天繋2ft

煩悩寺オロカ

天繋2ft

「正太郎が死んだ」


 親父の声は小さく震えていた。この声はいつだかにも聞いた。あれはいつだったか、…そうだ、お袋が出てったときだ。



 うすらぼんやりとした月が夜空で居心地悪そうにしている。月明かりより遥かに明るい街灯の下を通ってエントランスに入って綺麗じゃない語呂合わせを思い出しながら部屋番号を入力しインターホンを押す。返事はなくオートロックの鍵が開く音だけが聞こえた。


 桃子は見た目も可愛いし、セックスの時も割と献身的だ。ただ難点を挙げるなら、この女が俺を呼ぶ時は大抵ヘラってる時ってことだ。仕事先の同僚に悪口言われたとか、本命の男の子に彼女が出来たとか、同伴の客にキモイこと言われたとか、理由やその程度の大小に関わらずこの女は一様に凹む。ダックアップルみたいに浮き沈みが激しい。

 以前も聞いたような相談やら悩み事を曖昧な言葉で躱す。女性がこの手の話をしてくる時、欲しているのは解決方法ではなく共感やら肯定なのだと雑誌か何かで見た気がするが、ただ聞いて頷くだけというのも辛い時間ではある。俺はとかく何にでも口を挟みたくなる気質なのだ。だが下手に口を挟めば桃子のモチベーションに影響する。主に悪い方にだ。    

 行為の後の、寧ろ本番とすら思える長い慰めと励ましのピロートークを乗り切った俺のライフはもうゼロだった。

 何人に見られたか分からない可愛らしくもアホみたいな寝顔した女の身体から絡まる手足を解いてゆっくり静かに起き上がる。スキンをティッシュに包んでゴミ箱に投げ捨て、スマホを手にした。時刻は十二時過ぎ。気づかなかったが親父から不在着信が四件。親父は連絡がマメな方じゃない。嫌な予感がした。暗がりで脱ぎ散らかされた服を拾いながら桃子を起こさないように部屋を出る。腰を屈めてトランクスを履きながら留守電を再生した。最高にかっこ悪い姿勢で冒頭に戻る。



 とまぁ、物語は得てしてドラマチックなプロローグで始まるものだ。恥ずかしい格好で訃報を聞くことをドラマチックと形容していいのかは分からないが、生憎これ以外にこの状況をどう言い表せばいいのかを俺は知らない。とりあえず俺は今後セリフがあるかも分からない兄貴、正太郎に思いを馳せた。

 兄貴は弟にとって強靭無敵最強の存在だ。たった一つ歳が上なだけなのに、だ。大抵の兄弟はそうだと思う。ウチの兄貴は優しくて飄々として女の子にモテた。昔アニメで見たナンチャラ谷の緑色の旅人みたいな男だった。奴との思い出は尽きることがない。


 俺らが小学生の頃、兄貴がパームとシンカーの投げ方を教えてくれた。兄貴は決意に満ちた目で俺に「兄弟二人で甲子園を目指そう」と言った。俺らは二人とも高校までサッカー部だった。


 中一の頃、転校して中々クラスに馴染めず、森山たちに虐められてた時も兄貴が真っ先に駆け付けて飛び蹴りを入れてくれた。高校生の森山の兄貴が出てきて二人してボコボコにされたが、後日仕返しで腐った卵を二人でぶつけた。そんな俺らを親父は相当怒ったが、その後「頑張ったな」と褒めて抱きしめてくれたのを覚えている。


 高校に入ると、兄貴は俺に洋楽の嗜み方を教えてくれた。最初はビリー・ジョエルから始まってレッド・ツェッペリンとかアース・ウィンド・アンド・ファイアとか。とにかく何でも兄貴に勧められるがままに聞き耽った。悩める青い春のガキ共だから最終的にはロックに辿り着いて、ビートルズとかセックス・ピストルズとかオアシスに落ち着く。俺はノエル派で兄貴はリアム派だった。弟は兄を讃え、兄は弟を求める。N極とS極だ。俺ら兄弟は特別仲悪かなかったけどな。



 ジャケットに袖を通して泥棒よろしく静かに玄関を出た。


 アパートの階段を降りながら浮かぶ思い出の兄貴はまるで良い奴だった。もっとくだらない理由で喧嘩もしたし、ガキの頃は散々泣かされたと思うけど。或いは日常風景すぎて特に記憶にも残してないのかもしれない。

