業の縄目
@hi_ra_gi
第一話
伝統芸能展示会【和の美展】。
日本芸術機構において現理事長を務める
13時に開場すると、提携企業やその関連企業の役員、彼らの親族が続々と訪れ、展示場内は大いに盛況となった。
このイベントに招かれているのは主催者である木陰からの招待状を受け取った者とその関係者のみだが、その中には、手厚くもてなすべき数名の重客がいた。
【和の美展】と銘打つだけあり、場内には日本の美しい伝統工芸品が数多く展示されている。今回、それらの品々のうちのいくつかの提供者である者が5人、特別来賓として招待を受けていた。彼らは皆、この展示会の最後を飾る目玉イベント・能楽【土蜘蛛】の上演に携わっていることもあり、ひときわ重要な客人だった。
1人目は、
2人目は、
3人目は、
4人目は、
5人目は、
彼らは来場者らに混じって、各々の気の向くままにこの展示会場で時を過ごしていた。
*
現在、時刻は15時を回ったところだ。14時頃に一度、主催者として来場者へ世間話程度の挨拶回りを行っていた木陰が、再び会場内に姿を見せた。
「これはこれは。京都よりわざわざご足労いただき大変ありがたい」
西陣織による様々な作品を展示している大型ショーケースの前で木陰に声をかけられたのは、織物職人の竹御台だった。
「木陰さん、お世話になっております」
ゆったりとした京訛りの挨拶と共に深々と頭を下げた彼は、再びショーケースへと視線を戻す。
「このような素敵な展示会にお招きいただき、こちらこそ感謝の念が尽きません。普段、滅多に目にすることのない芸術品の数々に、目を奪われていたところです」
「何をおっしゃいます。先生こそ、唯一無二の逸品をいくつも生み出しておいでではありませんか」
「いえいえ。こんな素晴らしい品々にお目に掛かった後では、私もまだまだやと思い知らされるものですわ」
昔気質の職人らしく、品のある奥ゆかしさを見せる彼へ、木陰は「先生ほどの方が、随分と謙虚でいらっしゃる。頭が下がりますよ」と満足気に笑った。
「もったいないお言葉です。……今回、谷洲の水斗坊ちゃんがご着用なさる衣装に、制作段階で何度も関わらせていただいて。この歳にもなってお恥ずかしい話ですが、朝から浮き足立っておりました」
嬉しそうにそう告げる竹御台は、この日のために半年の月日をかけて鮮やかな反物を織り上げた。それを縫製職人の手で丁寧に縫い合わせることで完成した【合わせ法被】、そして【半切】と呼ばれる大きなひだの入った袴が今宵、能楽界の若き至宝である谷洲水斗の舞の力を借りてひときわ輝くことだろう。その様子を想像したのか、彼は歳の割に皺の多い頬をふわりと緩ませた。
*
竹御台との和やかな立ち話を終えた木陰は、その場から少し先へ進んだところで、別の展示物を楽しんでいた2人組に声を掛けた。
「やぁ、ご苦労様」
「ああ、木陰さん。先ほどぶりです。今日はお招きいただきありがとうございます」
木陰の声に愛想良く挨拶を返し、親しみ深い笑みと共に右手を差し出した壮年の男は、能楽師の渓馬。そして、その隣で無表情のまま「……どうも」と小さな声で呟き、申し訳程度の会釈を返した若い男は、和紙職人の山吹だ。
「君達はやはりここにいたか。そうじゃないかと思っていたよ」
木陰は2人へ交互に目をやりながら、言葉を続ける。
「ええ。展示物を入り口から順に見て回っていたら、ちょうど和紙作品の展示コーナーに辿り着きまして。せっかくなので、彼に紙のことを教えてもらっていたところですよ。な?」
そう言って、渓馬は山吹の腰に優しく手を添えると、柔らかな笑顔で彼の顔を覗き込んだ。対する山吹は「はい」と低い声で返事をして、顔を伏せてしまう。そんな彼から木陰へと視線を移した渓馬は、「恥ずかしながら彼に聞いて知ったんですが、この提灯なんかはものすごく手の込んだ精巧な作りなんだそうですね?」とショーケースの中の展示物の1つを手で指し示した。
