第8話 偽りのオフィス(1)~潜入~
夜の闇に紛れるようにして、一台の黒いバンが南地区の街中で停車した。
エンジンが切られると、周囲の環境音に溶け込むような静寂が車内を支配する。
俺たちの次の戦場――ペーパーカンパニーが入居するオフィスビルは、煌びやかな夜景の一部として、目の前で静かに光を放っていた。
「ターゲットビルのライブデータ、最終更新する」
運転席のギークが、ダッシュボードに増設された複数のモニターを睨みながらキーボードを叩く。俺は後部座席で黒い戦闘服に身を包み、装備の最終チェックを行っていた。
カチャリ、とアサルトライフルに弾倉を装填する冷たい金属音が、静かな車内に響く。
「外周の警備は五人。駐車場の出入り口に二人、正面玄関に二人、裏手の搬入口に一人だ。赤外線センサーもある。……レン、お前の言う通り、どうやら連中は何かを待ち構えているらしいな。殺気立ってるぜ」
「……だろうな」
俺の隣、何もない空間に気配だけが存在する月詠が、ビルの方向を見つめているのが分かった。
ギークがノートPCの画面を俺に向ける。そこには、ビルの三次元的な見取り図と、リアルタイムで更新される警備員たちのアイコンが表示されていた。
「今からマイクロドローンを先行させる。こいつらが奴らの死角を補う、お前の第二の目だ」
俺は頷くと、音もなくバンのスライドドアを開け夜の闇へと滑り出した。湿ったアスファルトの匂いが、これから始まる戦いの気配を運んでくる。目標は、最も手薄な裏手の搬入口。
壁の影に身を潜め、イヤホンから聞こえるギークの指示を待つ。
『搬入口の警備員、動いた。タバコに火をつけたな。……今だ、レン!』
その声と同時に、俺は影から飛び出した。足音を完全に殺し、背後から一気に距離を詰める。男が紫煙を吐き出し、こちらに気づいて振り返ろうとした。
その瞬間、俺の腕は既に彼の首を背後から締め上げていた。声にならない抵抗も虚しく、男は数秒で意識を失い、ぐったりと身体の力を失った。俺はその身体を静かに地面に横たえると、すぐさま闇に溶け込む。
次の目標は、地下駐車場。月詠が壁の向こうを指差すように、俺にだけ聞こえる声で囁く。
『蓮さん、この壁の向こう……階段の下に二つの魂を感じます』
俺は頷き、ギークに通信する。
「地下への階段、二人いる。照明を落とせ」
『了解。三秒後に落とす。派手にやれよ』
三、二、一……。
地下へと続く階段の照明が、一斉に消えた。動揺する男たちの声が聞こえる。その闇の中を、俺は音もなく駆け下りた。暗視ゴーグル越しの緑色の世界で、二つの人影が銃を構えているのが見える。
遅い。俺はサプレッサーを装着した拳銃を抜き、立て続けに二発撃った。乾いた発射音が二度響き、二つの影は声もなく崩れ落ちる。
静寂が戻った地下駐車場で、俺はビル内部へと繋がるエレベーターホールに到達した。物理的な警備は完璧に、そして音もなく突破したはずだ。だが、その時だった。
ギークから、切迫した声で通信が入る。
『まずいぞ、レン! 今、俺が監視していた外部のネットワークに、このビルから所属不明の暗号化通信が発信された! 防壁を張ったが、間に合わなかったかもしれん!』
なんだ? 銃声はサプレッサーで消した。カメラにも映っていないはずだ。
『……ああ、クソ! そういうことか!』
ギークが何かに気づいたように、忌々しげに舌打ちする。
『今、お前が最初に倒した搬入口の警備員のバイタルサインが完全にロストしたのを、こっちでも確認した! 奴ら、警備員一人一人にバイタルセンサーを付けてやがったんだ! 心拍が停止したら、自動でアラートが飛ぶ仕組みになってやがる!』
なるほどな。死体を見つけられるより早く、確実に侵入を知らせる、合理的なシステムだ。
『連中、お前の侵入に完全に気づいたぞ! 上の階の連中が一斉に動き出した!』
ギークの言葉と同時に、月詠が囁いた。
『はい。13階の魂の反応が、エレベ-ーターホールに集中しています。待ち構えているようです』
罠は、既に起動している。
『レン、エレベーターは使うな! 設計図を信じるなら、別のルートがある。一度、非常階段で14階まで上がれ。そこから奴らの頭上を突く!』
「了解した」
俺はエレベーターホールをやり過ごし、非常階段へと続く重い防火扉に手をかけた。隠密は、もはや意味をなさない。ここからは、正面からの潰し合いだ。
ギシリ、と扉が軋む音を合図に、俺は光の届かない暗闇の中へと、静かに足を踏み入れた。
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