Op.3

まずは昨日の詫びと、それからコンクールの話だ。間に合うだろうか。


そう思いながら、雅玖がくが昼休みに大学の教授の部屋の扉を訪ねると、教授は少し驚いたような顔をしながらも「どうぞ」と中へ通し、応接セットのソファーに座るよう勧めた。


「失礼します」と雅玖がくがソファーに座ると、ふと正面に座った教授の腹周りに目がいく。

ベルトの上に、ビーチボールを半分に切ったようなぽっこりと丸い肉の塊が乗るその姿は、CDのジャケット写真にある引き締まった腰回りをした人と同一人物だとは思えない。


雅玖がくは服の上から自分の真っ平な腹に手を当てながら、俺も年を取ったらあぁなってしまうんだろうか、と思わず見入っていると、教授が言葉を切り出す。


「まさか君から来てくれるとは思わなかったよ。昨日は悪かったね、申し訳なかった」


雅玖がくの視線が、腹から顔に移る。


「いえ、……僕の態度も悪かったと思うので、先生のお立場もあるでしょうに失礼しました」

「立場ねぇ。いきなり1時間も弾かされた挙句、さぁコンクールだって言われたら僕だっていい気分はしないよ」


教授は苦々しく笑いながら、話を続ける。


(まだ奏者側の気持ちは忘れてなかったのか)


腹回りからして、この人はもう客席側の人間になってしまったのかと一瞬思った雅玖がくだったが、そんな気持ちは改めた。


「今後のことなら心配しなくていい。幸い我々の会話は客席に聞こえていなかったようだったから、学長達には考える時間が必要だと伝えておいた。まぁ君がコンクールに興味が無いことは分かっていたし、折を見て断っておくから安心しなさい」

「そのことなんですが、エントリーしようと思います」

「は? エントリーって、コンクールにか?」

 

驚いた教授が体を起こす。


「急にどうしたんだ。ありえないと思うが、僕に気を使っているならそんなの無用だぞ」

「もちろんそんな理由じゃありません。個人的な事情です」

「個人って、……プロを目指すのか?」

「はい。もし可能性があるならですが」


教授が「おいおいおい」と雅玖がくを見る。


「君が本気でその気になれば、コンクール関係なくすぐに複数の音楽事務所が手を上げるよ。レコード会社だってほっとかないだろう。ハラスメントになるかと思って今まで口にしなかったが、君は女性客が呼べるポテンシャルが非常に高い。間違いなくチケットが売れるピアニストになれるよ」


すると、雅玖がくはその言葉を一蹴するかのような目で教授を見る。


「顔しか評価されないような、ピアニストくずれになるつもりはありませんけど」


すると教授は苦笑いしながら「もちろん君は実力も伴っているよ。ただね」と言うと、前のめり気味で言葉を続ける。


「プロになりたい音大生に必要なのは、演奏力じゃなくて集客力だ。それは君も分かってるだろ。演奏だけ出来る人ならあり余り過ぎている」


確かにそうだ。

毎年全国の音大から多くの生徒が卒業していく。

その中でわずかな人だけ脚光をあび、そうじゃない中には消息不明者も多い。就職先未定のままで卒業していくからだ。

だから事情はなんであれ真面目に就活中の光弦みつるは、同級生の中でレアな存在かもしれない。


黙り込む雅玖がくを見て、教授が仕切り直すかのように話を続ける。


「まぁとにかく、コンクールの出場経験が君が真面目にクラシックと向き合っていることを証明してくれて、経歴にもハクをつけてくれるだろう。ただ、我々が薦める国際コンクールはレベルが高いから、生半可な気持ちで取り組めない。それを承知で返事をもらったと思っていいんだろうか。こちらとしては受けて貰えると、ありがたいことではあるのだが」

「もちろん生半可な気持ちではありません。僕は自分と大切な人の人生のために、全身全霊をかけて臨みます」


その言葉を聞いた教授は「そうか……」と言って小さく微笑むと、右手を前に差し出した。


「君の音楽と人生に幸あれ」

「よろしくお願いします」


雅玖がくはその手を取ると、帰ったらすぐ光弦みつるに報告しようと思った。




大学を終えた雅玖がくが、背中にリュック、左肩にずっしりとしたエコバッグをかけてマンションに戻った。

玄関には見慣れた光弦みつるの靴の他にもう一足、じゃない靴が脱がれている。


(来客か? 珍しいな。あいつじゃなきゃいいけど)


雅玖がくは、そのじゃない靴を避けて靴を脱ぐと、いつもより大きめな声で「ただいま」と言ってみた。

するといつもと変わらず、光弦みつるがリビングから出迎えにやってきてくれた。


雅玖がく、お帰り」

「ただいま。お客さんか?」


雅玖がくの肩からエコバッグを自分の手に持ち替えた光弦みつるが、無邪気に答える。


「うん。奏多そうたが就活を手伝ってくれてるんだ」


その名前を聞き、雅玖がくの気分が重くなる。

奏多そうたとは光弦みつるの滝田の同級生で親友だが、節々に光弦みつるに特別な感情を持っているような仕草を見せつけてきて、雅玖がくが危険人物とみなしているだったからだ。