「とりわけ、この部分のグラデーションは、並の職人では出そうと思っても出せるものではないとか。このような名品を、よくぞこんなにもたくさん集められましたね」
自身のコレクションや 、日本各地で活動する腕の良い職人から作品の譲渡を受けることのできる人脈の広さを賞賛され気を良くした様子の木陰は、満面の笑みを浮かべる。
「この品は、岐阜のとある名匠から譲り受けたものでね。譲渡交渉の際は、それはそれは渋られたものだった。……ところで、山吹君」
木陰はそこで渓馬との会話を区切り、今度は山吹へ向き直った。
「君は、まだ若いのによく勉強している。これらの作品の良さをその歳で理解できるとは、大したものだ」
工房での日々の力仕事の賜物か、服の上からでもがっしりとした逞しさの分かるような彼の身体を、木陰は感心したようにまじまじと眺める。
「……ここまで来るためには、こうするしかなかったので」
不躾とも言えるその遠慮のない視線から逃げるように、目を背けたまま感情のない声で答えた彼へ、隣から渓馬が助け舟を出した。
「木陰さん。我々はもうしばらく展示を楽しんでいきますよ。その後は夜の公演へ向けた最終調整がありますので、自分も控え室に戻ろうと思います」
「ああ、そうだったな。皆、今夜の公演を心待ちにしている。素晴らしいものを頼むぞ」
「ええ、もちろんです。総指揮を執った身として、公演は必ず成功させてみせます。水斗もおそらく同じ思いでしょう。昨日の通し稽古ではかなりの気迫を見せてくれましたから。今も、控え室かどこかにこもって黙々と1人稽古でもしてるんじゃないですかね」
メディア取材において徐々に共演回数が増え、ここ数年はビジネスパートナーとしての認知が定着しつつある2回りほど歳下の天才能楽師の名を挙げた渓馬に、木陰は「きっとそうだろうな」と同意した。
「木陰さんも、お疲れでしょう。控え室にお戻りになって休まれては?」
「うん、そうさせてもらおうか。だがその前に、あと2人分の顔を見てから部屋に戻るとするよ」
少し含みを持たせた言い方をした木陰に、渓馬は「そのうちの1人はもしかして水斗ですか?あいつ、着いたらまず木陰さんへご挨拶するように言っておいたのに」と苦笑を浮かべる。
「全くだな。いつも、いの一番に煙草の手土産を持って顔を見せに来てくれる君とは正反対だよ、あの坊ちゃんは。渓馬くん、君からも再三注意はしてくれているだろうがね?」
念を押すようにチクリと刺され、渓馬は「ええ、もちろんですよ」と声を一段和らげた。
「まあ、いいさ。私が会いに行けば済む話だからな。裏にいるだろうし、戻りがてら思い当たる部屋を覗いておくよ」
渓馬が腰の低い態度を見せたことで、木陰は機嫌を直したのか、それ以上は谷洲水斗についてこの場で言及することはなかった。
*
挨拶回りを終え、控え室へと繋がる裏通路の入口扉の前に戻ってきた木陰は、もう一度会場内をゆっくりと見回した。そして、今日はまだ言葉を交わすことのできていない例の2人の顔を思い出したのか、忌々しげに口元を歪める。
「……相変わらず、立場をわきまえない若造どもだ。2人揃っていつも自由が過ぎる」
恨めしそうに呟いた彼は募る苛立ちを隠さず、足取り荒く扉の向こうへと姿を消した。
*
稽古部屋として用意してもらった和式の多目的ルームの中央でひとり佇んでいた谷洲水斗は、何度か深呼吸を繰り返すと静かに扇子を開き、稽古に入った。
***
持参した小型のCDプレイヤーから稽古用の音源が小さく流れ始めると、背筋が自然にスッと伸びるのを感じる。
