第9話 反省の意味は近道を見つけること
「えええっ!?じゃあ、私の『ウィングス・スターライト』が……おじさんのものになっちゃったってこと!?」
「しーっ、声がでかい!今何時だと思ってんだ」
「……あっ、ご、ごめんなさい……」
驚きを隠すためなのか、それとも内心の動揺を落ち着かせるためなのか。
小動物みたいにオロオロしている彼女は、
目の前のカップを両手でそっと抱え込み、そのまま勢いよく口をつけた。
――が。
「ぶふっ——!!」
「おい!?他人の家に来ていきなり吹き出すなよ!?」
「うぅ……けほっけほっ……ごめんなさい、ごめんなさいっ……でもこのコーヒー、すごく苦くて……私の知ってるのと全然違う……」
……やれやれ、どうやらこのガキ、ブラックコーヒーは苦手らしいな。
仕方なく俺は、びしょ濡れになったテーブルを拭きながら、砂糖ポットを彼女の前にトンと置いた。
「うちはミルクとかは置いてねーからな。これで我慢しとけ……それとも、こっちがいいか?」
そう言って、手に持っていた缶ビールを軽く振ってみせると――
彼女はものすごい勢いで首を横に振った。まるで壊れた扇風機かと思うくらいに。
「い、いいですいいですっ!私はこっちで大丈夫ですからっ!」
と言って、俺の貴重な砂糖を……なんのためらいもなくカップに一気に投入し始めた。
ちょっと待って!遠慮ってもんを知らんのかコイツは?!
しかもカップから盛り上がってるその砂糖の山、もはや飲み物ですらないだろ。
「やっぱり、甘いのが一番落ち着くね……あ、遅くなりましたが、私はアンフィール――」
「ああ、そのへんは端末の音声で嫌ってほど聞いたよ、ダメヒーローちゃん」
「うぅぅ……名前を知ってて、それでもその呼び方するんだ……」
……キミだって、ずっと俺のこと『おじさん』って呼びしてただろ。
お互い様ってやつだ。
「それより、おじさんはどうやって私の降臨端末を使えたの?たしか、持ち主のヒーロー本人しか使えないはずなんですけど……」
「それは……」
砂糖で正気を取り戻したアンフィールから、
ふと投げかけられたその一言に、俺は思わず言葉を詰まらせた。
……くっ、ついさっきまで、謝り倒す彼女を見下ろす立場だったってのに……。
まさかこんな早く立場逆転するとは……。
「ちょ、ちょっとした秘密のテクニックってやつだ。ほら、経験豊富な大人って、時々……人には言えない『抜け道』を知ってたりするだろ?」
「抜け道……ですかぁ……」
……無理があったか?
言ってる自分ですら、なんか胡散臭く聞こえる……。
とはいえ、『全部ぶちまける』なんて選択肢はあり得ない。
さすがにあの切り札の話まで教えるわけにはいかねぇ。
「さっきの話を聞いて、もう全部分かりました……ふふん、おじさん、私を甘く見ないでくださいっ」
コップを置いたアンフィールの瞳が、急に真剣な色を帯びた。
その声音には、普段の彼女からは想像もできないほどの……妙な自信があった。
まさか――
この一見無垢そうなダメヒーローが、『鍵(ギフト)』に関する何かを……!?
「つまり、おじさんって……超一流のハッキング技術を持つ、凄腕のハッカーだったんですね!」
「……」
すまん、さっき一瞬でもキミのバカさを疑った俺がバカだったわ。
「ま、まあ、さすがは将来有望なヒーロー……だいたいその通りってとこだな」
「やっぱりっ!えへへ~♪」
照れくさそうに頬をかきながら、俺の『褒め言葉』を疑いもせずに受け取って、ぱぁっと笑顔を咲かせたアンフィール。
その様子は、まるで後ろでぴょこぴょこ尻尾を振ってるみたいで――
正直、ちょっと可愛いと思ってしまったのは否定できない。
「でも……おじさんほどの達者で、なおかつエーテル適応者(アウェイク)でいらっしゃるのに、どうしてヒーローになられなかったの?もったいない気がする……何の取り柄もない私と比べたら、きっとおじさんのような立派な方こそ、ヒーローにふさわしいのでは―」
「俺はヒーローになるつもりはない」
彼女の言葉を遮るようにそう言いながら、窓の外の薄明かりに浮かぶ月へと向けた手に持った缶を一口含む。
けど、慣れ親しんだはずの味が、今夜だけはやけに苦かった。
……これ、賞味期限切れでもしてんのか?
