第3話『革命の芽生え』
保健室を出たとき、廊下にはまだ焦げた匂いが漂っていた。陽光が窓から差し込み、埃の粒子を黄金色に輝かせているが、空気は重く淀んでいた。教室での騒動の余波が、校舎全体に広がっているようだった。
カイは無意識に手のひらを握りしめる。ミサキ先生が巻いてくれた包帯の下で、火傷の痛みが鈍く疼くが、それよりも先生の言葉の余韻が頭から離れなかった。
保健室で明かされた秘密――感情は、異能に変わる。歴史上の偉人たちも、その力を持っていた。キリストの慈悲が奇跡を生み、モーセの怒りが海を割ったという記録。
国が隠蔽した真実が、カイの心をざわつかせていた。胸の奥で、何かがざわつく。それは恐怖でも不安でもなく、燃え始めた小さな炎のような感覚だった。抑え込まれていた怒りが、ようやく解放の兆しを見せ始めている。カイは深呼吸をし、廊下を歩きながら、リクの姿を探した。
リクは少し先を歩き、肩をすくめて振り返った。
「おい、ぼーっとしてんじゃねぇよ。次はどうすんだ?」
その声に、カイは小さく頷いた。二人は教室に向かう足を速めた。
教室の前から中を覗くと、空気は重苦しく沈んでいた。机を寄せ合って怯えるクラスメートたち。
教師は職員室へ駆け込み、未だ戻ってこない。クラスメートたちは小さなグループを作り、互いに顔を寄せ合って囁き合っていた。
「……まだ信じられねぇ」
誰かがつぶやき、別の誰かが頷く。
「見たんだ……炎が出て……リクの目が……」
声は震えていて、制御バンドの警告灯がちらちらと赤く点滅する。ある女子生徒はノートに顔を埋め、肩を震わせていた。男子生徒の一人は窓辺に立ち、外のグラウンドを眺めながらため息をつく。
教室の壁に貼られた校則のポスターが、皮肉のように皆を睨んでいる。
「怒るな、喜ぶな、恐れるな、悲しむな」
数時間前の出来事が、皆の心に深い傷跡を残していた。焦げた机の匂いがまだ残り、窓ガラスに残るひびが、事件の生々しさを物語る。
そのとき、カイとリクがドアを開けて入ってきた。ざわめきが一斉に走る。生徒たちの視線が二人の上に集中し、息を潜めた沈黙が広がった。
「ひっ……!」
誰かの小さな悲鳴が聞こえ、別の生徒が呟く。
「また暴れるんじゃ……」
クラス全体が怯えに支配される中、リクは堂々と歩みを進め、カイの隣に立った。その態度は挑発的ですらあったが、瞳には奇妙な自信が宿っていた。
リクは教室を見回し、にやりと笑った。
「ビビってんじゃねぇよ。俺らはただ……本気で生きたいだけだ」
リクの声が、教室の空気を震わせた。言葉は荒々しかったが、そこに込められた本気の叫びが、皆の心に響く。制御バンドが反応し、赤い灯が点滅する生徒もいたが、誰も立ち上がらない。ただ、視線が二人の上に留まる。
誰も返事をしない。だが誰も目を逸らせなかった。
カイは胸の奥で熱を感じながら、静かに口を開く。
「……抑えられてるだけじゃ、俺たちは死んだままだ」
その言葉に、一瞬だけ空気が揺らいだ。恐怖だけじゃない――どこか、憧れのような眼差しがカイとリクに向けられる。ある生徒の目が輝き、別の生徒が拳を握る。
ミサキ先生の言葉がカイの頭をよぎる――感情の系統、異能の可能性。教室の空気が、少しずつ変わり始めていた。小さな“芽”が、確かに芽吹き始めていた。それは、抑圧された感情が、ようやく表面に現れようとする兆しだった。
カイはリクと視線を交わし、互いに頷いた。教室での対決が、秘密の共有を経て、ここでクラス全体に波及し始めている。
昼休み。ざわつく教室の片隅で、カイは弁当を開く気にもなれずに座っていた。胃が縮こまり、食欲が湧かない。
生徒たちは彼とリクを遠巻きに眺め、誰も近づこうとはしない。まるで隔離された存在――危険物のように扱われ、机の周りに空席が広がっていた。
リクは自分の机で足を組み、スマホを弄びながら周囲を睨んでいる。クラスメートたちの視線が刺さるように感じ、カイは窓の外を眺めた。
グラウンドでは他のクラスの生徒たちが笑い声を上げ、普通の学校生活を送っている。だが、この教室だけが異質だった。朝の出来事が、皆の日常を歪めていた。
そのとき、声がした。
「……ねえ」
振り向くと、ユウナが立っていた。いつもは目立たない少女。クラスメートの中でも静かで、髪を長く垂らし、眼鏡をかけた地味な印象の彼女だった。だが今日は、瞳の奥に確かな光が宿っていた。
ユウナはカイの隣にそっと近づき、小さく息を吐いた。
「さっきの……見たよ」
小さな声だったが、震えてはいなかった。
カイは驚いて目を丸くした。
「怖くなかったの?」
思わず聞き返す。炎と恐怖の衝突を思い浮かべ、ユウナのようなおとなしい子が怯えないはずがないと思った。
ユウナは首を横に振った。
「違う。……私も、同じだから」
カイとリクは同時に息をのむ。
リクがスマホを置き、身を乗り出した。
「同じって……どういう意味だ?」
