第9話 偽りのオフィス(2)~血戦のフロア~
非常階段の闇は、どこまでも深く、冷たかった。俺は足音を完全に殺し、コンクリートの段を一段ずつ着実に登っていく。手にしたライフルの金属の感触だけが、現実との唯一の繋がりだった。
『レン、14階に到着したな。設計図通りなら、フロアの突き当たり、清掃用具室の天井にメンテナンス用のダクトがあるはずだ』
ギークの声が、イヤホンを通して冷静に響く。
「ああ、見つけた」
古びたロッカーの裏、埃をかぶった天井パネルを静かに持ち上げる。黒い口を開けたダクトに身体を滑り込ませると、ひやりとした空気が肌を撫でた。狭く、埃っぽい闇の中を俺は音もなく這って進む。
『真下が目的の13階オフィスフロアだ。マイクロドローンの映像を送る。……クソ、ほとんどが死角になってやがる。だが、熱源探知によればフロア全体に最低でも十人はいるぞ』
「了解した」
『蓮さん、魂の反応も同じです。十の強い敵意が、フロア全体に散開して待ち構えています』
月詠の声が、ギークの情報を補強する。俺はダクトの格子から、眼下に広がるオフィスフロアを窺った。高級そうなデスクや観葉植物が並ぶ、静まり返った空間。だが、その静寂は猛獣が息を潜める草原のそれに似ていた。
「ギーク、合図を送ったら、このフロアの全電力を落とせ。時間は五秒間だ」
『了解。五秒後には強制的に復旧させる。奴らのシステムが再起動する間の数秒が、お前の時間だ』
俺は息を吸い込み、精神を集中させる。格子を外し、ライフルの銃口を下に向けた。
「……今だ」
その言葉と同時に、眼下のオフィスフロアが完全な闇に包まれた。男たちの動揺する声が、暗闇の中から響く。その五秒の間に、俺は天井から音もなく床へと降り立ち、近くのデスクの影へと滑り込んだ。
直後、天井の照明が一斉に点灯し、世界が白く染まる。
「そこだ! 撃て!」
フロアの四方八方から、銃声が轟いた。デスクやパーテーション、観葉植物に無数の銃弾が突き刺さり、オフィス機材が火花を散らして破壊されていく。ガラスの砕ける甲高い音と、怒号がフロアに満ちた。完全に包囲されている。
『右翼から三人、回り込んでくる! 左は二人! 正面のデスクの向こうにマシンガンが一つ!』
ギークの警告が飛ぶ。
『蓮さん、右の三人のうち、一番奥の男が間もなく弾切れになります!』
月詠の声が、より精密な情報を加える。
俺はポーチから閃光弾を取り出し、ピンを抜いた。
「ギーク、スプリンクラーを作動させろ!」
『お安いご用だ!』
天井から、けたたましい警報音と共に水が降り注ぎ始めた。視界が悪化し、敵の銃撃が僅かに乱れる。その隙を俺は見逃さない。
右翼の三人がいる方向へ、閃光弾を転がし込んだ。強烈な閃光と爆音が炸裂し、男たちの悲鳴が上がる。その瞬間、俺はデスクの影から飛び出した。
視力を奪われ、よろめく三人の男を、立て続けに撃ち抜く。そして身体の向きを変え、正面のデスクに向けてフルオートで弾丸を叩き込んだ。月詠が言っていた弾切れ寸前の男だ。リロードしようと焦る彼の頭を、数発の銃弾が正確に撃ち抜いた。
降り注ぐ水の中、オフィスは硝煙と血の匂いに満ちた地獄絵図と化していた。残る敵は二人。左翼から回り込み、俺を挟撃しようとしていた連中だ。
『蓮さん、左です!』
月詠の警告と同時に、パーテーションの両側から二つの銃口が突きつけられる。だが、俺はそれよりも早く床を蹴っていた。身体を低く滑らせ、銃弾の雨を潜り抜ける。そしてすれ違いざまに、二人の男の足首に向けて数発ずつ撃ち込んだ。
悲鳴を上げて体勢を崩した男たちに、俺は振り返ることなく、背中越しに正確にとどめの弾丸を送り込む。
これで、このフロアの雑魚は全て片付いた。
静寂が戻ったフロアに、警報とスプリンクラーの音だけが響き渡る。俺は弾倉を交換しながら、ゆっくりと立ち上がった。視線の先には、役員室へと続くガラス張りの通路。そこに、一人の男が立っていた。
他の傭兵たちとは明らかに違う、静かで、それでいて圧倒的なプレッシャーを放つ男。奴が、ここのリーダーか。
『蓮さん、あの男の魂、他の者たちとは色が違います。深く、昏い赤色です』
リーダーは、俺が部下を全滅させるのを、ただ黙って見ていたようだ。俺と視線が合うと、彼は何も言わず、踵を返して通路の奥へと姿を消した。
挑発か、あるいは罠か。
俺はライフルの安全装置を外し、慎重に後を追う。ガラス張りの通路を抜け、役員室へと続く重厚なマホガニーの扉の前に立つ。中から、人の気配はしない。
俺は一瞬の躊躇の後、扉を肩からぶつかるようにして蹴破った。
部屋の中は、驚くほど静かだった。巨大な窓の外には、美浜町の美しい夜景が広がっている。
その夜景を背にして、リーダーの男がゆっくりとこちらを振り返った。その手には、何も持っていない。だが、その全身から放たれる殺気は銃口を向けられるよりもなお、鋭利だった。
「……なるほどな。貴様が、港の倉庫を潰したという『
男はまるで旧知の友に会ったかのように、静かな声で言った。
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