第2話『保健室の秘密』
教室に残ったのは、焦げた机とざわめく生徒たち、そして教師の引きつった顔だった。
黒煙の残り香が鼻を突き、窓ガラスに微かなひびが入っていた。蛍光灯の光が揺れ、教室全体がまだ熱気と寒気の余韻に包まれている。
生徒たちは互いに顔を見合わせ、震える声で囁き合っていた。
「……い、今のは……なんだったんだ……?」
誰もが問いかけるように口を開くが、声はか細く震えていて、制御バンドの警告灯がちらちらと赤く点滅する。
ある女子生徒は机に突っ伏して泣きじゃくり、男子生徒の一人は壁に寄りかかって息を荒げていた。教師は顔を青ざめさせ、額の汗を拭いながら、必死に秩序を回復しようと声を張り上げた。
「み、皆、落ち着け! 今、校長に連絡するから……」
しかし、その声さえも震えていて、説得力がない。
教室の空気は、さっきの異能の衝突で張りつめ、誰もが心の奥底で何かが変わり始めた予感を感じていた。この出来事が、ただの騒動ではなく、抑圧された感情の解放の始まりだったことを、皆が薄々察知していた。
カイは拳を開いたまま、荒い息を整えていた。掌の赤みがひりつくように痛み、皮膚がわずかに水ぶくれを形成し始めていた。それよりも胸の鼓動の方が収まらない。心臓が激しく打ち、血液がまだ熱を帯びているような感覚が残る。
隣ではリクが机に腰をかけ、にやにやと笑っていた。リクの目は輝き、制御バンドの残骸を指で弄びながら、カイを見据える。
「お前、隠してやがったな。俺と同じだ」
その言葉には、仲間を見つけた喜びのような響きがあった。カイが炎の異能を露わにした瞬間、リクの表情に浮かんだ安堵を、カイは今思い返していた。
あの時、二人の間に生まれた火種が、今ここで再び燃え上がりそうになる。
「……黙れ」
カイは低く答えたが、その声に力はなかった。むしろ、疲労と興奮の混じった複雑な感情が声に滲み出ていた。体内の熱がまだ完全に収まらず、指先が微かに震える。
クラスメートたちの視線が二人の上に注がれ、好奇心と恐怖が入り混じった空気が流れる。ある生徒はスマホを手に取り、隠し撮りしようとしたが、教師に制止された。
教室のざわめきが徐々に大きくなり、誰かが「警察呼んだ方がいいんじゃ……」と呟く声が聞こえた。
そのとき、教室のドアが静かに開く。白衣を纏った保健の先生、ミサキが姿を現した。彼女の足音は軽やかで、乱れた教室の空気を切り裂くように入ってきた。
「騒がしいわね。……誰か、ケガをした?」
彼女の目が教室を一瞥する。
生徒たちは一斉に視線を逸らした。
恐怖と混乱の中で、彼女だけが落ち着いていた。ミサキ先生の表情はいつも通り穏やかだが、瞳の奥に鋭い光が宿っている。白衣の袖口がわずかに揺れ、消毒液の匂いが微かに漂う。
彼女は教室の焦げ跡を一瞬見て、眉をわずかに動かした。
教師が慌てて近づき、「ミサキ先生、こ、これが……」と説明しようとしたが、彼女は手を挙げて制した。
「後で聞くわ。まずは負傷者よ」
ミサキの視線はすぐにカイの掌に注がれる。彼女の目は訓練されたように、瞬時に火傷の程度を把握したようだった。
「その手……保健室へ来なさい」
カイは反射的に後ずさる。
「い、いや……大丈夫だ」
声が上ずり、掌を隠そうとしたが、痛みが走って顔を歪めた。
「大丈夫なわけないでしょ」
有無を言わせぬ声。彼女の瞳は、どこか見透かすように鋭かった。ミサキ先生はカイの肩に軽く手を置き、優しくだが強引に導く。
クラスメートたちが息を潜めて見守る中、リクが肩をすくめて笑った。
「行っとけよ。面白いことが聞けるかもな」
その言葉に、カイの胸に嫌な予感が走った。
