第7話 織り直す朝

【七日目・妻の匙】


――本田義郎の妻・節子――


1 朝の六時半、勝手口の戸がきしる。


 夫は、もう出かけたあとだった。


 テーブルに置かれた茶碗は、底に冷めた味噌汁の痕だけ。


 私は、彼の机に向かう。


 古びた手帳が開いたまま。


 1970年4月の町内会名簿――インクがにじみ、マスキングテープで背表紙を補修。


 隣には、七日分のメモ。


 ①市営住宅の涙 ②商店街の赤字 ③高齢者の郵送願い ④……


 七日の困難が、小さな文字で連なっている。


 最後の行に、夫の震える字。


「30万円より、手紙が届く」


 私は、指でそれをなぞる。


 74歳の指関節が、かすかに鳴る。


2 午後二時、ポストに白い封筒。


 北・ほっかいどう総合カウンセリング支援センターから。


「地域格差解消報告書――最終日」


 折り目が深く、雨で湿った匂いがする。


 表紙のグラフには、見舞金支給数と、商店街の売上が重ねてプロット。


 赤字の線と、青い線。


 数字は交わるが、心はまだ離れている。


 封筒の裏に、短いメモ。


「本田会長様、七日間、ありがとうございました」


 私は、夫の名を指でなぞる。


 彼の背中は、もう曲がりきっている。


3 夕方五時半、台所。


 味噌汁の湯気が、窓ガラスを白くする。


 夫は、箸を置き、七日を語り始める。


 ――市営住宅で号泣した女性、レジの赤を訴えた店長、孫の写真を握りしめた私――


 話すたびに、手の震えが箸に伝わる。


「節子、俺はもう74だ。これ以上、町を割りたくない」


 私は、新聞の片隅を指で折る。


 見出し――「道北15市町村、見舞金30万円を支給」


 活字の下に、小さく「地域格差の課題残る」とある。


「あなたは十分に尽くした。次は若い人たちよ」


 夫の目に、七日の雨が映る。


 でも、虹も見えているはず。


4 夜八時、居間の電灯を消す。


 座卓に、手帳と報告書を並べる。


 私は、夫の手を握る。


 震えが、私の指に移る。


「会長は、もう卒業。明日からは‘相談役’でいい」


 夫は、小さく息を吐く。


 時計の針が、十二時を回る音だけ。


 私は、最後のページに書く。


「地域の傷は、一人では癒せない。


 でも、一人ひとりの手がつながれば、布になる。


 その布を織り直すのは、次の世代の仕事」


 手帳を閉じる。


 マスキングテープが、静かに鳴った。


 七日目の夜は、静けさだけが残る。


 でも、静けさの向こうに、朝が待っている。

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三十万円の向こう側 共創民主の会 @kyousouminshu

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