 いつの間にか朧月は雨雲に隠れていて俺は雨に打たれながら、愛機のカタナを押した。濡れた車道に出て跨る。一旦、家に戻って着替えてタクシーを呼ぼう。

 兄貴が本当に死んだなら俺は今すぐにそこに駆け付けるべきなのだ。なのに何で俺はこうも落ち着いて計画を立てているのか。今すぐにでも狼狽えて叫んで咽び泣いたっていいのに何処か冷静で落ち着いた俺がいて、そいつが荒ぶる感情の獣から俺自身を守ってくれる。そんなこと頼んでもいないのに。雨の中をただひたすらに進む。



 家に戻って直ぐにシャワーを浴びる。雨で奪われた熱が身体の奥に戻ってくるのを感じた。排水口へ向かう流水を眺めながらここで初めて吐き気に襲われる。奥歯を食いしばりながら纏わり付く甘い香りやすえたような匂いを落として、ゴワゴワのバスタオルで身体を吹く。


 着替える前にタクシーを呼んだ。シャワーを浴びる前に呼ぶか迷ったのだけど、浴びてる最中に来られても困る。ただ、それでもその方が良かったかもしれない。

 小さな暇は俺に考える時間を与えた。伽藍堂の脳みそは思考を堂々巡りに陥れて、俺は毒に体を犯されたように、病に悶えるように部屋の中を右往左往する。

 次第に閉塞感で息が詰まりそうになって外でタクシーを待つことにした。先程まで俺を守ってくれた冷静さは何処に飛んで行ったのか。泡となって流れて行ったのかもしれない。

 落ち着きは取り戻せず、アパートの狭い軒下で歩みを止めることが出来ない。右手に持ったスマートフォンで何度も何度も時間を確認しながら。


 強かった雨は次第に細く糸のようになって世界を覆う。雨にヘッドライトの光を滲ませながら車が一台止まり、それがタクシーだと気付くまでに数秒を要した。目の前で後部座席のドアが開いたので、耽っていた有る無し事に休止符を入れて再度時間を確認する。タクシーを呼んでからわずか六分。刹那のような永劫のような、もう二度と訪れることのない六分間だった。


 電話越しで行先は伝えてあるのだけど、運転手は一応俺に間違いないか確認をとって、俺も短く「そこまでで」と切り返す。俺は窓の結露を人差し指で横一線に拭って霧のようになった雨を眺める。拭った跡から水滴が幾つか垂れて、タクシーはやっと発進する。

 俺はタクシー運転手か、この世界か、或いは自分自身への苛つきや焦りを心の内で必死に噛み殺して車内で小さくじっとしている。

 この辺りから、何か考えようとしても何も考えられなくなっていて、頭の中でちっぽけな俺が“兄貴、兄貴、”と呟くだけで最早兄貴との記憶を喚び起こすこともない。車内の生ぬるい空気にまた吐き気を覚えつつ、何も出来ないまま車窓の風景のみが変わりゆく。乗車して三十分程度経ったくらいで県境を越えた。


 運賃をトレイの上に載せて、ドアが開く。警察署に着いた頃には時刻は一時半を過ぎていた。それでも署内は酔った外国人と思しき人たちが十数人近くいて騒がしかったけど。

 受付窓口というのか、男性警察官だか職員だかに事情を話して地下にある安置室に通してもらう。電気は着いているのに廊下は薄暗く見えたのはここが地下で窓の一つもないからだろうか。通路途中にベンチがあってそこに背を丸めて座ってる男が親父だと気付いた。俺はなんだか色々と堪えられなくなって親父の元に駆け寄る。案内してくれた警官が手で止めようとしたが、俺は彼と目を合わせて彼は自然と手を引いてくれた。


「親父」


 俺の言葉で初めて親父は俺を認識した様だった。俺が来るまで一人で静かに泣いていたのだろう。目元が赤く腫れている。


「来たか鉄」


 親父は泣き疲れてひび割れたような声を絞り出して立ち上がった。思い出の中では俺より遥かに大きかった親父の頭頂が目に映る。

 親父が俺のことを「鉄」と呼ぶのはいつ以来だろうか。まだ家族が四人いた頃ではないだろうか。お袋が別の男作って出ていってからは「鉄」と呼ぶのは兄貴だけだった。


「あっちだ」


 親父は体を重たそうに、引き摺るように歩き出して一つの扉の前で止まった。親切な警官がドアを開けてくれる。中に入ると不思議な匂いがする。火の匂いも確かにするのだけど、それとはまた別の。これは何の匂いだろうか。