そんな雅玖がくの気持ちに全く気付いていない光弦みつるは、呑気にエコバッグを覗き込んで、「ドライカレーの材料じゃん」と嬉しそうに声を上げる。


「昨日作れなかったからな」と言いながら着いたリビングでは、食卓でPCを開いている天敵・桐島奏多きりしまそうた、つまりの姿があった。


「やぁ、雅玖がく君久しぶり。お邪魔してます」

「どうも。いらっしゃいませ、


雅玖がくは、まるで自分の心中を察しているような奏多そうたの笑みが気に入らなかったが、光弦みつるの手前、無下に出来ずもどかしく思いながらキッチンの水道で手を洗っっていると、背後から明るい声が聞こえる。


「そうだ。今夜はドライカレーだから奏多そうたも食べてかない? 雅玖がくが作るカレ-はめっちゃ旨いよ」


(は!? )

雅玖がくは驚いて振り向く。


「え、……いいの?」


戸惑う奏多そうたに「もちろんだよ」と光弦みつるは嬉しそうに答える。


「だってラーメンのお礼もしたいし。ね、雅玖がく、全然いいよね!」


自分に向けられたその純粋な瞳に、雅玖がくは「もちろん。先輩がよければだけど」と絞り出す。


「じゃぁお言葉に甘えちゃおうかな。手作りカレーなんて久しぶりだ」


(まじか……)、と、雅玖がくの顔が引きつる。


「じゃぁ決定! 雅玖がく、3人分よろしく」


雅玖がくは内心は忌々いまいましかったが、光弦みつるの提案なら従うしかない。諦めて冷蔵庫の横に引っかかっているエプロンに手をのばすと、「りょーかい」と答えた。


(食ったらとっとと帰ってもらって、コンクールの話はそれからだな)


そう思う雅玖がくの心中を察したのか、光弦みつるが声を掛ける。


「俺の時間なら気にしないでいいからね。急いでケガでもしたらいけないから、ごゆっくりどーぞ」


(こいつ、絶対わざと言ってるだろ)


そう思いながら食卓の上にあったエコバッグをシンクに置き直した雅玖がくはだが、言われた通りで、乱れた気持ちで料理をしてケガでもしたらシャレにならない。ましてや、コンクールへのエントリーを決めてきたばかりだ。


(冷静だ、冷静になれ。俺と光弦みつるの未来のためだ)


雅玖がくはグラスに水道水を入れると、一気に飲んで気持ちを落ち着かせる。

そして4合の米を手早く研いて炊飯器を早炊きにセットすると、いつもより慎重に包丁を使い、ニンジンと玉ねぎをみじん切りにした。


結果的に、いつも以上に気持ちがこめられて出来上がったドライカレーだったが、奏多そうたは「うんま!」と感嘆の声を上げ、どんどん箸が進む。

光弦みつるも「でしょ」と誇らしげに、そして「今日もめっちゃ美味しいよ」と嬉しそうにパクパク食べる。


そんな光弦みつるの姿に少しだけ気が晴れた雅玖がくだったが、心の中では、食べたら早く帰ってくれと思いながら、食卓に座った。


だが食事が終り、雅玖がくが食器を洗い終えても、光弦みつるの就職先探しは終わりそうもなく、奏多そうたも居残り続けている。


(帰って欲しいけど、光弦みつるの邪魔をするわけにもいかないしな……)


雅玖がくは仕方なく先にシャワーを浴びて髪を乾かす。

それでも続く2人の職探しを見て、(ちょうどいい。誕生日ソングの続きでもするか)と、一人防音室に入ってピアノの蓋を開けた。


気が付けば2時間以上が過ぎ、まもなく夜の11時になろうとしていた。


「もうこんな時間か」


雅玖がくが防音室を出ると、玄関にあったあいつの靴が無くなっている。


「帰ってくれたか」


やれやれと思いながら雅玖がくがリビングに入ると、二人掛けのソファーに丸まって眠る光弦みつるの姿がある。職探しが疲れたのだろう、ぐっすりだ。


雅玖がく光弦みつるを優しく抱き抱えると寝室のベッドへ運び、(靴下は脱ぐ派だもんな)と足元に手をやってから、布団を掛けた。


コンクールのことは、明日話すか。


スヤスヤと眠る寝顔を見ながらそう思った雅玖がくだったが、この判断が後に大きな誤解を生むことになるとは、この時は露にも思わなかった。






































  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ピアノの王子様は死ぬために街を駆ける あいちあい @sojusara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