昔から人の多い場所は苦手だ。混雑した会場内を数分も歩き回るうちに精神的な疲れを感じ、早々にここへ逃げてきた。本番前の最終調整までにはまだ時間があったため、この部屋で自主稽古を始めてみたが、やはり舞と向き合っている時間が自分にとって最も心が鎮まるひとときなのだということを、改めて実感する。
橋懸かりと呼ばれる、本舞台へと続く細い通路からゆっくりと登場する自分の姿を脳裏に呼び起こし、丁寧に足を前へ、前へと運びながら、そこにひとつひとつの所作を加えていく。
1人で稽古をしている最中、たまに過去を思い返すことがある。別のことを考える余裕があるということは、まだ集中が浅い証拠でもあるが、これまでの自分の歩みに思いを致すことのできるこの時間はそれほど嫌いでもなかった。
6歳の誕生日を迎えると、その翌日から祖父による厳しい稽古が始まった。幼い頃より、シテ方五大流派の筆頭である谷洲の舞を骨の髄まで叩き込まれてきたお陰か、今やひとたび地謡方の威厳ある声や囃子方の奏でる厳かな調べを耳にすれば、身体が自ずと動いてくれるまでには技が熟している。
思春期の頃は、反抗期の真っ只中であったこともあり、同年代の友人らとの交友よりも稽古や舞台を優先しなければならない状況にほとほと嫌気が差していた。その思いがつい態度に表れて小手先で型をただなぞるような真似をしようものなら、師である祖父から酷く叱られた。だが、当時の自分にとって叱責は逆効果となり、なかなか素直になることはできなかったものだ。古くしがらみの多い家柄や、子どもだからといって決して妥協を許してはくれない祖父への反発心から、稽古をすっぽかしたり指導を受けている最中に手を抜いたりを度々繰り返し、その度に祖父に大目玉をくらっていたのが懐かしい。
───プライドだけは一丁前に高かったため、舞台の本番は及第点を目指して真面目にやり遂げていた部分だけは、褒めてもらっても撥は当たらないと思っている。
頭の中で、昔を回顧しているうちに、自分が成人を迎えた頃の記憶が想起され始めた。
(ちょうどこの頃だったかな。ある日突然、爺さんにきっぱり手を離されたのは)
稽古を続けながら、胸の内で独り言ちる。それは、一抹の寂しさを帯びた心細い記憶だった。
『水斗。これからは同世代の若手や、他の先輩方と切磋琢磨していきなさい』
そう伝えられた翌日から、それまで当たり前のように毎日続けられていた祖父との稽古がぱったりと途絶えた。既に基礎を学び終えていた当時の自分には、この厳しい伝統芸能の世界でひとり戦いながら、自らの意思で技を磨いていかなければならない時期が訪れていたことを、身をもって教えられたのだと今なら分かるが、その時は急に荒波の立つ大海原へと放り出されてしまったかのような不安に苛まれていたのをよく覚えている。
祖父による荒療治が功を奏し、甘ったれていた根性は無事に叩き上げられ、何とか今日まで能楽師を続けてこられた。そんな自分は、おそらくとても恵まれているのだろう。
現在では、祖父は随分と丸くなった。
ただ、人間国宝に指定されているほどの実力者である彼は、年老いた今もまだまだ現役である。
自分の腕ひとつで勝負しなければならなくなって初めて、20歳になるまで何のありがたみも感じずにのうのうと教えを乞うてきた祖父の背中がとてつもなく大きく、そして到達不可能に思えるほどに遠い存在であったことを知った。その事実を思い知らされてからというもの、何度も挫折しそうになり、さらには悔しさで人知れず涙を流した日もあった。
一体、これからの人生でどれほどの努力を重ねれば、祖父の背中に追いつくことができるのか。その頃から毎日、必ず一度はそう考えるようになった。
(……しまった。少し考え事をし過ぎた)
