤網を仕掛けてあります。それより先には達していないかと」

 狩猟頭が端的に答える。

 「分かった。運河には未だ航行中の船があるだろう。様子を見て回る。逃げ遅れた船はどこに向かわせればよい」

 「避難先はロードリア、それからバンブルの港でございます」

 お手を煩わせまして――――――。

 狩猟頭が恐縮するのに

 「なに、お互いさまじゃ」

 気さくな笑みを返し、グラハムは再び騎竜姿となって空を飛んだ。

 そろそろ太陽が姿を見せはじめてもよい頃合いだが、空には薄雲がかかり、川面には靄がかかっている。

 グラハムは高度を下げ、逃げ遅れた船がないかを見て回った。

 なにせロマーヌ川は幅六十間もある大運河だ。船一艘を見つけるのにも骨が折れる。しかし、だからといって小舟一つ見逃すわけにはいかない。

 (無事だとよいが)

 胸の内によぎるのは妻と彼女に付き従う家人たちの安否である。

 (余計な恰好をつけず、ラ・ルーナから船を出すべきであったか)

 後悔しても遅い。妻の乗る船が何事もなく避難先の港に向かっていることを願うしかない。

 そのとき、

 ジャボ――――――何かが水を掻く音が聞こえた気がした。

 慌てて手綱を引くとドラゴが方向を転換し、八の字を描くようにその周囲を飛び回る。

 一瞬のことだ。気のせいかとも思った。なにせ風を切る音が凄まじいうえに、ドラゴのはばたき音でまともに耳が働いていない。しかしながら気にかかる。グラハムは拍車をかけ、高度を低くした。

 鉤爪の先が川面を切る。跳ね上がった飛沫が腰から下を濡らすのも構わずグラハムは低い高度を維持した。川の水は冷たかったが、かえって視界が明瞭になる。濃緑色の濁った水の底に意識を集中させた。ゆったりとドラゴが旋回する。そのとき、グラハムの目に川面に沈む人間の手らしきものが映った。

 考えている時間はない。

 グラハムは竜笛をくわえると、力強く息を吹き込んだ。

 瞬間、ドラゴの両眼が見開かれ、切れ込みのような瞳孔がすいと縮んだ。

 翼が大きく横に広がる。

 急減速したドラゴはドガンッと爆音を響かせながら勢いよく川面に着水した。

 その衝撃の強さたるや、尋常ではない。体勢が悪ければ骨の一本や二本は砕け散ってしまっただろう。グラハムは身を引くし、ドラゴと呼吸をぴたりと合わせると、いとも簡単にその衝撃を受け流した。そうして水柱が立ち上る中、鞍に固定した革帯を素早く外し、寒風吹きすさぶ川の中に自ら飛び込んだ。



 (我ながら、よく見つけだせたものだ)

 水面に顔を突き出したグラハムは意識のない若者を胸に抱き、ドラゴが待つ場所まで泳ぎ始めた。

 勘ばたらきが良かったのか、それとも若者自身の運に導かれたのか。

 (その両方か)

 濁った水の中でチカリと光るものを見たグラハムは、その先に水底に向け垂直に落ちて行く男の姿を見た。腕を大きく広げ、ゆっくりとその体が沈んでいく。体は引きちぎれていない。そればかりか、傷を負った様子はなく、男はまるで眠っているようであった。

 その体を胸に抱き寄せ、引き上げながら

 (運の良いやつ)

 グラハムは口元に小さく笑みを浮かべた。

 着水の命を受けたドラゴは水に体を浮かせ、半身を水面に出したまま制止していた。ドラゴンの血が入っているとは思えないほど、穏やかで愛らしい顔つきをしている。赤紫の長細い舌をペロリと出すと、こちらへ来いと命じなくとも、ドラゴはゆっくりと乗り手に向けて泳ぎ寄って来た。

 (ほう、賢いものだな)

 グラハムは感心しつつ、

 「よし、こちらへ」

 手招きした。

 ドラゴの動きに合わせ、波が打ち寄せて来る。

 しかし、意外なことにドラゴはグラハムの体からあと数丈のところで止まってしまった。グラ ハムが近づこうと体を捩ると、それを嫌うように鋭い歯の隙間から唸り声を発する。

 「どうした?二人も乗せるのは嫌か?」

 金褐色の瞳が真正面からこちらを伺い、長細い虹彩が即座に縮む。

 見ると背中の鱗が逆立っていた。

 これを機嫌が悪い証左と見て取ると、グラハムは鞍についた革帯を片腕に巻き付けた。

 「分かった。ならば、岸まで引っ張ってくれ。ゆっくりとな」

 ドラゴは承知したらしい。グラハムが片足を鐙に引っ掛けると、すぐさま優美な動きで泳ぎ始めた。



 川岸に着くと、幸いなことに男はすぐに息を吹き返した。蘇生と呼ぶほどのものでもない。沈む寸前に意識をなくし、ほとんど水を飲んでいなかったのが良かったのか、目が覚めてしばらくすると男はすぐに口がきけるようになった。

 「このようなつまらぬ身を、わざわざお助けいただいたようで……」

 男はルカ・ヴァレンティと名乗った。

 年若く、目元のくっきりとした青年で言葉の一部に南部の訛りが混じっている。がっしりとした顎に鼻筋はすっきりとして、顔立ちも南部出身者らしい精悍さと素朴さをたたえていた。しかし命の危機に瀕したためか、南部男が本来持つ明朗な気質は、一時失われているようだ。

 生きていることが不思議といった様子でルカは両の手をじっと見つめている。

 「どうした?何やら不服そうじゃな」

 「いえ、そのような」

 はっと目を見開いたルカが姿勢を正す。

 「してルカよ、何故あのような場所で沈んでおったのだ」

 グラハムが問い掛けると、ルカはすいと視線を落としながら答えた。

 「聖都からの船旅の途上、魔物出現の報を聞いた船上が何やら騒がしく、煩わしかった故、船べりでじっとしていたところ運悪く船から投げ出されたのでございます」

 「ほう、災難じゃったな。助けはなかったのか」

 「はい。騒ぎのせいで気づかれなかったらしく、置いていかれました」

 もし、沼鼠の群れが近くを周遊していれば、ルカは真っ先に食われ、散り散りにされていたに違いない。

 「ともかく命があってよかった」

 「はい」

 「ありがたいことじゃ。神の導きに感謝するがよい。そなたの身から発された妙な光がなければ到底救うこと叶わなかった」

 ルカは小さく頷くと、震える手で天に向け祈りを捧げてみせた。

 「さて、これからどうする?私はバンブルの港まで行く。そなたも乗ってゆくか?」

 そう問われると、ルカはグラハムの背後で草を食んでいるドラゴに目を向けた。視線に気づいたドラゴが顔をあげ、口の端から草を落としながら、首を傾げる。その姿にルカは口元を綻ばせながら首を横に振った。

 「ありがたい申し出ですが、ドラゴには触れたこともなく、恐ろしい故やめておきます。近くの家で服を借り、なんとか歩いて帰ります」

 「帰れるのか?魔物が出ている故、危険じゃぞ」

 「構いませぬ」

 頑なに同乗を固辞するルカを見てグラハムは早々に説得を諦めた。

 「そうか。気を付けて行けよ」

 そう言うと、グラハムは拙い足さばきでドラゴの背に跨った。鐙に足をかけるのもままならない。その様子を見てルカが慌てて駆け寄って来た。たちまち、ドラゴの全身の鱗が逆立つ。研ぎぬかれた剃刀のように鋭い鱗がグラハムの長革靴に傷をつけた。鉄糸が仕込まれていなければ足の肉がずたずたになっていたに違いない。

 グラハムは

 「すまぬな。どうも腹が減っているのか機嫌が悪いらしい」

 と、躊躇うルカに笑みを返し、腰の革帯と鞍を繋ぎ合わせる金具に手をかけた。

 「手を借りてもよいか」

 ルカは躊躇いがちにグラハムの支えに回り、鐙に半分だけかけられたグラハムの足を正しい位置に戻した。そうしてグラハムの手から革帯を受け取ると、それを丁寧に縛り直した。

 「ありがとう。陸で上下するはどうも不慣れでな」

 「お気を付けて」

 「そなたもな」

 グラハムはゆっくりと拍車をかけた。 


 男の背中を見送ると、ルカは振り返った。

 河岸は枯れ草に覆われ、眼下にはロマーヌ川の雄大な流れが横たわっている。

 平時は人や物を乗せた船が行き交い、店船なども出て活気に満ちているロマーヌ川だが、今は小舟一つ浮いておらず、静かなものである。靄のかかる水面は黒々として見え、おどろおどろしさすら感じられた。

 意を決し、川べりに足を進めたルカは、

 「父上、お許しを……」

 そう言ってぬかるんだ泥の上に膝をついた。

 手に押し当てたのは、小刀である。それは先程の狩人の荷物から抜きとったものであった。鋭く研ぎあげられた刃を握り、ゆっくりと滑らせる。すると、鋭い痛みと共に掌から血が噴き出てきた。

 「こい、化け物」

 小刀を地面に投げ捨て、握った拳を恐る恐る川面に近づける。今にも、鋭い牙の怪物が水面から飛び上がり、襲い掛かってきそうだ。拳から溢れた血が川面に雫となって落ちかけたそのとき、堤の上からぴゅんっと猛烈な速さで飛んできた塊がルカの側頭部にうち当たった。痛みにうめき声をあげ、ルカはその場に横なぎに倒れた。

 「うっ」

 それはどこにでもある石塊であった。

 飛んできた方向を振り返ると、堤の先に男が立っていた。

 「あ」

 ルカの顔から血の気が失せる。

 ジョー・グラハムは有無を言わさぬ静かな眼差しでルカを見下ろした。そうして、ゆっくりとした足取りで近づくと、竦みあがるルカの襟首を掴みあげ、草葉の上に容赦なく引き倒した。


