T総合病院の風景
犬神堂
待合所にて
雨が降っていた。
地方都市の中核をなすその総合病院の支払いブースは、受付の奥にある。
アースカラーを中心とした壁、床、天井。ライティングも出しゃばりすぎず、開放的なレイアウトで、落ち着いた雰囲気を演出している。
椅子は木製で、並べられた列の中にたくさんの人が座って会計を待っている。
誰も話さない。
誰も目を合わせない。
壁の時計は、秒針だけが忙しなく動いている。窓の外には濡れた傘が並び、風が吹くたびに少しずつずれていく。
受付の職員は、無表情でパソコンを見つめている。まるで、誰もいないかのようだった。
ただ、会話だけ聞こえる。
ぺちゃくちゃ
こそこそ
がやがや
ぽつりぽつり
わいわい
くすくす
ひそひそ
もごもご
ざわざわ
(AM9:39)
「次、何番?」
「さっきと同じだよ」
「でも、もう30分は経ってるよ?」
「さっきと同じだよ」
(AM9:41)
「今日、靴下左右違うの履いてきちゃった」
「え、ほんとだ。気づかんかったわ」
「でも誰も見てないから、まあいいか」
「ここにいる人、みんな下向いてるしね。ってかアタシ気づいてるし」
(AM9:43)
「はっ…はっ…くしゅん!」
(くしゃみ)
(AM9:45)
「この病院、Wi-Fi飛んでる?」
「飛んでるけど、パスワードわかんない」
「受付に聞いたら“外来者は使えない”って言われた」
「それ、冷たくない?」
(AM9:46)
「財布…あったっけ…?」
「なんでこんなに待つんだろう…」
「あの番号、呼ばれたのに誰も動かない…」
(AM9:49)
「昨日のカレー、ちょっと酸っぱかった」
「冷蔵庫入れてなかったの?」
「いやあ、鍋のまま放置してた」
「それ、もうカレーじゃないよ」
(AM9:50)
「昨日の夜、冷蔵庫が勝手に開いたんだよ」
「え、それ怖くない?」
「中身はそのままだったけど、音が…“カララ”って」
「それ、夢じゃないの?」
(AM9:53)
「OK Google、人を呪う方法を教えて」
「(電子音)」
「できれば、相手が気づかないやつがいい」
「(電子音)」
「言葉だけでも効く強い力のあるやつがいい」
「(電子音)」
(AM9:55)
「お母さん、まだ?」
「もうすぐ呼ばれるよ」
「でも、さっきから誰も呼ばれてない」
「大丈夫。もうちょっとだからね? お母さんが何かお話ししようか?」
「うん、いつもの緑の犬と、桃色のフライパンの話がいい!」
(AM9:58)
「先生、今日は機嫌悪かったみたい、ずっと目も合わせてくれなかった」
「そうなの?」
「診察だって3分だよ。なんか今までずっと『お薬渡しますから次回まで様子を見ましょうか』としか言われてない」
「それ、診察って言える?」
(AM10:00)
「昔はさ、診察券って紙だったよな」
「そうそう、折りたたんで財布に入れてた」
「今はカードだもんな。なんか味気ない」
「でも、紙の方が忘れなかった気がする」
(AM10:02)
「この薬、前より高くなってない?」
「保険効いてるはずなのにね」
「効いてるって言われたけど、なんか納得いかない」
(AM10:04)
「なんであの人、ずっとこっち見てるの?」
「え、誰?」
「ほら、あの角の席の人」
「…誰も座ってないよ」
(AM10:06)
「昨日の夢でさ、ここが水族館になってた」
「水族館?」
「そう、受付が水槽になってて、職員が魚だった」
「それ、ちょっと見てみたいかも」
「でも、魚の目って…人間より冷たいんだよ」
(AM10:08)
「テレビ、ついてるね」
「うん、でも音が出てない」
「字幕だけ流れてる。ニュースかな」
「“記録にない患者が増加”…って書いてある」
(AM10:10)
「うぅ…っ…痛い…背中が…」
(うめき声)
(AM10:12)
「この病院、前に来たことある?」
「あるよ。去年の冬」
「そのときも、待合で誰も呼ばれなかった」
「…それ、同じ日だったかも」
(AM10:16)
「昨日の夕飯、何食べたっけ…」
「えっと…カレー?」
「いや、違う。うどんだったかな」
「なんか、記憶が混ざってる」
(AM10:18)
「スマホの充電、あと3%しかない」
「ここ、コンセントないよね」
「受付の裏にあるけど、使わせてくれない」
「なんで病院って、電源に厳しいんだろう」
(AM10:20)
「テレビの人、こっち見てる気がする」
「画面の中の人?」
「うん。目が合った気がして」
「それ、気のせいだよ」
(AM10:21)
「俺さ、昨日の記憶がないんだよ」
「へーそうなんだ」
「家に帰ったはずなのに、気づいたらここにいた」
「へーそうなんだ」
「ちぇっ、なんだよ。上の空かよ。夢ならいいけど…なんか、現実が薄い気がする」
「今が、夢なんじゃない?」
「えっ、変なこと言うなよ」
(AM10:24)
「なんで私が怒られなきゃいけないの?」
「誰かに怒られたの?」
「受付の人。何も言ってないのに、目が責めてた」
「…それ、思い込みじゃない?」
(AM10:26)
「OK Google、呪いじゃなくて殺す方法は?」
「(電子音)」
「いや、もうちょっと直接的なやつがいい」
