第6話 コマンド
待機部屋ではコーヒーと高価そうなお茶菓子を出してもらって、手厚く遇されていることは明らかだった。それでも、じわじわと眩暈が始まって、僕はその場にいたオクルスのメンバーに外の空気を吸ってきてもいいか尋ねた。彼は少し考えた後に、自分が付いていてもいいならば、と許可してくれた。そこで、付き添いを了承して応接間を出る。
庭園へ降りていくと、そこは意外に綺麗に手入れされていた。インフィニスの邸の庭と違って季節の花で溢れているわけではない。それでも、庭木は整えられており、幾種類かは花の季節を迎えて美しい花を付けている。僕は満開の花の下に歩いていった。燃えるような紅色の花がほろほろと散って、石畳を紅に染めている。顔を上げて木の枝の花を見るには頭が重く、しやがんでしばらく地面にしぶきのように広がる花弁を眺めた。
そこでふと付き添いがいることを思い出して、振り返る。
「すみません、変なことをして」
「いや、うちのボスもよくそうやって過ごしてるよ。あの人の場合は、そこのベンチに寝転がってしばらく空を見るんだ。まぁ、護衛としてはあちこち遊び歩かれるより、そっちの方が楽でいいがね」
付き添いはそう言って、近くにあった木陰のベンチを指す。僕はベンチに近づいていき、そこに腰を下ろした。コテンと座面に横になれば、木々の葉を透かすようにして空が見える。僕はそっと目を閉じた。さわさわと木々の葉擦れの音が聴こえてくる。さらに遠くに街の喧騒も。
子どもの頃のことを思い出し、あの庭園で親友に聴かせた歌をそっと歌ってみる。当時の歌は僕の曖昧な記憶をもとに組み立てられた曖昧なメロディだ。だが、十年の間に僕は欠落したメロディを自分で埋めて歌詞を自分でつけていた。そのために、便利屋をしながら島の外から入ってくるさまざまな音楽データを入手して聴き、あるいは歌う練習をしたものだ。
ものごとを受容する能力や芸術方面の能力は、Subの性質を帯びるとされている。僕はずっと歌うことをやめないでいたからか、生来の性質としてはSubの方が強い。そこに後天的にDom性の強い戦闘系の能力を積んでいるから、基本的にDomなのにダイナミクスが不安定で不調につながりやすくなっている。それでも、親友が褒めてくれた歌だけは、捨てる気にはなれなかったのだ。
しばらく歌って、僕は身を起こした。付き添いの彼に「戻ります」と伝えて、邸に向かって歩き出す。邸の前の長い階段を上ろうとしたときだった。階段の途中で一人の少女が佇んでこちらを睨んでいた。薄い緑のワンピースに身を包み、長い赤毛をサイドだけ結んだ彼女の顔に見覚えがある。街中でポスターを見かけた『歌姫』のエナだった。後ろにはマネージャーなのか、スーツ姿のひょろりとした長身の中年男性を従えている。エナの表情があまりに憎々し気で、僕はびっくりして足を止める。インフィニスの首領として敵意を向けられるならともかく、一介の下っ端として来たこの場で睨まれるのは腑に落ちない。しかも、相手は敵であるオクルスの構成員ではなく、一般市民の歌姫だ。
だが、ここで話しかけては相手を煽る結果になりそうだ。僕は視線に込められた感情に気づかなかった素振りで前方へ顔を向け、歩き出そうとした。そのときだ。エナが声を掛けてくる。
「あなたのそのタイピン――」
「え? はい……?」
「オクルスの目を象ったタイピン――ボスが余所者に贈ったというものよね。あなたがボスのお気に入りなの?」
そうエナの左手首には、目のモチーフのついたブレスレットが着けられていた。構成員ではない一般市民がクランのモチーフを身に着けることは、クランとの深い関わりを示す。商店などの店主がモチーフの小物を帯びている場合、その店はクランの保護下にあることを示していた。エナの場合は、オクルスが歌姫としての彼女のパトロンになっているのだろう。
僕は目を伏せて殊勝な態度を取った。
「お気に入りなんてとんでもない。……たまたまご厚意に預かっただけです」
「嘘。さっきの歌……あなた、あたしに取って代わるつもりでしょ……!」
「え? 取って代わる? 僕はあなたと初対面です。取って代わるも何も……。おっしゃる意味が分かりません」
「いいえ、嘘よ! さっきの歌、どうして知ってるの? 歌詞が違うけれど、あの歌はあたしが密かに練習していた歌……ボスの前で披露して、いっそうの庇護を約束してもらおうとしていた歌なのに!」