 「様子がおかしいと思い、戻ったが、まさか死ぬつもりであったとはな」

 グラハムは地面に落ちた小刀を拾い上げ、血の付いた刃先を袖で拭った。

 生き血は魔獣を引き寄せる。

 ルカはこの場に魔獣を呼び寄せるつもりであった。

 みるみる額に汗が浮き出て言葉が詰まる。

 言い訳を口にしようとしたが、ただ喘ぐように吐く息ばかりが漏れ出た。

 「そんなに魔獣に食われて死にたいか」

 グラハムの声は淡々としている。

 「私はここに来るまでに魔獣に喰われて死んだ船員たちの惨たらしい亡骸を見た。あれを見て同じ目に遭いたいと思う者はいないだろう。興味本位ならやめておけ。必要以上に苦しむことになるぞ」

 ルカは視線を落とし、膝の上で拳を握った。

 「小僧、なんとか言え」

 「死にたいわけじゃねえ……」

 「なんじゃ?はっきり申せ」

 「俺は死にたいわけじゃねえ!」

 屹と顔を上げたルカは赤銅色の頬を赤く染めていた。その両目には反抗と情熱の二つの炎が燃えている。

 「では何だ」

 「俺にはやるべきことがあんだ!邪魔すんじゃねえ!」

 「これがそうか?」

 グラハムはルカの手を掴み、深々とついた刀傷を見て眉根を寄せた。痛々しい傷からはおびただしい量の血が噴き出し、枯れ草の上に染みを作っていた。素早く布を巻きつけ、止血する。きつく縛ると、痛みにルカが呻き声を発した。

 「とにかく、そのやるべきこととやらを、ここで達成するのはやめよ。そなたの本懐に周りの者を巻き込むな」

 グラハムは立ちあがった。懐から血の臭いを掻き消すための香油を取り出し、地面に撒く。そうして彼は有無を言わさず、ルカの襟首をつかむとそのまま引きずるように堤を上った。片腕だけだというのにもの凄い力だ。振りほどこうとしても無駄であった。子猫のように襟首を掴まれ、ルカは堤の上に投げ飛ばされた。

 こちらを見下ろす男の両目は冷酷な影を帯びて、灰青色の虹彩が鋭い光を放っている。ルカが負けじと睨み上げると、グラハムはその両目を堤の横に広がる草藪に向けた。

 「この藪の向こうには小さいが、百姓家とその集落がある。このような場所で魔獣を呼べば、どうなると思う?当然、この辺りの百姓たちが迷惑を被るじゃろう。そなたを食い殺した後、勢い込んだ魔獣が集落を襲うやもしれぬ。討伐のために道が封じられ、しばらくは商いどころか外に出ることもかなわぬ。そのこと、少しは考えたか?」

 ルカはさっと頬を紅潮させた。それは怒りのためではない。恥のためであった。

 視線を河岸の向かいの籔林に向ける。

 朝餉の支度をしているのだろう。百姓家から立ち上る幾本もの炊煙が林の向こうに浮かんでいる。鶏声と共に子どもの泣き声もした。姿は見えない。だがそこには確かにこの地に根付く人々の営みがあった。

 (船がないなら、平気とばかり……)

 ルカはガクリと項垂れた。

 恥じ入るように額を覆う。

 自らの思慮の浅さ、視野の狭さに愕然とし、言葉もない。

 そのときグラハムが地面に座り込み、腕を差し出した。手には金物の筒が握られている。

 「あ」

 ルカは靴底を探り、驚きに目を見張った。

 一体いつの間に抜き取られたのか。

 目が覚めたときには確かに、靴底におさめていたはずだ。

 「私の小刀を盗み取る姿に気づいてな……ま、これでお互いさまというわけじゃ」

 グラハムは悪びれることなくそう言って、にたりと不敵に笑った。

 いつどこでどう掏摸取られたのか。思い当たるふしすらない。驚くべき早業であった。

 「ついてこい。バンブルの港まで道中、歩きながら話を聞こう。なんぞ、力になれることがあるやもしれぬ」



 ルカは悄然として、歯向かうことなくグラハムの後ろをついてきた。

 先を歩くグラハムはドラゴの手綱を手に、景色を眺める余裕すらある。川面から吹き付ける風が男の首巻をなびかせていた。前を行く男の大きく、気骨ある背中を凝視していたルカは、重い沈黙を押しのけるように声を発した。

 「俺はサミュールの生まれで、父は農場を経営しております」

 「ほうサミュールか」

 (どうやらサミュールとは余程縁があるらしいな)

 グラハムは今朝の食事と父子の会話を思い出し、顎髭を揉むように掻いた。

 「御存知でしょうか」

 「ああ、知っている」

 ルカの口調はカラリとした南部男のあけすけな物言いから、至極丁寧なものに変わっている。 

 余程堪えたのか、元気がない。

 (素直なやつ)

 グラハムはそんな若者の様子を片目で伺いながら、くつくつと肩を揺らした。

 「ヴァレンティ家はサミュールでは名の知れた豪家です。父は祖父から譲り受けた農場を広げ、作物の加工から運搬までを一手に引き受ける事業を一代で築き上げました。俺はその家の次男で、経営のことは兄に任せ、これまで放蕩の限りを尽くしてきました」

 「弟とはそういうものじゃ」

 グラハムは口元に苦い笑みを浮かべた。

 彼もまた若い頃は各所で乱暴狼藉を働き、父のあと、子爵家を継いだ兄には苦労をかけどおしであった。そのため、グラハムは今でも亡き兄には頭が下がる思いでいる。

 「されど、サミュールで変事が続き、農場の行く末は暗澹たる有様との噂を聞き、放蕩を切り上げ、村に戻りました」

 村に戻ったルカは、また遊び金をせびりに来たと思われた。無論歓迎はされない。

「村は荒廃しきっており、父は金の工面に困り果て、心労のあまり髪が真っ白になっておりました。兄も兄の嫁子も痩せて……借り金の額も膨らみ、そうした家はうちだけでなく村のあちこちにありました。家主が逃げて廃屋と化した家がいくつも残され、サミュ―ルは俺の知っているサミュールではなくなっておりました」

 村にはこれまで、一環季に一度、魔物が現れていた。これは村の婆が語り継ぎ、証立てもある。しかしながら、ここ最近は一環季に六度から八度、魔物の襲撃が起こっていた。

 襲撃が頻発して作付けも収穫もままならず、このままではまともに畑も耕せない。魔物に怖れをなし、小作人が幾人も村を離れた。生計を稼ぐ手も足りず、日々の暮らしに困窮する家は増すばかりだ。

 それだけではない。ヴァレンティ家はところの顔として収税の務めを領主ニコライ男爵より仰せつかっていた。その分、税の取り立てを免除してもらうわけで、収税はヴァレンティ家にとって大切な役目なのである。

 しかしこの年、種子や苗をおさめていた小屋に魔物が巣を張った。そのために村では作付け時期が大幅に遅れ、男爵家に納めるだけの穀物が足りなかった。

 「父は焦り、兄はただ悲観し、祈るばかりで」

 それでも村の顔役であるヴァレンティ家はその責務を果たそうと、村の人々から恨まれながら、穀物を集めきった。だが、今度はその輸送隊が狙われた。

 「護衛のために雇った無頼が何人も殺され、せっかく集めた穀物も無駄に……」

 「領主殿は何をしておる」

 グラハムが尋ねるとルカは片頬を引き上げ、引き攣ったように笑った。

 「御領主のニコライ男爵は当年三歳。御母堂が政務をこなしておられるが、爵位争いで、それどころではないのでしょう。小さな村の魔物騒ぎに関与するつもりはなく、魔物絡みはすべて砦に任せるようにとのこと。その砦も今度の騒ぎは原因が分からず、手をこまねいております。討伐をかけ、巣を潰し、一掃してもまた一環季が過ぎるとどこからか魔物が戻って来るのです」

 ガルレシア南部には砦が少ない。サミュールに最も近い砦はエゾ砦だが、担当する狩猟域が広範で、その力には限りがある。それに狩猟団を雇うのにはどうしても金がかかる。サミュールの村にそのような余力はもはや残っていなかった。

 ルカは手の中の筒を握りしめた。

 「今サミュールに残る者たちは先祖から受け継いだ土地を離れる気はないのです。俺の父も含めてね。どれだけ村や家が食いつぶされても、逃げることなんて考えていない。どうしようもない田舎者ばかりだ。俺は考え抜いた末、父の代わりに聖都に行き神撰騎士団に助けを乞うことにしたのです」

 神撰騎士団とは聖都で結成された魔物祓いのための騎士組織である。グラハムから見れば急ごしらえの素人くさい一団だが、その見目の華やかさと寓意的象徴性が芸術家や詩人の目にとまり、人気を集めているらしい。何しろ魔物を信仰の敵と断じ、無償奉仕を約束しているのだ。人気が出ないはずがない。

 (聖教府も票取りに必死じゃな)

 まもなく枢機卿任命の宣旨が降りる。グラハムには静謐な神の膝元で絡み合う人間同士の思惑と虚栄が目に見えるようであった。

 「神撰騎士団は俺の訴えを聞いてくれました」

 「聞いただけ、か?」

 返事はない。

 しかしその沈黙こそが答えであった。

 おそらく、神撰騎士団は窮状を訴えるルカに遠まわしに多額の寄進を求めたのだ。

 騎士も聖職者も結局のところは人だ。霞を食って生きているわけではない。無償奉仕と言えば聞こえはいいが、その実、騎士団には各所から寄進という名目で金品が届いているはずであった。寄進がなくば動かぬということはないだろうが、そこは人の性ともいうべきか優先度合が変わってくる。

 ルカが握りしめる金物の筒には神撰騎士団から渡された祈り札が入っていた。

 装飾の派手な色紙に美しい刻み文字が彫られている。

 これは神撰騎士団がすぐさまサミュールに派遣されることはないという無言の宣告に違いなかった。

 


 恨み言の一つでも吐くかと思ったが、ルカはそれきり言葉を発さなかった。

 聞けば齢十七。体躯は細いが腰つきが頑健で手足は長く、その足運びからおそらく長い間剣戟を学んでいたものとグラハム卿は見て取った。

 (もったいない。このように意気盛んな若者が故郷を救う手立てを断ち切られた辛苦のために、自死を望むのか)