「どうして? みんなを守るために戦えるヒーローって、とても立派だと思わないですか?」
ったく……ほんと、痛い目見ないと分かんねぇやつだな。
どうやら簡単には引き下がってくれそうにない。
仕方なく、俺はビールを置いた。
「じゃあ逆に聞くが、なんでそこまでしてヒーローにこだわるんだ?エーテル適応者(アウェイク)だって、他の道などいくらでもあるだろうか。俺に出会ってなかったら、キミ、とっくに死んでたかもしれないんだぞ?」
「うぅ……」
「自分の身すら守れないのに、『誰かを守る』だなんて……笑わせんな。さっさと別の仕事でも探すんだな」
「ううぅ……」
言い終わると、さっきまでやたら元気だった彼女は、すっかりしょんぼりして、手の指先をいじり始めた。
……はぁ。
……だからこういうガキに付き合うのが嫌なんだよ。
「……べつにキミの夢を壊したいわけじゃないけどさ。他人のことを気にかける余裕があるキミとは違って……俺がやりたいのは、時間どおりに退勤して、満足な食事をとって、ゆっくり寝ることくらいだよ。誰が死のうが生きようが、俺には関係ない。ただ、自分が生き延びるだけで、もう手一杯なんだ」
「でも、それでも……おじさんは私を助けてくださったじゃないですか?」
「ああ、その通りだ。でも、キミを助けた理由だって、別にそんな崇高なものじゃない。そのまま放っといたら、今後の生活がめちゃくちゃになりそうだったから……ただそれだけ、勝手に俺をそんな高尚な人間だと思わないでくれ、最初から最後まで……自分のためにしか動けないんだよ」
「……」
彼女はカップを抱えたまま、何も言わずに俯いた。
その姿を見て、さすがに言い過ぎたかと思ったが、もう引き返せない。
どうせこいつの『ヒーローになりたい理由』なんて、『世界を守りたい』とか、『悪いやつを懲らしめたい』とか、『人々の注目を集めたい』
とか……そんな聞こえのいい『建前』ばっかりに決まってる――
「私ね……あの人みたいに、みんなを守れるヒーローになるって、約束したの」
「……は? 誰とだよ? 親か?」
「ううん……違う」
「先生か? それとも友達?」
「……どっちも違う」
「じゃあ誰なんだよ?」
「……昔ね。今日のおじさんみたいに――危ないところから、私を助けてくれた人がいたの」
なんだよそのクサい展開。そんなまるで映画みたいな引路人ポジションあるか?
そのヒーローとやら、空気読めよ、子ども相手に奇妙な希望なんか与えてんじゃねーよ。
「……で?そのご立派なヒーロー様は、今日のキミが情けない姿晒してるの見たら、泣くんじゃねぇの?」
「……もう、会えないの」
「え?」
「顔も名前も、今となってはぼんやりとしか思い出せないんだ……あとで調べても、そのヒーロー、もう亡くなったって、聞かされて……」
「……」
気づけば、口元に浮かんでいた皮肉な笑みは、いつの間にか消えていた。
さっき自分が口にした言葉の不味さをようやく理解し、だけどどうやって慰めればいいのかも分からず……ただ、目元を赤くしながら語る彼女の姿を見つめることしかできなかった。
もしかしたら、その『誰にも知られない約束』を果たすために、才能も、特別な素質も持たない彼女は、自分という存在が呑み込まれないよう、必死にもがき続けてきたんだ――
……それに比べて、過去に囚われたまま、新しい一歩を踏み出すこともできず……現状に甘んじて、心まで枯れ果ててしまった俺に、『大人』ぶった顔で、彼女のそのまっすぐな努力を、笑える資格なんて――あるのか?
