Op.3
まずは昨日の詫びと、それからコンクールの話だ。間に合うだろうか。
そう思いながら、
「失礼します」と
ベルトの上に、ビーチボールを半分に切ったようなぽっこりと丸い肉の塊が乗るその姿は、CDのジャケット写真にある引き締まった腰回りをした人と同一人物だとは思えない。
「まさか君から来てくれるとは思わなかったよ。昨日は悪かったね、申し訳なかった」
「いえ、……僕の態度も悪かったと思うので、先生のお立場もあるでしょうに失礼しました」
「立場ねぇ。いきなり1時間も弾かされた挙句、さぁコンクールだって言われたら僕だっていい気分はしないよ」
教授は苦々しく笑いながら、話を続ける。
(まだ奏者側の気持ちは忘れてなかったのか)
腹回りからして、この人はもう客席側の人間になってしまったのかと一瞬思った
「今後のことなら心配しなくていい。幸い我々の会話は客席に聞こえていなかったようだったから、学長達には考える時間が必要だと伝えておいた。まぁ君がコンクールに興味が無いことは分かっていたし、折を見て断っておくから安心しなさい」
「そのことなんですが、エントリーしようと思います」
「は? エントリーって、コンクールにか?」
驚いた教授が体を起こす。
「急にどうしたんだ。ありえないと思うが、僕に気を使っているならそんなの無用だぞ」
「もちろんそんな理由じゃありません。個人的な事情です」
「個人って、……プロを目指すのか?」
「はい。もし可能性があるならですが」
教授が「おいおいおい」と
「君が本気でその気になれば、コンクール関係なくすぐに複数の音楽事務所が手を上げるよ。レコード会社だってほっとかないだろう。ハラスメントになるかと思って今まで口にしなかったが、君は女性客が呼べるポテンシャルが非常に高い。間違いなくチケットが売れるピアニストになれるよ」
すると、
「顔しか評価されないような、ピアニストくずれになるつもりはありませんけど」
すると教授は苦笑いしながら「もちろん君は実力も伴っているよ。ただね」と言うと、前のめり気味で言葉を続ける。
「プロになりたい音大生に必要なのは、演奏力じゃなくて集客力だ。それは君も分かってるだろ。演奏だけ出来る人ならあり余り過ぎている」
確かにそうだ。
毎年全国の音大から多くの生徒が卒業していく。
その中でわずかな人だけ脚光をあび、そうじゃない中には消息不明者も多い。就職先未定のままで卒業していくからだ。
だから事情はなんであれ真面目に就活中の
黙り込む
「まぁとにかく、コンクールの出場経験が君が真面目にクラシックと向き合っていることを証明してくれて、経歴にもハクをつけてくれるだろう。ただ、我々が薦める国際コンクールはレベルが高いから、生半可な気持ちで取り組めない。それを承知で返事をもらったと思っていいんだろうか。こちらとしては受けて貰えると、色々とありがたいことではあるのだが」
「もちろん生半可な気持ちではありません。僕は自分と大切な人の人生のために、全身全霊をかけて臨みます」
その言葉を聞いた教授は「そうか……」と言って小さく微笑むと、右手を前に差し出した。
「君の音楽と人生に幸あれ」
「よろしくお願いします」
大学を終えた
玄関には見慣れた
(来客か? 珍しいな。あいつじゃなきゃいいけど)
するといつもと変わらず、
「
「ただいま。お客さんか?」
「うん。
その名前を聞き、
そんな
「昨日作れなかったからな」と言いながら着いたリビングでは、食卓でPCを開いている天敵・
「やぁ、
「どうも。いらっしゃいませ、先輩」
「そうだ。今夜はドライカレーだから
(は!? )
「え、……いいの?」
戸惑う
「だってラーメンのお礼もしたいし。ね、
自分に向けられたその純粋な瞳に、
「じゃぁお言葉に甘えちゃおうかな。手作りカレーなんて久しぶりだ」
(まじか……)、と、
「じゃぁ決定!
(食ったらとっとと帰ってもらって、コンクールの話はそれからだな)
そう思う
「俺の時間なら気にしないでいいからね。急いでケガでもしたらいけないから、ごゆっくりどーぞ」
(こいつ、絶対わざと言ってるだろ)
そう思いながら食卓の上にあったエコバッグをシンクに置き直した
(冷静だ、冷静になれ。俺と
そして4合の米を手早く研いて炊飯器を早炊きにセットすると、いつもより慎重に包丁を使い、ニンジンと玉ねぎをみじん切りにした。
結果的に、いつも以上に気持ちがこめられて出来上がったドライカレーだったが、
そんな
だが食事が終り、
(帰って欲しいけど、
それでも続く2人の職探しを見て、(ちょうどいい。誕生日ソングの続きでもするか)と、一人防音室に入ってピアノの蓋を開けた。
気が付けば2時間以上が過ぎ、まもなく夜の11時になろうとしていた。
「もうこんな時間か」
「帰ってくれたか」
やれやれと思いながら
コンクールのことは、明日話すか。
スヤスヤと眠る寝顔を見ながらそう思った
ピアノの王子様は死ぬために街を駆ける あいちあい @sojusara
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