 グラハムは考え、

 (いや、そうではあるまい)

 すぐに自分の考えを否定した。

 ルカ・ヴァレンティの目には力がある。何かを諦めた者の目ではない。寧ろその両手でつかみ取ろうとする者の目だ。水底のように暗く、決して明るいものではないが、そこには確かにその身を削るほどの一光の如き覚悟が窺えるのである。

 歩調を落とし、横目で見やるとルカは発達した顎の筋肉を引き締め、大きな瞳を見開いたまま地面を凝視しながら歩いている。

 (危ういのう)

 グラハムはルカの背をそっと叩き、前を向かせると灰青色の瞳を空に向け、深く思案を巡らせた。



 やがて行く先にバンブルの港が見えてきた。

 横長のなだらかな丘上に豪奢な白い石壁がつきたち、緩やかな丘の麓まで煉瓦壁の家がひしめき合っている。その佇まいは鮮烈で、川べりに突如として現れる港湾は壮観ですらあった。

港には魔物襲撃の報を受け、避難してきた船がこれでもかと押し寄せ、船着き場は帆で埋め尽くされていた。

 見ていると、水門からすいと飛び出してきた幾艘もの小早船が船と船の間を器用に進み、停船中の船に向け菓子や果物などを売りつけている。中には歌や大道芸を披露する船などもあり、芸を見せると船から拍手と歓声があがり、小早に駄賃が投げ込まれた。さすがに避難港に指定されているだけはある。港に悲壮な趣はなく、人々は魔物の出没すら商機と見て活気づく、したたかさを身に着けていた。

 バンブルの港にも駅場が備わっている。世話役にドラゴを預け、グラハムは港都に足を踏み入れた。

 門をくぐり、さてどうするかと辺りを見渡していると、

 「だ、旦那様!」

 人垣の向こうから老爺が叫び声をあげながら転がり出てきた。

 「おお、オリバー無事であったか」

 ソルフェージュ家の元家令で、侍女のアーリと共にマリアの世話を焼いている爺である。色が白く、皺深い顔に真っ赤な頬をした愛くるしい見た目の小男で、オリバーは矮躯を跳ねるように走らせると、グラハムの腕を両手でがしりと握りしめた。

 「マリアはどうした?」

 「お嬢様もご無事にございます。今はバンブルの、ええ、あの丘上の〈青玉〉というお宿にご宿泊を。ああ、ようございました。旦那様がいらっしゃれば、ひと安心。お嬢様もどれだけ心強く思われるか。魔物が出たと報せを聞いたときはもう恐ろしゅうて恐ろしゅうて。さあさ、お早く。旦那様と会えばきっとお喜びになります」

 オリバーが有無を言わさず腕を引き、丘上に続く階段道を上ろうとする。グラハムはそれを緩やかに制した。

 「待て、オリバー。皆が無事ならよい。今は連れがおる故、あとで行く」

 「そんな!」

 オリバーはそこでようやく、グラハムの背後で手持無沙汰に突っ立っている青年の存在に気づいた。

 「ちょうどよい、この者に服を用意してやってくれるか?怪我をしている。医者も呼んでくれ」

 するとグラハムの声が耳に入らなかったのか、オリバーはあんぐりと口を開け、今度はルカの腕を強く掴んだ。

 「なんと!生きておられたのか!」

 何がなんだか分からない。

 グラハムは当惑の表情を浮かべ、驚くルカとオリバーを交互に見やった。



 話はこうである。

 ルカ・ヴァレンティは偶然にも、グラハムの妻マリアと同じ船に乗り合わせていた。

 聖都に野菜や果物、家畜を運ぶ平底船である。行きは商品を乗せ、帰りは聖都からの荷物、時には人を乗せることもある。船に乗り合わせた客は多かった。その多くは聖都への巡礼を終えた聖教徒である。船の甲板は人や物であふれ客の荷物で足の踏み場もなかった。。

 バンブルの港を出てすぐ、魔物騒ぎが起きた。その報せを通りすがりの商船から聞いた平底船の船長はすぐさまバンブルの町に向け引き返すことにした。

 「船が進路を変えようとしたその折、酷い船酔いに見舞われていたアーリが、運悪く欄干から転げ落ちたのでございます」

 水に落ちたアーリは恐怖のあまり惑乱した。すぐさま櫂が差しだされたが、恐慌に陥った女はそれを掴めない。必死にもがくが、ドレスが水を吸い、身動きがとれなかった。次第にその身体が船から離れ、川下へと流されてゆく。

 船の上は大混乱となった。

 「マリア様が飛び込もうとなされて、それをお止めするのに精いっぱいでございました」

 しかしながら彼女の他に川に飛び込もうとする勇気ある者はいなかった。

 何しろ川に魔物が出ると知ったばかりである。ロマーヌ川の水面は濁って、底を知ることはない。時折現れる魚影や藻の動きが魔獣の影に思え、ちかりと光った水面の反射が魔獣の眼光に見えてくる。旅慣れた水夫でさえ、川面を怯えた眼差しで見つめるばかりで、彼女の体が櫂の届かない位置まで流されると、彼らは呆然とその姿を見送った。

 やがてアーリの体は深淵に引きずり込まれるように沈みはじめた。水からなんとか顔を出し、彼女は悲鳴をあげている。

 空へ伸ばされた腕が虚しく宙を掻いたそのとき、船の欄干を軽々と飛び越えた者がいた。

 躊躇なく川に飛び込んだその若者はアーリを後ろから抱き上げると、その体を下から支え、一気に船のそばまで泳ぎ寄った。アーリは乗客たちの手で勢いよく引っ張り上げられ、船の中に担ぎ込まれた。

 「本当になんとお礼を申し上げればよいか」

 オリバーはそう言って腰を折り曲げた。

 「あのあと、アーリの介抱を皆でいたしました。しかし、気づけば恩人様の姿が船の上から消えているではありませんか。確かに、自力であがってくるところを見たという者もおりましたのに。消えてしまった貴方様の安否を心配し、お嬢様はなんとしても探しだすつもりでいたのですよ」

 ルカが船の上から忽然と姿を消した後、その荷物の上に書きつけが置いてあるのを水夫が見つけた。紙には、自分亡きあとは亡骸の一部でもいいから故郷サミュールの神の御身に最も近い場所におさめてほしい。といった内容の文面と名前が記されていた。

 遺書のようにも見えるが、『旅は死』、道中魔物に遭遇し、志半ばで命を落とすことが多かった時代、旅人がこのような書きつけを持つことは珍しくなかった。

 どうやらマリアは信頼する侍女の命を救ってくれたルカを、生死問わず見つけ出すつもりでいたらしい。

 「ご自分の命を投げ出してまで、我が邸の家人をお助けくださったこと本当に感謝してもしきれません。生きていてほんとうにようございました」

 人のよいオリバーが目の縁に涙を溜めて破顔する。しきりに感謝を口にするオリバーに握手と抱擁を求められ、ルカは居心地悪そうに俯き、頭を掻いた。

 (船から投げ出され、見捨てられたと聞いていたが、どうも話が違うようじゃ)

 グラハムは顎に手をあてた。

 何のための嘘か。

 考えを巡らせる。

 次第に頭の中で点と点が符合し、繋がっていく。

 「オリバー、家人が世話になったと聞けば捨て置けぬ。この者を宿に案内してくれるか」

 「ええ、もちろんでございます。お嬢様がお喜びになるでしょう」

 家令という固い立場にありながら、オリバーはふわふわと浮き立つような足取りで階段をのぼりはじめた。



 ルカ・ヴァレンティは肩を並べて歩く男の横顔をさりげなく上目に眺めた。

 (不思議な御仁だ。どこの誰で何をしているのか、ちっとも掴めない)

 所作や口調から高貴な出自らしいことは分かる。

 (旦那様と呼ばれていた。つまりあのご婦人の夫ということだ)

 それにしてはかなり年嵩であった。父よりもずっと年上だろう。

 背に負っている荷物から短槍の柄が覗いているが、ドラゴに乗るときの、あのもたついた動き。あれは凡夫そのものであった。石塊を投げつけられた瞬間は恐ろしい人だと思ったが、こうして見ると人品の良い老爺にしか見えない。

 一体何故自分は生き延び、この見知らぬ男と共に歩いているのか。妙な巡り合わせのためとしか思えないが、命を救われたことを恨む気持ちはない。寧ろ、嬉しかった。

 船の上から身を投げ、ロマーヌ川に浮かんで死を待っていたとき、心は受け入れても体はどうしても生きようともがき、長い間冷たい水の中で意識を保っていた。泳ぎ疲れ、意識が遠のき、体が沈み始めたとき日の昇り始めた空を掻くように腕を伸ばし、最後の最後まで彼は足掻き続けた。

 (あのとき俺は確かに死にたくなかった)

 ルカは己の不甲斐なさを恥じるように目を閉じた。


 ルカ・ヴァレンティは己自身に科した使命を全うせんとしていた。

 死にたいわけではない。死ななければならないのである。

 その覚悟はとうにできていたはずだ。そのはずが、今になってその決心が揺らいでいる。

 『死を以て封じよ』

 古代語の一節を口の中で唱えると、ルカは強く唇をかみしめた。

 


 『青玉』はバンブルの町の由緒ある宿屋であった。

 さすがに老舗らしく、宿の主人は水に濡れて現れた二人を嫌な顔一つせず迎え入れた。

 「『死を以て封じよ』か」

 浴室を借り受け、着替えのため濡れた胴着を脱ぎ捨てたルカにグラハムは声をかけた。驚いた顔のルカが丸い目をこちらに向ける。扉から忍び入る気配に気づかなかったらしい。それよりも彼の驚きは、

