第二部 空中都市(エアリアル・ブリッジ)
第二十三話『ギルドの黒字と旅の「予算書」』
『礎の谷・都市開発ギルド』の作戦室は、これまでの激動が嘘だったかのように、穏やかな日常の空気に満たされていた。 壁に貼られた真新しい『月次貸借対照表バランスシート』は、その右下の「純資産の部」が、見事な黒字を描いている。街の復興事業と、ギルドが提案した『標準仕様書』による工房改修ビジネスは、今や完全に軌道に乗っていた。
「――さて」
書類の山から顔を上げたコウスケは、テーブルに集まった仲間たちを見渡した。 血気盛んに剣の手入れをしているレオ。ギルドの会計帳簿を几帳面にチェックしているクララ。そして、窓の外の活気ある街並みを、満足げに眺めているギムレット。 彼らに向かって、コウスケは静かに告げた。
「街の経営プロジェクトは、安定軌道フェーズに乗った。いよいよ、俺たちの本来の目的を果たす時だ」
その言葉に、三人の動きが止まる。 コウスケが作戦室の奥から取り出してきたのは、あの埃をかぶっていた大陸地図と、厳重に保管されていた羊皮紙の束だった。 表紙には、こう記されている。
【大陸古代建築群・保全計画:フェーズ1・実現可能性調査(Feasibility Study)】
「待ってましたッ!」 レオが、手入れ中だった剣を鞘に納め、バンッとテーブルを叩いた。
「ようやく冒険の始まりってわけだ! 次の敵はドラゴンか!? それとも魔王軍か!?」
「落ち着けレオ。これは戦争じゃない、『調査』だ」
コウスケは、興奮するレオを片手で制すると、もう一つの分厚い羊皮紙の束をテーブルに広げた。
「うへぇ…」 レオの顔が、期待から一転して絶望に染まる。
「ま、また書類かよ…。金と食い物持って、さっさと出発すりゃいいだろ!」
「馬鹿者」 コウスケは、心底呆れたという顔でレオを一喝した。
「いいか、これはお前の気ままな放浪じゃない。ギルドの資金カネを使う、公式な『プロジェクト』だ。そして、プロジェクトには必ずこれが要る」
彼が広げた羊皮紙の表紙には、こう記されていた。
【フェーズ1・旅程予算書(第一稿)】
「予算書…? 旅の、予算?」 会計担当として数字に敏感なクララが、即座に反応した。彼女は、コウスケが作成したその詳細すぎる書類を、驚きと疑いの入り混じった目つきで読み込み始めた。
「な、何よこれ…。馬車のレンタル代、食費、宿泊費、消耗品費…。レオ、あんたの食費、他の人の三倍で見積もられてるわよ!」
「なっ! しょうがねーだろ、俺は燃費が悪いんだ!ってか、そんなことまで決まってるのかよ…」
レオがうんざりする一方、クララはさらに不可解な項目を見つけ、眉をひそめた。
「コウスケ。この項目は何? 『予備費コンティンジェンシー』…金貨にして、総予算の…15%!? 馬鹿にしないで、こんなの無駄遣いじゃないの! ただでさえ、ようやく黒字になったっていうのに!」
クララの剣幕は、ヴァレリウスの不正を追及していた時と同じくらい鋭い。ギルドの会計を預かる者として、当然の反応だった。 コウスケは、その鋭い指摘を待っていたかのように、静かに頷いた。
「クララ。プロジェクトに『想定外』はつきものだ」 彼は、レオに向き直った。
「レオ、お前が遠足に行くとする」
「お、遠足? なんだよいきなり」
「いいから答えろ。弁当代と水筒代は、家を出る前に母親に確認できるな? これが、あらかじめ金額が決まっている『固定費』だ」
「おう。まあな」
「だが、旅先の屋台で、美味そうな串焼き屋を見つけたらどうする? 食べたくなるだろ? いくら使うか、家を出る前にはわからない。それが『変動費』だ」
「当たり前だ! 買うに決まってる!」 レオが胸を張って答えると、クララが「あんたの『変動費』が、この予算書を圧迫してるのよ!」とこめかみを押さえた。
コウスケは、話を続けた。
「だがな、レオ。もし旅の途中で、お前が崖から落ちて、その自慢の剣を折ったらどうする?」
「げっ…」 レオの顔が、一瞬で青ざめた。彼の剣は、ギムレットに特注してもらった一級品だ。買い直すとなれば、金貨数十枚が飛ぶ。
「…そ、そりゃあ…最悪だ。丸腰になっちまう…」
「そうだろう。予備の剣を買う金がなかったら、その旅プロジェクトは、その時点で『失敗』だ。違うか?」
コウスケは、そこで初めて、クララに視線を戻した。
「この『予備費』ってのは、その『崖から落ちて剣が折れる』みたいな、プロジェクトの続行を不可能にする最悪の『想定外』に対応するための、言わば『保険』だ」 彼は、予算書を指し示す。
「特に今回は、『礎の谷』という俺たちのホーム(現場)じゃない。情報がゼロに近い、完全なアウェイ(未知の現場)に行くんだ。どんなトラブルが待っているか、誰にも予測できない。だからこそ、あらかじめ失敗に備えた予算コストを、計画の段階で組み込んでおく」 コウスケは、きっぱりと言い切った。
「これが、俺のやり方だ」
作戦室は、静まり返った。 レオは、自分の剣が折れる事態を想像して冷や汗をかいている。 ギムレットが、重々しく口を開いた。
「フン。要は、現場で大事な道具ハンマーが壊れても、すぐに買い直せるようにしとけ、ってことだろ。職人の世界じゃ当たり前のことだ。それを、ご丁寧に『予算』と呼ぶだけの話よ」
「…そういうことだ」
ギムレットの的確な要約に、コウスケは頷いた。
クララは、コウスケの顔と予算書を何度か見比べた後、ふぅ、と大きなため息をついた。
「…わかったわ。確かに、あなたの言う通りね。私、目先の黒字に、少し浮かれていたかもしれない」 彼女は、背筋を伸ばし、会計担当としての厳しい目つきに戻った。
「納得したわ。その代わり…」
「ああ」とコウスケは、クララの言いたいことを察し、その分厚い予算書を彼女の前に押しやった。 「クララ、君が今回の旅の『会計責任者』だ。この予算の執行しっこうは、すべて君に一任する」
「えっ、私!? わ、わかったわ。光栄よ」 クララは、その重責にゴクリと喉を鳴らしたが、すぐにキッと顔を上げた。
「いいわ。引き受けたからには、銅貨一枚たりとも無駄遣いはさせないから! レオ! あんたの『変動費』も、私がきっちり管理するから覚悟しなさい!」
「げげっ! そりゃないぜ、クララ!」
仲間たちの間に、いつもの活気が戻る。 コウスケは、その様子に満足げに頷くと、広げた大陸地図の一点を指差した。 そこは、『礎の谷』から遥か南に位置する、巨大な峡谷地帯だった。
「準備は整った。これより、『大陸古代建築群・保全計画:フェーズ1』を開始する」 彼は、仲間たちの顔を見渡し、次の「現場」を告げた。
「最初の目的地は、南の峡谷地帯に架かる、古代の巨大建築――『空の架け橋スカイ・ブリッジ』だ」
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