「……ごめん。キミの夢に、余計な口出しをするべきじゃなかった」
「ううん、おじさんの言ってることも……間違ってないと思うよ。それより……『クリスタラン事件』って知ってる?」
「……は?」
あまりに突然すぎるその問いかけに、思わず息を呑んだ。
まさか、このタイミングで、また他の誰かの口から、あの名前を聞くことになるとは思ってもみなかった。
――『クリスタラン事件』
それは今から六年前に起きた、陣線(パラダイス)によって仕組まれた大規模なテロ事件だ。
当時、世都(ホープキャッスル)が総力を挙げて建設した最新鋭の軌道エレベーター……『クリスタラン』を、陣線(パラダイス)の異変者(イグニス)たちがスタッフに偽装して潜入し、隙を見て警備を制圧したあと、外界との通信をすべて遮断して乗っ取った。
そして、地上に戻れなかった何十人もの観光客を人質に取り、「今この瞬間から、この施設は我々が支配する」と宣言した──世界を騒然とさせた、あの大事件だ。
……もちろん、最終的には――
群星協会(スターリンク)の懸命な働きかけにより、軌道エレベーターを占拠していた異変者(イグニス)たちは一網打尽にされ、人質となっていた観光客たちも無事に救出された。
巨大な危機は回避され、事件は『完全に解決された』――
……そんなふうに、世間では語られている。
だが、俺は知っている。そんな話は、全部……表向きの『お飾り』にすぎないってことを。
実際には、選び抜かれたヒーローの精鋭たちが『クリスタラン』へ突入した時、すでに『死ぬ覚悟』を決めていた陣線(パラダイス)のメンバーたちは、最後の瞬間に迷うことなく、軌道エレベーターごと自爆させた。
結局、助かったのは、ほんの数人の人質とヒーローだけ……残りのほとんどは、爆発の破片と一緒に、あの果てしない宇宙に消えていった。
「まさか……あの人、救出作戦に参加してたの?」
「はい。私を最後に救い出してくれたのが、彼だったんです……」
「……」
そっか……あの時、彼女も、あの場にいたんだな……。
動揺しているのがバレないよう、何とか平静を装おうとしたけど……
『最後』という言葉が耳に届いた瞬間、手元の缶がカタリと震えた、さっきまで飲んでいた味すら、わからなくなっていた。
ただ口の中に広がっていたのは、苦み、しょっぱさ、それに……どこか錆びついた鉄のような……血の味だった。
封じたはずの記憶が勝手に蘇り、爆発音と悲鳴押し寄せてくる。
炎に包まれた視界、焦げた匂い、金属の軋み……その中で、傷だらけの人影が、濃い煙をかき分けてこちらへと歩いてくる。
雪のように真っ白な銀髪が、燃え盛る赤の世界で揺れていた。
どこか、儚く、悲しく、美しかった。
「……っ」
ゾクリ、と背筋を悪寒が走った。
これから何が起こるのかを知っている俺は、本能的にその幻のような後ろ姿に、手を伸ばそうとした。
まるで幻のように、手の届かないその人影を、
どうにかして捕まえようとして。
けれど、あと少しで指先が届きそうになったその瞬間、
突如として、冷たく透明な『壁』が目の前に展開され、俺と彼女の間を隔てた。
向こう側で、そその影は懐かしい笑顔のままで……次の瞬間、火炎がすべてを呑み込んだ。
「おじさん?! ビール、こぼれてますよっ!」
「……へっ? あっ、あああああ!最、最後の一本のビールがぁぁぁっ!」
アンフィールの驚きの声と、股間からじわりと広がる冷たい感触――そのダブルパンチによって、記憶の深淵から現実へと一気に引き戻された俺は、飛び跳ねるように立ち上がった。
……だが、すでに手遅れだった。
ズボンの前面に雨雲のように広がっていくビールの染み、もう取り返しはつかない。
涙を飲むどころか、出そうになるレベルで、俺は心の中で頭を抱えた。
「くそっ!それ、冷蔵庫に残ってた最後の一本……」
しかもまだ数口しか飲んでなかったのに!残業終わりの唯一のご褒美が……!
また次の特売セールまで、どれだけ待たなきゃいけねーんだよおおおお!
