Op.1

昨今は入学志願者が定員を下回る音楽大学もある中、浪人してでも入りたいと志願者の倍率が3倍を下回る事が無い、日本屈指の名門難関大学『滝田音楽大学』。


その大学の敷地内には、昨年の大学設立100周年記に建てられたばかりのキャパ400席のトゥッティホールがあり、そのステージで今、黒のハイネックにジーンズ姿の1人の男が、ステージ中央に置かれたグランドピアノを演奏をしている。


その男の名は森崎雅玖もりさきがく

滝田音楽大学ピアノ科3年で、同級生20名の中でストレート入学した5名の中の1人で、入学時から今までずっと主席の座に君臨するエリート中のエリートだ。

またその見目も麗しく、スラッとした高身長からしなやかに伸びた長い手足と、切れ長で美しい目元にスッと通った鼻筋。そして漆黒の美しい髪が、小さくて形が良い頭と絹のような肌を引き立てとても似合っていて、その全てにおいて秀悦な存在は学内だけでなくクラシック業界からも注目され、「ピアノの王子様」と呼ばれていた。


そのピアノの王子様こと、雅玖がくが演奏しているのは、ハンガリーの作曲家フランツ・リストが作曲した 【超絶技巧練習曲より第四曲 マゼッパ】だ。


この曲は鍵盤上で広い手の跳躍やオクターブ移動がある難曲だが、楽譜にはリストにより指番号が指定されていて、それが更に難易度を上げていると言われている名曲だ。


だが普段からリストの曲を好んで練習していた雅玖がくは、大きな手から延びた長い指を駆使し、約8分程度のこの難曲を華麗に弾ききった。


余韻のあと、客席から数人の拍手が鳴り響く。


雅玖がくはその拍手が鳴る方、客席の15列目で通路を挟んだ1列目になる中央の席に目をやる。

そこにはスーツ姿の教授や学長など、大学幹部連中が集まって聴いており、今はスタンディングオベーションとなっている。


雅玖がくの傍に座って譜捲りをしていた教授が、「お疲れ様。流石、圧巻の演奏だったな」と声を掛ける。


(……終わったのか?)


なぜ今ここで演奏させられているのか知らされずにいた雅玖がくは、一体この時間は何なんだと思いながらもとりあえずピアノの前に立つと、演奏者の礼儀として客席に向かって一礼した。


つい2時間ほど前、4時限目のコマを終えた帰り際に突然ホールに呼びだされ、目の前に数冊の楽譜が並べられたかと思うとバッハやベートーヴェン、ショパン、リストなどの名だたる作曲家の曲を1時間近くも演奏させられ、今に至る。

おまけに客席には、たかが生徒が演奏するだけで一堂に会するにはありえないようなメンバーだ。


意味不明な拍手が続く中、頭を上げた雅玖がくはステージを降りるため下手に向かう。と、背後から教授の、待ちたまえ、と言う声がして、仕方なく足を止める。

客席では、大人達が初老の学長の傍に集まり何やら話をしている。


ピアノの奥からステージ前方に移動した教授が、その塊に向かって「決定でよろしいですか」と声を投げると、満足気な学長が自ら返事を返してきた。


「問題ない。素晴らしい演奏だった」


すると教授は、訝しみながら下手側に立つ雅玖がくに向かって、ホッとしたように告げた。


「おめでとう森崎君。来年2月の国際コンクールの予備審査に君のエントリーが決定したよ」


「……は?」


突然の宣告に、雅玖がくの眉間に皺が寄る。


「何の話ですか?」

「驚かせてしまったかな。だが国際コンクールは選ばれた人間だけに出場権利が与えられる非常に名誉なことだ。良かったな。これから準備で忙しくなるから体調に気をつけるように」


上から目線で一方的に話を続ける教授に、雅玖がくは少しだけイラッとしたが、表情には出さずにクールに言葉を返した。


「出ませんよ。別に希望していませんから」


驚いた教授が、おいおい、と話を続ける。


「何を言い出すんだ。君の技量なら予備は恐らく通過して予選へ進める。いや、本選だって夢じゃない。大学も全面的にバックアップするからぜひチャンレンするんだ。それだけの価値がある」

