第4話 妄

 ユウイチには昔から、ふとした瞬間に暴力的な妄想をしてしまう癖があった。

 理由はわからない。


 ただ、

 「目の前にいる人を殴ってみたい」

 「手に持った鉛筆を突き刺してみたい」

 ……そんな危険な妄想が、ふいに頭をよぎることがあるのだ。


 もちろん、実際に手を出したことは一度もない。

 だが、その妄想に突き動かされ、本当にやってしまいそうになる瞬間が、これまで何度かあった。

 これはユウイチにとって密かな悩みだったが、誰かに相談することもなく、ただ「自分の中の変な癖」として受け止めてきた。


 そんなユウイチは、隣町にあるデザイン学校に通う専門学生だ。

 毎朝、地元の駅から電車に乗って、片道1時間ほどかけて通学している。

 学費と定期代もばかにならず、バイトを掛け持ちしながらの学生生活は、なかなかに多忙だと言えるだろう。


 しかも、ユウイチの地元は田舎とはいえ都市部に近く、電車はいつも混雑しており、朝は決まって満員電車に揺られていた。

 そんな日々の中で、満員電車によるストレスは地味に堪えるものがある。

 だからせめて朝だけでも、電車の座席に座りたかった。


 そのためユウイチは、毎朝30分ほど早く家を出て、一本前の電車が通過する時間にはホームに並ぶようにしている。

 そうすれば、乗車時に先頭の位置を確保でき、座れる確率が高くなる。

 もちろん、それでも座れないことはあるが、そういう日は仕方ないと割り切るようにしていた。


 ――だが、ひと月ほど前から、奇妙なストレスが追加された。

 それは、ユウイチが並ぶ乗車位置に、横入りをしてくる人物が現れたのだ。


 その人物は、ユウイチと同じくらいの年齢の若い女性で、見た目は綺麗だが、どこかキツそうな雰囲気をまとっていた。

 大学生か専門学校生だろうか。

 彼女は、通過電車が来る少し前のタイミングで現れ、あたかも当然のようにユウイチのすぐ横に立つ。

 そして、電車が来ると同時にユウイチの前へスッと入り込み、何食わぬ顔で座席を確保してしまうのだった。

 そのせいで、せっかく早起きして並んでいたユウイチは、何度も座れないことがあった。


 当然、ユウイチは非常に腹を立てていた。

 後ろに並んでいた他の乗客も、きっと同じ気持ちだろう。

 ユウイチは「いつかこの女に注意しなければ」と考えていた。


 ── そしてある日。

 いつものように並んでいると、やはりその女性が現れた。

 またしても、当然のようにユウイチのすぐ横に立ち、電車の到着を待っている。


 どうせ、また横入りするつもりだ。

 ユウイチは、もう我慢ならなかった。

 意を決して、彼女に声をかける。


「……あの。毎朝ここで横入りされてますけど、後ろに並んでいる方の迷惑になります。やめていただけませんか? 後ろに並んでください。」


 するとその女性は、軽く顔をしかめてユウイチを見たかと思うと──

 吐き捨てるように言った。


「……うっざ。話しかけんなよ、キモッ」


 ユウイチの全身に、カッと熱が走った。


「……!!」

 ── なんて女だ……。これはもう、自分のためというより他の乗客のためにも、しっかり言ってやらなければ。


 だが、ユウイチが再び口を開こうとした、その時だった。

 彼のすぐ後ろに並んでいたサラリーマン風の男性が、彼に加勢するように声を上げた―。


「おい! アンタ! このお兄さんの言う通りだ! 後ろに並べ!」


 その一言に呼応するかのように、他の乗客たちも次々と女性への不満を口にし始めた。


「そうよ! 毎日毎日、平然と横入りして……どういうつもりよ!」

「マナー違反だ! ちゃんと後ろに並べ!」

「みんなが迷惑してるんだぞ!」

「非常識だ!」


 ユウイチが驚いて後ろを振り返ると、並んでいた乗客たちはにこやかな笑顔で彼を見ていた。