リクのニヤリとした笑顔が、何かを知っているような気配を醸し出していた。さっきの出来事でリクがカイを「仲間」と認識したように、もしかするとミサキ先生も何かを隠しているのかもしれない。だが結局、抵抗できずに先生の後をついていく。
ざわめく教室を背に、静かな廊下を歩き、カーテンに囲まれた保健室へ。廊下の壁に貼られた校則のポスターが、カイの視界を過ぎる。
「感情を制御せよ」
その言葉が、今の自分を嘲笑うように感じられた。
扉を閉めた瞬間、外の喧騒は消え、別世界のような静けさが訪れた。漂う消毒液の匂いの奥に、何か――得体の知れない気配があった。
保健室は白い壁とカーテンで囲まれ、ベッドが二つ並び、棚に薬品が整然と置かれている。窓から差し込む午後の光が、柔らかく部屋を照らし、埃の粒子が舞う様子が幻想的だった。
ミサキ先生は鍵をかけ、静かに息を吐いた。
「座って」
淡々とした声でカイをベッドに促す。白いシーツに腰を下ろすと、掌のひりつきが改めて強調されたように痛んだ。
シーツの冷たさが体に染み、興奮した体温を少しずつ下げていく。
先生は手袋を外し、丁寧にカイの手を取る。彼女の指は細く、冷たく、プロフェッショナルなタッチだった。
「……やっぱり、火傷ね」
彼女は指先で皮膚をなぞり、冷たい薬を塗り込んでいく。
スッと沁みる感覚に、カイは思わず顔を歪めた。
薬の匂いが消毒液と混じり、部屋を満たす。痛みが和らぐのを感じながら、カイは先生の顔を覗き込んだ。ミサキ先生は30代半ばくらいで、黒髪をポニーテールにまとめ、眼鏡の奥の瞳が知的な印象を与える。
「普段は……感情制御バンドで抑えているんでしょう?」
突然の質問に、カイは頷いた。
「……はい」
「でも今日は、抑えきれなかった」
カイは顔を上げる。
先生の瞳はどこか鋭く、しかし温かさもあった。ただの“治療”ではなく、“見抜かれている”ような感覚。彼女はバンドの仕組みを知っているようで、カイの異能を自然に受け止めている。
炎の暴走を、彼女は遠くから察知していたのかもしれない。
「あなたの力は……“怒り”に近いのね」
「え……?」
唐突な言葉に、カイは息をのんだ。心臓が再び激しく鼓動し、掌の薬が沁みる痛みが一瞬忘れられた。
ミサキ先生は一瞬だけ躊躇し、しかし小さく笑う。
「人の感情はね、甘い・苦い・酸っぱい・しょっぱいみたいに、いくつかの“系統”に分けられるのよ。怒りは炎、恐怖は影響力、悲しみは浸食、喜びは解放……。そういう具合に」
彼女の説明は、味覚の比喩を使って分かりやすく、しかし深遠だった。
カイは呆然と耳を傾けた。頭の中で、リクの恐怖が「影響力」として広がった様子を思い浮かべ、自分の炎が「怒り」の産物だと実感した。
「……そんな話、聞いたこともない」
「当然よ。国は発表してないもの」
先生の声が少しだけ低くなる。彼女は棚から包帯を取り出し、カイの掌に巻き始めながら、続ける。
「私はかつて研究者だった。感情と異能の関係を体系化しようとして……でも、それは“危険思想”とされて追放された」
消毒液の匂いの奥に、隠しきれない緊張が漂う。ミサキ先生の声には、過去の苦痛が滲み出ていた。
彼女は大学や研究所で働いていた頃を思い浮かべているようで、眼鏡の奥の瞳が遠くを見る。
カイは掌を握りしめた。この人は、自分とリクの“正体”を、最初から見抜いていたのかもしれない。教室の騒動を聞きつけて来たのも、偶然ではない気がした。
「……なぜ俺に、そんな話を?」
問いかけるカイの声はかすれていた。喉が乾き、緊張で言葉が詰まる。