「だったら出たがってる生徒に声を掛けてください。僕は辞退します」

「発表会じゃないんだ。出たいだけで出れるわけないだろう。君だから声を掛けてるんだよ。君は卒業後は院に進む気は無いんだろ? だったらあと1年ちょっとしかない在学中に臨むべきだ。予選に進むだけでも卒業後の活路は明るい。君なら音楽事務所から引く手あまただろう。辞退なんてありえないぞ」


もちろん雅玖がくもコンクールがどういうものか分かっていて、だからこそ興味が無い自分には参加する資格が無いと思っての返事だ。

教授もそれは分かっていると思っていたのに、普段は口数が少ない教授の饒舌ぶりに雅玖がくは逆に(やけに熱心にすすめてくるな)と、不思議に思う。


すると、客席にいる大人達の「これで上手くいけば学長の任期中に大きな実績ができますね」と話す声が、たまたま耳に入る。


(あぁなるほど。そういう事か)


雅玖がくは察する。


(確か今の学長になってから、どこの学部からもコンクール入賞者が出ていない。つまり残りの任期を鑑みて実績作りに焦ってるのか。そんなくだらない事に付き合わされたとは……)


雅玖がくは目の前に立つ教授が気の毒に思え、悲しくなった。

この人も昔は名ピアニストとして名を馳せ、引退した今は滝田の教授職に就いている。現役の頃に出したCDは全て持っているし、動画サイトに上がっている映像も何度見たか分からない。

それほどに業界ではハクがあるはずの人なのに、生徒の将来のためという体裁を使って上司の名誉のために働く太鼓持ちに見えてしまう。


(まぁ現実はこんなものか。所詮腕一本で生涯食っていける人は奇跡の人なんだな)


「卒業後の進路は自分で何とかしますので、心配はご無用です。これ以上先生のお手を煩わせません。急いでますので、これで失礼します」


雅玖がくは小さく一礼すると、背後で名前を呼ばれても聞こえないかのように、足早でステージの下手側にある階段から客席に降りる。

そして座席に置いていたリュックをパッと手に取ると、近くの扉からホールを出てホワイエを一気に突っ切り、会館を出た所で移動しながらスマホをリュックから取り出した。

液晶画面には、10月6日18時9分の文字が表示されている。


「ああ、もうこんな時間か。今夜は光弦みつるにドライカレーをリクエストされていたからスーパーに寄りたかったのに」


雅玖がくはすれ違う女生徒達の「ピアノの王子様よ♡」とキャッキャする姿に目もくれず、早足で校門に向かいながら指先でLINEアプリを開き、1番上に固定されているミツルと書かれたバイオリンの写真の画面から通話ボタンを押してスマホを耳に当てる。


だがコールは続いても、一向に電話はつながらない。


「まさか、腹が減って先に一人で何か食ってたりしないよな」


雅玖がくが嫌な予感をし始めた頃、『……もしもし』と元気の無い声がスマホから聞こえ、その声色に眉間に皺を寄せる。


光弦みつる?」

『……雅玖がく。もうダメだ。生きていけない』


そののっぴきならない言葉に、雅玖がくは焦る。


「どうした、何があったんだ!? 今どこだ!?」

『家。お願い早く帰ってきて』

「今校門だからあと5分、いや4分で着く。急いで帰るから!」

『……分かった……』


プツリと通話が一方的に切れる。


「クソッ! 俺がモタモタしてる内に、一体何があったんだ!?」


雅玖がくはスマホを強く握ると、目の前の道を駆け出した。


その様子を遠目で見ていた女生徒達は、電話の会話は聞こえなくても雅玖がくが醸し出していた雰囲気が、何かあったお姫様の元へ急いで向かう王子様のように見え、この大学に入って本当に良かったと別の意味で心から思えた瞬間だった。


















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