第二話 夢への代償
『東の王国ローゼリアン王国』で、不穏な噂が駆け巡り始めた。
ローゼン・ハイツ国王が崩御し、その後を継ぐはずだった一人娘、マリア・ロゼ王女の即位に対し、甥にあたるローザー公が『正統な王位継承者』として名乗りを上げたという。
初めは貴族間の権力争いと見られていた対立は、日を追うごとに武力衝突の様相を呈し、このままでは東の王国全土が戦争へと拡大しかねないという声まで上がり始めた。
そして、最も恐ろしい情報が『シオス村』にも届いた。ローザー公を推す貴族の連中が、あろうことかマリア・ロゼ王女の住む館を取り囲み、王女を籠城戦に追い込んだというのだ。
シオス村の人々の間にも、不安が広がった。
「また、どこの国の話かと思えば、今度は『ローゼリアン』か」
「このまま戦が広がれば、又『王位統一戦争』のような事になって、俺たちまで兵役に取られるんじゃないのか?」
「王女様を籠城だなんて、尋常じゃない…」
平和な漁村に、戦争という名の暗い影が差し込み、人々の口からは諦めや恐れの言葉が漏れだした。
その日の昼過ぎ、いつものように漁を終えて領主の屋敷に向かったアレクは、厩の隅で、ロペス爺さんとモリスが深刻な顔でヒソヒソと話しているのを見つけた。
アレクは、気配を殺して二人に近づいた。
「だがな、モリス。行ってどうする?王女様の館は、もう完全に包囲されているんだろう」
ロペス爺さんの、いつになく低い、不安そうな声が響いた。
「でも爺さん。ト―リィが巻き込まれてるんだ。あの館に。あいつは俺にとっちゃ可愛い…**(聞き取れず)**だ。あれでもな。何が出来るか?っていうのは、問題じゃないんだ。ただ、あそこにいるんだ」
モリスの言葉は、いつになく切迫していた。アレクは、ト―リィという人物が、今話題の籠城戦に巻き込まれていることを理解した。
「儂らが出て行かんでも、**(聞き取れず)がなんとかなさる。(聞き取れず)の里の人間のほうが儂らのトコよりも遥かに(聞き取れず)**に近い」
ところどころ聞き取れなかったが、「ト―リィ」「籠城中の館」「行かなければならない」といった、モリスの切羽詰まった状況だけは、はっきりとアレクに伝わってきた。
その時、アレクが地面を踏みしめる音が、わずかに二人の会話を区切った。
ロペス爺さんとモリスは、同時にアレクの存在に気づき、会話をピタリと止めた。
二人の顔には、アレクの知るいつもの表情とは違う、張り詰めた緊張感が残っていた。
先に口を開いたのは、モリスだった。
彼は、いつもの陽気さを無理に繕うかのように、ひどく不自然な笑みを浮かべた。
「なんだ、アレクか。今、爺さんと、東の国の戦の話をしてたんだ。伯爵様も心配してる、ってな」
ロペス爺さんは、口を開かず、ただモリスとアレクの顔を交互に見つめていたが、やがて渋い顔で頷いた。
「ああ。あんまり根を詰めるなよ。お前さんは、ろくに飯も食わずに剣の練習ばっかりしてるんだ。戦の話なんざ、子供が気にするこっちゃない」
アレクは、二人の深刻な雰囲気を察し、問い詰めずに口を開いた。
「…ト―リィって、誰ですか?籠城してるっていう館に、いるんですか?」
ロペス爺さんとモリスの顔から、一瞬で色が失せた。二人は、顔を見合わせ、再び沈黙が落ちた。
モリスは、咳払いを一つし、わざとらしく大きく肩をすくめてみせた。
「トーリィ?ああ、それは、この爺さんの遠い親戚の娘さ。その子が、たまたま王女様の館で働いてたって話で、心配で話してたんだ」
「お前さんも、そろそろ大人だ。世の中には、お前さんが今握ってる木剣じゃどうにもならないこともある。だがな、アレク」
モリスは、真顔に戻り、アレクの目をまっすぐに見据えた。
「お前さんが夢を叶えたいのなら、余計なことに耳を貸さず、目の前のことに集中しろ。昨日よりも、今日だ。昨日より強くなることだけを考えろ。それが、お前がいつかその夢の場所に着くための、唯一の方法だ」
モリスの言葉は、アレクの夢を肯定し、背中を押す言葉でありながら、同時に、彼自身の内に秘めた決意を固めるための、痛みを伴う宣言のようにも響いた。
アレクは、モリスの言葉に強く頷いた。
「はい、モリスさん!俺は、絶対に強くなります。『サントゥス』のギルドに行って、赤髪の人に会うまでは、絶対に立ち止まりません!」