「(電子音)」
「相手が苦しむとかじゃなくて、確実に消えるやつ」
「(電子音)」
(AM10:30)
「保険証、見せてみ」
「…これ、俺じゃない」
「写真、違う?」
「名前も違う」
「それ、誰の?」
「わからない…でも、受付はこれで通した」
(AM10:32)
「おばあちゃん、今日は何しに来たの?」
「えっと…なんだったかねぇ」
「診察?」
「いや、違う気がする。支払い…だったかねぇ」
「でも、番号札持ってないよ」
「あら、ほんと。…じゃあ、なんだったかねぇ」
(AM10:34)
「うぅ…っ…ゆび…が…かっ…に…」
(うめき声)
(AM10:36)
「昨日の夢で、受付が鏡だった」
「鏡?」
「そう。自分の顔が映るんだけど、誰かの顔だった」
「それ、怖いね」
「でも、少し安心した。誰かがいたから」
(AM10:38)
「Hey Siri、俺は、いる?」
「(電子音)」
「俺はここにいる?」
「(電子音)」
「俺、生きてる?」
「(電子音)」
「そんなうまいこと言われてもなぁ」
(AM10:39)
「次、何番?」
「さっきと同じだよ」
「でも、もう1時間は経ってるよ?」
「さっきと同じだよ」
(AM10:40)
「テレビの字幕、“存在しない患者”って出てる」
「さっきは“記録にない”だったよね」
「変わったのかな」
「それとも、誰かが書き換えてる?」
(AM10:42)
「教えてアレクサ、もし俺が誰にも見えてなくて、記録もなくて、誰の記憶にも残っていなかったら、それって…俺は存在してないってこと?」
「(電子音)」
(AM10:44)
「昨日の天気、晴れだったっけ?」
「いや、雨だったと思う」
「でも、洗濯物乾いてたよ」
「それ、夢じゃない?」
(AM10:46)
「明後日は晴れてたよ」
「天気予報? 雨マークじゃなかったっけ? …雨だと思う」
「予報じゃなくて明後日の天気だよ。晴れてたよ」
「?」
「いや、お前『おととい来やがれっ』っていうから。来たんよ」
「?」
「だーかーらー、明後日には雨は止むってば」
「?」
(AM10:48)
「OK Google、試したけど効かなかったぞ」
「(電子音)」
「呪いも殺しも、何も起きなかった」
「(電子音)」
「どうなってんだよ、嘘ばっかじゃないか」
「(電子音)」
(AM10:50)
「OK Google、試したけど効かなかったぞ」
「(電子音)」
「呪いも殺しも、何も起きなかった」
「(電子音)」
「どうなってんだよ、嘘ばっかじゃないか。でたらめばっかいうな」
「(電子音)」
(AM10:52)
「この病院、出口ってどこにあるんだろう」
「え、入口と同じじゃない?」
「でも、案内板に“出口”って書いてない」
「…気づかなかった」
(AM10:54)
「ララ…カカ…カラ…」
(声?)
(AM10:56)
「お母さん、あの人、ずっと泣いてる」
「見ちゃだめ」
「でも、声が聞こえる」
「静かにして。もうすぐ呼ばれるから」
(AM10:58)
「OK Google、俺の番号札は“47”だったよな?」
「(電子音)」
「OK Google、俺呼ばれたよな?」
「(電子音)」
「OK Google、俺は受付に行っていい?」
「(電子音)」
(AM11:00)
「昨日のニュース、見た?」
「うん。“病院で消える患者”ってやつ」
「ここじゃないよね?」
「…たぶん、違うと思う」
(AM11:03)
(足音)
「すみません、番号呼ばれた気がして…」
「お名前をお願いします」
「…えっと…」
「お名前をお願いします」
「…俺の名前…」
「確認しますね」
(キーボードの音)
「申し訳ありません。あなたの記録は、存在しません」
「え?」
「こちらの病院には、あなたの情報が一切ありません」
「でも、ここにいます」
「申し訳ありません。登録なさるか、お帰りください」
「俺は…ここに…」
「登録なさるか、お帰りください」
(AM11:05)
「ララ…カラ…カラ…」
(声?)
(AM11:09)
「OK Google、俺は消えてないよな?」
「(電子音)」
「OK Google、俺は消えてないよな?」
「(電子音)」
「OK Google、俺は消えてないよな?」
「(電子音)」
「OK Google、俺は消えてないよな?」
「(電子音)」
「だからっ! 俺は…」
(AM11:17)
「うぅ…っ…誰か…助け……」
(うめき声)
(AM11:26)
「OK Google、俺はここにいるよ?」
「(電子音)」
「OK Google、俺は誰かに見えてるよ?」
「(電子音)」
「OK Google、生きてるってば」
「(電子音)」
「OK Google…OK Google…OK Google…OK Google…」
(AM11:39)
「次、何番?」
「さっきと同じだよ」
「でも、もう1時間30分は経ってるよ?」
「さっきと同じだよ」
(PM12:00)
(アナウンス)本日午前の診療は終了いたしました。
<了>
T総合病院の風景 犬神堂 @Inuzow
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