そこでようやく、深い思考に陥るあまり、舞への意識が疎かになっていたことに気付く。もう一度大きく息を吐き出し、下腹部にぐっと力を込めると、すぐに雑念は霧散し、物語の中へと入る準備が整った。
(今日の動きは、悪くない。しっかり重心をコントロールできてる)
今一度、身体の軸を意識し、その感覚を研ぎ澄ませて次の所作へ移る。上半身が揺らぐことのないように滑らかなすり足で床を移動するのは容易なことではない。そこに手や顔の動きが付けば、基礎ができ上がっていない者はたちまち重心を大きく損なうのだ。
(……まだだ。「軸ブレないように、慎重に」なんて考えてるうちは、まるで稽古にならない)
心でそう呟き、フッ……と頭の中を空にする。
脳内で見ている景色が、ゆっくりと真っ白に塗られていく。耳の奥ではただ、地謡と囃子が小気味よく鳴り響いているだけ。ここからが、至高の時間なのだ。
舞い進めるうちに、自分の意識が一段と深く沈み、稽古に没頭していくのが分かる。それに反比例するように、足腰の疲労や汗が肌を伝う感覚は徐々に薄まっていく。今まさに演じている人物が、ふわりと自分に重なっていくような、独特の感覚。そうして自分という存在が無になっていく、この時間が好きだ。
かつて、どれだけ意味を調べても、どれだけ祖父に説いてもらっても理解できなかった【幽玄】という言葉が、自分の中で柔らかく噛み砕かれ、呑み込まれていく。その言葉が表す極上の世界には、現時点での自分では到底及ばないことは百も承知だが、それでも今、その境地の一端を垣間見ることができたような、そんな不思議な心地を味わっているのは確かだ。
不意に、物音が集中に終止符を打った。その瞬間、夢から覚めたかのように自分の中へはっきりとした意識が戻ってくる。
「……水斗さん。大切な稽古の邪魔をしてしまい、大変申し訳ございません」
低い声で静かに告げ、床に額を擦り付けている男を視界に捉えると、「いや、そんな謝罪は不要だ。顔を上げてくれ」と声をかけ、足早に歩み寄った。
「どうぞ、お使いください」
彼は深く垂れていた頭を上げ、温めたタオルをこちらへ渡してくれる。
「悪いな」
それをありがたく頂戴し、迷わず顔へ当てた。心地のよい温かさと、新品のタオル特有の良い香りに、ほっこりと頬を包み込まれ心をほぐされながら「野鴨」とその男の名を呼ぶ。
「持ってきてくれたのか」
「はい。大変長らくお待たせ致しました」
彼──面打ち師の野鴨は、カバンからあるものを取り出した。
半紙に包まれた、人の顔よりひと回りほど小さいそれを手に取った時、心臓がひときわ大きく跳ねたのが分かった。逸る気持ちを抑えながら丁寧に半紙を剥がしていき、ついに中身と対面した瞬間、心が強く打ち震える。
「…………これだよ、これだ。やっぱりお前の打つ面じゃなきゃ駄目なんだよ」
かすれた声でやっと紡ぎ出したその言葉に、野鴨は深々とした礼で応えてくれる。
「水斗さんにお喜びいただくことが叶い、何よりです」
「……野鴨、いつも本当にありがとうな。今回も、期待を大きく上回る、最高の出来栄えだ。こいつと共に舞台に立てる俺は、真の幸せ者だと思う」
「いえ……自分なんかには、もったいないお言葉で……」
「これだけの面を打てる身で、そんな風に言うもんじゃねぇよ。俺は世辞なんか言わない。いつだって、本気で言ってる」
聞き慣れた優しい声が照れくさそうに恐縮するのを真っ向から諌めると、再び己の手元へと視線を落とした。両手で大事に抱えたそれ──今宵、討伐される土蜘蛛を表す【顰】からは、恐ろしいまでのエネルギーが感じられる。
自分が求めていたものは、これだ。間違いなく、この面は生きている。