 まるで「よく言ってくれた!」「偉い!」と称えるように。

 ユウイチは、少し誇らしい気持ちになった。


 ── だが。

 そんな状況の中でも、例の女性は一切動じず、並び直す気配すら見せなかった。

 おもむろにスマホを取り出すと、わざとらしくイヤホンを装着し、まるで「聞こえていません」と言わんばかりの態度を取り始めたのだ。


 ── 信じられない……。

 ユウイチは唖然とした。


 ここまで周囲から非難を浴びていながら、あの図太い態度を続けられる神経に、さすがに呆れ返るばかりだった。


 ── もう一度、しっかり注意してやる。


 しかし、そう思った、その時だった。

 ユウイチの脳裏に、いつもの“悪癖”── 暴力的な思考がよぎった。


 ── もうすぐ、通過電車が来る。

 ── この女を突き落として、電車に轢かれるところを見てみたい。


 ユウイチは首を激しく横に振った。


 ── ダメだ、そんなこと……絶対にやってはいけない。


 いつも通り、理性でその衝動を封じ込めようとした。

 だが、この日は何かが違った。

 まるで、もうひとりの自分が脳内にいて、耳元で囁いてくるような、鮮明で強い声だったのだ。


 ── 突き落としてみたい……。


 その思考は、いつもの“妄想”とは違う。

 現実に触れようとするほど、生々しく、明確だった。


 ユウイチの理性は徐々に霞んでいき、暴力的な思考が脳を支配し始める。

 そして、背後から聞こえる人々の声も、いつしか歪んで聞こえるようになっていた。


「その女を突き落として!」

「キミにしかできない!」

「やってくれ、僕たちのために!」

「そんなクズ女、死ぬべきだ!」

「押せ!」

「押せ!」

「突き落とせ!」


 ユウイチの思考は、グルグルと回り始めた。


 そして、ついには──

 「この女を突き落とすことこそ正義だ」

 という、歪んだ確信へと変わっていく。


 ── そのとき。

 通過電車のライトが視界に入ると共に、ユウイチの脳内は幻聴の大合唱に包まれる。


「落とせ! 落とせ! 落とせ! 落とせ!」


……


 気がつくと、ユウイチの手は── 女の背中を、強く突いていた。

 彼女は驚いた顔でこちらを振り返るが、そのまま線路に落ちる。


 そして。

 タイミングよく通過してきた電車が、減速する間もなく彼女の体を── 引き裂いた。


 プァーン!!

 警笛がけたたましく鳴り響く。


 ギャギャギャギャギャ!

 ブレーキは悲鳴を上げ、その中に混じって……


 パン!

 グジュッ!

 パキョッ!

 凄惨な音が連なる。


 そして──


 「キャァァァァーーーーーッ!!」

 女性の絶叫が、駅中に響き渡った。


 ── だが、それも音楽プレーヤーの再生を止めるように、プツリと途切れた。

 辺りには、猛烈な生臭さと、髪の毛が焦げたような不快な焦げ臭さが立ち込める。


 列車は、最後尾がかろうじてホーム内に入り、女性の遺体は見えない位置に……。

 だが、女の肉片、骨片、そして血液は、構内の壁や床にまで飛び散っていた。


 これだけの大惨事なら、本来は騒然となるはずだ。

 ……だが、意外にも駅構内は静まり返っている。


 ユウイチの周囲にいた人々は、青ざめた表情で距離を取りながら後退していた。

 そしてユウイチは、飛び散った血を全身に浴びながら、満面の笑みでゆっくりと振り返る。


 その視線の先に映るのは──

 女を突き落としたことを、“賞賛してくれる人々”。


「ありがとう! よくやってくれた!」

「素晴らしい!」

「君は――英雄だ!」

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