第二話 満ち足りた世界
ゆっくり。ゆっくり。
だんだんと潮が満ちてくる。
孝介の熱いものが、寄せては返す波のように、あたしの中で穏やかなリズムを刻んでいる。
出会ったころはどちらからともなく努力して合わせていた互いの呼吸が、いつしか当たり前のように、すっと一つにまとまるようになった。
螺旋を描きながら離れて飛んでいた二羽の鳥が、いつの間にか並んで飛んでいるように、それは自然な営みに思える。
息を吸って、吐いて。その繰り返しが、やがて一つの大きな呼吸になって、この部屋の空気を満たしていく。言葉は、抱き合ってからもうずっと交わしていなかった。必要がないのだ。彼が次に何をしたいのか、あたしが何を求めているのか。肌を通じて、視線を通じて、すべてがダイレクトに伝わってくる。
レースのカーテン越しに、土曜の午後の柔らかな春の日差しが差し込んでくる。部屋に舞う微かな埃が光の筋の中できらきらと輝いているのは、幻想的な光景だった。
孝介の顔が、すぐそこにある。逆光で表情の細かいところまではよく見えないけれど、その瞳が優しい色をたたえていることだけは、はっきりと分かった。あたしは、彼の汗で湿った首筋に腕を回し、その身体をぐいっと強く引き寄せる。
「……孝介」
囁くように名前を呼ぶと、彼は応えるように、あたしの額にそっとキスを落とした。その柔らかな唇の温かさが、心の一番深い場所にじんわりと染み込んでいくのを感じる。
幸せだな、あたし。
何の翳りもない純粋な多幸感が、隅々まで身体を満たしていく。この感覚を知ってしまったら、一人だった頃の自分にはもう戻れない。もちろん、戻りたいとも思わないけど。
孝介と暮らすこの部屋。
二人で選んだアイボリー色のカーテン。あたしが好きな作家の本が並んだ本棚と、彼が趣味で集めているコーヒーの道具が置かれたキッチン。そのすべてが暖かく愛おしい。
孝介の指が、あたしの髪を優しく撫で、梳き上げる。その心地よさに目を閉じていると、記憶の扉がゆっくりと開いていった。
この部屋の鍵を、初めて二人で開けた日のことを思い出す。
一年前の春。まだ家具も何もない、がらんとしたリビングで、あたしたちの声は面白いほどよく響いた。
二人で互いの段ボールを運び込み、汗だくになって荷解きをしながら疲れ果てて、フローリングの上で二人してそのまま眠ってしまったっけ。
目が覚めた時、窓の外はもう夕暮れに染まっていた。隣りですうすうと眠る孝介の寝顔を見ながら、これからここで、この人と新しい毎日が始まるのだと、胸が高鳴った。そのときの期待に満ちた部屋の匂いを、あたしは今でもはっきりと覚えている。
あたしたちの下で軋みを上げているこのベッドも、あの日二人で組み立てたの。
あまり器用じゃない孝介が、ネジを一つなくして大騒ぎしたっけな。次の朝あたしが廊下でそれを見つけて、彼もよろこんでくれたっけ。
そんな他愛ない記憶の一つ一つが、この部屋の壁や床に、優しく染み付いている。
孝介の息が、腰の動きが、少しだけ速くなる。あたしの身体も、それに応えるように熱を帯びていく。彼の胸に頬を寄せると、とくんとくん、と力強い心臓の音が聞こえた。この音は、あたしの心を不思議なくらい落ち着かせてくれるんだ。
去年の冬だったか、あたしがひどいインフルエンザで寝込んだ夜があった。
四十度近い熱に浮かされ、悪寒と関節の痛みで、心細くてたまらない。朦朧とする意識の中、孝介が仕事を早退して帰ってきてくれたのを今でも忘れられない。
慣れない手つきで懸命におかゆを作ってくれて、「うまくねえかも」なんて照れ臭そうに笑いながら、スプーンであたしの口元まで運んでくれたんだ。味なんてほとんど分からなかったけど、その温かさは一生覚えてるよ。
汗でぐっしょり濡れたあたしの額を、孝介が冷たいタオルで何度も何度も冷やしてくれて。側にいてくれるだけで、どれだけ安心できたか。
「大丈夫。俺がずっと隣りにいるから」