「はぁ……最悪だ。今日の不運まだ尽きないのか……」
ため息をつきながら、床にこぼれたビールをティッシュで拭き取る。
そしてズボンの汚れを何とかしようと、ベルトに指をかけたところで――
「……あ」
ハッと思い出した。
「ん?」
慌てて顔を上げると、目の前には、
まるで子猫のように首を傾げてこちらを見ているアンフィールがいた。
「早く拭かないと、シミになって取れなくなっちゃうよ?」
「……」
……いやいやいや!
そこじゃないだろ!?頼むから少しは察してくれよ、小動物ォォ!!
「あ、もしかして……手伝ったほうがいいのかな?」
「手伝うって何をだよ!?まさかここで俺がズボン替えるところを見届けるつもりか!?」
「ひゃっ、ひゃい!?ご、ごごごめんなさいぃぃぃっ!」
俺のツッコミに、アンフィールの白い頬は熟れた果実のように真っ赤っ赤になり、
慌てて床に置いてあったショルダーバッグを掴み、「す、すみませんでしたっ!」と、何度も謝りながらドタバタと玄関の方へ駆け出していった。
「で、では……お外で待ってますねっ?」
ここは狭っ苦しいワンルーム、トイレに隠れるのが嫌なら、外に出るしかないのは分かるけどさ……。
まさか深夜に女子一人、玄関前に立たせる羽目になるとは。絶対ろくでもない噂の種だろうが!
「とにかく、キミの端末は俺が何とかする。大人しく帰って待ってろ」
「……待つって、どれくらいなの?」
「それは……」
正直なところ、俺にも見当がつかない。
まさか『鍵(ギフト)』によって、こんなわけのわからん現象が起きるなんて、予想もしてなかった。
元に戻るかどうかすら、怪しいもんだ。
「全部おじさん任せで、私は何もしないで待ってるだけなんて……やっぱり嫌です。一緒に考えましょう、二人でなら、きっと何か方法が見つかるはずです」
「……」
前のめり気味に手を胸の前でぎゅっと握りしめて、まっすぐな瞳で俺を見つめるアンフィール。
……まったく、根拠なんか一つもないくせに。
だけど、その目は一切の迷いもなく、決して逸らさない。
あまりにも眩しくて……嘘ひとつないその気持ちに、俺は思わず視線を外したくなった。
……参ったな。
自信がどこから湧いてくるんだよ、この生意気なガキには。
「……好きにしろ、どうせ何言っても聞かないんだろ?それと、俺をヒーローにしようなんて考えるなよ?断固お断りだからな」
「はいっ、わかってます!でも……私は諦めませんよ。理由がどうであれ、おじさんが私を助けてくれたことは事実です。ゆっくり休んでください。明日……また来るから!」
「せっかちすぎ!?明日も仕事なんだからな!玄関で待ってる暇なんてねぇぞ!っつーか、少し前まで瀕死だったはずなのに、なんでそんな元気満々で飛び回ってんだよ……」
「元気だけが取り柄ですから、えへへっ」
……その取り柄に、もうちょい知性も加えてくれ……。
「じゃあ、おやすみなさ――あっ、最後にひとつだけ!」
不機嫌そうにアンフィールを玄関まで押しやって、『早く疫病神を送り出そう』と思っていた矢先、彼女はまたしても意地っ張りな顔で振り返ってきた。
「用事があるなら、また今度にしろ」
「ほんとにっ、これだけです!これを聞かないと絶対に気になって眠れなくなるからっ!」
「……はぁ、まったく、ガキは本当に好奇心の塊だな。で、なんだよ?」
「あのね……おじさんって――」
「ここまで引っ張って何なんだよ。もういいなら、俺は寝るぞ?」
少しモジモジしたあと、ようやく意を決したようにアンフィールは、はにかんだ笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開いた――
「……私の『ウィングス・スターライト』を使ってた時……その、やっぱり……見た目も魔法少女になったの?」
「思い出させるなあああああ!!早く帰れえええええ!!!!」
俺の叫びが深夜のアパートにこだました頃、時計の針は日付変更線をようやく超えた──が、玄関前に残された『彼女』の影が、この地獄のような一日の終わりじゃなく、始まりに過ぎなかったことを……このときの俺はまだ知らない。
……ていうか、ズボンの染み、もうほとんど乾いてるんだけど。
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