 ふと振り返れば親父は見えない結界に阻まれたように扉の前で立ち止まっていた。俺は意外と広い部屋の中にポツンと横たわる白い布に覆われたソレが兄貴なんだろう、そう思った。親父の目がそれを射穿くようにしていたからだ。俺はゆっくりとそれに、俺の兄貴に近付く。


「顔は見ない方がいい」


 背後から親父の声がした。無視をしたい訳じゃないが、見なければならないと強く思った。不可解な責任感が手を動かして俺は顔と思しき部分に掛けられた白い布を退かす。


「 」


 何も言えなかった。今までどうやって口を閉じていたか、何処に舌を置いていたか、それすら分からなくなる。口の中いっぱいに真綿を詰められるような苦しさを覚えて喉を震わせても漏れ出るそれは嗚咽でしかない。肚から重くて鈍い鉄のような何かがせり上ってきて、それを無理やり吐き出そうとして咆哮になった。


「可哀想になぁ。トラックに轢かれて、そんで長い間雨に打たれてなぁ。本当に、可哀想に」




 そこからどう時間が過ぎていったのかわからない。俺より三十分か一時間遅れてきた叔父さんが手続きやら何やらを手伝ってくれた。本当なら親父か俺かが主体となってやるべきなんだろうけど、俺ら親子は悲しみの膜に覆われて世界が遠く見えていた。親父は時折叔父さんに話し掛けられて「うん」とか「あぁ」とか「いや、」とか短く返すだけだった。

 色々と済んで家とか役所に取りに行かなきゃならない物、やらなきゃならないことを確認して、警察署を出ると雨が止んでいて辺りは冷えて澄んだ空気に包まれている。空を見れば日はまだ見つけれらないが確かに白んでいて宇宙の黒が端っこに追いやられている。時刻は五時に近かった。


 叔父さんに、心配だから暫くは傍に居てやれと言われ、俺は親父と一緒に帰ることにした。親父は車で来たらしいが、こんな衰弱したような親父に運転させちゃ、俺らも兄貴の二の舞になりかねない。俺も似たようなものかもしれないが、一徹くらいなら若さでどうにか出来る。そういう根拠の無い弱々しい気勢だけが今の俺を立たせている。


「運転する」


 俺の言葉に親父は何を言うでもなく、鍵を渡してきた。普段なら絶対俺らには運転させなかった親父が無言で助手席に乗り込んだ。

 ……思い出す。親父が愛車を俺らに運転させなかったその原因も兄貴にあった。確か免許取って間もない頃にドライブデートか何かで親父の車を借りて擦ったんだ。兄貴は土下座をかましたが、最終的に取っ組み合いの喧嘩にまでなっていた。兄貴の卒業式が近かったのに親子揃って似たようなとこに傷を作って、式には二人ともガーゼを付けて行った。身内として少し恥ずかしかったし、それが原因なのかは知らないが兄貴はその当時の彼女と別れた。


 俺はカーステレオを適当に弄ってFMのどっかの局にチャンネルを合わす。知らないブルースが流れていた。エンジンを少しふかせて思う。腹が減った気がするし、なんだかんだ俺も眠気はある。カフェかファミレスにでも寄ろう。親父も反対はしないだろうし、今すぐ実家に帰るよりはいい気がした。


 ハイウェイ手前の二十四時間空いてるファミレスに入る。ここを通る度に見かけはするが実は入ったことがなかった。ギアをパーキングにいれてエンジンを切る。シートベルトを外すと親父も無言でそれに続いた。車から下りると硬いアスファルトに沈むように錯覚して躓きそうになる。必死に両の足で地面を掴もうとするが身体がぐわんと揺らいで開いたままのドアに手をかける。

 こけそうになったのを誤魔化すようにドアを閉めて姿勢を正すと助手席から降りてきた親父が「鉄雄は運転上手いな」と呟いた。それは俺に話しかけてきたのかもしれないが、それにしては声がか弱く俺は何と返せばいいのか分からなかった。


 店内は時間帯のせいもあってか俺ら以外の客は二組しかいない。メニュー表を二冊取って一つは親父の方に置くが親父はそれを開かない。タッチパネルが反応しなくて、仕方なくやる気のなさそうなウェイトレスを呼んでコーヒー二つとサンドイッチを注文する。頼んでから後悔する。食べる前から胃に重たさをもたらした。それからは「最近は何処も全面禁煙だな」みたいな至極どうでもいい話をした。そうやってお茶を濁してないと俺も親父も互いの顔を見てられなかったんだと思う。