 「古代語を御存知なのですか?」

 このことであった。

 「大昔に教わった。しかし出来が悪かった故、教える側が音を上げた」

 恥じ入るように笑うと、グラハム卿はルカの腹部を指さした。

 「その腹の傷は古代生贄術のものじゃな」

 草臥れたシャツの隙間から腹の肉を覆う赤黒い蚯蚓腫れのような傷がはっきりと見て取れた。 

 咄嗟に隠そうとしたが遅い。

 ルカは諦めたように肩を竦め、紐を解くとその傷を露わにした。

 蚯蚓腫れのような傷は腹から背中にかけて続いているらしい。その傷に沿うように細かな文字と紋様が彫られている。特殊な顔料を用いた墨であった。

 なめし皮のように鍛え抜かれた若者の張りのある赤銅色の肌に、落書きのような墨のあとが続いている。傷は赤みを帯び、それがつい最近になって刻まれたものと知れた。

 「生贄術まで知っているとは。一体何者なのですか?」

 「それはこちらが訊きたい。その術、どこで学んだ?」

 ルカは口を閉ざした。

 「答えぬか。まあ、よいわ」

 グラハムは胸の前で腕を組んだ。

 生贄術とは死後、魂の抜けた骸を護符とする古代の秘蹟である。命を用いた一種の〈篭目〉であり、古い時代、魔物を恐れる人々の救済のため遠国の僧侶によって編み出された。自己犠牲の究極。『大いなる自殺』ともいわれる。

 それがいつしか形を変え、子供や罪の無い女の命がことさらに奪われるようになり、そのあまりの残虐さから聖教府によって禁じられた過去があった。

 「ルカよ、そなた自ら生贄となり、故郷を救うつもりか?」

 「愚かなことと嗤いますか」

 腹の傷に手をあてルカが自嘲する。

 「いや、嗤わぬ。ただ、そなたのような若者がこのような形で命を賭けねばならぬことが悲しい」

 灰青色の瞳がまっすぐにルカの顔を見つめる。

 ルカは唇の端を歪めるようにして笑った。

 「金のない者に救いはない。そのことが此度のことでよく分かりました。これより他に、故郷を救う手立てはございません。この命一つで救えるなら安いものです」

 グラハムは決意を満ちたルカの顔から視線を逸らせた。

(危うい)

 まるで鋭く研ぎ澄ませた尖剣のような危うさである。振り下ろす方向を間違えればたちまち折れてしまうだろう。

 グラハムは小さく溜息をつくと、鏡を張った向かいの壁の一角にちらりと目をやった。

 「生贄術が流行らぬよう聖教は自死を禁じておる。そのために、そなたは船から身を投げ、魔獣に殺されようとしたのじゃな。人助けの結果であれば自死ではない……か。まさか船の上の者たちも人助けをした勇敢な若者が自殺志願者だとは思うまい」

 自死者は聖教の決まりによって聖教の管理する土地に埋葬されることはない。それを恐れての工作だろう。

 生贄術は篭目の中でも極めて強い効果があり、骸に宿ったその力は肉体の死後もその土地を守り続けると信じられている。故郷を魔物の襲撃から守る篭目となるため、サミュールに埋葬される必要があったルカは自死者だと思われるわけにはいかなかった。そこで考えに考えた末、それらしい死に方を探したのだ。

 「しかし生きて魔物に食われずとも土に還る方法はいくらでもあろう」

 グラハムが呆れた声を出すと、ルカは首を横に振った。

 「サミュールの村には聖墓廟がございます。あの場所だけが村で唯一、不可侵の場として砦の狩人の目を免れているのです。おそらくサミュールを狙う魔物はあの墓廟から現れている。であれば贄となった俺の墓は聖墓廟の近くに置く必要があるのです」

 「なるほど、聖墓廟か」

 砦に手が出せないはずである。

 聖墓廟に埋葬されるのは聖者。それも聖父に認められた歴史ある高徳者である。その墓を暴き、ましてそこに魔物が巣を張っていたなどということになれば、聖教府の沽券にかかわる。

 (エゾ砦が手をこまねく理由が分かったわい)

 灰青色の瞳が稲妻のごとき光りを宿す。

 「魔物に喰い荒らされ、細かく砕かれた体であれば、この生贄の紋も誤魔化せ、ちょうどよいと思いました」

 「聖教府といえど、人助けの結果魔獣の犠牲となったとなれば文句は出まい。勇猛な信徒として聖墓廟のそばに埋葬するくらいは許可するじゃろう。その証言者に我が妻を使うつもりだったわけか」

 なるほど、即席だがよくできた計画だ。

 マリアの社会的な地位を鑑みれば、聖教府から異論は出なかっただろう。

 彼女の善性を信じれば、ルカの体が肉塊や骨の欠片となっても探し出し、その望みである『サミュールの神に最も近い場所』つまりは聖墓廟そばへの埋葬に尽力したに違いない。

 「とんだ博打じゃな」

 グラハムはそう言って肩を竦めた。

 「魔獣に襲われれば、骨の一欠けらすら残らぬ者も多い。結局見つからず埋葬できねば、無駄死にではないか」

 「ええ。今思えば、大博打でございました」

 ルカはそう言って初めて満面の笑顔を見せた。十七歳の、青年らしい朗らかな笑いである。

 「ですが今度は違います。こうして、言葉に出してようやく胸のつかえがとれました。貴方にならこの躰、お任せできる」

 いつの間にか、ルカの手の中にナイフが握られている。果物を切り分けるためのもので、宿にあったものを拝借したらしい。

 グラハムは苦り切った顔で舌打ちをした。

 「何者か知ることは叶いませんでしたが、ここまで聞いて、むざむざお見捨てになるような方ではないとお見受けいたしました。ただこの体をサミュールの聖墓廟に運んでくださるだけで結構です。どうか、お力添えを―――――――」

 ルカがナイフの切っ先を首筋に当てる。その瞬間、グラハムは稲妻の如き速さで動いていた。

「あっ」とルカが驚き、身を引いたときには、その手の上からナイフの柄を握り、止めている。そうして身を屈めると、踏み込み様に猛烈な打撃を無防備となった鳩尾にくらわせた。

 一瞬で意識が飛んだのか、ルカの体が崩れ落ちる。

 それを片腕で抱きとめ、グラハムは息を吐いた。

 「まったく、油断も隙もない」

 ナイフを床に放り捨てる。

 鏡越しに見て気づかなければ、おそらく間に合わなかっただろう。

 グラハムは伸びきったルカを床に転がし、

 「どうしたものか」

 そのあどけない寝顔を見下ろすと、むきだしの額をぺしんと打ち据えた。




 ルカが目を覚ましたのはその日の夕刻であった。大きく取られた窓からは西日が迫り、ワタリガラスが鳴いている。驚いて飛び起きると、腹に妙な違和感と痛みがあった。医者が呼ばれたのか掌の傷に治療が施されている。

 一体どれほど眠っていたのか。

 「確か着替えをして……」

 その瞬間、喉に当てた刃の冷たさと、猛烈な勢いでこちらに向かってきた悪鬼のごとき男の姿を思い出し、ルカはその場に凍り付いた。腹の一撃は重く、気を飛ばしたことまでは覚えている。しかしその後のことは記憶にない。

 寝ている間に着替えは済まされ、ルカは柔らかな絹のシャツと真新しいリネンの腰巻を身に着けていた。枕元には香が焚かれ、芳しい香りがしている。

 「お客さん、お目覚めになられましたか」

 しばらくして宿の小女が水差しの乗った盆を手に現れた。

 「随分と具合が悪かったようですねえ」

 物柔らかな小女はそう言って、胸襟の内側から畳んだ紙を取り出した。

 「こちらを、目覚めたらすぐ渡すよう、ジョー・グラハム様より言付かっております」

 「ジョー・グラハム?」

 「あら、お連れ様ですよ」

 知らないのかと不審がる小女にルカは苦笑いを返した。

 「船から落ち、水を浴びたとか。体の具合がよくなるまで面倒をみるようにと仰せつかっております。お代はきちんといただいておりますので、どうぞごゆるりと」

 小女はそう言って部屋を出ていった。

 手渡された書きつけを開く。そこには流麗な文字で

 『ルカ・ヴァレンティ。死ぬには惜しい。今一度サミュールに戻り、ラ・ルーナの砦へ討伐依頼を出せ』

 と書かれてあった。

 「ラ・ルーナ……」

 ルカは眉根を寄せた。

 ラ・ルーナはコートウェル湖の北に位置する砦である。名前を聞いたことがあっても馴染みはない。それに南の地にあるサミュールとは百五十里の距離がある。

 何故ラ・ルーナなのか。

 その問いをぶらさげながら、書きつけの裏を見た。

 同じ筆致で古代詩の一節が走り書きされている。

 『勇猛を以て魔を討たん』

 古代語を解するルカにはその一節ですぐさま、とある詩篇が頭に浮かんだ。


 死を以て封じよ。

 勇猛を以て魔を討たん。

 我、月影を射殺す狩人なり。

 そなたの敵は我が隊をもって討ち滅ぼす。



 ジョー・グラハムは船べりに体を預け、コートウェルの湖面を浮かない表情で眺め下ろしていた。と、いうのも八環期ぶりの再会だというのに、感動もなにもなく、妻とは未だまともに顔を合わせることすらできずにいたのだ。

 マリアは、問答無用で恩人を打ち据えた夫を許していない。事情を明かしても、女の情とは恐ろしいもので、青白い顔で寝所に運ばれ、呻き声一つあげないルカの姿を見て、マリアは夫の短慮に怒りを発した。今は船の一室にこもり、夫が船室に近づくことすら許さない。

 「奥の様子はどうじゃ」

 篝火の下、傍に寄って来た男にグラハムは声をかけた。

 「お元気そうでございました」

 「そうかよ」

 グラハムが苦い顔で舌打ちをこぼす。

 ライナスはすっかり不貞腐れた館主の横顔にふっと口元を綻ばせた。

 一同が乗る船はラ・ルーナから届けられた。乗ってきたのは狩猟頭のショーン・ライナスである。

 グラハム卿がドラゴに飛び乗り、単身妻を迎えに行ったと聞き、ライナスは驚いた。ちょうど街道筋に現れた魔物の対処に当たっていた折のことである。

 しかし、そこまで大ごとになるとは思っていない。ロマーヌ運河は太陽の川。常日頃冷静で慎重な狩猟頭も安全と嵩を括っていた。

 そんなライナスのもとに『太陽の川魔物出没の報』が届いたのは、狩りの帰途についた頃であった。ライナスは砦に戻るとすぐさま下知を発した。館主不在の折、館の指揮権をどうするかは既に決めてある。就任直後の『館主行方不明事件』を教訓としたもので、『船で館主とその奥方を迎えに行く』というライナスの判断は迅速で、行動も早かった。