ミサキ先生は答えず、窓の外に視線を向けた。外では生徒たちがグラウンドで遊ぶ姿が見え、遠くの街並みが午後の陽光に輝いている。
「いずれ分かるわ。あなたが、選ぶときが来るから」
その言葉は予言のように響き、カイの胸に重くのしかかった。雁字搦めの教室で生まれた火種が、ここでさらに燃料を注がれたような感覚。ミサキ先生は包帯を結び、軽くカイの肩を叩いた。
「これで大丈夫。安静にね」
「へぇ……やっぱり面白ぇこと話してやがるな」
不意にドアが開き、リクが保健室へ入ってきた。彼は椅子に腰かけるでもなく、壁にもたれ、ニヤニヤと笑っている。その姿に、カイは思わず眉をひそめた。
「勝手に入るな」
「お前の溜まった鬱憤晴らせたのは俺のおかげだろ?礼ぐらい言えって」
挑発するような声。だがその奥には、妙な親しみの響きもあった。
教室での対決で、リクはカイの炎に抑えられたが、それが逆に信頼を生んだようだ。リクの目は好奇心に満ち、ミサキ先生を観察している。
ミサキ先生は二人を交互に見やり、ため息をつく。
「あなたたち、似ているのね。抑えつけられるほど、感情が力に変わる」
彼女の言葉は的を射ていて、カイとリクは互いに視線を交わした。
リクは唇を歪めた。
「似てる? へっ、俺はただムカつくだけだ。こんな規制だらけの社会、全部ぶっ壊したくて仕方ねぇ」
その目には、炎に似た光が宿っていた。リクの声には、抑圧された怒りが滲み、暴走を思い起こさせる。
ミサキ先生は表情を引き締め、低い声で告げる。
「……その思想こそ、危険とされてきた。歴史上、感情に力を宿した者たちは“異端”として消されてきた。だけど――本当は違う」
彼女は一瞬だけ言葉を切り、声を潜める。
部屋の空気が張りつめ、時計の針がカチカチと進む音が聞こえる。
「キリストも、モーセも、ブッダさえも……“感情”の異能を持っていた、という記録がある」
カイとリクは同時に息を呑んだ。
「は……? そんなの、教科書には……」
「消されたのよ。都合が悪いから」
ミサキ先生の言葉は、歴史の闇を暴くようだった。彼女は古い書物や隠された文書の存在を匂わせ、国の規制が感情異能者を抑え込むためのものだと示唆した。
窓から差し込む午後の光が、先生の横顔を照らした。その瞳には、静かだが確かな決意が宿っている。彼女自身が追放された過去を乗り越え、ここで生徒たちを守ろうとしているのかもしれない。
リクが笑う。
「面白ぇじゃねぇか。つまり俺らは、その連中と同じってわけだ」
「違う」
ミサキ先生が即座に遮った。
「あなたたちは“まだ選んでいない”。その力を何に使うか……それ次第で、あなた自身の未来が決まる」
彼女の声は厳しく、しかし優しかった。
カイは手のひらを握りしめ、炎の残滓を感じていた。包帯の下で熱がくすぶり、未来への選択を迫るようだ。
リクは小さく鼻を鳴らし、しかし視線を逸らさない。
保健室の時計が、カチリと音を立てた。その音が、決断を迫る合図のように響いた。
三人は沈黙に包まれ、部屋の空気が重くなる。外の廊下から生徒たちの声が遠く聞こえ、日常が続いていることを思い出させる。だが、この保健室で明かされた秘密は、カイとリクの運命を変えるものだった。革命の炎が、ここでさらに広がりを見せ始めていた。
ミサキ先生は立ち上がり、
「今日はこれまでよ。教室に戻りなさい」
と促した。
カイはベッドから降り、掌を確かめる。痛みは和らいでいたが、心の熱は増していた。 リクと並んで部屋を出る時、二人は無言で頷き合った。これから、何かが始まる予感がした。
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