 俺と親父の前にコーヒーが運ばれてくる。二人して無言で啜る。遅れて来たサンドイッチはメニュー表に記載のあった写真よりもサイズが小さく見える。小さなバスケットに三切れ。俺と親父で一切れずつ食って、それでも一つ余らせた。


 それからは、特に何もない。いや厳密には色々あったが、やっぱり特筆すべきことは何もない。少しの親子の会話はやはり他人様に聞かせるような内容ではない。


 実家についたのは八時過ぎだった。玄関の鍵を開けてドアノブを回す。親父は靴を脱ぐとフラフラとした足取りで居間のソファにその身を預けた。それで泣いた。親父はこんな泣き方するんだなぁ、とか間抜けなことを俺は考えていた。

 テレビをつけたらニュースがやっているが、昨夜の交通事故の話は特に報道されない。これから報道があるのか、もう終わったのか。或いは今日のニュースじゃ取り上げないのかもしれない。今報道しているのは一家惨殺事件の内容で、この事件も最近世間を騒がせていたが、昨日の俺ならともかく今日の俺にはどうでもいい事だった。


 なんとはなしに兄貴と俺が共用で使っていた部屋に入る。

 俺ら兄弟はずっと二人でこの部屋を一緒に使っていた。正直高校生くらいになってからは身体も大きくなっていたし互いの存在を気にして彼女も友達も呼べないしで不便だったし、兄貴が大学に行っても俺がこの部屋でお一人様を満喫出来たのは一年間しかない。その一年だって部活や受験で忙しくて、本当に寝るためだけの部屋でしかなかった。


 俺らがこの家を出てからは倉庫というか物置になっているようだったが俺らが使っていた物もけっこう残っていて、さっさと捨てればいいのに傷だらけの大きな本棚が部屋の隅を陣取っていた。キャスター付きの椅子に腰掛けて本棚を眺めれば昔読んでいた漫画やらゲームのソフトにCDがずらっと並んでいる。棚の隣には今はもうママタレになったグラドルのポスターが日に焼けて色褪せていて、これらを見るだけでこの机の持ち主の不真面目さが分かる。


 ぱっと目についた分厚い茶色の背表紙の本を手に取ると、字は掠れているが、それが辞書だと分かった。ぱらぱらと捲っているとエロい単語に蛍光ペンでマーカーされていて、思わず「くだらねー」と口に出そうになる。これは兄貴が線を引いたのだろうか、まさか俺なんてことはないだろう。他にも何かないか探していると兄貴の高校の卒アルを見つけた。

 写っている写真を三枚ほど見つけたがどれもこれも真面目そうな顔でふざけたポーズを取っている。試しに小中の卒アルも見てみたが全くと言っていい程成長が見られない。葬儀が終わって少しして落ち着いたら、このお調子者の写真を親父に見せてやろう。いや待てよ、他にいい写真が見つからないとこれの中から遺影を選ぶことになるのか。……いや、それはそれでいいのかもしれないな。


 俺は明日のゼミに出られないことを教授へメールするためにスマホを取り出した。あぁ、今日のバイトも休まなきゃいけない。フリックしては消してを繰り返す。こういう時どういう文章を送るのが正解なんだろうか。少し迷って、それから検索する。結局「身内に不幸があったのでしばらくお休みさせてください」という文章になる。まだ朝の九時手前だったが、教授からは五分くらいで了解の旨の返信が来た。

 部屋を出ると泣き疲れたであろう親父が姿勢を正して座っていた。テレビは付いたままだがそれを眺めているわけでもなく何処か遠くを見ていた。いない兄貴を宙に映しているのかもしれない。喉が渇いてるだろうからと俺は冷蔵庫から二リットルのペットボトルを取り出してコップに水を注ぐ。手元がふらついて少し零した。

 親父の前にコップを置いて、葬儀屋は叔父さんから紹介してもらったところで良いかと親父に訊ねた。親父はコップを手に取ってから短く「それでいい」と口にした。水に一口飲んでから「すまないがお前の方から葬儀屋に連絡をとってもらえないか」と続けた。俺は頷いて「叔父さんにも俺の方から連絡しとく」そう伝えた。親父はもう何も言わなかった。それが木曜の朝の話だ。