「うた……?」
エナはキッと僕を睨みつける。彼女はおそらくSubなのだろう。グレアは感じなかった。とにかくエナを宥めようと、僕は何と言うべきかを懸命に考える。
「えぇと……あの歌は昔、ちょっと聴いた歌を自分で歌詞をつけてメロディを補っただけなので……」
「あなた、ボスに気に入られようとして、ずっと狙ってたんでしょう! わたしの練習しているところを聴いて歌を真似て、それからボスの気を惹いて! わたしがどんな思いでここまでやって来たか――」
そんなことはあり得ない。僕がエナの名を知ったのだって、ほんの二日ほど前のことだ。ユアンと面識を得たのも。エナの言葉は明らかに彼女の妄想なのだが、それでも激昂したエナの言葉は止まらない。
「それは君の勘違いで……」
「――わたしの思い込みだって言うのなら、それを証明してよ! 正々堂々わたしと歌で勝負して――」
次第にエナの声が憎悪の響きを帯びてくる。そのとき、僕は不意に圧力が自分に圧しかかるのを感じた。グレアとは違う。Domのグレアは刺されるような感覚だが、今の圧力は質量のある空気が自分に圧し掛かってくるかのようだ。
「勝負って……――う、ぁ……」
なんだ、これは。
予想外のことに、僕はよろめいて階段の手すりを掴んだ。防衛反応なのか、僕の中で<フェリガ>のギフトがうずうずと発動しそうになる。だが、ここで<フェリガ>が発動すれば僕の身分がバレてしまう。ぐるぐると足場がなくなるような眩暈に襲われる。油断すると吐いてしまいそうで、僕は荒い呼吸をしながらその場にしゃがみこんだ。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
周囲の音が遠のく。辺りがざわめきだしたのを意識の遠くで感じたが、反応できない。
「――ルイ、どうしたの!?」
ローザの声が遠くで聞こえたが、答えることはできず呻くばかり。
そのときだった。「ルイ」と僕の名を呼ぶユアンの声が近くで聞こえた。彼に名乗ったことはないから、おそらくローザから聞いたのだろう。ユアンに呼ばれた途端、眩暈で苦しいのに、なぜか聴覚が反応して彼のさらなる言葉を待ち望んでしまう。そのとき、ユアンらしき人物が肩に触れた。
「――……ダイナミクスが暴走しかけてる。お前はきっとDomなんだろうけど……悪いようにしないから、少しだけ俺に委ねてくれる?」
耳元で囁くようなその声音は誠実で、そしてなぜかひどく魅力的に感じた。僕はおずおずと頷く。と、ふわりと空気が動いて、ユアンの気配が距離を取った。
「<Look>」
有無を言わせぬ声がコマンドを発する。僕はゆっくりと顔を上げた。色付きの丸眼鏡を掛けたユアンが目の前に立っている。先日のラフな格好とは違って仕立てのいいスーツ姿だ。彼は跪いたままの僕に向かって「<Good>」と微笑んだ。その言葉で早くも身体が少しだけ楽になる。委ねてと言われたものの、僕はどちらかといえばDomの性質に傾いている。それなのに、どうしてなのだろう。
――もっと明け渡したい、なんて。
インフィニスの首領なのだから、この状態は危険だと意識の片隅で警告音が鳴り響く。そんな僕のわずかな抵抗を感じ取ったのだろうか。ユアンが丸眼鏡を取って、顔を近づけてきた。ブラックオパールのような、黒目の中に青や緑の遊色が垣間見える不思議な瞳。彼の首領としてのギフトの力は抑制してくれているのだろう。グレアはほとんど感じられない。
「傷つけたりしない。約束する。だから、」ユアンは穏やかな声音で言った。「<relax>」
くたり、と勝手に身体から力が抜けて、彼のスラックスの足にもたれかかるような格好になった。ユアンはそんな僕の頭を撫でる。胸にじんわりと安堵が広がった。さっきまで僕の中で暴れていた<フェリガ>のギフトは落ち着いていて、ダイナミクスの不調も治まりつつある。ユアンは跪いて、くたりとした僕の身体を抱き留めた。ユアンの肩口に顔が当たる形になって、呼吸をするたびに彼の匂いが鼻孔をくすぐる。それが決して嫌ではなくて――むしろ安心するようないい匂いで、僕はユアンにもたれかかったまま、ゆっくりと眠りに落ちていく。
「……委ねてくれてありがとう、ルイ」
僕の背中を撫でながら、ユアンが言った。その声を最後に僕は意識を手放してしまった。
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