未詳事件済

ジルコニウム

1話:クロスワードデスク

 民間と公務員の違いとは、いったい何なのだろうか。

 例えば、かつて自分が勤めていた職場のデスク。そこには、書類をまとめたファイルとボールペン、そして固定電話が置かれていた。

 一方、今目の前にある机の上には、クロスワードの雑誌とシャープペンシル、飲みかけの炭酸飲料が入ったペットボトルがある。

 これは、ただ前の環境と今の状況を俯瞰して見たに過ぎない。どちらが良い悪いと述べるつもりはないし、それを論じる気もない。

 ただ、多くの人にとって耳ざわりが良いのは、きっと後者だろう。

 けれども、自分にとってこの大変愉快なデスクは、どうにも水が合わない。

 公務員を辞めて、初めて気が付いた。どうやら俺は、公務員向きの人間だったらしい。

 

 オフィスに足を踏み入れるなり、「座って待ってて」と言われ、俺は快適なオフィスチェアに腰をおろした。そうして他人のデスクと面を合わせる形で、かれこれ15分ほど経過している。

 オフィスは雑居ビルの一室にあり、部屋自体は狭い。デスクの数から察するに、社員の数は多く見積もっても十人に満たないだろう。

 現在部屋にいるのは、俺を除いて四人。社風なのか、皆私服姿で、つむじから爪先までフォーマルな俺の格好は、どうにも場違いに感じられる。

 気まずい空気に耐えかねて、俺は目の前のクロスワードに意識を向けていた。とはいえ、ここで実際にペンを取るほど図太い神経はしていない。だから、空欄は頭の中で埋めるしかなかった。

 クロスワードに取り組み始めて10分ほど経ったころ、欄外のヒントを頼りに「カバの学名」を考えていたところで、オフィスの扉が開いた。

 振り向くと、俺をこのオフィスに招いた壮年の男性が立っており、その隣には、彼より一回り背の低い女性が襟をつかまれたまま立っていた。

「待たせてごめんなさいね、月村さん。コイツを捕まえるのに手間掛かって」

 男性は関西弁訛りの口調だった。その女性の襟を掴んだまま、私の前に付き出す。女性は腕をだらんと脱力させて、鋭い視線を男性に向けた。

 「だ~か~ら~。聞き込みしてたんですって。終わったらすぐに事務所に戻るつもりだったんですよ?」

 女性の言い分はどうやら眉唾ものだったらしい。男性は顔面のパーツを一点に集め吠える。

 「阿呆!パチ屋で聞き込みできるかいな!」

 「いや、だからそれは、聞き込みの途中でお手洗いを借りようと思って、」

 「それは営業回りサボる時の常套句やろが!メダル抱えて説得力無いねん!」

 「ほら、コンビニでお手洗い借りる時も気を利かせて何か買ったりするでしょ?だからつい」

 「せやったら初めからコンビニのトイレ借りんかい!」

 「ロジハラ!」

 狭いオフィスに男性と女性の怒号が気持ちよく響く。俺の脳内には、ニュース中継で見る国会答弁のヤジとか、ボディビルのコンテストだとかが浮かんでいた。

 ただ、20分待った挙げ句、ここで蚊帳の外にされてはたまったものじゃないので、此方から強引に挨拶をすることにした。

 「──失礼します。本日付で当社に入社致しました。月村任つきむら じんと申します。以後、よろしくお願い致します」

 俺は社交的で月並みな挨拶と共に直立から30度の礼をした。二人は挨拶の中盤辺りから呆気にとられて、男性の方が慌てて俺に向き合った。

 「すんませんな、入社早々にこんなん見せてもて。──改めて、私はここの調査部長を務めてる戸塚福志とづか ふくしです。よろしく」

 そういうと、戸塚部長は俺に握手を求めた。戸塚の手はゴツゴツとしていて、ガタイの良さと相まって荒々しい印象を覚える。

 握手を終えると、先程まで襟首を掴んで怒鳴りつけていた女性を指で指した。

 「コイツが今日から月村さんの研修担当を務める、調査部の千崎です」

 千崎と呼ばれた女性は捕まれていたワイシャツの襟を直し、自己紹介を引き継いだ。

 「千崎春乃ちざき はるの。23歳。よろしく」

 千崎はジャンパージャケットに片手を突っ込み、もう片手で俺に握手を求める。戸塚の手に反して華奢な手だった。

 「まぁ月村さんも"この手の仕事"は素人やないやろうし、千崎とはバディみたいなもんと思ってくれたらええですわ」

 松田はデスクの棚から、恐らく俺の履歴書が入っているファイルを取り出してペラペラめくっている。

 「勿論、これまでの経験を活かせる部分は活かしつつ、初めてのことはしっかりと学ばせていただきます」

 俺がそう答えると、戸塚は「固いなぁ」と言って苦笑して頭を掻いた。どうやら実直なタイプは苦手なようだ。

 すると、既にオフィスの玄関口に向かっていた千崎から声がかかる。

 「じゃ、早速外出るけど、準備大丈夫?月村サン」

 彼女は、歩く度に真っ黒なロングヘアーが揺れている姿が印象的だった。

 「はい、大丈夫です。よろしくお願いします。千崎さん」

 「千崎でいいっすよ。こちらこそよろしく」

 千崎は軽く手を振りながらそう言った。出会って1分の上司を呼び捨てにするには度胸がいる。俺は鞄を持ち、先に出ていった千崎の後を追う。

 オフィスは五階建てビルの二階に位置している。出ていく際は基本階段を使うのだろう。ビルを出て、俺は先刻までいたオフィスを見上げた。窓には大きく「久堂探偵事務所」と書かれている。

 ここが俺の新しい職場か。二年前の自分には、想像もつかなかったであろう環境に今身を置いている。

 「月村サン、こっちです」

 千崎は俺と車道を隔てた先の歩道で手を振っていた。辺りを見回すと、横断歩道らしきものは無い。

 折角だ、公務員の頃には出来なかったことをしてみよう。俺は車の往来が無いことを確認し、歩道の縁を乗り越えると悠々と車道を横切って渡った。

 車道の幅は車がそれぞれの方向で一台ずつ通れる程度の広さだった。

 「お待たせしました」

 合流した千崎にそう言った俺の声は、興奮と罪悪感で少し震えていた。細かい事だが、公務員として勤めていた頃は、職種が職種なだけにこのような行為はご法度だった。

 「じゃ、行きましょうか」

 しかし、千崎は、今の環境は俺の行為を咎めない。どころか、気にもとめていない様子だった。

 俺は落胆した。落胆したことに少し驚いた。俺は心のどこかで、この素性もさほど知らない人間に今しがたの行為を裁いてほしかったのかもしれない。

 千崎の隣に着いて歩きながら、俺は苦笑した。

 やはり、俺は公務員向きの人間のようだ。

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