第八章 新しい夜明け

 三日後、フロンティア史上最大の協定が締結された。『プロメテウス協定』と呼ばれるその文書は、経験機械の管理と利用に関する包括的な取り決めだった。


 主な内容は以下の通りだった。


 第一条:経験機械の技術は全コムの共有財産とする。

 第二条:利用は成人の自由意志に基づく完全な選択制とする。

 第三条:接続時間に制限を設け、定期的な現実復帰を義務づける。

 第四条:技術の改良と安全性の向上は共同で行う。

 第五条:収益の一部をエデンを含む農業コムの支援に充てる。


 私はその調印式に立ち会った。

 各コムの代表者が署名する歴史的瞬間だった。


 アマゾネスの代表は筋骨隆々とした女戦士、アトリエの代表は絵具まみれの芸術家、そして十数の他のコムからも多彩な人々が集まっていた。


 署名が終わると、カタリナが私に近づいてきた。


「素晴らしい仕事でした、ノアさん」


「私は契約を履行しただけだ」


「ですが結果的に新しい時代の幕開けとなりました」


 確かにそうかもしれない。経験機械の発見と管理協定の成立は、フロンティア社会に大きな変化をもたらすだろう。


「ところで」


 カタリナが続けた。


「コム連合で執行人のポジションが空いています。興味はありませんか?」


「私はフリーランスでいい」


 即座に断った。


「組織に縛られるのは性に合わない」


「そうですか。残念です」


 カタリナは微笑んだ。


「ですが何かあれば声をかけてください。あなたのような人材は貴重です」


 調印式の後、私はエデンに向かった。

 契約の履行を確認し、報酬を受け取るためだ。


 エデンの様子は一変していた。用水路に豊富な水が流れ、枯れかけていた作物が息を吹き返している。子どもたちの笑い声が街に響いていた。


 ミリアムが私を迎えてくれた。


「ノアさん、本当にありがとうございました」


 彼女の顔には安堵と感謝の表情があった。


「エデンは救われました。それだけでなく、プロメテウス協定により継続的な支援も約束されました」


「それは良かった」


 私は簡潔に答えた。


「報酬の件ですが……」


 ミリアムが切り出した。


「プロメテウスの資産の一部を受け取る権利がありましたが、協定により管理体制が変わりました。代わりに相応の金銭で支払わせていただきたいのですが」


「構わない」


 実際のところ、巨大なコムを管理する責任など背負いたくなかった。金銭の方が遥かに扱いやすい。


 支払いを受けた後、私はエデンの街を歩いた。復活した農業の様子を見て回る。農民たちが活気に満ちて働いている。


 街の中央広場で、あの金髪の女性に出会った。経験機械から救出した女性の一人だった。


「ノアさん!」


 彼女が手を振ってきた。


「お疲れさまでした。エデンで働くことになったんです」


「そうか。それは良かった」


「あの……お聞きしたいことがあるんです」


 彼女は少し躊躇いがちに言った。


「私たちが機械から解放されたのは、本当に良いことだったのでしょうか?」


 難しい質問だった。


「分からない」


 私は正直に答えた。


「だが少なくとも、あなたは自分で選択できるようになった」


「選択……そうですね」


 彼女は微笑んだ。


「確かに現実は厳しいです。でも……生きている実感があります」


 私は頷いた。それが全てだった。


 夕方、私はエデンを後にした。装甲バギーのエンジンをかけ、次の目的地に向かう。中央ターミナルに戻り、新しい仕事を探すつもりだった。


 荒野を走りながら、私は今回の任務を振り返った。単純な契約履行のはずが、フロンティア社会全体を変える大事件になった。


 私のしたことは正しかったのか。今でも分からない。ウィルシャーの言う通り、現実よりも仮想の方が幸福かもしれない。スカーレットの言う通り、私は多くの人の幸福を破壊したのかもしれない。


 だが私は後悔していない。人間には選択する権利がある。たとえその選択が苦痛をもたらすとしても、その権利を奪うことは誰にもできない。


 バックミラーに映るプロメテウスの要塞は、既に新しい管理体制の下で稼働を始めていた。経験機械は適切な制限の下で運用され、多くの人々に管理された幸福を提供するだろう。


 それでいい。完璧な解決策など存在しない。私たちにできるのは、より良い選択肢を提供することだけだ。


 砂漠の向こうから陽が昇っていた。新しい一日が始まる。新しい契約と可能性の一日が。


 グロック17のグリップを握り直す。まだ温かい。今日もまた誰かが私を必要とするだろう。そして私は応える。弾丸と共に。


 このどうしようもなく自由で残酷な世界で、私は私の仕事をするだけだ。ただ静かに、確実に。


 中央ターミナルに到着すると、マックスが待っていた。


「おかえり、ノア。新しい仕事があるぞ」


「どんな案件だ?」


「南部のコム『ニューアルカディア』からの依頼だ。契約違反の清算だが、相手が手強そうでな」


 私はコーヒーを注文した。ブラック、砂糖なし。いつものように。


「詳細を聞こう」


 新しい仕事、新しい契約、新しい戦い。それが私の人生だった。


 エンフォーサー・ノア。それが私の名前、私の職業、私の存在理由。


 外では風が砂を舞い上げている。フロンティアは今日も厳しく、そして自由だ。そんな世界で、私は今日も契約を執行し続ける。


 誰かの権利のために。

 誰かの自由のために。

 そして何より、この混沌とした世界に僅かでも秩序をもたらすために。


 それが私の使命だった。


(了)

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【ポストアポカリプス・ハードボイルドSF短編小説】権利執行人ノア ~ジャッジメント・エンフォーサー~(約17,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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