 隣に立つライナスを見て、グラハムはますます不機嫌な顔になる。

 (猟館の手の者を煩わせた。こんなことなら最初から迎えを頼むべきであった)

 とは思うものの、過ぎたことは仕方ない。

 グラハムは悩むことはあっても、長雨のように陰気に過去を顧みることはしなかった。


 「それで、どう思う」

 船の欄干に背中を預け、グラハムは尋ねた。

 ライナスは生真面目な顔を一層固くして

 「今から遠征先を変えるのは苦労いたします。色々と」

 固い答えを返した。

 「で、あろうな」

 ジョー・グラハムは港についてすぐのライナスを呼び寄せると、サミュールの話を語り聞かせた。話を聞きながら、ライナスは館主の心の内をすぐさま見抜いた。


 サミュールに狩猟団を送る。


 その決定を下すのが是か否か。決めるのは館主だ。それでもライナスは異を唱えた。

 心の内ではサミュールの農夫らに同情している。だが既に次の遠征先は決まっているのだ。相手は二つ名持ちではないが、相当に手強い魔物で、この魔物が現れるために街道が一つ潰れていた。

 どちらを優先するか。それはどちらかを後回しにすることに他ならない。

 「何より、その男の申す話が本当であれば、聖墓廟が火元とは厄介でございます」

 「うむ」

 聖墓廟には聖者が埋葬されている。高徳な聖者は魔をはねのける力があるとされ、これは聖教の信仰の拠り所の一つであった。つまり聖教府にとっては聖者の墓を暴きたてた挙句、中に魔物が巣食っているという事実は相当に不都合なのである。

 「討伐しても、世間に喧伝するわけには参りませぬ」

サミュールに金銭的余裕はない。おそらく金符は見込めないだろう。そのうえ、聖教府の顔色を窺いながら、秘密裡に狩猟団を動かす必要がある。ラ・ルーナには何一つ得がない話であった。

 「館主様の就任来初めての外狩遠征でございます。盛り立てようと準備していたグリンジャーは落ち込みましょう」

 グラハムに心を寄せているマーカス・グリンジャーは館主の初の遠征を華々しいものにしようと手を尽くしている。狩りの報にラ・ルーナとジョー・グラハムの名を刻み、国中にその威光を知らしめたい。そんな意気すら感じられる熱の入れようなのだ。

 グラハムは嬉しいような困ったような、そんな笑い顔を浮かべ、

 「俺の威光など、どうでもよいわ」

 砕けた口調でそう言うと

 「狩りの功労者にタダ働きはさせぬ。金符はこちらでなんとかしよう。それにな、サミュールを救うはなにも博愛の心を思い起こしたからではない。考えあってのことじゃ」

 グラハムはその考えをライナスに明かした。




 サミュールから討伐依頼が届いたのはジョー・グラハムが砦に戻って五日目のことである。

グラハムはバンブルの町に、行きに使ったドラゴを残しておいた。宿の者にもそのことを言いつけてある。ルカはその意を汲み、飛竜の背に跨り、空を駆け、サミュールの村に帰った。そのため依頼書きは予想よりも早く届いた。

 依頼書きを持って現れたルカをグラハムは見ていない。

 しかし、その騎乗姿を見た狩り手たちは息を呑んだという。

 ドラゴに騎乗するのにはコツが要る。鞍に腰を乗せているだけでは尻と内腿の皮がずる剥けになる。膝に力をこめ、ドラゴの呼吸に合わせ腰を浮かせたり沈めたりする必要があるのだ。慣れないうちは膝や腿が震え、走ることはおろか歩くことすら難しい。

 しかし農村出身であるはずのルカは鐙に足をかけ、すっくと腰を立たせ、ドラゴに不審を与えることなくその身を一つにして飛んでいた。一体どこで学んだのかと聞けばヴァレンティ家は穀物の輸送にドラゴを使っていたらしい。

 狩人たちからその報告を聞いたグラハムは

「あやつ、やはり乗れたか」

 それだけ言って、あとのことは館の者に任せた。

 しばらくの間、ルカはラ・ルーナの猟館に留め置かれた。




 ルカにとって初めて目にするラ・ルーナの町は喧噪と活気に満ちていた。

 「美しいな」

 見ていると南部生まれの明るい気性が息を吹き返す。

 猟館から見るラ・ルーナの町は窮屈なほどに小さな家々がひしめき合い、傾斜のきつい道を駄馬が行き交う姿がよく見えた。荷車が道を封じて喧嘩騒ぎが各所で起き、その度に人々が囃し立て、血の気の多い連中が歓喜の声を上げる。港には船が溜まり、空を見上げれば群れと見紛うドラゴの集団が優美に空を舞っていた。

 サミュールへの遠征は依頼書きが届く前から決まっていたかのように進んでいる。

 (おそらく決まっていた)

 ルカはそう見て取った。

 館主に挨拶を願いたいと申し出たが、ラ・ルーナの主は不在らしい。

 代わりに館主の妻がルカを迎えた。

 その人は細身で色が白く、百合の花のように見えた。

 肌にぴたりと合った黒いドレスの胸元には聖教徒の証である貝を模した首飾りが覗いている。   

 モーヴ色の瞳が優しげな光をたたえ、その目の縁には深い笑い皺が刻まれていた。

 「マリア・グラハムです。船の上では家中の者を助けていただいたこと、感謝いたします。そして、先日の夫の非礼どうかお許しください」

 丁寧で凛とした挨拶にルカはどぎまぎし、情けなくもへこへこと頭を上下に振ることしかできなかった。そんなルカの姿をマリアは微笑ましげに見つめると、彼を午後の茶会に誘い出した。







 猟館を出立し、いち早くサミュールの村に辿り着いたのは狩猟頭のグリンジャーが率いる狩猟団であった。ドラゴ七頭を引き連れ、村の中心部に降り立ったグリンジャーはヴァレンティ家の庭に、積んできた荷をおろし、陣屋を設ける支度を整えた。食料に水、弾薬をヴァレンティ家所有の邸に運び込む。

 そうして自分は精鋭三人の狩り手と荷役一人を引き連れて村の様子を見て回った。

 エゾ砦の狩人から届けられた報告書の通り、屈強なラ・ルーナの男たちが一時言葉を失うほど、サミュールの現状は悲壮を極めていた。

 「聞きしに勝る有様だな」

 グリンジャーは眉根を寄せた。

 村の案内役はヴァレンティ家の長男ヨハンが任された。ヨハンは色の白い、薄弱な男で、弟のルカとは似ても似つかない。神経質な目と鷲鼻が印象的な美男子であった。グリンジャーが挨拶をすると彼は無言で会釈をし、先頭に立って歩き始めた。一同は魔物に腹を食われて死んだらしい家畜の腐った死骸を横目に、焼き払われた畑の中を進んだ。

 「燃やしてどうにかするしかありませんでした」

 ヨハンがぽつりと呟く。

 黒く焼け焦げた大地がどこまでも、どこまでも続く。いがらっぽい空気が漂い、風に灰が舞って、雪が降っているようであった。

 枯草の中に死んだ小動物が無数に転がっているのが見える。炭化したそれはいまだに燻り続けているのか、生臭い煙を吐いていた。

 農場に人はいない。

 サミュールの領主ニコライ男爵は砦の報告を受け、「一時農園を捨てよ」と土地の農夫らに命じたらしい。そのため、畑の中を進む狩人の一団に目を止める者はいなかった。

 「む……」

 グリンジャーが遠くの一点を見据え頬を引き締めた。

 「あれが、聖墓廟か」

 だだっ広い荒野の向こうに石組みの小さな井戸のようなものが見える。近づくとそれは地下に続く階段であった。崩れた遺跡のようだが、アーチ状の屋根の柱に聖教のシンボルが刻まれている。

 「あまり不徳なことはしないでくださいよ。この場所はサミュールで最も神聖な場所なのですから」

 ヨハンが剣呑な声を発する。

 どうやら彼は敬虔な聖教徒らしい。聖墓廟に向けて跪き、祈りを捧げる姿は堂に入り、まるで長年修行した聖職者の如き厳格さであった。

 グリンジャーは複雑な顔をして、癖のある髪を掻き上げた。

 そのとき、

 「そこで何をしておられる!」

 甲高い声が狩猟団を鋭く一喝した。

 振り返れば、白い司祭服を纏った背の高い痩せた老爺がこちらに向けて走ってくるのが見えた。手足は棒切れのように細く、今にも折れてしまいそうだ。しかし杖をつきつつ走る姿は矍鑠として元気なものである。頭頂部は禿げ上がり、もみあげのあたりに薄く白いものが固まっていた。

 「アントニウス司祭様です。このあたりの教区を束ねていらっしゃいます」

 ヨハネが紹介する。

 アントニウス司祭は狩猟団の前で立ち止まると、杖を無造作に振り上げ、グリンジャーの胸板に叩きつけた。

 「ここで何をしておるのか!神聖な聖墓廟の前だぞ!武器を持ち、火薬の匂いをさせるなど言語道断!」

 グリンジャーは杖を振り払おうともせず、悠々と答えた。

 「サミュールの村に出る魔物の調査をしているだけです。まだ何もしておりません」

 「なに?とにかく!触ってはならん!ここには聖者様が眠っておられるのだ!その眠りを妨げることは誰であろうと許されん!」

 「されど、魔物が」

 「不敬な!この地の魔物を封じ、妨げるため、聖者様が眠られておるのだ。その身体には神の息吹が宿り、サミュールの地を常に清らかな光で守ってくださる。聖墓廟に触れることは我ら聖職者であろうと、禁じられておる。立ち去れ!」

