新・信長公記 ~ 軍師、呉学人(ごがくじん)は間違えない? ~

月影 流詩亜

序章:天星、地に落ちる

第1話 我は創作の人物にあらずや?


 ​物心ついた時から、俺には二つの人生があった。


 ​一つは、ここ尾張国、清州の城下から少し離れた村で、百姓の父と母の間に生まれた「助兵衛」としての人生。泥にまみれ、くわを握り、日の出と共に起きて日没と共に眠る、ごく当たり前の日々だ。


 ​そしてもう一つは、夢ともうつつともつかぬ、頭の中に鳴り響く記憶の奔流。

 それは、はるか異国の地で「智多星」呉用ごようと謳われた軍師としての人生だった。

 百八の魔星が天に導かれ、腐敗した王朝に反旗を翻した梁山泊での、壮大なる戦いの記憶。

 緻密な計略を巡らせ、天文を読み、人心を操り、数多の戦を勝利に導いた男の、鮮烈な経験と知識。


 ​本来ならば、それは途方もない財産のはずだった。

 だが、俺、助兵衛を苛むのは、その記憶のさらに奥底にこびりついた、決してあってはならない「知識」のせいだった。


 ​――我らは、『水滸伝』という物語の登場人物に過ぎぬ。

 ​その声は、呉用としての記憶が最高潮に達するたびに、冷や水を浴びせるように響くのだ。

 そうだ、呉用も、托塔天王たくとうてんのう晁蓋ちょうがいも、及時雨きゅうじう宋江そうこうも、そして梁山泊の百八人の好漢たちも、すべては後の世に作られた物語の登場人物。彼らの活躍は、書物の中にのみ存在する絵空事……のはずだった。


「なぜだ……」


 ​今日も今日とて、畑仕事の合間に木陰で一人、膝を抱える。


「なぜ、創作の登場人物であるはずの俺が、こうして実在の日の本に生まれている?

 ここは物語の続きなのか?

 それとも、俺という存在そのものが、何かの間違いなのか? 」


 ​答えの出ない問いは、思考の沼に俺を引きずり込む。周囲の子供たちが元気に駆け回る声も、どこか遠くに聞こえた。

 村の者たちからは「少しぼんやりした子」と思われているらしい。

 無理もなかった。

 俺の頭の中では、実存を巡る壮大な哲学的問答が、四六時中繰り広げられているのだから。


​「助兵衛!またそんなところで考え込んどるのか!行くぞ!」


 ​思考の沼から俺を強引に引きずり出したのは、泥だらけの顔で笑うガキ大将、犬千代だった。

 歳は俺と同じくらいだが、体格は一回りも二回りも大きい。


 ── 後の世に「槍の又左」として名を馳せる前田利家、その若き日の姿である ──


「犬千代か……今日は何を……」


「決まっとるだろうが!吉法師様がお呼びだ!面白いものを見せてくれるとさ!」


 ​犬千代が指差す先には、これまた奇妙な少年が一人、腕を組んで立っていた。


 ​うつけ者、と呼ばれ、大人たちの眉をひそめさせる存在。

 しかし、その瞳の奥には、常人には計り知れない烈火のような輝きが宿っている。


 ── 吉法師。後の、織田信長その人である ──


 ​吉法師は、那古野城主の嫡男という雲の上の身分でありながら、なぜか百姓の子である俺や、下級武士の家の犬千代とつるむのを好んだ。


​「助兵衛、遅いぞ。貴様のその鈍い頭では、わしの考える遊びにはついてこれんか?」


「……申し訳ありません、吉法師様」


 ​悪態をつきながらも、その口元は楽しげに歪んでいる。

 吉法師は身分の差などまるで意に介さず、俺の百姓仕事を手伝うかと思えば、次の瞬間には犬千代と相撲を取り、また次の瞬間には俺がぼんやりと考えていることを面白そうに聞いてくる。

 理解しがたいが、不思議と人を惹きつける引力があった。


 ​こうして俺は、後に天下を揺るがす二人の男に振り回されながら、自らの存在意義に悩むという、奇妙な少年時代を送っていた。


 ​ある夏の日、村でちょっとした問題が起きた。

 長雨のせいで山からの土砂が流れ込み、畑を潤す用水路の取水口が詰まってしまったのだ。

 村の男たちが総出で土砂を取り除こうとするが、流れが複雑に入り組んだ場所で、下手に手をつけると余計に詰まりかねない。


 ​大人たちが「うーむ」と唸りながら、ああでもないこうでもないと議論しているのを、俺は三人と共に遠巻きに眺めていた。


「ちっ、埒が明かんな。俺が行って、あの岩をどかしてくる!」


 短気な犬千代が息巻くのを、吉法師が「待て、犬」と制した。


「力任せにやってどうにかなるものか。流れを読まねば、水はさらに暴れるぞ」


 ​その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で、呉用の記憶が閃いた。治水。土木工事。梁山泊の砦を築いた時の知識が、鮮明に蘇る。


 ​(そうだ、あの取水口の形では、水の圧力が一点に集中しすぎる。

 流れを分散させる水路を一時的に作り、本流の勢いを殺してから土砂を取り除けば……

 いや、それよりも、あの岩盤の僅かな亀裂。あそこを上手く突けば、最小限の労力で……)