ユウナはゆっくりと制服の袖をまくり上げ、制御バンドを指でなぞった。
その瞬間、空気がわずかに湿り、カイの頰を冷たい風がかすめた。
――水。彼女の力は、悲しみを源とした「水」の異能だった。保健室でミサキ先生が説明した感情の系統――悲しみは浸食、つまり水のような流動的な力。
ユウナの瞳が潤み、声が少し震えた。
「いつも我慢してた。でも……抑えられてばかりじゃ、苦しい」
ユウナの瞳が揺れ、涙が一滴、手の甲に落ちた。すると、その涙は水滴のまま宙に浮かび、小さな球体をつくる。水球は虹色に輝き、教室の光を反射してきらめいた。
カイは息を飲み、周囲を見回した。
幸い、他の生徒たちは遠くで話に夢中で気づいていない。
カイは拳を握る。自分とリクだけじゃない。ここにも“仲間”がいる。胸の炎が熱を帯び、希望のようなものが芽生えた。
リクがにやりと笑った。
「いいじゃねぇか。面白くなってきた」
リクの声には興奮が混じり、朝の孤独な暴走が、ようやく仲間を得た喜びに変わっているようだった。
ユウナは袖を下ろし、水球を消した。
「私も……本気で生きたい」
その言葉は小さかったが、確かな決意を込めていた。三人は互いに視線を交わし、昼休みの残りを密かに語り合った。
ユウナの過去――家族の厳しい教育で感情を抑え込まれ、悲しみを水として溜め込んできたこと。カイは自分の怒りを、リクは恐怖を共有し、ミサキ先生の秘密をユウナに少しだけ明かした。教室の片隅で、三人の絆が静かに結ばれ始めた。
――その日の放課後。カイ、リク、ユウナの三人は学校の裏庭に集まった。夕日が赤く染まり、影が長く伸びる。校舎の裏側は木々が密集し、人目につかない場所だった。風が葉を揺らし、遠くから部活動の声が聞こえる。夕暮れの空気が涼しく、三人は地面に座り、輪をつくった。
彼らは初めて真正面から向き合った。カイは包帯の掌を確かめ、リクは地面に石を投げ、ユウナは膝を抱えて座った。
「ここから始めるんだ」
リクの言葉に、カイとユウナは頷く。小さな炎、水滴、そして恐怖の残滓。三つの感情が交わり、まだ頼りないながらも確かな“火種”となった。リクとカイの選択の言葉が、ここで現実味を帯びる――力を何に使うか。
夕暮れの裏庭。三人は輪をつくり、互いの距離を詰めた。まだ互いの力をうまく制御できるわけじゃない。だが、確かめなければならない――“共鳴”の可能性を。ミサキ先生の説明を思い浮かべ、感情の系統が交わることで何が生まれるか。リクが立ち上がり、拳をぎゅっと握りしめた。
「まずは俺が行く」
恐怖の残滓が周囲に広がり、空気がびりびりと震える。黒い影のようなものが三人の周りを這い、冷たい風が吹き荒れる。普通の人間なら足がすくむはずだが――カイは逆に心臓の奥に火が灯るのを感じた。
ユウナの瞳が少し揺れるが、彼女は耐えた。
「リク……お前の恐怖、俺が焼き尽くす」
カイの胸から炎が立ち昇り、拳の先を淡く照らす。それはリクの恐怖を拒絶するのではなく、抱きしめるように包み込んでいた。炎の熱が影を溶かし、暖かな光が広がる。
「……あったけぇ」
リクの唇がゆるむ。恐怖が恐怖ではなくなっていく感覚に、彼自身が驚いていた。異能の暴走が、仲間によって浄化されるような体験。
ユウナが一歩前へ出る。
「じゃあ……私も」
彼女の指先から滴り落ちる涙が、宙に浮かぶ水球となって揺れる。炎に照らされ、虹色にきらめいた瞬間――三つの力が交わった。
炎が水に熱を与え、水が蒸気となり、蒸気が恐怖の震えを拡散させる。それは小さな「嵐」のように三人を包み、互いを繋げる光となった。風が渦を巻き、葉が舞い上がり、三人の周囲が幻想的な光に満ちる。
カイは息をのみながら呟く。
「これが……俺たちの力……!」
その声に、ユウナもリクも笑った。ユウナの涙が喜びに変わり、水球が優しく輝く。リクの恐怖が力強い自信に転じ、カイの炎が希望の灯火となる。三人は手を繋ぎ、共鳴の余韻に浸った。
夕日が沈み、星が現れ始める空の下で、彼らの絆は強固になった。だが、その光景を見下ろす影があった。
校舎の三階、薄暗い窓の向こう。ひとりの人物がじっとこちらを観察している。教師か、それとも……? ガラスに反射した目が、ぎらりと光った。自分たちの「革命の火種」が、すでに誰かの視線に捉えられている――。その人物はノートを手に、何かをメモし、静かに窓から離れた。
夕風が吹き、裏庭の葉を揺らす中、三人は未来を語り合っていた。カイは胸の熱を感じ、
「もっと仲間を集めよう」
と提案した。
リクは笑い、
「ぶっ壊すぞ、この社会」
と宣言。
ユウナは頷き、
「一緒に、自由に生きよう」
と続けた。
彼らの声が夕闇に溶け、革命の芽が静かに育ち始めていた。ミサキ先生の予言が、現実となりつつある。校舎の影が長く伸び、三人を包むように広がった。
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