 アントニウス司祭の圧におされ、グリンジャーは一歩後ずさった。

 仕方ない。ここで土地の者と揉めるわけにはいかない。

 グリンジャーは短い祈りを捧げると、大人しくその場を後にした。荷役の男が、背に負った荷物を抱え直す。男はさりげない仕草でグリンジャーのそばまで寄ってきた。

 「旦那、どうします?」

 「夜のうちにまた来よう。そのときは頼むぞ、兎」

 兎は小さく頷くと、頭巾を深くかぶり直した。




 夜の闇の中を二つの影が駆け抜けていく。

 月のない夜だった。

 小さなランタンを手に、グリンジャーは闇のなかを目の前の男の背中を頼りに走った。

 闇に沈むサミュールの村はあまりにも静かで、命の気配が一つも感じられない。

 空気は湿り気を帯び、妙に生暖かった。

 やがて、前を走っていた兎が音をたてずに静止した。ランタンをかざすと、そこは昼に見た聖墓廟の入り口であった。

 「嫌な感じは……確かにするな」

 グリンジャーは大きな鼻をひくひくと蠢かせた。

 昼間は感じなかったが夜になって風向きが変わったのか、埃と油が混ざったような不快な臭いがする。酒精と樹液に似た甘い匂い――――――そしてこの鼻を突く腐敗臭は。

 臭いの正体を確かめようと大きく息を吸い込もうとしたグリンジャーを兎がどんと突き飛ばす。

 「旦那、嗅ぎ手でもねえのに余計な真似すんな。吸い込み過ぎるとゲロ吐くぞ」

 野良着姿に巻脚絆と手甲をつけた兎は膝を曲げ、地面に手をついた。

 徐に頭巾を外す。

 現れたのは昼間の男と同じ顔ではなかった。

 目が細く、鼻は高く、唇は血のように赤い。僅かに開いた薄い唇から、尖った細かい歯が覗いている。

 兎は地面に鼻先を近づけた。

 途端、細く引き延ばされた両目が喀っと見開かれる。

 「どうだ、兎」

 グリンジャーが尋ねると、兎は顔を上げ、

 「居るね。でかいよ、こいつは」

 そう言ってにやりと笑い、尖った歯を見せつけた。








 「そうか、いたか」

 宿の一室で、報告を受けたグラハムは正装をとき、大きく息をついた。報告に現れたのは狩猟頭のライナスである。

 「兎の話では相当大きな蟲だそうでございます」

 「蟲か……」

 グラハムは椅子に体を預けると、

 「根絶やしにするには時間がかかるな」

 と言った。

 ライナスも頷きを返す。

 蟲は魔物の中でも特に繁殖力が強い。巣を潰しても増え、卵を抱えた蟲本体を倒しても増え、卵を壊しても増える。小型であればあるほど篭目が効かず、一度巣ができるとたちまち増殖を続ける厄介な魔物であった。

 「エゾ砦の報告に蟲の話はなかったな」

 「はい。珍しい事象ではないために見逃されたのでしょう。おそらくサミュールに巣くう蟲は己を餌として、農場に別の魔物を引きこんでいるものと思われます。襲撃のおこぼれを狙いながら、機を見て人や家畜を襲っていたのでありましょう。焼いた畑の中からいくつか炭化した蟲の死骸が見つかっております。詳しく調べ、その正体を探るようレオンバルトに指示を出しました」

 「よし。聖墓廟の巣は取り急ぎ潰せ。柩以外であれば壊しても構わん。教主には後で私から断りをいれる」

 「よ、よろしいのですか」

さすがのライナスも気色が変わる。てっきり、討ち入りより先に聖教府の許しを貰っておくものと思っていたのだ。

 「墓廟の清掃だとか特別礼拝のためだったとか、後からいくらでも言い訳はきく。これでも元神官じゃ。伝手もある。それより、巣くっているのが蟲であれば周囲の地盤が緩んでいるやもしれぬ。早急に手を打たねば大事故になりかねん。巣の様子は逐一探りとっておるのか?」

 グラハムの問いにライナスは首を横に振った。

 「それが、アントニウスという名の司祭が聖墓廟に対する冒涜だと見張り所を設置することすら許さないのです。頑固な男で説得もできず……兎が司祭の目を盗んで地上から墓の中を探っておりますが、とても間に合いませぬ」

 聖教徒らしい生真面目さと融通の利かなさである。グラハムは苦笑を漏らし、

 「サミュールのアントニウス司祭じゃな。分かった。どうにかしよう」

 頼もしく言い切ると、表情を険しくした。

 「それより、気を引き締めてかかれ。長い間放置されぶくぶくに肥えた蟲ぞ。相当に手強いと思え。他の者にもそう伝えよ」

 「はっ」

 「そして、これを」

 グラハムは机の上の書籍の間から、一枚の紙を取り出した。

 「聖墓廟の図面じゃ。聖者の埋葬の様子を記した神官の日誌の記述をもとに書き落とさせた。中の様子が分からぬと困るだろうと思ってな。おそらく視界も悪い。扉を壊した瞬間から相手の手の内にいるものと心得よ。これをよく頭に入れて戦え」

 ライナスは図面を受け取り、感慨深げに頭を下げた。

 蟲は攻撃を受けるとその巣から這い出ることをしない。戦うならば、墓廟の中。狭く、暗く、武器の取り回しの効かない地下で戦うことになる。

 「まず囲みをかけようと思いますがいかがでしょう。先陣はグリンジャーが務め、取りこぼしのないよう捕り手どもを控えさせます」

 「それでよい。頼んだぞ」

 ライナスは力強く頷きを返すと、足音高く部屋を出て行った。

 











 聖墓廟の扉を潰し開けたグリンジャーは墓の中の異様な光景に瞠目した。

 「こりゃまた……」

 グリンジャーほどの男が言葉を失ったのだ。並みの男であれば卒倒していただろう。

 現に松明を抱えた仲間の中には表情を一変させ、ひっと声を引き攣らせる者もいた。

 蟲というにはあまりに大きい。それは人の腕の二倍はあろうかという大きさの蛆であった。太さは丸太ほどもあろうか。

 墓廟の中はその蛆の形をした蟲で埋め尽くされている。小さいもの、大きいもの。魔物は身をくねらせながら、壁を削って開けたらしい穴に半身を突きこみ、頭だけを出していた。無数の穴の中でうようよと蠢く蟲の姿を見ていると、目がくらみそうになる。

 そのとき、足元の床にぽとぽとと落ちるものがあった。小石かと思い見てみるとこれも小粒ほどの蛆である。松明の火を掲げて見上げると、天井から床、壁にかけて墓廟すべてが魔物の巣であった。

 「きっしょくわる!」

 あまりの光景にグリンジャーが大声をあげる。

 その瞬間、墓廟に溜まっていた瘴気が壊れた扉から外に向け吹き付けてきた。

グワッとこちらに顔を向け、そのぬめついた見た目に似つかわしくない大口を開けた蟲が一斉に襲い掛かって来る。

 グリンジャーは火打ち指を鳴らすと、手に握っていた小石ほどの丸薬に火を移し、床に次々と放り捨てた。そして、脱兎のごとく階段を駆け上がった。

「ライナス!ロドリゲス!出てくるぞ!」

囲みを作る狩猟頭二人に声をかける。その瞬間、足元の土がもこりと浮き上がった。



 聖墓廟を取り囲むように楯板と狩猟団の壁が、その周囲を固めている。

 楯板にはそれぞれ火鳥の絵が描かれ、その爛々と輝く三つの目聖墓廟に向けられていた。

 グリンジャーの大音声が囲みの外に響く。

 ライナスは火器を握りしめ、「こい」と低い声を発した。

 ドッという音と共に土がうねりをあげ、亀裂を走らせる。

 その亀裂から勢いよく蠕虫様ぜんちゅうようの蟲があふれ出てきた。

 瞬間、

「開眼せよ!」

 朗々たる掛け声と共にロドリゲスが片腕を振り下ろす。

 同時に楯板に手をかけていた捕り手が、取っ手を引き下ろした。火鳥の絵がガタンと重い音をたてて横に開き、描かれた三つの目の中に赤い宝石が現れる。

 その瞬間、突如として囲みの中に炎が沸き上がった。

 燃え上がった蟲がギャーギャーと悲惨な鳴き声をあげる。

 小さなものは燃え死に、大きなものは囲みの背後に控える狩り手が構えた銃器によって沈められた。

 蟲は数が多い。数が多いということはさして珍しくないということだ。

 目撃される数も、討伐される数も多い。

 蟲狩りの手法は確立され、だからこそ砦の狩人たちにとっては取るに足らない獲物であった。

四半刻かけて炎は燃え続け、やがてゆっくりと火鳥の目が閉じた。

 蟲の焼け焦げた死骸が地面に転がり、炭化した死骸の隅で燻った火が未だ燃えている。それを踏みしめながら、ライナスは自身が率いる精鋭の狩り手と共に墓廟へ向かった。地面からはまだ熱気が立ち上り、少し歩いただけで汗が滲んだ。

 「どうだ、マーカス」

 墓廟の前で座り込んでいる同僚に声をかける。

 するとグリンジャーは煙がたなびく墓廟の入口を見下ろし、

 「どうもこうもない。ありゃ相当にでかいぞ」

 と口をへの字に曲げた。

 「火は焚いたのか」

 「篝火には火をつけた。しかし明かりとしては不十分だろう。松明を持っていくといい」

 ライナスが頷きを返す。

 「気をつけろ。俺はしばらく夢に出そうだ」

 立ち上がったグリンジャーがわざとらしく怖気をふるう。

 「とにかく、あれ相手では俺たちは役に立たん。大人しく後方に回るとしよう」

 グリンジャーはそう言ってライナスの肩を励ますように叩いた。

 マーカス・グリンジャーが率いる狩り手は皆、得物が長い。大太刀や刃先が身の丈の半分ほどもある槍など形状は人により様々だが、それらの得物を軽々と振り回すグリンジャー配下の狩り手衆は皆体が大きく、瘴気に強い耐性があるものたちであった。

 そのため墓廟の扉を開け、噴き出してくる瘴気の始末を任せたのだ。

 あわよくば躍り込み、巣の主を切り刻む算段だったが、墓廟の中を覗いたグリンジャーの心は萎えている。剛毅だが考えなしの馬鹿ではないこの男は、自らの役目は終わったとばかりに破顔した。

