Op.2

雅玖がくは必死に走った。


寄りたかったスーパーが見えてきても素通りし、様子が心配な光弦みつるが待つ部屋だけを目指して、とにかく走っている。

普段はケガをしないように意識して無理は決してしない中、こんな風に走ったのは一体いつぶりだろうか。


見えてきた4階建てのマンションのエントランスに一目散に駆け込むと、1基しかないエレベーターは4階で止まったままだ。

雅玖がくは躊躇なく階段に向かうと一気に長い足で駆け上がり、301号室の扉をゼエゼエと肩で息を切らしながらスマホで開錠して中に入る。

玄関には見慣れたスニーカーがあった。


光弦みつる!!」


名前を呼びながら、小さな廊下の先にあるリビングへ走り込む。

だがそこに光弦みつるの姿は無い。


次に雅玖がくは、リビングから続く引き戸を開けた。

そこは2人が寝室として使っている部屋で、ベッドと勉強用の机に椅子、そして楽譜や書籍や音楽ソフトがズラッと並んだ棚が並んでいる。

しかしそこにも人の気配はない。


光弦みつる……」


雅玖がくはリュックを床に置くと、寝室を出てリビングを通り抜け再び廊下に出る。そして一度は素通りした玄関からすぐの、ここだけしっかりしたレバーの部屋のドアをグイッと力を入れて開ける。

そこは部屋のほとんどをグランドピアノが占め、少しだけあるスペースに譜面台が1台置かれた防音室だった。

同棲先にこのマンションを選んだ理由の部屋だ。


雅玖がくはまだ少し荒い息をしながら膝をついて、ピアノの下を覗き込む。

するとそこには、小さく体を丸めて床にコロンと寝転んだ光弦みつるの哀愁漂う背中があった。


光弦みつる! 大丈夫か? どこか体調でも悪いのか!?」


安心と心配が入り混じった雅玖がくが声を掛けると、「そんなんじゃない」とぶっきらぼうに返事がある。


「じゃぁ誰かにいじめられたか? それともバイオリンがどうかしたか?」

「違う。ダメだったんだ」

「ダメ? ダメって何が?」

「俺を貰ってくれる会社はこの世に無かったってこと」

「……もしかして就活か?」


すると光弦みつるの頭が小さく動く。

院に進学しない大学4年の光弦みつるは、音楽業界に絞って春先から就職活動にいそしんでいた。

だが30社以上受け続けた中で面接までこぎつけたのは数社で、その最後の1社の結果を待っていたところだった。


「それは受けたのがそもそも募集人数が少ないレア求人ばかりだったからじゃないか? これから違う業界も受けたらきっとすぐに決まるよ」


雅玖がくは精一杯の言葉をかける。

だが光弦みつるはコロンと体を雅玖がくに向けると、腕にバイオリンケースを抱かえながらも不貞腐れた顔で「お気楽だね」と苦々しく言う。


「もう10月だよ。目ぼしい会社はほとんど募集は終わってるに決まってるじゃん」

「あぁそうか、……ごめん」


励ましたつもりが失敗してしまい、雅玖がくは落ち込む。


その申し訳なさそうな顔を見た光弦みつるは、小さく溜息をつくとバイオリンケースを頭上側に置き、「はい」と両手を前に差し出す。

雅玖がくはその手を優しく取り、引きずるようにピアノの下からそっと体を引っ張り出すと、2人並んで壁にもたれて腰を降ろす。


「ごめん、八つ当たりしたかも」


光弦みつる雅玖がくの右肩にコツンと頭を乗せる。


「それで光弦みつるの気が晴れるなら、10でも100でも当ててくれ。俺は全て受け止める」

「あのね、全然受け止めれてないからね。あんな顔されたらこっちが自己嫌悪に陥るんですけど」


雅玖がくは「……ごめん」と言いながら光弦みつるの肩に右手を回して抱き寄せる。


「でもまだ卒業まで時間はあるから、就活は続ければいいじゃないか。それでも万が一の時は、卒業後はバイオリンを教えたり、オケのトラやオーディションを受けてもいいし、仲間と弦カルを組んだっていい。贅沢しなければ生活は出来るから」