「こいつは、お前の執念の結晶だ。相当難しかったろ。俺には分かるよ。無機質なはずの面に、これだけの生命力を込めるんだ。……野鴨、お前の面打ち師としての執念を、俺が必ず舞台の上で昇華させるから、しっかり見といてくれ」
決して見得を切ったわけではなく、紛れもない本心で、自然と言葉が溢れ出した。それを聞いた野鴨は、珍しく一瞬だけ目を大きく見開いた後、こちらへ向けてもう一度深く礼をする。
「……水斗さん。まだまだ一人前には程遠いこの身分で、あなたのような舞い手に出会えた俺は、この上ない果報者です」
噛み締めるように彼の口から告げられたその言葉を耳にした時、自分のこれまでの苦労が、幾分か報われたような気がした。
*
形は違えど、能楽の文化を後の世へ継承することを志す若者2人の間に流れていた柔和な沈黙が、突如として破られた。
「どうも、谷洲の坊ちゃん。やはりこの部屋においででしたか」
粘着質な声と共に現れた人物に生理的嫌悪感を禁じ得ず、水斗は微かに眉をひそめる。
「いつまで経っても顔を見せていただけないものですから、本当にこの会場へ到着しているのかと思いましてね。随分探しましたよ」
慇懃無礼な口調で、自分への挨拶がなかったことを責めるように言葉を続けるその男へ、水斗は意を決して口を開いた。
「……木陰さん。このような素晴らしいイベントにお招きいただいたにもかかわらず、ご挨拶が遅れ、誠に申し訳ない。つい、稽古に夢中になっていまして」
そう言って、顔を伏せている野鴨をさり気なく背に隠すように一歩前へ出た水斗へ、彼は「ええ、そうだと思っておりましたよ」と大振りなわざとらしい頷きをみせる。
「いや、失礼。今のは冗談ですよ。私は何も気にしていないのでご安心ください。……今宵の公演を成功させてくれるのであれば、全ては瑣末なことだ」
意図的なのか、木陰の言葉は仄暗く嫌味な響きを持ち、場の空気に一層の緊張をもたらした。
「野鴨くんも、来ているのなら主催者である私に一言挨拶があっても良さそうに思うが?」
標的が自身へと移ったことで、野鴨がひくりと小さく息を呑む。
「……いやまぁ、これも冗談だがね。きっと何か急ぎで坊ちゃんにお会いすべき御用があったのだろうとでも、推察しておくよ」
嫌に優しげな声と、ねっとりとした薄気味の悪い視線を浴びせられ、俯いたままの野鴨の喉仏が吐き気をこらえるようにこくりと上下した。
「……申し訳、ありませんでした。次回より、善処いたします」
硬い声で絞り出された彼の謝罪に、木陰は「いやはや、何だかこちらが虐めたような形になってしまったな」と表情を明るく一変させる。
「お2人にもこの会を楽しんでもらいたいのですよ、私はね。それでは、坊ちゃん。夜の公演、非常に楽しみにしております。野鴨くんの顰も、初お目見えだな」
先ほどとは打って変わり、あっさりとした声で告げて踵を返した男の背中から、彼らはサッと目を逸らした。
*
盛大な拍手の中、【土蜘蛛】は幕を閉じた。
この物語は、病に伏せる源頼光の前に突如、見知らぬ僧侶が現れる場面から始まる。その僧侶の正体こそが土蜘蛛の怪異だったのだと分かると、前半の厳かな雰囲気が一変。後半では、千筋の糸を吐いて抗う土蜘蛛と、それ討伐しようとする武者たちの攻防で舞台上が派手に様変わりする。
妖怪退治という分かりやすい世界観のおかげか、子どもや若者も終盤では食い入るように舞台を観ていた様子が見て取れた。普段、能の文化に親しみの薄い年齢層にもいくらか刺さるものがあったところを見るに、この公演は成功したと言ってよいだろう。
舞台上にはこの演目特有の、白い和紙で拵えられた蜘蛛の糸が散らされており、この光景を目にした観客の中には、終演後も物語の終盤で土蜘蛛が見せた最期の抵抗を思い起こす者がいたかもしれない。