 精鋭の狩人を従え、地下に続く階段を下る。

 「お前たち、小粒は任せたぞ」

 ライナスは背後の味方に声をかけた。

 「応」

 頼もしい声が返ってくる。

 「主は俺がやる」

 ライナスはそう言って、素早く弾込めを終えた。


 さすがに聖墓廟の中を燃やし尽くすわけにいかない。

 火が使えないうえ、狭い地下では長物は取りまわしがきない――――――となれば、飛び道具の出番である。

 グリンジャーが放った煙石のおかげか、地下の瘴気は薄まっていた。

 墓廟の壁を眺めやり、ライナスは溜息をつく。

 壁や天井一面に大小無数の穴があいていた。

 その穴の中で蛆に似た蟲が身を捩っている。ギッギッギッと鳴っているのは蟲が顎を噛み合わせ威嚇する音だ。蟲薬が効いているらしい。その動きは鈍く、緩慢であった。

 天井から落ちてきた一匹を仲間の一人が打ち払う。続けて落ちた蟲をもう一人がナイフで切り裂いた。

 墓廟は十六場ほどの広さがある。一段一段高さのある階段の先に、開けた場所があり、聖者の柩がおさめられていた。幸い、棺に傷はついていない。

 蟲薬の効果を墓廟の奥まで届かせるため、グリンジャーは混乱の中、墓廟の中ほどまで足を踏み入れたらしい。床のそこかしこに肉塊となった蟲が転がっている。

 (あの厚重ねの大太刀でよくここまで細かく切れるものだ)

 小指の先ほどの小さな蛆までが四つに切り落とされていた。グリンジャーの剛腕は時に驚くほど繊細に太刀を操る。その手並みにライナスは素直に舌を巻いた。

 柩の向こうには円形の祭壇があり、その上を巣の主が陣取っていた。石でできた祭壇は主の肥え太った体に押しつぶされ、ひしゃげている。それを遠巻きにして、

 「これはまた……」

 ライナスは薄い笑みを浮かべた。

 最早この蟲がこの場所から出ることはかなわない。それほどの巨体であった。

 天井を突き破ればよいのだろうが、頭と尻が横を向き、身じろぎすることはおろか、寝返りを打つことすらできなさそうだ。膨らんだ体がみっちりと天井と床に隙間なく詰まり、その肉と地面の僅かな隙間に白い粉のようなものがまき散らされている。それが動物の骨であろうことはすぐに分かった。人か、動物か判別はつかない。そんな骨粉が床に降り積もっている。ここがマザーワームの食事場であることは誰の目にも明らかであった。




 銃声は一刻の間続いた。

 『闘猟記』には、この近年まれに見る地味すぎる蟲狩りの様子が克明に記されている。

 むきだしの巨大な的に向け、鉛玉をただひたすらに撃ちこむのだ。

 狩りの描写としては単調といわざるをえない。

それによると狩猟頭筆頭を任じられたショーン・ライナスは、館主の忠告に従い、蟲相手でも決して侮ることなく下準備をすすめ、配下の者にマザーワームと八丈の距離をとって戦うことを厳命したという。無論負傷者はいなかった。



 ライナスは強弓を用いる部下に命じ、マザーワームの腹に破魔の矢を突き立てた。

 矢は魔物の肉が矢羽根を呑むほどに食い込んだ。

 矢筈には特注の金具で綱が結びついており、それを合図とともに後ろに控えていた狩り手二人が力任せに引っぱった。

 矢がずるりと音をたてて、引き抜かれる。鏃には太いかえしがついており、マザーワームの肉を抉りながら、血を噴き出させた。

 甲高い叫びをあげた蟲がすぐさま傷を塞ごうとするのへ、ライナスはすかさず引き金を引いた。

 マザーワームの強靭な顎がギシギシと音をたてる。

 ライナスはその正確無比な射撃で蟲の腹に開いた矢傷めがけ、鉛玉を途切れることなく撃ち続けた。ワームが傷を塞ぐより先に穴を穿つ。マザーワームは身を震わせ、何度も反撃に出ようと試みたがライナスの早撃ちがそれを防いだ。次第にその小さな穴が深く深く、奥へ奥へと伸びていく。穴に銃弾が届く度、ワームは強靭な顎を軋ませ、呻き声をあげた。その声に呼応するように、ワームの腹は暴れる獣のごとく蠢いた。



 「やはり飼っておったか」

 グラハムはそう言って満足げに笑った。

 「兎、よくやった」

 素直な称賛に兎と呼ばれた男が頬を掻く。

 その姿は人間そのものだ。しかし、男の正体は人間ではない。兎は魔物の血を引いている正真正銘、半人半妖の混血奴であった。

 元は社会のはみ出し者であったが、縁あって『嗅ぎ手』としてラ・ルーナの協力者となった後は、館主のためその力を大いに奮っている。館主もまた、彼を心から信頼していた。

 グリンジャーと共に先遣隊の一人として村に送られた際、

 「腹に子供をいれてるね、ありゃ」

 鼻柱についた土を払いのけながら兎は言ってのけた。

 地中で蠢く魔物の肉の中に無数の幼体が詰め込まれている。百どころではない。マザーワームの体のほとんどが幼体の体で埋まっていた。

 「へたに傷をつけると傷口から中の子供が滝のように溢れて襲い掛かって来ることになるぜ」

 兎の忠告を受け、ライナスは戦法を変えた。

 接近戦ではなく遠距離戦。くわえて射手は一人と決めた。穿つのは幅二輪に達するほどの小さな傷である。これほど小さい傷であれば腹の子は溢れてこない。母体を引き裂いて飛び出してくることも考えられたが、

 「母親の体の中でぬくぬく生き延びてきたガキだぜ?ママを殺してまで戦いに出て来るかよ」

 兎の言葉は正しかった。

 マザーワームが息絶え絶えとなり、死ぬ寸前となっても腹の中の子供は母の体を食い破ってまで出てこようとしなかった。ただ蠢き、混乱し、母親の腹の中で暴れまわっている。

 一刻をかけてライナスは用意していた三千発の銃弾を撃ち切った。

 マザーワームは斃れ、腹の子は母の骸の重さに耐え切れず、一匹残らず圧死した。

 報せを受けたグラハムは笑みを浮かべて頷き、

 「よくやった」と狩人たちの労をねぎらった。



 サミュールの蟲討伐から七日が経とうとしている。

 ラ・ルーナの猟館は俄に騒がしい。

 この日、魔物討伐の報酬が館主の手で配られ、馬場ではささやかな酒宴が催されていた。

 酒と食事が供され、狩人の家族が招かれている。

 この宴の様子は闘猟記にも記され、ジョー・グラハムは宴の場で妻マリアを狩猟団に紹介したらしい。マリア・グラハムは狩人たちから温かな歓迎を受け、涙を流して喜んだという。

 サミュールの遠征は闘猟記にのみ記録があり、狩りの報(各砦が武勇や成果を世間に宣伝するための読み売り)には載っていない。闘猟記によると討伐された魔物の数は数万匹を超え、中でも巣の主マザーワームの大きさは二十丈を超えていたとある。なんでも墓廟から死骸をすべて運び出すのに四日かかったというのだから驚きだ。

 しかし世間の者たちはラ・ルーナが蟲を狩ったとしか思っていない。

 蟲狩りは世間一般では珍しくなく、そのため世の中のラ・ルーナに対する評価は変わっていなかった。寧ろ、蟲狩り一つで祝宴を開く彼らを不気味に思っていたに違いない。それでも酒杯を掲げるラ・ルーナの狩人たちの表情は明るく、その胸は歓びと誇りに満ちていた。



 「館主様」

 ライナスに呼ばれ、グラハムは後ろを振り返った。馬場からは狩人たちの騒がしい声が聞こえている。露台から馬場の様子を見下ろしていたグラハムは頬を緩めながら、葡萄酒の入った杯を傾けた。

 「ご苦労であったな、ライナス」

 「もったいなきお言葉でございます」

 「飲むか?」

 「いただきます」

 用意させた杯に館主自ら酒を注ぐ。

 「巣の浄化はなんとか終わらせました。しかし取り逃したものも多く、農園の復興は厳しいと存じます」

 ライナスは酒を飲みながらも厳しい表情を崩さない。

 逃げ延びた蟲はまた巣を張り巡らせ、今度はその征服範囲を増やすだろう。

 「やはり蟲の殲滅には時間がかかります。ですが、こればかりにかまっていては……」

 「そのことだがな、もう手は打ってある」

 グラハムの言葉にライナスは顔を上げた。

 「サミュールの御領主ニコライ男爵の御母堂と我が妻マリアはかつて同じ楽士のもとで学んだ仲でな。交渉の末サミュールのあの土地一帯をラ・ルーナが譲り受けることになった。その対価として幼い男爵にはソルフェージュの後ろ盾がつく。下らぬ跡目争いを終わらせられて、男爵家も満足じゃろう」

 グラハムがこのところ猟館を離れ、正装姿で奔走していたのはこのためであった。

 マリアと共に十星巡ぶりに貴族の社交場に赴き、男爵家だけではない、聖教府とも交渉にあたった。エルトン侯爵とリコラ司祭の協力を得て聖墓廟は場所を変えての建て直しが決まっている。

 「サミュールには新しい狩猟小屋を建てようと思う」

 グラハムはそう宣言すると杯を傾けた。

 狩猟小屋とは砦の他に狩人が籠り、休息や食事、連絡のためのいわば兵站基地だ。糧食を貯め、武器庫や救護所としても使う。

 ラ・ルーナは三ヶ所の狩猟小屋を持っている。しかしそれは、各町の宿屋に協力を煽ぎ、古い水車小屋や蔵を改装してなんとか人が寝起きできるよう整えてあるだけのみすぼらしい造りであった。狩猟小屋のために村一帯を所有するなど聞いたことがない。