 式は金曜日に執り行われた。葬儀場はお世辞にも立派とはいえなかったが、弔問客は予想以上に多くて主催側の俺たちは大慌てだった。そんな中親父はやっぱり心を無くしたように惚けていた。兄貴はやっぱりどうしようもない親不孝者だろう。

 式の途中に受付をしてくれていた従姉妹の姉ちゃんに呼ばれて向かうとお袋がいた。実の息子の葬儀なんだから考えてみれば当然なのだけど、俺はこの時凄く驚いてしまった。だってそうだろう。俺がこの人に会うのは一体何時ぶりだっていうんだ。


「どうして来たんだ」


 思わずぶっきらぼうにそう言ってしまって少し後悔する。別にお袋のことを恨んで突き放してやろうと思ったわけではなくて、初めて赤ん坊を抱かせてもらうのに近い感情があった。どのような力加減で接したらいいのか分からない。

 そりゃあ、知らない男と一緒に出てった直後は少なからず恨んでいたが男所帯にも慣れ、それで色々な事情や人間がいることを知るにつれ次第に恨みも薄れていった。

 何より俺も兄貴も親父も一つの感情をいつまでも抱き続けられるような人間ではなかった。


「あぁ、いや違うんだ。…誰から連絡を?」


「あの人からね」


 お袋はよそよそしさと言えばいいのか、そういった雰囲気で俯いてそう言った。お袋の言う「あの人」とやらは親父のことだろう。


「親父はお袋の連絡先知ってたのか」


「えぇ、離婚したのは私が家を出て数年した頃だから」


 逆に言えばそれまで離婚してなかったのか。そんなことすら俺は知らなかった。兄貴は知っていただろうか。知らなかったに違いない。


「再婚を考えた時に、ね」


「あの時の?」


 別に兄貴の葬儀でお袋が何時何処で誰とどのように新しい家庭を築いたかなんて知りたくなかったが、聞かないわけにもいかなかった。お袋は俯いたまま、ゆるりと首を横に振った。そうか。家を、家族を捨てて一緒になろうとした男とは結婚まではいかなかったのか。


「その、正太郎は」


「自分で目で見て来るといいよ。遺影に写る兄貴すらあんたの知らない兄貴だ」


 俺はさっきの反省をいかして、なるべく柔らかにそう言った。言ってる内容は突き放してるだけだが、今の俺とお袋の関係性ならこれでいいだろうと強く思えた。

 お袋は蚊の鳴くような声で「そうね」と呟いた後、一拍置いて「鉄雄大きくなったね」と言葉を紡いだ。俺は「兄貴と親父のお陰だよ」と返した。

 ほんの少しだけ心が安らかになったような気がした。


 お袋の焼香をあげる後ろ姿をぼんやりと見つめていると、また別の好々爺然とした老年の男性が喪服に身を包んで挨拶してきた。御老人は兄貴が住んでるアパートの管理会社の人間らしい。名刺を貰って俺は後日遺品を引取りに行く約束をした。

 それから火葬を終えて初七日が過ぎて、兄貴が葬儀から一月近く経過してようやっと俺はアパートの前に立っていた。




 葬儀の時に名刺を貰った御老人ではなく、見知らぬ若い青年が鍵を開けてくれる。荷物の分別や搬送に数日かかるかもしれないので鍵を貸してくれないか頼んだら、青年は困ったような顔をしてどこかに電話をかけて部屋の外に出た。


 靴を脱いでフローリングを踏む。一ヶ月程解き放たれることのなかった密室は空気が死に淀んでいる。

 フェンダー社製のギターが二本。横に何に使うのかよく分からないメカニックが並んでいる。本棚に目を移せば小説や漫画、図鑑、辞書色々ある。ホラー映画か何かのポスターの隣にアメコミのポスターが貼られている。兄貴の部屋って感じがした。ここで兄貴はどう生活していたのだろう。光を入れて空気も入れ換えよう。カーテンを開けて窓も開ける。新緑に包まれた若木が見えた。