耳元で囁かれたその言葉を聞きながら、この人の腕の中でなら、何があっても大丈夫って、あたしは心の底から思ったの。身体は辛かったけど、こんなに幸せでいいの?って満ち足りた気持ちになれた。
「……真理佳。気持ちいい?」
孝介が、掠れた声で訊ねる。
「うん……とっても」
彼の腰の動きに合わせてあたしも動きながら、嘘偽りのない気持ちをそのまま口にする。
「孝介は?」
「俺も……お前とこうやっていると、いつも幸せ」
その言葉だけで十分。互いの肌の熱さを感じながら、ただひたすらに与え合う。それは欲望ではなく、もっと穏やかでもっと根源的な、魂の交歓のようだった。互いの欠けた部分を相手の存在で埋め合うような、完璧な一体感。
身体の奥が、きゅうっと甘く疼く。クライマックスが近いことを、身体が告げていた。あたしはもっと濃密に孝介を感じたくて、彼の背中に足を絡めた。ぐっともう一段深く、彼があたしの中に進んでくる。
去年の夏の終わり、よく晴れた夜のことを思い出す。二人でベランダに出て、缶ビールを飲みながら、ぼんやりと並んで月を見ていた。その時なんとなく将来の話になったの。
「子どもは二人くらい欲しいかな。男の子と女の子」
彼が明るい月を見上げながら、ぽつりと言った。
「いいね。あたし、女の子にはピアノを習わせたいな」
「じゃあ、男の子には俺が野球を教える」
何の根拠もない、夢のような話。でも二人して、本気でそれを信じていた。そして今も信じている。そんな未来が必ずやってくると、疑いもしていない。
「……おじいちゃんとおばあちゃんになってもさ」
孝介があたしの手を取って、ぎゅっと握った。
「こうやって並んで、隣りで一緒に夜空を見てたいな」
少しだけ照れくさそうで、そしてどこまでも優しい彼の横顔を、あたしはずっと忘れない。
ああ、そっか。
今あたしたちがしていることは、あの夜に交わした約束の続きなんだね。あたしたちの身体は、新しい命を育むための、未来への扉を開こうとしてるんだ。
そう思うと、身体の奥から、とてつもない愛おしさがこみ上げてくる。
「孝介……好き……大好き」
「……愛してる。……真理佳、愛してるよ」
互いの名前を呼び、想いを告げ合う。それは確認でも誓いでもない。ただ胸いっぱいに広がる愛情が、言葉になって溢れ出しているだけなんだ。
満ち潮が最高潮に達する。
何かが身体の芯からゆっくりと、しかし圧倒的な力で解き放たれる。それはどこまでも優しくて温かな光が全身に広がっていくような、文字通りの至福だった。同時に孝介も、深く長い息を吐きながら、あたしの身体にすべてを注ぎ込んでくる。
一瞬だけ意識が遠のき、あたしと彼の境界線が曖昧になったような気がする。そしてあたしたちは、一つの満ち足りた存在になった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
意識がゆっくりと浮上してくると、あたしは彼の腕の中で、穏やかな疲労感に包まれていた。カーテンを揺らす春の優しい風が、汗ばんだ肌を心地よく撫でていく。遠くから、公園で遊ぶ子供たちのざわめきが聞こえてくる。世界はこんなにも平和で、優しくて、美しい。
くっついたままの孝介が、あたしの髪に何度もキスを落としている。
「……幸せだな」
どちらからともなく、同じ言葉が同時にこぼれた。あたしたちは顔を見合わせて、ふふっと笑い合う。
もう、何もいらないよ。
孝介の腕と温もりと、二人の穏やかな時間があれば、あたしはどこでも安心して生きていける。
彼の胸に顔を埋ずめると、心臓の音が子守唄のように聞こえた。
「あたしもだよ。たくさん愛してる」
彼の胸の中で、ぽつんと呟く。
この幸せが、どうか永遠に続きますように。そう願いながら、満ち足りた幸福感の余韻の中で、あたしはゆっくりと、心地よい眠りへ落ちていった。
午後の光が、そんなあたしたちを、いつまでも優しく包み込んでいる。
一行目からセックス 写乱 @syaran_sukiyanen
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