第3話 月下の死神(1)
バイクは濡れたアスファルトを抜け、街の喧騒を背に、闇に沈む山道へと入っていく。カーブを抜けるたびにヘッドライトが照らし出すのは、雨に濡れた木々と、濃くなる一方の夜霧だけだ。市街地から三十分ほど走った頃、俺はエンジンを切り、慣性でバイクを滑らせた。
目的の場所は、かつて展望台として使われていた森の中の廃墟だ。今は訪れる者もなく、ただ静かに朽ちていくだけのその建物が、俺とギークのアジトだった。
バイクを降りると、ひやりとした空気が肌を撫でる。いつの間にか雨は上がり、雲の切れ間からは、まるで洗い流されたかのように冴え冴えとした月が顔を覗かせていた。月光が、水滴を纏った木々の葉を銀色に縁取り、幻想的な光景を作り出している。
静かすぎる、と思った。風で木々が擦れる音すらしない。虫の声一つ聞こえず、まるで世界から音が消えてしまったかのようだ。戦場で幾度となく感じてきた、嵐の前の不自然な静寂。俺は背負っていたジュラルミンケースを片手に持ち直し、警戒レベルを最大に引き上げたまま、アジトの鉄扉へと向かう。
あと数歩、というところで、それは聞こえた。
「こんばんは」
鈴が鳴るような、澄んだ声だった。
その瞬間、俺の身体は思考よりも早く動いていた。ケースを投げ捨て、ホルスターから抜き放った拳銃を構え、声のした方向へと身体を反転させる。一連の動作は、コンマ数秒にも満たない。
同時に、俺の脳は猛烈な速度で情報を処理し、可能性を弾き出していた。
――誰だ?
――気配が全くしなかった。俺の間合いに、これほど静かに入り込める人間がいるのか? PMC時代を含めても、そんな芸当ができる奴には会ったことがない。
――ここは山の中だ。こんな夜更けに、一般人が来る場所ではない。
――敵か? あの組織の追手か? 罠か? 仲間は、何人いる?
だが、銃口の先、月の光を背にして佇むその姿を捉えた瞬間、俺の高速回転していた思考は、完全に停止した。
そこにいたのは、少女だった。歳は十代後半だろうか。黒いワンピースを身に纏い、月光を浴びて銀色に輝く長い髪が、夜風に静かになびいている。宙に浮いた彼女は、時間がゆっくりになったかのように静かに地面に着地した。
そして、何よりも異様だったのは、その背中から生えた、夜の闇よりもなお深い、一対の黒い翼だった。それは作り物には見えなかった。一枚一枚の羽根が、まるで生きているかのように微かに動き、静かに空気を抱いている。宙に浮いた彼女は、時間がゆっくりになったかのように静かに地面に着地した。
幻覚か? あるいは、敵が仕掛けた揺さぶりか? だが、目の前の少女から感じるのは、殺気や敵意といったものではなかった。ただ、圧倒的なまでの
沈黙が、場を支配する。俺は銃を構えたまま動けずにいた。引き金を引くべきか、引かざるべきか。その判断すら、つかない。
やがて、凍り付いた沈黙を破ったのは、俺の方だった。あらゆる混乱と憶測を喉の奥に押し込み、ただ事実を確認するためだけに、乾いた声で問いかける。
「……何の用だ?」
俺の問いに、少女は少しも動じることなく、ただ静かに微笑んだ。その表情は、どこか寂しげで、それでいて慈愛に満ちているようにも見えた。
そして、穏やかな、しかし有無を言わせぬ響きを持った声で、彼女は告げた。
「あなたの魂を、刈り取りに来ました」
その言葉を聞き、俺は反射的に銃を握る手に力を込めた。引き金にかけた指が、わずかに沈む。
魂を刈る、だと?
比喩や冗談の類ではない。この異様な状況と、彼女の纏う空気が、その言葉を真実として俺に突きつけていた。
「俺を殺すと言うなら……その前にお前を殺す」
絞り出した声には、自分でもわかるほどの殺気が含まれていた。常人ならば、それだけで竦み上がるはずの一言。
しかし、少女は俺の言葉に眉一つ動かさなかった。哀れむような、それでいて諭すような瞳で、静かに首を横に振る。
「残念ですが、それは叶いません」
銃口を向けられ、殺意をぶつけられてなお、彼女の態度は変わらない。動揺しているそぶりは一切見受けられなかった。その冷静さは、歴戦の兵士が持つような胆力とは違う。まるで、アリに噛まれても意に介さない人間のように、俺の脅威を全く意に介していない。彼女の言葉はハッタリではなく、揺るがしようのない決定事項を、ただ事務的に伝えているかのようだった。
その時、少女の右手が、何もない空間を掴むようにすっと持ち上げられた。刹那、彼女の手の周りの空間が、陽炎のようにぐにゃりと歪む。そして、次の瞬間には、その手には月光を鈍く反射する、巨大な鎌が握られていた。
この瞬間、俺の中の常識という名の
認識を、即座に切り替える。驚愕している暇はない。理解できない現象を前にしても、やるべきことは変わらない。目的を果たすために。
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