すると一瞬の間のあと、光弦みつるがポツリと言う。


「それじゃぁダメなんだ。就職先が決まらなかったら地元に帰らないといけないから」

「……は?」


雅玖がくの眉間に皺が寄る。


「黙っててごめんだけど、こないだ親から電話がかかってきて、どこにも行くとこが無かったらおじいちゃんが経営する音楽塾で働くようにって言われちゃったんだよね」

「え? おじいちゃんの音楽塾って、……確か地元の四国じゃ」


光弦みつるがコクンと頷く。

突然の告白に、雅玖がくは頭が真っ白になり言葉を失う。


「だから絶対に就職したかったんだ。900キロも離れて暮らすなんて嫌じゃん」

「そ、そんなの当たり前だ。離れて暮らすなんてありえない。じゃぁ、もしもの時は俺が実家に挨拶に行く。そうしたら残れないか? 」

「どうかなぁ。雅玖がくは俺より音楽の才能も可能性もあるのは親も分かってるけど、今は親の仕送りで生活しているのは俺と一緒じゃん。生活力が微妙な限り難しいかも」


生活力と言われ、雅玖がくは今さっきホールで教授に言われた言葉を思い出す。


ーーーコンクールで予選に進むだけで、君なら卒業後の活路は明るいぞーーー


「……だったら俺の卒業後の進路が決まっていたら、ご両親は安心してくれるのか?」

「えー、2つ下の恋人に全ておんぶに抱っこってか? そんな不良債権みたいな存在、親だけじゃなくて俺もだよ」


そう言って悲しそうに笑いながらうつむく光弦みつるの姿に、雅玖がくは回した手に力が入る。


光弦みつるは不良債権なんかじゃない。バイオリニストは努力家で根気強いんだ。絶対に大丈夫だよ」


光弦みつるは「なんだよそれ」とプッと吹き出すと、自分を抱き寄せる雅玖がくの短く爪が整えられた美しい指先をまじまじ見る。


「さすがピアノ科首席はポジティブ思考の固まりだね。そうだね、考えが甘かったのは俺だ。最後まで頑張るよ。音楽業界以外も探してみる。俺の持ち味は粘り強さだから」


そう言って光弦みつるが大きな瞳で雅玖を見つめると、そっと目を閉じる。

雅玖がくはゆっくりと顔を近づける。


だが微かに唇が触れたかどうかの瞬間、グゥゥゥっと光弦みつるの腹が鳴る。


「……ごめん。元気出て来たと思ったら、お腹空いちゃったかも」


バツが悪そうな光弦みつるを見て、雅玖がくはハッとする。


「そうだ。今夜はドライカレーを作ろうと思っていたんだけど、スーパーに寄れなかったんだ」

「そういえばさっき校門って言ってたよね。今日は早く帰れるって言ってたのに何かあったの」

「……教授と話し込んでたら遅くなったんだ」


「そうなんだ」、と光弦みつるが一瞬考える。


「じゃぁ、今夜は俺が作ろうか」

「作るって、光弦みつるは何も出来ないじゃないか」


と訝しむ雅玖がくに、「失礼だな。俺だってお湯くらい沸かせるし」と、光弦みつるがドヤ顔になる。


「今日、奏多そうたにカップ緬をもらったんだ。4つあるからそれを食べよう」

「桐島さんから? なんで?」

「名古屋にコンサートを観に行ったお土産だって。流石親友、カップ緬なら俺でも食べてるだろうって、分ってるよね」


雅玖がくが眉間に皺が寄せながら、スクッと立ち上がる。


「そんなの食わなくても、すぐに俺が冷蔵庫の有りもので何か作る」


「え、だって」と言いかけた光弦みつるをあとにし防音室から出た雅玖がくは、リビングから続くキッチンに置かれた冷蔵庫を開ける。


だが中に、食材らしいものは何もない。


「だから食材は昨日使い果たしたじゃん」


斜め後ろに立つ光弦みつるが告げる。


そうだった。

昨日は使鍋にしたのを、雅玖がくは思い出す。

両手にカップ緬を持った光弦みつるが、ニコッと笑う。


「手を洗ってテーブルで待ってて。すぐ出来上がるから」


15分後、ご当地カップ緬をすすった2人はその美味しさからおかわりをしてしまい、4つ全て間食してしまう。しかしカップ緬の大食いに罪悪感を感じた光弦みつるが提案する。