 管理会社の青年が一週間だけなら、と言って鍵を貸してくれた。直接管理会社に届けてくれと言う。面倒くさい。顔には出さずお礼を言った。


 まず最初に身構えながらキッチンスペースにあった冷蔵庫を開ける。最悪の事態を想定していたが恐れていた光景はなかった。ベーコンが干からびていたくらいで、他はペットボトルの水や冷凍食品がいくつかあるだけだ。男所帯のせいもあって俺たち兄弟はそれなりに料理は出来たのだが、兄貴は一人暮らしでは料理なんてしなかったらしい。それとも最近はそれなりに忙しかったのだろうか。確かに一人暮らしならわざわざ材料を買い揃えて時間をかけて調理するよりも冷凍食品や出来合いのものを買った方が安く済むことも往々にしてある。

 試しに戸棚や収納スペースを開けてみるが調理器具が一切見つからない。皿やコップ、箸なんかの食器は見つけられるがそれらも最低限しかない。…まぁ、捨てる分には構わない、か。


 次にクローゼットを開ける。スペースの割に収納されている服は少ない。兄貴は一体いつからミニマリストになったのか。いくつか手に取って物色する。これから寒くなるというのに冬服が一切見つからなかった。


 ギターはストラトだけ残してテレキャスターは売ることにする。押し入れから出てきた服や本も大半は捨てる。持ち帰れる物には限りがある。スペースには限りがあって、それらのスペースは生者の物で埋められるべきだ、何となくだがそう思った。兄貴を思い出せる物がいくつか手元に残っていれば、それでいいのだ。そんなことを考えながら唯一押し入れの中に収まっていなかったダンボールを開ける。


「 」


中にはロープが入っていた。ロープは片方の先端部分が輪っか状に結ばれている。何となく人の首が掛けられそうだなと思った。

 これまた何となくだが部屋を見回す。丁度よさそうな梁を見つけて、俺は椅子を持っていき梁に輪っかの反対部分を結びつけようと椅子に上る。そこで気付いた。梁の角には縄で締め擦れたような跡が残っている。俺はそこにロープを。


 涙が乾いた頬をつたう。泣きながら、えずきながら俺はロープを結んだ。しっかりとキツく。緩まないように。解けないように。


 俺は輪っかを睨み付ける。そんで初めて気付くことがある。輪っかの中に写真立てが見えた。

 本棚の上にそれはあった。俺は少し背伸びをして写真立てへと手を伸ばした。中には俺たち兄弟と親父が三人、等間隔離れて写った写真が入っていた。野郎三人が耳のついたカチューシャをして恥ずかしそうに、遊園地のアトラクションの前でとった写真だ。

 お袋が出て行って少しした頃のやつだ。覚えている。平日なのに親父が休みをとったからと俺らを遊園地へ。三人で観覧車に乗った時が恥ずかしさのピークだった。


 押さえつけていた感情が玩具を買って貰えなかった子供みたいに暴れはじめて、それを宥める理性もどっかに行ってしまったようで、耐えられなくなって俺は部屋から飛び出した。

 泣きながら、アパートの鍵だけ握って、叔父さんから借りてきた軽トラックも置き去りにして、ただ走る。涙で世界がボヤけ初めて、信号機も見えないくらいに、そんで、そんで、それから俺は車に轢かれた。


 車に当たった衝撃よりも地面にぶつかった衝撃が強く内蔵を駆け抜ける。世界が揺らいで色んなものがフラッシュバックしていつの間にか青空が見えた。兄貴は、あの日は雨で時間は夜だったけど、兄貴も俺と同じ景色を見たのかな。

 後頭部が熱い。脈打つのが分かる。なのに奥底が急に冷めていくのを知覚した。誰かが駆け寄ってくる。生きたい。兄貴に、親父に、家族に会いたいと強く思った。





 それからの事もやはり特筆すべきことはない。叔父さんにこっぴどく叱られて、親父は寂寥と安堵でぐちゃまぜになったような顔をしていた。それでも俺の胸の内には謎の清涼感があって、しかしそれを誰に説明するでもなく、この事は俺一人の中にしまっておこうと思う。親父や、兄貴の死を悼む他の誰かに俺の見たものを伝えたところで、誰も俺の感じたことを理解しないだろうと思っていたからだ。


 そんな話をお前らにするのはやっぱりお前らが誰一人として俺の兄貴を知らないからだ。この話に特にオチみたいなものはないし、わかりやすい面白さもない。せいぜいタイトルの意味でも考えてみればいい、意味が込められてるかは知らないけどな。


 お前らがこのページから離れれば、この世界は閉じられる。親父の涙も、兄貴の影も、この思いも消えていなくなる。それはそれで悪くはないな、そう思って俺も消える。

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天繋2ft 煩悩寺オロカ @Cabbage21

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