 ライナスは館主の決断の速さとその実行力に舌を巻いた。事前に計画は聞いていたが、ここまで順調にことが進むとは思っていなかった。

 「小屋が建つまでの間ヴァレンティ家の邸を借り受け、狩り手を寝起きさせる。時間をかけて巣を潰せばいずれ農園も再開できよう。農園が再開できた暁には収穫物の一部をラ・ルーナが引き取り、糧食とする。これはヴァレンティ家も同意のうえじゃ」

 遠征中、狩猟団は糧食を抱え、何日も森を駆けまわり、魔物を追う。

その際持ち歩くのは干し肉や干し芋、堅パンである。チーズや乾燥果物などは贅沢品で、時たま燻した貝や魚、腐豆なども持って行くがその独特な風味を苦手とする者が多かった。

 「南に拠点を設けることは常々考えていた。これで外狩の折、砦から離れても皆に気兼ねなく新鮮で美味い食事をさせてやれる」

 館主の温かな声音にライナスはハッとして息を詰まらせた。

 世間にとって魔物狩りは恐怖の対象だ。敬意はあれど親しみはない。狩猟団の尊大で粗野な態度に悪感情を抱く者もいる。遠征先で食事の提供を拒否されることはよくあることで、致し方ないと諦めていた。

 「皆歓びましょう」

 ライナスは頬を緩めた。

 館主は眼下で踊り、笑いながら酒を飲む狩人たちを見下ろし、笑っていた。

 狩人の一人が館主の視線に気づき、指笛を鳴らす。囃し立てる狩り手衆に顰め面を作りながら、グラハムは手を振ってみせた。わっと歓声があがり、場が大いに盛り上がる。テーブルの上で転げまわる狩人を見下ろしながら、

 「ふざけた奴らじゃ」

 肩を揺らしたグラハムは露台の手すりに肘を引っ掛け、ライナスに向き直った。

 「狩り小屋は表向き食堂にでもしようと思ってな。店主はほれ、あの男とそっちの娘じゃ」

 指の先を辿ると、急ごしらえの窯の前で老いた親父が串に刺した肉を炙り、汗を拭っている。髪を布で巻き上げた若い娘がテーブルの周りをくるくると子犬のように駆け巡り、酒の用意をしていた。

 グラハムはそんな二人の様子を楽しげに見守りながら、

「よう働くのう」

感心しながら笑い、酒杯を豪快に煽った。






 ジョー・グラハムがラ・ルーナに来てそろそろ七環期が経とうという頃、ラ・ルーナでは新たに雇い入れる狩人の試験が行われていた。希望者は年々減っており、今期は二十人に満たない。 

 その二十人を試練の丘と呼ばれる狩場に連れて行き、適性をはかる。人手不足とはいえ、その内容は厳しいもので、通過したのは希望者の半数に満たない九人しかおらず、落第した者の中から五人が恩情で選ばれる始末であった。

 グラハムは猟術指南役のドラレスからこの結果を聞いて、

 「そうか」

 苦い笑みを浮かべた。

 馬場ではさっそくこの新米相手に剣術の稽古がはじまっている。

 露台に手をかけ、その様子を見物していたグラハムはふと視線を落とした。

 丸太に藁束を巻きつけ的にしたものが壁に沿って並び、木剣を手にした見習いたちが腕を振っている。筋のよいものもいれば、あまりに酷く見ていられないものもいる。

 激しい打撃音と掛け声が飛び交う中、爛々と輝く両目がこちらを見据えていた。

 驚きと意外の念に打たれ、グラハムは「ほう」と口元を緩めた。

 その視線に気づいたドラレスが「あいつ!」唇の端を引き絞り、苛立ちをあらわにする。露台の縁に手をかけたドラレスはその麗しい横顔からは想像もつかない雷霆の如き怒号を発した。

 「ルカ・ヴァレンティ‼館主様の御前だ!腑抜けた態度をとるようなら、その首叩き斬って、ドラゴの餌にしてやる‼」

 叱責を受けたルカは両肩を跳ね上げ、慌てて的に向かった。

 打ちふるう木剣の太刀筋は滑らかだが、刃風は鋭く、的に当たると意外にも良い音をたてる。二度、三度と振るうちに的を覆っていた藁束が脆く崩れはじめた。

 再びルカが頭を上げる。その誇らしげな顔に

 「馬鹿者‼いちいちこちらを見なくともよい‼」

 すぐさまドラレスが檄を飛ばした。

 グラハムはクツクツと笑いを噛み殺しながら、

 「苦労しそうじゃな」

 と呟き、指南役を労った。

 「ルカのやつ、どうも学生気分が抜けぬようで」

 ドラレスの夕焼け色の瞳がルカの姿勢を凝視する。

 「ほう、学生か」

 「以前は芒星大学の学徒であったそうでございます」

 芒星大学といえば篭目を生み出し、ドラゴの哺育を成功させた魔物の研究機関である。

 「しかし本人はただ、遊び呆けていたようで何も学ぶことなく辞めることになったと申しておりました」

 「そうか」

 グラハムはフフフッと笑みを深めると、

 「しっかりしごいてやれ」

 剣を振るう若者たちを見下ろし、満足げに頷いた。

 


 ルカは木剣を握る手に力を込めた。全身の力を漲らせ、腕を振る。的を打つと、木剣から伝わる衝撃で腕が痺れた。汗が顎先を伝い、地面に落ちる。再び眼前で木剣を構え、振る。

 (見ていた。見ていてくれていた)

 頬が緩んだ。

 腑抜けた顔をやめろとドラレス師範の罵声が飛んできそうだが、おさえようがない。

 鬱屈とした表情は晴れ渡り、両目には力が宿る。振りおろす剣の重さも関係ない。

 (あの方のもとでラ・ルーナの狩人になる)

 その夢の一歩をルカ・ヴァレンティは歩もうとしていた。

 汗を拭い、もう一度顔を上げる。露台には既に二人の姿はなく、青い空を渡り烏が群れをなして飛んでいた。




 【プロローグ】

 ジョー・グラハムは空を見上げていた。深い木立に囲まれ、ぽかりと空がくりぬかれたように見える。空には薄く靄がかかり、どこかでワタリガラスの鳴く声がした。供の者はいない。騎竜場の先にある曲輪の外側に位置するここは、ラ・ルーナの管理する共同墓地であった。人目を憚るよう建っているのは墓廟だ。中には狩りで命を落としたラ・ルーナの狩人たちの骨や遺品がおさめられている。狼狩りで犠牲となったケネス・サーミットの骨もここにあった。

 墓廟のそばに崩れた祭壇があり、魔物討伐の労を讃える詩が刻まれた石碑が捧げられている。

 かろうじて文字は読み取れるが、長い間雨風に晒され続け、モザイク画は脆く剥げ落ちていた。


 「ここにいらっしゃったのですね」

 声がする。

 振り返るとマリアがこちらに向けて枯草を踏みしめ、歩いてくるのが見えた。

 グラハムはふっと口元を和らげ、手を伸ばした。黒い外套が風に靡く。

 逆巻いた風がグラハムの白髪交じりの髪を跳ね上げた。

 マリアは両手を夫の手に重ね、その体に寄り添うように佇んだ。

 「砦の暮らしはどうだ?つらいか?」

 「いいえ。自分でも驚くほど早く馴染んでしまいました。アーリは時折聞こえるドラゴの声に怯えておりますけれど」

 「それが普通じゃ。我が妻は存外逞しいな」

 「ふふふ」

 マリアが声をたてて笑う。

 「何をなさっていたのですか?」

 「一星巡前に猟館で死んだ親子の弔いじゃ。遺体を浄化するのに時間がかかってな。火葬にし、この場所へ葬った」

 墓標もないこの地には狩人の他に、多くの名もなき死者が眠っている。彼らは全て魔物に関わって死んだ者たちであった。

 「故郷に帰してやりたかったが、家族に関わりたくないと突っぱねられてしまったわ」

 詮無く母子はラ・ルーナの墓所に葬られた。

 グラハムの足元には平たい石の塊が二つ並んでいる。グラハムが手ずから磨き、二人の名を刻んで弔いとしたものであった。

 「魔物に手を貸した者の末路じゃ……」

 グラハムの表情は硬い。そんな夫の顔を見上げ、マリアはその腕をとった。

 「旦那様が館主となられてから、狩猟頭のライナス殿と文のやり取りをしておりました」

 「なに?」

 夫の驚いた顔をマリアは楽しげに見つめている。

 「あいつ!」

 顰め面で舌打ちをしたグラハムは、生真面目な狩猟頭の顔を思い浮かべ眉根を寄せた。

 「旦那様が文をくださらないからですよ。こちらから様子を伺う手紙を送っても、『平気だ』『大丈夫だ』『心配ない』いつもそればかり。不安に思っていたところ、ライナス殿から返事が届いたのです。それはもう事細かに旦那様の普段の様子や仕事ぶりを教えてくださいました」

 マリアはそう言って優しく微笑んだ。

 「貴方が必要とされ、頼られている。どれほど誇らしかったことか」

 恥ずかしさに顔を背ける夫の顔を包み込み、引き寄せる。

 「ですが、この母子の話を聞いたときは心が揺れました。だから砦に来る決心がついたのです。きっとご自分を責めておられるだろうと思いましたから」

 紫水晶の瞳が凪いだ湖面のような光を讃える。グラハムは額をコツンとマリアの額に押し付けた。

 「親は子のためなら、神にも悪魔にも縋る。我が子が不治の病にかかったなら尚更じゃ。私もそうであった」

 「私達ですわ。貴方だけではありません。私だって娘のためなら、この命差し出すことなど惜しくなかった」

 「あの時悪魔の手を振りほどけたのは、クリスティーナが誰よりも強く、賢く、そして優しい子だったからに他ならぬ。娘に叱り飛ばされ、ようやく目が覚めた私は愚かな父親であった」

 マリアは涙を流していた。

 娘を喪った母の傷は未だ癒えていない。

 それは父も同じである。

 グラハムはマリアの体を抱き寄せた。マリアは夫の体を両腕でひしと抱きしめ、頬を胸に押し当てた。

 「ジョー」

 顔をあげたマリアが微笑む。

 夫婦が互いの涙を見たのは娘を喪ってから初めてのことであった。




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ラ・ルーナ闘猟記 @bairinji

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