モリスは、アレクの木剣を持つ手を、再び力強く叩いた。
「ああ。わかっている。…今は、その純粋な熱意こそがお前の武器だ」
モリスと別れた後、アレクは、ロペス爺さんの不機嫌な顔とモリスの真剣な眼差しを思い出していた。特に、モリスが最後に言った言葉が、木剣を握る手に熱を込めた。
「昨日より強くなることだけを考えろ」
アレクは、その言葉を胸に刻み、いつも以上に訓練に打ち込んだ。
そして、その翌日。
アレクが昼からの屋敷での仕事にやってきた時も、モリスの姿はなかった。
そのまた次の日も、その次の日も。
いつもはやかましく笑い声をあげていたモリスが、ぱったりと厩から消えてしまったのだ。
三日目の昼過ぎ、馬に水をやっていたロペス爺さんに、アレクは意を決して尋ねた。
「爺さん、モリスさんはどうしたんですか?何日も見かけませんが」
ロペス爺さんは、作業の手を止めずに、苦々しい口調で答えた。
「ああ。あいつはな、休養を取るそうだ。体調が悪いとかなんとかで、伯爵様からしばらく暇をもらったらしい」
「休養、ですか?」
「ああ。あんなに働き詰めで、無理が祟ったんだろうよ。まぁ、せいぜい英気を養って早く戻ってくりゃいいんだがな」
ロペス爺さんは、そう言いながらも、どこか諦めにも似た寂しさを滲ませていた。
アレクは、あの時の二人の深刻な会話と、モリスの切羽詰まった表情を思い出し、彼が体調不良で休んでいるのではないことを本能的に悟った。
彼は、ト―リィという人物が巻き込まれた籠城戦へ向かったのではないか、という疑念を拭えずにいた。
しかし、モリスは「余計なことに耳を貸さず、目の前のことに集中しろ」と言った。
アレクは、その忠告通り、今は剣の修行に集中するしかないと自分に言い聞かせた。
モリスが屋敷から姿を消して、やがて半年が過ぎた。
その間、『東の王国ローゼリアン』の内乱は、『シオス村』にも大きな話題をもたらしていた。
圧倒的不利と見られていたマリア・ロゼ王女が、籠城戦の苦境を乗り越え、戦局を覆したというのだ。
ローザー公を推す貴族たちは次々と討ち破られ、王位は正統な継承者であるマリア・ロゼ王女に確定した。
大陸史上、初の女王が誕生したという報せは、『シオス村』の人々の間を駆け巡った。
不安に満ちていた人々の顔には、安堵と、時代の大きな転換点を目撃した興奮の色が浮かんだ。
アレクもまた、その噂を耳にするたびに、胸の内に微かなざわめきを感じていた。
彼は、モリスが、あの籠城戦に本当に向かっていたのなら、無事に戻ってきてくれるだろうかと、時折空を見上げた。
そして、ある日の昼下がり。
いつものように漁を終えて領主の屋敷に向かったアレクは、厩の入り口で立ち尽くした。
そこに立っていたのは、半年前に姿を消したモリスだった。
しかし、アレクの記憶にある陽気で、力強いモリスの面影は、その男からほとんど失われていた。彼の顔は、土気色にくすんで生気がなく、頬はこけ、目の周りには深い影が落ちていた。
それは、疲れ切ったという言葉では生ぬるい、心身を極限まで摩耗し尽くした人間の、憔悴しきった表情だった。
モリスのあまりにも凄絶な変わり果てた姿に、厩にいた誰もが声をかけることができなかった。
張り詰めた沈黙の中、モリスはふらつく足取りで、厩の隅にいたロペス爺さんに向かって歩み寄った。
「爺さん…」
その声は、掠れ、まるで長く飲まず食わずでさまよった者のようだった。青い顔で、モリスはロペス爺さんに縋りつく。
ロペス爺さんは、モリスの肩を抱き寄せ、その背中を静かに叩いた。
「よく、戻ったな。モリス…」
爺さんの低い、抑えた声だけが、静寂を破った。
モリスは、絞り出すように言葉を続けた。
「とても見ていられなかった…爺さん。あんな…トーリィの姿を…見ていられなくて…勝利したっていうのに…『サンダー』の名前を呼んで許しを請いながら、うなされ続けてる…俺は…耐えられずに…戻ってきてしまった…」
ロペス爺さんはモリスの言葉で全て察して、短い言葉で問いかけた。
「……食ったのか?あの子は…」
モリスは、力なく首を振った。
