第6話 ギルハ 中
「お願いします……助けてください……! 救急車を呼んでください! 娘が……娘が死んでしまう……!」
動画の中で、最初に声を発したのはミヤコの夫・タカシだった。
彼は胸を激しく強打しており、服の上からでも明らかに分かるほど、身体は陥没していた。
左足と右腕は折れているのか、見るも無残に不自然な方向へと曲がっている。
それでもタカシは、ボロボロの身体を引きずって、娘・アイリのもとへと必死に這い寄り、カメラ――つまり、撮影者に向かって助けを求めていた。
だが、そのカメラを構えている人物は、人の心を持たない外道だった。
そんな惨状を目の当たりにしながら、クスクスと不気味な笑い声を漏らし、タカシにとんでもない要求をしてきたのだった。
「土下座して。土下座。そうしたら救急車呼んであげる」
「……え?」
「早く早く! 女の子、死んじゃうよ?」
「ど、どういうことですか……?」
「だからさ! 土下座してって!」
「……!!??」
唐突で意味不明な要求に、タカシは戸惑い、唖然とする。
その表情は、じわじわと絶望に染まっていった。
── 相手は人間の姿をした異常者。
けれど、それでもタカシは、ただ娘を救いたかった。
自分が助かることなど、もうどうでもよかった。
タカシは、ガクガクと痙攣する身体を無理やり丸め、土下座の体勢をとった。
折れた右腕、千切れそうな左足、内臓を損傷し血を吐きながら――それでも、命乞いを続けた。
「こ……これで、良いですか……? お、お願いします……早く……早く救急車を……」
タカシの命も、もう長くはなかった。
だが── 目の前の“外道”は、それでも満足しなかった。
なおも笑いを含んだ声で、さらなる要求を口にした。
「今度は、そのまま地面舐めて?」
「……は?」
「そのまま地べたを舐めて! 早く!」
「……どうして……どうして、そんな……お願いです、救急車を……!」
「早くして。じゃなきゃ、救急車は呼ばないよ?」
タカシは、さらに深く絶望し、震える体で地面に顔を伏せ──
血と泥にまみれたアスファルトを、涙と共に舐めた。
「……う……ぐっ……!」
損傷した内臓に無理な体勢が重なり、タカシは悲痛なうめき声を上げ、ドス黒い血を吐いた。
── それが限界だった。
タカシは、地面をひと舐めしたあと、ゆっくりと力なく横に崩れ落ちた。
「……お願い……救急車……」
目からは色が失われ、最後に小さく息を吐いたあと、タカシは完全に動かなくなった。
それでも、カメラは止まらない。
撮影者は沈黙の中、なおも録画を続け──
やがて信じられない言葉を残して、クスクスと笑いながらその場を去っていった。
「自分で呼べば? クスクスクスクス……」
そして、動画はそこで終了した。
── たったの5分にも満たない映像だった。
だが、その短い時間の中には、撮影者の非人道的な嗜虐と異常性が、これでもかと詰め込まれていた。
それを、“リアルすぎた創作物”と呼ぶなど──
どこをどう見ても、本物の“断末魔”でしかない。
ミヤコは動画を見終えると、まるで獣のように息を荒げ、全身を震わせていた。
── 怒りを、超えた怒り。
まるで血液の代わりにマグマが体内を駆け巡っているかのような、燃え滾るような憎悪。
その感情は、ミヤコの理性を徐々に塗り潰していく。
── こんな人間が、生きていていいはずがない。
ミヤコの心の中には、動画の撮影者── あの“腐れ外道”に対する、発狂寸前の殺意が渦巻いていた。
そんなとき、ミヤコの携帯に着信が入った。
番号は、昨晩、あの“機械音声”で電話をかけてきた人物と同じものだった。
ミヤコは、憤怒に支配されかけている自分を必死に抑えながら、震える指で通話ボタンをタップした。
「……もしもし?」
「……動画をご確認いただけたようですね?」
今度の声は、機械音声ではなかった。
太く、低く、落ち着いた男の声。
「……はい」
「ご確認のうえで、お聞きします。
── 間違いなく、あなたの旦那さんと娘さんでよろしいですね?」
「……はい」
「結構。── では、この“愚か者”に、然るべき報いを与えましょう」
「……報い……?」
「そうです。あなたの手で、この外道に“報復”を。
我々が、舞台は整えます。
あなたは、そこで旦那さんと娘さんが受けた屈辱と苦しみを、思う存分にぶつければいいのです」
「……あなたは、いったい誰なの?」
「……私は、“法”で裁くには生温すぎる悪意に対して、相応の報いを与えるべく結成された ── “ある組織”の者です」
「……組織……?」
「はい。我々の名は、ギルハ」
「ギルハ……」
「我々の行動に、報酬は一切必要ありません。
ただ── あなたの怒りを、解放してください。それで十分です」
「私の……怒りを……」
「報復の決行は、今夜23時。
場所は後ほど、ショートメールでお送りします。
── 我々は、その場所であなたをお待ちしています」
ギルハと名乗るその男は、そこで一方的に通話を切った。
そして、まるでそれに呼応するかのように、すぐにミヤコの携帯へ一通のショートメールが届いた。
そこには、今夜の“報復の舞台”となる場所が記されていた。
指定されたのは、ミヤコのマンションから車で30分ほど走ったところにある、廃業した工場の跡地。
今では人の気配もなく、周囲に民家すらない、文字通りの“無人地帯”だった。
── もちろん、信用などできるはずがない。
相手の素性も分からず、「報復の舞台」などと物騒な言葉を使う連中だ。
けれど。
怒りと殺意── ミヤコの中に噴き上がったその感情が、不安や理性をすべて押し流していた。
── 夫と娘を、あんなふうに笑いながら“見殺し”にした人間を許してはいけない。
必ず、“報い”を与えなければならない。
ミヤコは、ベッドの上から一歩も動くことなく、呆然としたまま23時を待ち続けた。
その目には、怒りを超えた── 確信に似た光が宿っていた。
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