三十万円の向こう側

共創民主の会

第1話 支援条例初日

【下書き:支援条例初日】


――政治部・川口亮――


 時計は午前八時四十五分。道北市役所の大理石ロビーに、ヒールの音が鋭く響く。


 私は胸ポケットに取材ノートとボールペン、それにスマートフォンを滑り込ませ、1階の条例掲示板へ向かった。


 ガラス張りのケースの中、新しく掲示されたばかりの「道北市犯罪被害者支援条例」。施行日は昨日――2025年4月1日。今日が初日だ。


 ケースの前に、薄茶のエコノミークラス封筒を抱えた中年の女性が立っていた。


「おはようございます。道北新聞の川口です。見舞金の申請でしょうか?」


 女性は目を伏せ、小さく頷いた。封筒の端に「30万円申請書類」と赤文字。数字が、冷たい蛍光灯を反射して、私の網膜に灼きつく。


「川口さん、ロビーでの撮影は――」


 背後から低い声。市職員の男性が私のスマートフォンに手を伸ばす。


「条例施行初日の様子を伝えたいだけです」


「未制定自治体もあります。旭川市では4割がまだ……というのは、オフレコで」


 彼は周囲を窺い、声を低めた。


「詳細は総務課長が後ほど……今は、ご遠慮ください」


 私は仕方なく、撮影を中止。女性の肩が微かに震えた。大理石に響くヒールの音は遠ざかり、ロビーは再び冷えきった空気に包まれる。


 ――今日もまた、人の涙を記事にするのか。


     *


 午後一時、商店街。


 春の陽射しがアスファルトを照らす中、私はポールに貼られた手書きの紙を見つけた。


【二次被害防止】


 マジックの文字は震えており、マスキングテープの端が風にはためいている。


 シャッター商店街の奥、本田義郎会長の事務所兼住居。


「どうも、道北新聞の――」


「亮ちゃんだったね。入りなさい」


 74歳の会長は、古びた手帳を開きながら、1970年代の町内会名簿を示した。インクが滲み、紙は黄ばむ。


「条例? 30万円? そんなもんより、町内会の手紙の一枚の方が心に届くよ」


「実効性はどう思います?」


「制度じゃない。顔が見える関係だ」


 会長は、手帳のページをそっと閉じた。


「君たち新聞も、数字ばっかり追う。読者はもっと違うもんを求めてる」


 私は、スマートフォンの録音アプリを停止。会長の言葉が、胸の奥で小さく反響する。


     *


 夕方五時半。市営住宅の錆びた手すり。


 私は、北・ほっかいどう総合カウンセリング支援センターの職員と並んで立っていた。30代の女性セラピストは、匿名で話してくれる。


「道北15市町村で、未だに支援窓口のない地域があります。富良野市も含む。地域格差をどう埋めるかが課題です」


 風が強くなり、手すりがきしむ。


 その時、低いすすり泣きが聞こえた。


「30万円で夫の命が戻るのか!」


 階段下、五十代の女性が座り込み、顔を覆う。


 私は反射的にスマートフォンを構え――すぐに下ろした。


 レンズの向こうに、震える指。私の指も、同じ振幅で揺れる。


「取材、やめましょう」


 セラピストが静かに告げた。私はカメラロールを開き、直前の写真を削除。


「報道は、傷を広げる道具かもしれない」


 女性の背中に手を置き、低い声で「ごめんなさい」と呟いた。


     *


 夜九時、新聞社政治部デスク。


 蛍光灯のハム音と、締切を告げる壁時計。


「川口、見舞金30万円を見出しにしろ。読者は数字を求める」


 鈴木編集長の声が、オープンオフィスに響く。


「でも、被害者の方は――」


「スクープより売れる記事だ。感情より制度。涙より金額」


 私は、パソコン画面の「下書き:支援条例初日」を凝視。


 市営住宅の錆びた手すり。大理石に響くヒールの音。古びた手帳の匂い。


 ――報道は、傷を広げる道具か、癒す薬か。


 指をキーボードから離し、私は画面を閉じた。


 明日の朝刊には、小さな記事になるだろう。


 しかし、私の中で物語は続く。


 制度ではなく、人間関係。


 数字ではなく、温もり。


 蛍光灯の下、私は新たな見出しを書き留める。


【支援の本質は、30万円ではない】


 そして、ノートを閉じた。

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