「ああ…。籠城の最中、食料が尽きて、自分の愛馬を…殺して食料にしたんだと。一番可愛がってた、友人とも言える馬をな…。籠城は勝ち、トーリィは生きているが、魂が抜け落ちたようだ…やせ細り、病んでしまって…あの子を救ってやれる者が誰も居ない」
モリスの視線は定まらず、その瞳の奥には、愛するものを手にかけて生き延びた者の深い傷と絶望を間近で見た者の切なさが滲んでいた。
アレクは、ただ立ち尽くし、目の前のモリスの姿と、東の王国に女王が誕生したという朗報との間の、深くて暗い溝を見つめることしかできなかった。
平和な漁村の外側には、命と魂を削る、想像を絶する現実があることを、アレクは初めて知った。
モリスが憔悴しきった姿で戻ってきて以来、東の王国で起こった凄惨な出来事は、アレクの心に重い影を落としつつも、彼の修行への情熱を冷ますことはなかった。
モリスは帰還後、体調が回復するまで療養に入り、アレクはロペス爺さんの指導のもと、厩での仕事に精を出していた。
領主の屋敷には、伯爵の娘であるイザベルお嬢様がいた。アレクより年下だが、気位が高く、わがままな面も持ち合わせていた。
だが、なぜかイザベルは厩をよく訪れた。最初は馬への興味かと思っていたが、どうにも視線はいつもアレクに向けられている気がした。
「そこの少年、私の馬のたてがみが乱れているわ。直してちょうだい」
「急いで。あなた、本当にトロいのね」
些細なことでアレクを呼びつけるイザベルに、他の使用人たちは「アレクは気に入られているな」と面白がったが、アレク自身は彼女の気まぐれに振り回されていると感じていた。
しかし、彼女の命令は領主の娘としての役目であり、アレクは与えられた仕事を黙々とこなした。
アレクが屋敷に奉公し始めてから4年の歳月が流れた。
この間、アレクより年下である伯爵の娘、イザベルお嬢様のアレクに対する熱は、誰の目にも明らかになっていた。
グレイ伯爵は、領地の別宅で愛人と暮らし、屋敷や領地の政務にはほとんど無関心だったため、家のことは全て有能な執事が取り仕切っていた。その執事が、年を追うごとに過熱するイザベルの行状を問題視しないはずがなかった。
「アレク、なぜ私を見ようとしないの?あなた、私に興味がないの?」
ある日、イザベルはついに感情を爆発させ、アレクの目の前で涙を流した。アレクはひたすら沈黙を守ったが、この出来事が決定打となった。
その翌週、アレクはグレイ伯爵家の執事から奉公の解雇を言い渡された。表向きの理由は「厩番の人数過多」だったが、アレクも、そして屋敷の誰もが、その真の理由がイザベルお嬢様の行状にあることを察していた。
奉公を解雇されただけでは終わらなかった。
アレクが屋敷に奉公しなくなると、イザベルお嬢様は、あろうことかアレクが住む『シオス村』まで追っかけて会いに来たことが執事の知るところとなった。
これは領主の娘の立場として許されぬ行為であり、グレイ伯爵家の名誉と治安にも関わる問題だった。
執事は、別宅にいる伯爵に代わり、イザベラお嬢様の暴走を止めるため、ついに非情な決断を下す。
「お前には、この領地から出て行ってもらう」
執事が申し渡した処置は、アレクの領地からの追放に等しいものだった。同時に執事は、アレクの将来を案じて、「隣町の領主の街での奉公先を紹介しよう」と代替案を打診した。
アレクは、その打診を静かに断った。
「ありがとうございます。ですが、もし領地から出られるのであれば、俺は冒険の旅に出たいのです。『サントゥス』に行くという夢を叶えたい」
アレクの真剣な眼差しに、執事も反論の言葉を飲み込んだ。執事の目的が、イザベルとアレクを引き離すことである以上、アレクが領地から永久に離れるというのなら、それは願ってもない決断だった。
「…よかろう。伯爵様からも、娘に悪影響を及ぼす者を排除せよ、との言伝をいただいている」
数日後、執事からの正式な許可が下りた。
「ただし、条件がある。お前がこの領地に戻るのは、三年の歳月が流れてからだ。それまで、シオス村にも、領主の屋敷にも、一切近づいてはならない」
アレクは、深く頷いた。故郷を離れる寂しさはあったが、それよりも夢への道が開けたことへの興奮が勝っていた。
(次話『夢と嘘と旅立ちの重さ』へ)
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