第8話 挑戦状

 その日は夜遅かったのでインフィニスの邸に戻るわけにいかず、僕はオクルスの邸に泊めてもらった。そうして目覚めた翌朝、体調はずいぶんよくなっている。僕は今Domなのだから、Domであるユアンのコマンドを受けたからといってダイナミクスが満たされるわけではない。そのはずなのだけれど、どうにもコマンドの影響としか思えない。

 ――あんな……撫でられて、抱きしめられて、一緒に眠ったのが心地よかった、なんて……。

 上着は脱いでいたとはいえ、ユアンはスーツのまま僕と一緒にベッドに入って皺を作ってしまった。そのことで、使用人に小言を言われているのを横に見ながら、僕は邸を辞してオクルスの手配した車に乗り込んだ。来たときと同じルートを辿って、インフィニスの邸に送り届けられる。

 一夜明けた邸は、僕が入っていくと何やら慌ただしい雰囲気だった。

「ただいま。――いったい何があったんですか?」

「ルイっ!!」長身の落ち着いた顔立ちの女性――カノンが駆け寄ってくる。「あなた、いったい何をしたの?」

「え? 待って? 僕、何をしたんですか?」

「それはこっちが聞いてるのっ!」

 カノンは僕の肩を掴んでガクガク揺さぶる。後から出てきたアリアが慌てて恋人を宥めた。

「落ち着いて、カノン。ルイは帰ってきたばかりだから……。――でも、本当にいったいどういうことなんですか? オクルスの支配区域で人気の歌姫からルイ宛てに挑戦状が来るなんて、ちょっとあり得ないことですよ」

「あー……。エナ、本当に挑戦状を送ってきたんだ。すごい行動力だな……」

 確かにエナは昨日、僕に歌で勝負しろと言っていた。まさか本気だったとは。びっくりしながら僕はアリアとカノンに事情を説明する。と、二人はあぜんとした表情になった。カノンがローザを呼びにいき、間もなく会議室で幹部会議のようなメンバーが集まる。僕は最初に皆に帰りが遅くなったことを謝り、エナとのことを説明した。

「――事情は分かったけれど、この挑戦状はどうするつもり、ルイ?」ローザが困ったように尋ねる。

「そうだなぁ。僕は別に勝負に興味はないし、ユアンだって歌姫としてのエナを今後も後援していくつもりみたい。だから、正直言ってエナと僕が勝負してもあまり意味はないんだけど……挑戦状を送ってくるくらい意思が強い彼女が納得しないだろうね」

「もしかして、勝負を受けるんですか?」カノンがびっくりした顔で尋ねる。

「そうしようと思う。もちろん、僕はエナみたいなプロじゃないから、彼女が脅威に思うようなことは何もないんだけど……一回、ちゃんと僕の歌を聴けばエナも冷静になるでしょ」

「そうかなぁ……」

 アリアとカノンはどこか納得いかないという顔をしている。

 僕は笑って「大丈夫だよ」と答えた。昨日のオクルスとインフィニスの会談で、ユアンとローザは双方のクランの友好と交流の活発化を約束した。本格的にどういうことをするか詳細はこの先、決めていくことになる。そんな中で、クランの幹部ではないにしろ歌姫としてオクルスの支配地域で人気のエナが、いつまでもインフィニスの構成員ということになっている僕にこだわり、敵意を示しつづけるのは不味い。エナの影響力を考えれば、彼女のファンの間にインフィニスの支配地域の住人への敵意が生まれてしまう可能性だってある。元々、つまらない誤解に端を発するものなのだから、さっさと片付けてしまうべきだろう。

 それに、どちらかと言えば、僕のこれからの課題はユアンに自分がインフィニスのボスだと明かすこと、そして、インフィニスの仲間にユアンとの関係を認めてもらうことだ。何しろユアンに会うために十年間、島を出ようと努力してきたのである。インフィニスの仲間は今となっては大事な身内だが、ユアンとのことだって諦めたくはない。

「皆、心配しないでください! ちゃんとボスじゃなくて下っ端っていうふりをしてエナに会ってきます。ここでいつまでもオクルスの関係者とトラブルを抱え続けるのはマイナスですから」

 力強く請け負ったが、皆、やや不安そうな顔をしている。それでも、ローザが皆を説得して僕がエナに会いに行くことを許してくれた。

 幹部会議が終わり、僕はここ数日間、不調やさまざまな騒動で滞っていた仕事を少し片づけた。邸で保護している<天使>たちに向けた授業はできていないが、他の構成員が対応してくれたと聞いている。やがて、午後三時になると僕は仕事を切り上げて外出の準備を始めた。ラナの挑戦状には夕方に劇場に来てほしいとあったのだ。

 今回はオクルスの邸に行くわけではないので、動きやすい黒っぽいスラックスとシャツを身に着け、薄手のジャケットを羽織る。それから、左耳に蝶の片羽根を象ったピアスを着けた。

「ありがとうございます、ローザ。皆に口添えしてくれて、助かりました」

「お礼を言われるようなことじゃないわ。……私は昨日、あなたがユアンのコマンドを受け入れるところを見ていたわ。私たちは身に着けるギフトの性質によって、Domの性質に傾いたり、Subの性質に傾いたりする。Dom同士の関係だって相対的なものだから、あるDomが別のDomのコマンドを受け入れることだってあり得る。でも、クランの首領クラスのギフトのDom性はとても強い。本来ならダイナミクスが暴走して、精神に絶大な負荷が掛る」

「ええ。……でも、不思議とユアンのコマンドを受けることに抵抗はありませんでした」

「それは、あなたがユアンを受け入れたから。ダイナミクスに反しても自分を委ねられるほどの相手だということ。それほどの相手なら、きっと求めずにはいられないでしょう」

 ローザの聡明な瞳が僕を見つめる。まるで見透かされるような気分。ボスとして<フェリガ>のギフトを背負ってきたローザは、僕がユアンのコマンドを受けたことの意味を僕以上に理解しているようだった。ローザの眼差しに負けないように、僕は真っ直ぐに彼女を見つめ返す。

「……それでも、僕はインフィニスの皆を守りたいと思っています。自分だけ良ければいいなら、インフィニスに入ることはなかった。ましてや、あなたからボスを引き継ぐことはしなかったでしょう」

「もちろん分かっているわ」

 優しく微笑んでローザは応じた。母か姉がいたら、こんな風だったのかもしれない――そう思わせるような笑み。なんだか自分が子どもじみているように思えて決まりが悪い。「それじゃ、もう行きます」と視線を伏せて呟く。彼女は快く送り出してくれた。

 邸の表へ出るとそこには車が待っていた。傍らにはレオとリュートが立っている。せっかくエナに会うのだから、と僕がリュートも来られるように手配したのだ。

「ルイ! ルイがエナのいる劇場に行く用事があるからって、俺も行けるようにしてくれたんだって? ありがとう!」

 僕を見るなり、リュートが元気に言う。幹部以外は僕がボスだと知らないから、リュートの物言いに物怖じしたところはない。僕は笑って彼の頭を撫でた。

「エナにはたぶん会えると思うけど、いちおう、劇場はオクルスの支配区域だ。危ないこともあるかもしれないから、レオと僕の言うことをちゃんと聞いてね」

「約束する!」

「さぁ、二人とも行きますよ」

 レオが冷静な声で促す。僕とリュートは慌てて車に乗り込んだ。運転席にはレオが座り、車は邸の敷地が滑るように発進した。

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