「今から食後の運動しない? さすがにこのままはヤバイ」

「だな。今からアフターパーティーするか」


雅玖がくは体を屈めて光弦みつるの膝の裏に手を回すと、フワッと持ち上げてお姫様抱っこで寝室へ向かう。


「違う違う、こっちじゃない! 何考えてるのさ、雅玖がくのすけべ!」

「すけべなのはとっくに知ってるだろう」


雅玖がくがニコッと腕の中の光弦みつるを見る。


「それはそうだけど、防音室へ連れてってよ。思いきり弾きまくりたい気分なんだ。アフターパーティーはその後!」

「そうか、ごめん」


わざと勘違いしたのが丸わかりな表情の雅玖がくが、光弦みつるの頬に軽くキスをして防音室へ向かう。


光弦みつるを降ろした雅玖がくは、グランドピアノの屋根と蓋を開けて椅子に座ると、バイオリンの調弦用にラの鍵盤を叩いて光弦みつるの準備が整うのを待つ。


調弦が終り静寂が広がると、雅玖がくはいつでもタイミングを合わせられるように、両手の指先を鍵盤の上に置いてスタンバイする。


右斜め前で向かい合うようにバイオリンを構えた光弦みつるが、D線に弓を当てると、弓と指先を使って鐘の音を鳴らす。


雅玖がくは静かに和音を合わせながらその音色を聞き、夜中の12時を知らせる12回目の鐘の音が鳴り止むと、重々しくピアノを鳴らして次々と死神達を墓の中から呼び起こす。


そして一瞬の静寂のあと、光弦みつるが激しく不協和音の音色を奏でる。

それはバイオリンを持った死神の演奏で、不気味な舞踏会が始まりだ。


まるで死神が重なったような光弦みつるの演奏に、雅玖がくが伴奏を合わせる。


途中、踊り騒ぐ死神の骨が擦り合う音が響きながらも、突然曲が止んだかと思うと、夜明けを告げる雌鶏の鳴き声が聞こえ、死神達は慌てて墓の中に逃げ帰り舞踏会は終わり、再び静寂が広がると、2人の合奏も終ったーーー。


この曲はフランスの作曲家のサン=サーンスが作った7分程度の短い曲だが、非日常の幽玄な情景が思い浮かびやすいことから、ハロウィンの時期に街中で聞きくこと多い曲だ。


身長が168センチで細身の光弦みつるだが、その小柄な体格からは想像出来ない程にバイオリンの音色はとても力強く重厚感がある。だからこの『死の舞踏』のような曲はとてもぴったり合っていて、弾いている本人も達成感を感じやすい。


ちなみに身長が185センチで長い手足を持つ雅玖がくはオールマイティに何でもパーフェクトに弾けるが、光弦みつるいわく、「雅玖がくはドイツの作曲家が一番合っている」とのことらしい。


結局その日は『死の舞踏』1曲では終らず、モンティ作曲の『チャールダッシュ』やパガニーニ作曲の『モーゼ幻想曲』他数曲を、雅玖がくの伴奏で気の済むまで弾きまくってやっと光弦みつるは落ち着いた。



その晩、寝室でのアフターパーティーを終えた雅玖がくは、腕の中で眠る光弦みつるの顔を見つめながら思った。


ーーー俺はずっとお前の伴奏を続ける。絶対にーーー


そして一旦は目を閉じたが、ふいにそっとベッドを出ると、脱ぎ捨てられたスウェットを拾い、スマホとリュックを持ってリビングへ向かう。

そこで服を着てからリュックからイヤホンケースと五線譜ノートを取り出すと、スマホを操作しながら耳にイヤホンをはめ、操作をしながら書きかけの五線譜に音符を綴り始める。


それは1週間後の10月18日に誕生日を迎える、光弦みつるへ贈るために作っている曲だった。


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