第8話 感情の起伏。人間に絶望したくないという気持ち。

 以前、人間脳の話をしましたけど、それに付随する話です。


 人間の感情で一番簡単に共感性が強く現れるのは『怒り』です。って話はしたと思うんですけど、僕は物語において、やられるために存在する雑魚敵という存在を作るのがとても嫌いでしたし、今もそれほど好きではありません。


 エンターテイメントとして存在している事、成立している事、消費者に望まれているという事がとても不愉快でたまりません。とても心苦しい。


 人に害を成す存在を懲らしめるという、正義の行いはとても気持ちが良いものです。しかし、舞台装置として用意されたそれだけの存在。というものは悲しい存在だと思います。


 その時に出て来たキャラクターが、今後何かしらの要因でメインキャラクターとして居続けるというのであれば、そのキャラクターは舞台装置ではなく、その世界に存在しているひとりの人間として昇華されたと感じることが出来て安心できますが、そうでない場合……。


 このキャラクターはヒロインに迷惑をかけ、主人公の活躍の生贄になる為生まれて来たのか……と思うと、その噛ませ犬に同情してしまう。





 その作品内における「生きた存在」と言うものを感じる事が出来なくなってしまう。それを見てしまうと、「あぁ、フィクションなんだな」という想いが出てしまって作品に対する没入感が無くなってしまうんですね。少なくとも僕はそう思ってしまいます。※リアルとリアリティは違う。


 最初は僕自身も主人公を立てて活躍させてしていれば物語として成立するだろ。という浅ましい考えでしたが、今はそうではありません。


 全ての作品がそうであれという訳ではなく、時と場合によっては使い分けて演出として大いに利用するべきものであると云うのは分かります。舞台装置な訳ですから。


 しかし、物語に付属する設定のひとつとかならまだしも、その世界の住人をそれ程雑に扱うというのは……。理由がちゃんとあるとかギャグとかならわかるんですけど、ストーリー系でそれをやってしまうのはちょっと……。ってなります。



 噛ませ犬がヒロインに酷いことして、読者に怒りの感情を持たせ、それを主人公が倒す事で発散するというのがおまかな感情の流れなのですが、噛ませ犬の存在が単発で突発的なモノであると、マッチポンプな感じが出てしまう。


 「物語の都合でこの噛ませ犬は存在している」

 といった状態になってしまうんですね。


 その噛ませ犬にも人生がある筈なんですが……。どうしてそんなことしたの? やっぱり物語の都合なの? となってしまう。補足があればまた物語として見方も変わってくるので、このイベント自体を否定している訳ではないのですが、何もない所からポッとイベントキャラがスポーンした感覚になるんですよね。


 まぁ、何を言いたいのかというと、こんなイベントで喜んでいる様な浅ましい人間が読者であるという事に絶望しそうになるという話です。正直言って気持ち悪いです。虫の羽を千切って遊んでいる子供を見ている時と同じ気持ちになる。


 人に絶望したくない。というまるで悪役の様な思想だな……。


 敵役の存在、在り方についても思う所があるので、

いずれその話もしたいと思います。

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