 ​頭の中では、完璧な設計図が組み上がっていく……これならいける。

 この知識が本物なら、この世界で俺が生きる意味も、少しは見つかるかもしれない。


「……あの」


 ​俺は、おずおずと手を挙げた。

 村の大人たちと、吉法師、犬千代の視線が一斉に俺に集まる。

 心臓が早鐘のように鳴り、掌に汗が滲んだ。

 人前で何かを披露するなど、梁山泊の軍議以来だ。いや、助兵衛としては初めての経験だった。


​「助兵衛?何か分かるのか?」


 村長が訝しげに問う。俺はごくりと唾を飲み込み、地面に木の枝で図を描き始めた。


​「こ、ここに水路の圧力が集中しています。ですから、まず、こちらの岩盤……ええと、このあたりに……」


 ​緊張で声が震える。

 呉用としての知識は完璧なのに、それを言葉にする「助兵衛」の口が、うまく動かない。

 大人たちの「この小僧が何を言っているんだ?」という視線が痛い。


「こ、こうです!この、図の通りに……!」


 ​焦った俺は、持っていた木の板に描いた簡単な図面を、皆に見えるように掲げた。


 その時だった。

 緊張で手元が狂い、俺はこともあろうに、その図面を上下逆さまに掲げて説明してしまっていたのだ。

 ​本来なら、川の流れを避けて岩盤の弱い部分を掘るべきルートを指し示すはずが、俺が指し示したのは、流れが最も強くぶつかる、頑丈な岩盤のど真ん中だった。


​「……なんだ、それは。そんな場所を掘ったところで、どうにもなるまい」


 一人の百姓が、呆れたように言った。他の者たちも、頷いている。


 ​終わった……俺はまた、ただのぼんやりした子供に戻ったのだ。

 恥ずかしさで顔から火が出そうになり、俯いたその時だった。


​「よし、分かった!助兵衛の言う通りにやってみようぜ!」


 ​声を張り上げたのは、犬千代だった。

 彼は俺の肩を力強く叩き、何の疑いもなく笑う。


「助兵衛が言うんだ!何か考えがあるに違いねえ!」


「……待て、犬千代。それは無謀だ」


 村長が止めようとするが、もう一人の声がそれを遮った。


「ふん、面白い」


 ​吉法師だった。

 彼は俺が逆さまに示した図面をじっと見つめ、にやりと笑った。


「やってみよ。人の考えの逆を行く。それこそが、常識を覆す一手やもしれん」


 ​吉法師の一声で、場の空気が変わった。村の者たちはまだ半信半疑だったが、城主の息子の言葉には逆らえない。

 犬千代を筆頭に、数人の若い衆が俺の「間違った」指示通り、流れの真正面にある岩盤を掘り始めた。


 ​俺はもう、何も言えなかった。

 ただ、自らの大失態が引き起こすであろう、さらなる混乱を思って、青ざめていることしかできない。


 ​ところが、奇跡というのは、時として最もあり得ない場所で起こるものらしい。

 ​若い衆が鍬を数回打ち下ろした、その時だった。


「お、おい!なんだか岩が……!」


 ゴゴゴ、と地響きのような音がして、彼らが掘っていた岩盤に、大きな亀裂が走った。そして、次の瞬間。


 ​ザッパァァァァン!


 ​凄まじい水音と共に、岩盤の一部が崩落。

 まるで栓が抜けたように、堰き止められていた土砂と水が一気に下流へと流れ出したのだ。


 ​あっけにとられる一同。


 詰まっていた用水路は、嘘のように元の流れを取り戻していた。

 ​後で分かったことだが、その岩盤は、長年の水圧で内側が脆くなっており、ほんの少しの衝撃で崩れる寸前だったらしい。

 緻密な計算などまるで必要なく、ただ「そこを突く」ことだけが正解だったのだ。

 俺の天地がひっくり返った大間違いが、偶然にもその唯一の正解を射抜いていたのである。


​「すげえ!助兵衛、すげえじゃねえか!お前、全部お見通しだったんだな!」


 犬千代が、俺の背中をバシンバシンと叩いてくる。村の大人たちも「おお……」「まさか……」と、驚きと尊敬の入り混じった目で俺を見ていた。


 ​俺は、歓声の中心で、ただ一人、冷や汗を流していた。


 ​(間違えた……。ただ、上下を間違えただけなのに……)


 ​ちらり、と吉法師の方を見る。

 彼は、歓喜に沸く周囲とは対照的に、静かに俺の目を見つめていた。そして、誰にも聞こえないような声で、ふっと呟いた。


「ふん、面白い」


 ​その意味ありげな笑みが、やがて俺の人生を根底から引っ掻き回すことになるのを、この時の俺はまだ知らなかった。


 ​なぜか上手くいってしまった。


 俺のうっかりは、幸運だったのか、それとも、これから始まるさらなる勘違いの序章に過ぎなかったのか。


 ── 百姓の子、助兵衛の哲学的な悩みは、自らの奇妙な幸運? によって、さらに深まっていくのだった ──


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