第三十一話『採算度外視の「依頼(オーダー)」』

 静寂が、薄暗い橋桁の内部空間を支配していた。 いや、静寂ではない。ヴォルガが率いる空賊たちの、武器が触れ合う微かな金属音と、嘲笑を抑えた息遣いが、四方八方から一行を包囲していた。


「どうする、『話』のできるネズミ?」


 ヴォルガは、まるでこの状況そのものを楽しむかのように、余裕の笑みを浮かべている。 コウスケの脳内では、先ほど【万物積算】でスキャンした、この床の構造データが赤く点滅していた。


(…ダメだ。この床は、上部構造から数本の『吊りケーブル』で支えられているだけだ。レオやギムレットさんが本気で動けば、ヴォルガの言う通り、ケーブルの『支持部(アンカー)』が先に破断する…!)


 レオもギムレットも、その異常なまでの緊張感を肌で感じ取り、下手に動けずにいた。一触即発でありながら、その「一触」が自爆スイッチでもあるという、最悪の膠着状態だった。


 その、張り詰めた糸を、思いがけない人物が断ち切った。 「橋の民」の長老だった。 老人は、ヴォルガの前に這い出るかのように進み出た。バルトが「長老!」と制止しようとするが、その声は届かない。 ヴォルガは、土下座でもするのかと、その姿を面白そうに見下ろしている。


 だが、長老は、ヴォルガを通り過ぎた。 そして、震える両手で、コウスケのブーツに、泥まみれの額をこすりつけるようにして、すがりついた。


「お、お助けください…旅の方…!」


「…!?」

コウスケも、クララも、その予期せぬ行動に息を呑んだ。


「あの『鉄の嘴』(ワイバーン)を倒された、あなた方なら…! あの恐ろしい化け物を、知恵と技術で葬り去った、あなた方の『力』ならば…!」 長老は、顔を上げた。 その目には、長年の諦観ではなく、この状況で燃え上がった、狂気にも似た「希望」の光が宿っていた。


「どうか、この街(アエリア)を…我らのこの牢獄を、あの悪魔(ヴォルガ)どもから、奪還してください…!」


 それは、この絶望的な状況下で投じられた、あまりにも無謀な「依頼(オーダー)」だった。 ヴォルガは、その光景に一瞬虚を突かれたが、やがて、腹を抱えて笑い出した。


「ハッ! ハハハ! 聞いたか、土竜ども! この期に及んで、この俺様にケンカを売るだと? しかも、自分じゃなく、迷い込んできたネズミに頼んでか!」


 だが、そのヴォルガの嘲笑よりも早く、鋭い声がコウスケの耳元で響いた。


「馬鹿なこと言わないでください!」


 クララだった。 彼女は、長老の懇願を、会計責任者として、そして一人の仲間として、真正面から否定した。 その顔は、恐怖と焦りで青ざめている。

「無理に決まってるでしょ! 私たち、今、完全に包囲されてるんですよ!? それに…!」 彼女は、コウスケの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで、必死に言葉を絞り出した。


「予算はどうするの!」


「え…」

「予算、だと…?」


  レオとギムレットが、この緊迫した場面で飛び出した、あまりにも場違いな単語に、素っ頓狂な声を上げた。


 だが、クララは本気だった。


「私達の今回のプロジェクトは、あくまで『調査』! そのための『調査費』しか、ギルドから承認されてないわ!」 彼女は、目の前のヴォルガを睨みながらも、その言葉はすべて、ギルドマスターであるコウスケに向けられていた。


「こんな、どこぞの馬の骨とも知れない空賊団と、全面戦争なんて始めたら…! 武器も、ポーションも、食料も、何もかもが足りない! その『戦闘費』は、誰が払うのよ!」


「おい、クララ、お前…」

 レオが、仲間を売るような発言だと激昂しかけた。


「うるさいわね、レオ!」 クララは、そのレオさえも一喝した。

「あんたは、『予備費(コンティンジェンシー)』の意味を忘れたの!? あれは、こういう『想定外』の戦闘で予算が尽きて、プロジェクトが失敗しないための『保険』よ! でも、『保険』で戦争はできないの!」


 彼女は、コウスケをまっすぐに見据えた。

「このままじゃ、ギルドに戻る前に、予算どころか命が尽きる。…ギルドマスター、あなたの判断は?」

 

 それは、会計責任者としての、あまりにも正しく、そして、あまりにも冷徹な問いだった。


「こんな『依頼』を受ければ、私たちのプロジェクトは、大赤字どころか、『破綻』よ!」


 ヴォルガは、その信じられない内輪揉めを、実に楽しそうに眺めていた。


「ハッ! 聞いたか、ネズミども。お前らの『リーダー』は、『赤字』になるから、お前らを見殺しにするかもしれねえとよ!」


 ヴォルガは、コウスケに視線をロックオンした。 その目は、もはや獲物を嬲る目ではない。自分と同種の「知性」を試す、値踏みの目だった。


「面白い。実におもしろいぜ、お前ら」 ヴォルガは、あえて一つの「提案」をした。

「おい、『話』のできるネズミ。そこの『会計』女の言う通りだ。お前は賢い。俺の下につけ」


「なっ…!?」

「そこの脳筋(レオ)とデカブツ(ギムレット)の命を、俺に差し出せ」 ヴォルガは、平然と言い放った。

「そいつらを『コスト』として切り捨てれば、お前と、そこの『会計』女の命だけは助けてやる。お前、そこの『橋の民』より、よっぽど『設備』として使えそうだ。俺の『現場(テリトリー)』の管理を、お前に任せてもいい」


「ふざけんじゃねえぞ、テメエ!!」

 レオが、ついに怒りを爆発させ、剣を抜き放った。

「待て、小僧! 床が…!」

 ギムレットが制止するが、レオの怒りは収まらない。


 クララは、ヴォルガの恐ろしい提案に「ひっ…」と息を呑み、コウスケの服の袖を無意識に掴んでいた。 長老は、絶望の表情で、「ああ…」と力なく床に崩れる。


 すべての視線が、コウスケ一人に集中していた。 ヴォルガの「悪魔の提案」。 レオの「仲間としての怒り」。 クララの「現実的な恐怖」。 そして、長老の「打ち砕かれた希望」。


 コウスケは、そのすべてを一身に浴びながら、ただ静かに、ヴォルガを見据えていた。 彼の脳内では、プロジェクトの「採算」と「リスク」、そして「クライアントの依頼」が、猛烈な速度で回転していた。 彼は、ゆっくりと口を開いた。

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