現在の時刻は19時。約2時間に渡る能の上演を楽しんだ観客たちは各々の動きを見せ始める。すぐに会場を後にする者もいれば、この後に舞台上で展示会開催御礼の挨拶を行うことになっている木陰を待つため席についたままの者もいた。
15分が過ぎたが、舞台は未だ無人のまま。さすがに遅いのではないかと残った観客たちの間にざわめきが広がり始めた頃だった。
「お待ちの皆さま、大変申し訳ございません。急ではございますが、諸般の事情により木陰理事長によるご挨拶は中止となりました」
唐突にスタッフによる事務的なアナウンスが流れ、会場内にはガッカリとしたような空気が広がる。
「皆さまには会報等を通じて、改めて当機構より御礼のご挨拶を差し上げます。本日はご来場、誠にありがとうございました」
淡々としたアナウンスが止むと、観客たちは若干の不満げな表情を見せながら席を立ち始めた。
わざわざ理事長名で招待状を寄越しておきながら最後に顔を出さないとはいかがなものか。
諸般の事情などと理由を曖昧にされたことがどうにも引っ掛かる。
展示会やラストの【土蜘蛛】の公演が大変に素晴らしいものであっただけに、尻切れとんぼのような終わり方はなんとも味気ない、と落胆半ばに皆がぞろぞろと会場を後にしていく裏で、予想だにしない一大事が起きていた。
*
───【土蜘蛛】上演終了直後。
決して起きてはならない事件の発生に、舞台裏はただならぬ空気に包まれていた。
「は……?木陰さんが死んでる……?」
第一発見者となった木陰のマネージャーである
その後、上演中は観客として関係者用座席から舞台を楽しんでいた野鴨涼、山吹真太郎、そして竹御台芳郎が、控え室へ荷物を取りに戻ってきた折に木陰の死を知らされることとなった。
「そうですか、木陰さんが……」
数時間前に言葉を交わしたばかりだという竹御台は相当ショックだったのか、そう呟いたきり黙り込んでしまった。無論、衝撃を受けているのは彼だけではない。過去に親族や他人の通夜や葬儀に出席したことはあったとしても、数刻前まで元気だった人物の突然死の場面に立ち会う機会など、人生においてそう多くはないものだ。この場に集った者が皆、にわかには信じ難い報せに対してそれぞれの反応を見せた。
舞台を終えたばかりだった能楽師2人は、状況の落差に気持ちがついてゆかず、冷水を被ったかのように青ざめていた。無言で立ち尽くす渓馬の隣で、山吹は静かながらも、非現実的なこの事実に目を見開いて虚空を見つめている。片や、少し離れたところで佇む野鴨は、ただひたすら無表情を貫いていた。
「……木陰理事長の遺体は今、ご本人の控え室にあります」
重苦しい沈黙を、花房の声が破った。
「部屋には誰も出入りできぬよう鍵を掛けました。警察にも既に連絡済みです」
彼はそう言って自身を落ち着かせるように深呼吸をすると、意を決したように告げる。
「お招きした立場で大変申し訳ないが、警察が到着するまで、皆さんには私と共にこの部屋に残っていただきたいと思っています」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
「……それは、我々を疑っているということですか?」
最年長者である竹御台が重い口調でそう問えば、後に続いて「たしかに。さも俺たちの中の誰かが殺したとでも言いたげですね」と谷洲が鋭い視線を向ける。
「もちろん、私たち素人ではまだ詳しいことは何も分かりません。だからこそ、警察の方がお見えになるまで皆さんにお帰りいただくわけにはいかないのです」
毅然とした態度を崩さない花房に、それまで黙って聞いてきた渓馬が、些かこの場にはそぐわないようなのんびりとした声を放った。
「やけに断定的だなぁ、花房さん。口では何も分からないと言いながら、胸の内では木陰さんが誰かに殺されたという心当たりでもありそうに見える」
その指摘に一瞬だけ目を泳がせた彼だったが、すぐに「ええ、おっしゃる通りです」と答え、渓馬を真っ向から見据える。
「理事長はもちろん頑健な方だったわけではありませんが、直前のご様子も目にしていた私にとっては、ここまで何の前触れもなく亡くなるなど不自然ですから、故意的な犯行を疑わざるを得なかったのです」
「なるほど。だがそうすりゃ、木陰さんと直前まで会ってる上に、遺体の第一発見者でもあるあんたに真っ先に疑いの目が向くわけだが?」
渓馬の追撃にも、彼は「そうでしょうね。だから私も共にこの場に残ると申し上げました」と折れる素振りはない。
「……分かりましたよ。どの道、こうなってしまっては、こちらも勝手な動きはできませんからね。大人しく警察の到着を待つとしましょう」
やがて観念したようにそう言って引き下がった渓馬を最後に、花房にそれ以上物申す者はいなかった。
*
まもなくして、現場に警察が駆けつけた。
鑑識が現場保存を行い遺体を運び出した後、この場に残った6人は皆、1人ずつ事情聴取を受けることになった。
現場検証の結果、現時点では殺人の線は薄く、病死の可能性が濃厚ということだった。それゆえに、木陰の控え室に出入りが可能だったという理由で容疑をかけられた者の全員が帰宅を許された。
死因などは今後捜査をしていく中で判明していくもののようで、その時に必要であればまた捜査協力を依頼する、とそれぞれが事情聴取の最後に通達された。
*
数日後、警察から木陰の死因が判明したという報せが届いたと、花房より当時事情聴取を受けた全員へ報告がなされた。
死因は急性のアレルギー反応による心停止と断定されたという。元より愛煙家として有名だった木陰には慢性疾患があり、薬を日常的に服用していたという遺族からの証言により、抗原はその薬の可能性が高いと結論付けられたようだ。実際に、死亡推定時刻の直前にもその薬を服用していた形跡があった。
『理事長はいつも15時に服薬されるのですが、今日は本当にお忙しくされておりましたので薬を飲む時間が遅くなってしまったのだと思います。そのすぐ後にお煙草を吸われたのが良くなかったのかもしれない』
花房が事情聴取の最中に、木陰のこの日の服薬時間のズレについて供述したことも、その結論を下す一助になったという。それを示すものとして、彼が喫煙所へ赴いてからものの5分ほどで来た道をおぼつかない足取りで引き返している様子を、喫煙所と控え室のある棟を繋ぐ廊下部分に設置された監視カメラが捉えていた。
加えて、花房の『理事長は喫煙所へ向かわれた際には決まって考え事をなさる習慣があり、いつも20分はお戻りになりません』という証言から、席を立つ前に薬を服用した後、体調が急変し、すぐに控え室に戻ってきたが時すでに遅く、そのまま息を引き取ったとする見方が強まったのだという。もちろん、遺体の体内からその薬の成分は検出されているとのことだ。
死因を探る中で、木陰にはそば粉とアーモンドという2つの食物アレルギーがあったという情報が、家族およびマネージャーの花房より提供された。しかし周囲の状況から考えて、木陰がその2つを口にした可能性は限りなく低く、また彼は香りがすればすぐに気付くほどにこの2つのアレルゲンを徹底して遠ざけていたらしい。よって、誤摂取による事故死ではないかという議論が深まるには至らなかったという。
これにて、本件は事件性無しという結末で幕を閉じることとなり、ようやく皆がこれまでと変わらない日常へと戻っていった。
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